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切らずの市弥、走る、奔る 最終話


(終章)

「それで――」
 嘉田の尼君こと陽庚尼は家臣に訪ねた。
「市弥たちについて、その後、坂元家からは何も申してきませぬか?」
「それどころではありませぬようで」
 家臣は首をふった。
 秋姫の予言通り、市弥の出奔を境に坂元家は揺れはじめた。
 一旦は失脚した雅樂助がふたたび復帰し、幾田殿の専横を憎む他の御一門衆らと結束したのである。
「家中、麻の如く乱れているようで、何より――」
 当主の惟虎が幾田殿の傀儡になることを拒否し、悉く対立しているという。
「ほう」
「母御前のすすめる秋月の姫御との縁組にも、肯んじ申さず、いやはや、どうなることやら」
 二重三重構造となった家政に、宿老の修理亮や頼母は疲れ果て、隠居した。
「さてもさても」
 乱世は一寸先は闇ですね、と陽庚尼は首をすくめた。
「市弥と冬姫――りん殿は如何していますか?」
「仲睦まじゅう暮らしておりまする」
「それは結構」
 陽庚尼は目を細めた。
「りん殿は相変わらず南蛮寺に通うておられるのですか?」
「それはもうご熱心に」
 兵五郎は勢い込んでうなずいた。
「近頃はいよいよ御信心を深められ、切支丹の尼になりたいと申されているようです」
「切支丹の尼に? 市弥とは夫婦の縁を切るのですか?」
「いいえ」
と兵五郎は首をふった。
「なんでも本朝(日本)の切支丹では、まだ女人の出家は難しく・・・柘植殿にとっては幸いでしょうが」
 ならば形だけでも、とりんは懇請したらしい。
「形だけでものう」
「伴天連(ばてれん・神父のこと)さまもお許しになられた由にございます」
「市弥は洗礼を受けたのですか?」
「それが、覚悟が定まらぬ様子で、未だ受けており申さず」
「情けない殿御ですね」
さしずめ「受けずの市弥」といったところですね、と陽庚尼は笑った。


 ――なんと、なんと・・・まあ・・・。
 初めて足を踏み入れた南蛮寺で市弥は絶句していた。
 堂内を見下ろす神や天使、聖人のステンドグラス。
 磔刑のキリスト像。
 オルガンの音色。
 碧眼の異国人神父。
 西欧世界との邂逅に、ただただ圧倒されている。

 あの峠でりんは奇跡的にもちなおした。
「でうす様のご加護があったのでしょう」
とりんは微笑んでいた。
 嘉田領に入った。
 陽庚尼は二人を温かく迎え入れた。
 亡夫の横死の折も「生きて忠義を尽くすよう」と家臣に殉死を禁じた人物だけに、切らずの市弥にも寛容だった。冬姫こと、りんの身の上を聞いて、ますます二人を労わった。
 城下に屋敷を与え、市弥を召抱えた。
 市弥は名吏として、たちどころに頭角をあらわし、嘉田家になくてはならない人材となった。
 半年後、りんと祝言をあげた。
「夢のような」
 その初夜、しみじみと呟く亭主に、
「私もです」
 新妻は和した。
「しかし」
 市弥はりんの身体を抱きしめ、
「真実なのだなあ」
「真実に」

 りんはこの地で念願の洗礼を受けた。洗礼名は「じゅりあ」。

 りんが切支丹に帰依するのはいい。
 夫婦のままならば、と切支丹の出家の真似事も許した。
 だが、りんが異国の修道女のように断髪すると言い出したのには、
「莫迦な!」
市弥は驚愕し、激しく反発した。
「別に今のままで構わぬではないか」
「そうでしょうか?」
 りんの決心は変わらなかった。
「りんは姿形も涼やかになって、でうす様を信仰したく思います」
 出家を拒んだときのような頑固さで、自分の意思を押し通した。
「やれやれ」
 せっかく命懸けで守り抜いた黒髪なのに、と市弥はぼやいた。
「どうしてもお許しなくば」
 りんは情の強い顔で主どのに言い渡した。
「夫婦の縁を切らせていただきます」
「わかった、わかった! 好きにいたせ」
 市弥はあわててりんを宥めた。
 ――女は変わるのう。
 儚げな姫御前も気丈な女房殿に。
 ――まあ、よいわ。
 肩をすくめ、りんの儀式の行われる南蛮寺に足を運んだらば、「世界」と出遭った。
 ――俺は井の中の蛙であったわ。
 東国の片田舎で腹を切る切らぬだの、尼になるならぬだの大騒ぎしていたのが、遠く思われた。

 儀式は滞りなく、すすんでいく。
 濃紺の小袖姿のりんは床に跪き、祈りを捧げている。
 日本人の入満(いるまん・修道士)がりんの傍らにいる。見慣れない銀色の器具を手にしている。二枚の刃と二つの輪。
 ――あれが南蛮の鋏か。
 和鋏よりも機能的な西洋鋏に市弥は関心をもった。
 が、その鋏が妻の黒髪を、
 ジョキリ、ジョキリ、
と食みはじめたから、流石に心中、穏やかではない。
 りんは亭主殿が気を揉んでいるのも知らず、恍惚と鋏に髪を味あわせている。
 一房一房、長い髪が切り取られる。
 入満の他に、りんが「兄弟」と呼ぶ信徒たちが鋏を回し、代わる代わるりんの髪に鋏を入れていく。
 初めて覗いたりんのオトガイは美しかった。
 禿髪になっても、まだ鋏は深く根元へと入る。
 ジョキ、ジョキ、ジョキ、
 市弥は不安げに伴天連の河童のような頭を盗み見た。
 ――まさか、あのような形にされるのではあるまいな。
 市弥は気が気ではない。
 河童にはならなかった。
 が、りんの髪がすっかり摘まれ、無惨なことになっている。現在でいうところのベリーショートカットであるが、この時代、こんな髪型をしている者はいない。
 ――怠け者の無頼僧か、なり損ねの尼じゃ。
 大いに嘆いたが、こんな妻をもってしまったのも運命。ため息まじりに諦めた。
 切られた髪の毛は白い布に包まれている。

 恥ずかしいから頭を隠せ、と南蛮寺からの帰路、何度も言ったが、りんは
「この頭を風にあてていると、えもいわれぬ心地よさにございます」
と市女笠もかぶらず、足取りも軽く短髪を世間にさらしていた。
「奇妙な髪じゃ」
「さても傾(かぶ)かれた女性(にょしょう)よのう」
 道ゆく武士や商人に目を剥いて注視され、市弥は赤面した。
「りん」
「なんでしょう?」
「俺は恥ずかしい」
「いずれ慣れます」
と破顔する妻の涼しげな首元が眩しく、市弥、おぼえずドギマギして、
「恥ずかしいわ」
と照れ隠しにそっぽを向いた。
「かような女房をもっては、また嗤われるわい」
「夫は“切らず”なのに女房は切ってしまった、と?」
「ああ、そうだとも」
 市弥は大きく伸びをした。
「やはり、ここも退転しようかのう」
「あら」
 りんは泰然自若とした表情で、
「次はいずこへ参りましょう?」
「南蛮よ」
「まあ!」
 これには、りんも驚いた。
「南蛮でなくても良い」
と市弥は空の彼方を見た。
「船に乗って大海原に漕ぎ出せば、その頭が嗤われぬ国に行き着くであろうよ」
「嗤われても良いではありませぬか」
と、りんは言ったが、
「でも行ってみとうございます」
と目を輝かせた。
「連れていくぞ」
と市弥はりんの肩を抱いた。

 市弥とりんがその後、海を渡ったかは定かではない。

 彼らの知己となった南蛮寺の宣教師は本国に宛て、以下のような手紙を書き送っている。

『(前略)  ジュリアの夫は切支丹ではなかった。
 身長は他の日本人と比べると、やや小さかった。顔つきは他の日本人と比べると、我々に近かった。
 動きが機敏でよく働き、よく笑い、快活だった。
 切支丹ではなかったが、デウスの教えについては、一定の理解を示した。
 彼の尽力で我々の布教活動は以前よりもずっと、順調にすすんだ。
 (中略)
 彼は私がこれまで出会った日本人の中で最も聡明な人物の一人であった。
 デウスの教義だけでなく、天文、科学、技術、哲学と彼の関心は多岐に亘った。そしてそれらの一切を忽ち、理解して我々を驚かせた。
 とりわけ彼が熱心だったのは、異国の言語、風土、暮らし、の知識の習得だった。
 いずれは妻のジュリアと故国を離れ、異境の地で暮らしたい、と彼は言っていた。その為に海の外の事情を知ることに、並々ならぬ情熱を有していたのだ。
 私は彼の希望に沿おうと、自分の知っている限りの国々の話をして聞かせた。
 私の口から異国の話が出るとき、彼は子供のように目を輝かせた。何時間と聞いても彼は飽くことを知らなかった。話す私も彼の反応が嬉しくて飽かなかった。
 私をして彼の役に立ちたいと思わせる、まことに不思議な魅力の持ち主だった。
 彼の名はTuge itiyaといった。』

 この名もなき宣教師の書簡は四百年経った現在も、ローマの或る教会の地下で埃をかぶったまま眠っている。





(了)



    あとがき

ようやく終わった〜!!!!と!を四つくらいうちたくなる。
そんな2010年の年の瀬です(^^


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