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「一蓮托生」後日談E「センキュウちゃん」裏話


 そのドラマの顔合わせが行われたのは、バブル期前夜の198X年の春、桜のつぼみがほころんでいた。

 オレと同世代の若い奴らが、二枚目、三枚目、と塩梅よく居並んでいた。割かし有名なベテランの役者さんたちも何人かいた。

 自己紹介の順番が回ってきた。オレはかったるそうに立ちあがり、

「劇団○○の門脇将太(かどわき・しょうた)17歳です。面白そうなドラマなんで、まあ、しっかり台本読んで台詞をトチらないように精進します」

と横柄な態度ですっとぼけたことを言ったら、微妙な空気になった。知ったことか。

 オレはまだオムツがとれたばかりの頃から、両親の――特に母親の希望で児童劇団に入れられた。そこで子役としてみっちり仕込まれた。まだ物心がつくかつかぬのうちだったので、そんな稽古稽古の毎日に、疑念を抱くこともなかった。

 そして、8歳のとき、たまたま出演したSFドラマがヒットして、一躍脚光を浴びた。

 業界の人や親戚、近所の人、名も知らない市井の人、とにかく会う人会う人にチヤホヤされた。勿論金銭的な恩恵にも大いに預かったものだ。

 かなり嫌なガキだったと思う。ワガママは言うし、態度は悪いし。そりゃあ8歳のガキが周りから丁重に扱われたら、増長するにきまっている。

 しかし、

 子役は大成しない

と言われている通り、成長するにつれてお定まりの「伸び悩み」。周囲から人はサーといなくなり、オレは大部屋へ。

 台詞など一つもないチョイ役ばかりが回ってくる。

「『あの人は今』から出演依頼が来るんじゃねーの」

などと侮言を吐かれたりもした。

 かつては売れていた、というプライドだけは強固で、子役仲間とうちとけることもできず、鬱屈した日々を過ごしていた。

 よくよく考えてみれば、自分の意志とは無関係に芸能界に入ったのだから、別にこんな虚飾だらけの世界にしがみつくこともない。嫌なら辞めればいいだけだ。止めるヤツも悲しむヤツもいない。

 いや、俳優のヤマさんは以前から、

「お前は芝居で飯が食える男だよ」

とオレの才能に太鼓判を押してくれていたが、四十面下げた大部屋俳優の目利きなんてアテになるもんか。

 引退を決めたそのタイミングで、このドラマのレギュラーに抜擢された。

 ドラマのタイトルは、「センキュウちゃん」。

 ヒロインは勝ち気で男勝りの女子高生だ。そいつが、とある高校の弱小野球部の一員となって、女だてらに甲子園を目指す、というあらすじのスポ根青春ドラマだ。

 タイトルは漫画(ドラマ化もされた)「ライパチくん」から。ライトで8番打者だからライパチくんなので、こっちはセンターで9番で「センキュウちゃん」だ。

 オレの役どころは、ヒロインと同じ野球部員だ。最初はヒロインを白眼視していたが、やがて彼女を認め、共に奮戦することになる。

 オレは一時期少年野球をやっていたので、その経験を買われたらしい。けして演技力を評価されたわけじゃない。

 さて、お目当てのヒロインは――

 それがオレの最大の関心事だ。

 一番奥の人影が、スッ、と立ちあがる。

 サラリ、

と長い髪がこぼれる。

 凝視。

 ちょっと田舎っぽいが、色白で愛嬌もあり、なかなかキュートな女の子だ。なんとなく観音菩薩像を連想する。業界の底力に恐れ入る。

「センキュウちゃん役、○○プロ所属の吾妻朝子(あずま・ともこ)です」

 声は丸い。保母さんとかに向いてそうな柔らかな声。気が強くて男子としょっちゅうケンカしてるキャラクターだけど、大丈夫か。

「現在は丸丸短期大学の二回生です」

 短大生かよ、と内心コケる。この女がセーラー服着て高校二年生を演じるのか。まあ、ドラマではよくあることだ。杉村春子という偉大な先達もある。

 ヒロインはオーディションでの選考と発表されていたが、漏れ聞くところによれば、オーディション会場は記録的な閑古鳥状態だったという。

 それもそのはずで、女子野球部員のヒロイン役は、なんと――

 丸刈りにする

というのが条件。

 「丸刈り頭のヒロイン」というのが、このドラマの最大のウリらしい。確かに話題作りにはなる。

 こんな低予算の単発ドラマで坊主……。当然、売れっ子のアイドルや子役は怖気を震わせて忌避する。売れてなくたって嫌がる。ギャラも少ないし。

 それでも主演は主演なので、事務所に因果を含められて泣く泣くオーディションを受けに来た無名女優無名アイドルもいたらしい。

 ――この短大生もそのクチかな。

と吾妻朝子を見やる。

 他の面々も、この女、もうすぐ丸刈りになるんだな、せっかくのロングヘアなのに、と好奇と憐憫の視線を吾妻朝子に向けている。

 選ぶ側も、ロングヘア→坊主、というビジュアル的なインパクトを狙って、この長髪女子に白羽の矢を立てたに違いない。

 中学校から高校の初め頃までソフトボールをやっていて、と吾妻朝子は話している。それも合格の理由だろう。

 最後に、

「演技経験はあまりないのですが、生まれて初めての坊主頭でこのドラマに全身全霊、体当たりで頑張ります! どうか、よろしくお願いします! 皆でいいドラマにしましょう!」

と自己紹介を締めくくり、大きく一礼した。長い髪がバッと垂れ下がる。

 ――教科書通りって言おうか、優等生的と言おうか――

 面白味のない女だな、とオレは拍子抜けした。もっと毒々しいハブみたいな女が出張って来ると構えていた。

 レンズをとりかえてHな眼で吾妻朝子を鑑賞する。

 垢ぬけなさ、芋っぽさ、は清楚さに、まあ通じている。

 しかし、見た目は置いといて、花の短大生だ。遊んでいるに違いない。多分に偏見を含んだイメージで思う。

 だいたいこの女も一応は「芸能人」だ。芸能界は誘惑だらけ、オレも14歳で……それからも今日まで何人もの女芸能人たちと……ここだけの話、な。

 吾妻朝子だって虫も殺さないようなルックスでいて、裏じゃとんだ不良娘かもわかったもんじゃない。

 そうそう、ちなみに男子野球部員役のオレは丸刈りは免除されている(じゃなきゃ、こんな役蹴ってる)。ただし、運動部員らしい髪の長さで、とのお達しだが。

 吾妻朝子だけ丸刈りだと不自然ではないか、と首をひねった。同じことを考えていた子役もいて、監督に訊ねていたが、

「それだと吾妻が埋もれちまうだろ!」

と一喝されていた。

 ――なるほど。

 このドラマの一番のセールスポイントは、ヒロインの丸刈りだ。周りがゾロリと丸刈り頭になっていたら、ヒロインが映えないとの制作サイドの計算だ。

 かくして、センキュウちゃんこと、吾妻朝子を中心とした春原高校ナインの夏(実際には春)は幕を上げた。



 撮影初日、吾妻朝子は久しぶりのセーラー服に身を包んで、女優としてのベールを脱いだ。

 セーラー服姿の朝子は本当に女子高生にしか見えなかった。

 現在だったら褒め言葉なんだろうが、当時は女子高生なんて、マトモな大人なら鼻もひっかけない「ガキ」というのが社会通念だったので、周囲は口に出すのを憚っていた。

「遅刻、遅刻」

と長い髪を強い春の風になびかせ、桜並木を駆け抜けていく朝子。

 実はオレはこの日、遅刻していた。

 唯一の友(悪友だ)であり同じく野球部員役の池波(いけなみ)と近くの喫茶店でインベーダーゲームに熱中していて、どうせ時間通りに行ったって待たされるんだから、と確信犯的に現場入りを遅らせた。

 当然、

「舐めてんのか! お前らなんてどうでもいい役なんだからな! わかってんのか!」

とヤーさんみてーな助監督に散々ドヤされた。

 こっちも、

「すいません」

と頭を下げているが、心の中では、うるせー、バーカ、と舌を出している。この世界で長いことくすぶっていると、しのぎ方もおぼえ、すっかりふてぶてしくなっている。

 ――やっぱり引退すべきだなあ。

 こんな生活を続けていたら、人間としてダメになる。

 だが、オレも曲がりなりにもプロ、ギアをシャキッと入れ替えて、朝子のファーストシーンを観察する。

 自己紹介通り、経験不足なのがわかる。よく言えば初々しい。

 まあ、制作側が期待しているのは彼女の演技じゃない。命じられれば明日にでも丸刈りにしまっせ、という服従心だ。

 だから多少台詞回しが怪しくても、すぐOKが出る。

「フレッシュでいいねえ」

とスタッフにおだてられて、朝子は、

「えー、ウッソ〜、ヤダ〜、嬉しい〜! ありがとうございますっ!」

とぶりっ子していた。

 ケッとオレは吐き捨てた。コイツもこの業界のしのぎ方をわかっている。同類はすぐわかる。

 実際、スタッフ連中には愛想を振りまいてたけど、オレたちサンピンには笑顔ひとつ見せなかった。わかりやすいと言えばわかりやすい。

 池波なんて、粉かけて無視されて、

「キツイな〜」

と表向きヘラヘラしていたが、内心悔しくて、後でオレにだけ、

「チェッ、俺たちと同じ無名のクセしやがって」

と憤懣をぶちまけていた。

「坊主になったら笑ってやろうゼ」

「そうだな」

とオレはニヤニヤとうなずいた。



 オレと朝子の共演は、クランクインの翌週だった。

 野球部の門を叩いたヒロインに戸惑う男子部員たち、という場面だ。しかも、ほとんどオレと朝子のやりとりで占められている。

 オレはわざと台詞に間を挟んだり、テンポを変えたりして、朝子のリズムを狂わせた。芸歴十年以上のオレには朝飯前の芸当だ。この手の役者間のイジメには、オレも何度も泣かされたものだ。

 朝子は立て続けにNGを出し、白い頬にカーッと血をさし上らせていた。

 監督の目は節穴ではない。

「おいっ、小僧!」

と叱責の声が飛ぶ。

「お前、妙な芝居してんじゃねえよ! ちゃんとリハ通りやれ! このドラマは吾妻朝子のドラマなんだよ! お前風情の役者のエゴなんていらねえんだよ!」

「ヘイヘイ」

 オレは肩をすくめてみせる。テレビドラマ(それも低予算の)の仕事なんてこんなもの。とにかくサッサッと適当な芝居を積み重ねて、はいできあがり〜、ってな学芸会の延長だ。放映しちまえば、それきり皆忘れてしまう、そんな代物だ。

 ふと朝子を見たら、恨めしそうな目でオレを睨んでいた。オレはそんな朝子を挑発するように、薄ら笑いを浮かべていた。



 春原ナインは撮影スタート直後、急遽、野球合宿を命じられた。

 体力作り役作りの一環だ。

 カンベンしてくれよ、と頭が痛くなった。だったらもっとギャラあげろ、と上に訴えたくなった。

 しかし、プレハブのタコ部屋に放り込まれ、野球漬けの生活をしていると、少年野球時代――まだ無垢な頃だ――を思い出して結構楽しかった。

 それに同世代のヤツらと共同生活するのも楽しい。

 やがて朝子も合宿に合流する。

 春原野球部のユニフォームを着た朝子は、長い髪を編み込み、その上に帽子をかぶる。そして専門家から野球の指導を施される。

 あまり激しいプレイはさせられない。プレイの場面はカメラワークを駆使して、それっぽく撮ってくれる。主演女優の顔に傷でもついたら、ドラマの危機だ。

 それでも相応のシゴキは受ける。

「高校を卒業してからずっと運動不足で」

と言いわけしつつ、朝子は白球を追う。大分しんどそうだった。



 年頃の男女を一か所に集めて、ドラマのことだけ考えろというのも無理な相談だ。

 皆、許容範囲内で青春を謳歌する。

 スタッフも一緒に花火をやったりバーベキューをやったりする。

 朝子も段々とオレたちに心を開き、自然な笑顔を見せるようになっていった。

 年下の男子どもに恋の話を仕かけられ、

「学校は女の子ばっかりだし」

とのらりくらり、かわしていた。

「でもコンパとかやってるんでしょ?」

と突っ込まれ、

「うーん、でも、お仕事があるから、あまり出られないの」

 無名とは言え朝子は細々と「お仕事」に励んでいるらしい。

「そういう現場で出会いとかあるんですか?」

 即席レポーター勢は食い下がるが、

「ないない、私なんて相手にされないわよ〜」

 朝子は一笑に付す。

「えー、吾妻先輩、かわいいのに」

「先輩とか言わないでよ〜」

「坊主になったら仕事どうするんスか?」

とデリカシーのない質問をされても、

「とりあえずカツラがあるから」

と笑みを浮かべながら答える。こういった問答はすでに想定済みみたいだ。

 ついには、

「朝子先輩、付き合って下さいよー」

とこっそり口にしたアルコールの勢いで告白するヤツまで現れる始末。

「私が坊主になっても愛してくれる?」

「うーん」

「なんで考え込むのよ」

と朝子が求愛者の肩を押してよろめかせて、大笑いになった。オレもこっそり笑う。

 全員芸能人であると同時に、青春真っただ中のティーンエイジャーなのだ。夜の闇は束の間、せせこましい業界のことを忘れさせてくれる。

 合宿所は山間のド辺境にあるので、騒いでも大丈夫だ。

 誰かが運び込んだステレオを屋外に持ち出して、大音量でレコードをかけ、

 ディスコごっこ

をする。

 見様見真似で手足や腰を動かしているヤツ、実はこっそり夜遊びしていてかなり胴に入ったヤツ、ウケを狙って変な踊り方をするヤツ、色んなタイプがいる。次はサザン〜、次はYMO〜、次は横浜銀蝿〜、と盛んにリクエストする者もいる。

 池波なんかは奇天烈なロボットダンスを披露して、場を沸かせている。一人腕組みして、インスタントダンサーたちを見物しているオレに、

「おい、そこの見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々〜」

とオレを踊りの輪に引きずり込もうとする。

 なんとか池波をかわして、見物を続けるオレの手を誰かが引っ張る。

「ん?」

と振り返ると、なんと吾妻朝子だった。挑むような眼でオレを見据えている。

「ちょっと来て」

「なんだよ?」

「いいから」

 朝子はグイグイとオレの手を引き、オレはさして抵抗せず、朝子にくっついていった。

 ――まさか女子大生を食えるとは。ムフフ。



「お〜い、まだか〜」

「待ってよ!」

 あわててジャージを引き上げる気配。

 合宿所のトイレは屋外にある。かなり寂しいトコにある。しかも電気もなく、夜だと男でも気味が悪い。ボットン便所だし。

 甘〜いロマンスを期待してついて来たら、臭〜いところに。

「なんだってオレがアンタのウンコに付き合わされなきゃなんねーんだ」

「ウンコじゃないわよ! 失礼ね!」

 朝子は肩をいからせる。が、年上の余裕を取り戻し、

「だってキミ強そうじゃん」

 神奈川出身の朝子はたまに「〜じゃん」と地元言葉が出る。

「トイレの付き添いに腕力は関係ねーだろ」

「まあまあ」

「さっさと戻ろうぜ」

「OKOK」

 長い髪が揺れて、シャンプーの香り。ドキドキ。ガキっぽく胸をときめかせるオレだ。

「さあ、行きましょう」

「足元気をつけてくれよ」

 紳士ぶるオレに、朝子は歌うように、

「大丈夫。歩けや歩け、一歩踏み出しゃ、そこは新世界〜」

 オレはハッとした。9年前のSFドラマでのオレの台詞だった。

 不意を突かれたオレに、

「うふふ」

 朝子はいたずらっぽく含み笑う。

「やっぱりジロウ君だ」

 当時のオレの役名を口にする。

「昔の話だよ」

「私、あのドラマの大ファンだったの。特にジロウ君のファンだったの。毎週ワクワクしながら観てたのよ」

「超能力は使えねーよ」

「ファンレターも書いたんだけどな〜。読んでくれた?」

「あの頃は山のようにファンレターが届いてたから、いちいち読んでられなかった」

「え〜、私の人生でたった一通だけ書いたファンレターだったのに〜」

「知るか」

なんて憎まれ演技をするが、満更でもない。朝子がオレに宛てたファンレターなら読んでみたかった。

「ジロウ君と共演できるなんて夢みたい」

「ガッカリしたろ? あの紅顔の美少年がこんなサエナイ大部屋になってて」

「今でも十分美少年よ。性格はものすごく悪いけど」

「褒めてんのか貶してんのかはっきりしろよ」

「明日の撮影は試合のシーンだね」

 朝子は話題を転じた。

「ああ」

「合宿の成果が生きればいいんだけどね」

「主演女優様はケガの心配だけしてな」

「何よそれ、ひやかし? ぶつわよ」

 朝子がオレを叩く真似をする。

「お〜怖い怖い」

とオレは調子に乗って、ベーと舌を出し、逃げる真似をする。ちょっと追いかけっこ。なんだか「青春」って感じ。

 人の話し声がしたので、オレたちは反射的に足を止め、息をひそめる。

 話し声は風にのって聞こえてくる。撮影隊のオッサンが二人、愚痴っている。

「どうせ間に合わせのB級ドラマだよ。監督の指示に頭下げて従ってりゃいいさ」

とか話している。オレが腐って手抜きしてるのと同様、スタッフにもそういう手合いはいるものだ。

「主演の娘っ子も大根ですしね。イマイチ華がないし」

「所詮、丸刈りにすることしか価値のないお嬢ちゃんさ」

「あいつの事務所の人に聞いたんですけど、このドラマの後はスケジュール、ほとんど白紙らしいですよ」

「最後のあがきってやつだな」

「あ〜あ、でも、次の撮影は大人気アイドルの小日向ちなみちゃんの連ドラっすよ」

「そっちに全力尽くそうぜ。こっちは適当に片付けてさ」

 オッサンどもはオレたちの気配にも気づかず、言いたい放題だ。

 オレはあわてて朝子を振り返った。朝子は目を伏せ、唇を噛んでいた。ついさっきまでの快活で無防備な十代の女の子じゃなくなっていた。

 気がつけばオレは、二人に飛び蹴りをくらわせていた。

「うわっ!」

「だ、誰だ?!」

 闇討ちを受けて周章狼狽するオッサンども。

「行こっ」

 朝子はオレの手をとって駈け出していた。二人で真夜中を突っ走る。

 プレハブ小屋に隣接しているグラウンドの隅っこ、どちらからともなく走るのをやめた。

「ねえ、タバコない?」

「あ?」

「持ってるんでしょ」

とせびられ、オレは胸ポケットからハイライトを引き出し、一本渡してマッチで火をつけてやった。

 朝子はまずそうに、それを吹かした。そして、

「何熱くなってんの? 大丈夫よ」

と肩をすくめて言った。

「あんな陰口言われ慣れてるから」

 朝子はほろ苦く笑う。本当は傷ついてるクセに。

「子供の頃ね――」

 朝子はポツリポツリと語り始める。

「地元のコンサートホールで歌手のステージを観たの。男の子も女の子も、大人も子供も、優等生も落ちこぼれも、いじめっ子もいじめられっ子も、お金持ちの家の子も貧乏な家の子も皆夢中になって……ステージに向かって、こう手を伸ばして。そのとき思ったの、私もあっち側に行きたいって」

「あっち側?」

「そう、あっち側」

「ステージに立つ側?」

「まあ、そう」

 中学に入ってから、朝子はあっちこっちの芸能事務所に書類を送りまくったそうだ。そして今の事務所に拾われたという。

 でも現実は厳しい。泣きたくなるくらいミジメな仕事ばかりがチョロチョロ回って来るだけの下積み生活。

「それでも、”一歩踏み出しゃ、そこは新世界”って自分を奮い立たせてきたけど、全然芽が出なくて……私、もう今年の冬で二十歳なのよ。後がないの。周りの娘がオーディションを受けるのを嫌がってるこのドラマのヒロイン役なら、私にもチャンスがあるかも、って応募したの。私、このドラマに賭けてるの。坊主頭でもなんでもなってやるわ。なりふり構っていられないのよ」

 そう言って、朝子はタバコをもみ消し、弓張月を仰いだ。決心を固め直しているようだった。

 オレは心の中のカレンダーをめくった。

 この合宿が終わると同時に、朝子は髪を切る。それまで、あともう5日しかない。



 ちょっとストーリー説明を。

 ヒロイン・センキュウちゃんは女子でも出場可能な練習試合のスタメンになるが、サヨナラエラーをやらかして自慢の鼻をへし折られる。

 センキュウちゃんはドン底まで落ち込む。家に引きこもる。だが、仲間たちに励まされて、慢心していた自己を恥じ、決意を新たにするべく頭を丸める。このドラマの山場だ。

 断髪場面は描かれない。センキュウちゃん覚悟の表情→丸刈り頭で部室に現れる、という流れだ。



 朝子の断髪式の日は小雨が降っていた。まるで、朝子の女の命との別れを悲しむように。

 オレらも合宿所を去る。

 朝子は麓の床屋で髪を切る。

 スケジュールは非情で、坊主になったらすぐに撮影が控えている。なので、オレたちも流れで、朝子の断髪に立ち会うことに。

 店内はポマード臭かった。床屋は男臭かった。何しろ昭和50年代の田舎の床屋だ。殺風景で実務的なこと、この上ない。壁にはデザインパーマのポスターが貼ってあった。

 貸し切りではない。他の客も出入りしている。曲がりなりにもアイドルでテレビドラマの主演女優の断髪会場にしては、雑過ぎた。大名なのに庭先で切腹させられた浅野内匠頭を思いおこさしめる。低予算が祟ったのだろう。

 現在だったら、万が一ディスク化された場合のことなどを考えて、映像特典としてこういう舞台裏をフィルムに収録しとくんだろうけど、当時はそういう発想はない。こんな単発ドラマにフィルムの数コマすら勿体ないというのが、テレビ界の常識だった。

 すでに水色のケープを巻かれた朝子は、けだるそうに髪をかきあげて、

「お願いしま〜す」

とふてぶてしい態度を決め込んでいたが、いざバリカンが視界に入ると、

「ああ〜」

と消え入りそうな声で、意味なく間投詞を発して、一気にシュンとなっていた。

 オレも周りも女――それも長い髪の女が丸坊主に刈られる現場なんて、当然初めてだ。経験豊富なスタッフですらそうだ。中には、以前インドで若い現地女性の剃髪を撮ったことがある、と自慢げに語っている古参もいたが。

 朝子とは合宿を通じてお互い知るところも多かった。ゆえに憐憫の情が湧くが、それよりも好奇心の方が先に立つ。

 朝子も女優の端くれ、気を取り直し、平静を装おうとするが、

 ヴイイイイイイイィイイン!

とバリカンのノイズがほとばしると、顔を青ざめさせていた。

 いきなりバリカンで行くの?!

とその顔には書いてある。オレも驚いた。大胆な床屋だ。

 朝子、ちょっと神経質に首を動かす。

 床屋は朝子の首根っこをつかむようにして、頭を固定させ、ノイズをまき散らすバリカンをその前髪に差し込んだ。微塵の迷いもなく。

 声にならぬどよめきがおこる。

 グワアアア!と前髪が脳天まで裂け、芝生状の数mmの毛を残して、おびただしい切り髪が、ドサドサと降り落ちた。

 今度は声にならぬ溜息が、居合わせた全員から漏れる。

 朝子は顔をしかめる。この当時の女坊主の敷居の高さはハンパじゃない。現在になってもなお市民権を得ていないジャンルなのだから、想像がつくだろう。

 床屋のオヤジは眉ひとつ動かさず、発注通りテキパキと作業を進めていく。このオヤジ、今になって考えてみれば、いわゆるサイコパスだったのかも知れない。それぐらい非情過ぎるカットの仕方だった。

 グワアアア! グワアアア!とオヤジはバリカンを押し進め、頭上の髪を次々と覆し、数mmにならしていく。

 バリカンは朝子の頭を、縦横無尽に這いずり回る。その運動に沿って、髪が勢いよく後ろに移動し、ケープにバサリと音を立てて散る。

 朝子の前髪がゴッソリと無くなった。

 額がパッと出た。整えられた眉毛がグニャリと歪んでいた。

 朝子は少し落ち着いた。というか、あきらめたというか、あきらめざるを得ないというか、何せ、もう後戻りできない。途中でやめるわけにもいかない。

「もォ、やだぁ〜」

と無理して照れ笑いなんかして、オレらに「ネクラ」と思われないよう抵抗を試みる。意外に見栄坊なトコもあるらしい。

 しかし、オレたちはすっかり度肝を抜かれ上の空、だって、ものすごく長い髪が目の前でバリバリひん剥かれているのだ。圧巻だ。

 固唾をのんで「惨劇」を見守っていたら、

「スゲーな」

と後ろで呟いている大人がいて、振り返ると俳優の井伏(いぶせ)さんだった。腕組みして見物に参加している。この人はヒロインの父親役。地味だが結構いい芝居をする。野次馬根性でノコノコこんなところまで出張ってきたらしい。

「女優魂だな」

と独り言ちながら、うんうん頷いている。

「女優魂ねえ」

 オレも独り言ち、落ち武者のような髪になった朝子をさらに凝視する。

 我らが主演女優は、ついに笑顔を断念して、ションボリと頭を刈らせている。降水確率75%くらいの曇り顔だった。

 横髪がジョリジョリと剃り込まれている。まず右サイドを――

 グワアアア!

 バサバサバサッ!

 容赦なく――

 グワアアアァァ!

 バサバサバサッ、バサッ!

 豊穣だった漆黒の草原は、みるみるその領域を減らしている。そして、刈り尽くされ、芝生に変じる。

「……」

 合宿所に置いてあった芸能誌の記事を思い出す。

 人気アイドルA子の映画のニュースだった。大きなカラー記事だ。役作りのため、肩までの髪をショートカットにしたと記事は大々的に報じている。髪を短くしたA子の写真もデカデカと紹介されていて、

『髪を切るのは三日悩んで決めたけど、やっぱり泣いちゃった』

とA子本人の嘘八百のぶりっ子コメントも載っていた。

 実は同じ号に朝子の記事も掲載されている。だが、こっちは白黒で、お年寄りならば天眼鏡が必要な小ささ、

『坊主もヘッチャラです! 是非ドラマにご期待ください!』

という朝子の勇ましいコメントも、気を抜いてたら読み飛ばしてしまいそうだ(朝子に質したら、そんな取材は受けていないとのこと。雑誌編集部か事務所かドラマ制作陣が勝手にデッチあげたらしい)。

 芸能界ほど格差が大きな世界もない。

 売れっ子はちょっとしたヘアーカットでもマスコミが押し寄せるが、朝子は無名の悲しさ、丸刈りにまでなってもはせ参じる記者は0人だ。

 いいさ、これからバカみたいに売れに売れて見返してやれば、さ。いつしか完全に朝子に肩入れしているオレである。

 その朝子は乙女と高校球児の狭間にある。

 床屋のオヤジは全ての襟足を指でひっかけ、持ち上げる。のれんのように垂れさがる襟足を、右から左へ順々に刈り上げていく。

 鉄の刃が食い込んで、

 バリバリ

 バリバリ

と髪が悲鳴をあげ、左、左、左、とたちまちのうちに剃り除けられる。サーッと芝生が広がっていった。

 朝子はケープから手を出して、親指でそっと目頭を拭う。やはり泣いた。しかし、涙は一粒にとどめた。強い女だな。

 ラスト、左の髪が一筋残された。コメカミからケープを這って伸びている最後の牙城。

 アイドル吾妻朝子と女子球児センキュウちゃんが渾然一体となる。

 最後の一房にバリカンが入る。

 バサッ!

 丸刈り頭が完成した。

 一同背筋が伸びる思いだったが、

「あ〜あ〜」

と朝子が殊更に情けない表情(かお)で、坊主頭をガリガリとかき回してみせたら、そのコメディエンヌぶりに、

「マルコメ味噌〜」

「一休さ〜ん」

とひやかす声が飛んで、明るい方へと着地した。

 朝子は美少年になった。この頭じゃ、短大生です、もうすぐ二十歳です、と言ってもピンク映画観れないだろうな。

 すさまじい量の落髪、一房欲しいとあらぬ欲望が湧き上がったが、無論我慢するしかなかった。

 その夜、朝子の落髪が蛇になって襲いかかってくる悪夢にうなされた。



 それから撮影は快調に進行した。

 朝子は体当たりで役をこなした。坊主頭になってスイッチが入ったらしい。自分の演技に納得いなかったら、

「お願いします! もう一回やらせて下さい!」

と撮り直しを懇願していた。

 役者としての情熱は、坊主頭同様、ヒロインと重なった。

 朝子の熱気はティーンだけではなく、ベテラン勢やスタッフにも伝播した。

 オレも役者としての引き出しを全部開け、ドラマに没入した。そうやって撮影を終えた後の飯は旨かった。

 画のつながり上、朝子は毎回撮影に入る前、ヘアメイクさんに坊主頭を刈ってもらっていた。

 撮影当初は、

「全部切っちゃうの勿体ないね」

と惜しみつつ、ロングの黒髪を整えていたヘアメイクさんだったが、3mmのアタッチメントをつけてバリカンでガーガーやるのが楽しそうで、

「カワイイ〜」

と目尻を下げていた。

 朝子も朝子で高校球児ヘアーに慣れ、

「サッパリ〜」

と軽くハシャいでいた。



 撮影最終日、場所は千葉県の某球場、

 女ということを隠し、夏の高校野球大会地区予選に出場したセンキュウちゃんは、打って守って大活躍。ついに試合後半、マウンドにあがり、男の打者相手にバッタバッタと三振を獲りまくるが(なんというシナリオ!)、最終回に逆転サヨナラホームランを打たれ、

「敗けた……」

と呆然自失。

「センキュウちゃん!」

「センキュウ!」

 春原ナインは敗戦投手に駆け寄る。

「みんな、ごめん」

「何言ってんだよ、お前はよくやったよ!」

「そうだよ、僕たちが不甲斐なかったせいだよ」

「でも……」

「胸を張れよ、センキュウちゃん」

と色々やりとりがあって、最後、センキュウちゃんは、

「よし! 来年こそは甲子園!」

と太陽のような笑顔で大空を見上げる、そのカットで物語は幕。

 ドラマ「センキュウちゃん」無事、クランクアップ!

 ※ ※ ※ ※

 撮影が全部終わった後も、皆立ち去りがたく、別れを惜しんでいた。

 季節的にはそろそろ梅雨なのだが、オレたちの中で「夏」は終わっていた。

 でも「夏の終わり」を認めたくなくて、あがくように現場に居残る。

「また集まろうゼ」

と言い合う。そんな約束をしなければ、ここを離れられない。この口約束はきっと結実するだろう。信じる。「同窓会」楽しみだなあ。絶対行く。幹事はやらない。でも行く!

 朝子はあっちこっちから声がかかって、サインや写真を頼まれたりしている。すでに売れっ子の風格が出ている。

 ようよう解放され一人物思いに耽っていたが、オレを見とめるや歩み寄ってきた。

「じゃあね、ジロウ君」

「その名で呼ぶな」

「いいじゃん」

 また神奈川弁がこぼれる。そして、

「いいドラマになりそうだね」

と破顔する。

「そうだな」

「たくさんの人に観てもらいたいね」

「そうすれば視聴率も獲れる」

「生々しい言い方、嫌いよ」

 朝子は鼻にしわを寄せてみせる。

「せっかくだからビデオ買ってもらおうかしら」

「ホントかよ?!」

「言ってみただけ」

「なんだよ〜」

「フフフ」

「そういや、レギュラー決まったんだって?」

「うん」

と朝子は頷いて、

「テレビドラマと深夜のバラエティーのアシスタント」

 動物園を舞台にしたコメディドラマで朝子は、大チョンボして反省のため自ら頭を丸める飼育員役だという。バラエティーも、

「坊主のまま出てくれって言われてるの」

 思い切りキワモノじゃねーか、と思ったが口には出さない。それぐらいのデリカシーをオレも遅まきながら獲得できていた。

 朝子だってわかっている。

「まだそういう扱いだけど、初めて名指しで来た出演依頼だからね。そこにしかチャンスはないわ。でも、これを突破口にして、歩けや歩け、一歩踏み出しゃ、そこは新世界、よ」

「いっそ、坊主専門女優を目指せばいい、日本で唯一の」

 オレの提案に、

「坊主専門女優? 何それ? 演じられる役柄が極端に狭くないかしら?」

「あるだろう、尼さんとか」

「他には?」

「大チョンボして頭を丸める婦警さんとか、大チョンボして頭を丸めるOLとか、大チョンボして頭を丸めるくノ一とか」

「大チョンボしてばかりじゃない! いやよ、そんなの」

 二人笑う。オレはゲラゲラと。朝子はクスクスと。

「まあ、しばらくは坊主生活ね」

 そう言って、朝子はすっかりサマになった短い毛を撫でた。

 二人並んでロケ地を離れる。

「あのさ――」

 勇を鼓して切り出す。

「うん?」

「また会えるかな?」

「同窓会には出るつもり」

「そうじゃなくて……二人きりで、さ……」

 朝子は黙った。

 オレは逸る気持ちを抑え、朝子の返事を待った。

「う〜ん」

 朝子はうなった。

「それは無理ね」

「え?」

 オレは硬直した。

「だって――」

と拒絶の理由を語りかけたその横顔が、

「あっ!」

とほころぶ。

 次の瞬間、

 ブンブンブンブン

 パラリラパラリラパラリラ〜

 けたたましい爆音を立てて、数台の改造バイクが走ってきた。暴走族だ!

「おう、朝子」

 首領株らしきグラサンにリーゼントの男が朝子に声をかける。

「レイジ!」

 朝子は目を輝かせて、そいつに駆け寄る。

「朝子、坊主似合うじゃん」

「イカすぜ」

「今日で撮影終わりなんだろ。神奈川から飛ばしてきたゼ! 久しぶりにブッ飛ばそうゼ!」

「うん!」

 朝子はリーゼント男のバイクの後ろにまたがると、その身体に腕をまわす。で、オレを振り返ると、

「だって私、彼がいるから。ごめんね」

と笑顔で言い残し、ヘルメットをかぶる。

「朝子、なんだそいつ?」

「ドラマの共演者」

「よおよお、ニイチャン、ナニ他人のオンナにモーションかけてくれちゃってんの?」

 暴走族どもがオレにからんでくる。

「そーゆーのは良くねーな」

「ちょっと話し合おうか?」

「来いよ」

 オレは猛ダッシュで逃げた。態度はでかいがケンカは弱い。それがオレだ。

 逃げて逃げて逃げて、振り向くと暴走族はさっさと走り去っていた。

 豆粒ほどの朝子の背中に叫ぶ。

「バカヤロー! お前が有名になったら、ゾクとつるんでるって週刊誌にバラして足引っ張ってやるからなー!」

 叫び終える前に、族車はカーブを曲がり、見えなくなっていた。



 徒然にテレビを見てたら、高校野球の話題。

 二人の女子野球部員が特集されていた。稲葉ナントカって娘と宍戸ナントカって娘だ。

 二人とも頭を丸刈りにしていた。ビックリした。と、同時に懐かし気持ちにもなった。

「気合いです」

「他の男子もやってることだし、じゃあ自分も、と思って」

と二人はインタビューに答えていた。稲葉はカワイイ系でスタイルがいい。宍戸は美人系で上品だ。

 男子に混じっての練習光景も流れる。その若さが眩しい。こちとら、もう還暦間近だ。

 あの「夏」の出来事を思い返す。今となれば、甘酸っぱい思い出だ。

 「センキュウちゃん」はあの年のお盆シーズンに某局で放映された。

 予想以上の反響があったらしい。予算やキャストや放送時間などを考慮に入れれば、十分成功作だったと言える。

 あれから朝子とは一度も会っていない。

 同窓会は六回あったが、オレが参加したときには朝子は来れず、朝子が顔を出したときにはオレの都合がつかずと、偶然のすれ違いが続いた結果だ。もっとも、あんな振られ方をした後じゃ、どんな顔をして会っていいか困る。

 朝子は「センキュウちゃん」からしばらく女優として活動していた。

 映画やドラマや舞台などで、脇役で出ていた。写真集も出版された(買った)。

 さすがに、その頃には髪は伸ばしていた。

 しかし、バブル絶頂期頃にはその名前を聞かなくなった。風の噂ではひっそりと引退したらしい。

 だから、「センキュウちゃん」は朝子の唯一の主演作だ。

 「センキュウちゃん」はカルト的な人気を博し、90年代にはビデオ化され、21世紀に入ってDVD化された。今でもネットなんかで熱い作品解説を見かける。役者冥利に尽きる。

 ありがたいことに、今年「センキュウちゃん」はBlu-rayディスクとして、また世に出る。オレも自腹で買った。

 確かに、画像は綺麗になったのだけど、フィルム感がなくなると、どうもあの時代の空気みたいなもんが薄れてしまっているようで寂しい。贅沢な不満だが、まあ、時代を超えたってことだな。ジジイの感傷は胸にしまっておこう。

 何故か妻の目を盗んで、Blu-rayを再生する。

『遅刻、遅刻』

と桜の中を駆けてくるセンキュウちゃん、いや、吾妻朝子。長い髪を春風にたなびかせて――

 不意に、あの頃の空気感が脳裏に蘇る。

 雨上がりのアスファルトの匂いだったり、タバコの煙だったり、クラスのあの娘が背伸びしてふっていたコロンの香りだったり、テレビでちょっと観た外国映画のワンシーンだったり、RCサクセションの歌詞の一節だったり、駅前の汚い立ち蕎麦屋のタヌキそばの味だったり、どうしてもつっかえてしまったあの台詞だったり――

 坊主頭の朝子が投げ、打ち、走る。笑い、怒り、泣く。

 ――かわいいなあ。

 もはや自分の娘よりずっと年下になってしまった朝子を、慈愛の目で見守る。……つもりが、いつしかオレはあの頃のオレに戻り、液晶画面の向こう側の朝子とイチャイチャしていた。

 ――朝子〜、坊主頭カワイイぞ〜、デヘヘ。

「あなた、何してんの? 栗田(くりた)さんが来てるわよ」

「お、おう、ちょっと待て」

 オレは甘い(キモい?)夢想を破られ、現実に引き戻される。世知辛え。

「門脇先生」

とマネージャーの栗田が、部屋に入ってくる。

「おう、栗田、どうした?」

「先週からお話している大河ドラマの件なんですが――」

「ああ、井深希和子(いぶか・きわこ)チャンが主演を張るっていうアレか」

 「東風(こち)吹く」ってドラマで稗田弾正(ひえた・だんじょう)っていう武将役を演って欲しい、と脚本家直々のオファーがあったそうだ。悪辣な梟雄だという。

 まあ、この年齢(とし)になってもお呼びがかかるのは、ありがたいことだ。

 「センキュウちゃん」を花道に引退すると決めていたが、皮肉にもあのドラマで役者道に目覚め、往生際悪く粘ってみたら、粘ってみるもので、すでに故人となったヤマさんの予言通り「芝居で飯が食える男」になった。

 最近はバラエティーからもお声がかかる。門脇さん、いいキャラしてますね〜、と芸人に面白がられる。うるせえ、と思うが黙って笑っている。

 求められるままに、過去の出演作の舞台裏を語ることも多い。だけど、「センキュウちゃん」の裏話だけはしていない。すればDVDやBlu-rayの宣伝になるんだろうが。

 正直、そうやって世間の話題になれば、ネットで他人を小馬鹿にしてるバカにも見つかる。そのバカどもにドラマや吾妻朝子のことを汚されたくはない。純情ジジイと笑わば笑え。いや、笑うな!

「ああ、そういや――」

とオレはとぼけて、

「『センキュウちゃん』の同窓会はいつだったかな?」

 マネージャーが教えてくれる日付を脳内で確認する。

 今回のBlu-ray発売を祝して、何十年ぶりかで春原ナイン他が集まる運びとなった。

 オレもスケジュールをやり繰りして参加する。あいつらももう白髪のジジイか。

「ああ、そういや――」

とまたオレはとぼけて、

「ヒロイン役の女優も来るみたいだな。エート、名前なんて言ったっけかなあ?」

「はい、四方田(よもだ)朝子さんですね」

「四方田? あっ、そうか、もう結婚してるんだな。そりゃそうだ」

「門脇先生のご依頼通り、池波さんを通じてお誘いして、なんとか来てもらえることになりました」

「あれ? オレそんなこと頼んだっけかなあ?」

「えへへ」

「何故笑う?」

「いえ、失礼いたしました」

 オレは窓から眼前の富士を仰いだ。この風景が気に入って、最近この土地に終の棲家を建てたのだ。

 吾妻朝子、いや、四方田朝子ももう婆さんか。

 会いたい。年ごとに無性に慕わしくなる。

 同窓会に孫でも連れてきて、オレの中の四十年来の甘美な幻想を、粉々にぶち壊してもらいたいものだ。

 反面、

「文春砲には気を付けよう」

 「ベテラン大河俳優が元アイドル女優と熟年W不倫」というゴシップ記事の見出しを想像して、自分の枯れなさについ苦笑がもれる。



(了)



    あとがき

 迫水野亜でございます。
 今回はまたまた80年代を舞台にしたストーリーです。「一蓮托生」後日談シリーズの中では初めて稲葉素子の物語以前を描いています。
 種を明かしてしまいますが、このドラマ「センキュウちゃん」のモデルは1982年に放映していた「おれたち夏希と甲子園」です。女坊主マニアの間では伝説となっているドラマです。DVD化もされています。セコイ話ですが、断髪シーンはないのでDVD購入を見送っていたのですが、NHKのHPでごく一部映像が後悔されていたので、視聴してみたらメチャメチャ興奮しました。
 その興奮を基に今回の物語を書いてみましたが、いや〜、ムズイ(汗)  一番困ったのは80年代前半の若者事情、ドラマ事情です。これがよくわからない。当時生まれてはいたんですが子供過ぎて。。
 業界モノは「シュッケの理想と現実」以来、異常なくらいたくさん書いてきたんですけど、40年くらい前の業界になるとトンとわからない(^^;) 今は当たり前に使っている言葉も当時は使っていたのか、例えば「めっちゃ」とかは言ってなかっただろうし、「マジで」とかも微妙だな〜、「マウント」「○○アピール」って語もネット以降だろうしな〜、と悩みました。「枕営業」や「オファー」「ツッコミ」って芸能界を語る時に用いられるワードも当時は使用されてなかったろうか?と考え考えして。。朝子や将太と同世代の方も読まれているかも知れませんし、迂闊なことは書けない。時代劇より難しかったです(汗)
 たぶん当時の女の子の口調はいわゆる「女言葉」じゃないかな、芸能界は現在よりヤバかったんじゃないかな、と想像しつつ、ようよう完成に漕ぎつけました。そういった「時代考証」に振り回された挙句、一番被害を被ったのが、もう皆さんわかってますね、断髪シーンです(--:) 尺も長くなっちゃったし。。
 迫水が大河ドラマを視聴していて、たまに「何故これほど美味しい素材(人物や時代)をこんなに不味く調理するの?」と言いたくなる作品があるのですが、今回の自作について同じ感想を抱いています。発想は悪くないんだけどなぁ。。うーん。。
 でも、気づかないふりをして、自分に嘘をついて、心を殺し、また罪を重ねて、危険な誘惑に飛びついて、大人たちの言葉に背を向けて、汚れた街をアイツと二人逃げ出し、それでもまだ未来(あす)を諦めきれず、今夜も路上で愛を歌いながら、泥まみれのバスケットシューズで空き缶を蹴飛ばして、今回発表の運びと相成りましたm(_ _)m
 ふざけすぎてスミマセン(汗)
 次回はもうちょっとマシなものを書きます。
 お付き合い感謝感謝です〜!



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