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厄落とし


 もうどれくらい前だろう。

 学生時代の友人たちと、夜、ドライブした。

 面子の中にNという男がいた。Nとは小学生時代からの付き合いだった。美容師をしていること、早婚だったが家庭がうまくいっていないこと、は聞き知っていた。

 この夜、Nは終始黙りこくっていた。

 私は美容師というNの仕事について、彼の口から、私にとって「有益な情報」を引き出すべく、あれこれと話しかけたが、Nは暗い顔で気のない受け答えをするばかりで、剽軽者だった少年の時分の面影は失せ果てていた。

 当時Nは、ロシア文学にハマっていたらしい。そう聞けば、ドストエフスキー作品群の登場人物っぽい風貌をしていると言えば言えた。彼自身も無意識に(或いは意識的に)、それらのキャラクターを模倣していたのかも知れない。

 情報収集を諦め、他の面々とハシャいでいたら、Nは陰鬱な顔のまま、陰鬱なトーンで、

「髪の毛ってさ、人の怨念とか邪念とかが憑きやすいんだよね」

 ボソリと言った。

「へえ」

 私は彼の方を向いた。

「だから、俺ら髪を触る仕事だと、うつ病になる美容師も多いんだよ」

とNは車窓から夜の闇を眺めながら、そう話した。

「そうなんだ」

 私は曖昧に応じた。あまり「有益な情報」ではなかった。

 Nとはそれっきり会っていない。

 自死した、という噂もあれば、年下の女の子と再婚した、という噂もあった。独立して自分の店をオープンした、という噂もあれば、いや、夜の仕事を始めた、という者もいた。旅順で戦死した、という者もいれば、いや奉天だ、という者もいた。

 ともかくも、

 髪は人の念が憑きやすい

という友の言葉をヨスガに、以下の一挿話を記す。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 初めて押す床屋のドアは軽かった。

 他に客はいない。ラッキーだ。

「いらっしゃい」

という初老の床屋の不審げな視線も、サラリかわし、唐澤奈帆(からさわ・なほ)は指し示されるまま、カット台に飛び乗るように座った。

 迷いも躊躇(ためら)いもこれっぽっちもなかった。

 鏡で有髪の自分をまじまじと見る。髪、腰まである長い長い黒髪、実によく伸びた。ボロボロに傷み切っている。それが、これまでの懊悩の日々を、何より雄弁に物語っていた。苦しみあがくとき、いつもかきむしっていた長い髪、その髪を、

「全部剃っちゃって下さい」

と奈帆はいとも軽々と言ってのけたものだ。

 床屋の方が怖じ気づいて、

「いいんですか?」

 何回も念を押され、

「ええ」

 奈帆は微笑をたたえ、うなずいてみせた。



 その30分前――

「よく乗り越えられたね」

 ニコやかな医師の顔が、眼の前にあった。

 投薬はこの日、完全に終わった。

 奈帆の六年にわたる苦闘にも、終止符がうたれた。

 この白峰医師の前で泣き崩れたこともある。悪罵を放ったこともある。膝下に身体を投げ出したこともある。

 それでも白峰は辛抱強く、けして奈帆を見放さず、柔和に、しかし、しっかりと彼女の病と向き合ってくれた。

 こうして復調することができたのも、この医師のお陰だ。感謝が奈帆の胸を、あふれんばかりに浸す。

「貴女、仏門の方でしょう?」

「はい」

「今回の経験で、苦しむ人の気持ちがわかる立派な宗教家になれる。回り道をしたと思わないで下さいね」

「はい!」

 奈帆の返事は力強かった。その通りだ、と病にすらお礼を言いたい。

 柔らかく笑み、目を細める白峰に、心からのありがとうの気持ちを述べて、奈帆は長年通い続けたクリニックを後にした。

 圧倒的な、それこそ宙に浮かび上がるような解放感が、全身を包む。

 クリニックを出たら、日差しが眩しい。目がくらみそうになる。

 ――世界ってこんなに明るかったんだ!

 目からウロコがポロポロ。

 近所の商店のガラスをチラリと見た。

 やつれ気味の女がガラスにうつっていた。まだ「病人」臭い。

 ボサボサ髪のせいだ。その髪は、奈帆に疫病神を連想させる風貌を与えていた。

 ――切っちゃおう!

と激しい衝動が湧きあがった。

 さらに進んで、

 ――いっそスキンヘッドに剃っちゃおう!

 躁状態は奈帆を勇敢にしていた。

 何せ、自分は尼僧なのだ。頭を丸めるに何やはばかることやあらん。

 先日、ネットで知ったが、奈帆の投与されていた薬は、頭皮に浮き出るらしい。それを考えると、ただちに髪の毛を剃り落とし、頭を洗浄したくなった。

 髪に手をやり、

 ――サッパリしよう!

 奈帆はにんまり。誰に制止されようとも、絶対実現してみせる。

 すぐに床屋をさがした。



 唐澤奈帆はいわゆる在家の出身だった。割合裕福な家庭に育った。

 普通に学校を出て、普通に就職した。そして普通に好い男性(ヒト)と結婚するつもりでいた。

 しかし、そんな「普通の」人生にふと疑問をおぼえた。疑問は肥大して、苦悩になった。苦悩は安らぎを求めた。

 安らぎを、奈帆は、古き佳き日本から得ようとした。

 或る雑誌で読んだ京都特集がキッカケだった。

 週末になると、新幹線で京都に行き、神社仏閣を巡り歩いた。

 そういった中、次第に「出家」という選択肢が、胸中に去来するようになった。そして、それはいつしかオンリーワンの熱望になった。

 奈帆の出家志望に、家族はこぞって反対したが、もうその頃には奈帆の決心は不動のものとなっていた。

 家族は説得を諦めた。そして、奈帆の協力者へと変じた。

 父の仕事の同僚にツテがあり、某地方の庵寺で生活することになった。

 庵寺の住持――庵主の紫桜(しおう)は穏やかで温かく、それでいて稟とした、尼僧の鏡のような老女だった。

 姉弟子もいた。奈帆より八歳年上だった。名は智世(ちせい)といった。求道的な性格の持ち主で、自分にも他人にも厳しい女性だった。

 その寺で奈帆は得度を授かった。

 明倫(みょうりん)

という法名を頂き、尼となった。23歳のときだった。

 剃髪はいずれ、ということで肩までの髪は剃らず、本格的な加行もいずれは、という話で、奈帆は有髪の尼僧として、念願の出家を果たした。

 そして、庵寺で住み込みでの尼僧生活をスタートさせた。

 見るもの、聞くもの、初めてのものばかりで、奈帆は緊張しつつも、心を躍らせた。日夜勤行に励んだ。

 新しい生活にもだいぶ慣れ、上々の滑り出しだった。



 しかし、好事魔多し。

 庵寺に入って半年も経つ頃、奈帆は突如、底知れぬ厭世感、倦怠感に襲われた。

 奈帆の様子がおかしいことに、最初に気づいたのは紫桜だった。

 智世は、それは「贅沢病」「怠け病」じゃ、と厳しく断定した。

「そんなものは、考える暇もないくらい身体を動かせば、いずれ治るもんじゃ」

 その通りだ、と奈帆も思い、以前よりもっと寺の勤めに必死で取り組んだ。

 しかし、そのことはかえって奈帆の状態を悪化させた。

 神経衰弱は限界に達し、ついに奈帆は自殺を図った。包丁で手首を切ったのだ。



 気がついたら、病院のベッドにいた。

 心配そうに奈帆の顔をのぞきこんでいる紫桜と智世の顔があった。

「死なずに済んで良かった、良かった・・・」

と紫桜は涙ぐみ、智世はすまなさそうな顔で、

「悪かったのう。辛かったんじゃのう」

と詫びた。

 二人の優しさに、奈帆の両眼から涙があふれた。

 傷が癒え、退院して、奈帆は智世に伴われて、病院で教えてもらった心療内科クリニックに行った。

 うつ病

と診断された。

 親元に戻さねばという話になったが、奈帆は、

「この寺に居させて下さい!」

と涙ながらに訴えた。すっかり庵寺が好きになっていたのだ。

 紫桜も智世も戸惑いつつも、奈帆の望みを容れ、彼女を寺に置くことにした。同時に二人はうつ病に関する書籍などを読んで、奈帆の病気について勉強し、理解し、一生懸命に彼女に寄り添おうとしていた。そのありがたさに、奈帆は夜毎枕を濡らした。

 クリニックには二週間に一回通った。

 しかし、そこはビジネスライクな医院で、医師は奈帆の話をろくに聞かず、飲み疲れるほど大量の――それもやたら高額な薬を処方されるだけで、奈帆の失望と不安とストレスは溜まる一方だった。

 紫桜も智世もこのクリニックの方針に疑問を抱き、結局五ヶ月通院してやめた。

 こうしたつまずきも奈帆の病に拍車をかけた。

 これも御仏の与え給うた試練だった、と今では思えるが、当時はただただ苦しく、明るい未来も見えず、奈帆は絶望の淵をさまよっていた。毎日死を乞うて暮らした。

 師匠や姉弟子は八方飛び回って、聞き込みを重ね、今度は奈帆に合ったクリニックを探してきた。

 そのクリニックは小さく、医師は白峰ひとりで開業していたが、白峰は患者の一人一人に人間として向き合ってくれ、投薬にも慎重だった。

 光。

 ここでの治療を境に、奈帆の心は徐々に回復の兆しをみせはじめた。

 ドクター白峰は奈帆がよくなっていくにつれ、細心の注意を払って、投薬の量を減らしていった。

 そして、ついに、今日という日を迎えることができた。



「本当にいいんですか?」

と床屋はまだ訊いてくる。しかし、

「私、尼なんですよ」

と奈帆が伝家の宝刀を抜くと、

「ああ、そうなんですか」

とようやく得心がいった様子で、奈帆の首にネックシャッターを巻いた。

 六年間――小学生が入学して卒業するくらいの歳月だ!――伸ばしっぱなしだった髪に鋏が入る。

 ジャキ、ジャキ、

 長過ぎる髪がアゴの辺りで断たれる。

 爽快だった。

 ネガティブな念がタップリと染み込んでいるであろう髪が、自分の頭から、問答無用で追い払われていく。

 ザラザラとケープを流れ、床に溜まっていく。

 ジャキ、ジャキ、

 手際よく次々切り落とされていく髪。心と同様、頭も軽くなる。

 邪魔な殻を破って、脱皮していくような感覚。

 ジャキ、ジャキ、

 首が出て、ウナジがのぞく。目に痛いほどの白さ。

 幽霊のように顔を覆っていた前髪も、バシバシ切られる。

 はっきりと顔が出た。

 奈帆は子供の頃から、自己の容姿にコンプレックスがあって、特に、自分の顔が大嫌いだった。それもあって、病の最中は一切鏡を見られなかった。

 が、こうした高揚のうち、ガッツリ自分の顔と対峙して、

 ――結構美人かも!

と、その凛々しく明るい表情に惚れこみそうになる。

 髪は見事にマッシュルームカットに切り詰められていた。

「大丈夫ですか?」

と床屋は最終確認する。奈帆の心変わりを期待しているのが、手に取るように伝わってくる。

「今ならまだ間に合いますよ。剃るの、やめておきますか?」

「フン」

 つい鼻で嗤ってしまった。勿論奈帆はこんな寸止め状態で、満足するはずがない。

「大丈夫です。遠慮なくやっちゃって下さい」

 できることなら自分で自分の頭を刈ってしまいたいぐらいだ。

 床屋はため息をついた。そして、理髪台の引き出しをあけ、武骨極まりない業務用バリカンを取り出した。

 たぎる心を抑え、心持ち神妙な表情をつくり、奈帆はバリカンを待つ。

 ヴィイイィイィン

とバリカンが唸り出す。さすがに少し背筋が伸びる。

 バアアアアッ、と前頭部のド真ん中の髪が、一気に持っていかれる。薙がれた髪の毛が、すごい量――三、四束か――バサッ!と雪崩れ落ちた。

 バリカンの威力とカットの大胆さは、奈帆が求めていた以上のものだった。

 テンションが跳ねあがる。

 ――よしよし、よしよし。

 たけりたつ心をまた適度にいなしつつ、奈帆はバリカンによるカットを存分に愉しむ。

 ド真ん中が刈られ、そのすぐ左が刈られ、そのまた左が刈られ、今度は右へ、とバリカンは前頭部に差し込まれ、一刈りで髪はゴッソリ収穫され、芝生みたいな刈り跡が残される。それが小気味よい。

 頭の輪郭がみるみる露わになる。それも小気味よい。

 ――これで晴れて僧形に。

と思えば、嬉しくくすぐったく、奈帆はおぼえず首をすくめる。

 そして、

 ――今年中には――

 総本山に上って本格的な加行に入ろう、と決心した。いつまでも居候ではいられない。早く一人前の尼僧となって、庵寺のために奉仕しよう。そうやって師匠と姉弟子に恩返ししよう。

 バサアアァ、とまた髪が散った。

 バリカンは休むことなく、今度は後頭部に取りかかり始めている。

 生温かいバリカンの刃の感触が、後頭部を上下する。

 鏡の中、髪が揺れ、せり上がって、バラバラと土砂崩れみたく落ち、バサッ、バサッ、と床を叩く。

 ――後頭部、ゼッペキじゃなきゃいいんだけど・・・。

と祈る気持ちでいたが、不安は杞憂に終わり、奈帆は胸を撫で下ろした。

 とは言え、お世辞にも美しいフォルムとはいかず、凸凹のジャガイモ型だ。奈帆はやや興ざめる思いだった。

 奈帆の小さな失望をよそに、髪は坊主に刈りあがる。バリカンのモーター音もやむ。

 床屋はシェービングクリームを泡立てて、刷毛を使ってそれを奈帆の丸刈り頭に万遍なく塗る。

 そうして、ピカピカのレザーで、根元から削るように剃りたてた。

 ジー、ジジー

 ジー、ジジー

と鉄と肉の摩擦音が店内に響き渡り、奈帆はそれを心地良い音として、彼女の耳に受容した。

 青白く剥き出た頭皮が、電灯に照りかえり、ますます光を帯びる。

 青白い部分は、床屋の熟練の腕にかかって、いよいよその範囲を拡大していく。ジー、ジー、という摩擦音を鳴り響かせて。

 頭皮に浮き出ている脂――そして穢れた念もろとも、短い毛はこそげ落とされていく。快感、の一語に尽きる。

 ――たまんないわ!

 30分かけて、シェービングは終わった。

 丸裸になった頭の毛穴という毛穴から、シュワシュワー!と体内の邪気毒気が噴き出し、代わりに爽やかな風が吹き込まれていく、そんな感覚が奈帆の胸をときめかせる。

 凸凹頭には、改めて、う〜ん、という気持ちだったが、頭を洗われたときの、得も言われぬ心地の好さに免じて、目を瞑ることにした。

 かくして奈帆は涼やかな容姿に。

 憑き物は全部落ちた。

 さあ、新生活を、新しい人生を始めよう。奈帆の、いや、明倫尼の心は、未来モードに切り替わる。

「切った髪、持って帰りますか?」

と床屋に気遣われ、

「いりません」

 バカ言ってんじゃないよ、とつい言いそうになるのを堪え、キッパリと断った。

 「過去の遺物」は箒でまとめられ、床の上固まって永眠している。なんだか得体の知れぬ妖獣みたく見え、身体から切り離して正解だった、と思った。



 店を出る。

 頭の皮膚が外の光と風に喜んでいる。明倫の心は弾む。

 ――庵主さんと智世さん、驚くだろうなあ。

 そんな茶目っ気が、バスターミナルに向かう明倫の足を加速させた。



              (了)






    あとがき

 お読みいただきありがとうございます♪
 今回は前向き&爽やか&ハッピーな作品でございます。
 これは、もうずっとずっと前から温めていたストーリーで、何度かチャレンジしたのですが、うまくいかず、途絶を繰り返していたお話です。
 ヒロインが、髪を断つことで、これまでの自分の人生に区切りをつける、といった内容なので、改元後初の発表小説群の中にふさわしいと、今回完成にこぎつけました。
 書きあげてみて、非常に満足しています♪ マニアックな作品とバランスがとれ、毒々しい作品を中和してくれるので。
 ここまでお読み下さり、多謝多謝です!!
 また遊びに来て下さいね〜(*^^*)(*^^*)(*^^*)




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