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断髪ジュブナイル〜恋と魔法と甲子園〜


 初めて作ったゲコマの目玉包みオムレツを、パパが「美味しい」と褒めてくれたこと、学友たちと箒に乗って、「世界の果て」までピクニックしたこと、お城のダンスパーティーで人々の目を、釘付けにしたこと、魔法陣から火の精霊を召喚できた、あの日のこと、お忍びで庶民のカーニバルに紛れ込み、大ハシャギした、あの夜のこと、楽しい思い出、嬉しかった思い出は、はち切れんばかりにあるが、それら全ての思い出と引きかえにしても、絶対に忘れたくない思い出が、チロルにはある。
 時は先々週。場所は放課後の校庭。
 チロルは汗を流す運動部員たちの練習風景を眺めていた。夕暮れ、燃える雲の下、チロルの視線は、ある一点に注がれていた。
 野球部のユニフォームを着た180cmはありそうな長身、ガッチリとした体型、浅黒い肌、それほどイケメンというわけではないけれど、白球を追うときの真剣な表情、時折浮かべる人懐っこい笑顔、ドンマイ! バッチコーイ、と誰よりも大きな声で、仲間たちを鼓舞する頼もしさ、
「おらっ、もう一丁いくぞ!」
と上条龍法(かみじょう・たつのり)のノックに、
「よっしゃ、来い!」
と食らいついていくガッツ。
 それらの持ち主は小西タケルといった。
 連打の嵐に、タケルはバランスを崩す。そこへ、
 カキーン!
と飛んでくる強めの打球。タケルの顔面にぶつかりそうになる。
「あぶないっ!」
 チロルはとっさに指を動かす。
 ボールはタケルから大きく逸れ、そのまま、トン、トン、コロコロ、とチロルのところに転がっていく。間一髪、惨事はまぬがれた。
 チロルは足元のボールを拾いあげる。
「悪ぃ悪ぃ」
 タケルが走り寄ってきた。
 チロルは拾ったボールを、タケルに手渡す。指と指が触れ合い、ドキドキする。
「サンキュー」
 見上げるタケルは真っ白い歯を見せて笑った。その笑顔にチロルは昇天しそうなほど、キュンキュン胸を高鳴らせる。
 このまま時が止まればいいのに、と思った。しかし、自分の魔力では無理だ。
 夕陽の中、自分に微笑みかけてくれる想い人。これが、それまでのチロルの人生で最高の思い出。

 チロルは魔法の国のプリンセスだ。
 「修業」のため、出自を隠して、人間界へと降臨した。
 そして、この私立・海部野下深(うみべのかふか)高校に通っている。二年生である。
 しかし、いざ通ってみると、自分の容姿が、高校生にしてはあまりにも子供っぽいことに気づいた。気づかずにはおれなかった。背は低いし、胸もペッタンコだし、そのチンチクリンさに、
 ――中学校に通うべきだったかっ!
と焦り、後悔した。
 学友たちには「ちびっ子」とひやかされるし、子供扱いされるし。
 もっと下の学校に入り直そうかと考えたが、一コ上級生のタケルの存在が、チロルを翻意させた。で、チロルは現在もJK稼業を続けている。
 魔法の力で、この恋を成就させれば、万事解決!なのだが、
 プリンセスたる者、私利私欲の為に魔法を使うこと、まかりならぬ!
という国王のパパと王妃のママから固〜く戒められている。もし破戒すれば、首からさげている着脱不可能のペンダントが、まるで孫悟空の頭の輪っかの如く、ギュウ!と縮まって、首を締め上げてくる。
 昨日も、近所のスーパーのベーカリーコーナーで、タイムセールで20%引きになっていた焼きそばパンの値引きシールを20%オフから30%オフに変えようとしたら、ペンダントにギュウギュウと締め上げられ、スーパー内で悶絶、救急車まで呼ばれてしまった。
「それはさすがにセコ過ぎですよ、チロル様」
とレヤは呆れ顔で言う。
「だってお金がなかったんだもん」
「チロル様が浪費し過ぎなんですよ。仕送りが届いたら、贅沢三昧して、すぐ使い果たして、金送れ〜金送れ〜って陛下にしょっちゅう無心してもですね、今は王室も財政難の折、色々経費削減につとめてるんですから、ない袖は振れませんよ〜」
「そんな現実的なことを言わないで! ちびっ子の夢を壊しちゃダメ!」
「やれやれ」
 レヤはため息をつく。
 レヤはチロルの人間界でのボディーガード兼お目付け役だ。同じ高校に通学している。
 なかなかのイケメンで、某韓流スターとクリソツ(死語?)と騒がれ、野球部のエース上条龍法と女子人気を二分している。本人も満更でもなく、何人もの女生徒と浮名を流している。
 しかし、宅に戻ると、ハムスター姿に身をやつしている。
 学校で子供扱いされまくり、ストレスをたんまり溜めこんできたチロルに、
「なんでアンタばっかりリア充生活満喫してんのよ!」
とカゴの中、回し車でグルグルダッシュさせまくられている。
「ひいいいい! 八つ当たりはやめて下さ〜い!」
「あはははは! 回りなさい、回りなさい。エネルギーを極限まで使い果たしなさい。私に一語たりとも意見できないくらいにね」
「ひええええええ!」
「あはははは!」
 某マンションの一室では、今夜もハムスターの悲鳴とチロルの高笑いが響き渡っていた。

 その翌日も、そのまた翌日も、野球部の練習――タケルを見ていたくて、放課後、校庭をウロウロするチロルであった。
「あら、須藤ちゃん、今日も野球部の練習見てんの?」
 上条莉穂子(かみじょう・りほこ)に声をかけられ、ギョッとなる。チロルの人間界での名前は「須藤千露瑠(すとう・ちろる)」である。莉穂子は三年生。チロルの先輩だが、友人のように接せられる珍しい女の子だ。
「いや、いや、違う、違うってば。別に野球部に限らず、サッカー部や陸上部の練習も見て回ってるよ〜。青春をスポーツに捧げる若者の姿って感動するじゃん?」
「またまた〜、JSが一生懸命理屈こねちゃって〜。95%は野球部のトコにいるじゃん」
「誰がJSよっ!」
「お目当てはタケル君ってとこかな?」
「違う、違う、違うってば! いや、全然違うし〜。はあ? 何、勘違いしてるのォ〜。小西先輩のことなんて、全然どうでもいいんですけど〜」
「ムキになっちゃってカワイイ〜」
と莉穂子は含み笑い、
「でもお姉ちゃん心配だなぁ〜。須藤ちゃん、ウブだから後先考えずに突っ走っちゃいそうだしなあ。タケル君はタケル君で女心に疎そうな朴念仁だしねえ」
「いやいや、そう見えて案外、小西先輩はデリカシーがあると思・・・いや、だ・か・ら〜、小西先輩のことなんて、別に何とも思ってないから! ホントホント、ホントに。大体、なんで莉穂子がこんなところに居るのよ?」
「アタシは兄貴に用があるの」
 莉穂子は上条龍法の妹だ(血はつながっていないらしい)。
「相変わらず兄妹、仲睦まじいね〜」
とチロル、逆襲に転じようとするも、
「兄貴に頼んでタケル君との仲、とりもってあげようか?」
「いやいやいや、だから、タケル先・・・こ、小西先輩とか別に好きなわけじゃないし〜、ホント。そういうのマジやめて。も、もう私、これで帰るね。じゃあ、バイバイ」
「知らないオジサンについていっちゃダメだよ〜」
「子供扱いすなっ!」
 プンスカ去りゆく、小っこい背中を見送りながら、
「やばい! メッチャ可愛い〜」
と相好を崩しまくる莉穂子であった。

 昼休み、財布を拾った。廊下にポツンと落ちていた。
「誰のだろう?」
 中身を確かめる。お金は大して入ってなかった。他にカード類があった。そして――
「こ、これは!!」
 そこへ、
「ああ、それ、俺の!」
 その声は、誰あろう、小西タケルだった。
 タケルはチロルの許へ走り寄る。180cmのタケルを、小学生並みの身長のチロルが見上げる格好になる。
「食堂で食券買おうとしたら、財布がないのに気づいてさ、マジであせった〜。君が拾ってくれたの? ありがとう」
「い、いえ、どういたしまして」
 チロルは頬を真っ赤にしながら、タケルに財布を渡した。動悸がとまらない。
「お礼にジュースでもおごるよ」
と言ってくれるタケルだが、チロルは、
「わ、私、大丈夫ですから!」
 バッと身を翻し、猛ダッシュした。動悸はますます激しくなるばかり。
 駆けながらも、タケルの財布の中で発見した「或る物」のことが、ノーミソの中を占有していた。
 「或る物」とは、それは、、、、コンドーム!
 ――タケル先輩も“そういうこと”してるんだ・・・。
 ※  ※  ※  ※  ※  ※
「そりゃあ、小西氏も健康な男子ですし、そういうお年頃ですしねえ」
とハムスター姿のレヤはタケル先輩に代わって、いや、全国の男子諸君に代わって、弁護の論陣を張る。が、弁護虚しく、
「うるっさい! 回ってなさい!」
 回し車の刑に処せられる。
「タケル先輩、もう“そういう相手”がいるのかなあ」
 机に突っ伏すチロル。
「だだだだだ大丈夫です!! 僕が調査したところでは、小西氏はフリーです! ひひひひ独り身ですうう!! 決まった彼女はいませえええええん!! どどどど童貞かどうかはわかりませんがあああああ!!」
「でも、タケル先輩と付き合ったら、やっぱり“そういうこと”しなくちゃいけないのかなあ」
「ままままあ、いいいい今時プラトニックラブは難しいでしょうねえええ!!」
「あんな大きなの絶対無理! 入らないよォ〜!」
「ちびっ子の夢を壊してるのは貴女でしょおおおおお!!」
「ええい! 回りなさい! もっと回りなさいっ!」
「ひいいいいい!」
 回り続けるレヤを放置して、気晴らしに空のお散歩に出た。
 南松永町の空を箒で飛ぶ。見下ろす家々や店の灯は、さながら宝石箱をひっくり返したかのよう。その宝石たちの中には、タケルの家もあるはずだ。どこだろう。
 ――今夜は海までカッ飛んでみようか。
 長い赤毛を翻し、チロルは空を滑走する。

 会いたくないなぁ、と気持ちの整理がつかぬまま、校内を歩いていたら、バッタリ。
「ああ! 君は昨日の」
 タケルはしっかりとおぼえてくれていた。
「コ、コンニチワ」
 あわてるチロル。顔を上気させ、
「昨日はありがとな」
というお礼に対しても、
「えっと・・・あの・・・えっと・・・うーん、と・・・」
 もじもじしてしまう。
「おーい、小西、早く理科室に行こうぜ〜」
 友人たちが二人、タケルを呼ぶ。
「お前、ロリコンだったのかよ」
とひやかされ、
「違ェよ」
とタケルは、ポンポンとチロルの頭を撫でて、
「じゃあな」
と走り去っていった。
 ――ポンポンされちゃった・・・。
 チロルは沸点に達したヤカンのように、大興奮し、顔は真っ赤っか、しばらくその場に立ち尽くし、次の授業に遅刻してしまった。先生には叱られたが、幸せで胸は満ちあふれていた。
 ――やっぱりタケル先輩だわ〜。
 コンドームの件は不問に付すことにした。一方的に。

 それからも、チロルは野球部の練習に日参した。
 タケルも話しかけてくれるようになった。
「また見に来てんの?」
と声をかけてくれる。
「打球に気を付けな」
とか、
「暗くなる前に帰りな」
と気づかってくれる。
 嬉しさを押し隠そうとする余り仏頂面になって、コクリ、コクリ、とうなずいたり、はい、はい、と短く返事をするチロル。
 タケルは、
「マネージャーになれば」
とか、
「今度試合見に来なよ」
とまで言ってくれる。
 マネージャーにはならなかったが、練習試合は観戦に行った。
「レヤ、なんでアンタまでついてきてんのよ?」
「僕はチロル様の護衛という任務がありますので、当然のことです」
「わかったから、私からは離れててよね、変なウワサでも立てられちゃ迷惑だから」
「ハイハイ」
「ハイは一回!」
「ハ〜イ」
 試合より美青年のレヤが気になる女子もいて、彼の周りに群がり、たちまちのうちに即席のハーレムが形成されている。まあ、それはいい。
 タケルがバッターボックスに入る。
 投げ込まれたボールを、タケル、打ち返すが、打球はあえなくレフトフライ――と思いきや、
 ――えいっ!
 ボールはフワフワとスタンドへ。ホームランだ!
 そう、勿論、チロルの仕業だ。
 なんてことを!と顔面を凍りつかせて、こっちを見るレヤに、
 ――てへっ♪
とペロリ舌を出して、お茶目な笑みを浮かべてみせるチロル。
「風に助けられたのかなあ」
とタケルも首をひねりひねり、ダイヤモンドを一周している。
 ※  ※  ※  ※  ※  ※
 帰宅してから、レヤに大目玉を喰った。
「なんてことしたんですか!」
 鬼の形相のレヤに、
「別にいいでしょ!」
とチロルも反論する。
「私利私欲じゃないんだから。ペンダントも締まらなかったしさ」
「いいわけないでしょう! あんな魔法の使い方、断じて許せません!」
「たかが高校の部活の練習試合じゃん」
「言い訳厳禁! ダメなものはダメです!」
「何よ、エラソーに。私、絶対謝らないからね!」
「今回のことは陛下に報告します。罰として仕送りを大減額すべき、との意見書も添えて」
「レヤ、ごめん! ホントごめん! ホントすみません! 私が悪うございました! 反省してます! もう二度といたしません! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「わかればいいんです」
「汚いヤツめ・・・」
「何かおっしゃいましたか?」
「いえいえ、本当に本当にごめんなさい、レヤ様〜」
 ひたすら平身低頭するチロルであった。

 夏だ!
 夏と言えば、海に山に、カキ氷、スイカ、怪談、盆踊り、そして、甲子園だ!
 全国高校野球大会には海部野下深高校も、「参加することに意義がある」的に出場する。
 大会に備え、練習もそれなりに熱を帯びる。
 ところが、抽選の結果、一回戦の対戦相手は県下屈指の強豪校。部員たちの大半はすでに戦意を喪失している。タケルのように、闘争心をギラつかせている者は、マイノリティーだ。
 大会も迫ったある日、チロルは練習後のタケルを、部室のそばで待ち伏せした。
 タケルは来た。チロルにとっては好都合なことに、一人だった。
「まだ帰ってなかったのか?」
 チロルはれいによってコクリと無言でうなずき、
「あの・・・」
とだいぶ言いよどみながらも、
「大会頑張って下さい」
と言うと、
「おう!」
とタケルは笑顔で応えた。
「あの・・・先輩・・・」
 チロルは思い切って訊いてみた。
「なんだ?」
「例えば、例えばの話ですよ、もしも先輩が魔法を使えるとして――」
「小学2年生みたいなifだな」
「茶化さないで下さい! も、もし魔法の力で試合に勝てるとしたら、どうします? 魔法の力、使いますか?」
「唐突な話だなあ」
と言いながらも、律儀なタケルは後輩への回答を考えている。
 もしタケルがYesと言えば、レヤが何と言おうと、どう阻もうと、チロルはタケルに一回戦勝利を、いや、甲子園優勝をプレゼントしようと思っている。
 しかし、タケルの答えはNoだった。
「たとえ負けてもいいから、自分の今の実力で正々堂々とベストを尽くしたい。魔法の力で勝っても後味悪いじゃん? 後ろめたい勝利もあれば、胸を張れる敗北もあるんだよ」
「そうですか」
 チロルは、一点の曇りもない笑顔になった。
 ――この人を好きになって本当に良かった。
と心の底から思った。
「変なこと訊いちゃってごめんなさい」
「送ってくよ」
「大丈夫です」
と家路を駆けだした。

 さまざまな思いを乗せて、初戦の幕は切って落とされた。
 結果は散々。
 牛刀に裂かれる鶏状態だった。
 エースの龍法は、見ている方が居たたまれなくなるほど、打たれに打たれまくった。
 一緒に応援していた莉穂子などは、普段の大人しさをかなぐり捨てて、
「タッチャン! 根性見せろ!」
と叫んでいた。
 チロルは何度か魔法を使いたい衝動に駆られたが、タケルの言葉を胸の内、反芻して、我慢した。背後では、レヤが恐い顔でチロルを監視していたが、彼の心配は杞憂に終わった。
 試合は五回コールド負け。海部野下深高校野球部の夏は終了。
 だけど、ベンチに引きあげていくタケルの表情は晴れやかだった。その顔を見て、
 ――これでよかったんだ・・・。
 涙を拭きながら、チロルは思った。両親が自分を人間界に「留学」させた意味が、なんとなくわかったような気がする。

 二学期が始まって間もなく、チロルはタケルを学校の屋上に呼び出した。
 そして、告白した。
「タケル先輩、私、先輩のことが好きです! 付き合って下さい!」
 タケルは虚をつかれた表情になったが、すぐに真剣に顔をひきしめ、
「ごめん・・・俺、他に好きな人がいるんだ」
「わかってました」
 チロルは寂しげに微笑した。
「本当にごめんな」
 タケルは去った。チロルは残った。恋は終わった。午後の屋上を、まだ熱く湿りを帯びた風が吹き抜けていく。
 チロルは屋上から、中庭でヤキモキしながら結果を待っているレヤに向け、両腕をバッテンにして、不首尾のサインを送った。
 屋上まで聞こえてきそうなくらいの大きなため息をついているレヤがおかしくて、こんな時なのに、つい笑いがこぼれてしまう。
 タケルの言っていた「胸を張れる敗北」って、
 ――きっと、こんな感じなんだろうな。
とふと思った。
 あとで、
「いきなり告白しても無理だと、あれほど言ったじゃないですか」
とレヤにダメ出しされた。
「徐々に距離を縮めつつ、連絡先を交換して、迫ったり焦らしたりして相手をその気にさせて、先輩の周りの人たちを味方につけて、そうやって外堀を埋めて、あせらず急がず! こんなの恋愛のイロハですよ」
「私の性分には合わないよ。それに――」
 チロルは晴れ晴れとした顔で言った。
「あれでよかったの」
 タケルが下級生の下川結奈(しもかわ・ゆな)に寄せる想いは、
「鉄板だからね」
「だったら、なんで告白したんですか?」
「ちゃんと振って欲しかったの」
「じゃあ、振られて満足なんですか?」
「相手がタケル先輩なら、振られ甲斐があるってもんよ」
 本音80%強がり20%といったところか。

 その夜、チロルは大きな鏡の前にいた。
 編み込んだ髪を、バッとほどく。ほどかれた赤毛は、シャンプーの芳香を漂わせ、首筋に、肩に、サアァ、と流れていく。
 ハサミを机の中から取り出す。
 魔法の力で、全ての赤毛が逆立つように宙に浮きあがる。フワリフワリと海藻みたいに。
 ハサミも宙に浮く。
 ハサミは意思を持ったかのように、動き、開き、ユラユラ空をたゆたう髪を、一房、咥え込む。
 一瞬ためらったけど、迷いを振り切り、
 ――えいっ!
 ハサミの刃は、赤毛をくわえて、勢いよく閉じた。
 ジャキ!
 髪とハサミが鳴った。
 切られた髪は、そのまま、フワ〜、とゴミ箱に――バサッ!
 もう一房、切る。
 ジャキ!
 覚悟も定まり、ハサミは宙を舞い、同じように宙を浮遊する髪を大胆に、思い切りよく、挟み、断ち切ってゆく。
 ジャキ、ジャキッ、ジャキ――
 ダストボックスに赤い切り髪が溜まっていく。
 チロルの髪は、ロングからショートへと切り詰められていく。
 ――もっと!
 ジャキ、ジャキッ――
 ジャキッ、ジャキ――
「チロル様〜、御所望の豆乳買ってきましたよ〜・・・って、何やってんですかッ?!」
 パシリから戻ってきたレヤが、目の前の有り様に驚愕して、駆け寄ろうとする。
 が、
 ポン!
 レヤはこの部屋に入ると、ハムスターに化(な)ってしまう魔法をかけられている。
「ご乱心召されたんですか、チロル様!」
 ハムスター姿で、周章(あわ)てまくるレヤに、
「私は至ってマトモだよ。ニッポンの女の子は失恋したら、こうやって髪をバッサリ切るって、以前人間界に留学なさっていたマメマ伯母様がおっしゃってたわ」
「いつの時代の話ですか! 情報が古すぎますよ!」
「とにかく私はこういう形で、自分の中で区切りをつけたいの!」
 ジャキジャキ――
「反論しながら切り続けないで下さい!」
「変だったら、また魔法で伸ばせばいいじゃん」
「私利私欲で魔法を使えば、ペンダントのお仕置きを受けますよ」
「切るのはOKだけど、伸ばすのはNGなわけ?」
「う〜ん、今の場合だって厳密に考えれば私利私欲かも知れませんが・・・グレーゾーンですね。ペンダントもチロル様の女心を斟酌してくれてるのでしょう・・・って言ってる間にも、どんどん髪が無くなってるじゃないですかッ!」
 チロルの髪は八割方切り落とされていた。
 ダストボックスは、チロルの髪の毛であふれかえっている。
 ジャキッ、ジャキジャキ、かろうじて余命を保っていた後ろ髪もカット。ジャキジャキ、ジャキ、ジャキッ
 すっかりショートカットになるチロル、短い髪を撫で撫で、
「あ〜、サッパリした〜」
「あ〜、せっかくの美しかった髪が、何たること、何たること」
 レヤは嘆きつつ、ゴミ箱の周りをグルグル歩き回っている。
 かなり乱暴にカットしたけれど、髪質のせいか、うまくまとまった。
「これで再スタートが切れるぞ。新しい恋、探すとするか!」
と笑おうとしたけど、
「あれ・・・あれ? おかしいなぁ・・・」
 目からみるみる涙があふれてきて、
「なんでだろう・・・。涙が、涙がとまらないよォ」
「チロル様・・・」
「ちょっとお風呂に入ってくるね」
 浴室、頭からシャワーを浴びて、チロルは大泣きした。涙は無尽蔵に流れ続けた。二時間、バスルームにこもりっぱなしだった。

 短い髪はドライヤーで5分で乾いた。
「楽チンな髪型だなあ」
 チロルは破顔(わら)う。泣いたらだいぶスッキリした。頭もスッキリ、心もスッキリ。
 そして、
「レヤ」
「はい?」
「私の恋人にならない?」
「僕が・・・チロル様の?」
「何、ハムスターが豆鉄砲食ったような顔してんのよ」
「唐突ですね」
「ダメ?」
「そうなると、僕が現在交際中の子猫ちゃんたちと全員切れてこい、って話になりますよね?」
「当然」
「じゃあ、やめときます」
「一日に二回も振られたわ」
 チロルは肩をすくめる。ダブルヘッダーは二戦とも黒星。
「手近なところで、恋を済ませようとしないように」
「ならレヤ、今夜は一緒に寝て」
「え〜!」
「お願い、一人では寝たくないの」
「ふふふ、チロル様、ひとつ良いことを教えてあげましょう。男は皆オオカミなんですよ。相手が僕だからといって、油断していたら、とんだ貞操の危機に陥りますよ」
「ハムスターがオオカミぶってんじゃないの」
「ムッキー!」
「さあ、早く枕元に来て」
「寝返りうって潰さないで下さいよ。爆笑ものの殉職になりますから」
「パパに頼んで国葬にしてあげるわよ」
「やれやれ」
 ハムスター――レヤはちょこちょこベッドに歩いてくると、チロルの枕の端に、丸く身を横たえた。そして、
「陛下には、チロル様は髪を短く切って勉学にうちこんでおられます、と申し上げておきます」
と言い、スヤスヤ寝息をたてはじめた。
 タヌキ寝入りしているレヤに、
「ありがとう、レヤ」
 チロルは微笑んだ。
「今夜はぐっすり眠れそう」
 ゴロリ
「ぐわっ! 言ってるそばから、いきなり頭のっけてくるし〜!!」
「ご、ごめ〜ん、レヤ、ごめんね」
「まったく〜、勘弁して下さいよ〜」
 レヤはチロルの頭の下から、ヨロヨロと這い出して、
「そう言えばチロル様」
「なに?」
「明日は休日ですけど、何かご予定は?」
「恋愛二連敗の女子に何故心無いことを訊くかね?」
「護衛の任務がありますので、一応」
「とりあえず――」
とチロルは大きなあくびをしながら、シーツをかぶり、
「目がさめさえすれば、それでいいわ」
 そう言うと、忽ち眠りに落ちた。


          (了)



    あとがき

 久々の「断髪ジュブナイル」最新作でございます! 失恋断髪モノです!
 今回、マニアックな尼さんモノばかりになったので(でもまあ、よく考えたら、そもそも「尼さんとバリカン」っていうテーマのサイトなんだけど)、ソフトな爽やか断髪モノが書きたくなり本稿に着手しました。
 元々は、中学の頃、描いたイラストで、魔法少女が魔法の力を使ってばっさりセルフカットしているのがあり、そこから逆算して物語を膨らませていきました。合間をみて、チョコチョコと。
 そーしたら、また典型的な「断髪描写のある小説」になってしまった(汗)
 前作(「腐女子、尼僧堂に行く」)がディープだった反動もあってか、やたらコミカルなお話になって、書いていて楽しかったです♪♪
 もっとドロドロしたものを書きたい〜、とか、もっと断髪という行為を突き詰めていきたい〜、とか、もっとロマンティックなストーリーを書きたい〜、とかこの先のことを考えつつ。。
 暑くなってきました。夏です! 皆様も水分と栄養を摂って夏バテ対策して、お身体大切にして下さいませ。では!




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