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二階堂琴乃・梅雨の間奏


 平凡な会社員に過ぎぬ二階堂浩一は最近、生き生きとしている。
「課長、何かいいことでもあったんですか?」
と部下が訊ねるほどだ。
「別に何もないよ」
と答える浩一だが、やはりウキウキしている。
 デスクのカレンダーに目をやり、
――明後日は「散髪日」か。
と、いよいよ上機嫌で、仕事に精を出す。
 そう、全ては、娘――二階堂琴乃が中学の野球部に入ったことから始まった。
 当時の浩一はといえば、暗かった。元気がなかった。仕事をする背中が煤けていた。
 小学校高学年になり、いわゆる思春期にさしかかった娘の琴乃は、何かと父を疎み、邪険にするようになった。
 ろくに口をきこうともしないし、汚いものでも見るような視線を向けてきさえもした。
 浩一が入浴した後の風呂に入るのを嫌がった。だから、浩一はいつもしまい湯に入るようになった。
 琴乃の父親への嫌悪はエスカレートしていく一方だった。父の洗濯物を自分の衣類と一緒に洗われることにも、拒絶反応を露わにした。
 母親や兄とは仲睦まじいのに・・・。
 一度、用があって、琴乃の部屋のドアを開けたら、
「ちょっと!!」
 琴乃は烈火の如く怒った。
「ノックぐらいしてよ!!」
「ああ、スマンスマン、ちょっといいかな?」
 この家を買ったのは誰と思ってるんだ、という憤懣をおさえ、無理に笑顔をつくり、部屋に入ろうとしたら、
「入ってこないで!!」
と琴乃はツッケンドンに、浩一をシャットアウトしたのだった。
 琴乃はどんどん自分から遠ざかっていく。
 ――男親は悲しいもんだな。
 浩一はさびしく思う。
 琴乃はリトルリーグで野球をやっていた。
「野球は激しいスポーツだからな、怪我、しないようにな」
という父の気遣いにも、
「るっさいなあ」
 言われなくてもわかってるよ、と琴乃は相変わらず、反抗的な態度で応じた。
 ついこの間まで、
「パパもアタシの試合観に来て。絶対だよ、約束だよ?」
と目を輝かせて、身を乗り出してきて、応援に行った試合で琴乃がヒットを打ったときなど、
「今日頑張ったご褒美だよ。お兄ちゃんには内緒だぞ」
と帰り道、ファミレスでケーキをご馳走してあげると、
「嬉しい! パパ大好きっ!!」
と満面の笑顔を父に向けてきた琴乃だったのに・・・。
 ――どこの父親もこんな感じなのかな・・・。
 浩一は肩を落とす。
 中学、高校、その先も、血を分けた娘に煙たがられ、冷たい態度で接せられるのだろうか。
 そう考えると、浩一は暗鬱な気分に陥っていたものだ。

     ※ ※ ※

 しかし、そんな「暗黒期」は意外なところから、あっさり霧消した。
 中学にあがった琴乃は、野球への情熱冷めやらず、野球部に入部した。
 野球部の部員は無論男ばかり。女子部員は琴乃ひとりだ。
 浩一も、
「大丈夫か?」
と心配したが、
「るっさいなあ」
 琴乃はいつもの如く、父を突っぱねた。
 けれど、それから二ヶ月もしない、ある日、琴乃は長めだった髪を、バッサリ断って、頭を丸めてしまった。
 丸刈りになって帰宅した娘に、父は仰天した。母も驚いていた。
 床屋の息子である同級生部員――大泉慶喜に刈ってもらったという。
「お前は何を考えてるんだ」
 他の部員も丸刈り頭だし、中学の三年間を野球に捧げるという意気込みを、自他に示すのだ、という意味のことを、琴乃はたどたどしく説明していた。
「それにしたって――」
 浩一は言葉を失う。
 坊主頭になった琴乃は有髪の頃より、ずっとあどけない感じになった。山寺の小坊主さんみたいだった。
 ――なんてこった!
 浩一は頭を抱えたくなる。反面、幼くなった琴乃が可愛く思えてしまう。父心も複雑なのだ。

     ※ ※ ※

 それまで浩一は琴乃の兄、和志(かずし)の散髪を担当していた。
 和志も高校で野球をやっていた(「も」というか、和志の影響で琴乃は野球をはじめたのだが)。丸刈り頭でエースとして活躍している。
 毎月第二第四日曜日が「散髪日」で、浩一が和志の頭をバリカンでカットしてやっている。
 その日も、浩一は庭に面した廊下で息子の散髪に、専心していたら、琴乃が、にゅっ、と障子の陰から顔を出した。
 琴乃はおずおずと、
「ねえ、パパ」
「どうした?」
「お兄ちゃんの頭が終わったら、アタシの頭もやってくれる?」
 唐突に頼まれ、
「え?!」
 浩一は渋い顔をした。
「お前はもう切らなくていい。女の子だからね」
 普通の女の子みたいに伸ばしなさい、と撥ねつける浩一だったが、琴乃に久しぶりに「パパ」と呼ばれ、頼み事までされて、嬉しかった。
 琴乃も退かない。
「いいじゃん、切ってよ。アタシ、野球部の三年間はボウズで過ごすつもりなんだから。ねえ、パパ、お願い」
 愛娘に「おねだり」され、浩一はデレる。
 しかし、愛する娘の頭にバリカンをあてるのには、父として抵抗がある。
「オヤジ、刈ってあげなよ」
 和志が妹に助け舟を出してやる。
「コイツも覚悟決めて、頭丸めてるんだからさ」
「わかったよ」
 浩一は説得された。
 新聞紙を敷いた廊下に、琴乃を座らせた。カットクロスを身体に巻いた。
「バァ〜ッとやっちゃって」
 短パン姿の琴乃は、素足をブランブランさせながら、伸びたイガグリ頭を疎ましそうに、撫で回した。
「長さはどうするかな」
と浩一がひとりごちていると、
「お兄ちゃんと同じ長さにお願い」
 和志の頭は3mmの坊主頭だ。
「そんなに短くていいのか?」
 浩一はたじろぐ。
「いいの、いいの」
 小さなときから、兄の真似をしたがる琴乃だが――だから野球をやりはじめたのだ――こういうところ、全く変わっていない。
「後でクレームつけても、受け付けないからな」
 そう釘を刺して、浩一は刈り高さもそのままに、ウィーンウィーンとうなるバリカンを、ためらいがちに琴乃の頭にあてた。
 琴乃の前額の上にバリカンが入る。
 ジャッ
と髪がバリカンの刃と接触し、こすれる音がした。その音は意に反して、心地よく浩一の耳朶をうった。
 琴乃も人生二度目のバリカン体験に、
「ああ〜」
と口では嘆きつつ、気持ちよさげに目を細めている。
 ジャジャジャァァ、
 ジャリイィィー
と伸びかけの1cm強の髪に、バリカンを走らせる。
 黒々としていた頭が裂けるように刈りひらかれ、白い頭皮と黒い短すぎる頭髪が融け合うグレーのゾーンが外界に浮き出てくる。
 琴乃の若さが一日、いや、一秒たりとも休むことなく、外の世界に送り続けている髪、その髪を浩一はバリカンで3mmの丸刈りへと刈り整えていく。
 パラパラとカットクロスに落ちる短い髪を、指先で弄びながら、
「ちょっと勿体ないかも」
と琴乃は少し未練ぽく、呟いている。
 そんな娘の乙女心が、浩一にはいじらしく思われた。
 バリカンを握る手に、琴乃の髪がチクチク触れる。その感触が、浩一の懐かしい記憶を呼びさます。
 そう、琴乃がまだ小さかった頃、こうやって髪を切ってやっていた。
 幼女だった琴乃は、父親に散髪されながら、笑ったり、顔をしかめたり、プゥと頬をふくらませたり、目を見開いたり、百面相して、でも大人しく髪を切られていた。
 小学校3年生くらいになると、琴乃は「お父さん床屋」を卒業した。美容院に通うようになった。
 でも、今でも浩一にとっては、ささやかながらも幸福な思い出だ。まさか、中学生になった琴乃の髪をバリカンで切る日が来るとは想像すらできなかったが。
 いつしか心弾む浩一である。
 バリカンはすでに琴乃の髪を七割方、刈り込んでいた。
「小っちゃい頃――」
 琴乃が口を開いた。
「こうやってパパに髪、切ってもらってたよね」
 含羞んだ笑顔で言う。
 琴乃の側でも、ちゃんと思い出に残っているらしい。
 父と娘、二人だけが共有する二人だけの思い出。
 浩一の胸を温かいものが満たした。
「そうだったっけかな」
とトボけつつも、バリカンを持つ手に力がこもる。琴乃の後頭部にバリカンを押し当てる。
「パパ、痛いよォ〜」
「ちょっとくらい我慢しなさい」
 「親父の威厳」が復活する。琴乃はやや不満げに唇を曲げたが、幼女の頃のように、従順に髪を父に委ねていた。カット中に、父娘のパワーバランスは逆転していた。
 3mmに丸まった頭を、
「なんかお坊さんみたい」
と琴乃は恥らって、さすっていた。頬が赤くなっていた。
「パパ、ありがとう」
とニッコリと笑って浩一にお礼を言い、足取りも軽やかに、屋内に戻って行った。
「シャワー浴びるんだぞ」
「は〜い」
 刈った髪や散髪用具を片付けながら、浩一は満ち足りた気持ちだった。

     ※ ※ ※

 それから、浩一は琴乃の散髪も担当するようになった。
 毎月二回、兄と一緒に琴乃の髪をバリカンで刈ってやる。
「男の子がもう一人増えたみたいだ」
とバリカンを繰りながら、苦笑するが、本音は琴乃とのコミュニケーションが取り戻せて、嬉しくて仕方ない。
 ちなみにカットは、
「お兄ちゃんが先だからな」
とはっきりと長幼の区別をつける。これも、また「親父の威厳」だ。
 琴乃も素直に兄の散髪が終わるのを待っている。
「ねえ、パパ」
と髪を切ってもらいながら、琴乃は昂奮した調子で言う。
「アタシ、今度練習試合に出してもらえることになったんだよ!」
「そりゃすごいな」
「パパも観に来てよ」
「試合はいつ?」
「来週の土曜日」
「その日は出勤なんだよなあ」
「えー、つまんない」
と唇を尖らせる娘が、浩一には可愛くて可愛くてたまらない。
 毎日、幸せな気分で、仕事にも脂が乗る。
 で、
「課長、何かいいことでもあったんですか?」
と部下にも訊かれるのである。

     ※ ※ ※

 琴乃も二年生に進級した。
 色気づく年頃だ。
 琴乃もご多聞に漏れず、坊主は坊主なりに、眉毛をイジったり、色つきのリップクリームを塗ったりするようになった。
 当然、丸刈り頭についても、迷いが生じはじめる。
 毎日、鏡と睨めっこして、坊主頭を撫でさすっている。まるで、髪が一気に伸び揃うオマジナイでもあるかのように。
 散髪日、いつものように、
「琴乃、準備できたぞ〜」
と琴乃を呼んだが、琴乃は翳った顔で、
「今日はいいや」
と散髪をパスした。丸刈りになって以来、はじめて「パパの床屋さん」を拒んだ。
 それからも、琴乃は二度三度と散髪をスルーした。
 せっかく伸びてきた髪を惜しむ、年頃の乙女らしい気持ちが、浩一にも十分察せられた。
 このまま、なしくずし的に坊主頭をやめてしまうのだろうか。そう考えると、浩一は複雑な気持ちになる。
 娘が普通の女の子らしい髪型に戻るのは喜ばしいことだが、「散髪」という娘との交流ツールを失うのはさみしい。
 琴乃の髪は黒々としてきた。
 野球部の三年間は丸坊主で通す、と周囲に公言してきた手前、一種の破約である。琴乃も心の中、後ろめたさを感じているふうにも見える。
 そうした引け目が影響しているのだろうか、それとも色気づいた乙女心が邪魔をしているのだろうか、琴乃はスランプに陥った。
 走、攻、守、全部ダメ。
 たまに練習試合に出場しても、チームの足を引っ張る。
 とうとう試合にも出してもらえなくなった。
 琴乃はクサった。
 部活をサボるようになった。
 家庭内でも乱暴な言動が目立つようになった。
 浩一はどうして良いかわからない。
 ただただ、以前の野球に一生懸命になっている琴乃に戻って欲しい、と願っていた。

     ※ ※ ※

 ある日、ささいなことで、
「どういうことよッ!」
と母に噛みついた琴乃に、
「琴乃!!」
 浩一はついに怒声を放った。
 温厚な父の怒りに触れ、琴乃はたじろいだ。
「な、何よ! パパには関係ないでしょ」
と虚勢を張ってみせたが、浩一が棚からバリカンを取り出すと、サッと顔色を青ざめさせた。
「ちょ、ちょっと、パパ、どうするつもりなの?」
 それには答えず、
「来なさい!」
 浩一は琴乃の手をつかみ、引きずるように縁側に連れていった。
「ここに座りなさい!」
「何でよ!」
 反抗する琴乃だが、浩一は力ずくで、琴乃を座らせた。そして、カットクロスを首に巻いた。
 照る照る坊主状態にされた琴乃は、一転して怯えた表情になり、
「ねえ、パパ、ねえってば、どうするの?!」
 震え声で訊いた。
「なあ、琴乃」
 浩一の声音は「優しいパパ」に戻っていた。
「自分で言ったんだろう、野球部の三年間は坊主頭を貫くって。あれは嘘だったのかい?」
 琴乃はバツが悪そうに黙った。
「・・・・・・」
「琴乃」
 浩一は娘に語りかける。
「野球好きなんだろう? だから頭を丸めてまで、男子ばかりの野球部に入ったんだろう?」
「・・・・・・」
「好きなことのために頑張る、その決意をちょっとぐらいの失敗で、投げ出すのか?」
「・・・・・・」
 琴乃は不貞腐れて、頬を膨らませていたが、反駁せず、父の言葉を聞いている。
「もう一度、初心に返りなさい。頭を丸めて、生まれ変わった気持ちになって、野球、やってみないか?」
「・・・・・・」
「どうだ?」
「わかったよ」
 琴乃は身体中に張り詰めさせていた力を抜き散らすかのように、乱暴に首を振った。
「また丸刈りにしてよ」
 そう言うと、神妙な顔つきで、宙を見据えた。
「よし」
 浩一はバリカンのスイッチを入れた。
 ウィーン、ウィーン
「気合い注入」
と、ちょっとおどけた調子で、バリカンを琴乃の頭に近付けていく。
「ぐぅ〜」
 琴乃はしかめっ面で、無意識に身体を後ろに反らせ、バリカンを頭から遠ざけようとする。せっかく3cmまで蓄えた髪を切ってしまうのは、さぞ辛いに違いない。
 だが、浩一は心を鬼にした。
「見苦しいぞ、琴乃」
と頭を押さえつけ、断髪に及ぶ。
 おもむろにボサボサ頭のド真ん中に、バリカンを挿し込み、一気に走らせた。
 ジャジャジャァァ
 琴乃の黒い頭に、グレーの亀裂が、ズバッと入った。丸刈りへの道の序章だ。
「ひぃ」
 琴乃は久しぶりのバリカンに、身悶えしている。
 ジャリジャリジャアァァ
 二度目のバリカン。亀裂は広がる。
 そうやって、三刈り、四刈り、と前頭部の、普通の女の子と野球部員の狭間で揺れている黒いベールを剥ぎ取っていく。
「パパ、バリカンの刃、鈍ってない? ちょっと痛いよォ」
 琴乃はか細く訴えるが、
「我慢しなさい」
 浩一は一旦取り返した「親父の威厳」を手放すつもりはない。
 琴乃はションボリと視線を夜の芝生に落とした。そのまま刈られるに任せていた。
 前頭部の髪を全て刈ってしまうと、浩一は右鬢にバリカンをもっていった。
 ウィーン、ウィーン、ジャジャアアァァ、ジジジ・・・ジャジャアァァー
 髪が1/10の長さに切り詰められていく。
 切り髪がバラバラとカットクロスに降り積もっていった。
 次いで、左サイドの髪を剪む。
 バリカンはコメカミにあてられ、グウー、と後ろへ押し進められる。
 ジャジャジャジャアアアァ、パサパサ
 その刈り跡に平行して耳の上にバリカンのラインがひかれる。
 ジャジャジャアアアァァァー、パサパサ
「お〜、琴乃」
 部活を終え、帰宅した和志が立っていた。
「やっぱり坊主にするのかぁ」
と頬をゆるめる。
 ブラコン気味の琴乃は、
「またお兄ちゃんとお揃いの髪型だね」
と照れ笑いしていた。
「これから暑くなるし、坊主の方が絶対いいゼ」
「そうだね」
 和志は着替えのため、その場を去った。
 また父娘二人きりになる。
 バリカンはすでに後頭部の髪をあたっている。
 分厚い3cmの黒い壁が、削られ、ボロボロと崩れ落ちる。
 琴乃は頭に、髪に、父の手を感じ、浩一は手に、指に、娘の髪を感じる。
 琴乃の頭から黒い部分が完全に消えた。
 青みがかった灰色の坊主頭が、電灯に照りかえって、初々しく光っている。
「やっちまったよォ〜」
 琴乃はクックッと悶えるように笑い、久方ぶりの丸刈り頭をさすっている。そんな琴乃はひどく愛くるしく、浩一の目尻はさがる。
「お前はクリクリの方が可愛いね」
「そう?」
 琴乃は満更でもなさそうな表情を浮かべ、でも、急に恥ずかしくなったのか、
「シャワー浴びてくる」
と自分でカットクロスをはずすと、そそくさとバスルームに行ってしまった。
 浩一は自分の手を見た。
 手には琴乃の細かな髪がくっついていた。
 浩一はしばらく、その髪を見つめていた。
 琴乃との髪にまつわる思い出が脳裏に甦る。
 百面相しながら、散髪されていた幼い琴乃。
 七五三のお参りに、着物姿で長い髪を結って、
「パパ、琴乃、かわいい?」
と無邪気に訊いてきた七歳の琴乃。
 前髪が長すぎるんじゃないか、と何気なく指摘したら、
「るっさいなあ、大きなお世話だよ」
と反発してきた反抗期入りかけの琴乃。
 丸刈りになって周囲を驚愕させた中学生の琴乃。
 たくさんの思い出が詰まった琴乃の髪だった。
 この先、何度、娘の髪を切ってあげられるだろう、そんなことを、ふと考えたりもする。
 洗面所に行き、手を洗う。琴乃の髪を流し落とす。細かな髪は、排水口に吸いこまれていった。
 隣はバスルーム。
 ガラス戸一枚隔てて、琴乃がシャワーを浴びている。すりガラス越しに、琴乃の発育しつつある身体が見える。
 昔ならヒステリックに怒鳴りつけられるシチュエーションだ。
 シャワーの音が止んだ。
 しかし琴乃のシルエットは立ち尽くしたまま、動かずにいた。
「ねえ、パパ」
 バスルームの中から娘の声が呼びかける。
「なんだい?」
 浩一は穏やかに応えた。
「ありがと・・・」
「え?」
「聞こえなかったんなら、いい」
 琴乃のシルエットは言った。含羞んでいる様子だった。
「アタシ、野球頑張るからね」
「ああ」
 今度ははっきりと聞こえた。
「いつか公式試合に出られるといいね」
「うん」
 シルエットは素直にうなずいた。
「パパは琴乃のこと、応援しているからね」
 そう言って、浩一は微笑した。
 ゆっくりと親離れしていけばいい。
 ゆっくりと子離れしていけばいい。
 今は、娘の髪に触れられるという「恩恵」に感謝しよう。
 浩一は温かい気持ちのまま、洗面所を出た。
 そして、フッと真顔になった。
 浩一は浩一で、決断しなくてはならないことがある。
 まだ先の話、と考えていたが、そろそろ真剣に向き合わなければ。
 リビングに足を踏み入れると、妻がテレビの天気予報を観ていた。
 明日からは当分雨天が続くらしい。

     ※ ※ ※

「うわっ、遅刻しちゃう」
 琴乃はあわただしくイングリッシュマフィンを口に詰めこんでいる。
「今日は部活か?」
 新聞を読みながら、浩一が訊いた。
「あれ、お父さんに言ってなかったっけ?」
 今日から合宿だという。合宿といっても、一泊二日らしいが。
「まさか、男子と一緒に泊まるのか?」
「当たり前でしょ」
 琴乃の返答に、浩一の眉が険しくなる。
「年頃の男女が一緒に合宿なんて、間違いでも起きたらどうするんだ」
「“間違い”って・・・」
 琴乃はマフィンを嚥下して、
「大丈夫だってば。寝るところは別々だし、顧問も一緒だし、それにアタシだって分別ってモンがあるのさ」
「でも万が一・・・」
「お父さん、頭固いんだから〜。娘を信じなさい」
 琴乃がテーブルを立つ。長い髪が揺れ、キューティクルが光に触れて、キラキラ輝く。
 その美しさに、父ながら浩一はハッとするものをおぼえる。すっかりオンナになりやがって。
 中学の野球部を引退すると同時に、琴乃は髪を伸ばしはじめた。コツコツと努力の甲斐あって、今ではセミロングだ。
 髪だけでなく、背も伸びた。身体もふくらみ、丸みをおび、女性らしくなった。
 元々愛らしい顔立ちなので、学校でもモテているようだ。父としては心配の種だ。「悪い虫」でもついたら、と気が気ではない。特に、小学校時代から一緒に野球をやっている大泉慶喜、あんな奴に娘は渡さん、と父は固く決意している。
 琴乃の方は恋愛より野球優先の様子だ。
 高校でも野球部を選んだ。
 中学の頃同様、男子に混じって、「紅一点」で白球を追っている。
 他の部員は丸刈りだが、
「さすがに今は無理だよォ」
と琴乃は長い髪でいる。年頃の女の子らしく、美容院でオシャレな感じにしてもらったりもしている。
 和志も理髪店で髪を切るようになったので、家庭用バリカンの出番はなくなり、戸棚の奥でホコリをかぶっている。
 そんなバリカンに自己を重ね合わせ、二人の子を遠くに思うときもある。が、
 ――それが成長ってものだ。
 そう自分に言い聞かせたりする。
 諸行無常、昔のままではいられない。
 とは言え、「合宿」の件が気になって、新聞記事が頭に入ってこないのも、また事実である。
「ああ、もう遅れちゃう〜」
 琴乃は聞こえよがしに言い、そのくせ、髪の手入れなんかをしている。
「わかったよ」
 浩一は新聞を閉じた。
「駅まで送っていってやるから、早く仕度しなさい」
「やったあ!」
 琴乃は期待通りの父の言葉に、笑顔になった。
「お父さん、大好きだよォ!」
 自家用車のキーを取りに行きながら、
 ――当分、子離れは難しいかもなあ。
 浩一の歩みは軽やかだ。



(了)



    あとがき

 「二階堂琴乃シリーズ」第三弾です♪
 ちょっとイレギュラーな作品です。
 元になったのは、コウキさんのイラストです。中学生の琴乃嬢の断髪イラストがあまりに可愛く、「愛でている」うちに、「パパとイチャイチャ断髪」というネタに行き着きました。元々、琴乃は丸刈りになる前は父に対して反抗的だった、という作者だけの裏設定があったので、それとミックスさせました。
 本当は父君には、「琴乃〜、可愛いよ〜、可愛いよ〜」と煩悩丸出しでカットして頂こうと、当初は思っていたのですが、「新生・・・?」でキンシンソウカン(?)的なネタをやった直後のせいか、はっちゃけられませんでした(笑)。無意識に抑制が働いたようです。
 それにしても、3mm坊主好きだなあ、自分(笑) あんまり意識してなかったんですが、自作の3mm坊主の多さに最近気づきました。1mmだと短いし6mmだと長い、ということかな。「丸刈り感」や「バリカン感」が丁度良いのが3mm坊主のような気がします。
 それにしても、このペースだと2013年限定だったはずの「二階堂琴乃」シリーズ、年を越えてしまいそうです(^^;)
 お付き合い下さり、ただただ感謝です。




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