満州で。 |
1942年。満州国。 泣く子も黙る、と恐れられた関東軍麾下の某隊に所属する山科敏夫(やましな・としお)上等兵は、中隊長付を拝命した。 左程重要な役目ではない。中隊長の傍近くに、小姓のように控え、その雑用を引き受け、使いっ走りをするだけの仕事である。 山科敏夫にとって、留意すべきなのは、中隊長その人のことであった。 そのことでは、営内でもかなり冷やかされた。 「山科、カタブツの貴様にはピッタリの任務だなあ」 「できることなら、自分が代わりたいくらいですよ」 「これもお国の為の御奉公だ。しっかりと姫様のお守りに励め」 「うまくいけば、中隊長殿に筆おろしさせてもらえるぞ」 そう、敏夫がこれから近侍する中隊長は、若き女性だった。 野々宮アヤメ陸軍騎兵中尉。二十代半ば。 日本軍は女性の軍人を認めていなかったが、「非常時」ゆえの特例で、士官学校へ入学を果たした。他にも数名の女性士官候補生がいたが、厳しい訓練や周囲の白眼に耐え切れず、皆、軍務に就く遥か以前に脱落してしまい、アヤメだけが、ただ一人、残った。 アヤメは由緒ある武家の家柄で、古武士然とした祖父や父の薫育もあり、男勝りの性格もあり、その明晰な頭脳、戦場における勘の鋭さもあって、中尉にまで進級した。 だが、その軍務は満州の荒野で、匪賊を追い回すことにのみ、与えられた。 敏夫もこの異色の中隊長の下、匪賊征伐に東奔西走している。 アヤメは部下に容赦がなかった。 戦場で怯み、縮み上がっている兵たちに、 「貴様ら、何をしているのだ! それでも日本男子かッ!」 と馬上大喝して、乗馬鞭でしたたかにひっぱたいて回った。そうして、自ら範を示すように、平然と弾雨の中に身をさらし、指揮刀をかざしていた。 チェッコ式の軍帽をかぶり、裏地を真紅の生地で仕立てたマントを翻し、いかにも伊達な軍装で戦場を往く女性将校は、敵の目さえも惹きつけた。 兵営にあっても、兵や下士官たちの非違を見つけると、いつも手にしている乗馬鞭が飛んだ。 なかんづく、外出日には必ず色街に繰り出すと噂されている古参の中谷軍曹などは、アヤメを舐めていて、アヤメに対して好色めいた言動が多々あり、日常的に乗馬鞭の標的となっていた。 野々宮中隊は新京(満州国の首都)の付近に常駐している。 この前年、日米はすでに開戦していたが、満州国はそれに参戦せず、空襲もなく、激しい戦火からも遠く、食料も割合――特に軍関係者の間では、豊富にあった。戦争真只中の日本とは、まるで違う時間がこの地には流れていた。 敏夫が初めて中隊長付として、アヤメの許へ馳せ参じたのは、その新京の或るホテルだった。このホテルは一部の日本軍関係者が盛んに利用していた。西欧風の豪奢な造りで、田舎出の敏夫にはお伽話に出てくる竜宮のように思えた。 その一室を敏夫はノックした。 「入れ」 女の声が言った。根っからの朴念仁で、女を避け、童貞を守り続けている敏夫は緊張する。 「山科上等兵、入ります!」 敏夫は入室し、敬礼した。途端、濛々とした紫煙にむせかけた。 部屋の中に野々宮アヤメ中尉は居た。麻雀の最中だった。 雀卓を囲んでいる面々に、敏夫は目を瞠った。 関東軍の大立者、柿崎少将がいる。高級参謀の戸次(べっき)少佐もいる。錚々たる顔ぶれだ。 「本日より中隊長付となりましたッ!」 「来たか」 アヤメは敏夫を一瞥した。長い髪は後ろで、ひとつに束ねている。軍帽を斜めに頭にのせ、将校服を肩に羽織り、牌をつまんで吟味している。そのスラリと白く、スラリと細い横顔に、敏夫は一瞬見惚れた。改めて間近で見るアヤメは、謹直な敏夫の心を蕩かすほどの美しさだった。 「下らんヘマをしたら、身ぐるみ剥いで荒野に放り出して、虎の餌にしてやるぞ。覚悟しておけ」 上官の言葉に、あわてて我に返り、 「ハッ!」 と敏夫はまた生真面目に敬礼した。 「野々宮中尉は相変わらずキツいね」 と柿崎少将は笑った。 「中尉と比べればうちの女房が聖母マリア様に思えるよ」 と戸次少佐も軽口を飛ばしていた。 こうして、山科上等兵の新任務ははじまった。 初日こそ脅しつけられたものの、中隊長付の仕事はさして難しいものではなかった。内地(日本)にいるときは、村役場で、その篤実さから上役に目をかけられていた敏夫は、テキパキとアヤメ周辺の業務をこなした。 しかし、美しい中尉と始終、顔をつき合わせる日常は、これまで女性を遠ざけてきた敏夫には、ちょっとした拷問に思えた。 そんな敏夫をからかうように、アヤメは大胆にもシャワーを浴びながら、命令を下したりしてきたものだ。 れいのホテルでは、アヤメはしょっちゅう柿崎少将や戸次少佐などとウイスキーやワインを飲みつつ、麻雀に興じていた。 内地の窮乏生活を知る敏夫には、暢気なものだ、と別天地にいるような感があったが、 「山科、火」 とアヤメがくわえる煙草に、 「ハッ!」 とライターを差し出したりして、気分はまるで、貴婦人にかしずく中世騎士になりきっていた。 しかし、アヤメに付き従っているうちに、この雀卓を囲んでの歓談が、実は容易ならざるものであることを理解した。 「“北のお客さん”が群れをなして訪ねてきたら、お手上げだよ。こっちは碌なおもてなしもできんからね」 などと牌を切りながら、柿崎少将は言う。少将は満州国と国境を接しているソ連軍の動向に、脅威を感じているようだ。他の面々も同様らしかった。 どうやら、柿崎少将も戸次少佐も、そしてアヤメも一つ腹になって、泥沼化した日中戦争の収拾――即ち中国との講和――やソ連との共存関係の強化を画策しているらしい。無論、関東軍司令部、ひいては東京の大本営とは独自に、こうして民間のホテルで、密かに私的会合をもっている。 そして、もうひとつ、アヘンの件がある。 アヘンは満州国や日本軍の最大の資金源となっている。上層部だけが知りうる国家機密だ。 野々宮中隊は名目上は匪賊討伐を隊務としているが、その実、兵たちも知らないままに、アヘン流通のための防衛戦にも携わっているらしい。 敏夫ははからずも知ってしまった。しかし、衝撃を押し隠し、鹿爪らしい表情(かお)で、アヤメの煙草に火をつけたり、酒類を運んだり、上官たちの食事の出前をとったりして、忠良たる下僕の姿勢を崩さなかった。秘事を胸にしまって――職務上のきまりでもあるが――誰にも話さなかった。この口の固さこそ、彼が中隊長付を申しつけられた最大の理由だったに違いない。 満州の野は広い。内地ではありえないほど広い。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうくらい広い。 その野を、アヤメは乗馬服に乗馬ズボンといったイデタチで、愛馬を駆り、走り抜けていく。さすが騎兵畑の将校だけある。 敏夫も馬術には多少のおぼえがあるが、アヤメには到底敵わない。借り馬にまたがって、アヤメの後を追った。遥か先、アヤメの長い黒髪がたなびいている。 アヤメはたまに、身体に積もった埃でも振るい落とすかの如く、遮二無二馬を走らせたい衝動に駆られるらしい。それにこうやって付き合わされる敏夫は、たまったものではない。しかし、中隊長を一人で行かせるわけにもいかない。いざとなれば、警護役も担う。それも任務だ。剣道五段の腕前を持つ彼だが、匪賊の横行している満州だ、モーゼル十連発の拳銃もしっかりと携行している。 「山科、少し休もう」 とアヤメは馬をとめた。そして、水筒に入れたブランデーを一口のみ、 「貴様も飲め」 と水筒を放ってきた。敏夫はあわてて、それを受け取り、 「頂戴いたします」 と一口含んだ。 「今日は随分とご機嫌だな、イカロス」 とアヤメは愛馬に語りかけながら、その逞しい馬体をあちこちピタピタ叩いた。イカロスは嬉しがって嘶(いなな)いた。まるで恋人同士のような呼吸が、両者にはあった。 「近々また戦闘がある」 とアヤメは敏夫に言った。 「北支方面で、共匪が蠢動しているようだ」 「腕が鳴ります」 「油断するなよ。連中はただの匪賊じゃない。アメリカ製の兵器を持っている」 「ハッ!」 敏夫も承知している。 「お前も頼むぞ」 とアヤメは目を細め、イカロスの首を掻き抱いた。 「ただでさえ微妙な時期だからな。つまらぬ失策は禁物だ」 いつもアヤメの傍にいる敏夫は、彼女が口にした「微妙な時期」という言葉の意味が、なんとなくわかる。 それはそれとして、 「中尉殿! 質問をお許し願えますでしょうか!」 ずっと心の内にあった疑問を、ここでどうしても訊きたくなった。 「何だ?」 「中尉殿はどうして、軍人を志願なされたのですか?」 アヤメは思いがけぬ部下の質問に、一瞬戸惑った様子だった。が、 「掻い摘んで言えば――」 と天を振り仰いだ。 「武家の娘の血が騒いだからかな」 アヤメの祖父は戊辰の戦で賊軍となった藩の重役だった。御一新後、世の辛酸を舐め尽くしたが、生活苦より、「朝敵」であったという過去が、彼の後半生を暗いものにしていた。「天子様の敵」という汚名を雪ぎたい、それが祖父はじめ一族の切なる願いだった。 「一朝事あらば」というのが、祖父の生前の口癖だった。その口癖は、それを聞かされて育ったアヤメに、女としての平凡な幸せを選ばせなかった。 「おしゃべりはこの辺にしておこう」 アヤメは馬首をめぐらせた。 「他の連中には、この話はするなよ」 と口止めして、ふたたび馬腹を蹴った。敏夫はあわてて、後を追った。アヤメの「秘密」を、思いがけず聞くことができて、胸が躍っていた。そんな敏夫の気持ちが馬にも伝わったのだろうか、馬蹄の音も軽やかだった。 その翌日、アヤメは新京の街へ出た。当然敏夫も一緒だ。 アヤメは中国の姑娘のようなチャイナドレスを着て、現れた。敏夫は驚いた。その露出した肌に、クッキリとわかる身体のラインに、その脚線美に、心奪われた。 「似合うだろう?」 と自画自賛する上官に、敏夫は、 「ハッ!」 と理性を保たんと、普段より一層鯱張って敬礼した。 「世辞のひとつぐらい言えないのか」 アヤメは苦笑して軍用車に乗り込んだ。敏夫も同乗した。 アヤメは運転手に行き先を言うと、脚を組み、頬づえをつき、繁華な街を眺めるとはなく眺めていた。 車は或る店の前に停まった。美容院だった。新京でも一番モダンな美容院だ。 アヤメは真っ直ぐその店に入ろうとした。敏夫もわけのわからぬまま、素早く先に立ち、上官のため、店のドアを開けた。 「いらっしゃいませ」 店は日本人が経営しているらしかった。 何人もの美容師が優雅に立ち働いていた。店内では日本語が飛び交っていた。満州国でこんな高級な店に入れるのは、日本人ばかりだ。 店員も客も、軍服姿の敏夫を見て、ギョッと目を見開いていた。敏夫もその場違いさに、軍帽を目深にかぶった。落ち着かぬ気持ちでいっぱいだったが、能面の如き無表情でいた。 すでに連絡はいっていたらしく、店の主らしい四十女が接客に現れ、 「こちらにおかけ下さい」 と丁重に、アヤメを理髪台に案内していた。 敏夫は予期せぬスケジュールに困惑し、とりあえずは邪魔にならないよう、店の隅で直立不動の姿勢でいた。女たちの視線は、童貞の彼を大いに閉口させた。 しかし、そんなことよりアヤメだ。 「失礼いたします」 と店主の美容師は、後ろで束ねたアヤメの髪をほどいた。ファサアァッ、と長い髪が奔流のように、アヤメの背に覆いかぶさる。 「本日はどのようにいたしましょうか?」 と美容師に訊かれ、 「短く切ってくれ」 この辺りまで、とアヤメは顎を指さす。 敏夫は仰天した。が、顔は能面のままでいた。 「よろしいのですか?」 美容師は一応確かめる。 「ああ、よろしく頼む」 アヤメがうなずくと、美容師は準備にとりかかった。 せっかくの麗しき黒髪を、と敏夫は惜しく思ったが、まさか制止するわけにもゆかず、じれったい思いで、アヤメの断髪に立ち会う仕儀に至ってしまった。 アヤメの髪は、持ち主の希望通り、バッサリと切り落とされた。 美容師は大きな散髪鋏で、ソリッ、ゾリッ、と手際よく長い髪を断ち切っていった。 バラリ、と切られた髪が、床一面に広がった。あとには真白なうなじが残される。 敏夫は居たたまれなかった。この場から逃げ出したかった。が、任務を放棄することも叶わず、ただただ、見る間に切り詰められていくアヤメの髪から、目を背けられずにいた。 前髪も眉の上で詰められた。そして、さらに切り整えられた。美容師は惜しみなく、その腕を振るった。 アヤメの髪は切りあがった。 襟足はさっぱりと刈られ、顎の辺りで揃えられた髪は、剣(つるぎ)のように、ピンと逆立てられた。モダンガールみたいな髪だ。 店を出て、車中でも、アヤメは黙っていた。敏夫も黙っていた。通常のことなのだが、敏夫にとっては、気まずい沈黙だった。たまりかね、 「中尉殿」 とオカッパ頭になった上官に訊ねずにはいられなかった。 「何故髪をお切りになられたのですか?」 「戦闘行動に長い髪は邪魔だからな」 アヤメは短い髪を満足そうに撫で、答えた。よほど次の戦いに、期するところがあるのだろう。 車はそのまま、いつものホテルへと向かっている。 断髪にチャイナドレス姿のアヤメに、柿崎少将も戸次少佐も目を丸くしたが、 「これは美しい!」 「昔の銀座を思い出すなあ」 と相好を崩し、盛んにアヤメの新しい髪型を賛美していた。 だが、この日の会合は重苦しい空気がたちこめていた。 中国との講和について大いに期待されていたルートは、 「オジャンになってしまったよ」 と戸次少佐はため息を吐いた。 その上、この集まりのことを憲兵に嗅ぎつけられたらしい。 「どうにも雲行きがよろしくないね」 と柿崎少将はボヤいていた。 「閣下、そんな気の弱いことを仰らないで下さいよ」 アヤメは暗い表情の将軍を励ましていた。 それから間もなく、柿崎少将と戸次少佐は東京に呼び戻された。そして、戻るや、任を解かれ、予備役に編入された。 大いなる後ろ盾を失ったアヤメは、しかし、敏夫にも、感想めいたことは一言も言わず、共匪との戦いに向かった。 だが、アヤメは髪と一緒に、自らの武運まで切り捨ててしまったらしい、悪天候の中、敵のゲリラ戦法や豊富な兵器に、野々宮中隊は苦闘を重ねた。そして、アヤメの立てた作戦は目論見を大きく外し、中隊では多数の死傷者が出た。痛打を食らわせ、敵は意気揚々と引き揚げていった。野々宮アヤメ中尉は、初めての敗北を喫したのである。 この敗戦の責任を問う声が、司令部からあがった。 作戦の失敗は、関東軍上層部にとって、「不穏分子」であるアヤメを失脚させる絶好の口実となった。彼女を守ってくれたはずの柿崎少将らは、もうすでに満州を追われている。 アヤメに対する処分は、過酷を極めた。 アヤメは中尉から、なんと、二等兵にまで降格されてしまったのだ。 前代未聞の出来事だった。ありうべからざることだった。しかし、ありえないことが往々にして起こるのが、「戦時下」というものだ。参謀本部も陸軍省もこの乱暴な人事について、何も言わなかった。アメリカと死闘を繰り広げている彼らにとって、遠い満州の一軍人の処遇など、どうでもよかったというのが実際のところだろう。 「いいザマだな、野々宮中尉、いや、野々宮二等兵」 二等兵の軍装となり、直立不動でいるアヤメを、中谷軍曹は嗜虐的な目で睨めまわした。 軍曹は中隊長だったアヤメに文字通りムチ打たれてきた身、その報復の機会をはからずも得て、「鍾馗様」との陰口の源になっている、その髭面をニタニタと笑み崩している。 「貴様には本官がみっちりと指導してやる。頭のてっぺんからつま先まで、塵ほどの隙もない立派な一兵卒に鍛え上げてやる。わかったかッ!」 「ハッ!」 かつての部下に敬礼するアヤメの、その頬に、 「声が小さいッ!」 中谷軍曹のビンタが飛ぶ。バシイィッ! その勢いで、軍帽がフッ飛んだが、アヤメは直立不動の姿勢を保ち続けた。 「貴様、なんだこの髪はッ!」 と、また、軍曹はアヤメを殴りつけた。オカッパの髪を掴み、引きずり回し、 「下士官、兵は丸刈りと創軍以来決まっておる!」 アヤメはすぐに起き上がり、敬礼した。 「ハッ!」 「よおしッ! 貴様のように長髪のまま入営しようとする性根の腐った輩は、この俺が直々に気合いを注入してやるッ!」 「ハッ!」 「誰かバリカンを持って来い! ただ今より、野々宮二等兵の散髪を、この営内において行う! さっさと用意をせいッ!」 アヤメの髪にバリカンがあてられたのは、それから5分と経たぬ間だった。 バサリ、バサリ、と刈布に黒髪が散った。 中谷軍曹はまず、オカッパ髪を後ろから刈り上げていった。カチャカチャ、とバリカンは鳴り、ふさふさ生い茂る髪を、勢いよく圧し除けていった。 鍾馗様の荒っぽい散髪は、隊でも知られていたが、この日はとりわけ手荒かった。 元部下たちが嘲りや憐れみの目で注視する中、アヤメは坊主頭にされていった。 後頭部はすっかり刈られ、コケシのようになった。 次は額の真ん中から、バリカンが入れられた。 カチャカチャカチャ、カチャカチャカチャ、ごっそりと幾筋もの髪が束に刈られ、薄汚れた刈布に落ちていった。 「どうだ、野々宮二等兵、俺の腕前は?」 「ハッ! 見事でありますッ!」 アヤメは目に涙を溜め、激痛に耐えている。俄か床屋に切れないバリカン、だいぶ参っていた。 軍曹のバリカンは抵抗する乙女の髪を、強行突破して、運び去る。 前頭部から髪が消え失せた。 「まるで晒し首みたいだぞ、野々宮二等兵!」 と兵の一人が囃した。皆笑った。 「一体何の騒ぎかね」 新しく中隊長となった糸川中尉が通りがかって、咎めた。 「中隊長殿に敬礼!」 中谷軍曹はじめ兵たちは、アヤメの散髪を放り出して、糸川中尉に敬礼した。アヤメも椅子から跳ね上がり、刈布を垂れ下げたまま、挙手の礼をとった。 「何事だ?」 糸川中尉の質問に、中谷軍曹はニヤリと笑い、 「ただ今、不届きな新兵に、兵たる者の心得を叩きこんでいるところであります」 糸川中尉の目にアヤメの無残な姿がうつった。 糸川中尉は、フフン、と鼻を鳴らした。父や兄弟も軍人というゴリゴリの軍人一家に育った、生え抜きの帝国軍人である糸川中尉は、女の身でありながら一隊を統べていたアヤメに、以前から反感を抱いていた。女の分際で増長しおって、と陰で憤っていた。「関東軍の恥」とまで罵って、アヤメの更迭を上層部に再三に渡り、具申していたが、その都度、柿崎少将に握りつぶされていた。今回の柿崎少将らの追放劇にも、この痩せぎすの男が一役買っていたとの噂もある。事実だろう。 糸川は半刈り頭のアヤメを冷ややかに眺め、 「結構だ。大いにやりたまえ」 と言い残し、去っていった。 中隊長のお墨付きを得て、下士官も兵も色めきたつ。 「さあ、野々宮二等兵、続けるぞ」 数多の兵士たちの汗と脂の沁み込んだバリカンが、右の髪に突き立てられる。 カチャカチャ、とバリカンは機嫌よく鳴り、最下級の兵士の髪を、せっかちにむしり取っていった。 バサッ、バサッ、バサッ、右耳が露わに出た。 「ク・・・クク・・・クゥ・・・」 アヤメがうめいた。肉体的にも精神的にも相当やられていた。 「堪えろ、野々宮二等兵! ここで頭を丸めて、初めて貴様は我々の戦友たる資格を得るのだ! 泣き言など聞かんぞッ!」 「ハッ!」 カチャカチャ、カチャカチャ、右の髪を削ぎ落し、バリカンは左の髪を襲う。カチャカチャ、カチャカチャ―― 新京の美容院のときと違い、敏夫はアヤメの断髪を食い入るように見つめていた。無様に坊主刈りにされていく、かつての上官を凝視し続けていた。憐憫の情は湧くが、それよりも胸の奥、悪魔的な情念が燃えたぎっていた。その正体は敏夫自身にも、ついによくわからないままだった。 左の髪も刈り獲られた。 チョボチョボと刈り余された毛が点在するトラ刈り頭を、中谷軍曹は五厘に仕上げた。 寒々とした坊主頭にされたアヤメ。その頭を得意そうに中谷軍曹は撫で、 「これで貴様も晴れて糸川中隊の一員だ。たっぷりと可愛がってやるからな」 そう言って、残忍な笑みを浮かべた。 「ハッ!」 アヤメは顔をしかめつつも、敬礼して応えた。 「まず、その薄汚い髪を始末せい! そうだな、炊事班に持っていって釜戸の焚きつけにしろ」 「ハッ!」 アヤメは刈布をはずし、砂ぼこりにまみれた落髪を、手早く拾い集めた。すっかり兵卒の動作だった。 満州の短い夏が終わり、厳しい寒さが訪れようとしていた。 それからのアヤメに対する「新兵いじめ」は酷かった。 連日シゴかれ、連日殴られた。「鶯の谷渡り」もやらされた。「自転車漕ぎ」もさせられた。 銃剣突撃の訓練でも、 「ヤアアアァァァ!」 と懸命に走り、藁人形を刺突するものの、重い装備によろけて、 「なんだ、そのザマは!」 もっと腰を入れろ!と打たれ、それでも、持ち前の勝気さが首をもたげ、奮い立って、 「ヤアアアアァァァ!」 とまた藁人形目がけて突進していた。 美しい顔には痣ができ、手足はマメだらけになり、身体は大陸の砂にまみれ、見るも痛々しい有様だった。 敏夫はなんとかしてやりたかったが、憲兵隊の監視下にあるアヤメとの接触は、元中隊長付だった彼にはより難しく、話すことすらできなかった。 匪賊との戦闘は続いている。アヤメはいつも一番危険な任務をあてがわれた。中隊長の糸川中尉は忌々しい女兵士を「戦死」という形で葬り去ろうかとしているかのようだった。いや、そうに違いない。 しかし、アヤメは生き抜いた。 美貌の二等兵の寝込みを襲おうとする不埒な輩も少なくなかったが、アヤメが毎夜、父祖伝来の短刀を抱いて眠っていると知ると、それを押して寝所に飛び込もうとする猛者はいなかった。 交代の時期がきても、アヤメは満州に留め置かれた。日本の戦局が悪化して、関東軍から大量の兵力が、南方の戦線へと引き抜かれても、アヤメは満州に残された。階級もずっと二等兵のまま、据え置かれた。 敏夫はといえば、曹長に昇級したものの、アヤメ同様、依然満州で軍務に就いていた。 1945年8月8日。それまで中立を保持していたソ連軍が、満州になだれ込んだ。 ほとんどの兵力を太平洋方面に回されたため、「張子の虎」状態だった関東軍は、抵抗らしい抵抗もできず、風に吹き飛ばされる埃のように、あっけなく四散した。栄えある帝国軍人――特に上層部の者は、我先にと満州の野から逃げ出した。 8月15日――日本の降伏後も、ソ連軍は矛をおさめず、戦闘、破壊、掠奪行為は続けられた。 敏夫が前線への伝令から戻ってみれば、営内には猫の子一匹いなかった。敏夫は異郷の地に一人取り残されてしまった我が身を思い、慄然とした。 他の部隊と合流しよう、と彼は新京へと歩き出した。 満州国の帝都は大恐慌に陥っていた。 市民は血相を変え、持てる限りの家財を持って、逃げようとひしめき合っていた。 「ソ連軍が来れば、男は殺され、女は犯されるぞ」 と言い合いながら。 あの優雅で繁華だった思い出深い街は、もはや目も当てられぬ惨状だった。火事場泥棒を働く者も出現して、暴徒が跳梁し、危険を感じた敏夫は日本軍の軍服を脱ぎ捨てた。そして、群衆に紛れ、もみくちゃになりながら、残存しているかも知れない他部隊を探した。 或る日本軍の施設ももぬけの殻だった。 敏夫は失望した。こうなれば一人で逃げるしかない。 そう覚悟を決め、急ぎ足で厩舎の前を行き過ぎようとしたら、人影があった。 野々宮アヤメだった。 「何故ここに?!」 敏夫は白昼幽霊でも見た思いで、アヤメに駆け寄った。 アヤメはさみしげな目で敏夫を見た。そして、一言、 「イカロスが死んだ」 聞き取れぬほどの低声で言った。 アヤメの言う通り、彼女のかつての愛馬は厩舎の中で、目を剥いて死んでいた。哀れなほど痩せ細っていた。将兵たちが逃げ出す際、ドサクサにまぎれ殺処分してしまったのだろう。 その屍をアヤメはいつまでも撫でさすって動こうとしなかった。敏夫はたまりかね、 「野々宮さん、俺たちも早く逃げよう! ソ連軍が迫っている! 関東軍も満州国ももうオシマイだ! 内地に、日本に帰ろう!」 と叫ぶように言った。 しかし、アヤメは首を振って拒んだ。 「私は逃げません。ここで腹を切ります」 「腹を?!」 敏夫は驚愕した。 だが、アヤメは平静な面持ちで、 「軍人たちのほとんどが市民や農民を見捨て逃亡しました。これでは皇軍の名折れです。日本軍に人なきや、と敵に嗤われるでしょう。せめて一人ぐらい帝国軍人らしく、いいえ、侍らしく、満州国に殉じる者があってもよいでしょう」 「莫迦な!」 敏夫は懸命に諫めた。 「貴女はたかだか二等兵に過ぎん。二等兵がいくら反骨を示したところで、無意味だよ。一時の感傷に溺れて、切腹などと愚かなことを考えちゃいけない。さあ、俺と日本に帰ろう! 生き抜こう!」 しかし、どう制止しても、アヤメの決意は変わらなかった。 「たとえ日本に戻っても帰る家はありません。軍に入ったとき、父母から“どこにあっても武家の娘であることを忘れず、死すべきときに武士らしく潔く立派に死ね”と厳しく訓戒されました。今更おめおめと帰郷できません。私はこの満州の地に骨を埋める覚悟です。曹長、ここで再会したのも何かのご縁でしょう。どうか、介錯をお願いいたします」 それ以上説得の余地はなかった。敏夫は断腸の思いで、アヤメの願いを受け容れた。 軍施設の一角が、アヤメの死に場所となった。 死に臨んで、見苦しくないように、と見つけてきたバリカンで、敏夫はアヤメの調髪をした。むさくるしく伸びたイガグリの如き髪を、きれいな丸刈りに整えてやった。アヤメは気持ちよさげに、上官に頭を預けていた。 敏夫が支度をしている間に、アヤメは水に濡らしたタオルで身体を拭き、身を清めた。 「軍が逃げるとき、一切の書類を燃やしてしまったみたいです」 「そうか」 「私についての書類も全て灰になって、満州の地で女の軍人が戦っていたことなんて、後の世の人々は誰も知らずに・・・私の存在などは、きっと歴史の中に埋没していくのでしょうね・・・。これっきり、全部が幻に終わってしまうのでしょうね」 アヤメは寂しく微笑した。が、すぐに武人の顔になり、 「いざ!」 と切腹の座に歩き出した。 かつては柔術の稽古が行われていたであろう、畳敷きの武道場の奥まった場所に、アヤメは着座した。背後には、五族協和、と大書された掛け軸が下がっていた。 アヤメは軍服を脱ぎ、シャツのボタンをゆっくりと、一個、一個、はずしていった。 「何か言い残すことは?」 「ありません」 アヤメはキッパリと答えた。 そうして、軍刀を握る敏夫を振り返り、 「曹長、私が声をかけてから、介錯願います」 と言い、腹をくつろげた。が、首を傾げ、思い切ったように、シャツを跳ね上げ、諸肌脱ぎとなった。 初めて見る女の裸体に――胸に晒は巻いていたが――敏夫は息をのんだ。その身体のあちこちには、戦場傷があった。 アヤメは短刀を捧げ持ち、スラリと抜いた。 「イカロス、お前の許へ行くよ」 という呟きが敏夫の耳に入った。 「ヤアアアッ!」 と裂帛の気合いと共に、アヤメは短刀を左の脇腹に突き立てた。そのまま、キリリ、と真一文字に右へと引き回す。凄まじい形相だった。想像を絶する痛みなのだろう。男でもこうはいくまい。敏夫は圧倒される。言葉もない。 流れ出す鮮血が畳一面を浸す。 「そ、曹長ッ!」 声をかけられ、敏夫は軍刀を振り下ろした。 が、はずした。 軍刀はアヤメの肩を、ザクリと切り込んでいた。 アヤメは丸刈り頭をのけぞらせ、咆哮した。 「山科ッ! 何をしているッ! この間抜けがッ!」 「ハッ!」 敏夫は度を失った。もう一太刀、振り下ろした。 しかし、またはずした。 アヤメは絶叫した。人間の声ではなかった。血の海の中、狂ったようにのたうち回った。 敏夫は無我夢中だった。軍靴でアヤメの柔肌を踏みつけると、軍刀を逆手に持ち、背中から一気に、心臓を刺し貫いた。ピクッ、ピクッ、と身体を痙攣させ、悪鬼のような形相で、野々宮アヤメ二等兵は絶命した。 その瞬間、敏夫の満州における何事かも終わった。 (了) あとがき 2017年最後の小説です。 昔から書いてみたかった「美貌の女性将校が二等兵に降格され、むくつけき鬼軍曹によって丸刈りにされる」というネタでございます。思ったよりコンパクトにまとまった(^^) もしかして自作中最悪の結末かな(汗) 当方、旧日本軍についての知識が乏しく、ミリタリー方面に詳しい方には、おかしいと思われる箇所も結構あるかも知れませんが、どうか広い心でお読みいただければありがたいですm(_ _)m 小説って自分の思う通りに自由に書けるのは、ありがたいのですが、それは「全てを自分一人で判断しなくちゃならない」ということで、たまに困ります。ファンタジー小説やパロディ小説を書いていた頃(大昔だ・汗)は、小説に詳しい知人に、「これ、どうかな?」と書き途中の原稿を読んでもらって、助言などを頂いてたんですが、断髪小説ではそうもいかない。。 今回の小説も理詰めではなく、感覚的に書いたので、書き終えてから、大丈夫かな〜、と結構心配(^^;) ただ執筆中は夢中でも、脱稿して何度も読み返しているうちに、ああ、こういうことを書きたかったんだな、という気づきもあり、だから小説って面白いです!! 今年も一ヶ月に一本というペースを保てました♪♪ 楽しく創作活動ができました(*^^*) 2018年はもっと実験や冒険をしてみたいです。 今年もあとわずか、どうか皆様、お身体に気を付けて、新しい年をお迎え下さいね! 皆様にとって、2018年が幸運と幸福に満ち溢れた年になりますよう、お祈り申し上げます(-人-) 今年もありがとうございました♪♪ 来年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m |