嘘つき小僧 |
「人国記」という古書がある。 一説によれば武田信玄が、隠密に命じて日本各地の人間風土を集め、編ませたともいう。 どの国もあまり良く書かれていない。 讃岐国(香川県)については、こうある。 「讃岐国之風俗気質弱く邪智之人百人に而半分如斯也(中略)方便を以て立身をすべきなどゝ思ふ風儀之由」 これからお話する小僧の泰念(たいねん)は「人国記」のいう「邪智之人」「方便を以って立身をすべきなどゝ思ふ」讃岐人のひとつの典型だったのだろう。 泰念は筋金入りの嘘吐きだった。 ことあるごとに嘘を吐き、人をだましては喜んでいた。 例えば水呑百姓の六助に、 「先日、寺の蔵を掃除しておりましたら――」 不思議な絵図を見つけた、と打ち明けるように話した。 「どうも、その昔、この辺り一帯を治めていた万福長者が残したものらしいのですが」 「ほう」 六助の間抜け面をよそに、泰念は続ける。 「絵図にはこんな讃が書かれておりましてな、え〜、横田山の麓、朝日さす夕日輝く松の下に黄金千倍漆千倍朱千倍」 「そ、そ、そりゃあ、ど、どういう意味じゃ?」 いよいよ間抜け面になる六助に、 「つまりですな」 と泰念は説明してやった。 「横田山には、万福長者の隠したお宝がどっさり眠っておるということです」 「な、なんと!」 無教養でお人好しの六助はのけぞって驚いた。 「“朝日さす夕日輝く松”、とはおそらく横田山で一番古く大きな亀ヶ松でしょう」 「そ、そ、そこにお宝があるのか?!」 「はい、私は御仏にお仕えする身ゆえ、そのような俗なものに興味はありませぬ。だから、貴方だけにこっそり教えて進ぜます」 「ま、ま、まことか?!」 「ええ」 と泰念はうなずき、 「しかし御仏の教えには布施行というものがありましてな、財をなした者は僧や寺に何かしらの寄進をすれば極楽往生間違いなしと言われております」 「お、お、おう! す、す、するともさ! お、お宝が手に入ったらば、お、お主の寺の、ほ、本堂を建て替えてやるぞ」 「これは御奇特な。おや、いずこへお行きなさる?」 「よ、よ、横田山じゃ! こ、こうしちゃいられねえ! は、は、早いとこお宝を掘り出すんじゃあ!」 鍬を握ったまま、駈け去っていく六助の後姿を見送ると、泰念は腹を抱えて笑った。 「あっはっはっははは」 泰念は嘘吐きだった。 村の者たちは「嘘つき小僧」と、泰念を呼んだ。 しかし嘘吐きは嘘吐きでも、二流の嘘吐きだった。 一流の嘘吐きは無から、虹のような儚くとも美しい嘘を紡ぎ出し、人を欺く。一種の芸術家だ。 二流の嘘吐きは本当にあったことを基に、嘘を吐く。嘘の中に事実を混ぜる。 万福長者のお宝云々は嘘である。しかし、寺の蔵で昔の絵図を見つけたことは、本当であった。無論、絵図には宝物の在り処など書かれてはいない。唐土の仙人の水墨画で、悟りすましたような五言絶句がクネクネと書かれていた、それだけの代物である。 事実を起点に吐く泰念の嘘は、より真実味を帯びる。 さらに「寄進」という分け前をさりげなく要求することで、六助は一層、泰念の嘘を信じ込む。 何より二流の嘘吐きは、だます相手を選ぶ。どんな相手でもコロリとだませる一流の嘘吐きとはこの点で違っている。 だましにくい相手に対しては、借りてきた猫のように神妙にかしこまっている。 その代わり、だましにくい人間、だましやすい人間を選別する嗅覚は鋭い。この嗅覚に関して泰念は天才的だった。 かわいそうな六助は七日間、取り憑かれたように亀ヶ松の周りを掘って掘って掘り返し、体力尽き果て、松の根元でぶっ倒れているところを、村の木樵(きこり)に発見されたのだった。 泰念の嘘言の被害者は六助だけにとどまらなかった。 猟師の源次は泰念が見たという金色の鹿を撃たんとして、一ヶ月も山野を駆け回り、とんだ徒労に終わったし、庄屋の佐平は「これはよくできた贋物ですな。唐土では百姓家の飯茶碗に使われるような代物ですよ」との泰念の嘘の目利きに、「こんな物を先祖代々大切にしてきたとは」と腹立ちまぎれに家宝の茶器を叩き割ってしまった。 子守娘のヨシは泰念の巧言にたぶらかされ、彼にその身を任せてしまった。 こんな悪タレだったが、不思議と村落では恨まれることはなかった。 泰念は覇気があり、よく笑う陽性の性格だったので、それが幸いしていたのだろう。 それに村は温暖で物なりが良く、自然、人々の気質は穏やかで、だまされた者も「しょうがない小僧だ」と最後には笑って済ませてしまう。 さらに、泰念の狡猾さのせいでもある。 だましても厄介なことにならぬ相手を見定めたうえで、嘘を吐いていた。好人物、精神薄弱の者、自分に好意的な者を小狡く見抜き、ペテンに掛けた。 さて、泰念の師匠である住持の黙安(もくあん)はといえば―― 「ホホホ」 と泰念の行状を笑い、表向き、歯牙にもかけなかった。 しかし、 ――あの悪小僧め、いつか懲らしめてくれん。 と内心では思っていた。 泰念は師に対しては従順だった。子犬のように傍に侍り、嘘など片言も口にしなかった。だましにくい人間には本当のことしか言わない。 修行を積んだ黙安はだまされにくくできていた。謹直で自他に厳しい。嘘吐きや不誠実な人間を素早く見抜いた。 泰念がしくじれば叱り飛ばし、怠ければ打擲した。 泰念はこの師匠が、この世で何より怖かった。 この黙安、妻がいる。 僧でありながら妻帯するとは何事か と村の者が眉をひそめたりすることはなかった。 妻 といっても、正式な夫婦(めおと)ではなく妾に近い。 僧でありながら畜妾するとは何事か と村の者が目を三角にすることもなかった。 この辺りの寺では僧が妾を囲うのは珍しいことではない。 黙安の場合、他の僧と違い、陰でこっそり妾を持つなど性に合わず、妻扱いで堂々と一緒に暮らしている。 妻の名は、香乃(かの)といった。年は二十そこそこ。 元々は名のある家の娘だったが、流れ流れて僧の妻になってしまった。 なかなかに勝気なところがあった。 夫の黙安に剣突を食らわせるのも、しょっちゅうだった。 他人に対し厳格な黙安も、この若妻には敵わず、常日頃から彼女の機嫌をとっていた。 なにせ、気に入らないことがあれば、 「今宵はお一人で御寝あそばせ」 と伽を拒み、拒まれた黙安は大いにあわて、 「香乃や、香乃、ワシが悪かった。許せ」 と平身低頭して謝ることも、しばしばあった。 この香乃、どういうわけか泰念によくだまされた。 真冬に咲く桜がある、と聞けば、真に受けて雪の中を徘徊したり、巧言にのせられ、小銭を巻き上げられたり、流浪の物乞い坊主を高徳の名僧と思い込まされ、散々饗応の限りを尽くしたり、といつもいつも泰念の虚言に振り回されていた。 香乃は愚かな女ではない。 むしろ名家の出らしく多少の学問もあり、どちらかといえば賢女の部類だった。 しかし泰念の他愛ない嘘に、他愛なくだまされた。そういう相性もあるのだろう。人間関係の面白さだ。 香乃は泰念にだまされても、そのことをけして口外しなかった。 「これ、まったく、そなたは」 とこっそり泰念に怖い顔をつくってみせるだけだった。 見栄もあったし、泰念への愛情――例えば姉が弟に対するような――もあったのだろう。 泰念は黙安に叱られ、黙安は香乃に頭が上がらず、香乃は泰念にだまされる、そんな狐拳のような関係が寺の中では続いていた。 泰念、十八の頃である。 「今日は雨じゃな」 外を見て、黙安。 黙安の言うとおり、煙るような小雨がサラサラ降っている。 「この天候では法要もあるまい」 「左様でございますなあ」 泰念は鹿爪顔でうなずいた。 暢気な土地柄だから、雨が降れば仕事も冠婚葬祭もお休みとなる。 「これ、泰念よ」 「はい」 「お前は村の者たちから、“嘘つき小僧”と呼ばれておるそうだな?」 「滅相もない」 泰念はあわてた。 「今更隠すこともなかろうて。お前の日頃の行いは、ちゃんとワシの耳にも届いておる」 「恐れ入りましてございます」 泰念は丸い頭をさげた。 黙安はふと泰念に教育を施す気になったらしい。 「仏道を志す者、不妄語戒は守らねばならぬ。昔から沈黙は金なりと申す。お前のような者にこそ、相応しい言葉じゃ」 「はい」 とさらに頭(こうべ)を垂れながら、泰念は不満だった。貴方様こそ僧でありながら妻を持ち、不邪淫戒を犯しているではないか。 黙安はそんな弟子の心底を見透かしたようで、 「どうじゃ、泰念」 と言葉調子を変えた。 「ひとつワシをだましてみよ」 これには泰念も驚いて、 「め、滅相もない!」 できませぬ、とブンブン首を振った。 しかし、 「よいではないか」 黙安は容赦がない。 「今日はいっそ、のるかそるかの大嘘をワシに吐いてみよ」 「のるかそるかの大嘘・・・」 「そうじゃ、のるかそるかの大嘘で、見事、ワシをだましてみよ。それこそ“嘘つき小僧”の面目躍如ではないか」 「と、とんでもございませぬ」 泰念はすっかり萎縮してしまっている。 「よいではないか。早うワシをだましてみせよ」 「ご無体な」 などと押し問答をしてる間に、雨があがり、狙いすましたかのように法要の依頼が飛び込んできた。 黙安と泰念は会話を切りあげ、早速身支度をして、法要へと出かけていった。 法要を行う檀家は、村外れにあった。 黙安は馬上。戛戛と馬をすすめていく。泰念は徒歩で従う。 「先刻までの雨が嘘のような良き日和じゃ」 と黙安。ことさらに「嘘」という語に力をこめているように聞こえるのは、泰念の考えすぎか。 村外れも近くなると、人家はなくなり、道は険しくなる。 朝の雨で道はぬかるんでいる。 黙安は何とか馬を繰って、前へ前へとすすむ。泰念も転ばぬように、ソロリソロリ師匠の後に付いていく。 途中、 人食い淵 と村人が恐れている難所を通る。崖伝いの道を踏み外し、激流に呑み込まれれば、死体も浮かばぬという。 ここへ来て、泰念の頭に閃くものがあった。 「お、お師匠様!」 と不意に道端にうずくまった。 「どういたした?」 「は、腹が、腹が痛うございます」 苦しい息づかいで、腹痛を訴える泰念に、 「何?」 黙安は馬をとめた。 「たまらぬ痛さです。寺に戻ってもよろしいでしょうか?」 「ならば仕方ない。法要にはワシ一人で行くゆえ、そなたは寺に戻って、香乃に薬でももらって養生いたせ」 「ははっ、ありがとうございます」 黙安は心中、小僧の嘘を見破っていた。そして、憫笑を禁じえなかった。 ――「嘘つき小僧」というから、いかほどのものかと思えば、腹が痛い、とは随分とつまらぬ嘘をつくではないか。くだらぬなあ。実にくだらぬ。眠たいわい。まさか、これが、のるかそるかの大嘘のつもりではあるまいな。だとすれば片腹痛い。ワシも見くびられたものよ。あばきたてるのも莫迦莫迦しい。信じたふりをして、放っておくが上策。ワシが寺に戻ったら覚悟しておれ。きつく灸を据えてやる。 黙安は腹を抱えてしゃがみこんでいる泰念に、一顧だに与えず、さっさと馬をすすめていった。 泰念は小さくなっていく師の後姿を見送ると、ニヤリと笑った。 無論、黙安の見抜いた通り、腹痛など嘘である。 しかし、泰念の嘘がこれで終わったわけではない。 「香乃様ああぁ!」 と血相を変えて庫裏に駆け込んできた泰念に、 「おや、泰念。旦那様と一緒に読経に行ったのではなかったのかえ?」 と香乃は目をパチクリさせている。 「何をそんなに慌てているの?」 「一大事、一大事にございます!」 「一大事、とな?」 「まずは、み、水を、水を下され」 香乃は大儀そうに土間に行き、水を汲むと、 「お飲み」 と柄杓を渡した。 泰念はそれを一息で飲み干すと、 「一大事でございます」 「それは、もう聞いたわ。一体何があったの?」 「お、お師匠様が御遷化なされました!」 「えっ?!」 これには香乃も仰天した。 「だ、旦那様がお亡くなりに・・・」 ヘナヘナと縁に崩れ落ちてしまった。 「どういうことか、もそっと詳しく仰い」 「お師匠様と私は法要のため、寺を出て、檀家へと向かっておりました。お師匠様は“先刻までの雨が嘘のような良き日和じゃ”などと上機嫌でいらっしゃいました。そして、村外れの、あの人食い淵に差しかかったのでございます。折悪しく雨のせいで地べたはぬかるんでございます。お師匠と私はよくよく足元に気をつけながら、崖伝いをソロソロと参りました。そこで、あの恐ろしくて悲しい出来事がおこったのでございます。不意に激しい風が吹き、お師匠様の頭巾を飛ばしました。お師匠様はとっさに舞い上げられた頭巾を掴もうと、馬から身を乗り出し、手を伸ばしました。その途端、馬がぬかるみに足をとられ、お師匠様のお身体は馬から投げ出され、人馬もろとも人食い淵に真っ逆さまに落ちていかれ・・・うっ、うっ・・・」 言葉に詰まり涙ぐむ泰念に、 「何たること、何たること・・・ああ!」 と香乃も言葉を失う。顔は青ざめ、身体は震えている。やがて半狂乱になり、 「ああ、旦那様ああぁぁ、ああ悲しや、ああ、悲しや」 おいおいと泣きじゃくりはじめた。泣きながらも、 「葬式を出さねばなりませんね」 と香乃は妻の役目を忘れてはいない 「葬式も勿論行わねばなりませんが、香乃様にはその前に御自身の身の処し方をお考え下され」 「と言うと?」 「私は僧ゆえ、この寺に残ることはできますが、香乃様は俗人です。この寺をお出にならなくてはなりません」 泰念の言葉に香乃は目を瞠った。 「何故、この寺から退去せねばならぬ? 私は住持の妻ですよ」 「それは今までの話です。申し上げにくい話ですが、住持が亡くなった今、香乃様はこの寺とは何の関わりもない御方。寺と関わりなき俗人をこのまま寺に置いては、檀家衆が黙ってはおりますまい。早晩寺を追われるは必定でございます」 香乃の顔色が変わった。夫の死を知ったときより、青ざめている。 このまま身ひとつで寺を追い出されては、後は野垂れ死にするばかりである。 夫が死ぬのは辛いが、我が身が死ぬ方がもっと辛い。香乃とすれば現実的にならざるを得ない。 「泰念や、私はどうすれば良い?」 と訊ねる声が震えている。 泰念はしばらく考えるふりをして、香乃をじらせた。そして、 「直ちに法体におなりなさいませ」 と言った。 「尼になれというの?」 更におびえる香乃に、 「左様」 泰念は重々しく首肯した。 「尼になれば、この寺に残っても何ら問題はありません」 「な、なるほど」 香乃は催眠術にかかったように、泰念の言葉に従った。 「催眠術」といったが、泰念のここまでの詐術は、一種の「催眠術」である。まず相手をパニック状態に陥らせ、それから言葉巧みに相手を丸めこみ、自らの思い通りにする。現代の振り込め詐欺の手法と酷似している。 泰念はあっという間に、剃髪の支度を整えた。 香乃が心変わりする前に、ことを運ばねばならない。 泰念はこの師僧の細君に、不思議な愛憎を抱いていた。 経文のひとつも知らぬくせに、師の妻というだけで、泰念、泰念、と犬のように追い使う。 そのくせ、自分の嘘に、まるで童女のようにコロリと引っかかる。莫迦め。 大体、髪を伸ばした奴が寺の中をウロウロしているのも気に食わない。 何より大切な師である黙安を独占しようとする。 そんな香乃に泰念は嫉妬めいた気持ちをおぼえる。 しかし、 ――あるいは―― と泰念は思うのである。 自分が嫉妬しているのは、黙安を独り占めしようとする香乃ではなく、香乃を己がものとしている黙安に対してではないか、と。 泰念は香乃に濃厚に女性を感じていた。香乃の仕草のひとつひとつに惹かれていた。 これまで何度も香乃をだましてきたのは、屈折した愛情ゆえではなかったか。だますことで彼女の気を引きたかったからではないか。 香乃の方でも、そんな泰念の「愛情」に気づいているからこそ、幾らだまされても許してくれていたのではないだろうか。あるいは、無意識のうちに、だまされようとしていたのではないか。だまされることで、泰念の「愛情」に応えてきたのではないか。 しかし、所詮香乃は黙安の妻だ。 自分のものにならぬなら、いっそ毀ってしまえ、と悪童がギヤマンの器を割ってしまうような、そんな破戒衝動が泰念の心のうちにあったのやも知れぬ。 あるいは、香乃を自分と同じ僧形にすることに、悪魔的な高揚をおぼえていたのやも知れぬ。 香乃は白衣に身をつつみ、本尊の前に端座している。 水をはった角盥が傍らに置かれている。 泰念は腕まくりして、おもむろにピカピカ光る剃刀を持った。 まず、後ろでまとめていた髪に、剃刀を入れた。 ザ、ザ、ザ、と剃刀が香乃の長い髪を断ってゆく。 断ち切った黒髪がバサリと畳に這う。泰念はそれを土佐和紙を敷いた白木の三宝に載せた。 香乃は名残惜しげに三宝の上の髪を、横目で見、表情を硬くして瞑目した。 肩口で切られた髪は、まるで女童のよう。 次に泰念は右のコメカミに剃刀をあて、額の生え際から髪を剃った。 ジィー、ジィー、 と髪が除かれ、青い地肌が現れた。 剃り取った髪を三宝に載せる。 香乃が顔を歪める。いかにも苦しそうだった。 ジィー、ジィー、ジィー、 泰念はさすがに日頃、自分や黙安の頭を剃り慣れているだけある、巧みに剃刀を動かして、右側の髪を剃り毀してしまった。 続いて頭頂を剃った。 ジィー、ジィー、ジィー 容赦なく香乃の女の命を奪ってゆく。 黒髪が見る影もなく薙ぎ払われ、浮き上がる青白い地肌が瑞々しく、目に眩しい。 左鬢を剃る頃には、香乃は悲しいながらも、その気になって、 「ま〜か〜はんにゃ〜」 と経文を誦しはじめていた。 ――これはこれは。 泰念は内心驚いていた。門前の小僧ならぬ、住持の妻習わぬ経を読む、だ。寺に住まううちに、いつのまにか簡単な経文を憶えてしまったらしい。 三宝の上にはこぼれんばかりの髪が束になっている。 香乃の頭はみるみる青白くなっていく。 ――急がねば! 黙安が戻ってきてしまう。 泰念はせわしなく手を動かした。 後頭部の髪に取り掛かると、さらに、ジイジイと剃刀で大急ぎで髪をこそげ取った。 この乱暴な剃髪には、香乃も顔をしかめ、 「泰念、少し痛い」 呻くように言った。が、 「辛抱して下され。これも仏門に入る為には仕方なきことです」 と泰念は痛がる香乃をなだめすかし、ついに、後ろの髪を全部剃り払ってしまった。 そして、剃り残しのないよう、丸く青い頭をさらに剃って剃って、ついに、 つるり と坊主頭に剃りあげたのだった。 「善哉、善哉!」 泰念は思わず手を拍って叫んだ。見惚れるほどの、形良く涼しげで艶やかな剃髪姿だった。 「さあ、香乃様、お召し物を替えて下さい」 泰念は奥の間に香乃を連れ込むと、古い黒衣を着させた。そうやって剃髪染衣の尼になった香乃に、背徳的な欲望をおぼえる泰念だったが、さすがに抱くのは躊躇われた。 「さあ、香乃様、ともに亡き住持様の菩提を弔いましょうぞ」 と二人して、仏前で読経をはじめた。もっとも大して経文も知らぬ香乃は、朗々と経を読む泰念の後ろで掌を合わせていただけだが。 そこへ、 「香乃、香乃や、今帰ったぞ。何故出迎えぬ?」 廊下で黙安の声と足音がした。 黙安は香乃が尼になったのを見て、天地が引っくり返ったかのように、吃驚仰天して、 「香乃や、香乃! そ、その姿は何事か?! 何故尼になっておるのじゃ?!」 香乃は香乃で死んだはずの黙安が現れたので、飛び上がらんばかりに驚いて、 「だ、旦那様?! え、これは一体・・・」 と言葉もなかった。 泰念の詐略に気づいたが、もう後の祭り。 「おのれ、泰念!」 と黙安は怒り狂ったが、 「“のるかそるかの大嘘”を吐け、と仰ったのはお師匠様ではありませんか」 泰念にそうあしらわれ、 「のるかそるか、で剃ってしまったか・・・」 妻に尼になられ、黙安はすっかり意気消沈して、 「この嘘つき小僧めが」 と言ったきり、奥の間に引っ込んでしまった。 さて、それから寺はどうなったかというと―― 香乃は、髪を伸ばせという黙安に、 「せっかく尼になったのですから、このままで居とうございます」 それに、とシャリシャリと頭を撫で、 「この頭の方がさっぱりして気持ち良うございますもの」 とすっかり坊主頭の尼姿が気に入った様子。 生真面目な黙安は、 「さすがに尼になられては、そなたを抱けぬ」 と房事から遠ざかっていった。 「構いませぬわ」 と香乃は涼しい顔で、その間隙を縫って閨に忍んできた泰念と好い仲になってしまった。 黙安は苦りきったが、騒ぎ立てて表沙汰になるのが嫌で、二人の好きなようにさせた。 不思議なことに、香乃が尼になってからというもの、泰念は村人に嘘を吐かなくなった。 「近頃ご無沙汰じゃな」 と村の者にひやかされると、 「なにしろ“のるかそるかの大嘘”を吐いてしまいましたからな。後は出涸らしばかりです。出涸らしの嘘を吐いたとあっては、嘘つき小僧の沽券に関わります」 と泰念は頭をかいた。 しかし香乃には、臥所で、 「この間、横田山の天狗に空飛ぶ術を授けてもらった」 「まあ」 「天竺まで飛んだぞ」 「本当?」 「ああ、本当だとも。彼の地には金銀珊瑚でできた王宮があってね、後宮には美女が三千人もいる。私は彼の地の王様にえらく気に入られてねえ、後宮の中でも一番の美女を下賜しよう、とまで仰られて、痛っ、つねらないでくれよ。無論お断り申し上げたとも。“日本に愛おしい者がおりますゆえ”と固辞してね」 「まあ、嬉しい」 香乃は泰念の胸に顔をうずめた。 泰念は慈しむように香乃の坊主頭を撫でた。微かに伸びた頭髪が掌をくすぐる。その感触が心地よい。 泰念は閨での睦言のときだけ、嘘つき小僧に戻って、香乃を楽しませた。自分も楽しんだ。 「今度は貴女も天竺まで連れて行こう」 「あら、まあ、それは楽しみな」 罪のない嘘で、二人笑っている。 泰念と香乃が手に手をとって、寺を飛び出したのは、香乃が剃髪してから半年近く経った頃のことだった。 それからの二人の行方は杳として知れない。 「天竺に行く」 と泰念は或る村人に言い残していたらしいが、本当かどうか定かではない。 都に上り、絵草子を書いて富裕な暮らしをしているという噂もあったし、大名から偽系図作りの依頼を受けているという噂もあった。博多から船で海を渡ったという噂もあった。が、真偽はわからない。 一人、寺に残された黙安は十年一日の如く、僧侶の勤めを瑕瑾なく果たしている。 村人たちは高徳の僧として、黙安を誉めそやした。檀家の数も増えた。 しかし黙安は褒められても、ちっとも嬉しくない様子だった。 数十年後、彼が遷化したとき、枕頭には大勢の僧尼や信徒たちが集まった。 今際の際に黙安の口元が微かに動いた。 ――懐かしきは香乃と泰念なり とそれが黙安の最後の言葉だった。 しかし、その言葉を聞き取れた者は一人もいなかった。 (了) あとがき お久しぶりの迫水です♪ 今回の小説は実際にある民話を基にしています。すごい短い民話なんですが、昔、公民館で借りた昔話の本にのっていて、かなり興奮したものです。今はネットで読むことができます。ここです→http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_3001.html(この50話目です)。 書いているうちに、色々話が膨らんできて、割合長めのストーリーになってしまいましたが、長年書いてみたかったお話なので、書き終えて満足しています! お付き合い感謝です! |