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ちょっとセカイ系っぽいかも


 その前夜、桂は眠れずにいた。

 もともと寝つきは良い方ではない。けれど、今夜は普段より、目がさえ、頭に血がのぼっていて、身体も緊張し、輾転としていた。

 少しは眠らなきゃ、と布団を顔までかぶったりもするのだけれど、そんな焦燥もかえって、不眠に拍車をかけるばかりだった。

「……」

 離れ座敷には照明が灯り、笑いさざめく声が漏れ聞こえてくる。男衆は皆、夜を徹して呑むつもりなのだろう。

 潮騒のさざめきが、障子越しに耳に伝ってくる。小さい頃から、いや、この世に生まれ落ちた瞬間から、常に聞いてきた音。

 桂はゆっくりと瞼を閉じ、また1853匹目から羊を数えはじめた。

 ここは、まことに小さな離島。元は流人の島だったともいう。本土から孤立しがちな地理条件から、本土とは別種のこの島特有の文化が存在している。

 島民は百人にも満たず、そのほとんどが漁猟によって暮らしを立てている。



 島の丑寅にひっそりと建つ庵寺が在る。茅葺の書院造の建物。島では唯一の宗教施設だ。遥か太古から島民たちの厚い信仰の対象となってきた。令和の今日もなお、その信仰は衰えてはいない。

 住持は代々、尼僧がつとめている。尼寺だ。

 庵寺の西隣には、和洋折衷の広大な邸宅が在る。古来よりこの島の人間を束ねる豪族・長船一族の館である。

 庵寺は島民の精神的支柱であり、長船家は世俗の元締めであった。



 この島にはとある

 儀式

が受け継がれている。

 その儀式について、少し語る。

 庵寺にはその佇まいには不相応な大きさの――三抱えはある梵鐘が存在している。

 この梵鐘は、本土からこの島に渡来してから、およそ千年以上もの間、ただ一度として音響を発したことがない。

 それもそのはずで、鐘撞堂の下に置かれたままで、未だ吊り上げられてはいない。

 伝承がある。

 この鐘は、遠い未来、三千世界が滅亡する日、初めて打ち鳴らされ、その音(ね)によって億兆の衆生を救う。そう島では語り継がれている。

 故に梵鐘は21世紀の現在でも、地に伏せられ続けているのである。

 それを吊るすための綱は、

 十八歳の処女の髪

 しかも、

 庵寺の後継者の髪

と決まっている。

 五苦章句経に曰く、「女の髪の毛には大象も繋がる」。

 庵寺の跡取りは、十八で得度し、尼となる。それが慣わしだ。跡取りは島を治める長船一族から選ばれる。それも決まりだ。

 跡継ぎと定められた娘は物心つく前から、寺に養女として入り、そこで養育される。

 学校にも行けず、将来の庵寺の住持としての心得を教え込まれる。遊び相手としてあてがわれた数人の女性の他は、島の人々からも遠ざけられ、世俗の暮らしとは隔絶した生活を送る。当然外出などほとんど許されない。

 毎日夕餉の膳には、その日獲れた鮮魚がのぼる。どんなに不漁が続こうと、それは変わらない。未来の住持には、海の恵みを誰よりも先に献じなければならない。これも慣習である。

 そうやって得度の日を待つ。

 その間、髪を切ることも染めることも許されない。ひたすら伸ばし続ける。伸ばした髪は下女によって日々梳られ、艶やかに保たれる。



 長船桂(おさぶね・かつら)もまた歴代の住持後継者同様、十八の年までそんなふうに生きてきた。

 長船の家に生まれ、庵寺に住まい、住持となる運命を与えられた。

 自分のこの髪は、明日、梵鐘を吊り上げる毛綱の一部となる。

 羊の数が二千頭に達すると、桂は目を開けた。

 夜明けまでにはまだ時がある。

 この夜が明けなければいいのに、とちょっとメランコリックな心持ちになる。

 そして、遠くない来し方のことを、ぼんやりと思い返す。

 ――桂様。

 桂と同い年だった遊び相手の藤子(ふじこ)は桂を力いっぱい抱きしめた。つい先月、島のフェリー乗り場でのことだった。

 藤子は旅装だった。大きなトランクを持っていた。この間までおさげにしていた髪を肩の辺りで切って、大人っぽくパーマをあてていた。それが桂の目にはひどく眩しかった。

 閉鎖的だったこの離島にも、この数十年のうちに新たな価値観の波が押し寄せてきていた。

 島の若者らも学校を卒業すると、島を出て都会で就職する者も多い。

 藤子もそんな出奔組の一人だった。

 幼い頃から「友人」として仕えてきてくれた彼女の旅立ちを見送ろうと、桂はその日、禁を破り、港に駆けつけた。

「間に合って良かった」

「桂さん」

 藤子は思いもかけぬ桂の蛮勇に、目を瞠っていた。

「この便で行ってしまうのね」

「お世話になりました」

「それはこちらの言うことよ。さびしくなるわね」

と静かに微笑む桂に、彼女の宿命を知り過ぎるほど知っている藤子は、両眼から涙を流し、

「桂様」

 思わず桂を抱きしめていた。

「私と一緒に島を出ましょう。尼さんになんてなることないわ。言い伝えなんてナンセンスよ。島の皆もきっとわかってくれますわ」

 激情がほとばしるまま、口走る。ずっと言えずにいた藤子の心からの言葉だった。

「藤子さん……」

 桂はしばし当惑したが、幼なじみの肩に掌を置き、

「それはできないわ」

 さびしげに首を振った。

「桂様……」

「私は私に与えられた役目を全うしなくちゃいけないの。島の人々のために。世界のために」

「強いんですね」

 藤子は唇を噛んだ。ちょっと恨めしげだった。

 視線をそらせた「友人」に、

「強くなんてない。でも――」

 桂は肩をすくめた。

「それ以外の人生がどうしても思い浮かばないのよ」

 強いと言うより鈍いのね、と、そう自嘲気味に本音で応える、そんな自分の顔を見つめ返した藤子の表情は、桂の脳裏に焼き付いている。

 静かな諦念をたたえたあの表情を、臥所のうちで反芻し、桂は自らの人生のことを顧みる。

 操り人形のように今日まで行き、操り人形のように明日――否、もう今日だ――落飾する。

 運命に抗わず、全て受け容れる。そう決めてはいたが、――

 ――強いんですね。

 藤子の声が、言葉が、胸中で繰り返される。

「強くなんてないわ」

 呟くと、桂は布団をかぶり、声を忍んで泣いた。



 結局、明け方ほんの少し微睡んだだけで、桂は晴れの儀式の日を迎えた。

 早朝から湯浴みを命ぜられ、寺の尼たちの介添えで白装束を身に着けた。

「御附弟様、本日は心お静かに臨まれますよう」

 老尼に耳打ちされ、

「はい」

と桂は小さくうなずいた。

 得度の儀は、島のやや強い春の陽光の中、挙行された。

 夜明かしした宿直(とのい)の男衆が式の場を設え、周辺を掃き清め終えていた。

 島民の大半が、この数十年に一度の儀式に立ち会い功徳にあずかろうと、寺に参集していた。彼らはとても堂内には入りきれず、庭を埋め尽くしていた。

 寺に来ない島民もわずかながらいたが、

「あいつらはアカじゃけえ。寺が嫌いなんじゃ」

とある老婆は嗤っていた。



 カンカンカンカン!

と半鐘が打ち鳴らされ、開行を告げる。

 尼たちが連なって、朗々と経を読みあげる。

 やがて、白ずくめの桂が楚々と堂内に入ってくる。その歩きざまにすら、参列者たちは感じ入り、ため息を吐かんばかりだった。無論、写真を撮ろうとする不届きな輩など、あろうはずがない。

 衆目が注がれる中、桂はゆっくりと仏前にすすみ、御本尊の前に着座した。スッと伸びた背筋、その姿勢の美しさが、これまで彼女に授けられてきた教育の成果を、無言の裡に保証していた。

 前方には経机があって、机上には、剃刀、角盥などが整然と並んでいた。堂内には香が焚きしめられている。

 桂は無言。瞑目し、静かに端座している。

 導師をつとめる庵寺の住持が入堂する。老齢とは思えないキビキビとした身のこなしは、長年の節制と修養の賜物だろう。身にまとった紫衣(しえ)が、老尼の地位を何より雄弁に物語っていた。

 住持は仏前に拝礼すると、桂に向き直った。

 桂も作法通り、掌を合わせ、頭を垂れる。

 尼僧らの読経も一旦止み、森閑とした静寂がたちこめる。桂の美と住持の威に皆うたれ、まるで集団催眠にでもかかったかのように、呆、と立ち尽くしている。

 侍者の尼が住持に剃刀を差し出す。いよいよ、だ。

 列座の尼たちがふたたび声を張り、毀形唄(きぎょうばい)を誦しはじめた。女声のアンサンブルに縁どられ、式は一層厳粛の度を増した。

 老尼はサッと桂の背後にまわる。

 侍者が束ねられた桂の髪を持ち上げる。

 気がつけば、桂は唇を噛んでいた。ハッと我に返り口元を和らげる。やはり不安は隠せずにいる。十八の身空で髪をおろすことに抵抗はある。逡巡もある。感傷もある。

 ジャ、と黒髪が剃刀と軋む音がした。

 剃刀は深く、動く。

 ジッ――

 ジッ――

という黒髪の末期の叫びは、集まった人々全ての耳に届いた。

 剃刀はレジスタンスを試みる豊かな髪と圧し合って、なおも強制撤去を執行する。

 ジッ――

 ジジッ――

 バサッ!

 ついにまとめ髪が根元から断たれた。

 残された髪が、

 婆沙、

と頬に覆いかぶさる。侍者が捧げ持つ漆塗りの盆に、重たげな髪の束が載せられた。この日の為に十八年もの間、磨き抜かれてきた枝毛の一本もない髪束。桂の女性としての命、青春の形見。

 この髪も、これまで収奪されてきた数多の尼たちの女の生命と同様、釣鐘の綱に編み込まれるのだ。

 老尼の瞳は潤んでいた。今の桂と若き日の自身が重なるのだろう。だが、表情を引き締め、厳しい顔で後継者の髪に剃刀をあてた。侍者が間髪入れず、桂の首のまわりに絹の手拭いを巻いた。

 ゾリ、

と剃刀がひかれ、額で分けている前髪を、まずは左端から毀つ。ゴソリ、と削られた。

 頭皮に剃刀の感触、瞬間、桂は戦慄した。怯懦な己を心の中で叱る。水の如き表情を保とうとした。それでも合掌する指が震えた。

 住持の手首がしなやかに動き、前頭部の髪が薙ぎ払われる。

 剃刀が運動するたびに、黒き叢(くさむら)は消え、艶めいた青い地肌が、くっきりと取り残される。叢は絶え間なく除かれ、初々しい地肌がその面積を拡げていった。

 落髪を侍者が拾い、白木の三宝に積まれた。豊か過ぎる髪ゆえ、三宝は三つも用意されていた。

 夥しい髪を剃り獲られて、どうしても苦しげな表情になってしまうのを、桂は取り繕えずにいる。

 島民たちの間からは、しわぶきの声ひとつ聞こえない。固唾をのんで見守る者、感激に打ち震える者、放心状態でいる者、偏執的な顔つきになる者、さまざまだ。

 そうした視線の先、一場の春夢は進行していく。

 春夢のヒロインは、額から頭頂までの地肌を剥き出しにされていた。両脇の髪が虚しく垂れ下がっていた。

 住持の掌が左の鬢に触れる。垂れ髪をすくい、握り、

 ザク!

と剃刀が摘む。

 もはや男でも女でもない異形の者になり果てるのだ、と剃髪の感触とともに思い知らされ、桂の目から一筋の涙が頬を伝った。

 老尼は見ぬふりをして、後ろの髪を剃った。

 ジョリジョリ、と地肌が擦れ、禿(かむろ)の美髪に刃がひっかけられ、削ぎ落されていく。

 うなじの産毛まで剃られた。真白なうなじ、そして青々とした剃り跡は陽光によく映えた。

 最後に点々と生え残る毛髪を、余さず剃り終え、ようやく老尼は剃刀を止めた。

 いつしか島民らは歓喜の相を浮かべ、ひたすらに掌を合わせていた。

 たった今、誕生した仏弟子の美しさは、彼らによって後世まで語り継がれるだろう。

「終わりましたよ」

との声に桂は顔をあげた。もう悲しみは去っていた。薄く微笑み、やがて式を終えた。この世界の終わりに衆生を救うため、先人たちのように次代へとタスキを繋ぐ役目を受容した。



 式の後のお振舞も果て、人々は去った。

 僧形となった桂は、一人庭へと出た。

 陽だまりの中、目を細め、桜の樹々を振り仰ぐ。

 花吹雪が……と言いたいところだけど、すでに葉桜だ。南国の春は足早だ。

「藤子さん」

 離れ離れになってしまった友のことに思いを馳せる。この桜の樹の下で、かくれんぼをした。打ち明け話をした。いけない遊戯に耽ったりもした。もう戻れない日々……。

 藤子は大阪でOLになるという。今頃は都会の生活に戸惑いながらも、少しずつ根をおろそうと頑張っているに違いない。その姿を想像してみる。

「藤子さん、私もこんなふうになっちゃったわ」

 赤裸の頭を撫でて、破顔。この想いは、都市の雑踏をすり抜けて、藤子の許に届くだろうか。

 地上に置かれた巨大な梵鐘に視線を移す。凝と見つめる。

「この鐘が鳴り響くときに、もう私はいないけれど……」

 遠い遠い未来を思う。

「私の髪が――例え何万分の一でも世界を救う一助になれば、本望だわ」

 桂の心の耳に、メバルが群れ泳ぐ音が微かに聞こえる。明日はきっと大漁だ。

「もうお魚、食べられないのね」

とさびしく笑う清尼を、いつしか夕暮れが優しく、官能的に、包みはじめている。


                 (了)





    あとがき

 リクエスト小説その弐は、テンプラー星人様のリクエストです。
 「とある儀式の為に髪を捧げるために剃髪される女性をお願いします。悲観的なものではない感じで。頭を撫でて泣きながら微笑むシーンも入れてもらうと幸いです。」とのご要望で、ああ、それなら得度式をシリアスに書いた短編にまとめよう、と軽く考えたのですが、「儀式」ってワードに、もっと独自性が強い方がいいのかな、と思い直し、架空の島の架空の儀式を設定しました。
 まあ、架空の儀式と言いつつ、結局、得度式なんですが。。
 書いているうちに、「あれ、これって一時期話題になったセカイ系っぽくないか」と思いました。ああいうのずーーっと書いてみたかったんですが、なかなかアイディアが浮かばなくて諦めていました。が、今回近いものが書けて嬉しいです♪
 今回のリクエスト企画、応募してくださった七割以上が、リピーターの方ばかりですごいビックリしました。想定外でした(^^;)
 よくよく考えたら企画も五回目になれば、常連様もできてくるわけですごく嬉しいです(*^^*) でも、新規の方々も取りこぼさないように配慮いたしますので、ひとつよろしくお願いしますm(_ _)m  最後までお付き合い下さり、感謝感謝です♪♪



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