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ライオンちゃん


 少女は父の呼ぶ声で庭に出た。
 すでに支度は整えられていた。
 狭い庭の芝生の上には丸椅子が置かれ、新しいバリカンは調節され、少女を待ち構えている。
 父はバリカンに50mlのプラスティックの容器に入ったバリカン油をたっぷりと注していた。
 ――これから坊主になるんだ。
 そう思うと身体中に戦慄が走る。
「ここに座れ」
と父は言った。右手には裁ちバサミが握られている。
 覚悟は決めていた。決めていたけれど、思春期にさしかかった女の子が髪に未練はないと言えば嘘になる。
 確かに他の同い年の娘と比べると、髪のケアはぞんざいだったかも知れない。
 肩までの髪は癖毛気味で、くるりくるりと外側にはねている。
「ライオンのタテガミのようだ」
と言う者もいた。
「ライオンちゃん」
とニックネームで呼ばれたりもした。
 小さい頃からお転婆だった少女は、そのタテガミをなびかせて、男の子たちと一緒に野山を駆け回り、日が暮れるまで遊んだものだ。
 少女の髪は南国の太陽の強い日差しに照りつけられ、赤茶けて、ますますライオンのタテガミのようになっていた。

 父はまず少女の首に黄色いタオルを巻いた。
 それから、身体に白の散髪用ケープをガサガサとかぶせた。
 一旦はケープの内側に巻き込まれた髪を、武骨な父の指が払い出す。
 もはや、待ったなしの状態。
「本当にいいんだな」
と父は念を押した。
「・・・・・・」
 少女は黙ってうなずいた。
 ここしばらくの間ずっと繰り返してきた問答。それも、これが最後になる。

 先月、中学校に入学した少女は、迷わず野球部の門を叩いた。
 小さい頃からの遊び仲間だった男の子たちがこぞって野球部に入部したからだ。
 少女自身、小学生の頃、男の子たちとよく野球に興じていた。野球は好きだ。昔の仲間と野球を続けたい。
 だから野球部に入ろうとした。
 野球部の顧問は赤沢といった。
 イカツイ容貌と厳しい指導から、「赤鬼」と陰で呼ばれていた。
「俺は男だろうと女だろうと区別はせん。だから女でも入部を認める」
と赤鬼は入部を希望する少女に言った。
 赤鬼の意外な対応に、少女は天にも昇る気持ちだった。
 しかし、次に赤鬼の口から出た言葉は、彼女を一気にドン底へと引きずり落とした。
「ただし、頭は丸刈りにしろ」
「え?」
 我が耳を疑う少女に、
「うちの野球部は五厘の丸刈りがきまりだ」
「女子も・・・ですか?」
 怯えながら少女は訊いた。
「男だろうと女だろうと区別はせん、と言ったろうが」
「・・・・・・」
「それが嫌なら入部は認めん。他の部をあたれ」
 取り付く島もなかった。
 あるいは、赤鬼は無茶な要求を突き付けて、少女に入部を諦めさせようと仕向けたのやも知れぬ。

 少女は何日も悩んだ。
 手入れを怠りがちとはいえ、髪は大切な乙女の象徴だ。おいそれと切るわけにはいかない。
 しかし、野球はやりたい。小さい頃から一緒だった仲間たちと白球を追いかけたい。
 仮に、「野球部入部を断念したら」と想像してみる。ひどくつまらない学校生活、ひどく空虚な青春になるだろう。
 ならば、野球部に入るまで。
 散々悩んだ末、少女は決心した。
 当然、両親は反対した。
 女の子に坊主頭を強制しようとする赤鬼に、直談判に及ぼうとさえした。
 少女はいきり立つ両親を制止した。
 これから入部するにあたって、顧問との軋轢は避けたかった。
 それに男子部員は丸刈りなのに、自分だけ特別扱いされても、肩身が狭い思いをすることになるだろう。
 ――ご所望通り、丸坊主になってやろうじゃない!
 お転婆娘の反骨心がムクムクと湧きあがる。
 両親と何度も話し合い、ようやく説き伏せた。

「ライオンちゃん、坊主になるのォ〜?!」
 事情を知った友人たちは目を剥いて、のけぞり、驚いた。
「うん」
「それでいいの? ライオンちゃん、嫌じゃないの?」
「そりゃ嫌だよォ〜」
と少女は名残惜しげに髪に手をあて、
「でも、部のきまりだから仕方ないよ」
 友人たちは少女に同情しつつも、不思議と翻意を促そうとはしなかった。彼女たちの心の奥に、女の坊主を見てみたい、という好奇心があったのだろう。
「ライオンちゃんの坊主楽しみ〜」
とうっかり口を滑らす娘もいた。

 家族や友人らに宣言してしまった以上、もはや坊主頭になるしかない。
 週末、少女は近所の理髪店に入店した。
 心臓がバクバク高鳴っている。
 不安を押し隠し、カットの順番を待った。客は男ばかり。思春期の自意識が客たちの視線を過剰に感受する。つとめて平静を装う。
 少女の順番が回ってきた。
 カット台に座る。
「今日はどうするのかな?」
と若い店の主に訊かれ、
「あの・・・」
 ちょっと口ごもったが、
「丸刈りに、して・・・下さい」
 緊張で声が震えた。
 店の空気も一変する。客たちが熱っぽい視線を背中に感じた。
「丸刈り?!」
 理髪師のオニイサンも当惑している。当惑しつつも、
「なんで、また坊主頭にすんの?」
と尋ねた。
「あの・・・部活動で・・・きまりなんです」
 理由を説明したが、
「やめときな、坊主なんて」
 オニイサンはキッパリと言った。
「どういう理由があるにせよ、女の子を坊主になんてできないよ」
とハサミをとってくれない。
 ――え?
 思いも寄らぬ展開に、少女は戸惑った。床屋に行って、さっさと断髪を済ませて来よう、と考えていたのに。
 居合わせた客たちも、
「御主人の言う通りだよ。女の子が坊主なんて、やめときな」
「そんな酷い部活なんて、やめた方がいいよ」
「昔っから髪は女の命っていうしね」
と口々に店主に賛同する。
 ――え? え?
 少女はケープを巻いたテルテル坊主状態で、進むも退くもならず、顔を赤らめて、困じ果てている。せっかく勇気を振り絞って来店したのに、予想外の流れだ。
 二度三度と気弱く催促したが、店主に拒まれ、とうとうカットしてもらえないまま、家路についた。すごく恥ずかしかったし、女性の坊主に対する世間の拒絶反応の強さも、まざまざと思い知らされた。
 以後、少女は彼女の行動範囲から、その床屋の近辺をNG登録した。あれだけ恥ずかしい思いをしたのだから、無理もない。

 少女は一時、野球部入部への道を踏み迷った。
 ――やっぱり野球は諦めるか。
とさえ思いつめた。
 しかし一度決心した心は、一朝一夕で変わるものではない。
 ――床屋がダメなら家で切ってもらえばいい。
とグラつきかけた決意を立て直した。
 そして、
「髪は父さんが切ってよ」
と父に断髪をせがんだ。父はこれまでずっと少女の散髪を担当していたから。
 父は娘の頭を坊主にするのを嫌がり、散々渋ったが、最後には、あくまでも娘の希望に沿いたいと娘同様、覚悟を決め、
「本当にいいんだな?」
と断髪役を請け負った。
「うん!」
 少女は大きく肯いた。
 それから父は近所のホームセンターに行き、娘の髪を刈るためのバリカンを買った。

 少女の断髪は、その翌日行われた。
 「ライオンちゃん」のタテガミは、野球部の部則に合わせ、跡形もなく刈り込まれた。
 父はまず、普段母が裁縫で用いている裁ちバサミ――散髪バサミとして兼用されている――で少女の髪を切った。
 ザクザクと大きな音をたてて、肩までの髪を摘んだ。
 最初に右のコメカミのあたりにハサミを入れ、そこから垂れ下がる側頭部の髪を切った。20cmはあった。
 赤茶けた癖っ毛がボタボタと芝生に落ちた。
 ハサミは右サイドの髪を短く断っていく。ジョキジョキ、ジョキジョキ。
 右耳が露わに出た。
 少女はさびしそうに、身体から離れていく髪を、目だけを動かして見送る。
 バックの髪を切る頃には、少女は俯き気味になっていた。
 ザクザクザクと後ろの髪が根元近くから断ち切られる。バサッバサッ。
 覗いたうなじが春昼の暖気と湿気を、素早く感じ取った。
「首がスースーする」
 少女は軽く肩をすくめてみせたが、
「動いちゃダメだってば」
と父に言われ、バツが悪そうに座りなおした。
 ザクリ、
と後ろの髪がまた断たれる。
 右回りに、ぐるりと髪が刈り取られる。右耳が出、うなじが出、左耳が出た。
 スーッと落髪がケープを滑り、丁度、座る少女の膝の上で止まった。
 ケープから手を出して、その髪片をつまみあげる。両の手で髪片をいじる。愛おしそうに。寂しそうに。
 父は前髪を切りはじめている。
 トップで分けていた髪を、櫛で梳いて前に下ろすと、左手で前髪をつかみ、右手のハサミで切る。ジョキ。一房、また一房と摘み取っていく。ジョキ、ジョキ、ジョキ。
 細かな髪が唇に貼り付いた。少女は、ペッペッとその髪を吐き捨てた。
 額も出た。
 少女はザンギリ頭になった。
 頭が軽い。頭が涼しい。
 ライオンちゃんのタテガミは、芝生の上、クッタリと永遠の眠りについている。
 しかし、まだ散髪は終わらない。否、これからがいよいよ本番だ。
 父は少女にとって未知の散髪用具を手にとった。
 バリカン。
 名前は知っている。見たこともある。どういった用途で使用されるかも知っている。
 けれど、まだ自分の頭部に触れさせたことはない。
 視界に入るバリカンに少女は怯える。心臓が激しく動悸しはじめる。
 ブイイイィィィン
とバリカンが鳴り出すと、少女の不安はますます高まる。
 ――ここでやめておけば・・・。
という葛藤が生じる。
 ベリーショートという女性の髪型の範疇で留まることができる。バリカンの刃が数センチでも入れば、もう後戻りできない。
 反面、坊主頭を中止したら、髪をここまで切ってしまった意味がなくなる、ここまで切ったのだから、後は一気に丸刈りにするのみ、という勇猛心が乙女心を押さえ込みにかかる。
 少女は考えるのをやめた。
 一切をなりゆきに任せた。
 ブイイイィィン、ジャジャジャジャ〜
 襟足から後頭部にバリカンの感触が走った。
 ――うわあ〜!
 少女は思わず顔をしかめた。
 後頭部に縦に引かれた青白いラインが、野球部員への道のポイント・オブ・ノー・リターンだ。これでもう後は五厘刈りになるしかない。
 父は手首のスナップをきかせ、バリカンを走らせる。ブイイイィィン、ジャアアアアア、ジャアアアァァ、と後ろを刈り上げる。
 一刈りごとに手首を外側にスナップさせるので、刈られた髪が、
 バッ、バッ、バッ
と宙を舞い、跳ね踊る。まるで大砲に吹き飛ばされる歩兵のようだ。
 ジリジリと後頭部の頭皮に、バリカンの振動を感じる。振動の後に、スッと外気が触れる。
 ――刈られてるぅ!
 頭皮が感じる振動と外気は、少女に、坊主カットが進行中であることを、まざまざと実感させる。
 バッと舞い散る髪が視界の端に入った。少女の顔はますます苦い。唇を噛んで、精神的苦痛に耐える。
 父は娘の顔色に気づいて、
「まあ、運動するなら、坊主頭の方がいいのかもな」
と慰めた。
 慰めながら、左の耳を軽く横にひっぱり、耳の後ろの髪を刈った。ジ〜。
 後頭部は完全に五厘の長さに刈り詰められた。バリカンが入ってから、まだ5分も経っていない。
 父は次に左サイドの髪にバリカンを入れた。
「せっかく坊主頭にするんだから、絶対レギュラーになれよ」
と言い、ゾリゾリと上へ横へバリカンを走らせる。
「言われなくったって、なるもん」
と少女は少し不貞腐れ気味に、口を尖らせた。
「将来はプロになって大金稼いで、父さんたちに楽させてくれよ」
「プロ?」
 少女は初めてクスリと笑った。
「それは無理」
 どんどん落ちてくる髪に、目をしばたたかせながら言うと、
「志は高く持たないとなあ」
と父は笑った。
 バリカンは少女の左鬢を食べ尽くすと、今度は右に移動する。
 髪を刈られる感触にもちょっとだけ慣れた。ただ、これから先、何十回何百回もこの感触を経験しなくてはならない。そう考えると、気が遠くなる。
 右の鬢にゆっくりとバリカンが差し込まれる。
 ジ、と髪がバリカンの刃と擦れる音がして、
 ジャアアアァァァ、
と一息にバックに持ち去られる。青い地肌を後に残して。
 バサッバサッ
と刈られた髪がケープを叩く。
「うわ〜」
 少女はまた顔をしかめた。
 バリカンは不気味に唸りながら、少女の髪にかぶりつき、みるみるうちに食べ散らかしていく。
 残り髪がピンピンと見苦しくあちこちに跳ねているのも、バリカンはすかさず咀嚼した。
 右鬢を上へ上へ遡り、頭頂部付近まで青く刈り込む。
 ――そう言えば・・・。
 去年のことを思い出す。
 偶然観た深夜のテレビ番組。
 山澤なる無名芸人がチャレンジに失敗したら丸刈りという企画が放映されていた。
 丸刈りを免れようと懸命になっている山澤に、少女は、
 ――失敗しちゃえ。
と意地悪な視線を送っていた。
 少女の期待に応え、チャレンジは見事に失敗。罰ゲームは執行された。
 嫌だッ! 嫌だッ!と抵抗する山澤を屈強な男たちが押さえつけ、バリカンが入れられる。
 みるみるうちに丸刈りにされる無名芸人の不様な姿に、
「ダッサ〜イ」
と少女は大笑いした。
 まさか、その報いではあるまいが、自分も同じ運命になってみると、ある種の寓話めいた展開のように感じる。
 寓話めいた展開といえば、山澤の件以外にも思い出はある。
 小学校3、4年生の頃、クラスに坊主頭の男の子がいた。クラスで坊主頭なのは、その子だけだった。
 男子たちに「ハゲ」とからかわれていた。
 少女も遊び仲間と一緒になって、
「おい、ハゲ、そこどけよ。眩しいんだよ」
と始終からかっては面白がっていた。
 ちなみに「ハゲ」は小学校高学年あたりから髪を伸ばしはじめ、現在サッカー部に籍をおいている。
 長めの髪をなびかせ、部内では早くも頭角を現して、女子たちの熱い視線を集めている。
 「ハゲ」と嘲られていた彼が校内の人気者となり、「ハゲ」を嘲っていた自分が「ハゲ」に転落する。ますます寓話めいている。
 「ハゲ」の髪は6mmくらいの丸刈りだったが、少女はもっと短い五厘刈り――2mm以下だ。

 バリカンの音がやんだ。
「ちょっと見てみろ」
と渡されたハンドミラーをおそるおそる覗き込む。
「ちょっと、父さんッ!」
 少女は思わず叫んだ。
 鏡の中の自分は坊主頭。
 ・・・のはずだが、前頭部の真ん中から頭頂部にかけて、幅6,7cmほど髪を刈り残してある。
 いわゆるモヒカンヘアーだ。
「父さんッ! 何、この頭ッ?!」
 猛然と抗議する少女に、父はニヤニヤ笑いながら、
「いや、こんなふうにするつもりはなかったんだけど、やってるうちに自然に、な」
 父は学生時代、ラグビー部だった。大会前、寮などで仲間内で、頭をバリカンで刈り合って、
「よくこうやって変な髪型にして、遊んでたんだよ」
 その当時の習性が久しぶりにバリカンを握って、甦ってしまったらしい。
 だからって、自分の娘をモヒカンにするか?!と顔を真っ赤にして怒ったら、
「そんなパイナップルみたいな頭で怒るな。笑っちゃうだろ」
と口元を手で押さえ、笑いをおさめると、
「バリカンを入れた瞬間から、お前のことは“息子”と思うことにした」
 これからはスパルタ式で行く、と言い渡した。
「テストで赤点取ったり、試合で負けて帰ってきたら、ビンタな」
「ひいぃ!」
 流石のお転婆娘も、父の教育方針の大転換には震えあがった。これからは文武両道に邁進するしかない。
 少女は情けない思いで、ケープから手を出して、モヒカンの部分を撫でた。彼女が「ちょっと男勝りだけれど普通の女の子」だった頃の遺跡にさみしく触れながら、
「わかったから、とりあえずこの毛、なんとかして」
 坊主頭より恥ずかしい。
「最後まで刈っちゃってよ」
と懇願したが、
「しばらく、その頭でいろ」
と命じられた。
「嘘でしょッ?!!!」
 少女は大パニックになる。
「お前は今まで畑は荒らすわ、男の子をいじめて泣かすわ、木登りして服は破くわ、親の言うことは聞かないわ、悪さばかりしてきたからなあ。今日一日、反省の意味をこめて、その頭でいろ」
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってよ、父さん!」
 父は聞く耳持たず、さっさと後片付けをはじめてしまった。
 切った髪を集め、バリカンとハサミを洗浄し、ケープを元の袋にしまった。
「夕飯の後で刈ってやるから、それまでそのトサカ頭で反省しておけ」
 ――ええい! 今日は家でゲームでもするか!
と気持ちを切り替える。
 が、家にあがったら、いきなり、
「靴を脱ぎ散らかすな!」
と父からビンタを頂戴した。有限実行、本当にスパルタ式で行くらしい。
 ――うひゃあ!!
 ビンタはさほど痛くはなかったが、精神的ショックは大きかった。
 ――父さん、怖っ!!
「どうしたの、その頭?!」
 ニワトリみたい、と驚き、笑う母を振り切り、自室に籠もる。
 そして、初めての中間テストに備え、猛然と勉強をはじめた。
 ――点数悪かったら、またぶたれる〜!
 モヒカン頭で英語の教科書と必死でにらめっこ。
「いんたれすてぃんぐ、興味深い、いんたれすてぃんぐ、いんたれすてぃんぐ・・i・・・n・・・t・・・e・・・r・・・e・・・」
 英語の練習帳に何度も英単語を書き出す。生まれて初めて真面目に勉強した。アバンギャルドな頭で。
 アルファベットと格闘し、
「ああ〜、わっかんないなあ」
と髪をかきむしろうとしたら、
 ジョリ
 坊主頭に触れ、
 ――ひっ!
 ビクッと手をひっこめる。
 ――そうだった・・・。
 かきむしる髪はもう、ない。
 断髪の最中よりも激しい喪失感に襲われる。
 ――もう「ライオンちゃん」じゃなくなっちゃったよ・・・。
 さびしい。涙が不意にこぼれる。声を殺してしばらく泣いた。憶えたての英単語が涙で滲んだ。

 夕食後、改めて父に髪を刈ってもらった。
 場所はキッチン。
 いちいちまたケープを巻いてというのは面倒だという父に言われるまま、床に跪き、ゴミ箱を覗き込むように頭をさげ、バリカンで刈られた。
 父は少女の後ろから覆いかぶさるようにして、彼女の髪を削っていった。
 一刈りしてモヒカンの部分が半分以上消えた。
 刈られた髪はそのまま、バラバラと直接ゴミ箱に落ちていった。
 二刈り、三刈りしてモヒカンはなくなった。
 それでもまだモヒカンだった箇所は黒い。父は今度はもっと深くバリカンを入れた。ブイイィィン、ジ〜〜〜、ジ〜〜〜
 少女はずっとゴミ箱の中を見つめている。丸まったティッシュとかおせんべいの袋とか、卵の殻とか残飯とか、それら可燃ゴミの中に自分の、ライオンちゃんの最後のタテガミが落ちかぶさっていくのを、黙って見つめていた。
 ――さよなら・・・。
 心の中でそっとお別れを告げた。髪に、そしてイノセントな少女時代に。
 坊主頭になった自分を鏡で確認する。
 髪が消え、青々とした頭の自分は正直気持ち悪かった。
 衝撃は大きかったが、
 ――モヒカンよりはマシかな。
と自分を無理やり納得させた。
「凛々しくなったぞ」
と父は褒めてくれた。
洗い物をしていた母も、
「あら、可愛くなったわね」
と褒めてくれた。
 「凛々しい」と「可愛い」では、評価のベクトルは正反対のような気がする。一体どっちなんだろう。

 翌日、少女は坊主頭を学校中にお披露目した。
「ライオンちゃん、すげー!」
 クラスメイトは興味本位で待ち構えていたXデーの到来に、目を丸くして驚き、改めて少女の勇気を称えた。
「でも、こうなるともう“ライオンちゃん”って呼べないよねえ」
と廊下で話していたら、
「おっ、一休ちゃ〜ん!」
と通りかかった男子に冷やかされた。元「ハゲ」現在サッカー部の次期エースだった。
 新しいニックネームが誕生した。
 赤鬼も、
「良い根性だ」
と少女の入部を認めた。
 連日、男子部員とともにシゴきにシゴかれている。
 そろそろ大会も近い。
 大会に向けて、父にバリカンで散髪してもらう。
 実はあのとき切った髪は、父がこっそり取っておいて、筆にしてもらっていた。父なりの思いやりだったのだろう。
 その筆で色紙に、
 全国制覇!!
と墨痕も鮮やかに大書した。
「気が早いな」
と父は笑った。
「それよりもまずレギュラーになるのが先決だろう」
「“志は高く“って言ったのは父さんだよ」
と言い返すと父は、
「そうだったっけな」
と苦笑して引き下がった。
 「一休ちゃん」という新しいニックネームも定着して久しい。
 そういえば、名付け親の元「ハゲ」現在サッカー部の次期エースは、坊主頭になってからやけに絡んでくるし、一体アイツはなんなんだ(汗)
 それは置いておいて――
 「一休ちゃん」であることには慣れたけど、幸せだけれど、でも時々、「ライオンちゃん」だった頃が懐かしくなる。
 そんなとき、部屋のペン立てに静かに寄りかかっている、あの筆を手にとる。
 筆の穂にそっと触れる。
 一緒に野山を駆け回った、ボール遊びをした、木登りをした、イタズラをした、ケンカをした、泣いたり笑ったりハシャいだりした、あのタテガミは今も形を変えて、いつも少女のそばにいる。
 穂を指先で弄ぶ。
 あの頃の日々が脳裏に甦る。
 ギラギラと照りつける太陽、草いきれ、土の匂い、茱の味、冷たい川の水、つかまえた大きなクワガタ、仲間の笑顔、木の上から見下ろした街並み、遊び場だった神社の境内、幽霊屋敷と呼ばれていた廃屋、初恋だったお兄さんの背中・・・。
 みんなみんな、大切な記憶。
 明日は練習試合。初めてレギュラーとしてグラウンドに立つ。
 「一休ちゃん」に戻らねば。
 しばらく過去を懐かしんで、少女はそっとペン立てに筆を戻した。



(了)



    あとがき

 こういうのが出来ちゃいました。・・・というしかない。
 元々、十代の頃、考えていた野球少女断髪を基に、自作の中ではほとんど初めての匿名のヒロインが坊主になる様を淡々と描こう、と構想していたのですが、話がどんどん転がっていって、こういうお話になりました。
 自分的に、小説はある意味人知を超えて、出来上がってみるまで、どうなるかわからないところがあります。そこがまた自分にとって書くことの楽しみのひとつです。
 読み返してみて、結構気に入っています(^^




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