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姫百合の・・・ 〜真・聖杯伝説篇


 カアアアット、とカチンコが鳴る。
「お疲れ〜」
 確かに疲れたろうなあ、と私は亀甲縛りにフローリングの床に転がされている嶋子お姉さまを見下ろし、思った。
「嶋子ちゃん、すぐ次のシーン、撮影するから、しばらくそのままで我慢してくれる?」
「早くしてくれる? この姿勢、マジでキツイから」
「ごめんね。うん、光速で準備するよ」
 高飛車なお姉さまに撮影クルーも低姿勢である。何しろ本物の元ビビアン女学院生がこんな作品に出演してくださっているのだ。いくら辞を低くしても、低すぎるなんてことはない。
「嶋子さん」
 撮影クルーが部屋を出ていくのを待ちかねたように、福井沢由美さまが嶋子お姉さまに声をかける。この人はメイドのコスプレ。
 嶋子お姉さまも由美さまも私、弐条典子もともに名門女子校ビビアン女学院の卒業生。ちなみに「お姉さま」を連呼しているが、実の姉妹ではない、念のため。
嶋子お姉さまと私は私立仏教大の八頭大学の三年生と二年生に進級を控え、嶋子お姉さまの親友である福井沢由美さまはニート・・・いやいや、御実家で花嫁修業に勤しんでいらっしゃる。
 由美さまのご実家は勿論裕福なのだけれど、厳格な家風のため、お小遣いは少なく、そのことにかねがね不満を鳴らしていたご学友を利用して・・・いやいや、経済的に一肌脱ごうとして、嶋子お姉さまはこの成人向けのインディーズビデオ撮影のお仕事を紹介してあげたのだが、由美さまは当然ながら不安があるらしい。
「大丈夫よ、由美さん」
という嶋子お姉さまの言葉に、
「本当に『本番』ないよね? それと、ちゃんと顔にモザイクかけてくれるよね?」
と何度も念を押していた。生粋のお嬢さまなのに「本番」とか「モザイク」って単語をサラリと口になされるあたり、流石、ビビアンきっての「庶民派」で知られた由美さまだ。

 嶋子お姉さまは一昨年、兄君の駆け落ち騒動により、急遽、ご実家の寺院の後継ぎとして、出家得度なされた。ご自慢の長いウェーブヘアーを潔く落としたお姉さまの清清しい僧形を、私は今でもうっとりと思い返す。
 けれど、お姉さまが血を吐くような苦しい僧侶研修を終えて間もなく、バックレていた兄上様が涼しい顔で帰参され、後継者に復帰。お姉さまの存在は宙に浮いた。
「ザケんじゃないわよ! マジムカつく! アタシ、剃り損じゃん! シゴかれ損じゃん!」
と安酒場でグラスと妹に毒づいていた嶋子お姉さまの、悪鬼のような形相を私は忘れない。
 かくして、ご実家の都合でシスターの夢を諦め、ご実家の都合で尼僧の道を奪われた嶋子お姉さまは、ふたたび放蕩無頼の生活に身を投じたのだった。
 私が諌めるのも聞かず、授業ブッチしてパチスロやるわ、ホストクラブでドンペリあけて豪遊するわ、姫地恭子先輩の向こうをはって「童貞狩り」するわ、そのご乱行ぶりは目を覆いたくなるものがあり、っつうか、アンタ、むしろ尼僧業やってる頃より生き生きしてんじゃね?ホントは後継話立ち消えになってせいせいしてんでしょ?ずっとハメはずす口実さがしてたでしょ?とお姉さまのご人格まで疑ってしまう私はイケナイ妹なのだろうか。
 私もことここに及んでは、駄目な姉とともに堕ちていく覚悟を決めた。
 一緒に合コンで男を漁り、高級ワインに舌鼓をうち、イケメンのホストたちに囲まれハシャギまくった。本当に辛かった。
 今日も今日とて、こうして、お姉さまたちの成人向けビデオ出演に付き人として立ち会っている。あくまで付き人。

「ちょっと! いつまで待たせんのよ! この体勢、マジでキツいんですけど。もしも〜し?」
 亀甲縛りで床に転がされているお姉さまは苛ついた様子で、撮影クルーをせっついている。
 お優しい由美さまはそんなお姉さまを、
「嶋子さん、落ち着いて」
となだめていた。そして
「そうだ、私、今日おいしいハーブティーをもってきたのよ」
と持参した魔法瓶の蓋に、ものすっごく湯気のたっているハーブティーをなみなみと注いで、
「さ、召し上がれ」
とにこやかに身動きできないお姉さまの口元に差し出そうとしたら、
「あら」
 手を滑らせてしまった。
「あっつっ! あっつっ! あついっ! あついわ! 由美さん!」
 顔面に熱湯をブチまけられたお姉さまは、ハトヤのCMの鮮魚のように、そりゃもう、激しくのたうっていた。
「エヘヘ、ごめんなさい」
 舌を出す由美さま。ホント、ドジなんだから(苦笑)。
「由美さんにはかなわないわ」
とお姉さまも慈母の如く苦笑して、
「ハーブティー、もう一杯下さる?」
という余裕をみせた。しかし、二度目の熱湯攻撃は腹に据えかねたらしく、また獲れたての鮮魚状態になりながら、
「あっつっ!! 熱っ!! 福井沢! アンタ、ワザとやってんでしょッ! この似非天然ッ!」
とかつてのご学友を醜く罵倒していた。お優しい由美さまは笑顔でお姉さまの暴言を聞き流していた。なかなかできることではない。

 トラブルがおきたのは、その直後だった。
 なんと撮影サイドがバリカンを持ち出し、剃髪&剃毛プレイを要求してきたのだ。どうやら、マニアックなビデオだったらしい。
 嶋子お姉さまは真っ青になっていた。
「バリカンは駄目! 駄目えええっっ!!」
と半狂乱になって叫んでいた。無理もない。お姉さまはバリカンには強いトラウマがあるのだから。
 聡明な由美さまもハシタ金のために乙女の命を捨てるなど、割に合わないと算盤をはじいたらしく、
「私、帰ります」
とそそくさとその場を立ち去ろうとするも、
「おっと、ここまで来てそれはないんじゃないの〜?」
 立ちふさがるグラサンのクルー。ああ、まるでベタなアクションドラマみたい! ドラマならここで颯爽と正義の味方が助けに現れるのだろうけれど、現実はそうはいかな・・・
「待ちなさい!」
 ウソ?! 正義の味方出現?!
「お、お姉さま!」
「嶋子、助けに来たわよ」
 元ビビアン女学院の「白鷺の君」で、嶋子お姉さまのお姉さま、佐竹聖子さまが腕組みをしてドアにもたれかかっていた。口笛でビーチボーイズの「ビー・トゥルー・トゥ・ユア・スクール」のサビを吹きながら。侮れないセンスだ。
「どうしてここに?」
というご都合主義的展開へのアンチテーゼともいえる嶋子お姉さまの疑問に、
「幸子から聞いたのよ」
と聖子さまはタネをあかした。
「由美ちゃんに感謝しなさい」
 嶋子お姉さまへの至極健全な猜疑心から、由美さまはご自身のお姉さまである笠原幸子さまにそれとなく今回の「アルバイト」の件を打ち明けたそうで、世間知らずの幸子さまは「社会勉強」と看過したが、ある程度社会性のある聖子さまはすぐに危険な匂いを察知して、情報網を駆使してこの場所を突き止め、駆けつけてくれたのだった。

 聖子さまは時にやんわりと、時に強大なバックをチラつかせて恫喝し、巧妙な駆け引きの末、とうとう撮影クルーを退散させた。
その間、床に這いつくばっているお姉さまは微妙な表情をしていた。去ろうとしている一難に安堵しつつも、舞台袖で出番を待っている次の一難に怯えている。
 クルーが部屋を出て行く。余程あわてていたらしく、SM用の小道具を放置したまま。
一難去って、
「さて、嶋子」
 また一難。
 次の一難は聡明な微笑にコーティングされて、嶋子お姉さまを襲う。
「この馬鹿げたパーティーについて、何か私に申し開きすることはあって?」
「私も信じられませんわ」
 お姉さまは思いっきりすっとぼけた。遠山の金さんに出てくる悪徳商人みたいだ。
「自主映画というお話だったので、私、てっきりヌーベルバーグ風のアートフィルムを想像していましたわ。ねえ、由美さん?」
「は、はい! 『本番』はない、って嶋子さん、仰ってましたし」
「福井沢ッ!!」
「嶋子お姉さま、鼻水出てますわ」
 私が鼻を拭ってやって、やや平静に返ったお姉さまは観念して、
「申し訳ありません! ほんの出来心だったんです!」
 亀甲縛りのまま、揺り椅子のように叩頭した。無理があった。
「聖子さま、どうか嶋子さんを許してあげてください! 誰でも心の中に悪魔はいます。嶋子さんの心の悪魔は他人より醜悪で強大なだけですわ」
 お優しい由美さまは懸命にご学友の弁護をかってでている。なかなかできることではない。
「嶋子さんにそそのかされて、内容もよく知らずにこんなおぞましいビデオへの出演に巻き込まれた私の無知と弱さこそ罪なんです!」
「由美ちゃんは本当に友人思いねえ」
 由美さまのけなげさに聖子さまも心をうたれた様子だった。目を細め由美さまの頭をなでてやり、
「私もできることなら貴女のような妹が欲しかったわ」
 床に転がっている妹の自尊心をグシャリと潰した。
「ともあれ」
 聖子さまは厳しい顔になった。
「貴女たち三人が伝統あるビビアン女学院の名に泥を塗ったことには違いないわ」
 相応のお仕置きを与えなければならないわね、という聖子さまにビビアン面汚し三人娘はひたすら恐懼するほかない。
「まずは由美ちゃん」
「ハ、ハイ」
「貴女は、これから一ヶ月の間、毎日私の家に通って、庭の花壇に水をあげること」
 生きるとはどういうことか学びなさい、それが貴女への罰よ、というお裁きに由美さまは
「ハイ!」
と目を輝かせうなずいた。
「よろしい」
と聖子さまは目尻をさげた。
 私へのお仕置きは何だろう。ドキドキ。
「次、典子」
「はいっ!」
 聖子さまが私に命じたのは、私にとってこの世で最も辛い行為だった。
「そこにある鞭で嶋子を打ちなさい」
「えっ?!」
と目を剥いたのは嶋子お姉さまだった。
「で、できません!」
 私はあわてて首を横に振った。そんなことできるわけがない。あわてふためいて、聖子さまに哀訴する。
「いくら、ワガママでアバズレで驕慢で浪費家で甘ったれで偽善者でエゴイストで怠け者で見栄坊で陰で聖子さまのことを『白鷺の君とかマジ笑えるんですけどww』とか悪口言ってるお姉さまでも、私にとっては世界でただ一人の姉なんです。鞭うつなんてできません!」
「やりなさい」
「はい」
「典子っっ!! 納得するの早すぎっ!! って言うか、もう鞭握ってるよっ!!」

 バシイイイ!!

 まるで安宅関で主の義経を打擲した弁慶のような悲痛な気持ちで、私は大切な女性(ヒト)を鞭打ったのだった。大丈夫、と自分に言い聞かせた。お姉さまも、きっと私のこの胸の痛みをわかってくれているはずだから。
「典子」
「なんでしょう、聖子さま?」
「流石に素肌の部分を叩くのはやりすぎよ」
「も、申し訳ありませんっ!」
 いわゆる「絶対領域」ってやつに蚯蚓腫れをつくった嶋子お姉さまは、歯を食いしばって痛みをこらえ、私を睨みつけている。激しい憎悪が伝わってくる。うわ〜。
「痛そう・・・」
と由美さんが呟いた。
「叩いたわね」
 嶋子お姉さまが呻くように言った。
「お父様にさえ叩かれたことがないのにィィ!」
「叩かれもせずに一人前になったレディーなどいません!」
 勢いで言ってしまったけれど、私も、たぶん他の二人も両親に手をあげられた経験はないはずだ。お嬢様なので。
 とりあえず、有言実行。

 バシイイイ!!

「二度もブッたわね!! しかもさっきと同じ場所っ!!」
 典子、おぼえてらっしゃい!と呪いの言葉を吐きつけ、嶋子お姉さまは悶絶している。
「典子、もういいわ」
「やらせてください! これが私の贖罪なんです!」
 三度、鞭を振りあげる。私の知らなかった私が覚醒しかけている。

バシイイィィ!!

「嶋子」
 いよいよ主犯格の藤道嶋子被告(成人しているので実名)への判決が下る。
「せ、聖子お姉さまっっ!!」
と被告が悲痛な面持ちで上半身を反り上げた弾みで、応急処置で大腿部にあてられていた氷嚢がゴトリと落っこちた。
「何かしら?」
「この度の“私たち“の放埓の結果の不始末、真に恥ずかしく思っておりますわ!」
「そうね、万死に値するわね」
「た、た、確かに由美さんに『高い時給もらえるなら、アダルトビデオでもOKだから』って散々強請られたので、つい魔が差してしまった私にも非はありますが・・・」
「そんなこと言ったの、由美ちゃん?」
「言ってません」
「嶋子」
 聖子さまは侮蔑をこめた視線を妹に与えた。
「我が身かわいさに親友に濡れ衣を着せた罪、軽くはないわよ」
「ええええっー?!」
 嶋子被告の申し立ては聖子裁判長の心証を著しく害したみたいだった。
「今回の件ばかりではなく、嶋子、貴女の日頃の不行状はちゃんと私の耳にも届いているわよ。あら、何故、典子を睨むのかしら? 典子は貴女の身を慮って私に注進してくれたのよ。恨むのは筋違いではなくて? それよりも妹を善導すべき姉が妹を積極的に堕落させるなんて、言語道断だわ」
「い、いえ、で、でも、最近は典子の方が暴走気味で、『夜皇』という店のヨシキというホストに私のカード使って、かなり貢い――」
「見苦しいですわよ、嶋子お姉さま! どうか潔く罰をお受けください! 妹である私をこれ以上、失望させないでください!」
「典子〜」
 嶋子お姉さま、四面楚歌。私も不本意ながら、楚歌を熱唱している。
「せ、聖子お姉さま! 人は皆、か弱きものですわ! 弱さゆえに過ちを起こしてしまう悲しい生き物なのです!」
「そうね、だからこそ心を鍛える必要があるのでしょうね。例えば、仏門修行をしたり」
「わ、私たち三人とも今日より心を入れ替えて、二度とビビアンの名を汚すような真似はいたしません!」
「どうかしら? 人の心は移ろいやすいものよ。俗塵にまみれていては、初志を忘れてしまうのではなくて?」
「の、典子や由美さんの堕落を許してしまったのは私の罪です! そういった意味でも責任を感じていますわ!」
「そうね、一昔前なら即刻尼寺入りね」
「と、とにかく、どうか妹である嶋子をお信じくださいませ! これまでの反省は今後の嶋子の生き方で証明いたしますわ!」
「信じろ、と言うのなら、それ相応の“禊”が必要ではなくて? イエス様でさえ、傷口をお見せになるまでは御弟子に復活を信じてもらえなかったのだから」
「で、では、毎日お姉さまにおいしいコーヒーをお入れいたしますわ」
「コーヒーなら由美ちゃんに入れてもらうわ」
「花壇のお世話と一緒にコーヒー係、喜んでお受けいたしますわ♪」
「福井沢ッ! アンタ、アタシに恨みでもあんの?!」
「嶋子、貴女のその放埓な性格を矯めてくれるのは、私ではなくて、仏様のような気がするわ」
「お、お姉さま、気のせいでしょうか、先程から話が出家方面に向かっているような・・・たぶん、気のせいなんでしょうけれど・・・って、なんでバリカン握ってるんですかッッ?! なんでバリカンのコードをプラグに差し込んでるんですかッッ!! ちょ、ちょっと、聖子お姉さまっ?!
「ふむふむ、付属のオイルを一、二滴さしてから、刃を取り付ける、と」
「いや、だからなんで、バリカンの説明書読んでんですかっ!!」
「使うの初めてだから」
「いやいやいや、バリカンなんて全っ然使う場面じゃないですから!!」
「あら、だって」
 聖子お姉さまはバリカンのアタッチメントを調節しながら、首を傾げた。
「長髪で大四経薩に入行するなんて、前例がないと思うわ」
「大四経薩ううううう?!」
「嶋子さん、鼻水出てるわよ」
「そりゃ鼻水も出ますわ」
「何か知ってるの、典子ちゃん?」
「大四経薩というのは、お姉さまのご実家の宗派最大の荒行です。達成できた僧侶にはかなりの僧階が約束されるのだとか」
 但し、あまりの荒行のため、途中で命を落とす僧侶も珍しくなく、達成者は戦後わずかに数名で、
「尼僧の達成者はまだいません」
と言うと、由美さまは
「典子ちゃん、物知りねえ」
と感心することしきりだった。
「いや〜、それほどでも」
「達成者どころか挑戦者がいないんだってばっ!!」
 悲鳴をあげるお姉さま。
「あ、じゃあ、嶋子さん、第一号ね♪」
「テメー、福井沢、コノヤロウ!! 楽観主義者の皮を被った悪魔!!」
「嶋子、なんて口汚い・・・。この子はどこまで姉に恥をかかせれば気が済むのかしら」
「お、お待ちくださいっ、お姉さま! いや、だからっ、バリカンにオイル点す手をとめてくださいって! そもそも私のような駆け出しの尼僧に伝統ある大四経薩への参加資格などありませんわ。ええ、残念ですけれど」
「実はね、もう決定済みなのよ」
「どしぇええええぇぇ〜!!」
「お姉さま、もう片方からも鼻水出てますわ」
「元々は貴女のお兄様が入行する予定だったのだけど――」
「ああ、そう言えば!」
「お兄様、一度は貴女にお寺を押し付けたことに責任を感じてらしてね、妹への罪滅ぼしだ、って意気込んでエントリーなさったのだけれど・・・でも・・・」
「また逃げたんですね!! アイツ、また逃げたんですね!!」
「恋に生きる道を選んだのよ」
「おのれえええ!!」
「嶋子、お兄様を恨んじゃダメよ」
「恨みます!! 呪い殺します!! 闇サイトでコロシ依頼します!!」
「お父様もすっかり困り果てていらしてね、私、見かねて、代わりに嶋子を入行させてはどうか、って助言してあげたら・・・」
「すんなよ!!」
「各方面に運動したわ。幸子の実家の笠原コンツェルンに頭をさげてね、御本山にも結構な額を、ね、寄進して、ね、ウフフ・・・」
「無視ですか?! アタシの意思は無視ですか?!」
「誰よりも貴女のためなのよ」
獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというしね、厳しい修行の中で己を見詰め直しなさい、と聖子さまはバリカンのスイッチをONにした。
ジジジジジ、とバリカンが震える。
「ものすごい振動だわ」
キャ、と聖子さまが声をあげた。
「お姉さまっっ!! どうか堪忍!! 堪忍してくださいっ!! なんかサイコっぽい顔つきになってます!」
 嶋子お姉さまの醜態にさすがに聖子さまも憐憫の情がわいた様子で、
「嶋子、私も鬼ではないわ。チャンスをあげましょう」
と一旦バリカンのスイッチを切った。
「ほ、本当ですか?」
「今から三十秒あげます。その間に私の心を揺さぶるような和歌が詠めたならば、今回の荒行の件、なかったことにしましょう」
 聖子さま、貴女、鬼です。三国志の曹操の息子にも似たようなエピソードがあったような気がするけれど、片や天才詩人、片やダメ学生だ。
「お題は『テクノポップ』よ」
「お姉さま! お題、難しすぎです!」
「じゃあ、『忍ぶ恋』っていうのはどうかしら」
「え〜と、し・・・静けさや・・・の、の・・・野菊の如き・・・ぶ・・・ブエノスアイレス・・・違うな・・・ぶ、ぶ、ぶ・・・」
 お姉さまは、目の前に垂れ下がった蜘蛛の糸に夢中でしがみつく。そんなカンダタに
「お姉さま、あいうえお作文じゃありません!」
 不肖の妹にできる精一杯のことといえば、こんなツッコミを送ることぐらいだ。
「え〜と、え〜と、え〜と」
 苦吟するお姉さま。
「髪、刈りやすい長さに切っておいた方がいいかしら・・・」
「いや、だから、ちょっと待ってくださいってッ!!」
「カッチカッチカッチカッチ、10秒経過です♪」
「福井沢ッ!! アンタ、面白がってんでしょッ!!」
「ご、ごめんなさい、私ったら、つい・・・」
「あと十七秒よ」
「ひええええ!!」
「聖子さま、このバリカン、ちょっと錆びてますわ」
「じゃあ、もう少しオイル点しておきましょうか」
「うおおおおっ!! え〜と・・・え〜と・・・」
 追い込まれたお姉さまは、
「夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ」
 なんと苦し紛れに万葉歌をパクった。サイテーだ。
 うっ、と聖子さまが目頭をおさえる。感動している。幸いにも盗作はバレなかったみたいである。
「見事だわ、嶋子」
「お、お姉さま! じゃ、じゃあ・・・」
「でも・・・」
と聖子さまは涙をそっと拭い、
「その程度の歌では私の心は動かせないわよ」
 聖子さま、思いっきり心動いてるじゃないですか! もう是が非でも強行するつもりなんですね! 剃髪一択なんですね! だったら残酷な希望など与えないで、ひと思いにバッサリやっちゃった方がいいのに! ひどすぎです!
 まあ、お姉さまも盗作に走ったのだし、オアイコだろう・・・。
「え〜と、ホトトギス・・・」
「あと二秒よ」
「あああああ!! すいません! すいません! すいません! ほんっと、すいません! ごめんなさい! やめてッ! 嫌だっ! イヤッ! 嫌だあああ!!」
 最後はもう和歌ではなくて、懇願だった・・・。
「聖子お姉さまッ! 無理ですっ! 本当に無理ですっ! 死んじゃいます!」
「そうね、死ぬかも知れないわね」
 聖子さまはバリカンのふたたびスイッチを入れ、
「でも――」
と五体を拘束された嶋子お姉さまの額にゆっくりとあてた。
ジジジジジジジ・・・
「いまの貴女に必要なのは命懸けで自己を磨きぬく気迫じゃないかしら」
「いや、いや、いや、あの・・・アタシ、別に信仰心とかないですし、今の自分に満足してますし、 どうせ命張るなら、恋とか起業とかショウビジネス的な方面での自己実現をですね・・・ あの、もういいですから。私の心配とか全然しなくていいですから、マジで。姉妹の縁も切っちゃっていいです。 アタシ、お姉さまの期待に添える自信もありませんし・・・ って、あれ? ちょっと、お姉さま・・・あれ?・・・あれ? なんか、この感触にはおぼえが・・ああああああっっ!! バリカン入ってます! バリカン入ってます! 入ってますっ! ジョリッと! ジョリッと入っ・・・入っ、入っちゃってますうううっっ!!
「嶋子、はしたないわよ」
 剃り初めを済ませた聖子さまが、逆モヒカンで錯乱状態の妹を嗜める。嗜めつつ、春の空のような穏やかな表情と、冬の風のような冷たい手つきで、オイルをたっぷりと染み込ませたバリカンを、妹のフワフワの巻き毛に差し入れ、抉り、また差し入れ、まずは頭頂部を剥きあげていく。
「嫌嫌嫌嫌嫌嫌ああアアア!!!」
 錯乱したまま、身をよじらせ、泣き叫ぶ月代状態のお姉さまの首根っこを、
「嶋子、往生際が悪いわよ。危ないから、じっとしてなさい」
と押さえつけ、初めてとは思えぬ手際でバリカンを走らせる聖子さま。阿鼻叫喚の修羅場である。
 由美さまはキャアキャア言いながら、凄絶なヘアーカットシーンを写メにおさめている。
聖子さまは手首のスナップも華麗に、坊主部分の開拓に熱中していらっしゃる。
「典子」
「はい」
 お姉さまのお姉さまは私にバリカンを手渡し、
「貴女もお姉さまの剃髪を手伝ってあげなさい」
「できません!」
 私はキッパリと拒絶した。
「典子・・・ありがとう・・・」
 妹の味方を得て、嶋子お姉さまの顔に生気が戻る。
「いくら、ワガママでアバズレで驕慢で浪費家で甘ったれで偽善者でエゴイストで怠け者で見栄坊で陰で聖子さまのことを『白鷺の君とか過大評価されてチョーシコイてんじゃねーよww』とか悪口言ってるお姉さまでも、私にとっては世界でただ一人の姉なんです。大切な方の御髪にバリカンをあてるくらいなら、自分が頭を丸めた方がマシです!」
「じゃあ、丸めてあげるわ」
「典子・・・嬉しいわ。一緒に尼になってくれるのね・・・持つべきは優しい妹ね。あら? なんでバリカン受け取ってるかしら? あら、怖い顔して・・・え? え? 典子? チョイト、典子さん? ちょっと、ちょっと、こっち来ないで。ちょっとォォォ?! 来ないでッ! 来ないでッ! 嘘っ!! ウソでしょおお!! 痛っ! 痛いってば!! あたたたたた!! 典子!! バリカンの刃が髪に引っかかってるうううっ!!」
 初めて触る家電製品を扱いかねて、私は無我夢中で、ただ力任せにそれで最愛の人の後頭部に押し込んだ。バチバチッ、とはじけるような髪の掘削音がした。
「典子っ! この裏切り者っ!!」
「嶋子お姉さま、後のことはご心配なさらずに、心置きなく仏門に再入門なさってください」
 俎板の上の活き魚をさばくように、心を込めて長い襟足を刈り上げて差し上げる。
バチバチッと髪の・・・お姉さまの煩悩のシンボルのはぜる感触がバリカンの振動をすり抜け、手の内に伝わってきて、キモチイイ。
私は快感なのだけれど・・・
「マジ痛いって! このド下手ッ!!」
 落髪にまみれて叫ぶお姉さま。前頭部は磯野家の長男で後頭部は磯野家の末娘状態である。
「聖子さま」
と由美さまが馴れた微笑を聖子さまに向けた。
「なにかしら、由美ちゃん?」
「私もバリカンで嶋子さんの剃髪をお手伝いしたいです」
「ダメよ」
「え?」
 聖子さまのいつにない冷ややかな返答に、由美さまの顔が強張る。
「これは私たち姉妹の問題。部外者の貴女がでしゃばるものではなくてよ。わきまえなさい」
 それと、と聖子さまは付け加えた。
「さっき撮った嶋子の写メールは全部削除してちょうだいね」
 由美さまは口惜しそうに親友の姉の指示に従った。彼女にも聖子さまの本当の寵愛の在り処がわかったらしい。
「いいもん」
などと小声で言って拗ねている。
「聖子お姉さま・・・」
と見上げる妹の涙と鼻水で堤防決壊した顔を優しくハンカチで拭ってやる聖子さま。
「安心なさい、嶋子。ちゃんと骨は拾ってあげるから」
 跪いて耳元で囁かれ、姉の愛情を確認したお姉さまは
「はい」
と頬を染め、頷いた。
 なるほど、聖子さま、好きな女の子をイジメたり、可愛がってるハムスターをつつきまわしたりする少年的なメンタリティーの持ち主のようだ。いるいる。本命の子にはわざと冷たくして、どうでもいい子に親切にして、気をひこうとするガキンチョ。まあ、わかってはいたけど・・・聖子さまほどの人物に好かれると、「出家」「剃髪」「荒行」と、ことは宗門史レベルになる。迷惑な愛情表現だ。好かれなくて良かった・・・。

 聖子さまがふたたびバリカンを手にする。
 嶋子お姉さまは目を閉じ、最愛の姉に髪を捧げる。
 ゆっくり、ゆっくり、丁寧に聖子さまはバリカンを動かして、左サイド、右サイド、と順々に波打つ髪を刈って、妹を尼僧へと変えていく。
 お姉さまは恍惚と頭を委ね、聖子さまは優しくそれに応える。
 床に腹這いになって断髪されるお姉さまと、跪き甲斐甲斐しくバリカンを走らせる聖子さま。なんだか小犬とトリマーみたいだった。
「お姉さま」
「なあに、嶋子」
「妹の運命を弄ぶのって、どんなお気持ちですか?」
「姉に運命を弄ばれるのは、どんな気持ちなのかしら?」
と聖子さまはまたゆっくり、嶋子お姉さまの髪にバリカンを差し入れ、二人、ふふふ、と優雅に含み笑う。わからない世界だ。わからないけれど、この両人の間には、きっと私たちなどには立ち入ることのできない両人だけの世界があるのだろう。
ジョリリ、とバリカンが鳴る。
 バサリと髪が剥がれ、床に落ちる。
 お姉さまは美しい髪の草原の上、うつ伏している。
 久しぶりに見たお姉さまの襟足は目に痛いほど白く清げだった。

 たっぷりと時間をかけて、お姉さまの髪はきれいに落とされた。
「さあ、嶋子の門出を祝って、パレードよ!」
との聖子さまの音頭で、坊主頭のお姉さまは亀甲縛りのまま、三人がかりで担ぎ上げられ、神輿のように街中を引き回された。イジけていた由美さまも機嫌を直し、
「アラ、エッサッサ〜」
とノリノリで親友を辱めていた。
「ぬおお〜! お、お、お、お、お姉さまあああ〜、ちょ、ちょちょ、ちょ、チョー恥ずかしいですふううう〜」
 嶋子お姉さまは群集たちが向ける地獄の業火のように熱い視線、あるいは永久凍土のような冷ややかな視線に愧死せんばかり。
「ナニ言ってるの、行が終われば、貴女は名僧の仲間入りするのよ。一休禅師のような型破りなエピソードの一つ二つがなくっちゃ詰まらないわ」
「むしろ黒歴史になりまふううぅぅ〜」
「さあ、駅前をもう一周よ」
「ぬふぉおお〜」
「聖子さま! 嶋子さん、おもらししてますっ!!」
 お姉さまの失禁の滴を垂らしながら、パレードは幕となった。

 桜、桜、桜・・・。
 頭上を見上げ、私はうっとりとため息をつく。
 なんて美しいのだろう。
 満開の桜の木々の下、嶋子お姉さまのことを思った。

 お姉さまが行に入って、もう一週間が経とうとしている。
 入行の前日、お姉さまを駅のプラットホームで見送った。聖子さまや由美さまも一緒だった。
 嶋子お姉さまは剃髪した頭に袈裟姿。
「行ってくるわね」
と幽かに笑って言った。
笑顔の奥に静かな諦念があった。と同時に静かな闘志もあった。運命を受け容れつつ、前に進んで行こうとする勇気を感じた。
「お姉さま、どうかご無事で」
「ええ」
 お姉さまはまた微笑した。覚悟をきめた人間の顔ってなんて美しいのだろう。
 私はただ木偶の坊のように立ち尽くして、「ご無事で」「頑張って下さい」と紋切り型の言葉を繰り返すだけで、ああ、言葉ってどうしてこんなに不便なんだろう。
「嶋子、生きて戻ってらっしゃい」
と一緒に見送る聖子さまは妹に微笑みかける。
「もし貴女が死ぬようなことがあれば――」
 ふっと真顔になり、
「私も死ぬから」
 そう言って、ふたたび悪戯っぽく微笑んだ。
「だから必ず生きて帰ってらっしゃい」
 笑ってはいるが、私にはわかった。聖子さまは本気だとわかった。
「はい、必ず行をやり遂げて帰ってきます」
 お姉さまは美しく微笑したまま、うなずいた。
「お姉さま!」
 私は思わず叫んでいた。
「わ、私も、お姉さまがもしものことがあったなら、私も――」
 お姉さまは最後まで言わせてはくれなかった。スッと人差し指で妹の口を封じて、
「大丈夫」
と破顔した。
「大丈夫よ、典子。私はきっと生きて帰ってくるわ」
「お姉さま・・・」
「嶋子さん、もし嶋子さんにもしものことがあれば、私も死――」
「貴様は私の生死に関わらず死ね」
 列車のドアが閉まる。
 嶋子お姉さまと私たちの世界が遮断される。
「お姉さま!」
 あと数秒で、列車はお姉さまを遠い場所へ、私の知らない世界へ連れ去ってしまう。
「ごきげんよう!」
 私は懸命にお姉さまに呼びかける。あの頃みたいに。私の声が、言葉が、想いが、届くだろうか? 届いて欲しい。届いて!
 ガラスの向こう、お姉さまの唇が動いた。
 ゴ・キ・ゲ・ン・ヨ・ウ
と。
 列車は無情に走り出す。
 私はプラットホームで立ち尽くす。
 参ったな、って涙を拭きながら思った。
 そろそろ姉離れしなくては・・・。嶋子お姉さまに余計な心配をかけてしまう。

 桜、桜、桜、桜、桜・・・

 夜桜に囲まれた現実世界に引き戻される。
 今夜は八頭大学の宗教学部の花見大会だ。
 ちょっと飲みすぎてしまった。頭がクラクラする。
 姫地恭子先輩は彼氏の遠野先輩同伴での御来席。
 いいな〜。私も彼氏欲しいなあ〜、なんて遠野先輩にモーションをかけたりして、道化を演じていたら、
「典子、アンタの『お姉さま』は来てないの?」
姫地先輩に訊かれた。
「あの人も色々大変でして。実はですね、いま――」
「後できく」
 そっちから質問しておいて・・・相変わらず自分勝手な人だ。
 しかも、姫地先輩、「桜の木の下には死体が埋まっているby梶井基次郎」という話題になって、
「来栖七海の死体も埋まってたりね」
と冗談を飛ばす佐藤彩乃先輩に便乗して、
「ついでに藤道嶋子も」
なんて勝手にお姉さまを殺してるし・・・私としては黙っていられるはずもない。皆、何も知らないくせに!
「お姉さまは死んでませ〜ん!」
と猛抗議する。
「だから〜、お姉さまは今、大変なんです。実は――」
「あ、流れ星!」
 また話を打ち切られてしまう。
 皆と一緒に空を振り仰いだが、流れ星はもう消えていた。
やれやれ。
 満天の星空の下、ため息。
 お姉さまは今どうしているんだろう。私が今、見上げている星・・・ベテルギウス、リゲル、シリウス、アルデバラン・・・をお姉さまも見ているのだろうか
 やっぱりお姉さまのこと、考えてしまう。
 今はそれでいい。そう思った。
 私は心の中そっと、姉離れを少しだけ先送りした。
 そして、どうかお姉さまが無事、行を終えられますように、と消えた流れ星に祈った。





(了)



    あとがき

「姫百合」の続編です。
いずれ続きを書きたかったんです。
実は三分の二以上は二年以上前に書いてました。
元々は聖子さま主演の「茨城の森」というストーリーを書いてたんですが(ちょうどそのタイミングで「聖子の出家話を」という要望を頂き、偶然の一致に驚きました)、聖子さまが一人で延々いっちゃってる独りよがりなストーリーになってしまい、「なんだかなあ」と破棄。
で、この話を書きはじめました。楽しく書いてたんですが、ちょっと悪ノリしすぎました(汗)それに剃髪までの過程が長すぎるので、二年お蔵入りに・・・。
ただ、個人的にかなり好きなお話なので、やっぱり最後まで書こう、と引っ張り出してきたはいいが、今度は「どう〆るか」で悩みました。
結果的に微妙なストーリーになってしまったような気がします(汗)
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました♪




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