姫百合の・・・〜大阪食いだおれ対決〜 |
「妹」の藤道嶋子が生命がけの荒行に入ってから、三日が経つ。もう三日か、という気もするし、まだ三日か、と一日の長さを疎ましく思うこともある。 あの夏の日、「研修」参加を余儀なくされた嶋子の髪に鋏を入れたとき、そして、つい先日、放蕩の限りを尽くしていた嶋子の髪をバリカンで刈り取ったとき、いずれの場合にも、私なりの正義の発露があった。 しかし、嶋子の髪を切るとき、正義とは別に、私の心の奥底に或る感情が、確かに存在していた。仄暗いその感情、それの正体は誰かに指摘されずとも、自分で承知している。 歓喜。愉悦。嗜虐心。充足感。 他人の髪を切るときに感じる、ゾクゾクするような後ろめたくも甘美な性的満足。人はそれを、一種のフェティシズムと呼ぶだろう。 「正義」はそのフェティシュな欲求の充足を正当化するための他者への、あるいは自分への言い訳に過ぎない。 そうだ、認めよう、私は断髪フェチだ。 人知れず、自分の中で芽生え、肥大していく断髪についてのセクシャルな欲望。そう、「人知れず」だ。周囲のどんな親しい人間にも秘密にし続けている。嶋子は薄々気付いている様子だったが、「姉」である私の暗部を暴き立てるのを憚ったのだろう、沈黙を守り通してくれた。 このアブノーマルな性癖を私は一生、背負い続けるのだろうか。そう自問するたび、私は暗澹たる気持ちになる。深い深いクレバスを一人、どこまでもどこまでも落ちていくような、寒心をおぼえる。 神様、ひどいじゃありませんか!と私は、まるでお人好しな叔父さんに八つ当たりする子供のように、かの御方の寛大さに甘えて訴えかける。何故、私にこんな性的倒錯をお与えになったのですか! ノーマルなセックスに対する無関心。特殊な性癖の露見を恐れ、それを隠すため、他人との、そう、家族にさえ築いてしまった、壊しようのない心の壁。これらが障害となって、私の人生に暗い影を落とす。 愛情に包まれた結婚、満ち足りた家庭生活、母となる喜び、他の女性たちが手にするであろう幸福など、私には望むべくもない。 フェティッシュな欲望に突き動かされるまま、ただ自分のためだけに、私は断髪にまつわる小説を書いている。髪を切る、髪を切られる、女たちの禍々しい物語を夢中で紡ぐ。それが現在の私の、唯一の生きる慰めといえる。 孤独や虚無に襲われるとき、私の心は過去へと向かう。 かつて、同じエモーションを分かち合った少女がいる。 彼女のことを思えば、懐かしく、でも、懐かしさはいつだって疼痛を伴う。 大久保詩織との出会いは、運命的だったと思っている。 いや、正確には、「運命的だった」と思いたがっている自分がいる。 同じ学び舎に通っていたのだから、出会うことに「運命的」とは大げさだろう、と自分の甘ったるいロマンチシズムを冷笑するクールネスもあるのだけれど、詩織のことを回想するとき、私はこの自己客観視が煩わしい。 最初に声をかけてきたのは、詩織の方だった。昼休みの渡り廊下だった。 「佐竹聖子さん、ですよね?」 私は、ええ、と優等生らしい笑みを崩さず、答えた。「白鷺の君」と校内で呼ばれ、まるで崇拝者のような生徒たちに、絶えず接近されているので、初対面の少女の突然のアプローチにも、悠然と構えて応対できる。ただ、彼女は美しさには、内心驚いていた。 「貴女は?」 「大久保詩織です」 二年生です、と見知らぬ美少女は名乗った。同学年だ。 「何の御用かしら?」 と訊きながら、私は景徳鎮の壷でも鑑賞する古美術マニアみたいな目をしていたかも知れない。 詩織という少女は、 「あの・・・」 と、ちょっと言いよどんで、 「お訊ねしたいことがあるんです」 「殿方のハートを掴む方法以外のことなら、何でもお答えするわよ」 私の冗談に詩織は、フッと微笑した。笑うとますます美しい。 詩織はやや迷って、それでも勇を鼓したように、質問してきた。 「もしかして聖子さん、HIJIRIっていうペンネームで、ネットで小説を発表していらっしゃいませんか?」 自分の顔が瞬時に青ざめていくのがわかった。 そう、確かに私は当時、ネットの或るサイトで、詩織のいうペンネームで小説を書いていた。女性が辱めを与えられながら、髪を切られる、おぞましい内容の小説を。 さあ? 何のことかしら?と空とぼけるには、私は明らかに冷静さを失っていた。目は泳ぎ、心拍数が跳ね上がった。 かろうじて、訊いた。 「貴女“も”・・・なの?」 声が震えた。 彼女が自分と「同類」でありますように、と祈るように思った。 美少女は少し頬を染め、 Yes というふうに、小さくうなずいた。 ここから、全てがはじまった。 「どうしてHIJIRIが私だとわかったの?」 と後で訊ねたことがある。 詩織は、 「リズム」 と短い単語で答えた。 私は学院では文芸部所属だった。文芸部で発行している会誌に、何度か小説を発表している。無論ノーマルな小説だ。 その小説を詩織は読んだ。 そして、私の表の顔である文芸部員としての文章と、裏の顔であるHIJIRIとしてのネットの文章の相似に気がついた。両者の文章のリズムはピッタリと一致するのだという。 「たったそれだけで――」 私は舌を巻いた。 詩織は、私が吐き出す、ほとんど生理的ともいえる文章の律動を、本能のレベルで掴んで、私の正体を見抜いたのだ。 私は潜在意識というものを信じている。人間の奥底に眠る神秘的な能力(ちから)。 そのパワーこそが、人と人とを出会わせるのだ。 詩織は無限に広がるネットの宇宙の中で、私を引き当てた。私は詩織に引き当てられた。 私たちは同じ秘密を共有する「同志」となった。 「同志」ではあったけれど、私と詩織はまるきり正反対の気質の持ち主だった。 私は外向的で、強気な態度を装っているが、内面はひどくナイーヴで、些細なことで、落ち込んだり傷ついたりしていた。 詩織は外柔内剛、芯が強く、でも烈しい自我を、おっとりとして物静かな物腰で包んでいた。 私が世の中の現実に、シニカルに肩をすくめてみせるポーズをとりつつ、実は甘い夢想を好むロマンティストなら、詩織は浮世離れしているように見えて、ちゃんと現実を見据えて、折り合いをつけることのできるリアリストだった。 私は理詰めで物事を考えていくタイプだが、詩織は感覚的だった。 しかし、私はそんな詩織との性格の相違が、新鮮で楽しかった。ずっと胸のうちに隠し続けていたフェティシズムを共有できる友人が、生まれて初めて身近にできて、高揚していた。嬉しかった。 休み時間や放課後、あるいは休日にコッソリと落ち合って、フェティッシュな話題や妄想で、熱っぽく語らったものだ。 「こういうのって、イケナイことなのかな?」 ある日、詩織が寂しそうな微笑をたたえ、訊いてきたことがある。 「いけなくないわよ」 私は力をこめて答えた。 「結局は、数が多いか少ないか、でしょ。それだけのことじゃないの」 「“それだけのこと”?」 詩織は疑問形で、私の言葉の尻尾をつかまえた。否定的な響きがあった。 詩織のリアリズムに、私の楽観的なロジックは無効化される。 そう、この国では、マイノリティーはそれ自体が罪悪なのだという、ひんやりとしたリアル。 マイノリティーの私たちは、ますます惹かれ合う。詩織に対する私の依存心は膨らんでいく。 依存心が肥大すれば、不安も増す。 いつしか私は詩織の言葉や態度の中に、不安や不満の種をさがすようになっていた。 私には私の生活があり、詩織には詩織の生活がある。当たり前のことだ。頭ではわかっている。けれど、心は納得できない。 詩織が友人と遊びに行ったという話を、 「それは良かったわね」 と笑顔で聞きながら、内心では悶々としていた。 私は自分の気持ちをすべて詩織に向けているのに、詩織は彼女の一部でしか対応してくれていないように思える。 不公平だ、と身勝手な憤りをおぼえる。惨めさに責め苛まれる。 つまるところ、私にとっての人間関係は、プライドの問題なのだろう。そして、このプライドは、本当に大切な局面で、いつも私を「敗者」に転落させてきた。 こんなことがあった。 私は詩織の前で、私の「ファン」と称する下級生たちと、詩織をそっちのけにして、ことさらに賑やかにハシャいでみせた。 ハシャぎながら、私は詩織の傷ついた顔を期待して、そっと彼女を盗み見た。 詩織は微笑んでいた。一片の曇りもない湖水のような笑顔だった。 ほんの一瞬目が合った。 私は反射的に目を反らせた。自分の卑しさを詩織に見透かされたような気がした。傷つけるつもりが、傷ついた。 その夜、小説でも書こうと、ノートパソコンに向かいながら、昼間の詩織の笑顔が脳裏に浮かんで、 「死んでしまえ」 と思わず呟いていた。 呟いて、ハッとした。 誰に死んで欲しいんだろう? 詩織・・・? それとも、私・・・? 考えたくなかった。 でも、たぶん、この世から私と詩織の一方が消えるか、それとも、溶け合うように一つになるか、そのどちらかしか、私の情念の行き着く先はないように思えた。 こんな気持ちにさせた詩織に、私は「復讐」を企てた。 詩織を言葉巧みに放課後、誰もいない美術室に誘い出した。 「こんなところで何をするの?」 と訝る詩織に、 「詩織」 私はつとめて快活に言った。 「前髪、伸びてるわね」 「そうかしら?」 詩織は不審そうに前髪に指をあてている。 「切ってあげましょうか?」 詩織は、えっ?と私を振り仰いだ。警戒の色があった。計画が頓挫しかけて、私はあわてた。 「実はね」 とっさに別の口実を考えついた。 「小説のね、モデルになって欲しいの」 「・・・・・・」 「カットする方が主人公なんだけど、実際に他人の髪を切ってみないと、わからないことってあるでしょう? リアリズムって大事だから――」 「嫌よ」 詩織は断った。彼女がこんなにキッパリと私を拒絶したのは、はじめてだった。 「お願い」 私は掌を合わせて頼んだ。「復讐」も何もあったものではない。 「嫌っ」 「前髪を、ちょっとだけだから」 まるで売春の交渉をする中年男のようだ。情けなさを通り越して笑えた。自分を笑うと、腹が据わった。 上履きを脱ぎ、冷たい床に正座する。 「詩織、この通りよ」 人に土下座したのは、後にも先にもこれ一度きりだった。屈辱ではあった。しかし歓喜が屈辱を凌駕していた。美に拝跪するのは、とても甘美だ。やはり私は筋金入りの変態らしい。 詩織はすっかり困惑していた。 しかし、 「いいわ」 とため息をつき、了承してくれた。 私の行為に心を動かされたのだろうか、それとも、これ以上拒絶して私のプライドを傷つけたら不味い、とでも思ったのだろうか。 詩織がゆっくりと椅子に座った。 詩織の首に、用意していたタオルを巻く。 通信販売で買った散髪用のカット鋏を、鞄から取り出す。 人が来やしないかとドキドキした。詩織も同じことを考えているらしく、不安そうな眼差しを、入り口のドアに向けていた。 「大丈夫よ」 私は詩織に、自分に、言い聞かせた。 「友達の前髪を、ちょっと切ってあげてるだけなんだから」 「そうね」 と詩織も安堵したように肯いた。 これがヌードとかコスプレとか、口づけなら問題になるんだけどね、という私の言葉に、詩織は、ウフフ、と笑った。 皆が素通りする行為に、私たちは惹きつけられる。 マイノリティーであることの幸運。 世界の死角で行われる禁じられた遊戯。 詩織は現代文のノートを、両手で目の高さに掲げる。 詩織の前髪は黒く、でも軽い感じで、午後の陽光を受けて、キラキラ光っている。長さは目のすぐ上まである。 詩織の髪に触れる。柔らかい。その手触りは上質なシルクを連想させ、私はただ触れただけで、恍惚となる。これから、この美しい髪を刃物で、断つのだ。切り裂きジャックと同質の昂奮が身体中を駆け巡る。 前髪に鋏をあてる。詩織は恐る恐る目だけ動かして、鋏を見つめている。 私は眉毛より1センチ上に鋏を入れた。 ジャッ 「あっ!」 と詩織が小さく悲鳴をあげた。 コメカミにあたる金属の冷たい感触に、そして、彼女の想像を遥かに超える、切り髪の長さに、詩織は焦った様子だった。 「眉毛出ちゃうわ・・・」 消え入りそうな声で、素人理髪師に訴える。私は無言で、哀れな詩織の訴えを斥けた。 「聖子・・・眉毛、出ちゃうわ・・・お願い、短くしないでっ」 いつになくうろたえる詩織に、 「詩織」 私は威厳ある「姉」を演じた。 「はしたないわよ、静かになさい」 ビクン、と詩織の肩が波打った。そして、それを最後に彼女は人間であることを、一時やめた。人形になった。 この瞬間、私は詩織を「所有」したと確信した。 ゆっくりと鋏をすすめる。儀式を執り行う司祭のように厳かな手さばきで、鋏を動かす。買ったばかりのカット鋏は、初めての獲物に無表情で噛みつく。 ジャ と詩織の前髪が啼く。森閑とした美術室に響き渡る音は、とても心地よく耳朶をうち、もっと聞きたいと思う。 パラパラ、と黒い繊維が落ちる。詩織の左眉がのぞいた。 私は良心の呵責に襲われた。自分たちのしている行為が、ひどく罪深いもののように思えた。 しかし、私と詩織はすでに一線を越えてしまったのだ。もう引き返すことはできない。 いつしか欲望が常識を押しのけていた。いや、むしろ背徳感が欲望に拍車をかける。 詩織は目を閉じたまま、身じろぎもしない。本当に人形のようだ。 前髪に段差ができている。直角になっているところに、鋏の刃を跨がせる。 ジャ、 もう一口。 ジャッ、 もっと! ジャキ、 鋭利な刃物に押し切られ、詩織の前髪が雨だれのように落ちていく。落髪は、現代文のノートをバラバラと小気味良く叩く。 衝動に任せ、鋏のグリップを握る。力をこめる。 ジャキ、 前髪が切り離されていくにつれ、パッと詩織の表情に、光が射したような気がした。隠し事など何もない「良い子」みたいに見える。なるほど、大人たちが子供の前髪を短くさせたがるわけだ。 詩織の両眉が露になった。 歪な切り口は、カットした人物の技術の稚拙さを、雄弁に物語っている。 「できたわ」 という私の声に、詩織は人間に戻った。静かに瞼を開いた。そうして、鞄からコンパクトミラーを引っ張り出して、新しい前髪を確認する。 「どう?」 私は残酷に訊いた。 「やだわ!」 詩織は大仰に顔をしかめていたが、やがて、 「おかしいわ」 と噴き出した。私は嬉しかった。叫び出したいほどの歓喜があった。 翌朝、不揃いの前髪で登校した詩織は、同級生たちに廊下で質問攻めにされていた。 「詩織さん、その前髪どうなさったの?!」 「お父様にでも切ってもらったの?」 曖昧に微笑する詩織を遠目に見て、私は喜びに打ち震えていた。 私が昨日刻印した痕跡、その痕跡を衆目に晒し、詩織は校内を歩いている。たまらなく愉快だ。 「ふふ、ふっふっふ」 それから、私たちは美術室でたびたび、あの秘密の遊戯を繰り返すようになった。 私が切り、詩織は切られる。神に見放された異常性愛者同士の放課後の失楽園。 遊戯のための合言葉も決めた。 「図書室で『若草物語』を読まない?」 これが合言葉だ。別に合言葉なんて必要ないのだろうけれど、私は欲しかった。詩織との絆をもっと深めるために。 人気のない美術室で私は詩織の髪を切る。詩織はやっぱり人形のように、黙って私に髪を委ねる。ジャキ、ジャキ、ジャキ―― 詩織の前髪は、逢瀬のたびに短くなっていく。気付けば、額が半分見えるくらいにまで、彼女の前髪を切り詰めてしまっていた。しかし、詩織の髪が伸びるのを待つ余裕など、私にはなかった。 詩織の髪をカットしながら、私は自分の歯止めがきかなくなることを、ひそかに恐れていた。 あれ?と恐ろしい事実に気付いたのは、学園祭の頃だった。 学園祭が終わり、文芸部の活動も済んだので、私は詩織のクラスに顔を出した。急に彼女に会いたくなったのだ。後夜祭は詩織と一緒に過ごそう。 詩織はいた。級友たちとおしゃべりをしていた。最近買ったCDの話をしていた。 声をかけそびれた私は、踵を返し詩織の教室を立ち去った。 私の乱暴な歩き方に、すれ違った女生徒はあわてて廊下の端に飛びのいていた。 激しい感情が身体中を駆け巡っていた。その感情の名は「嫉妬」だ。 級友たちに向けていた詩織の笑顔。人懐っこくて、茶目っ気があって、隙だらけの笑顔。普通の女の子の笑顔。私には見せてくれない笑顔。 詩織は私にも笑いかける。聖母のような笑顔を向けてくれる。しかしクラスでの詩織の笑顔を見たら、私への笑顔が作りものめいているように思えてならない。 詩織と私は二人だけの「秘密」を共有している。「秘め事」も行っている。関係の深さは、クラスメイトの比ではないはずだ。 でも、と思う。 私たちは「秘密の部分だけでしか関わっていない」のだ、と。 詩織のフェチとしての顔しか、私は知らない。例えばクラスメイトと話していたCDの話を耳にするまで、詩織の好きな音楽のことなど知らずにいた。彼女が好きな芸能人、好きな本、嫌いな食べ物、何も知らない。詩織だって私のことを、どれだけ知っているのだろう。 「秘密」を深めていけば深めていくほど、「秘密以外の部分=普段の姿」への関心は薄まっていく。なんてパラドキシカルな関係なのだろう。 途方に暮れた。どうしていいのかわからなかった。苛立った。 それでも、私たちは「罪」を重ねる。 放課後の密室で。 今日は前髪ではなく、毛先を整える。詩織の長くボリュームのある、美しい髪の先を切り揃える。こんなに長い髪なのに、ちっとも傷んでいない。手入れの行き届いた髪だ。 いつも通り、マネキンのように、凝と髪をカットさせている詩織に、 「詩織」 私はたまりかねて、カットの手をとめた。 「何?」 詩織は目を閉じたまま、応じた。 「私に髪を切られるの、嬉しい?」 「嬉しいわ」 詩織は水のようなトーンで答えた。 「だったら」 私は唇を噛んだ。 「もっと人間らしい反応をしてくれてもいいじゃない。喜ぶ、とか、笑う、とか」 「聖子は、それを望んでいるの?」 という詩織の言葉、淡々とした態度は、私の苛立ちをさらに増幅させた。 「私が望むとか望まないとかじゃなくて、貴女はどうなのよ! お人形さんみたいに感情もなくカットされて・・・。私はネクロフィリアじゃないのよ!」 まくしたてながら、私は自分の矛盾を持て余していた。カット中、全てを私のなすがままに任せている詩織に、私の所有欲は満たされているはずなのに。何故、こんなに苦しいのだろう。何故、こんなに虚しいのだろう。 「聖子」 詩織は清らな微笑を浮かべた。私は目を背けた。そんな笑顔、見たくない。 「怒っているの? ごめんなさい」 と詩織は微笑みながら謝った。そして、 「もうやめましょう、こんなこと」 と意を決したように言った。 「えっ?」 私は詩織の突然の言葉に、しばらく棒立ちになった。 「不毛だわ。それに、こんなことをいつまでも続けていたら・・・いけない・・・いけないわ」 今なら、と詩織は言う。 「終われるわ。引き返せる。だから・・・ね?」 同意を求められ、 「嫌よ」 と私は駄々っ子のように、かぶりを振った。 「私は嫌。終わりなんて嫌! きれいに終わるより、たとえ無様だろうと、たとえ泥まみれになろうと、たとえ神様や人倫に背こうとも、続けたい。詩織、お願い、考え直して!」 私は必死だった。怖かった。詩織と二人だけの秘密の世界を失うことが、怖かった。この世界から追われて、私は一体何処に行けばいいの? だから、懸命に詩織に翻意をうながした。 しかし、詩織は首を縦に振ろうとはしなかった。そう、彼女はこういう人間だ。一度決めたら、あくまでもその意思を貫く強さを、内に秘めている。 私は脆い。すっかり取り乱し、詩織の袖にすがらんばかりに、説得を重ねた。最後には、 「裏切り者ッ!」 と罵りの言葉を口走っていた。 「そうね」 詩織はさびしげに微笑した。 「私、聖子を裏切ってしまったのね。ごめんなさい」 「・・・・・・」 私はただ詩織を睨めつけるだけ。 「口先だけで許してもらおうなんて思わない」 詩織は椅子に座ったまま、私を振り仰ぎ、覚悟をきめたように言った。 「だから、聖子、最後に私の髪、好きなだけ自由にしていいわ」 「え?」 私はちょっと間の抜けた顔になっていたかも知れない。 「貴女の気の済むまで、私の髪を切って、それで全てを終わりにしましょう」 ゴクリ、と思わず喉が鳴った。そんな自分を恥じた。 詩織の言うとおりにしてしまったら、もうこの関係はおしまいになる。けれど、切ろうが切るまいが、結局詩織は彼女の決意を曲げはしないだろう。 「わかったわ」 私はカット鋏を握り直した。自分の中の安全弁が静かに、でも、完全に外れた。 詩織は、お好きにどうぞというふうに、私に背を向けた。 私は鋏の刃を開き、詩織の頤の位置に跨がせた。 詩織の顔に一瞬戸惑いの色が浮かんだが、すぐに消えた。 「いくわよ、詩織」 「ええ」 詩織は潔かった。無抵抗だった。スッと瞑目し、一切を私の感情に委ねた。 私はもう容赦するつもりはなかった。 激情に任せ、鋏を閉じた。 ジャ・・・キ・・・ 詩織の髪を左の頤のところで切った。 バサリと丈長き豊かな黒髪が、床に落ちた。 詩織のミルクのような真っ白い頤がのぞいた。新雪みたいで、汚したくなくもあり、踏み荒らしたくもある。 私は間をおかず、もっと切りすすんだ。 ジャキ・・・ジャキ・・・ 流石にプロの使う鋏だけある。驚くほどよく切れる。 バサリ、とまた髪が床を這う。無残で空虚な収穫。いや、これはケジメだ。詩織にとっての。私にとっての。 左の髪をボブに切り揃える。次はバックの髪を切った。首筋の辺りに鋏を入れる。 ジャキ・・・ ジャ、キ・・・ 手に触れる詩織の髪、柔らかい髪、美しい髪。柔らかいから、美しいから、詩織のものだから、破壊衝動が湧き起こる。もう自分を抑制できない。 一筋、また一筋、と長い髪を握り、片っ端から鋏で断ち切る。 床には黒い溜まりができている。カットがすすむにつれ、溜まりは広がっていく。 ジャキ、ジャ・・・キ もっと! ジャキ! ジャ・・・キ! もっと切りたい! 詩織の髪、もっと切りたい! 後ろの髪を全部切った。かろうじて残っている一片の良心が、襟足をやや長めに――うなじが少し見えるくらいに揃えるにとどめた。のぞいたうなじに小さな痣があった。これからは、もう髪で隠すことはできない。 詩織は沈黙して、辱めに耐えている。 「詩織」 私は意地悪く訊いた。 「今、どんな気分?」 「怖い・・・怖いわ・・・」 詩織は消え入りそうな声で答えた。 私の暗い情念は満足した。 キーン、コーン、と下校のチャイムが鳴る。余計なお世話だ。私たちの放課後はまだ終わってはいない。 左髪を切り、後ろ髪を断ち、最後は右の髪だ。 私は美食を味わうように、ゆっくりと右髪に鋏を跨がせた。 詩織は、ギュッと目を瞑っている。人形ではなく、人間の、聖母ではなく、普通の女の子の顔になっていた。2/3がボブ、1/3がロングという滑稽な姿で、カットが終わるのを待っている。 ザクリ、と鋏をロングの髪に食い込ませた。そして、おもむろに切りすすめていく。 ジャキ、ジャ、キジャ・・・キ 右の頤も出た。切られた髪が鋏を伝い、バラリバラリと滴り落ちていく。 ジャキジャキ、ジャ、キ 横の首筋も剥き出しになる。 ジャキ、ジャキジャ、 バサッ、バサッ、 詩織はアシンメトリーなボブカットになった。カット前よりずっと幼く見えた。 私は詩織の髪を左右対称にしようと、神経質に何度も両の髪を揃えた。詩織の髪はさらに短くなった。「オカッパさん」と呼びたくなるほどに。 私の執拗さに、詩織はたまりかね、 「聖子、もういいでしょ? 気が済んだでしょ?」 と断髪の終了を促した。 童女のような外貌になった詩織が、大人びた声と口調で話すものだから、私は思わず笑ってしまった。 コンパクトミラーで「オカッパさん」になった自己の姿と対面して、 「恥ずかしいわ」 詩織は頬を赤らめ、俯いた。 散った髪を片付けていたら、 「聖子」 詩織は厳粛な面持ちで言った。 「約束よ。これで、もうおしまい」 私たちの脳裏でチャイムが鳴っていた。この学院で一番小さくて、一番異常な共同体の終わりを告げるチャイムが。 「詩織!」 私は未練がましく、言い募ろうとしたが、 「聖子」 詩織は私の唇に指をあて、それ以上言わせてはくれなかった。 「今までありがとう。楽しかったわ。私、聖子のこと、一生忘れないと思う」 そう言って、詩織はボブヘアーを翻し、美術室を、歪んだ楽園を出て行った。振り返ることもなく。 それが私が詩織を見た最後だった。詩織はこの翌々日、学院からも消えた。 遠くの学校に転校したと、後で噂で聞いた。 私の前に突然現れた詩織は、私の前から突然いなくなったのだった。 取り残された私は、取り残された詩織の切り髪を拾い、鼻にあてた。詩織の匂い。甘い香り。 「詩織・・・詩織・・・」 そのまましばらく声を殺して泣いた。 泣き腫らした目で、帰路に着く。 校門に人影、誰か立っている。 もしかして詩織・・・? 考え直して私を待ってくれていたのでは?と私は一瞬期待した。 人影が私に声をかけた。 「ごきげんよう、お姉さま」 「妹」の嶋子だった。 そういえば、と私はようやく目が覚めたような思いだった。ずっと詩織に夢中になっていて、随分と嶋子を等閑にしていた。 「泣いてらしたの?」 嶋子は心配そうな顔をした。 「ちょっとね」 私はキマリ悪くて、アメリカ人みたいに大仰に肩をすくめてみせた。 嶋子は事情を察した様子だったが、何も訊かなかった。ただ聡明に微笑して、 「一緒に帰って下さいますか?」 「ええ」 二人足並みを揃え、家路へと歩き出す。こうやって「姉妹」二人きりで過ごすなんて、久しぶりだ。懐かしい平和だった日々が、ふたたび舞い込んできた。 「嶋子」 「はい」 「今夜は私の家に泊まりなさい」 「え? お姉さまのお家に?」 「一緒にご飯を食べて、一緒に寝ましょう」 「ご迷惑では?」 「何を水臭いことを言ってるの。貴女のお家には、ちゃんと連絡しておくから」 「はい!」 嶋子はパッと目を輝かせた。欧州系の顔立ちを嬉しそうに笑み崩す嶋子が、私にはとても眩しい。 「たまには『妹』孝行しないとね」 冗談めかしていうと、 「お姉さま」 嶋子はまた微笑した。 「大丈夫です、私は、大丈夫」 嶋子は全てわかっていて、全て受け容れてくれている。涙腺が緩む。でも泣かない。「お姉さま」だから。 「さあ、そうと決まれば行きましょう」 私は照れ隠しに、大股で歩く。そして、歩幅を合わせようと一生懸命になっている、隣の嶋子をそっと盗み見る。 嶋子の髪、長くてブラウンのフワフワした髪。愛らしい髪。 いつか、この髪を自由にできる殿方が現れるのだろうか。ふと考えた。 「お姉さま?」 嶋子が私の視線に気がついた。 「どうかなさいましたか?」 「いいえ」 私は首をふった。 詩織の姿が脳裏にフラッシュバックした。彼女と過ごした日々も、いつかは思い出になるのだろうか。思い出になるには、長い時間がかかりそうだ。 この先もこんなふうに、たくさん傷つくのだろうか、たくさん苦しむのだろうか。この先もたくさん傷つけるのだろうか、たくさん苦しめるのだろうか。 それが人生の総和だ、というのなら、なんて煩わしいのだろう。 それでも私は生きていくけどね。進んでいくけどね。のたうち回りながらも、汚れていきながらも。 大丈夫! 嶋子と歩くこの道は、ちゃんと未来へと続いているのだから。 とりあえずは、早く空腹を満たしたい。 「夕食はビーフシチューがいいわね」 「私はクリームシチューがいいですわ」 「ビーフよ」 「クリームです」 「ビーフ!」 「クリーム!」 言い合いながら、私たちはお腹の底から笑っていた。 (了) あとがき 「姫百合の・・・」シリーズ、第三作目です。 今回は佐竹聖子様がヒロインです。「今回は」と言っても、着手したのは、2008年の春くらいかな? 「姫百合の・・・〜真・聖杯伝説篇〜」でのあとがきでも書いたように、最初は「茨城の森」というタイトルでした。そして、聖子様が一人で延々とイッちゃってる、ある種自己陶酔的なお話だったので、ノートに書きかけたまま、ボツにしたんですね。 そうしたら、たまたま、最近、そのノートを読み返す機会があり、「そんなに悪くないかなあ」と思いまして。。。「恋することのエゴイズム」というか「思春期の自意識のドラマ」というか、こういうことって、十代の頃にはよくあることじゃないのかなあ、と自身の経験からも(笑)、思い直し、最後まで書き上げました。 あと、最近、文体が固定しつつあるので、ちょっと違うタイプのストーリーにチャレンジしたい気持ちもありました。 書いてみて、とても好きな作品になりました。 まだまだ初々しい嶋子もいいです(笑) 尚、くどいようですが、「マ○みて」とは一切関係ありません(笑) お読み下さり、どうもありがとうございました!! |