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モンスターの棲む都市にて


 この世にもおぞましい事件は、昭和50年代当時の某地方都市とその周辺地域を恐怖のどん底に陥れた。

 読者諸賢の中にはその事件について、ご存じの方もおられるかと思う。

 不確かな情報ではあるが、余りの残虐性から当時はかなりの報道規制が敷かれていたともいう。

 後日、裁判で白日の下にさらされた数々の事実に、傍聴人はおろか数多の凶悪事件を扱ってきた裁判長ですら、激しい拒絶反応を示したという。

 事件の詳細について語るのは、本作の趣旨ではない。犯人や被害者、その他捜査陣など関係者についても同様である。

 このお話は、犯罪史に永遠に残るであろう、この血腥い事件の、その余波である一挿話を、こっそりと物語るものに過ぎない。



 昭和5x年の梅雨入りとともに惨劇は幕を開けた。

 某地方都市の繁華街近くのマンションの一室で、住人の薬剤師・K山Y恵(25歳)の惨殺体が発見された。無断欠勤したY恵を心配した勤務先の同僚が、彼女の自宅を訪問したことから、事件は発覚した。

 すぐに捜査員が駆けつけ、現場検証が行われた。遺体の酷い有様には、ベテランの刑事も思わず目をそむけたほどだった。

 司法解剖の結果、死因は頚部圧迫による窒息死――絞殺だった。殺害した後、鋭利な刃物で滅多切りにされていた。顔などもズタズタに切り刻まれて、発見時には身元すら特定できなかった。

 殺害推定時刻は午後1時〜3時。白昼堂々の犯行だった。

 指紋等犯人の痕跡は全くなく、有力な目撃情報もなかった。

 被害女性の財布や貯金通帳等も部屋にそのままあったことから、物盗りの仕業ではない、と捜査本部は結論付けて、怨恨の線で、死者の人間関係の洗い出しに人員を繰り出した。



 この事件からちょうど二週間後、二度目の事件が起きた。前回の事件現場から1・4kmしか離れていない木造アパートの部屋で、22歳のデパート店員I山M子が殺害された。

 前回と同じ手口で絞殺後、身体を切り裂かれ、目はえぐられ、首と胴体は切り離され、内臓が引きずり出されていた。このときも犯人の手がかりになる一切はなかった。

 この二件の被害者は何の接点もなく、どうやら異常者による犯罪ではないか、という見方が捜査陣の間で濃厚になってきた。マスコミも騒ぎ始めた。

 捜査本部は以下のような犯人像を推測した。

 〇都市部や周辺に住む、或いは勤務通学していて、ある程度の土地勘がある者

 〇医師等の医療関係者、医学生等、解剖学の知識がある者

 〇左利きの人物

 〇性的倒錯者。何らかの精神疾患の疑いもある。

 〇表面上は人当たりがよく、社交的で見た目はどこにでも普通にいる市民

 〇平日の白昼に犯行に及んでいる事実から、その時間帯に自由に行動できる者

 懸命な捜査が続けられた。一説には三万人もの捜査員が投入されたという。

 しかし、そんな警察を嘲笑うように、第三第四の殺人が立て続けに起こった。犠牲者は全て若い女性だった。

 捜査は難航した。数ヶ月の間に犠牲者の数は増えていった。



 某地方都市の某大学三回生・津島礼子(つしま・れいこ)はその日、二学期の授業に備えて、帰省先から戻ってきたばかりだった。

 久しぶりの故郷は、良かった。山河も懐かしかった。家族や旧友とも再会した。かつての同級生らからは、

「都会暮らしで垢ぬけたんじゃないの?」

と褒められて、嬉しかった。

「花の女子大生だからね」

と冷やかされたりもして、くすぐったい気持ちだった。

「彼氏できた?」

と訊かれ、

「うちは女子大だからなかなかキッカケがなくて」

と礼子は苦笑して首を振った。

 ――女子大だから。

と他人にも自分にも言い訳しているけれど……

 その女子大の同級生たちは、コンパだ! 海だ! スキーだ!と他大の男の子たちと異性交遊を存分に楽しんでいる。出会いのキッカケなど無数にあった。

 しかし、内気な礼子は他人――特に異性との関わりには臆病だった。

 キャンパスでは気の許せる数人の女子たち(皆、礼子のように地方出身の地味な娘だった)とだけ付き合っていた。休日は市内の古本屋をめぐって過ごした。

 入学したての頃、小さなパン屋でアルバイトしたものの、彼女目当ての男性客に付きまとわれ、すぐに辞めてしまった。贅沢しなければお金に困ることはなかったので、実家からの仕送りで、慎ましく暮らしている。

 キャンパスは、れいの連続殺人事件の話題でもちきりだ。

 犯人は誰々だ、と気に入らない近所の男性の名を挙げる女生徒もいれば、犯行の痕跡を残さない慣れた手口に、プロの殺し屋の仕業ではないか、と推理する女子もいて、中には、犯人がなかなか捕まらないのは、警察もグルである可能性がある、と陰謀論じみた憶測まで飛び出す始末だった。オカルト的視点で事件を語るグループもいて、噂は突飛なら突飛なほど盛り上がった。

 わざわざ事件現場まで足を運んで、

「私、テレビのニュースにちょっとだけ映ったよ」

と妙な自慢をしている娘もいた。



 礼子は事件に無関心だった。そもそもどう関われというのか。

 他の同級生たちと一緒に大騒ぎするには、彼女はノリが悪すぎたし、田舎者にありがちな情報への鈍感さがあった。

 部屋にはテレビもない。新聞も読まない。狭い交友関係の中でもあまり話題にのぼらないから、基本的な情報すらよく知らないでいる。

 自分がそんな大事件の関係者=「メインヒロイン」になるなど、想像さえできない。自分の世界の外側の出来事だった。

 事件のことは郷里の人々も知っていて、

「大丈夫かい?」

と一応心配の言葉はかけてくれたけれど、皆、さほど心配していなかった。何せ話がサスペンスドラマみたいで、今一つリアリティを感じられていないようだった。前述の通り、礼子も同じだ。

 それでも、昔馴染みには、

「都会は物騒だから」

と、さりげなくマウントをとるみたいに不安がってみせたけど、ろくに事件の経過もチェックせずにいた。

 帰省前には、長い夏休みが終わるまでには殺人犯も逮捕されているだろう、とタカをくくっていた。都会に戻ってきたときには、事件のこと自体忘却していた。



 そんな礼子の世界と外界とを隔てる殻に、ヒビが入ったのは、

 ピンポーン

というインターホンの音だった。

「はあい!」

 実家から持たされたお土産の整理を一旦止めて、玄関のドアを開けると――

 一人の警察官が立っていた。見た目30代の男性だった。

「いけませんねえ」

 警官は人好きのする笑みを浮かべて言った。

「は、はあ?」

 よそ目には落ち着いて見えただろうが、礼子は頭の中、軽い恐慌状態になっていた。

 警察の人間が自宅を訪ねてくるなんて、生まれて初めての経験だった。

 ――な、何だろう。

 悪いことをしたおぼえはないが、心中穏やかではない。

「防犯課の者です。パトロールに廻っています」

と警官は爽やかな口調で説明した。

「は、はあ」

 何故か挙動不審になってしまう。

「ご存知でしょう?」

 出し抜けに言われ、

「何でしょうか?」

「最近市内や周辺地域で起こっている連続殺人事件です」

「え?! まだ犯人捕まっていないんですか?!」

 警官は礼子の無知に驚いた様子だったが、

「申し訳ありません」

 市民から税金泥棒と怒られっぱなしで、と自虐的なジョークで受け流した。

「こちらこそ、すみません。今日実家から戻ってきたばっかりで。夏季休暇だったんです」

 礼子も謝った。

「そうでしたか」

と警官の方も納得したらしく、用件を話し出した。

 彼の話によれば、礼子の夏季休暇中も殺人鬼の犯行は続き、さらに三人もの犠牲者が出たという。

「被害者は一人暮らしの若い女性なので、こうして防犯を呼び掛けて回っています」

と警官は言う。故郷の駐在さんはやたら威張っていたけれど、都会の警察官はまるでセールスマンのように、丁寧で物腰も柔らかい。それともこの警官個人の性格特性なだけなのだろうか。

 警官はメモをチェックして、

「津島さん、ですよね?」

と確かめた。

「はい。そうです」

「犯行の大半が白昼に行われているので、今みたいにインターホンが鳴っても相手が誰かをよく確認してからドアを開けて下さい。この部屋はドアチェーンがついてないんですね?」

「あ〜」

 初めてドアチェーンなるものを意識した。そういうのは田舎の家屋にはあまりないし、需要もない。大体が礼子はこの部屋に他人を招くことはない。友人と会う時も外で会う。

 オロオロする礼子に、警官はふたたびメモを広げて、

「津島さんは、今回の一連の被害者たちと同じ特徴をしているんですよ」

と恐ろしいことを言い出した。

「え?!」

「華奢で小柄、色白、それに黒のロングヘア。全部当てはまりますね」

 今まで殺された七人の女性全員が黒髪ロングヘアーで低身長でやせ型で色白だという。

「しかも一人暮らしの若い女性です」

 背筋が寒くなる。

「被害者全員が、ですか?」

「ええ」

 警官は神妙な面持ちになって、頷いた。

「あと、美人ですしね」

と嬉しいけど余計な一言を付け加えて。

「その特徴以外の人が襲われる可能性もあるんですよね?」

 救いを求めるように訊くと、

「勿論です。が、そういう連続殺人犯はですね――海外だと”シリアルキラー”と呼ばれ始めているんですが―― 一定のコダワリというかパターンというものがありましてね、同じスタイルに固執する傾向があるんですよ。今回の件なんてまさにそれなんです。私みたいな正常人にはさっぱり理解できませんがね」

 それから、警官はあれこれ防犯上の心得を説いて、

「こちらにしても全力で犯人を追っていますので、しばらくご辛抱下さい。どうかご協力よろしくお願いします」

と言い残し辞去した。

 警官が去ったあと、

 ――せっかくだから警察手帳、見せてもらえば良かったな。

 ドラマみたいに、とくだらない考えが頭をよぎったりもした。



 直後から礼子は殺人鬼の影に怯えはじめた。

 激しい不安に駆られる。

 自分も事件に巻き込まれるのではないか。そう考えると震えがとまらなくなる。元来が小心者だ。

 とりあえず大急ぎで鍵をかけた。

 ドアスコープを覗いてみる。玄関の前がグニャリと歪んで見えて、かえって不安感が増す。初めて事件への当事者意識が生じた。

 現実逃避したくて、トランジスタラジオのスイッチを入れる。

 イヤホンを通して、地元局の男性DJのフリートークが、ノイズ混じりに聞こえてくる。

『ほんと、恐いですよね〜。若い女性ばかりが……ねえ……』

 何とも間の悪いことに、れいのシリアルキラーの話題だ。

 あわててスイッチを切ろうとするが、つい聞き入ってしまう。

『五件目の事件は先月の終わりでしたっけねえ、保母さんだった方らしいんですけど、24歳だってさ。ニュースで写真を拝見しましたけど、角川映画の薬師丸ひろ子ちゃんにちょっと似てたね。首を絞めて殺した後に、ねえ、お腹を切り裂かれて、胃袋とか心臓とかを引っこ抜かれてねえ、代わりに大きなヌイグルミが詰め込まれてたんですって。ほんと、異常だよね。狂ってるね。人間のすることじゃないね』

 昭和のラジオなので、DJの話す内容もなかなかえぐい。

 六番目の犠牲者の死体はもはや人間の原型をとどめていなかった、とか七番目の被害者の場合はマスコミも記事にするのをためらうほどだった、とかDJは怪談話っぽいトーンで語りすすめる。

『百年前のロンドンで起きた”切り裂きジャック事件”と似てるって人もいてね、でも、もう今回の犠牲者数はそれを超えてるからね、これはもう怪物ですよ。モンスターですよ。こういうモンスターが我々の中に紛れて生活してると思うと、ただただ怖いね。……と、なんか、こう話してても、気が滅入ってきますが、ねえ……』

 ――モンスター……。

 脳裏には、幼い頃郷里のお寺で見た牛頭馬頭(ごずめず)という地獄の鬼の画が、ボヤ〜と浮かぶ。そいつが段々と現実味を帯び、人間の形になる。人の形をしたものが刃物を振るって、自分に襲いかかってくる。自分の悲鳴! 血しぶき!

 無意識のうちにラジオのスイッチを切っていた。ふたたびスイッチを入れ直すと、フリートークは終わって、はっぴいえんどの「夏なんです」が流れていた。もう秋なのに。

 ちっとも気分が上向かない。食欲もわかない。お土産も散らばったままだ。

 夕食も摂らず、布団をかぶって寝た。が、眠れない。

 モンスターがいつドアをこじあけて闖入してくるかと、そんな恐怖に苛まれ、水道の蛇口から、ポットン、と滴が落ちる音にもビクッとしたりもして、とうとうまんじりともせず朝になってしまった。

 とは言え、明け方ほんのちょっとまどろんだ。

 夢を見た。奇怪な夢だった。

 シリアルキラーが出てきた。

 何故か大学のM助教授だった。

 Mは右手にノコギリ、左手にノミを持ち、何度も何度も礼子の身体を傷つけてきた。流血が洪水のように床を浸したが死なない。死ねない。悪夢だった。

 目が覚めた。グッショリと寝汗をかいていた。ひどくけだるい。

 昨日の警官の言ったことを思い出す。

 華奢

 小柄

 色白

 黒くて長い髪

 これらが殺人鬼の標的の条件だという。

 礼子はそっと髪に手をやった。殺人鬼が好む黒くて長い髪。中学高校と厳しい校則の支配の下、「バレエをやっているので」と理由をつけて特例を得た、ずっと保ち続けてきた自慢の髪の毛だった。

 仮に殺人鬼――モンスターの餌食になる確率が上がったとしても、おいそれとは切りたくない。それが本音だ。

 身支度して出かけた。キンモクセイが香る。すっかり秋だ。

 歩きながらも、モンスターが突然現れないか、と身体をこわばらせていた。まるで恐怖映画の登場人物になったかのような心地だった。

 新学期を控えた大学の図書室に入る。

 ここ数ヶ月の新聞を漁った。連続女性殺人事件の記事に目を走らせる。殺された女性たちの写真を確かめる。

 ――本当だ!

 女性たちは全員が長い黒髪だ。

 自分の殺害記事を想像して、ぞっと肌が粟立つ。

 ――縁起でもない!

と悪い想像を振り払おうとするが、自分だけは大丈夫!とどうして言い切れるのだろう。

 礼子は無意識に髪に両掌をあてていた。子供の時分から−味わってきた、この手触り、この温もり。

 ――どうしよう……。



 日和っている間に事件は最悪の展開を迎えた。

 さらなる犠牲者が出たのだ。

 礼子と同じ学生だった。

 19歳の女子短大生は、身体をバラバラにされ、部屋のあちこちにばらまかれていたという。号外が配られていたので、もらって読んだら、当然の如く長い髪の美女の写真が載っていた。

 礼子は戦慄した。号外を持つ手が、ガタガタと震えた。

 ――切るしかない!

 恐怖の奴隷となっている礼子は、もうなりふり構ってはいられない。

 行きつけの、いや、年に二回の割合で通っている美容室に駆け込んだ。

 ――肩の辺りで揃えれば――

 長さをキープしておいて、事件が解決した後、またゆっくりと伸ばせばいい。そんな胸算用がある。



 美容室は、どこの町にもありそうな何の変哲もない、こじんまりとした店構えだった。

 都会に出てきたての頃、カントリーガールの自分でも入りやすそうな雰囲気があっったので、毛先を切ってもらった。店の人たちも落ち着いた感じで、以来この店で手入れを頼むことにしていた。

 入店してきた礼子に、口ひげが似合うダンディな店長の黒崎さんは、

「あれ、礼子チャン? 夏前に来たばっかりじゃなかったっけ?」

と訝んでいたが、バッサリ肩まで切りたい、と希望を伝えると、

「へえ、どういう風の吹き回し?」

と目を丸くして訊いた。

「いえ……その……」

 礼子は口ごもった。殺人鬼に狙われないように、とは言いにくい。

「さては失恋かな? 最近多いんだよね〜、失恋で髪を切る女の子」

との黒崎さんが口にした「失恋」って単語に、礼子はビクッと反応してしまった。

 ――違う!

という意味のリアクションだったのだが――どうしても恋愛がらみの用語には意識過剰になってしまう――黒崎さんはすっかり勘違いして、

「なるほど、ずっと片想いしていて、いつも遠くから見てるだけしかできなくて、告白できずにいるうちに、相手には恋人が……う〜ん、青春だねえ」

と頭の中で勝手に(礼子のキャラクターに沿った)ストーリーを作って盛り上がっている。

「い、いや……そ、そんなんじゃ……」

「いいって、いいって、みなまで言わずとも。オジサンは礼子チャンの味方だよ」

 思い込みの強い人だ。

 ――まあ、いいか。

 年に二度程度しか会わない人物なので、誤解するにまかせた。

 だけれど、

「せっかく切るのなら、もっと短く切ってイメチェンしたら?」

とショートカットをすすめてこられては、

 ――えっ?!

 礼子は困惑する。断ろうとするが、

「今流行ってるんだってば」

 黒崎さんはしつこい。グイグイゴリ推してくる。

 奥さんや見習いの男の子は、もったいない、と止めたが、黒崎さんはアクセル全開、相手を思い通りに動かすトーク術を駆使して(黒崎さんにはその自覚はなさそうだが)、どんどんショートカットになる羽目に追い込まれていった。

「角川映画の原田知世チャンみたいなショートにしようよ。絶対似合うって」

との誘い文句に、礼子はハッとなる。

 思い出した。

 去年、人生最初で(今のところ)最後の合コン経験をした。その席に筑波(つくば)君という背の高いハンサムな男の子も参加していた。

 筑波君は、アプローチしてきた女子に、好きな女の子の髪型を質問されて、

「角川映画の原田知世みたいなのが好きだな」

と答えていた。

 ――ふ〜ん。

と聞き流していたつもりだったのだけど、記憶の片隅にしっかり残っていた。その記憶にダメを押されるように、

「じゃあ、そうしようかな」

と、とうとう礼子は黒崎さんに説得されてしまった。

 見習い美容師さんがゴシゴシとシャンプーをしてくれる。男の人の力強い洗髪は最高に気持ちいい。その気持ち良さを、この店に出会うまで知らずにいた。

 洗髪で十分に湿された髪に、黒崎さんのハサミが怒涛の如く入る。

 背中まで伸びた髪を、

 ジャキッ、ジャキッ、ジャキッ!

 一息に切る。

 左から右へ――礼子の目には映画のスローモーションのように、順々に長い後ろ髪が落ちていった。

 スッと頭が軽くなる。

 髪は肩で切り揃えられていた。

 ――これでOKです!!

と言いたいが、いつもみたいに気後れして口に出せなかった。内向的な性格が恨めしい。

 昭和のショートヘア=ボーイッシュ

である。

 令和の現在のような長さをとったり、ふんわり巻いたり流したり、といった気の利いた施術など望むべくもない。

 黒崎さんはボブになった礼子の髪を、息をのむほどの短さへと、さらに大胆に切り込んだ。

 ジャキジャキッ、ジャキッ――

 ジャキッ、ジャキッ――

 ハサミはせっかちに鳴る。

 奥さんや見習い美容師さんは、

「あなた、切り過ぎじゃない?」

「そうですよ〜、店長」

とハラハラと見守っている。

 ザクザクと、あっという間に顔の周りから髪が消え、輪郭がハッキリと出た。

「礼子チャンは美人だから、ショートの方が見映えがするよ」

 黒崎さんはそう言ってくれるが、

「…………」

 当の礼子は卒倒せんばかりのショックに耐えていた。



 ハサミはまだ飢えを満たせず、

 ザックリ!

 サイドの髪にかぶりついた。

 ジョキジョキ、ジョキジョキ――

と半周して、耳にかぶさる髪を切り除く。

 バラバラ、と肩の上、ケープ越しにその髪が盛り上がる。ため息をついて、肩が下がった途端、盛り上がった黒山も崩れ、ケープを滑落していった。シャアアァー!

 反対側の耳周りの髪も切られた。

 そうして、モミアゲが鋭く整えられた。左のモミアゲのすぐ下に、小さなホクロがあるのが、やたら気になる。

 空気がスーッと耳にあたる。未知の感覚だった。

 ジャキジャキ、ジャキジャキ、と前髪がうんと短く詰められる。太めの眉がクッキリのぞいた。

 ――原田知世ってこんなに前髪短くないんじゃ……。

と思ったが芸能界には疎いので、断言できない。

 だが、

「後ろ、刈り上げちゃおうか」

と黒崎さんに言い出されて、

「え?!」

 原田知世は刈り上げてはいない。それはわかる。

 ――結局黒崎さんのやりたい放題じゃない!

と憤慨するが、こうなったら毒を食らわば皿まで、一切を委ねる。

 黒崎さんは、とりわけ刈り上げには一家言あるらしく、コームを使ってハサミをウナジから上へ、さかのぼらせ、さかのぼらせ、もっとさかのぼらせ、そのカットは礼子の体感時間では一時間にも思えた。

 無論さすがに一時間は経っていない。

 ハサミの冷たさと肌を刺すコームの痛みに辟易していたら、

 ヴイイィィン

と背後で聞きなれない機械音。

 ――まさか?!

 そのまさかで、黒崎さんの手にはバリカンが握られていた。

「バ、バリカンはちょっと勘弁してください〜」

 小さな声で嘆願する。いくら小心者でも譲れない一線がある。

「いや、でも――」

と黒崎さんは後ろで鏡を開いて、

「ほら、こうなってるからさ――」

とゲジゲジの残り毛が生え散らかすウナジを見せて、

「これを刈らなきゃ汚く見えるよ」

 そう言われたら、礼子も黙るしかなかった。

 ジャアアァァ、

 ジャアアァァ、

とバリカンがウナジを軽快に上昇する。残り毛はきれいに剃り取られ、白いウナジが、電灯に映えた。

 最初は心臓が止まるくらい緊張した礼子だったが、それも三度四度と反復されるうちに緩和され、くすぐったい心地良さすら感じていた。

 そんな礼子の表情を確かめた黒崎さんは、どさくさ紛れに襟足まで刈り上げていた。

 最後に梳きバサミで髪のボリュームが抑えられた。礼子は生まれつき髪が濃く多かったので、だいぶ削ぎ落された。

 この期に及べば、心にも余裕ができた。

「店長、左利きなんですね?」

「ああ、気づいた? 左利きは不便だよ。美容学校でも苦労したし――」

 美容道具も左利き用のものを、なんとか買いそろえたという。

「そうなんですか」

 少年みたいなショートカットにされた。

 頭の上にあった3/4以上の髪が、床で草臥れたように眠りについている。そう、永遠の眠りに。

 頭の軽さに不安定な気持ちになる。

「やっぱり礼子チャンはショートの方が似合ってる。思った通りだよ。モデルっぽいしさ」

と黒崎さんは手放しで絶賛した。

 礼子もその気になりかけるが、切り髪を掃き集めていた見習いさんがうっかり、

「そうかな、前の方が良かったと思うけど」

などと余計な感想をポロリ口走ってしまい、気まずいムードになった。

 モヤモヤした気分で店を出た。

 秋風――

「ひゃっ」

 礼子は亀のように首をひっこめた。どう考えても、短い髪に適した季節ではない。これからもっと寒くなる。

 ――でも――

 礼子は思い切ってヘッドバンキングしてみた。ブンブンと首を振っても髪は乱れないし、頭も軽々動く。初めて体験する感覚だ。

 ――無重力〜♪

 自転車で通りかかった蕎麦屋の出前持ちが、ギョッとしてバランスを崩しかけていた。女の子が公道で頭を振り回していたら、それは誰でもビックリする。

 ――また合コンに行ってみようかなあ。

 もしかしたら、筑波君と再会できるかも知れない。



 某都市を、いや日本中を震撼せしめた連続猟奇殺人事件に、終止符が打たれたのは、礼子が髪を切った翌週だった。

 急転直下の解決だった。

 犯人はあっさり捕まった。警察の水面下での地道な捜査が、実を結んだと言える。

 犯人は、あの黒崎さん……の店の見習い美容師・武内均(たけうち・ひとし)だった。

 犯行日の大半が火曜日の昼間だったため、犯人は理美容関係者ではないか、という仮説を糸口に、捜査本部は対象を絞り込み、とうとう武内に辿り着いたらしい。殺害に使用された凶器は、カット用のハサミやレザーだったという。

 周囲からの評判も良かった好青年が、犯罪史に残るシリアルキラーだったことに、世間は驚愕した。

 武内は相当ロングヘアの女性に執着していたらしい。逮捕されたときも、顔色ひとつ変えずに、

「今夜の”夜のヒットスタジオ”に岩崎宏美が出るんだよな〜」

と黒髪ロングヘアの歌手の名前を口にしていたという。とんだサイコパスだった

 家宅捜索の結果、武内の一人暮らしの部屋からは、様々な証拠品が押収された。

 証拠品の中には礼子の写真もあった。写真に添えられていたメモには、礼子の住所や電話番号、大学でのスケジュール、通学ルート、交友関係、行動範囲、生活パターン等がビッシリと書き込まれていたと、後で警察から聞いた。

 しかし、武内は急遽計画を取りやめたらしく、写真には×印がひかれていたそうだ。

 メモに記された犯行予定日とおぼしき日付は、礼子がバッサリと「イメチェン」した翌日だったと、これも刑事さんが教えてくれた。

 ――もし、あの日、髪を切っていなかったら――

とぼんやり考えてみる。不満そうに礼子の髪を掃き集めていた武内の表情が浮かぶ。

 きっと自分はモンスターの餌食になっていたに違いない。

 安堵よりも、虚脱があった。

 虚脱の先には、奇妙な寂寞があった。

 自分が犯人に、モンスターに、襲われるさまを想像してみる。

 モンスターがそっとドアを開け――

 自分を押し倒して――

 首を絞めて――

 ――顔を切り刻まれて……両目をえぐられて……

 近日中に聴取にご協力下さい、と言い残して刑事も帰ったアパートの一室で、礼子は畳に寝そべり、煽情的な妄想を繰り返す。

 ――ねえ、均さん。

 今は檻の中、法の裁きを待つモンスターに、心で呼びかける。

 あの力強く髪を洗う手で、じっくりと時間をかけ縊られる。妄想して、女性自身が熱くなる。昂奮して短い髪をかきむしる。

 ――私を殺したかったんでしょう? ショートカットの女の子だって悪くはないはずよ。他の八人の娘ばっかりズルイわ。私も仲間に入れて……

 モンスターの顔が歪む。笑っている。

 イメージの中で礼子は何度も解剖される。モンスターの欲望のおもむくままに。

 レザーで身体が切り裂かれる。切り分けられる。臓器が摘出される。ハサミで滅多刺しにされる。部屋は血の海に沈んでいく。

 むせるような血の匂いに浸され、モンスターは歓喜に打ち震え、咆哮する。

 礼子は恍惚と、モンスターによる破壊を愉しむ。

 ――明日のニュースが待ち遠しいわ。

 肉塊と化した自分を、捜査官がしかめ面で取り囲み、部屋の前ではフラッシュがたかれ、マスコミや野次馬でごった返している。

 そして、自分の名前が、顔が、全国に知れ渡るのだ。『連続美女殺人事件、初めてショートカットの女性被害者!』と。

 モンスターがまたハサミをふりあげる。血飛沫! 鼻が削がれ、喉笛がかき切られ、子宮までもが辱められる。

 ※ ※ ※ ※ ※

 礼子は畳の上、胎児のように身体を丸めた。けだるい。ものうい。

 ――つまんないな……。

 モンスターが消えた街が、ひどく退屈に思えた。


        (了)




    

   あとがき

 迫水です。本当に本当にお久しぶりです!!
 復帰第一弾はちょっと変わり種なお話でございます。
 迫水、高校生の時分から、国内外の殺人事件のノンフィクションを好んで読んでます。今でもyoutubeで事件系を扱った動画ちゃんねるを熱心に視聴しています。実在の殺人事件を基にした映画も視てます。
 今回のお話の元になったのは、テッド・バンティやサムの息子といったシリアルキラーの事件です。二つの事件とも髪の長い女性ばかりが狙われたため、断髪する女性が急増し、美容業界はかなり儲かったというエピソードがありまして、それをヒントに書いてみました。難しそうなネタだったので心配でしたが、結構スムーズに書けてホッとしています(*^^*) ほんと何か月も何にも文章を書いてなかたので。。
 現代を舞台にすると防犯カメラとかDNA鑑定とかSNSとか色々ややこしいので、昭和のお話にしました。そう考えると昔より犯罪がしにくい社会になってるのかな? 全然そうは思わないけど。。なんでだろ??
 ラストは、助かったー! 危なかったー! 良かったー!でハッピーな感じで終わってもよかったのですが、不穏なエンディングになりました。そう、「した」のではなく「なった」んです。頭の中で緻密に構成したわけでなく、あくまで勘なので、深い意味はないです。自分でもどういうふうに終わるかが楽しみなので、毎回ラストは決めずに書いてます。
 以前にも書きましたが、昔のバッサリ感が半端ないボーイッシュショートヘアが好きなんで、今のナチュラルでフェミニンなショート断髪はフェチ的にイマイチです(^^;) こればっかりは趣味嗜好の問題なのでどうにもならないです。。そう考えると、昔のショート断髪ってすごい根性要ったんだな、としみじみ思う秋の夜です。
 作品としては、「枕草子異聞」の方が先なのですが、あちらの方は間口が狭過ぎるので、こちらをまず発表させて頂きました。
 よしなしごとでも書きましたが、こうしてまた皆様の前に出られましたこと、ただただありがたいです! どうかこれからも、当サイトをよろしくお願いいたします♪




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