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下宿人は見た


 洗面所に侑子さんがいた。
 なにやら深刻な面持ちで鏡をじっと見据えていた。
 ――どうしたんだろう・・・。
という下宿人の視線にも気づかず、侑子さんは、やおら右手で前髪をもちあげ、額を出し、そして、左手で長い後ろの髪を束ねた。
 そうやって、また鏡と睨めっこする侑子さん。
 ――ああ!
と僕は彼女のやっていることを理解した。
 ――坊主シミュレーション!
 実は侑子さん、明日から尼僧の修行道場に入門する。
 入門に際しては、まあ、当然だが頭をクリクリに丸めなければならない。これも、まあ、当然だが、妙齢の女性が坊主頭になることに不安や抵抗がないはずがない。
 で、実際、坊主頭にしたら、どんな感じになるのだろうか、と鏡の前、髪の毛をひっつめてみて、確かめているわけだ。
 その結果は、といえば、かなり残念だったらしい、肩を落とし、
「はあ〜」
とため息をついていた。
 それでも、まだ未練がましく、二度三度と両手で髪をひっつめ、坊主シミュレーションを繰り返す侑子さん。しかし、何回やったところで、いままでロングヘアーやメイクで誤魔化してきた自身の残念な顔はどうにもならない。だからといって、「坊主頭が似合わないので、ロングヘアーのままで修行させて下さい」などと尼僧道場にかけ合うわけにも、まさかいくまい。
 侑子さんは僕の視線に気づくと、ギョッと、それこそ万引きの現場でも目撃されたかのように目を見開いて、体を仰け反らせた。
「な、何か用?」
「いや、別に」
と応える僕の顔、もしかしたらちょっとニヤついてたかも知れない。勿論、お気の毒さまとは思うが、部外者の立場としては、興味や好奇心の方が勝ってしまうわけで。
 そもそも、今回の件は侑子さんに非がある。
 友人たちと本堂で酒盛りしていて、もともと酒癖の悪い侑子さん、すっかりできあがって、
「寺なんかクソじゃあ〜」
と大暴れ、挙句に嘔吐した。そこまでは、まあ、仕方ないなあ(苦笑)、で済む話だったが、吐しゃ物を片すのに雑巾もティッシュもない。
 酔った勢いで、
「コイツで拭くか」
と奥の間の掛け軸を引き剥がし、そいつでブチまけたゲロをゴシゴシ拭いた。
 不運なことに、その掛け軸、数百年に渡り代々寺宝として伝わってきた代物で、昨年、檀家さんたちから何十万もの寄付を募って修復したばかり。それが侑子さんのせいで、台無しになってしまった。
 お父さんの住職は真っ青になって慌て、檀家は真っ赤になって怒った。そりゃあ、怒るよな。この不景気のご時勢に皆、「檀那寺のため」と家計をやりくりして修復費を捻出したのだから。
 侑子さんも素面になってから、事の重大さに、
「バカなことしちまった〜」
と泣いていたが、泣いたところで掛け軸は元に戻らないし、檀家の怒りもおさまらない。それに侑子さん、普段から働きもせず、放蕩三昧、檀家連をバカにしたような発言をしていたものだから、評判が悪い悪い。ゆえにフォローしてくれる人もいない。日頃の行いの報いだ。
 とうとう、「本当に申し訳ない。お詫びとして娘には尼僧道場で一年間修業させてもらって、反省させる」と住職が謝罪するに及んで、ようやく事態は沈静化した。
 これまで「アタシ、次女だしぃ〜」と寺から距離をおいて好き放題生きてきた侑子さんに突如降ってわいた仏門入り。
 有限実行で、鬼のような顔の総代さんたちが居並ぶ中、尼僧道場に電話を入れる住職さん。総代さんたちの手前もあり、
「はい、23歳です。はい、すぐにでもお願いします。はい、はい、ビシビシシゴいてやってください」
と厳しい父親を演じる住職さんの傍らで侑子さんは茫然自失、ポカンと口をあけ、虚ろな視線を宙に漂わせていた。突然目の前に出現した尼僧の道に、どうしても実感がわかないという様子だった。
 それから道場に入る日までの二週間のあいだ、侑子さんは尼僧道場に「行きたくない」とゴネたり、底抜けに遊びまわって現実逃避したり、かと思えば、修行生活に要る体力づくりのため、いきなりジョギングをはじめたり、身辺整理をしたり、でもやっぱり尼さんになるのは嫌で家出の真似事をしたり、と、あがきにあがいていた。
 侑子さんが悪あがきしている間にも、彼女の家族は侑子さんの法名を考え、僧衣を仕立て、尼僧修行のために必要な品々を揃え、着々と道場入りの準備を整えていた。
 こうなっては侑子さんも腹を括らざるを得ず、というか、状況に流され、家族に言われるまま、来るべき日に向け、僧衣の採寸をし、健康診断を受け、携帯電話を解約した。
 そして、道場入り前日の今日、尼僧になるための、まず最初の試練となる剃髪が行われる予定なのだが、これまでずっと伸ばしてきた髪をバサッと落とすことには躊躇いがあり、人目を盗んでの坊主シミュレーション。その現場を下宿人の僕に目撃されてしまったというわけ。
「何見てんのよ。ビックリしたでしょ」
 侑子さんは八つ当たり気味に僕を詰ると、足音も荒く、洗面所から出て、居間に向かった。僕も居間においてあるはずの新聞が読みたかったので、侑子さんの後に従うように歩き出す。
 居間に足を踏み入れるなり、
「ひっ」
と侑子さんは小さな悲鳴をあげ、雷にでもうたれたかのようにビクンッと立ち止まった。
「どうしたの?」
と僕は侑子さんの肩越しに、居間をのぞきこんだ。
 畳一面に古い新聞紙が敷かれ、その真ん中に黒いツール椅子。ツール椅子の対面には等身大の鏡が置かれている。
 そして、部屋の片隅にはバリカンが充電中。
 そう、侑子さんの頭を尼さんらしく坊主スタイルに剃りあげる準備は、侑子さんが洗面所で空しい努力をしている間に、すっかり完了していたのだった。
「あ、あ、ええ?!・・・え? え?」
 侑子さんはすっかりパニクってしまい、部屋の入り口で、進むことも退くこともできずにいた。
 そんな侑子さんの背中を押すかのように、パッとバリカンの充電器が赤から黄色になった。充電完了!
「おお、侑子、いたか」
と絶妙なタイミングで住職さん登場。
「充電はできとるようだな」
とバリカンを確認し、
「これから頭剃るから、ここ、座れ」
とツール椅子を指差す。
 もはや、待ったなしの状態!
・ ・・なのだが、侑子さん、
「いや、あの、その・・・ア、アタシ、えっと、えっと・・・」
ソワソワして、
「ちょっとトイレ行ってくるね」
と背後の僕を押しのけ、一目散にトイレへ駆け込んでしまった。見苦しいこと、この上なかった。
「崇文クン」
と住職さんは僕に、
「君にはこのところ、情けない場面ばかり見せちゃって、恥ずかしいよ」
と苦く笑いながら肩をすくめ、
「子供の育て方、間違っちまったかなあ」
とボヤいた。
「そんなことないですよ」
と僕は心にもないことを言った。大学に通うため、遠縁にあたるこの寺に下宿させてもらってから、侑子さんのダメっぷりは散々見てきた。が、下宿先の主に、
「アンタんトコの次女は一回、厳しい環境でシゴかれた方がいい。だから今回の件はむしろ慶祝だと思いますよ」
なんて本音を口に出すわけにもいかない。
「密子さんはしっかりやってるじゃないですか」
 次女をクサす代わりに長女を褒めた。
 この仁科家の長女・密子さんは仏教系の八頭大学在学中に
「この先何があるかわからないから、念のため、僧侶の資格を取っておくわ」
と自分の意思で僧侶の研修に参加した。参加するにあたり、キッチリ頭も丸めた。
 割とのっぺりした地味顔の密子さんは有髪の頃はさえない風姿だったが、ツルリと頭を剃りあげてみると、古都の街並みが似合う品の良さと艶やかさが匂う尼僧ぶりで、思わずグッとこみあげてくるものがあった。
 本人もそれを自覚しているのか、研修を終えても坊主頭のままでいる。外出するときはウィッグをつけている。
 三日に一度くらいの割合で風呂場で頭を剃っている。
 現在は実家の法務を手伝いながら、大学院で仏教の研究をしている。檀家受けもいい。
「和尚より密子さんにお参りに来て欲しい」
というラブコールもあるぐらい人気がある。妹とは対照的だ。
 密子さんの前例があるせいか、今回、侑子さんの出家に際しても、一家にはあまり悲壮感はないように思える。

 侑子さんのトイレ篭城は一時間近くに及んだ。
 ご両親が代わる代わるドアをノックして、早く出るよう急かしたが、
「もうちょっと待ってよ
「まだまだ
「そんなに急かさないでよ」
と侑子さんはトイレに篭り続けた。他人事ながら、腹立たしいほど往生際が悪い。
 とうとう堪忍袋の緒を切らせた住職さんが、ドンドンと激しくトイレのドアを叩いて、
「いい加減にしろ! 今更その態度はなんだ! 出てこないならドアをブチ破るぞ! いくら抵抗しても剃髪は是が非でもするからな!」
と怒鳴るに及んで、
「わかったよ!」
と侑子さんはトイレから飛び出した。半ばヤケになっていた。

「さあ、座れ」
と言われ、
「わかったよ」
と侑子さんは不貞腐れながら、ツール椅子に腰をおろした。
 「わかったよ」で済ませとけば良かったのに、その後に、「チクショウ」とか小さく呟いて、
「チクショウとは何だ!」
とキレた住職にバリカンの尻で、
 ガツン
と殴られていた。
 住職さんが怒るのも尤もだ。
 代々の大切な寺宝をメチャメチャにされ、檀家に頭を下げて回る羽目になった。しかし、当の娘は反省の色は薄く、父親の苦労も知らず、「なんでアタシが尼さんなんかにならなきゃいけないわけ?」的な態度。
 そりゃ怒る。
 バリカンで殴られて、侑子さんは泣きベソをかいた。
「わかったよ、早く坊主にしちゃってよ・・・」
 涙で目を真っ赤にして、しゃくりあげながら言った。
 住職さんは水色のケープを取り出すと、おもむろに娘の身体に巻き、首の後ろでとめた。
 そしてバリカンのスイッチを入れた。
 うぃ〜〜ん
とバリカンが低く鳴る。
 住職さんは侑子さんの前髪に指を入れた。前髪をすくい上げ、のぞいた生え際にバリカンの刃を差し入れた。
 うぃ〜ん
というモーター音だったのが、鉄刃と髪とこすりあって、
 ジ〜〜〜〜
という蝉の鳴き声のような音になる。
 生まれて初めてバリカンと接触した侑子さんは、その振動に耐えるように、ギュッと目をつぶっていた。苦しそうな、くすぐったそうな、悶えているような、そんな表情だった。
 住職さんは深く長く侑子さんの髪を剃りこむ。たちまち前髪が持ち上がり、めくれ、頭から離れる。
 バサッ
と黒い塊がケープを叩き、
 バサッ
と新聞紙の上に落ちた。
 侑子さんの髪を引き裂くように、青い小道が走っている。そう、つい一ヶ月前までは、まるっきり無縁だった散髪道具でまるっきり無縁だった髪型に仕上げられる。
 さらにバリカンが入る。青い小道の真横に。
 左の前髪とコメカミ付近の髪がまとめて刈られた。うわっ、と見ている方が怯むくらい大量の毛が、ドバサ〜ッとケープにこぼれた。
 住職さんはさらに左側の頭を刈る。ジョリバリ刈る。
 侑子さんは顔をしかめている。何もそこまでと思うくらい大仰に、ククと歯を食いしばり、泣き腫らした目をやっぱりギュッと瞑ったまま。
 ドバサ〜とまたものすごい量の髪が、新聞紙の上に降り積もった。
 後には青い地肌が残される。寒々しくも瑞々しい地肌が。
 前と左右の髪が数ミリ以下に刈り込まれ、住職さんは今度は後ろの髪にとりかかった。
 ブイイインと鳴るバリカンを首筋のあたりに潜り込ませ、一気に、ジジジジジジジ〜、と押し上げた。さっきと同じく髪が左右に裂かれた。スナップをきかせすぎたため、
 バッ
と髪が宙を舞った。さらに、ひと刈り。左右の髪の裂け目が拡がった。
 当事者たちには申し訳ないが、傍観者からすると、住職さんの刈りっぷり、侑子さんの変貌ぶりは、実に胸がすくような思いだった。
 「変貌」、そう、ひと刈りごとに侑子さんは修行僧になっていく。
「あの、写メ撮っていいですか?」
 思わず訊くと、侑子さんは語気強く、
「ダメ! ダメ! 絶対ダメッ!」
と叫んだ。その拍子にうっかり目をあけてしまい、鏡の中の半剃り頭と対面、
「ひいい〜!」
と情けない悲鳴をあげていた。
 しかし、いい加減現実と折り合いをつけねばならない、と思ったのだろう、・・・というか、もはや現実を受け容れざるを得ない状態なので、観念したように、坊主頭になっていく自分を怖々と見つめていた。
 住職さんは黙々とバリカンを走らせ、後ろの頭もどんどん青くなっていった。
 ドバサ〜、とたっぷりとした髪が落ちて、新聞紙のあちこちに黒山ができていた。遊び人だった頃、欠かさずケアしていた髪、ベッドの中で彼氏に愛でられたであろう髪、僕の前で得意げにかきあげていた髪が、単なる掃き捨てられるべきゴミクズと成り果て、古新聞の上、処分されるのを待っている。
 住職さんは侑子さんの丸まった頭を、さらに丸くしようとでもするかのように、バリカンを縦横無尽に駆って、刈り損なった髪を削りまくっていた。
 バリカンでのカットを終えると、住職さんは水のはった洗面器とシェービングクリームと、そして、二枚刃のシックを持ち出してきた。
 そして、次に言った住職さんの言葉は、侑子さんを驚愕させるものだった。
「お前、自分で剃ってみろ」
「え?!」
 修業道場では自分で剃刀を使って、坊主頭を保たねばならない。そのための練習を今ここでせよ、という。
「道場で頭剃るのにグズグズしてみろ、ドヤされたり、ひっぱたかれたりするぞ」
との住職さんの言葉に、侑子さん、頭だけでなく顔まで青くなり、シックを持った。新聞紙の上に正座。洗面器を前に、中の水を覗き込むように背中を丸め、必死の形相で自分の頭に剃刀をあてた。
 そうして不器用な手つきで、ゾリゾリと剃りはじめた。半ばヤケっぱちで、勢いよく剃りこむ。ゾリゾリ、ゾリゾリ。
 興奮する。
 お嬢さん育ちで、恋人を取っかえ引っかえして享楽の限りを尽くしていた侑子さんが、今僕の目の前で、剃刀片手に頭を低くして無我夢中で坊主頭を剃って剃って剃りまくっている。
「うぬっ
「あれ?
「でやあぁ!
「まだまだ
「ぬふっ」
とか変な掛け声らしきものを口にしながら。
 初めてのセルフシェービングなので、何度か手元が狂い、
「痛っ、痛っ」
 露出したばかりのまだ柔らかな頭皮を傷つけてしまう。
 坊主頭はところどころ血が滲んでいる。
 住職さんが見かねて、手伝ってやる。
 ゾリゾリ
 ゾリ、ゾリ
 30分以上かけて、ようやく侑子さんの頭は剃りあがった。
「痛い、ヒリヒリする」
 侑子さんは青緑色の頭を押さえながら、顔をしかめている。
 しかし、これで腹も据わったらしく、
「まあ、この頭で一年、シゴかれてくるよ」
と笑った。
 不覚にもそんな侑子さんを、
 ――美しい!
と見惚れてしまう。試練に立ち向かう覚悟を決めた人の顔は押し並べて美しいのだろう。例え侑子さんであろうとも。
「今日が私の再スタートの日だね」
 軽やかに、涼しげになった侑子さん、否、僧名・眞侑(しんゆう)さんは微笑しながら言った。
 そこへ、
「ナニよ、これ?!」
 密子さんの声がした。どうやら大学から帰宅したらしい。何か怒っている。
「ねえ、誰、トイレででっかいウ○コして流してない人! お父さん?」
という密子さんの声に、侑子さんは狼狽し、顔を赤らめた。
 この件に関しては、後に侑子さんが生き仏のように崇められる高僧になってから、
 眞侑尼様、俗世の形見の一本糞
と信者たちに、黄金色に輝いていた、蘭麝香の香りが漂っていた、中から仏舎利が現れた、などと伝説化して語り継がれることになるのだけれど、それはまた後日に譲って、僕としてはここで一旦、この話を終えたいと思う。



(了)



    あとがき

前に書いて、未完成のままだったお話を最後まで書き上げ、発表させてもらいました。
読み返してみて、「セルフパロディ」という語が浮かんでいます。「ああ、いつものパターンね」と言われそうな・・・。自分でも「前にこんな話書いたような」という既視感をおぼえます(汗)
それにしてもゲ○とかウ○コとか汚い話だなあ。。。
でも、こういうの結構好きなんです。
お付き合い下さり感謝です♪




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