あなざー・さいど・おぶ・女弁慶〜水魚の交わり〜 |
(1) 有馬玄徳 この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ―― 誰の言葉だったかな、と考えて、すぐ、誰でもいいや、と打ち消した。 大切なのは今、目の前に立ちはだかっている巨大な萱葺きの山門を入ったが最後、ボクの平凡でもそれなりに快適だった青春時代は終わるってことだ。 厳しいことで有名な僧侶の修行道場。 その山門の前で立ちすくんでいたら、背後でタクシーがとまった。 タクシーから降車した女性にボクは目を丸くした。 「亮子先輩!」 大学時代の先輩、島津亮子だった。 「ああ!」 背中に届く古風な長い黒髪を後ろでひとつに束ね、僧衣姿の亮子先輩も思わぬ再会に驚いた様子で、 「有馬君」 ワンテンポおいて、年上の余裕を取り戻し、 「ボウズ、似合ってるわよ」 と昨日剃った(剃らされた)ばかりのボクの坊主頭に掌をおいた。 その感触がとても甘酸っぱく、ボクの心は過去にタイムスリップする。 亮子先輩はボクの「初めて」の相手だった。 先輩との関係は散文的だった。 何の志もなく実家が寺というだけで仏教大学に進学したボクは、支倉という教授にえらく気に入られ、教授の手伝いみたいなことをさせられているうちに、大学の研究室に出入りするようになった。 研究室には常に大学院の先輩たちが詰めていて、その中にスレンダーで目の大きな女の人もいた。それが亮子先輩だった。 亮子先輩は研究室であまり目立たない学生だった。化粧も薄く、地味なファッションで、器量は十人並み程度、まあ、ブスではない、といったぐらいのレベルだったけれど、小首を傾げながら資料と睨めっこしている姿は、そこはかとないスマートな色香があった。 目尻と口元にホクロがあって、それがボクがその頃読んでいた漫画のキャラと同じで、ボクは心の中でこっそり彼女のことを「大野さん」と呼んでいた。 ある日、うっかり、 「大野さん」 と声をかけてしまって、あわてた。 案の定、亮子先輩は大きな目をさらに大きく見開いて、まじまじとボクを見つめ、 「私、島津だけど」 とおそるおそる訂正した。気の弱い人なので、間違えられた自分の方が悪いかのような応対をする。 「すいません」 とボクは笑った。笑顔はひきつっていたと思う。 「知り合いに似てたもので・・・」 「彼女?」 「いえ・・・」 流石に漫画のキャラクターとは言えなかったが、この小さな失敗が亮子先輩の関心をひき、お互いの名前の話になった。 「有馬君て玄徳って名前だったよね」 「ハルノリって読むんですよ」 「三国志の劉備玄徳と同じ名前ね」 「親父が三国志が好きでして」 「奇遇ね」 と亮子先輩は微笑した。あまり綺麗ではない歯並びが露になる。 「私も祖父が三国志の大ファンでね、亮子の、亮、は諸葛孔明からとったんだって。諸葛亮の、亮」 劉備と孔明の名前をそれぞれ貰ってるなんて、なんだか私たちって縁があるのかもね、と先輩はこの符号をおかしがっていた。 亮子先輩の口からポロリと出た「縁」という言葉がボクの心にひっかかった。先輩をグッと身近に感じた。 その晩はじめて亮子先輩をオカズに抜いた。 この名前事件をきっかけに亮子先輩と親しくなった。 卒論のアドバイスを貰ったり、大学院への進学について相談したり、場所はもっぱら大学構内のカフェテリアだった。 亮子先輩はボクの下心も知らず、丁寧に助言してくれた。「弟みたい」と研究室の仲間に話していると知ったときは、かなり凹んだけど。 亮子先輩のことも色々きいた。 ボクと同じで実家が関西地方の小さな寺であること。 もっとも彼女のほうはお兄さんが寺を継ぐことが決まっていて、別に後継の心配もないこと。 純粋に仏教の勉強がしたくて、仏教大に入り、卒論が支倉教授の目にとまり、すすめられるまま大学院に進んだこと。 研究者という仕事は彼女の天職のようにボクには思えた。 不器用で世間知らずで対人関係があまり得意ではない亮子先輩は、キャリアウーマンになってバリバリと仕事を切り回すより、象牙の塔で書物に埋もれながら、好きな研究に没頭している方が性に合っていると思った。実際、彼女は幸せそうだった。何処の誰かは知らないけれど甲斐性のある彼氏もいるらしかったし。 亮子先輩が実は僧侶の資格をもっていると聞いたときは驚いた。 「ペーパー僧侶よ」 と先輩は照れ臭そうに笑っていた。形式的な得度をして、資格をとったという。尼僧名は「妙亮」というそうだ。 支倉教授は宗門の高名な僧侶でもある。その支倉教授の愛弟子である亮子先輩が僧侶の資格をとった(とらされた)のも自然な流れなのだろう。 間もなく大学で行われた宗門関係の記念式典で、先輩の袈裟姿をはじめて拝ませてもらった。 ボランティアで式典の運営のスタッフをしていた先輩は、慣れない仕事にかなりオロオロしていて、その段取りの悪さに苛立った来賓のひとりから、とうとう、大丈夫なのか、しっかりしろ!と叱咤される始末だった。ボクは見なかったことにした。 亮子先輩を抱いたのはその夜だった。 式典の後、先輩の方から「飲まない?」とメールがあり、ふたりで居酒屋で焼酎を飲んだ。 「見たでしょう?」 と先輩は言った。 「何をですか?」 「私が怒られてるところ」 「見ちゃいました〜」 と冗談ぽくお茶を濁そうとした。先輩もボクの気遣いに乗って、 「見られたか〜」 とおどけた調子で笑ったけれど、空元気で、すぐに表情を曇らせグラスに目を落とした。 気まずい沈黙があった。 「有馬君さ」 沈黙を破ったのは亮子先輩だった。 「本気で大学院行く気ないでしょう?」 図星をつかれボクは沈黙を続けた。 大学院にすすんで勉強したい、というのは方便だった。 このまま卒業したら自動的に僧侶への道を歩まざるを得ない。仏教大はツブシがきかないから、いい就職も難しい。悩んだ末の苦肉の策が「大学院」というモラトリアムの延長だった。なんだか研究室の空気はお気楽そうだったし、それに・・・亮子先輩と一緒にいられる。 そんなボクの心を読んだわけではないだろうが、 「甘いよ〜、有馬君」 と先輩はグラスをなめた。 「甘いッスかね」 「甘ちゃんだね」 私は尼さんだけど、と先輩はギャグセンスのなさを如何なく発揮してくれ、 「甘ちゃんと尼さん、やっぱり私たちって縁があるのかもね」 それは違うだろ、と思った。勿論黙っていた。 終電の時間が過ぎてもグラスを重ねた。どちらの口からも「帰ろうか」という言葉は出なかった。 そのままホテルに入った。「流れ」ってやつだ。 「男になったんだなあ・・・」 どうしても実感がわかずに口に出してみた。 先輩がシャワーを浴びる音を聞きながら、ベッドの中で初体験の思い出を反芻した。 歯磨き粉の匂い。ビックリするほど柔らかな肌。挿入に手こずったときの先輩のちょっとイラついた顔。ずっと頭の中をループしていたスパニッシュギターのアルペジオ。シーツを這っていた長い黒髪。少しだけ描いた先輩との将来設計・・・。 ことが終わった後、先輩は、 「ありがとう」 と言った。なんで「ありがとう」なのかはよくわからなかった。 先輩はシャワールームで神経質なほど、シャカシャカ歯を磨いていた。 後で聞いたら、その頃、先輩は彼氏とうまくいっていなかったらしい。 先輩は何故か彼氏のことを他の誰にも絶対話そうとしなかったが、たぶんそうだよ、と彼女の研究室の仲間が教えてくれた。 先輩と彼氏がその後別れたかどうかは知らない。 あの夜を境にボクが先輩と距離を置くようになったから。 研究室にもなるべく行かないようにした。先輩の方からも何の音沙汰もなかった。 一年後、ボクは大学を卒業し、寺の後継者として、なし崩し的に僧侶の道に踏み入った。 僧侶となるからには修行をせねばならず、今、こうして修業道場の門前に突っ立っている。 そして、昔の想い人と再会した。 「亮子先輩、どうしてこんなところに?」 と訊くと 「修行の手伝いよ」 亮子先輩もこわばった表情をゆるめた。 話を聞くと、「講師」として、修行僧たちに宗門僧侶必須の「馳経」を教えるという大役を仰せつかったのだそうだ。 「支倉教授のご推薦でね」 確かに「馳経」は亮子先輩の研究分野だが、 「大丈夫ッスか?」 と余計な世話を焼いてしまうほど、島津先輩には不向きな役目だ。 現に 「失礼ね」 と言いつつも、先輩はかなり緊張している。研究室から「現場」への出向は本人も不本意だったに違いない。 講師陣は前日から道場に詰める予定なのだけれど、 「どうしても書きあげとかなきゃなんない論文があって」 当日の参加になったという。 「亮子先輩が講師の一人だなんてマジでラッキーっす」 「そう?」 「先輩の講義中は睡眠とれる」 「おいおい」 軽口を交わして、お互い、緊張もほぐれる。 ひとりの尼僧がボクたちを横目で見ながら、道場の門をくぐっていく。剃髪しているから、年齢はわからないが、たぶん亮子先輩より年上。あんまり美人じゃない。性格悪そう。こんな修行僧を相手にしなくてはならない先輩も大変だ。 「先輩は頭剃らなくていいんスか?」 尼僧を見送ってボクがからかうと、 「私は別に修行するわけじゃないから」 ロン毛の尼僧は笑って、手を振った。 このタイミングで颪が吹いて、亮子先輩の鬢をバッと宙に跳ね上げた。 先輩は慣れた様子で髪をなおすと、 「じゃあ、また・・・今度は道場でね」 と会話を切りあげ、歩き出した。 地獄に仏。希望の光が見えた。もしかしたら、と甘い夢想が浮かぶ。亮子先輩と数ヶ月、同じ屋根の下・・・。 また颪。先輩の黒髪が舞う。 乱れ髪を気にしながら、先輩は門の中に消えていった。 それがボクが見た島津亮子先輩の最後の有髪姿だった。 (2)榊容海 辛かった修行も今日で満行だ。 これでアタシたちも晴れて無罪放免、シャバに戻れる。 俗世に戻ったら、真っ先にしなくてはならないこと・・・それは・・・ 差し歯を入れる。 おのれ、と鹿爪らしい顔で道場生たちに最後の訓示を垂れている道場監督の柳原道春を睨みつける。 このサディスト道場監に些細なミスを咎められ、足蹴にされて、転んだ拍子に前歯を折った。 普通なら傷害罪で臭い飯を食べなきゃならないはずの行為のはずなのだが、ここでは俗世の常識は通用しない。逆に道春から「歯っ欠け坊主」などという仇名を頂戴し、二重の屈辱を受けた。許すまじ・・・。 やめよう。 今は恨みも憎しみも忘れ、この人生最大の達成感と解放感に身を委ねよう。 「無事修行をやり遂げたことを誇りに思ってください」 ホラ、講師の島津さんもこう言ってるし。っていうか、島津さん、泣いてるよ。相変わらず熱い人だなあ。 島津さんは目に涙をいっぱい溜め、声を枯らしながら、我々に訴えかける。 「これまでの日々で培ったことを糧にして、今後もしっかりやりなさい」 島津さんの言葉に泣き出す修行僧もいる。 例えば、隣に座っている、有馬玄徳。・・・周囲がドン引きするほど号泣している。 有馬は島津さんに散々可愛がってもらったからなあ。 ちなみにここで「可愛がられる」というのは、シゴかれる、とか、お灸を据えられる、といった意味である。 柳原道春と肩を並べる鬼軍曹ぶりで、道場生たちから恐れられていた講師の島津妙亮師であるが、とりわけこの有馬、劣等生ゆえに四六時中、叱責されていた。 「何回教えればわかるのッ!」 と頭をはたかれるのも、一度や二度ではなかった。 「亮子先輩、キャラ変わった・・・」 と有馬は嘆いていた。嘆きつつ、興奮していた。Mだな、ドM。同類はすぐわかるよ。 アタシと道春の天敵関係のハイライトが「前歯事件」だとすれば、島津さんと有馬のそれは「お亀様事件」だろう。 有馬がここでは語れないような情けない不祥事を起こし、島津さんから一昼夜、ぶっ続けで正座を命ぜられた、あの一件である。 結果、腰をぶっ壊した有馬を気の毒がるむきもあったが、アタシはあれは島津さんの優しさだと思う。 もし正面切って罪を問われれば、有馬の道場追放は必至、これまで頑張ってきたことが全てオジャンになる。「連帯責任」で道場生全員に罰を課そう、と主張する講師もいたらしいが、それだと有馬が仲間から恨まれ、気まずい思いをしなくてはならない。だから有馬一人に責任を取らせ、事を収めた島津さんの処置は何より有馬自身を救ったのだ。 昨夜、満行を前にして有馬がポツリと言った。 「男にしてもらった上に漢にしてもらった」 よくわからないが、たぶん名言なんだろう。二人の間に過去、何があったのかは知らない。そりゃあ、多少は興味はあるけど・・・。 まあ、島津さん、怖かったけどね。 「もう一度!」 「もう一度!」 って同じ経文を気が遠くなるほど、繰り返し読誦させられた。 アタシは朦朧とした意識で、「もう一度!」と声を張り上げる島津さんの顔をチラリと盗み見た。一瞬、目が合った・・・ような気がした。 あの時の島津さんの目の奥には暗い光があった。その光は道春と通ずるものがあった。はからずも自らが手にした権力にウットリしている・・・とても淫らな・・・嗜虐的で・・・悪魔的で・・・う〜ん、気のせいだろう・・・たぶん・・・。 別に島津さんに恨みはない。お陰様であの人から叩き込まれた「馳経」は、将来、アタシが認知症になったとしても、けして忘れないだろう。 島津さんは怖がられていたけれど、嫌われ者の道春と違って、道場生からは人気があった。 道春は陰で酒を飲んだり、肉食ったり、自室には冷暖房が完備されているという噂の俗物だったが、島津さんはそういうことは一切なく、アタシたちと同じ物を食べ、どころかアタシたちより早く起きて、遅く寝ていた。あんな華奢な身体でよくもつなあ、と感心したものだ。 講師陣の中で唯一人の女性だから修行尼僧の身体のこともよくわかっていて、それとなく気遣ってくれた。だから頼りにされていた。 また、男僧が「島津さん、シャバで待ってる人がいるんでしょう?」などと冗談を言うと、「いないわよ〜」とはにかんだりして、普段の鬼軍曹とそうした女性の部分とのギャップが男僧たちを色めき立たせたものだ。 ぶっちゃけ島津さんの第一印象は最悪だった。 はじめて彼女を見たのは初日、道場の山門の前だった。有馬としゃべっていた。 聞こえてきた話の内容から、彼女が道場の講師であることがわかった。 いけすかないオンナだ、と思った。 理由は三つ。 まず、このオンナ、揉まれたコトねーな、ってことがすぐわかった。 アタシはこれでも結構苦労してきたつもりだ。小ちゃい頃は家が貧しかったし、学生時代はガムシャラに勉強した。その甲斐あって大手企業に入社できた。仕事は死ぬほどきつかったし、ミジメな思いもたっぷりした。汚いこともしてきた。ムカつく同僚(♂)、ツブしたりとかね。金も仕事も車も男も自力で手に入れた。 でも、たった一度の失敗でリストラ・・・。手に入れた物、全て失って、母の尼寺を継ぐことになった。 このアタシがこんな苦労知らずの年下のお嬢に教えを乞わねばならないのか、と我が身の転落っぷりが情けなかった。 それと、有馬ら男にはわかんないんだろうけど、女のアタシにはピンときた。 意外に食えないオンナだってこと。 裏で絶対悪いことしてるよ、コイツ・・・みたいな。 何より許せなかったのは、彼女の長い髪だった。 ――道場生は一切の例外なく剃髪すること と道場規則はサディスティックに謳っている。 だからアタシも前日、泣く泣くクマみたいなオヤジのいる理髪店で、ロン毛を刈り落としてきた。生まれて初めて坊主頭になった。これから一緒に苦楽を共にする連中だって同じはず。好き好んで坊主頭になる物好きはいない。いたら、ごめん。 とにかく島津妙亮(と呼び捨てさせてもらうけど)のロングヘアーはアタシら道場生へのあてつけみたく思えた。 私は特別なのよ、アナタたちとは違うのよ、っていう「治外法権」をひけらかすかのような、鼻持ちならない傲慢さがプンプン匂った。傲慢が言い過ぎなら、無神経とでも言うべきか、とにかく特に尼僧たちの反感は間違いなく買うだろう、と島津妙亮の暗い前途に心中、乾杯した。 アタシが道場の門をくぐってから、行の開始が告げられるまで30分ぐらいあった。 後ろで若い尼僧がふたりしゃべっている。聞くとはなしに聞いていた。 「ねえ、見た?」 「外のトイレの前の、アレ?」 「そうそう!」 「見た見た!」 「誰の?」 「わかんないよ〜」 「メッチャ怖かったよね〜」 「もう、帰りたいよ〜」 何の話だろう、意味がわからない。 修行開始の鐘が鳴り、道場生たちが本堂に着座する。 柳原道春というヤクザみたいな道場監督が散々、アタシらを脅すような口上を並べ立てた後、講師連の紹介にうつった。 キチンと剃髪した講師たちが次々と紹介されていく。 アタシは無意識のうちに門前で見かけたあの女を探していた。 いない。 あれ? もしかして、アタシの勘違い? あの人、講師じゃなくて、ただのどっかの寺のお使いの人だったとか? 釈然とせぬまま、足の痺れと格闘していたら、 「次は『馳経』の講義をお願いしていただく島津妙亮師。今回唯一人の女性の講師だ」 剃髪した青い頭を深々と垂れる若い尼僧の顔をよく見て、アタシは肝を潰した。 目尻と口元のホクロが動かぬ証拠。さっきの門前の尼さんだった。あのロングヘアーをきれいさっぱり剃り落として、坊主頭になっていた。頭だけでなく顔つきまで変わっている。なんていうか、同性のアタシが見惚れるくらい、凛々しい尼僧ぶりになっていた。 たった30分の間に何があったのかは知らない。 アタシは思わず唸っていた。 以後の僧侶版「ご○せん」的出来事は改めて語る必要もないだろう。 満行の儀式の後、女鬼軍曹は道場生たちに取り囲まれていた。胴上げ・・・は流石になかったけど、皆・・・島津さんも周りの子たちも泣いていた。アタシもその輪に入りたかったけれど、なんとなくやめておいた。泣きたくないしね・・・。 意外にも島津さんの周囲に有馬の姿はなかった。少し離れたところで「天敵」に別離の眼差しを送っている。 島津さんが有馬の視線に気付いた。そして、ニッコリ微笑んだ。アタシは島津さんが道場内で有馬に笑いかけたところを初めて目にした。それにしても島津さん、歯並び悪いなあ。 有馬も笑った。 ま、大団円ってトコですかねえ。 島津さん、ご苦労さん。シャバに帰ったら、やっぱ件の彼氏さんに会いにいくのかな? さて、アタシもこれで坊主頭とはオサラバ! ゆっくり髪でも伸ばすとするか。アディオス! 付記 その後、本山で行われる御輿担ぎの儀の初の尼僧参加者となったアタシの許に、島津さんから激励の葉書が届いた。律儀な人だ。 葉書には島津さんの驚くべき近況も書かれていたが、そのことについてはまた別の機会に譲ろう。 アタシも忙しい。これから御輿担ぎに備え、剃髪しに行かなきゃなんないから。またボウズだよ〜、トホホ・・・。 (3)支倉礼次郎 久しぶりに会った亮子は以前とは別人のようだった。 無論、頭を丸めたせいもあるが、それだけではない。 表情は自信に満ち溢れ、つい数ヶ月前にはあった童臭はきれいになくなっていた。 人を教え導くべき、教師、僧侶である私だったが教育について、大切なことを失念していた。それは、 教える側もまた成長する という事実だ。 亮子と再会するまでは戦々恐々としていた。 私は彼女を裏切ったのだから。 しかし、詰るなら詰るがいい、と腹を括った。どんな罵詈雑言も恨み言も甘受しよう。反面、告白せずばなるまい、尼僧姿の亮子を抱く想像をして、仄暗く興奮していた。 しかし目の前の亮子、いや、尼僧妙亮はそうした私を全身で拒絶していた。 「お疲れさま」 と私は坊主頭の亮子に媚びるように無理に笑顔をつくり、コーヒーをすすめた。 「いいえ」 と亮子は短く答えた。コーヒーに手をつけず、じっと私を見た。まだ見慣れぬ寒々とした剃髪頭が目に痛く、 「痩せたんじゃないか?」 と私は視線を遠くに投げた。 投げた視線の先に日めくりのカレンダー。亮子がいつもめくってくれていた。亮子がいなくなってから、ずっとめくってくれる者がいない。気の利かない学生ばかりだ。だから、カレンダーの日付は亮子と会った最後の日のままだ。 今回の柳原道春のところの講師に亮子を推薦したのには、訳がある。 宗門における私の示威行為、平たく言えば、砂山の取り合い、だ。たかが一道場とはいえ、私の大学とは深い縁のある処、おろそかにはできない。 ライバルの財前に先を越される前に、と講師として亮子をねじ込んだ。 亮子にはそういった政治的な感覚は無いに等しい。けれど生憎、他の適当と思える人材はそれぞれ事情があって都合がつかず、結局、彼女しかいなかった。亮子は優秀な教え子だし、何より四年越しの関係を続けてきた女だ。悪いようにはなるまい、と彼女に白羽の矢を立てた。 嫌がる亮子をなんとか説得して、講師を引き受けさせた。 「頭、剃るの?」 亮子は一番の懸案事項を訊ねた。 「大丈夫だよ」 と私は請け負った。 「講師に剃髪の義務はないから」 そっと彼女の髪に唇をあてた。彼女は安堵した様子だった。 亮子を発見したのは、旅先でフラリと入った何の変哲もない古本屋で貴重な初版本を見つけたような幸運を感じた。 他人から見れば、パッとしない地味な女だが、なかなかどうして、素晴らしい逸材だ。この四年間、あらゆる体位を試してみた。アブノーマルなプレイすら要求した。亮子は悉くそれに応え、私が望む以上の満足を与えてくれた。老いらくの恋と笑わば笑うがいい。 遍歴の果て、最終的に行き着いたのは、騎乗位だった。お世辞にも豊満とはいえない乳房を揺らし、長い髪を振り乱して、私の上で荒れ狂う亮子に、私は精根尽き果て、遠のく意識の中、いつもオペラ「カルメン」のフィナーレが脳裏でリフレインしていた。 亮子が出発する最後の夜、私が市内に借りているマンションで逢瀬を愉しんだ。その夜も騎乗位だった。 本来なら講師をつとめる者は、この日から道場に詰めなければならなかったのだが、我が愛人は論文を口実に猶予をもらっていた。多忙な私と過ごす時間をひねり出すためだった。 情事の前後、亮子は歯を念入りに磨いていた。いつものことだ。随分むかし、焼肉を食べた後、彼女の口臭を指摘したら、それ以来、常に歯ブラシを持ち歩き、ほとんど神経症的なまでに歯を磨くのが習慣になっていた。 「行きたくない」 とベッドの中で亮子は口を尖らせ、拗ねた。 「大丈夫」 と私は何十回目かの「大丈夫」を繰り返した。いつの間にか無意識にテレビのスイッチを入れていた。メディアジャンキーの悲しい習性だ。 「数ヶ月の辛抱だ。適当にやればいいさ」 と長い髪を撫でると、 「適当に?」 亮子は口を尖らせたまま、私の肩に頭を乗せた。 ブラウン管の中、深夜バラエティが放送されている。 山澤という無名の芸人がゲームに挑戦し、失敗したら丸刈りの罰を受ける、という低俗な内容だった。 「くだらないね」 「そうね」 と同意しながらも、亮子は山澤の運命が気になるらしく、私にチャンネルを変えることを許さなかった。山澤がゲームに成功しそうになると、露骨に失望した顔をした。 「教授」 「なんだい?」 「出立する前に懺悔しておきますね」 「懺悔? 何を?」 どうせ、私の携帯電話の着信履歴を盗みみた、といったような他愛ない悪事を予想していた私にとって亮子の告白は後頭部を強打されたような衝撃だった。 「私、有馬君と寝たんですよ」 「あの小僧とか?」 私は懸命にポーカーフェイスを保とうと努力した。 「いつ?」 「去年の・・・ホラ、教授が別れ話を・・・」 「ああ」 あの頃、私は亮子との「不適切な関係」を清算しようと決心していた。しかし、やはり思い切れず、こうしてずるずると亮子との密会を続けている。 「私、さみしくって・・・つい・・・」 「有馬の身体はどうだったね? よかったかい?」 下卑たことを言ってしまって、後悔した。若い有馬玄徳に対する羨望があったのだろう。 「有馬君は・・・」 と亮子は何かを言いかけたが、口をつぐんだ。 そんな会話を交わしているうちに、ブラウン管では山澤の罰ゲームが決定した。 やめろ! やめろ! と抵抗する哀れな山澤を屈強な男たちが数人がかりで押さえつけ 、頭にバリカンを押し当てる。 亮子は 「かわいそう」 と口でこそ同情しているが、頭を刈られる山澤の不様な姿がおかしくてたまらないらしく、クックッと底意地悪く笑っていた。 亮子が坊主頭にされたのは、その翌日だった。 道場監督の柳原道春からの急な電話で、大事な教授会を抜け出し、受話器をとった。 「どうかしたかね」 「支倉先生、困りますよ」 柳原道春はこの男の癖でいきなり先制攻撃をかけてきた。 「困るって、何が?」 「貴方が講師に推薦した島津妙亮尼のことです」 「島津君がどうかしたのかね?」 「今、待ってもらっているんですがね、お引取り願おうかと思ってます」 「何故?」 狼狽する私に受話器の向こうから意外な答えが返ってきた。 「有髪で当道場に来られたんですよ」 「有髪?」 「ええ」 「彼女は講師だろう? 剃髪の義務は修行僧尼だけのはずだ」 「規定ではそうですが、講師の方は皆さん、剃髪していらっしゃってます。暗黙の了解なんです」 やんぬるかな。私は唇を噛んだ。実情をしっかりと把握しておくべきだった。 「彼女は女性だし、大目に見てやってくれないか」 愛人に丸坊主になられてはかなわない。それに私は、剃髪せずとも大丈夫だ、といって、彼女を説き伏せたのだ。 「そうはいきませんよ。今までだって女性の講師にも剃髪していただいてるんですから」 道春は頑固だった。流石に宗門でもきこえた荒法師だ。 「当道場の講師を勤められるのなら、当道場のしきたりに従っていただかないと」 「そこを何とか」 「譲れませんね。島津さんが貴方の名前を出して、剃髪を渋るものですから、一応ご連絡させてもらいました」 「どうにかならないかね」 「無理です」 押し問答が五分ほど続いたが、道春の「どうしてもお嫌ならお帰り願います」という最後通牒に、私は亮子の髪と自らの栄達を天秤にかけざるを得なかった。 「わかった。島津君には聞き分けるように言ってくれるかい。あの子も尼僧の端くれだからね。今更剃髪ぐらいで・・・」 「剃髪か下山か、決めるのは島津さんですよ」 「島津に伝えてくれ」 私は呻くように言った。 「推薦者の私の顔に泥を塗ってくれるな、もし・・・講師の役目を降りるような真似をしたら、研究室に君の居場所はない・・・と」 受話器を置くと、激しい脱力感に襲われた。 教授会に戻る気力もなく、私はしばらくキャンパス内を徘徊した。 再会した亮子の剃髪姿は、無言で私の罪を責めているように思われた。 あの長い黒髪は失われ、剥き出しになった地肌に清清しさと艶かしさが同居している。 「いずれ伸びるさ」 という私の慰めに亮子は 「そうですね」 と応じた。髪など伸びようが伸びまいが別にどうでもいい、といったトーンだった。いっそ憎悪をぶつけてくれた方が、まだ救われた。 「研究室には、いつ復帰してくれる?」 「もう戻りません」 亮子はキッパリと返答した。 「私を恨んでいるのかね?」 「いえ」 これもキッパリした返事だった。 「いい経験をさせていただいて感謝しています」 皮肉ではなく本心から言っていることはわかった。そんな亮子を私は引き止められなかった。かろうじて、 「これからどうするんだい?」 とだけ訊いた。 「まだ決めていません」 亮子は初めて破顔した。美しい顔だ、と思った。もう私の手の届かないところに彼女はいる。 「ただ、世間に出たいと思っています」 「幸運を祈っているよ」 そう言うより他ない。 「お世話になりました」 と亮子は一礼して立ち上がった。そしてカレンダーの前に行くと、古い日付のカレンダーを一枚一枚、破り捨てていった。私に対する最後の奉仕のつもりなのだろう。 ビリ、ビリ、とカレンダーの破れる音を聞く。 何か儀式めいたものを感じる。 私は目を閉じた。 明後日、妻と参列する或る結婚式でのスピーチを考えなくてはならない。 カレンダーのはがれる音から逃れるように、スピーチの内容を考えた。 (4)柳原道春 剃髪の準備は万端整った。 講師の島津妙亮は土間におかれたパイプ椅子に腰をおろしてる。薄汚れた染みだらけの刈り布を首から垂らしている。まったく世話焼かせやがって、コノヤロウ! 支倉の狸爺に裏切られた妙亮はすでに覚悟をきめていた様子だったが、侍僧が奥から持ってきたバリカンを目にするなり、顔色を変えた。この女の中で「剃髪」ってもんが、にわかにリアリティを帯びて迫ってきた瞬間だったに違いない。 いいねえ。そうこなくっちゃ。ヤキの入れ甲斐があるってもんだ。 俺の仕事は 修行僧を イジメて イジメて イジメ抜くこと だ。 サディスト道場監督と言うヤツもいるらしいが、言わせておけばいい。まあ、本当だしな。 桜もイジメなきゃ、いい花を咲かせない。 修行僧に限らず新米ってぇのはイジメられてなんぼ、叩かれてなんぼだ。人間、揉まれて磨かれる。それが俺の人生哲学だ。 修行僧の中には、俺が酒や肉を口にしていることを批判する者もいるようだが、バカヤロウ、当たり前だ。なんで俺がお前らに遠慮して、禁欲しなくちゃならないんだ。お前らだって一定の期間、修行すりゃあ後は好きに飲み食いするんだろうが。じゃあ、逆にお前ら、俺が道場監督してる間、酒や肉、煙草、セックス、冷暖房、我慢してくれるのか? 違うだろ? だったらグダグダ言わないで、真面目にやれ。それが嫌なら、もっと楽な仕事探せ。そんなものはどこにもない。 どうせ、ちょっと我慢すりゃ後は左団扇で遊び放題、とか思ってんだろうが、そうは問屋が卸すものか。僧侶の道の厳しさをたっぷり教えてやる、コノヤロウ! とりあえず今回の行で、まず第一にやらねばならぬこと。 それは、 講師・島津妙亮に女を捨てさせること だ。 三十分ほど前、 「これからご協力させていただく島津です」 とノコノコやって来た島津妙亮を見て、ああ、あのときの女か、と思い出した。 この小娘と最初に会ったのは去年、大学の式典のときだった。 来賓として招待された式典のスタッフをやっていたのだが、声は小さいわ、要領は悪いわで、ついイライラして声を荒げてしまった。それっきり忘れていた。大して美人でもないしな。 元々、俺にとって島津妙亮は招かざる客だった。 支倉の政治遊びに付き合わされるのは真っ平だった。妙亮が論文を理由に、参集日を無視したのにもムカッ腹が立っていた。しかも噂によれば、この女、支倉の愛人だという。なんだか俺の職務を冒涜されているような気がした。ナメるのもいい加減にしろ、と言いたかった。 凶暴な気分でいたら、妙亮がいきなり長い髪のまま、平然と俺の前に現れた。俺の怒りは沸点に達した。 確かに講師に剃髪の義務規定はないが、これまで有髪で参加した講師はいない。普段有髪の僧侶も皆、自主的に剃髪してくる。男女問わず、だ。教える者も教わる者も一緒に坊主頭になって、連帯感をもち、満行に向けて突き進む。シャバでパーマあててようが、トサカみたいに逆立てていようが、俺の知ったことではない。が、ここでは絶対に認めない。 剃髪を迫られた妙亮は取り乱さんばかりで、そんな話は聞いていない、支倉教授に掛け合ってくれ、の一点張りで、これが修行尼僧ならば往復ビンタをくらわせて、問答無用でバリカン、なのだが、相手が講師ではそういう「指導」もできず、仕方なく支倉の爺に連絡を取った。 支倉は散々渋っていたが、結局、愛人を脅迫するような伝言を残した。表向きは高潔ぶっているが、ありゃ屑だな。 まあ、いい。 修行僧も命がけで入門してきている。講師にも相応の態度で臨んでもらう。半端な人間はいらん。嫌なら去れ。去らんなら、剃れ。ツルッと剃れ。ジョリッと剃れ。 行の開始まで後、16分。 16分でこのバリカンを目の前にして怯えきっている半端尼僧を一端の講師に「教育」する。できるだろうか? できるかどうかじゃない。やる! そして、俺にはある予感がある。 この小娘、ひょっとしたら、化けるかも知れん、という予感が。 鋏を握る。 散髪用の鋏じゃなくて(そんなもんはない)、裁縫用のラシャ鋏だ。 束ねられた妙亮の長髪を鷲掴む。 妙亮は身を固くして、次の運命を待っている。顔面蒼白。現実逃避するかのように視線をアチコチ動かしてやがる。 ったく、腹の据わらない小娘だ。それだけに「教育」のし甲斐があるのも、また事実なわけだがな。 「島津」 と呼び捨てたら、 「ひゃい」 と震え声で妙亮は答えた。「はい」だろ。情けねえなあ。 「男になれ」 「お、男ですか?」 「女だって一生に最低三十回ぐらいは男気が必要なときがある」 「ひゃい」 「『はい』だろ、『はい』」 「は、はい!」 ちょっとは腹に力が入ったのを確かめると、俺は妙亮の束髪の根本に、無造作に鋏を入れた。勿論、コイツの表情を愉しみつつ、な。 ジャ!という終わりの始まりを告げる音に妙亮はギュッと目をつぶった。もう現実逃避すらできずに、顔を歪め、苦痛と屈辱に耐えている。いい表情だ。 ジャキ、ジャキ、ジャキ、と妙亮の束髪を刻む。相撲取りの断髪式みたいだ。ギチギチと鋏に抵抗する髪が、妙亮の無言の反発のように思え、俺はイラつき気味にグリップに力をこめた。 ジャキン! 最初の収穫が終わった。 俺は収穫物を三和土に放った。犬に餌でもくれるみたいに。 支点が失われ、妙亮の頬にバサリと髪が覆いかぶさる。 甘ったるい匂いがした。この聖域じゃ嗅いだことのない女臭い匂いだ。髪束を掴んでいた掌を鼻にあてたら、同じ匂いがする。後で知ったんだが、コイツ、道場に持参した荷物の中に外国製の高価なシャンプーとリンスを入れていたらしい。この一事からしても、この女の行に対する姿勢がわかる。 妙亮は右、左、と目だけ動かし、イビツな切り口を確認している。 「時間がない」 さっさと済ませてくれ、と俺が促すと、散髪係のトメ婆さんがバリカンのスイッチを入れた。 これからが本番だ。 本来なら俺が直々に散髪してやりたかたんだが、道場の手伝いをしているトメ婆さん(道場の専制君主たる俺が唯一、頭のあがらない人間だ)が、相手は若い娘さんなのだから、と強硬に主張して、バリカン役をつとめることになった。 ウィーン、ウィーン、ウィーン、 とバリカンのモーター音が聖域の静寂を破る。妙亮の顔はますますこわばる。肩をすぼめ、身体もこわばる。 「つらいだろうけど・・・我慢してね」 トメ婆さんが妙亮に因果を含めている。 「髪なんて行が終われば、また伸ばせるんだから」 妙亮は消え入りそうな声で、 「はい」 と同意していた。思いっきり不同意な表情だった。 婆さんは妙亮の前髪を持ち上げると、躊躇せず、思い切りバリカンを走らせた。 ジョリジョリジョリ!! と髪がめくれあがり、 ――ああっっ!! と妙亮がチャクラでも開いたかのように大きな目をさらに大きく見開いたときには、婆さんはとっととふた刈り目のバリカンを入れ終えていた。 「!!」 妙亮が何か言おうとして、口を開けかけたが、 ガー!! ジョリジョリジョリッ!! その前に三度目のバリカンが通過。 「――」 また口を開ける妙亮だが、今度も言葉を発する前に、 ジョリジョリジョリー!! とバリカン、四回目。 バサ、バサ、バサと長い髪が絶え間なく落ちる。その髪の持ち主だった女は青々とした頭頂部の地肌をお山の風にさらして、呆然としている。口をあけたまま。 自分に同情的だった刈り手の婆さんの情け容赦ないバリカンさばきが信じられずにいるのだろう。 いいか、島津妙亮、と俺はおかしかった。 誰もがいつまでも「かわいそうね〜」「つらいだろうね〜」「勿体ないね〜」「ひどいよね〜」なんて自分の髪を惜しんでくれるなんて思ったら大間違いだぞ。婆さんだってこれから修行初日の準備で忙しいんだよ。お前のせいで余計な仕事が増えて、内心迷惑がってるんだ。手早く済ませて、本来の業務にうつりたいんだよ。わかったか、コノヤロウ! 婆さんはパッパッと頭頂部の毛くずを払うと、今度は右のコメカミにバリカンの刃先をあて、せっせとバリカンを押し込んだ。妙亮はまだ口を半開きにしている。まるで夢中になってプレイしてたTVゲームがクリアー直前にフリーズしちまったガキみたいな間抜けな面だ。 まあな、気持ちはわかるぜ。 これまで、それなりの美容院に予約入れてチャラチャラしたオカマみたいな美容師に「亮子ちゃん、いい髪質ね〜」ってオベンチャラ言われて、10センチもカットしようものなら「え〜、そんなにいいの〜?」なんて愛惜の情たっぷりに目を丸くされたりして、一時間かけてチョコチョコ毛先をいじられるのが関の山の「お嬢さんのヘアカット」から、一転、 庭先で素人のオバチャンにバリカンでチャッチャと丸刈り、 っつう「腕白小僧の断髪」初体験だからな。人生何事も経験だ。噛みしめろ。 ジョリジョリジョリと右サイドの髪がひっぺがされる。青い部分がどんどん広がっていく。 妙亮の唇が、ようよう動いた。震えを帯びた微かな声だったが、ヤツの言葉は俺の耳にもはっきりと届いた。 「嘘やん」 関西の言葉だった。後で知ったんだが、コイツ、関西圏の出身らしい。普段は気取って標準語使ってるが、極限状態に追い込まれて、お里が出やがった。俺はおぼえず失笑した。が、笑いをおさめ、 「島津!」 と怒鳴りつけた。 「嘘じゃないぞ! 現実だ! お前はあと5分で尼僧らしい坊主刈りになる!」 「・・・・・・」 妙亮が憎悪をこめた目で俺を睨んだ。 「残念だが、島津」 と俺は大仰に肩をすくめてみせた。 「俺はそういう目には慣れっこだ」 ハンガリー女の憎悪を刺激してやる。 「もう何百人っていう修行僧がそういう目で俺を睨みつけてきたからな」 「・・・・・・」 妙亮や修行僧連中の憎悪の源もわかっている。つまらんプライドだ。「何でこの自分がこんなメに遭わなきゃならない?」っつうクソみたいなプライドだ。そのプライドを徹底的に打ち砕くのが、俺の趣味と実益を兼ねた仕事なわけだ。 「この自分がこんなメに」って、バカタレ、お前はお前の分際に相応しいメに遭っているんだよ、身の程知らずが。 クソみてーなプライドを捨てて「自分はこんなメに遭わなくちゃならない状況にいるんだ」っつうドン底の現実を受け容れた瞬間、そいつは初めてスタートラインに立てる。ドン底から這い上がれる余地が生まれる。 さて、島津妙亮、お前はどうする? 妙亮はいつしかポロポロ涙を流していた。泣くまいと唇を結んでいるが、あふれる涙をどうすることもできず、しかし声はたてなかった。婆さんは泣いている妙亮を構っている余裕などなく、見て見ぬふりをして、後頭部にバリカンをこすりつけている。 「泣くな!」 と俺はまた怒鳴りつけてやった。 「はいっ!」 と妙亮は怒鳴り返すように返事をした。キレてやがる。怒れ、怒れ。その怒りがお前の跳躍台になるのさ。 一種の人格改造セミナーだな。 たった十分の間に恐怖、驚愕、困惑、悲しみ、憎悪、怒り、と妙亮の中でものすごい量の感情が噴出している。 やがて、妙亮の表情から、フッ、とそういった激しい感情群が消えた。 俺が道場監督として何度も目の当たりにしてきた、修行中の僧尼におこる「あの瞬間」が、剃髪完了間近のヘタレ講師にも訪れたのだ。 過酷な状況に追い込まれた人間が一切を諦め、受け容れ、委ねる「あの瞬間」が。 ある宗派の言葉では、 放下 というべき精神状態。 妙亮は必死でしがみついていた「女」という命綱から、ポンと手を放し、尼僧としての運命が渦を巻く大海原へと、身を躍らせたのだ。 道場監督としての俺は満足したが、サディストとしての俺は物足りなさを感じていた。 妙亮の頭が丸められた。 婆さんに、道場生たちの手前もあるから、と念入りに剃り上げさせた。 妙亮は渡された手鏡で自分の坊主頭を確認すると、 「お世話になりました」 と婆さんに丸い頭を下げた。もう迷いはなく、かと言って悟りもなく、淡々と目の前の行だけを見つめている、いい面構えになった。 切り落とされたゴミ屑を掃き集めている婆さんに、 「そいつを新入り坊主どもの目につく場所に捨てとけ」 と俺は命じた。 晒し首ならぬ晒し髪だ。 ここがどういう所かを新入り連中に無言のうちに知らしめ、心胆を寒からしめるには十分な効果がある。 「そうだな、門のそばにある屋外の女子便所の前がいい」 婆さんはブツブツ言いながらも、俺の指示に従った。 妙亮は自己の女の命への無慈悲な処遇に顔色も変えずにいた。 立派な修行道場の講師の顔になっていた。 それからの妙亮についちゃ、講師の任をよく果たしてくれた、とだけ言っておこう。 満行後、修行僧たちはそれぞれの郷里へと帰っていった。 彼らを送り出すと、講師陣も道場を後にした。無論、妙亮も。 門を潜ったときとは、まるで違う人間のようになった妙亮は 「柳原さん」 と俺を振り返り、 「貴重な経験をさせていただきまして、ありがとうございました」 と頭を下げた。最初の頃は慣れぬ剃髪の習慣に、頭皮を傷つけ、無残な有様だったが、今じゃすっかり板につき、清潔に保っている。俺は柄にもなく温い微笑を浮かべた。が、すぐ笑顔を引っ込め、 「ああ」 ペシッと目の前の坊主頭を軽く叩いた。俺なりの惜別の表現だ。 妙亮は歯を見せて苦笑した。歯並びが悪ぃなあ。 「島津先生」 と俺は敬称をつけて呼んだ。 「来年も是非、講師として後進の指導にあたってもらいたいものですな」 こいつは社交辞令ではなく、俺の偽らざる本音だった。 「こちらこそ、是非!」 妙亮は勢い込んでうなずいた。こちらも本音の響きがあった。そして、 「柳原先生にもまたお会いできたら嬉しいです」 不敵に笑った。 翌年の道場の講師陣の名簿に島津妙亮の名前はなかった。 あれからすぐ支倉の許を去ったらしい。賢明だ。頭丸めて少しは世の中が見えるようになったんだろう。 俺はあの女を高く買っている。知識、ガッツ、人徳、指導力、講師としては、申し分のない人材だ。支倉のコネなどなくとも、なんとか参加させたかった。だから手を尽くした。 しかし不可能だった。 何故なら、島津妙亮はすでに結婚して身籠っていたからだ。 旦那は有馬とかいう、去年の道場生だという。 有馬って・・・あの「お亀様事件」の馬鹿じゃねえか! 有馬は実家の寺を継ぎ、妙亮は有馬の寺の嫁になった。 有馬も妙亮も親から引き継いだ寺を安穏と守っていくだけの僧侶稼業に飽きたらんようだ。 なんでも夫婦で「開かれた寺」を目指して、説法会だのボランティアだのと色々と草の根活動をやってるそうだ。 「わからんなあ」 と俺はぼやいた。 「よりによって有馬とくっつくか?」 鬼教官と劣等生という実にミョウチクリンな組み合わせがどうしても腑に落ちない。 妙亮は出来の悪い有馬に散々厳しく当たっていたじゃないか。その二人が結婚するなんざ、俺と歯っ欠け坊主がデキちまうようなもんだぞ。 「だからアンタは四十過ぎてもヤモメなんだよ」 とトメ婆さんは首をひねっている俺を笑う。年の功ってやつか、同じ女だからか、たぶんその両方だろうが、婆さんは妙亮の未来をちゃんと見通していたらしい。 「何故わかったんだ?」 と訊ねたが、婆さんは、 「男女の仲っていうのはそういうもんさね」 と言うだけだった。 「まあ、いいさ」 咲いた桜には興味が無い。 アイツらが道場の外でどうしようが、アイツらの勝手だ。俺の管轄外だ。口出しも祝福もしない。俺はここでまた、イジメ甲斐のある桜の蕾を相手にするさ。 とは言え、にやけてしまう。 玄徳と亮子・・・。三国志の劉備と孔明の字(あざな)じゃないか。「水魚の交わり」ってか? 偶然にしちゃあ、できすぎてるぜ。 「さてと」 と俺は立ち上がった。あんな二人のことより、やるべきことがある。 「明日は本山行きだなあ」 「御輿担ぎの会合かい?」 「ああ」 「榊さん、今年はうまくいくといいねえ」 婆さんの言葉に、 「どうだかな」 俺は鼻を鳴らした。 あの歯っ欠け坊主、毎年参加して毎年醜態をさらしてやがる。格闘技でもそういうヤツ、いたなあ。元相撲取りの・・・名前は忘れたが。 今年こそは三度目の正直で・・・いや、二度あることは三度ある・・・どっちに転ぶか、この目で確かめてやる。 「道春さん、楽しそうだね」 「まあな」 歯っ欠け坊主・・・あんなにイジメ甲斐のある女はいない。思わず頬がゆるむ。 再会の挨拶代わりにローリングソバットをかましてやろう。 (了) あとがき 長っ!! ありえないくらい長っ!! 通常の作品の二倍以上・・・(汗)断髪物では、迫水作品史上最長の作品です。そして一番ややこしい作品です。時間軸や視点がバラバラなので。 「野暮な人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである」という太宰の言葉に、昔、ギクリとしたおぼえがあります。 いや、でも色々やりたいし。 元々が「こういうのアリ?」って部分ではじめたサイトなんで、広い心で読んでいただけたら幸いです。 有馬、容海、支倉、の章はスラスラ書けたんですけど、柳原道春の章がね〜、手こずって・・・。サディズム的視点での断髪ってほとんど書かないから。 今回の島津亮子はさまざまな視点から描かれたヒロインなので、今までのヒロインたちの中では一番多元的かなあ、と思ってます。 有馬からすれば憧れの年上女性で、榊容海にとっては同性の頼れる指導者で、支倉にとったら小悪魔的な愛人で、道春の視点では「教育対象」・・・。 結構、気に入ってます。 また色々と楽しみながら、実験して書いてみたいです! ちなみに作中に名前が登場する某漫画の「大野さん」、迫水の中で得度剃髪させたい二次元キャラ、ダントツ一位です(笑) |