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Happy Happy Bridal Cut!


 アタシが彼と出会った日は、クリスマスイブという特別な日の夜で、出会った場所は近所のコンビニエンスストアーという、ごくアリフレタ空間だった。
 恋人いない歴=年齢だったアタシはその年のイブも仕事だった。仕事を終え、家路の途中、コンビニに寄って、晩酌用のカクテルサワーを買い、せっかくのクリスマスだから、と、ついでにチキンも買った。ケーキも買おうと思ったけれど、流石にそれはやめておいた。
 そこである男性に声をかけられた。いわゆるナンパってやつをされた。
 店内に入ったときから、その若い男性がアタシをちらちら見ている視線に気付いてはいた。何度か目が合った。目が合うたび、アタシもその男性も咄嗟に目を逸らし、なんでもないふうを装ったけれど、お互い、強く意識しているのがわかった。
 男の人は悪くないルックスで、アタシと同じタイプらしく、明らかに自意識過剰になっていた。アタシのこと、意識すまい意識すまいと努力している様子が、ありありと伝わってきて、アタシは彼に親近感をおぼえた。アタシの方だって、身体が固まり、伏せ目がちになっていたし。おまけに持ち前の赤面症のため、顔に赤みがさすのがわかって、ますます焦ってしまった。
 会計をしている間、隣のレジの彼へ向けられた意識は最高潮に達していた。
 彼もおんなじ。
 二人、同時に店を出た。背後の自動ドアが閉まると、彼は思い切ったように、アタシに声をかけてきた。
「家、近所なんですか?」
 これが彼――磯野哲也(いその・てつや)がアタシに発した最初の言葉だった。
「ええ」
とアタシはちょっとひきつり気味の笑顔でうなずいた。
「俺もなんですよ」
と、それから哲也は話題が途切れるのを恐れるように、ときどきどもったり、声をうわずらせたりしながら、あまり意味のない質問やら自分のことを口にした。アタシも会話を打ち切りたくなくて、聞かれもしないことをしゃべったりして、結局、立ち話もなんだから、とすぐそばのコーヒーのチェーン店に入った。
 これが二人の馴れ初め。
 哲也はモーター業界では割合有名な会社で働いていた。感心するアタシに、運が良かった、と笑って言った。これは謙遜ではなくて本当にラッキーな偶然が重なった結果、すんなり入社できたらしい。
 アタシ、春名朋子(はるな・ともこ)は二十四歳。ある図書館で司書のアルバイトをしている。
 今にして思えば、男性に対し臆病なところがあるアタシが、いくらルックスが及第点だからって、見知らぬ男性に話しかけられて、友好的な態度で応じたり、まして出会ってすぐ誘われるままに、一緒にお茶してしまうなんて、なんだか我がことながら不思議な気がする。
 哲也も哲也で、こうした「ナンパ」をしたのは、生まれて初めてで、なんであのとき、あんな勇気が絞り出せたのか、自分でも信じられない、と後になってから首を傾げていた。
 それだけ朋チャンが俺には魅力的だったからだろう、と哲也は嬉しい結論を導き出してくれた。
 「生まれて初めてのナンパ」という哲也の言葉はきっと本当だろう。初めて声をかけてきたあの夜の哲也はすごくギコちなくて、とてもナンパ慣れしているとは思えないお粗末な口説きぶりだったし、だいたいナンパする相手として、アタシは適当ではないと思う。アタシは傍から見ても、たぶん暗く、用心深げで、引っ掛けにくそうな女だったはずから。
 アタシは自分の赤面症が最大のコンプレックスで、これまで男の人を避けてきたのもそれが大きな理由で、ああ、もしこの赤面症がなかったならば、人生のあらゆることに積極的になれて、もっと素晴らしい未来を手にすることができるのに、と、いつもいつもいつも口惜しく夢想していた。
 けれど、哲也は俯き気味で顔を赤らめていたアタシに、本人曰く、「グッときた」「カワイイと思った」そうだ。
 これには少なからず驚いた。
 自分が大嫌いで仕方ない部分を、魅力的だと感じる人がいるなんて、にわかには信じられなかった。
 身を飾り立てる勇気もなく野暮ったかったファッションも「俺、あんまり気合入れてキメてる女より、朋チャンくらいの方が落ち着くんだよ」と、これも後になって哲也は言った。
 話下手も哲也からすれば、「それでも一生懸命しゃべろうとするところが好感持てる」だそうで、アタシのマイナスのファクターが哲也というフィルターを通すと、全てプラスに転じてしまう。
 「アバタもエクボ」ではなくって、哲也はアバタをアバタのまま、好きになってくれた。
 凹と凸が邂逅して、幸福な関係が紡がれはじめた。
 「運命がくれた聖夜の奇跡」とベタな恋愛映画の陳腐な煽り文句みたくロマンティックに考えたがるアタシがいる反面、冷静なアタシもいる。
 彼もアタシもクリスマスのムードに浮かれて、半ば意識的に出会いを求めていて、普段の二人ならば、胸のうちの感情をその場限りのものとして処理できたはずだったんだけど、相手がいないまま恋愛モードに入っていた哲也は聖夜限定の勇気を奮い起こし、同じ状態だったアタシも聖夜限定の愛嬌で応えただけで、運命とか奇跡と呼ぶには双方の意思の占めるウェイトが大きすぎるんじゃないだろうか。けれど、それも含めての「聖夜の奇跡」だとアタシは思っている。
 アタシたちは奇跡に感謝し、でも奇跡に甘えず、それから三年間、紡いだり、ペーストしたり、時にはほぐしたり、また編みなおしたりして、二人して運命のタペストリーを形作っていった。
 哲也は基本真面目だったし、まあ、正直、優柔不断で頼りないところも多々あるんだけれど、そういう部分にアタシの母性本能は反応してしまうわけで、相手の欠点をポジティブに受けとめるのは、何も哲也の専売特許ではない。
 でもアタシはやっぱり彼の美質に惹かれていた。
 哲也は気持ちをちゃんと口に出してくれた。好きだよ、とか、嬉しい、とか、かわいいよ、とか、ありがとう、とか、飾らない素直な言葉には真実の響きがあった。アタシは嬉しかった。
 友達の中には、そういう男が好きじゃないって娘もいて、彼女は無口で不器用でさりげない「男らしい優しさ」を求めていたけれど、アタシは嫌だな。嬉しいときは、嬉しい、って、楽しいときは、楽しい、ってちゃんと言って欲しい。好きだよ、って言われて彼の確かな愛を感じる。かわいい、とか、その服似合ってるよ、って褒められれば、素直に喜んでしまう。もっと褒めて欲しい、って思う。
 言葉で伝えて欲しいと思うのは鈍感だからだろうか。彼の言葉に一喜一憂するのは単純だからだろうか。だけど、哲也の何気ない一言に傷つき、哲也の何気ない一言に救われる、そんな毎日にアタシは満たされている。だから、鈍感でもいい。単純でもいい。
 勿論、ケンカもする。
 アタシも哲也も頑固だから、お互いなかなか譲らない。アタシは感覚的で哲也は理論派だし、言い争うと平行線で、イライラしたアタシが、じゃあ、もう別れようよ、と口にしたことも一度や二度ではない。けれど、そのたびに哲也は必ず、
「もうちょっと考えてみよう」
と言う。簡単に折れるのではなく、かといって投げ出すでもなく、いったん冷却期間をおく。「水入り」の間にお互い、反省したり、妥協の余地を探したり、言い争いの原因の無意味さに気付いたりして、元の鞘におさまる。この哲也の粘り強い冷静さがあればこそ、アタシたちのタペストリーは中途で放り出されることなく、編まれ続けているのだ。
 ああ、そうそう、哲也、付き合い始めた頃は過去の女性遍歴を匂わせて「男のプライド」を守ろうとしていたけれど、実際はたいした女性経験はなかった。なるほど、道理でカントリーガールっぽいアタシに声をかけたわけだ。女の子に自信のない男の子の中には、男性経験の豊富そうな女の子に気後れする子も結構いるだろうし、そういう男の子は自然、すれてない感じの娘を狙うのだろう。
 しかし、やっぱり二年三年と付き合っていると、違和感をおぼえることもある。

   中でも大きいのが、髪型のことだった。
 哲也には彼の友人を色々紹介してもらった。その友人の一人に菅沼君って男の子がいた。
 騒がしくて、デリカシーに欠けて、口が軽そうで、本音を言えばあまり好きなタイプではなかった。
 ある晩、ファミレスでこの菅沼君とアタシたちの三人でおしゃべりしてて、車に忘れ物をした哲也が席をはずしたのを幸い、
「ねぇ、さっきの話だけど――」
 アタシは思い切って菅沼君に訊いた。
「哲ちゃんの元カノのこと」
 歓談中、菅沼君が、哲也が学生時代〜社会人初期の間、付き合った元カノの話を持ち出したのだ。きっかけは女の子の髪型の話題で、菅沼君は思い出したように、
「そうそう、哲也、お前、ショート好きだったよなあ」
 元カノ、ショートにさせてたろ、とアタシが目の前にいるのにも関わらず、無神経な話題を振って、振られた哲也はむりやり話題を変えていた。かなり狼狽していた。
「哲ちゃんてショート、好きなの?」
 付き合って長いが、初めて知った。
「なんか、俺、ヤベ〜こと言っちゃったかな」
 口ではそう言いつつも、菅沼君は特に反省の色もなく、軽く力押ししたら、あっさり口を割ってくれた。
 哲也は昔からショート、それもボーイッシュなベリーショートが好みで、件の元カノも交際当初はセミロングだったのを、哲也が散々頼んで、半ば泣き落としに近い状態で髪をカットさせたという。
「カノジョに髪短くさせて、哲也、浮かれまくってさあ、有頂天とはまさにあのことだな」
 自分の顔が赤くなっていくのがわかった。好きな人に好きだと言われて、自分でも許せるようになった、このコンプレックスが一昨年のクリスマスイブ以前と同じ重さでのしかかってきた。
 以前、哲也に、好きな髪型は?と尋ねたら、似合っていれば何でもいいかな、と無難な答えが返ってきた。アタシはその言葉を信じて、出会ったときの黒髪のロングに長さにはさほど手を加えず、多少カラーリングしたり、梳いて軽くしたり、巻いたりして野暮ったさからの脱却をはかっていた最中だった。
 恋人の髪が新しくなるたび、「スゲー似合うよ」と哲也が喜んでくれるのが嬉しくって、付き合う前の2・5倍くらいのペースで美容院に足を運んで、また哲也が褒めてくれて、っていう幸福な循環が、深夜のファミレスの禁煙席で激しく傾いだ。
 「似合っていれば」って回答も、「スゲー似合ってる」って賛辞も、あれは嘘だったのだろうか。
 虚ろな気分になる。周囲のざわめきがわずらわしい。

 哲也が戻ってきても、気持ちは沈んだままだった。哲也も何事かを察したらしく、もっぱら菅沼君を相手に学生時代の思い出話に花を咲かせていた。
 ウダウダ考えた。
 昔はショートが好きだったんだけど、今は特にコダワリがないんじゃないか、という仮説で憂鬱な気分を振り払おうとした。
 でも思い当たることがある。
 デートするとき、たまに哲也がアタシ以外の女性に注ぐ視線。視線の先にいるのは、きまって少年のような短髪の女性だった・・・ような気がする。ああ、一度、ネガティブスイッチが入ってしまうと、確かかどうかもわからない悲観材料ばかり探してしまう。
 新しい仮説を立てた。
 哲也はアタシに遠慮している。
 アタシがロングが好きなのを哲也も薄々気付いているから、彼ももう大人だし、恋人の好みを尊重して、昔みたいに強引に髪をカットさせたいのを我慢している。アタシが大切だから、自分の趣味嗜好を押し付けずにいる。まあ、それなら筋は通っている。
 筋は通っているけれど、そんな遠慮されても、あまり嬉しくない。
 元カノに嫉妬をおぼえた。負けてる、ってさえ思える。元カノからすれば、ロングでいられるアタシが羨ましいのかも知れないけれど・・・。ないものねだりだろうか。
 はっきり言って髪を切るのは嫌だ。今まで短くしたことはない。髪型に対するチャレンジも程々でいい。
 でも、と思う。
 せめて要求はして欲しい。
 「ショートにしてよ」って。
 気持ちを素直に口にする哲也にとってはさほど難しいことではないだろう。無論、NOって答えるつもりだけど、でもちゃんと要求して欲しい。
 髪は切りたくないが、心の中の一割、いや、二割くらいは「切ってもいいかも」とぼんやり思っていた。特別な誰かのためにお洒落をする喜びに目覚めてしまったから。
 カラーリングした髪に、思い切って着た流行のジャケットに、おろしたてのブーツに、女友達が一緒に選んでくれたアクセサリーに、「いいね」って目を細める哲也が見たくって、アタシは頑張っている。頑張ることはすごく楽しくって、生活に彩りを与えてくれて、アタシに自信をくれた。
 デートの待ち合わせ場所、髪を短くして現れたアタシに、浮かれまくって有頂天になる哲也を想像したら、憂鬱は消え、ついニヤニヤしてしまった。「切ってもいいかも」が三割くらいになった。

 それからアタシはデートのたび、それとなく自分のヘアカットの話題をちらつかせた。
「この髪型にも飽きたなあ」
とか
「○○ちゃん(ベリショのモデル)の髪型、いいよねえ。アタシもあれくらい美人だったら、真似するんだけどなあ」
とか
「美容師の杉崎さんがショートもいいかもって言うんだよね」
とか、でっかいクレーを投げてみたが、肝心の射撃手は一向にライフルを構えず、曖昧にお茶を濁すだけだった。
 アタシは失望した。イラついた。
 アタシの目的はあくまで哲也の口から「髪切ってよ」という台詞を引き出すことで、実際に切るつもりはなかった。
 ちょっと情けない例えだけど、「全然参加する気のないパーティーなんだけれど、一応誘ってくれないと寂しい」的なアンチノミーがある。我ながらメンドクサイ性格だと思うが、こういう性分なのだから仕方ない。
 しかし「仕方ない」と開き直ったところで、哲也はアタシの思い通りには動いてくれず、根が単純なため、こうした駆け引きも疲れる。
 不安もある。
 助け舟を出しているにも関わらず、乗ってこない恋人に不審の念が生まれる。
 実はあんまり愛されてないのかなあ、と。
 どこかで境界線をひかれてるのかなあ、と。
 人の気持ちって本当にわからない。
 ネガティブスイッチが頻繁にONになる。疑心暗鬼。哲也の些細な言動が気になる。さっきのメール、本当に男友達からだろうか? あんなこと言ってたけど、よくよく考えたら悪い意味なんじゃないだろうか? 疑いだしたらキリがなかった。
 アタシのマイナス思考はすぐに哲也にも伝染して、会っても楽しくない状態が続いた。初めて迎えた本格的なピンチ。聖夜の奇跡にも有効期限はあるのだろう。
 とうとう、ある日、つまらないことで口論になった。場所は駅の近くにあるバーだった。
 口論の後、投げやりな沈黙があった。
「あのさ」
 アタシが沈黙を破った。
「哲ちゃん、ショート好きなんでしょう?」
 駆け引きが面倒になった。これまでの憤懣をぶちまけたくもあった。
 でも、やっぱり、アタシがまだ知らない哲也の隠れている心の扉をノックしてみよう、そう思った。
 哲也ならきっと応えてくれる。理由のない確信があった。たぶん人はそれを「信頼の絆」って呼ぶんだろう。
 哲也は黙っていた。
 アタシは構わず続けた。
「菅沼君から聞いたよ、元カノのこと・・・。哲ちゃん、その人に髪切らせたんでしょ? ベリショが好きだから・・・自分の好きな人に、自分の好きな髪型にして欲しくて、髪切って、って言ったんでしょ?」
「ああ」
「アタシには・・・言ってくれないの? ショートにして欲しい、って、言ってくれないの?」
「・・・・・・」
 哲也はまた黙った。
 アタシも言うべきことを言い終えて、黙った。
 やがて、哲也がゆっくりと口を開いた。意を決したように。
「して欲しいよ、ショートに」
「・・・・・・」
「ずっと思ってた。でも――」
「でも?」
「今は切って欲しくない」
「なんで?」
 哲也はちょっと言いよどんだが、
「ショートにするなら、俺と結婚した後でして欲しい」
とグラスを睨むようにして、言った。
 ずっと胸に仕舞っていた気持ちを口にしてしまうと、楽になったらしく、おどけた口調でごまかしつつ、饒舌に本音を語り出した。
 交際中はロングで結婚したらショートっていう「変身」を楽しみたいのだ、と哲也は言った。
「それに――」
と哲也は付け加えた。
 結婚したらアタシをショートカットにできる(アタシはまだ承諾してないけど)と思うと、それだけ結婚に対するモチベーションがわいてくる、本気になれる、と。

 あれ?

って周囲を見渡した。
 電燈。並んだビンテージワインの瓶。ワイングラス。お皿。50年代のアメリカ製のブリキ人形。ウィスキーのボトル。向かいの席のオバサンのラメの上着。オバサンと談笑してるオジサンのカルティエの腕時計。哲也のネクタイピン。アタシが今年の誕生日にプレゼントしたネクタイピン・・・・・・。
 世界ってこんなにキラキラしてたっけ?
 モノクロームだった景色が一変した。
 バーテンさんの緑の蝶ネクタイ。アンティークの柱時計。窓際のセントポーリア。窓の向こうには学習塾の蛍光看板が青白く光ってて、ふっと目の前には飲みさしのカシスオレンジ。真正面には黒く日焼けした哲也の顔。出会った頃より大人びた哲也の顔。
 あれ?って、また思った。
 世界ってこんなにカラフルだったんだなあ、って。
 夢見心地でそんなことを考えながら、アタシの顔はきっと真っ赤になっていたに違いない。
 アタシの赤い顔は哲也の黒い顔と対になって、鮮やかに色づいた世界の真ん中に、最後の一刷毛を加えた。
 アタシは精一杯、洗練されたヨソイキの微笑をつくって、哲也の顔をのぞきこんだつもりだったけど、哲也の瞳にはみっともなく泣き笑いしてる女の子が映っていた。自己演出、失敗。キメられないなあ。でも本当に人を幸せにするのは、カッコ悪くて剥き出しの正直さだと思う。
「嬉しい」
 哲也だけに聞こえる声で囁いた。
「早く髪、切らせてね」
 哲也は照れ笑いして頷いた。

 哲也のアタシへの想いが刹那的なものではなく、ちゃんと未来を見据えているものだと不意打ちに知らされてからは、さらに満ち足りた日々を送れた。
 髪を切る日が待ち遠しかった。
 お風呂に入る前に脱衣所の大きな鏡の前で、髪をヘアピンでまとめて、ショートになった自分をシミュレーションしてみたりなんかして、ああ、似合うかも!って家族に聞こえないように声を殺してハシャいだ。さらに踏み込んでシミュレーション。新居を掃除する自分、哲也の料理を作る自分、ついつい昼間のワイドショーに見入ってしまう自分、をそっと思い浮かべる。
 夫を仕事に送り出す初々しいショートカットの若妻っていうシチュエーションで鏡の前、いってらっしゃ〜い、と笑顔をつくる。手は胸のあたりで小さく振って、ああ、なんか、いいかも知れな――
 ガラリ、
「姉ちゃん、何やってんだよ。風呂入るんなら早くしてくれよ」
 弟に見られてしまった(ガーン!!)。・・・ナルシストな自分がちょっと恨めしい。
 ・・・・・・とりあえず落ち着こう。
 新しいショートヘアーの日常が見えてくると、長年慈しんできたロングヘアーも色あせてくる。むしろ、重ったるく感じる。朝晩の手入れもわずらわしく思えてならなくなる。
 いつのまにか、切りたい!切ってサッパリしたい!って毎日足摺りするように願っているアタシになっていた。

 ところが、である。
 哲ちゃん、早くショートにさせて、ってアタシの祈りにも似た気持ちも知らず、哲也はのほほんと独身生活を謳歌していた。どうやら、ろくに貯金もしてない様子だった。彼の口からは、あの夜以来、結婚の「け」の字も出ないまま。
 もしかしてあの夜のあの言葉は本気じゃなかったのか、と、また猜疑心が鎌首をもたげる。
 焦りもある。出会って三年。アタシもいわゆる適齢期後半だ。一夜きりの言葉を真に受けて浮かれている自分がバカみたいに思えることもある。

 そんな自分のネガティブ思考と格闘しながら、哲也のアパートに泊まった夜、事件はおこった。
 彼のパソコンを使わせてもらっていたら、「hair」ってタイトルのフォルダが目にとまった。
 直感的に開いてはいけないような気がした。けれど、そうなると、ますます見たくなる。
 ごめんね、と心中、バスタイム中の恋人に手を合わせ、フォルダをクリックした。
 アタシの画像だった。
 加工されていた。男の子みたいなベリーショートのアタシがいっぱいいた。ツンツンに髪を逆立たせてたり、ソフトモヒカンっぽかったり、昔の森昌子のようなレトロな感じだったり。
「・・・・・・」
 バカヤロウ、と腹が立った。
 こんなコラージュ作ってる暇があったら、もっと現実的にやることがあるだろう。

 哲也がお風呂から出るなり、アタシは彼にクッションを投げつけてやった。コラージュのことを持ち出すと、哲也は周到狼狽して、
「いや、でも、別に、そんな怒るような画像じゃねえだろ」
 エログロじゃないんだし、と自己弁護したが、アタシが怒っているのはコラージュの件ではない。コラージュはきっかけに過ぎない。
「ねえ」
とアタシは彼を問い詰めた。
「本気でアタシと結婚する気あるの?」
「あるに決まってんだろ」
「そうは思えないんだけど」
「なんでだよ」
「だってさ、具体的な話、ちっともしてないじゃん」
 結婚資金どうするの? 新居は? この狭いアパートで二人で暮らせると思ってるの? こないだだって実家に帰るとき、アタシも同行してご両親に挨拶したい、って言ったのに一人で帰省してさ、と矢継ぎ早に畳み掛けると、
「そんな一気に言われても」
 哲也は不機嫌そうに口を尖らせた。
 激しい言い争いになった。ついには罵り合いになり、カッとなったアタシは、
「こんな情けないコラージュ、コソコソ作ってないで、どうして本物のアタシをショートにさせようって思わないのよ!」
と噛み付いた。哲也もさすがにバツが悪そうに俯いていた。
 罵り合いの果て、じゃあ、もう別れようよ、とアタシは泣いた。哲也は困惑と苦渋の入り混じった表情で黙っていた。今回は「もうちょっと考えてみようよ」とは言わなかった。仮に言われても、アタシはもう考えるつもりはない。
 アパートを飛び出した。
 ある場所に向かった。

 香苗さんは閉店間際になって、予約もなしに入ってきた馴染み客に嫌な顔もせず、
「まだ大丈夫よ」
と、いつものように丁寧にシャンプーをしてくれ、カット台に座らせた。
「今日はどうする?」
「ショートにして下さい」
とアタシは言った。少なからず昂ぶっていた。全部、台無しにしてしまいたい。そんな衝動に駆られていた。これは哲也への破談宣言だ。
 アタシの注文に香苗さんは、
「え?」
と顔色を曇らせた。
 香苗サンはアタシの不遇の非モテ時代からの関係だった。哲也と付き合いはじめて、前向きにお洒落を楽しむようになったアタシを心から祝福してくれた。応援してくれた。
 「結婚したらショート」って哲也との約束を嬉々として話すアタシに、そのときは絶対、アタシにカットさせてよ、絶対だよ〜、女と女の約束だからね〜、と顔をほころばせていた。
「彼と何かあったの?」
 アタシは黙って頷いた。
「良かったら、話、聞くわよ」
 香苗さんのお店に駆け込んだのは、本当はこの人に話を聞いて欲しかったからなのかも知れない。
 アタシはテルテル坊主のまんま、哲也が口ばかりでなかなかプロポーズしてくれないこと、今夜のケンカのこと、さらに彼に対する不信不満を香苗さんにあらいざらいブチまけた。香苗さんは最初から最後まで一言も口を挟まず、時折相槌をうちながら、真剣な面持ちで聞いてくれた。
「もう限界かなあ、って思って」
 別れます、とアタシは話を締めくくった。
「だから、もう髪を伸ばしてる必要もないでしょう? あの人と結婚するわけじゃないし」
「彼へのあてつけってわけね」
 香苗さんは肩をすくめてみせた。そして、
「なんか嫌だなあ、そんなヘアカット」
と言った。その言葉に諌めのトーンを感じ、
「いいんです。バッサリ切っちゃって下さい」
 アタシは頑なに求めた。
 香苗さんは、とりあえず濡れ髪を梳きはじめた。自分の髪のように愛おしそうにコームを何度も入れた。
「なんか嫌だなあ」
と、また呟いた。
「朋ちゃんには幸せそうな顔でカットに来てもらいたいよ」
「仕方ないじゃないですか」
 アタシは少しむくれた。が、自分の語気の荒さにあわて、取り繕うように、
「まあ、ちょっと古いけど失恋して髪を切るのも悪くないかなあ、って」
「失恋して髪を切るっていうのは、女の子が新しいステージに進めるように区切りをつけるためだけどさ、朋ちゃんの場合、せっかく彼と二人で用意した次のステージを、一時の激情に任せて壊そうとしてるんだもん。そんなヘアカット、嫌だよ」
 香苗さんの三度目の「嫌だ」にアタシはやっぱり意地になって、
「いいじゃないですか、アタシ、お客だし、美容師は客のリクエストに応えるのが仕事でしょう?」
 長年担当してきてくれた香苗さんにひどいことを言ってしまった。八つ当たりだ。
「こういう言い方、もしかしたら朋ちゃん、ウザイって思うかも知れないけど――」
と香苗さんは一呼吸して、
「アタシは朋ちゃんのこと、ただのお客だなんて思ってないよ」
 朋ちゃんがどんどんキレイになってくのが嬉しかったし、自分に自信持てるようになったのも嬉しかった、彼と幸せになればいいって願ってたよ、自分がその手伝いができたのも嬉しかった、と香苗さんは言った。
「F1で例えると朋ちゃんがドライバーでアタシがメカニックの一員ってトコかなあ」
 メカニックとしてはレーサーの暴走を制止しないわけにはいかない。せっかくゴールは見えてきたのだから。
「朋ちゃん、絶対後悔するよ」
 後悔、って言葉が強く心に響いた。響いたってことは自分でも、今ここで髪を切ってしまったら、後悔するだろうって本当はわかっているからだろう。
「髪ってね」
 香苗さんがアタシの髪をそっと撫でた。
「しゃべるんだよ」
「ウソ」
とアタシは笑った。
「本当よ」
 香苗さんがあんまり真面目な顔で言うものだから、アタシもつい引き込まれてしまい、
「本当ですか?」
「よく耳をすませてみて」
「・・・・・・聞こえないですよ」
「もっと、もっと、無心になって、よ〜く耳をすませて」
 アタシは目を閉じ、無心、無心、と心の中で繰り返した。でも、
「・・・・・・やっぱり聞こえない」
「もうちょっと」
 また、目を閉じ、無心、無心、無心・・・。

 ――切らないで

 微かなだけど耳元で確かに声が聞こえた。ハッとなった。
 アタシはゆっくりとため息をついた。
「香苗さん」
「なに?」
「アフレコがバレバレです」
「アフレコじゃなくて代弁って言って欲しいなあ」
 イタコみたいなもんよ、と香苗さんは悪びれたふうもなく涼しく笑っている。アタシも思わず噴き出してしまった。
「で、どうする?」
「ショートは、とっておきます」
 アタシは哲也とのタペストリーをやっぱり紡いでいきたい、これからもずっと。そう思う。
 思い直した、というより、懸命に引き篭もろうとしていた自分の本心が香苗さんに手を取られ、舞台に引っ張り上げられたわけで、やっぱり香苗さん、すごいなあ、伊達にアタシより長く女やってるんじゃないなあ、って尊敬してしまう。
 香苗さんはにこやかに毛先を梳いてくれた。
「軽い感じにしとくわね」
って。
 つかんだと思ったら、いつも取り落としてしまう。アタシの大切な黄金律。
 人を本当に幸せにするのは、カッコ悪くて剥き出しの正直さ。
 この黄金律をモノにするまでには、この先もいっぱい泣いたり、いっぱい傷ついたり、いっぱい傷つけたり、いっぱい勇気を出したりしなくちゃならないのだろう。
「香苗さん」
「ん?」
「アタシ、覚悟、きめました」
「きめた?」
「何があっても哲ちゃんと一緒になります。だから彼を信じて待ちます。焦らずに、ね?」
「うん」
 でも、とアタシは悪戯っぽい目になって、
「どうしても待ちきれなくなったら、ヤツの首根っこつかんで役場の窓口に引きずってくかも」
 そりゃいいね、そうしなよ、と香苗さんも悪戯っぽい微笑で応じた。そして、
「早くショートになれるといいね」
ってアタシの髪に鼻をあててくれた。胸が熱くなった。目を瞑った。香苗さんの息吹を髪に感じた。瞑った目から、つぅー、と涙が一筋、押し出された。しばらく、そのままでいた。

 和解はすんなり成立した。
 それから哲也は人が変わったように、バリバリ働き、遊ぶのもやめ、結婚資金を貯め始めた。勿論、アタシも一生懸命仕事をし、節約をし、貯金に励んだ。
 休日には二人で新居となる物件をさがしてまわった。
 哲也の両親にも、ちゃんと紹介してもらった。
「可愛らしくて真面目でいい娘さんじゃない」
と将来の義父母はアタシを気に入ってくれた。
 コラージュ事件から半年後、哲也からプロポーズされた。
 哲也はわざわざお洒落なイタリアンレストランを選んで、格好良くプロポーズの言葉をキメるつもりだったみたいだけど、何度もタイミングをはずした挙句、出だしの台詞を噛んでしまい、結局、
「朋チャン、好きだ。け、結婚して欲しい。ぜ、絶対幸せにするから」
 あがりにあがって、カチコチ。でも哲也の言葉はちゃんとアタシの胸に響いた。格好悪かったけど、ありきたりだけど、どんな名作映画の、どんな美男俳優が口にするどんなスマートな愛の言葉より、アタシを感激させた。哲也だけにしか言えない言葉だから。哲也がアタシだけに向けた精一杯の言葉だったから。
「ありがとう・・・嬉しい・・・」
とアタシは笑った。笑ったつもりが泣いていた。

 結婚式が終わり、新居での生活がはじまった二日後、アタシは香苗さんの店に行った。
「おめでとう」
と香苗さんは目頭をぬぐっていた。
「あの時、思いとどまって良かったです」
 心の底から、そう言った。
「こういうふうに切って下さい」
とアタシはヘアカタログの写真を指差した。昨夜、哲也と遅くまでページをめくりながら、話し合って決めた髪型。マッシュベースのベリーショート。前髪は眉上で、耳も出して、でも女性らしくフンワリと優雅に毛先を遊ばせて。
 香苗さんは、
「随分冒険するわねえ」
と目を瞠って、
「でも、きっと朋ちゃんなら似合うと思うよ」
と微笑んで、アタシの冒険の水先人を引き受けてくれた。
 シャンプーをして、まずは粗切り。
 香苗さんは丁寧に、かつ思いきりよくアタシの長い髪に鋏を入れていく。
 ジョキジョキ、ジョキジョキ、
 髪が鋏に触れて鳴る。祝福の音色のように耳に響く。
 笑ったときも、泣いたときも、悩んだときも、ハシャいだときも、愛したときも、憎んだときも、恨んだときも、許したときも、いつも一緒だった長い髪。その髪たちが、ハラハラと落ちていきながら、
 ――今まで頑張ったね、一生懸命だったものね、報われたね、おめでとう、私たちはいなくなるけど、幸せにね、さようなら。
ってアタシに語りかけるのが確かに聞こえた。香苗さんの言うとおり、髪ってやっぱりしゃべるんだ。
 ――サヨナラ、今までありがとう・・・。
 アタシは心の中で、身体から離れていく髪にお別れと感謝の言葉をそっと送る。自分の青春が終わっていくのを感じた。それでいい、と思う。美容室の椅子に腰かけながら、引き返せない新たな旅路へと歩き出す自分がいた。軽やかに、そして、勇ましく。
 長い髪は全部切り落とされた。
 香苗さんはアタシの髪をブロッキングして、短く切り詰めていく。チャッチャッ、チャッチャッ、って鋏が鳴って、鏡の中の自分はどんどん見知らぬ姿に変わっていく。
 こうやって哲也の「妻」になっていくんだ、という悦びがあった。こうやって「春名朋子」から「磯野朋子」になっていくんだ、という感慨があった。こんな気持ち、書類を文字で埋めるだけでは、味わえない。
 ちょっぴり寂しさもあるけど、嬉しさの方が大きい。
 耳が出る。うなじも出る。
 香苗さんは真剣な面持ちで、アタシの髪とにらめっこしたり、鏡と見比べて全体の形を吟味したりして、きめ細やかにカットしてくれる。気持ちをこめて切ってくれているのが伝わってきた。こんな素敵な美容師さんと出会えて、本当に良かった。
 香苗さんは髪にレイヤーを入れ、軽さを出していく。細かな髪が、バッと跳ねて、パラパラとケープに降り積もる。アタシは全てを香苗さんに委ね、目を細め、鏡の向こう、香苗さんの魔法で誕生しつつある清らかな若妻を恍惚と見つめている。
 最後に前髪を切った。
 オーダー通り、パッツンに切ってもらった。ジョキジョキ、ジョキ、とハサミが目と髪の間を真っ直ぐ横切っていく。さらにその上を、また、ジョキジョキと髪を咥えながら、横へ、横へ。
 眉が出た。
 視界が開けた。パッと明るくなった、自分でも驚くくらい。世界が眩しい。これからアタシが哲也の妻として、いつかは哲也の子供の母として生きていく世界が目映く、溢れ出す光の洪水に、アタシは少し翻弄されかける。頭のてっぺんからつま先まで、何か正体の知れない熱いものが貫くように走った。
 ぐっ、と身体に力をこめ、鏡を見据えて、その熱いものを振り払う。
 前髪が短く揃えられる。これからは、もう長い前髪で、表情を、本当の気持ちを、隠したりはできない。
 露わになった顔をゆるめたり、歪めたり、しかめたり、崩したり、そうやって生きていく。カッコ悪くて剥き出しの正直さで生きていく。哲也と一緒に――。
 香苗さんが髪のボリュームを整え、
「ここを、フワリと動きを出すようにして、ね?」
とスタイリングのアドバイスをしてくれるのを、アタシは上気しながら聞いていた。
 カットとパーマが終わった。
 短くなった髪を確認する。キッチンの似合う髪型になった。満ち足りた気持ちだった。
「やっぱり思ったとおり、似合うわよ」
 朋ちゃん、顔小さいから、と香苗さんは褒めてくれた。
「そうですか?」
 アタシはちょっと含羞んで、さっぱりとした襟足をなでた。
「香苗さん」
「ん?」
「これからもアタシの髪、カットして下さいね」
「勿論」
 香苗さんは微笑んだ。
「ずっとショートでいられたらいいね」
 そんな祝福の言葉を受け取って、店を出た。
 嬉しいのだけれど、まだ新しい髪型になって落ち着かず、足取りはフワフワと覚束ないでいる。
 そういえば、と思い出した。
 今朝の新聞の広告で、駅前のスーパーではひき肉が特売中らしい。この近くだ。
 スーパーに向かって歩く。今夜はミートローフにしよう。
 哲也の顔が浮かぶ。早く哲也の笑顔が見たい。哲也の喜ぶ顔が見たい。
 アタシの足はいつしか力をこめて、しっかりと地面を踏みしめていた。




(了)



    あとがき

 迫水です♪2012年最後の作品です。
 本当は四年くらい前に大部分書いていたんですが、断髪に至るまでの過程が長い! メチャメチャ長い! 原稿用紙にすれば3、40枚くらいあるんじゃないかってほど長い! しかも引っ張った割りに断髪描写はアッサリ、そんなわけで好きなお話ではあったのですが、未完のままお蔵入りに。
 しかし、「仏青、その後」「もしバリ」とマニアックな作品ができてしまい(両作ともとても好きなストーリーなんだけど)、もうちょっとハッピーな感じにこの一年を終えたいなあ、と今作を完成させ、発表に踏み切りました。ちょうどクリスマスシーズンに合わせて。我ながらあざとい・・・。
 思えば「LaLa〜風変わりな幸福〜」から始まり、本作「Happy Happy Bridal Cut!」で幕をおろす2012年。今年は無意識のうちに「幸せ」というテーマに貫かれていたような気がします(例外もありますが)。あと恋愛がらみの物が多かった。
 キーマンとして登場する杉崎香苗、短編「蓼食う虫」でもキーマンとして、その役割を果たしているのですが、なにせ四年前のお話なので、きっと皆さん忘れているでしょう。自分も忘れかけてました。思えば遠くに来たもんだ(シミジミ)。
 2013年も何卒、懲役七〇〇年をよろしくお願いします。
 では、皆様、良いお年を!!




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