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バチカブリ大異聞〜From LostWorld〜


   (1)近藤良典


 その日、僕は中学の野球部での練習があり、午後3時頃帰宅した。
 居間をのぞくと、テーブルの上にティーカップと空の皿がいくつか置きっぱなしになっていた。
 来客があったらしい。
 喉がかわいていた。
 台所に行き、麦茶を飲んだ。
 そこへ姉(高校生)が姿を見せた。
「おかえり」
「ただいま。親は?」
「文化会館」
 知り合いからチケットをもらったので、落語を聞きに行ったとのこと。後片付けくらいはして欲しいもんだ。
「誰か来てたの?」
「美郷さん」
「ああ」
 事情を察した。
「もう帰ったの?」
「今、お兄ちゃんと買い物に行ってる」
 兄は近日中に、現在彼が在籍している八頭大学(通称・バチカブリ大)主催の「研修」に参加する。
 仏教系の大学である八頭大は、学生が夏休みを利用して、お寺に籠もり、修行生活をして、僧籍を取得できる「研修」というシステムが存在する。
 「道を求めて!」という熱い(酔狂な?)参加者もいるらしいが、参加者のほとんどは寺の子弟で、親や周囲の圧力で渋々参加しているのが実情らしい。
 我が家の兄もご他聞にもれず、寺の跡取り息子として、不満タラタラで「研修」を受ける。
 それでこの日、頭を剃る予定だった。
 遠山美郷(とおやま・みさと)さんは兄貴のカノジョだ。同じ八頭大学の同じ宗教学部、同じ二年生、同じお寺の子で19歳。
 今日は兄貴に付き添って、これから始まる修行生活に必要なものを買い揃えに行ったらしい。
「兄貴、頭剃ったの?」
と姉に訊いたら、
「剃ったよ」
 姉はちょっと悪戯っぽい目をして、口元に笑みを浮かべ、答えた。
「兄貴もいよいよ坊さんになるのか」
「長男だからね」
と姉は肩をすくめ、
「まあ、ウチらも応援しないとね、ヤツが跡継ぎの座を放り出さないようにさ」
「そうだね」
と僕も同意して、
「で、美郷さん、兄貴が坊主頭になって、どんなリアクションしてた?」
「褒めてたよ。ま、あの人もそれどころじゃなくなっちゃったけどね」
 姉は思わせぶりにそう言うと、去っていった。
 この日の練習は軽めだったので、体力を持て余していた。
 少し素振りでもするか、とバットを持って、庭にまわった。
 庭は縁側と接している。コンクリート打ちっぱなしの犬走りがある。その犬走りの隅っこに、ある物体が放置されているのを発見した。
 人間の髪の毛だ。
 切ってから掃き集められたらしく、クッタリと丸まって、ひっそりと永遠の眠りについている。
 ――兄貴の髪か。
 姉の言った通り、確かに兄は頭を丸めたらしい。
 ――あれ?
 僕は名探偵のように、その物言わぬ残骸の異常に気づいた。
 兄の髪にしては量が多すぎる。
 ある直感があった。
 髪の毛に近寄った。
 埃にまみれた髪は兄の黒髪もあった。が、大部分はブラウンでゆるくウェーブがかかっている。
 ――この髪は!
 まぎれもない。美郷さんの髪だ!
 僕はあわてふためき、バットを放り出して、姉の部屋に直行した。
「姉ちゃん!」
「何?」
「み、み、美郷さんも頭を剃ったの?」
「剃ったよ」
 姉はこともなげに言った。何やら思い出したらしく、ククッと小さく笑った。
「なんで?!」
「“なんで”って『研修』があるからだよ。あれ、知らなかった?」
 美郷さんも「研修」を受けるらしい。
 てっきり「研修」を受けるのは兄だけで、美郷さんは普通に夏休みを過ごすとばかり思っていた。
 美郷さんはお寺の娘だが、弟がいる。お寺を継ぐのは弟さんだ。ゆえに彼女が「研修」を受ける――尼さんになる必要は全くない。
「なんかお兄ちゃんと色々話し合って決めたらしいよ」
「そうなの?!」
 狼狽する僕に、
「ふふふ」
 姉は意地悪く笑い、
「愛しの美郷さんが丸坊主になってショック?」
「そ、そ、そんなんじゃないよ!」
 とっさに否定したが、チクショウ、図星をつかれた。
 ――美郷さんが・・・坊主頭に・・・
 姉に指摘されたようにショックなはずなのに、何故か股間がうずいていた。

 美郷さんと出会ったのは、一年前だ。
 兄が付き合い始めた彼女を、すぐに家に連れて来たのだ。
 美郷さん、この日、家に来る前、チェーン店でカレーを食べたらしく、しゃべるとカレーの匂いがした。
 今でも美郷さんのことを考えると、カレーの匂いがセットで脳裏に甦る。
 ・・・と僕がこう語ってしまったために、貴方の頭の中にカレー臭い美郷さんが浮かんでしまったら、それはこちらの不手際である。語り出しを間違えてしまったかも知れない。貴方と美郷さんに謝ろう。ごめんなさい。
 美郷さんは色白で柔和な面差しで、笑うとエクボができて、とても可愛らしかった。
 女優みたい、というほどではなかったが、例えば声優だったら、「美人声優」と持ち上げられ、そこそこ男性ファンもつきそうなくらいのレベルではあった。
 ・・・となんだか褒めてるんだか、クサしてるんだかわからないが、彼女いない歴=年齢のゴリラみたいな兄貴には勿体ないルックスの持ち主だった。
 後で聞いたら、名門女子高の出身だという。
 道理で男のシュミが変わっていたわけだ。
 髪も黒髪のロングで、ノーメイク、服装も落ち着いた感じで、いかにもスレていない女の園の住人っぽかった。
 幼いときから、檀家さんの応対をしているだけあって、恋人の家族(僕も含め)にも如才なく接していた。おっとりとしたトコや天然ボケなトコもあり、それが彼女の如才なさを嫌味に感じさせない絶妙な調味料になっていた。
 機械音痴の僕にパソコンの使い方をレクチャーしてくれた。
「こういう使い方もできるんだよ〜」
と色々教えてくれた。
「こうすると――」
と僕の手をとってマウスを動かす。身体が密着してドキドキした。シャンプーのいい香りがした。さらにドキドキした。
 それから、しばらくして、美郷さんはふたたび我が家を訪れた。兄貴と某アーティストのライブに行く前に、ちょっと寄ったという。
 初めて会ったときとは、若干ルックスが変化していた。
 髪にパーマをかけ、服装もややギャルっぽくなっていた。
 いわゆるひとつの「オトナの階段」を登ったのか、軽佻浮薄なキャンパスの風に染まったのか、色々憶測して興奮した。
 その日、初めて美郷さんをオカズにして、オナッてしまった。
 以降、美郷さんのギャル化は進行した。
 髪を染めたり、メイクしたり、ピアスをあけたり、ミニスカはいたり、ブーツはいたり、そうやって徐々に「今時の女の子」になっていく美郷さんは、性欲をもてあましている中坊にとっては、格好のオナペットだった。
 兄貴には悪いと思ったが、「一盗二婢三妾」というやつで、その罪悪感が一層色情を煽った。
というわけで、美郷さんには本当にお世話になりました。
 美郷さん、何度か家で入浴した。
 風呂に入るとき、
 ――美郷さんが入ったお湯だ!
と思うと、やはりドキドキしたものだ。
 その美郷さんが髪を剃って、尼さんになるという。
 坊主頭になった美郷さんを見たいという好奇心と、見たくないという臆病心が、僕の中で鬩ぎ合っていた。前者には、いささか歪んだ性的な欲望が根本にあった。
 しかし坊主頭の美郷さんを前に、平静でいられるかどうか、怯みがあった。髪の毛のない美郷さんと対面するのが怖かった。何しろ僕にとって突発的な事態で、気持ちの整理がつかない。
 素振りをしてみても、落ち着かない。心は千千に乱れる。
 さしあたり気になるのは、
 髪!
 そう、犬走りの隅っこで、ひとまとめにされ、廃棄されるのを待っている、切り髪の束、束、束。
 周囲に人がいないので、歩み寄って、凝視する。
 あの美郷さんの頭上を飾り立てていた美しい髪、肩下で揺れていた豊かな髪、その髪が僕の足元で、とぐろを巻き、無惨に屍を晒している。
 どういう心理かは自分でもよくわからない。
 ただ、無性に、
 ――欲しい!
と思った。
 ソーッと、汚れていない部分を一房、引き抜き、懐に押し込んだ。そして、自室に戻る。
 部屋の鍵をかける。
 髪が懐中で、サワサワと汗ばんだ胸をくすぐる。
 そいつを引っ張り出す。何本かは胸にへばりついた。
 ――美郷さんの髪・・・。
 髪束をまず鼻に押しあてる。
 柑橘系のすごくいい匂いがした。
 初めてこの髪に出会ったとき、シャンプーとコンディショナーくらいしか知らなかった黒く、真っ直ぐで、長い処女髪だった。わずか一年の間にパーマ液、カラーリング剤が次々と染みこまされ、ヘアアイロン等があてられ、施術の結果、色も形状も変わった。そして、今日、持ち主の頭から剥ぎ取られ、先程までコンクリートの上で埃にまみれていた。その髪が今、僕の手のうちにある。
 ――美郷さぁ〜ん!
 美郷さんの髪を嗅いだり舐めたりしながら、手淫してしまった。最低と言わば言え。変態と謗らば謗れ。

 兄貴と美郷さんが戻ったのは、それから一時間後だった。
 最初、偶然玄関で出迎えたときは、
 ――誰?
と一瞬気づかなかった。
 美郷さんが頭を丸めたのは知ってるし、夕方には兄貴と二人、家に帰ってくるのもわかっていた。なのにそれでも、
 ――誰?
と見違えてしまった。
 それくらい美郷さんの変貌ぶりは驚くべきものがあった。
 一言で表すなら、
 さっぱり!
かな。
 髪も落とし、メイクも落とし、アクセサリーもはずし、いつも気のきいた格好をしていたのが、特売品とおぼしき薄いグレーの作務衣を着ていた。僕の目には、有髪の頃より、ひとまわり小さくなったように見えた。
 だから、どこかの小僧さんかと錯覚してしまった。さっぱりし過ぎだ。
 尼僧姿なった美郷さんは、
「オーッス!」
と玄関で固まっている僕の頭を、グシャと撫でてきた。やけにテンションがあがっていた。剃髪して開き直ったのと、近く突入する修行生活への不安の反動みたいなものがあったんだと思う。
 美郷さんはハイテンションのまま、
「どうよ、この頭?」
と光沢をおびた丸い薄緑色の頭を、僕の鼻先に突きつけてきた。微かにシェービングクリームの匂いがした。
「ツルッツルにしちまったぜい!」
「ああ、うん・・・」
 僕は戸惑いつつも、末っ子気質というやつで、
「触ってみ? 触ってみ?」
と美郷さんがさらに突き出す坊主頭を、遠慮なくタッチしまくってやった。
 剃ってから間もない頭は、ひんやりする。ヌメッとする。気持ちよくて、いつまでも触っていたかった。
「スゲェ〜、クリクリだぁ〜」
とハシャぐ僕と、
「でしょ、でしょ!」
と一緒になってますますハシャぐ美郷さん。
 ハシャぎながら、チ○コはギンギンだった。奇妙な、でも強烈なエロスを感じた。
 兄貴も、
「オレの頭も触るか」
と坊主頭を差し出したが、それは丁重にお断り申し上げた。
 やがて両親も帰宅し、皆で夕食になった。
 美郷さんはやっぱりテンション高めで、丸い頭を撫でながら、
「キモチイイ〜!」
とか、
「尼さんは坊主頭が一番!」
とか、
「超似合ってて、マジびっくり!」
とか、
「夏はやっぱ坊主っしょ!」
とか多弁になって、しきりに坊主頭を礼賛していた。
 突然、
「フュージョン!」
なんて叫んで、兄貴と互いの坊主頭をくっつけ合わせていた。
 兄貴以外の家族は軽くひいていた。
 皆の思いは手に取るように伝わってきた。
 ――美郷さんてこんな人だったっけ?
という当惑。家族の知る美郷さんは、姿形はギャルっぽいが、もう少しおしとやかだったはず。
 しかし、剃髪を済ませ、ちょっと気が昂ぶっているのだろう、と皆、そんな彼女を許容していた。
「ヨッちゃんも――」
と坊主頭を振りたてて、
「野球部なんだから、アタシみたいに坊主にすればいいのに」
 サッパリしていいよ〜、と何度も絡んできたりして、少々ウザかった。
「確かに男僧でも尼僧でも、剃髪した方が覚悟が決まっていいのかもな」
と坊主歴四半世紀の父が坊主礼賛に便乗してみせると、
「ですよね〜!」
と美郷さん、身を乗り出さんばかりで、
「最近、うちの教区で篤信家の女性が二人、得度を受けたが――」
 有髪のまま、尼僧になった、と父が話すと、
「それはダメですよ〜」
と、また坊主頭を振りたてて、
「尼さんになるのなら、アタシみたく潔くバリカンでバサッと丸めないと」
 ――美郷さん、頭剃るのにバリカン使ったんだ!
 ムラッとした。
 美郷さんとバリカンという組み合わせに、性的興奮をおぼえた。
 バリカンという文明の利器は確かに便利だが、便利すぎて風情がない。兄貴と二人、その文明の利器で流れ作業のように、手間隙を省かれ、田舎の洟垂れ小僧の如く頭を剃りあげられる美郷さんの様子や心理を想像して萌えた。
 自分は坊主経験はないが、床屋で後ろを刈り上げてもらうとき、バリカンを使用される。ブイ〜ンと冷たい感触がうなじを通過する。その感触を美郷さんは今日、頭全体に味わったわけだ。
 下半身はヤバイことになっている。
 夜も更けて、美郷さんは帰った。兄貴が車で下宿先のアパートまで送っていった。明日には実家に一旦帰省し、「研修」の準備をするという。
 美郷さんを見送ると、僕はいそいそと自室に戻った。
 引き出しをあけ、昼間失敬した髪束を取り出し、夜中まで愛でた。
 それが良いことなのか、悪いことなのかは未だによくわからない。
 美郷さんの髪は今でも僕の机の引き出しの奥にある。


   (2)近藤知典


 遠山美郷と出会ったのは、桜咲く八頭大学のキャンパスだった。
 オレの在籍する宗教学部は、ある種、僧侶の育成機関としての側面もあり、自然、男女の比率は圧倒的に男子学生の方が多い。
 宗教学部においては、女子学生は希少価値があり、他学部の学生にしてみれば、え?! こんな女も?!というレベルの女子学生まで男子学生にチヤホヤされ、逆ハーレムを形成していたりする。
 そんな中で、遠山美郷は一頭地を抜いていた。
 とにかく可愛い。
 ゆえに同学部の男子学生から盛んにアプローチされていた。
 しかし、女子高出の美郷は身持ちが堅く、接近してくる男どもを、失礼にあたらない程度にかわし続けていた。
 オレにとっては高嶺の花、付き合うなんて夢のまた夢。
 ・・・と諦めていた彼女と交際をスタートする幸運を得ようとは、まったく人生わからない。
 きっかけは深夜に放映されている松野ススムという無名の芸人がやっている15分のバラエティ番組だった。ちなみに松野は、現在売れっ子のお笑い芸人・山澤と昔、コンビを組んでたという。
 マイナーな番組だったが、オレは結構好きだった。
 そうしたら、遠山美郷もその番組のファンだという。
 そこから彼女と急速に仲良くなった。
 オレにとっても美郷にとっても互いに、最初の恋人だった。
 正直、オレはモテない。
 顔も外見もいかついし、ベシャりもヘタクソ、性格も内向的だ。
 でも美郷に言わせれば、いかつい見た目は「男らしい」で、口下手は「高倉健のように朴訥」なのであり、内向的な性格は「思慮深い」とのこと。オレにとってダメダメなファクターが、美郷のフィルターを通せば、全てプラスに転じてしまう。
 こんなに誰かに愛されたのは初めてだったし、こんなに誰かのことを愛おしいと思ったのも初めてだった。
 お互い、夢中になって童貞と処女を捨て合ってから一週間後には、オレは彼女をオレの家族に紹介していた。
「お兄ちゃん、早すぎだよ」
と高校生の妹は憫笑していた。何年か付き合って頃合を見計らってから、家族に引き合わせるのが普通でしょ、と余計なお節介を口にしていた。
 が、オレは、美郷と結婚する!生涯で女は美郷ただ一人!と決めていたし、美郷も同じ気持ちだった。だから美郷を家に連れて行ったのだ。
 幸い、両親は美郷を気に入ってくれた。中学生の弟も美郷に好意を持ったらしい。
 以後、美郷はちょくちょく我が家を訪ねることになる。
 付き合いはじめて一年、美郷はどんどん綺麗になっていった。髪や服装も変化していった。オレを喜ばせるためでもあったし、本人も垢抜けていく自分に喜びを感じていたのだろう。

 二年生に進級する頃、「研修」の話が浮上した。
 オレは嫌で嫌で仕方なかった。
 せっかくの十代最後の夏休みを坊主頭で修行生活なんて御免だった。
 しかし、父は、
「後になってバタバタするより、今のうちに済ませておいた方がいい」
と言う。確かにそうかも知れない。
 けれどオレには美郷がいる。
 夏休みの間、美郷と離れ離れになるのは辛い。
 不安もある。
 万が一、オレが俗世間を留守にしている間に、美郷に誘惑の魔の手が伸び、間違いが起こったらと考えると、気が気ではない。実際、「研修」がきっかけで破局するカップルも結構いるらしい。
 美郷のことは信じている。
 信じてはいるが、人生一寸先はわからない。
 夏が近づきつつあった、ある日、オレは美郷を駅前のカフェに呼び出した。
 彼女に「研修」を受けることを告げた。
 そして、
「正直言うと、お前とひと夏、会えなくなるのは苦しい。不安だ」
と胸中わだかまっていた気持ちを率直に伝えた。
「アタシもトモノリに会えなくなるのは淋しいよ」
と美郷は言い、
「それに――」
と続けた。
「怖いよ」
「怖い?」
「『研修』が終わって帰って来たときには、トモノリが今のトモノリじゃなくなっているかも知れないでしょ?」
 「研修」をクリアーしてオレが成長したら、自分がその成長についていけなくて、置き去りにされてしまうのではないか。美郷には美郷の不安があるらしい。
 事実、“「研修」破局”には逆パターンもある。
「研修」を受けている坊さんの卵と尼さんの卵が意気投合して、そのままくっついてしまい、俗世の恋人がオミットされてしまうケースもあるのだ。なにせ、同じ釜の飯を食い、極限状態をくぐり抜けてきた者同士だから、その結びつき具合は、俗世でのうのうと享楽にふけっているカップルの比ではない。
「オレが『研修』先で浮気するっていうのかよ。心外だな」
「トモノリだってアタシのこと、信用してないじゃない!」
 つい口論になってしまった。付き合ってから、初めて美郷とケンカした。
 ――元はと言えば、オレが悪かったなあ。
と反省しながら、でも謝ることもできず帰宅したら、美郷からメールが届いた。
 決めた!
というタイトル。
 何を決めたんだ?とおそるおそる開いてみる。

『あたしも研修受けるよ』

 オレは驚愕した。
 まさかの展開に、周到狼狽。
 とにかく美郷に電話した。
 美郷は案外あっけらかんとして、
「まあ、元々親に勧められてたしね」
 跡継ぎは弟だが、今後何があるかわからないし、せっかくの「研修」システムなのだから、受けるだけ受けておけ、と父母にすすめられているらしい。
「親は安心するし、これでお互い、浮気の心配はなくなって一石二鳥でしょ」
「しかしなあ・・・」
「あ、一石三鳥か」
「えっ?」
「将来、トモノリと結婚したら、奥さんが尼さんの資格を持っていた方が、何かとサポートできるでしょ」
「美郷・・・・・・」
 結局、美郷は「研修」を受けることになった。
 恋人が坊主頭の尼さんになるのは、当然、少なからぬ不満と抵抗があった。
 しかし、反面、恋人とお揃いの坊主頭、お揃いの僧衣で、同じスケジュールをこなし、同じ経文を誦して、同じ菜食を食べ、共にシゴかれ、共にシバかれ、共にどつかれ、一緒に極限状態を経験する、それはそれで甘美だなとも思う。
 美郷の尼僧姿を想像して、妙に興奮したりもする。

 そんなこんなで、「研修」が近づいてくる。
 オレも覚悟を決め、頭を丸める。
 剃髪するにあたって、美郷に立ち合ってもらった。
・・・というか、美郷が、
「トモノリが坊主になるトコ見た〜い」
と言い出したのだ。好奇心と「恋人の転機を見届けたい」という厳粛な義務感がないまぜになってのことだった。
 場所はオレの家の縁側。
 弟は部活で不在。
 父と妹、そして、美郷に見守られながら、オレは母のバリカンで髪を落とした。シックもあてられた。
 そうやって、できあがったツルピカの坊主頭を、
「カワイイ〜」
と美郷はなでまわした。
「トモノリ、坊主の方がイケてるよ〜」
と笑っていたが、母の、
「ついでだから、美郷ちゃんの頭も剃ってあげるよ」
という言葉に、
「え?」
と表情を凍りつかせた。
「い、いえ、アタシはいいですよォ〜」
 あわてて手と首を振る美郷だが、母はしつこい。
「いいじゃない。女の子も坊主にしなきゃいけないんでしょう?」
「そうなんですけど、心の準備ができてないんで・・・」
「こういうのはウジウジ迷ってないで、勢いでやっちゃった方がいいのよ」
「そうそう」
と妹も母に同意する。
「せっかくだから、恋人同士、ここで一緒に坊主になっちゃいなよ」
と言われると、美郷の抵抗も弱まった。
 オレはと言えば、美郷がオレの剃髪に立ち合いたいと思ったように、オレも美郷の剃髪をこの目で見届けたかった。それに、妹の言うように、どうせ頭を丸めるなら、一緒に丸めた方が、互いの絆が深まるように思えた。同じ日、同じ場所、同じ刈り手、同じバリカンで、同じ坊主頭になって、共に新しい門出を迎えたい。
 だから、
 トモノリ〜! 何とかしてよォ〜
と哀願するような眼差しを向けてくる美郷に、曖昧な微笑で応じるだけだった。
 とうとう母と妹の女二人に説得され、美郷は顔をひきつらせながら、縁側に腰をおろした。
 母はさっきまでオレの身体を包んでいたヘアーキャッチケープを、美郷にかぶせた。
 美郷はまだ納得がいかない様子で、首を傾け、
「ん〜」
と名残惜しげにブラウンのウェーブヘアーを指でなでていた。
「じゃあ、やるね」
と母はどこかで「嫁いびり」を楽しんでいるようなところがある。嬉々として大きなハサミを持つと、いきなり、ザクリ、と左サイドの髪に深々と入れた。
「ひっ」
と美郷は反射的にちょっとのけぞった。
 ジョキジョキ
と左の髪が切り取られる。思わず息をのむ。
 ジョキジョキ
と分厚い二枚の刃が美郷がこの一年せっせと磨きあげた髪を挟み、押し切っていく。
 美郷の頭から切り離された髪が、
 ドバアア〜
とケープ越し、肩を滑り、ケープの折り返し部分に溜まっていく。
 外側の髪が切られ、内側の髪も切られ、美郷の左耳が現れた。美郷が手持ち無沙汰なとき、クルクル指で弄んでいた髪、その髪がバサリバサリと落ちる。
 右の髪も切り落とされる。短く短く切られる。
 美郷は渋面。幼い頃から髪を長く伸ばしていたそうなので、ここまでハサミの侵犯を許したことはないだろう。
 いつも髪で隠れていた両耳やオトガイが露出する。右首に小豆大のホクロがあって、これも今までは髪で隠れて気にならなかったが、髪がなくなると、かなり目立った。
 後ろの髪も短く切られた。ザクザク、ザクザク、と母は勢いよくハサミを動かしていく。
 ヘアーキャッチ部分はものすごい量の髪を受け止め、ユラユラ不安定に揺れている。
 すっかり短髪にされ、
「美郷さん、男前だよ〜」
と妹にはひやかされ、美郷は内心はさておき、持ち前の如才のなさで、
「そう?」
と恥ずかしそうに笑っていた。
 しかし、笑ってもいられない状況がすぐに惹起する。
 即ち、バリカンの登場である。
 オレがガキの頃からあったいささか古いバリカン。さっきまでオレの頭にあてられていたバリカン。
 オレの頭皮の脂が染みこんだ刃が、小刻みに振動し、モーター音が鈍く唸りはじめる。ブイイイイィィン
 美郷は恐怖と不安で顔を強張らせている。子犬のような丸くクリクリした目をしきりにしばたたかせている。
 「研修」参加が決まった直後には、
「頭、バッサリ丸めちゃうからね〜」
と強がっていたが、実際にバリカンが目の前に出現すると、動揺を隠せないでいる。
 膝の上においている手が、いつの間にか、ギュッと固く握り締められていた。まるで、今にも決意を翻してしまいそうな自分を、懸命に押さえつけているかのように。
 母は手櫛で美郷の前髪をかきわけると、覗いた額の生え際に躊躇なくバリカンをあてた。そのまま、一気にツムジまで一直線にバリカンを押し進めた。ジジジジジ〜!
「!!」
 美郷は小さな目を見開いたまま、微動だにできずにいる。
 バサバサと髪が落下する。
 美郷はあわてて目を閉じた。小さく歯を食いしばっていた。
 後には3mmの長さの髪の小道ができる。
 母はその小道を広げにかかる。
 小道の隣の草地にバリカンの刃を差し入れた。ジジジジジジー!!
 髪が薙ぎ払われる。3mmの道は10センチほどの幅になった。
 美郷の頭はどんどん丸められていく。
 まず前頭部の髪がなくなる。額から頭頂部にかけて、すっぽり刈り、今度は逆向き――頭頂部から額へ、チョイチョイと少し刈る。
 バリカンは額から順繰りに進み、側頭部に移動する。コメカミから後ろへ、耳上から後ろへ、髪を引き剥がす。たった一刈りで驚くほどの量の髪が、バサバサバサッと収穫される。
 美郷は苦悶の表情を浮かべている。
 流石にこのあたりになると、オレも含めギャラリーも神妙な顔つきになる。軽口を叩いていた妹の顔からも、笑みが消える。
 前頭部と側頭部の髪が消滅するまでに、わずか3分程度。バリカンの威力は凄まじすぎる。
 最後に後頭部の髪にバリカンがあてられた。
 襟足から頭の頂へとバリカンは走る。後ろ髪は剥かれに剥かれる。
 ここにきて、美郷もようやく腹が据わったのか、
「やっぱり坊主だよねえ
「坊主で夏を乗り切るとするかな
「坊主サイコ〜」
などと若干変なテンションになっていた。
 かくして丸刈り完成。
 チョボチョボと刈り残しはあるが、母は構わず、熱いお湯に浸したタオルを美郷の頭に巻いた。
 ある程度蒸してから、シェービングクリームを満遍なく塗りたくり、シックの三枚刃を丸刈り頭に滑らせた。
 結構、手間隙がかかるので、時間節約のため、僕や妹も手に手にシックを持ち、三人がかりで剃った。
 この三位一体攻撃には、美郷も驚いたらしく、
「うお〜」
と丸刈り頭をすくめていた。
 ジ〜、ジ〜、ジ〜
 頭から黒い部分が徐々になくなっていく。
 シックをひくたび、シックの刃と頭皮が摩擦する感触が、心地良かった。
 剃り残しのないよう、丁寧にシックを動かした。
 3mmの毛とシェービングクリームがグチャグチャに混ざって、シックに付着する。それを水を張ったプラスティックの盥で流し落とす。剃髪がすすむにつれ、水が濁っていった。
 ゾリゾリと毛とクリームが除去され、薄緑色の頭皮が浮き出てくる。テカテカとぬめりを帯びた光沢がなんともエロティックだった。
 美郷の頭が剃りあがった。
 母はケープを外すと、バサッバサッと、ケープに溜まっていた髪をコンクリートの犬走りに振り落とした。
 美郷は、
 あ!
という顔をした。乙女の命を無造作に捨てられて、傷ついた顔だった。美郷の髪はオレの髪と一緒くたにされ、犬走りの隅に掃き集められた。
 全てが終わった。
 ・・・というわけではない。
 坊主頭とギャル風ファッションでは、まるでウドンにミートソースをぶっかけたようで、ミスマッチすぎる。
 そこで妹が以前、父からもらって一度も袖を通したことがない作務衣を提供してくれた。
「では、着替えて参ります」
と美郷は神妙な面持ちで、奥に引っ込んだ。奥で鏡を見たらしく、
「え〜!! こんなになっちゃったのォ?!」
と驚き嘆く声が聞こえてきた。
 間もなく現われた美郷に、今度はオレが驚いた。
「随分サッパリしたなあ!」
 服を着替えただけでなく、メイクを落とし、アクセサリーも外して、すっかり尼さん風になっていた。後で聞いたら、服もアクセサリーも、そのまま妹にあげてしまったらしい。
 さらに「剃髪作務衣でブーツでは変だ」という指摘があり、母から草履を借りていた。
 その草履を履いて、庭で阿呆みたく立ち尽くしているオレの許に、
「やっちゃったよォ〜」
と笑いながら、やってきた美郷だが、
 ビチャッ!
と丸い頭に何かが落ちた。
「あっ!」
 空から降ってきたのは、鳥の糞だった。
「ウッソでしょォ〜!」
 剃りたての頭にいきなり鳥の糞を落とされ、美郷は目を剥いて、狼狽している。
「アリエネ〜!」
と妹は爆笑していた。
 母は、
「美郷ちゃん、これ使いなさいな」
と笑いをこらえつつ、美郷にティッシュを渡していた。
「ああ! もォ〜!」
 美郷はプリプリしながら、もらったティッシュで坊主頭にのった鳥の糞を拭く。
「まあ、修行前にウン(運)がついたと思えば、縁起がいいんじゃないか」
と父は親父ギャグで美郷をなだめていた。
 ティッシュで拭いただけでは、おさまらないようで、庭の水道場でバシャバシャ頭を洗っていた。
「冷たいっ」
と悲鳴をあげて、でも坊主頭をキュッキュッとタオルで拭く頃には機嫌も直って、
「坊主ってラクチ〜ン」
と破顔していた。

 それから、二人で「研修」の修行生活で必要なもの――傷薬や防虫グッズ、湿布など――を買出しに行った。
 美郷は剃髪を済ませ、気が大きくなっていたのだろう、周囲の視線も構わず、
「♪ツ〜ルツ〜ル、ツルツルゥ〜」
と頭をなでまわしながら、変な歌を作詞作曲していた。
 家に帰ったら帰ったで弟に、剃った頭触らせたりしてるし、夕食の席でも、
「キモチイイ〜!
「尼さんは坊主頭が一番!
「超似合ってて、マジびっくり!
「夏はやっぱ坊主っしょ!」
とやたら饒舌になって、家族を困惑させていた。
「フュージョン!」
では付き合ってあげた。買い物中に考え出したギャグとも愛情表現ともつかぬ合体ポーズだ。
 家族はますます困惑していた。
 後で未来の小姑候補(高校生)が、
「頭剃る前は、あんなに顔ひきつらせていたクセにさ」
と美郷のことをクサしているのを耳にした。お前も服やアクセサリーもらったクセに陰口ですか?
 弟は弟で何やら挙動不審になってたし、コイツらには早めに家を出て自立してもらいたいものだ。

 夜も更け、美郷を車で下宿先のアパートまで送っていった。
「お茶飲んでく?」
と美郷は気を使ってくれたが、時間が時間だけに遠慮した。そして、
「『研修』頑張ろうな」
とキスして別れた。
 だが、去っていく美郷の後姿、剃髪頭に作務衣の清げで、それでいて艶かしい。尼僧の色香を感じる。
「美郷!」
 気づいたら呼び止めていた。
「やっぱり、お茶、頂くゼ」
 無論、お茶など出ようが出まいが関係ない。


(3)アルツ・イワネド


「アルツ」
とレオの声に、ボクはハッと我に返った。
「心配ない、レオ、大丈夫だよ」
「そうか」
 レオは碧眼を細め、うなずいた。
「腐った空気を吸いすぎて、脳をやられたかと思った」
「確かにひどい空気だね」
「今のうちにカプセルを飲んでおけ」
「ああ、そうする」
 しかし、そのときのボクは空気対策より、目の前に広がる300年前の遺跡にこみあげる興奮を押さえかねていた。
「これがニッポンだね」
「そうさ」
 300年前に滅んだ謎多き文明国。
 今回、研究者の卵として探検隊に加えてもらい、さらにその先遣隊として、ベテランのレオとこの謎の島に足を踏み入れた。
 ニッポンの話は子供の頃、祖母からよく聞いたものだ。
 フルーツから生まれた勇者の話、ミスをしたら自分で自分のお腹を切り裂く掟の話、土地を法外な値段で売ったり買ったりしていた奇妙な全盛期の話・・・。幼かったボクは夢中になって、祖母の話を聞いたものだ。
 その幻の秘境にボクは今立っている。
 かつては街だった場所も、現在は樹海に覆われ尽くしている。
「ここら辺はまだまだ安全な方だ」
とレオは言う。奥地に行けば、毒虫や獣(モンスター)、それに瘴気でとてもではないが、生還は不可能とのことだった。
「行こう」
とレオが先に立って歩き出す。万が一のため、本隊との連絡は密に取る。
 樹海に侵食されたゴーストタウンを歩く。
 初めて見るニッポンの街だ。何もかもが珍しく、ボクは警戒しながらも、幼い頃想像していたニッポンと実際の遺跡を、頭の中で答え合わせしていた。
 二時間も経つ頃には、かつて郊外であったであろう場所に辿り着いた。
 その中の廃墟にボクは目をとめた。
「レオ、あの建物はなんだろう?」
「あれか」
 レオはボクの指差す遺跡を見て、
「あれはテラだ」
と教えてくれた。
「テラ?」
「宗教施設さ」
 建物は朽ち果て、もはや原型をとどめてはいない。それでも周囲の他の建物に比べれば、どういうわけか樹海による侵食もまだマシだった。
「入ってみよう」
 レオはずんずんとテラの中に入っていく。ボクもあわてて後に続いた。
 ブッダの像を見た。祭具も見た。儀式に使われたフロアーも見た。
「ホンドウっていうんだゼ」
 レオは流石に良く識っている。
 「ホンドウ」を抜けて、別棟の廃墟に移動する。
 はびこる樹海に押し潰されそうになりながら、テーブルや椅子が散見される。
「どうやら、ここが居住空間だったらしい」
「誰が住んでいたの?」
「僧や僧の妻、家族のさ」
「僧の妻? 僧の家族?」
 ボクは目を瞠った。
「ブッダの教えを信奉する僧は生涯独身を貫くはずじゃないか?」
「ニッポンは違ったのさ。僧も結婚して家庭を持つ。そして、僧の子が僧になる」
「ブッダもニルヴァーナで魂消ているだろうね」
 とは言え、新たなニッポンの知識を得た。
「アルツ、見てみろよ」
 レオが指差す先には、石がいっぱいある敷地。
「あれが、たぶん墓場だ」
「ああ、そう」
と気のない返事を返す。陰気な墓地より、まだ居住空間を眺めていたい。300年前の人たちの哀歓を想像しながら。
 ふと脇に目をやったら、デスクとおぼしき物体があった。
「レオ、これは?」
「ステンレスという物質でできているんだ。だから、朽ちずに残っているんだな」
「ステンレスならボクだって識ってるよ」
 ボクはデスクの引き出しに手をかけてみた。
 引き出しは案外容易にあいた。
 ニッポン語で書かれたボロボロの文書やら、CD、ニッポンのコインなどがあった。ニッポン好きなボクには宝の山だ。
 さらに引き出しを調べてみたら、奇妙なモノが出てきた。
 髪。
 ブラウンでウェーブのかかった長さ半フィートほどの髪の束だった。髪は何百年もの歳月を超えて、なおも生けるが如く、艶々と陽を受けてきらめいている。
 間違いない。人間の髪だ。
「レオ」
 ボクはレオを呼んだ。
「どうした、アルツ?」
「人間の髪だよ」
「ああ、しかもこれは女の髪だな」
「誰の髪だろう?」
 レオはボクの言葉に噴き出した。
「いくら俺でもそれは識らない」
 おそらくは出家者の髪だろう、とレオは笑いながら言った。
「この髪の持ち主はきっと美しい女性(ヒト)だったに違いない」
 掌の上の髪の柔らかさに目を細め、ボクは持てる限りの想像力を総動員して、その持ち主の容姿をイメージしてみた。不思議なことに従妹のアーシャに似ていた。
 アーシャに似た美しい女性(ヒト)は、終末の世界に佇んでいる。一糸まとわぬ姿で。海がある。海には水に呑み込まれたタワーの先端が突き出している。美しい女性はその上に立っている。空と水と彼女だけが在る世界。
 風が吹く。美しい女性のブラウンのウェーブがかった髪を舞い上げる。
 美しい髪をなびかせながら、彼女は歌う。小さな、でも凛とした声で。
 彼女の歌は終わりを迎えた世界へのレクイエムのように、空と水との間に、一瞬だけ境界線を刻み、しかし、すぐに風の中に溶けていく。
「君は詩人だ」
 レオはまた笑った。しかし、すぐに笑いを引っ込め、
「あるいは、コイツは素晴らしい発見かも知れん。持ち帰って調査すれば――」
 300年前のニッポンの女性が再生できる、と真剣な面持ちで言った。確かに現在の技術なら髪の毛一本で当人と同じクローン人間が作ることができる。
 が、
「それは勘弁して欲しい」
 ボクは首を振った。
「この髪の持ち主は、もうボクの心の中の住人になっちゃったんだよ。クローンなんて無粋な技術で、ボクのロマンを台無しにしないでくれ」
「それは研究者の言う台詞じゃないな」
とレオは目を剥いて、肩をそびやかしてみせたが、結局はボクの「詩人趣味」に付き合ってくれた。
「アルツ、日が暮れる前に――」
 戻るぞ、というレオの指示に従い、テラを後にする。
 髪を胸に押し当て、
 ――ニッポンの美しい人・・・。
 ボクは幻に呼びかける。
 ――絶対にボクの故郷に連れて帰るよ。
 掌の中の髪が、ほんのり温かくなったような気がした。




(了)



    あとがき

 何か今まで書いてきたものの、焼き直しみたいな感があります。SFを書くことはほとんどないので、最終章はちょっと手こずりました。「未来編いるか?」と訊かれれば、答えにつまりますが・・・。
 未来編はいいから、兄弟のそれぞれの話を突き詰めていくべきだったかも。断髪部分とか。でも気に入っています(^^
 「焼き直し」と言いましたが、それはそれでいいのかなあ、と思います。自分の引き出しには限界があるし、「普通のギャルが尼さんに」「憧れの年上の女性の断髪にドキドキ」「バリカンでの不本意なバッサリ」というモチーフとか匂いフェチ的な部分とか、今後ともこだわっていきたいです。
 最後までお読み下さり、ありがとうございました♪♪




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