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青髭


 青髭が外出した後、青髭がけして入ってはいけないという部屋に入った花嫁が見たものは、累々と横たわる女性たちの骸でした。そう、青髭は娶った妻を次々と殺めてきた殺人鬼だったのです。――グリム童話より

 考え直しなさい、と何度両親に止められても、仁美は頑なに自分の意思を押し通そうとして、聞かなかった。
 ――絶対、あの人と結婚するんだ!
と心に誓っている。
 年の差は向こうが四十過ぎ、仁美が二十四歳、とだいぶ離れている。
 しかし、もう決めたのだ。
 彼と一緒になる、と。

 彼――田山慈遠(たやま・じおん)と出会ったのは、観光地としても有名な、さる古刹だった。
 仁美は小さい頃から、仏像に関心を抱いていた。休みの日はいつもあちこちの寺を回り、仏像を拝観していた。
 その日も古刹の裏手にある羅漢像を、せっせとカメラにおさめていた。
 そんな仁美に、
「ご熱心ですね」
と背後から声をかけた者がいる。
 振り返ると、僧形の男性が立っていた。
 高い鼻梁。力強く光る両眼。男性的だ。それでいて柔和な人好きのする笑みを浮かべている。
 身体つきもガッシリとしていて、まるで武者絵から抜け出てきたような美丈夫だった。
「見事な羅漢像でしょう? 皆、良いお顔をしていらっしゃる」
「ええ、本当に」
 仁美はうなずき、二人一緒に羅漢像に目をやった。
「こちらのお寺の方ですか?」
と仁美は僧に訊いた。
「いえ、知人がこの寺の住職をしていて――」
 所用あって、この寺を訪れて、
「何の気なしに、羅漢様を見ようと裏手に回ったら、貴女があんまり熱心に写真を撮っておられたので、つい、ご無礼しました」
 ――羅漢様が結んでくれたご縁だ。
と仁美は後々、田山慈遠との邂逅について思ったものだ。
 慈遠はいかめしい容貌に似ず、軽妙で洒脱な話しぶりで、仁美に色々な話を聞かせてくれた。仏教の話、仏像の話、お寺にまつわる裏話や自分を含めた僧侶の愉快な失敗談。お寺や仏像が好きな仁美には興味深い話ばかりだった。
 それがきっかけで、仁美は慈遠と連れ立って仏像めぐりをするようになった。
 慈遠は知識が豊富だったし、ハンサムで話も巧く、彼といると時が経つのも忘れた。
 しかも、いくつものお寺を兼務していて、本人は多くは語らないが、かなり富裕な境遇らしい。
 何より波長が合う。
 ――なんて理想的な男性(ヒト)なの!
 仁美は夢中になった。
 二人はいつしか男女の関係になっていた。
 あれはちょっと足を伸ばして、張雲寺の観音菩薩増を拝観した帰路の車中でのことだった。
 観音様の話題から、いつしか最近観ているテレビドラマや聴いている音楽の話で、ひとしきり盛り上がって、やがて、話題の種も尽き、3分ほど沈黙があった。
「仁美」
 沈黙を破ったのは慈遠だった。
「ん、なに?」
「結婚」
という二文字が慈遠の口からこぼれた。
「俺と結婚しないか?」
「うん」
 気がつけば間をおかず答えていた。
「嬉しい」
と言い添え、運転する慈遠の肩に頭を預けた。幸福で胸が高鳴っていた。

 仁美の両親は猛反対した。
 二人の年の差もさることながら、お寺の嫁になったら気苦労も多い。何より、
「五回目の結婚っていうじゃない」
と母は眉をひそめた。
 慈遠はこれまで四人の女性と結婚し、四人とも別れている。
「三回も四回も離婚するなんて、碌なモンじゃない。お前もいつか捨てられるぞ」
と父などは吐き捨てるように言った。
 仁美としても、慈遠から四回の離婚歴があると聞かされたときは、正直驚いた。不安にもなった。
 けれど、驚きや不安よりも、慈遠が秘密にしておきたいはずの過去を包み隠さず話してくれた嬉しさの方が勝った。
 ――私が五人目の妻で、最後の妻になる!
 絶対に添い遂げてみせる、という強い気持ちで、仁美はついに結婚に踏み切ったのだった。
 結婚式は仏式だった。慈遠の前歴のこともあり、身内だけのささやかな式だった。

 新婚旅行から戻ってきた。
 慈遠の寺に着いた。
 立派な伽藍、大きな庫裏、門構えも何様式というのだろう、重厚だ。
 これから、ここが自分の住まいとなる。厳粛な心持になる。
 山門の前に人がいた。
 老婆だった。
 老婆は散歩の途中で疲れたのか、乳母車を脇に、門前の前に腰をおろしている。ザンバラ髪にボロボロの服を着ていた。物乞いか、と一瞬思ったほど、みすぼらしい風体だった。
 老婆はタクシーから降りる二人を、濁った眼で凝視している。
「檀家のお婆さんだよ。変わり者でね」
と慈遠は仁美に耳打ちして、
「戸塚さん、相変わらず元気そうですね」
と快活に老婆に話しかけた。
「・・・・・・」
 老婆は慈遠を無視した。
 慈遠は肩をすくめ、山門をくぐっていった。
 仁美も夫の後に続いて、山門をくぐろうとしたら、
「あんた」
 老婆に声をかけられた。
「はい?」
 仁美はおどおどと応じた。
「新しい大黒さんかい?」
 結婚を前にして、寺院関係の情報を収集したので、住職の妻のことを「大黒さん」と呼ぶこともあるという知識はあった。
「はい、そうです」
 檀家の評判にも関わるかも知れないので、つとめて朗らかに接する。
「じゃあ、あんたも――」
 老婆は醜い乱杭歯を剥き出しにして、キシシと笑った。
「ツルツル頭の尼さんにされるんだね」
 ――何を言ってるんだろう、この人・・・。
 狂人か、と怖くなった。
「おい、仁美、どうかしたのかぁ?」
 慈遠はすでに玄関まで行ってしまっている。
「じゃあ、お婆ちゃん、私はこれで」
 仁美はそそくさと老婆から離れると、慈遠の許へと急いだ。

 慈遠は新妻に新居の間取りを教えた。
「ここが台所。廊下を出て左が応接間。坊さんなんかが来たときには、そこに招き入れる。で、ここが居間」
 その他、仏間や客殿など屋内をくまなく案内してまわってくれた。
「そして――」
と慈遠は奥まった一室を指差し、
「俺の書斎だ」
「慈遠さんの書斎?」
「あの部屋は俺が仏教について色々調べ物をしたり、寺務をしたりするところだ。重要な書類なんかもあるから、絶対に入ってはいけない」
 慈遠の顔からは笑顔が消え、恐ろしげな表情になっている。初めて見る夫の怖い顔。
「絶対に立ち入り禁止だからな」
 さらに念を押され、
「わかったわ」
 仁美は深々とうなずいた。

 その話が出たのは、仁美が寺で暮らすようになってから三日目の夕食のときだった。
「得度?」
 聞き返す妻に、
「ああ」
と夫は首肯した。
「私、尼さんになるの?!」
 仁美は目を丸くした。
「そうだ。前にも何度か話したろ」
 慈遠の言うとおり、結婚が決まってから、彼は彼の妻になる仁美に、
「俺の寺は檀家も多いし、兼務している寺もある。俺一人で切り盛りするのは難しい。だから、できれば仁美も得度して、僧籍を得て、俺をサポートして欲しいんだ」
と彼の希望を話していた。
 仁美は少し戸惑ったが、元々仏教への関心が強かったし、未来の夫への献身にも甘美なものをおぼえた。それに結婚を前に、気持ちが浮ついているところもあった。だから、
「それもいいかもね」
と割合あっさりと応じていた。
 その気持ちに嘘はない。
 仏教を本格的に学びたい。
 夫の役に立ちたい。
 ゆえに得度の話を、結婚後改めて持ちかけられたとき、
「わかった」
と返答した。
「私、尼さんになるわ」
「そうか、ありがとう、仁美」
 慈遠は相好を崩した。しかし、
「最近は髪を切らずに得度することもできるらしいしね」
という仁美の言葉に、一転、表情を険しくした。
「確かに近頃は有髪の尼が多いが――」
と仁美に同調する素振りをみせながら、
「うちの宗派は色々と面倒でね、尼僧の場合も剃髪が推奨されているんだ」
「剃髪?!」
 今度は仁美が険しい表情になる番だ。
 慈遠は新妻の機嫌を取るように、猫なで声で、
「俺としても、中途半端に有髪で得度されるより、本式に剃髪して欲しいんだよ」
「自分の奥さんに坊主頭になれっていうの?!」
 仁美は狼狽した。つい詰問口調になってしまった。
「妻だからこそ、この寺の嫁だからこそ、俺と同じ僧形になって欲しいんじゃないか」
「剃髪なんてイヤよ!」
 仁美は青ざめて、慈遠の望みを拒んだ。今まで大切にしてきた、このセミロングの髪を切るつもりはない。

 しかし、慈遠は執拗だった。
 翌日も翌々日も仁美に剃髪得度をすすめてくる。
 元々、口が巧く、自信家で結婚前から仁美を篭絡してきた彼だったから、本気になって口説かれると、仁美の心は揺れに揺れる。
 だが、大切な髪だ。おいそれと剃るなんてできない。
 剃髪を拒む仁美に、慈遠はついに暴力を振るうようになった。
「俺の言うことが何故聞けない!」
と殴打された。
「こんな髪なんぞ剃ってしまえばいいんだ!」
と仁美の髪を掴んで、畳の上をひきずりまわしたこともあった。そうしたときの慈遠の目には、狂気じみた光が宿っていた。
 慈遠の豹変は仁美にとって、肉体的にも精神的にも衝撃だった。
 ――こんな人だったなんて・・・。
 離婚、という単語が脳裏に浮かんだことすらあった。しかし、両親をはじめ周囲の反対を押し切って結婚した手前、そう簡単に別れるわけにもいかない。
 毎日のように繰り返される説得とDVに耐えかね、
「わかった! わかったわ!」
 仁美は悲鳴をあげた。
「剃髪します! 頭を丸めるから! もうやめてえッ!」
 仁美は陥落した。
「そうか、そうか」
 慈遠はそれまでの態度とはうって変わって、以前の優しい彼に戻り、
「よく決心してくれたな、仁美」
と仁美の肩を抱いて、キスをしてくれた。
「うちのご本尊様も喜んで下さるだろう」
 久しぶりに優しくされ、
 ――これで良かったのかもな。
とぼんやり思った。慈遠への愛情はまだあるのだから。
 ――でも・・・
 なんで慈遠はここまでして剃髪にこだわるのだろう。

 得度の日が迫った、ある日の午後、慈遠は寺の用事で出かけ、寺には仁美が一人だった。
 せっせと庫裏を掃除する。元々掃除好きだから、あっちの部屋、こっちの部屋、と隅々まで片付け、さらに、あっちの部屋、こっちの部屋、と拭き清めていった。
 掃除行脚を続けているうちに、つい奥の慈遠の「書斎」に辿り着いてしまった。
 ドアノブに手をかけた瞬間、慈遠の言葉を思い出した。絶対に入ってはいけない、と慈遠が怖い顔で命じた部屋。
 ――そうだ、ここは入っちゃダメだったんだっけ。
と気づいた途端、ガチャリ、とドアノブが回った。どうやら、慈遠はいつも彼の不在中にかけているはずの鍵を、今日に限ってかけ忘れたらしい。
 ――慈遠さんの秘密の部屋・・・。
 これはチャンスかも知れない。好奇の虫がうずく。
 思い切って部屋に足を踏み入れた。
 室内は慈遠の性格そのままに、キチンと整頓されていた。
 窓際にガラスのテーブルが置かれ、その上に大きなノートパソコンが乗っている。液晶テレビやブルーレイDVDレコーダー、ビデオも完備されている。
 大きな棚が三つもあり、古いビデオテープやDVDがキッシリと収められていた。
 映画のDVDか?と棚を見る。DVDの背表紙をチェックする。
 行け行け!剃髪倶楽部
というタイトルのDVDが目にとまった。其の壱から其の弐十弐までズラリと揃っている。
 その中から無作為に一枚引き抜いてみる。
 パッケージには若い女性がケープを巻かれて、髪を半分剃られ、顔を歪めている写真。
 ――何、コレ?
 他のシリーズも似たような写真が使われている。何やらAVのようなオーラを感じる。
 剃髪フェチ必見! 現役女子大生の○○ちゃんが決意の丸坊主!
などという煽り文句が躍っている。
 ――剃髪フェチ?
 深入りしてはいけない気がする。
 同じようなDVDは何十本もある。
 試しに何本か再生してみる。
 最初に長い髪の女性が、スタッフらしき男性のインタビューを受ける。ロングヘアー歴は何年くらい?とか、これから髪を剃るけど、どんな気持ち?とか。女性も緊張した面持ちで、ドキドキしますね、などと答えている。
 それから本職の理髪師なりスタッフなりが女性の髪を剃る。まずハサミで短く切る場合もあれば、いきなりバリカンを頭に突っ込む場合もある。そうした断髪風景をスタッフは絶妙なカメラワークでとらえていく。ジー、ジー、バサッ、バサッ。
 丸刈りで終わる場合もあるし、さらに剃刀でスキンヘッドに仕上げられる場合もある。坊主にされたあと恥ずかしいコスチュームを着せられる場合もある。
 ――何よ、これ!!
 仁美は気が動転して、反射的に今度はパソコンを調べた。
 女性の剃髪に関する画像が無数にコレクションされていた。
 ――あの人・・・。
 女性が丸坊主にされるさまにコーフンする一種の変態だ。
 激しい悪寒をおぼえた。
 が、さらにDVDの棚を調べる。
 多香子剃髪
という慈遠の字のラベルの貼ってあるDVDが目にとまる。
 ――このDVDはヤバそうだぞ・・・。
と女の直感が知らせる。
 再生してみる。
 昔のビデオカメラで撮影したものを、DVDにダビングしたものらしく、画質は悪い。しかし、逆にそれが生々しい。
 床屋のフロアが映っていた。
 二十代後半くらいの女性がカットクロスをかぶせられていく。
 カメラワークはせわしなくズームアップ、ズームアウトして不安定で、一目で素人の撮影によるものとわかる。
『田山多香子、得度を前に本日、剃髪いたします』
という撮影者のナレーション(?)をビデオカメラのマイクが拾う。まぎれもない、田山慈遠の声だった。
 ――「田山多香子」?
とすると、この女性は慈遠の前妻なのだろうか。
 長い髪をどんどん刈られ、坊主頭になっていく様子を、カメラはなめまわすように撮っていく。
『いいね、いいよ、多香子』
 慈遠の声は満足そうな響きを帯びていた。
 この得度剃髪の実録モノは、4本あった。
 啓子剃髪
 文代剃髪
 祐美剃髪
 慈遠は彼の妻が剃髪して尼になるのを、全て撮影し、保存していたのだ。
 妻たちは皆、辛そうな表情で、泣き出す女性も中にはいた。慈遠は哀れな彼の妻たちに、嗜虐的な欲望をかきたてられるようで、泣いている妻に、
『悲しいか? 悲しいだろうなあ。ずっと伸ばしてきた髪を切られて、ツルツル坊主にされるんだからなあ』
などと、ことさらに苦痛を煽っていた。
 そして、きまって最後には、
『切った髪は持って帰るからね。記念だからさ』
と理髪師にことわっていた。
 ――もしや!
 仁美はもうすっかり大胆になっていた。部屋の押入れをガラリと開けた。
 押入れの奥深くに、やはりそれはあった。
 桐の箱が四つ。
 多香子の髪
 啓子の髪
 文代の髪
 祐美の髪
とひとつひとつに毛筆で書かれた和紙が貼ってあった。
 箱の中には、それぞれの妻たちの髪が収められていた。長い髪、短めの髪、黒い髪、染めた髪、真っ直ぐな髪、縮れた髪、どの髪も持ち主だった女性の怨念がこもっているかのように、無念そうにとぐろを巻いている。
 ゾワッ
と身体中の肌という肌が粟立った。
 ――これがあの男の本性なのか!
 変態的な性欲を満たすため、僧侶の立場を利用し、妻に剃髪得度を強要する。そして、剃髪の一部始終をカメラに録画し、切った髪を所有する。
 妻の役目はそこで終わる。
 用済みとなった妻はやがて離縁され、捨てられる。
 そして・・・自分ももうすぐ全く同じ運命を辿るのか・・・。

 「じゃあ、あんたもツルツル頭の尼さんにされるんだね」

 あの日、戸塚という老婆の口にした言葉が脳裏で反復される。
 あの老婆はこれまでの経緯を全て知っていたのだ。
 嘔吐を催す。頭がクラクラする。
 時計は夕方の五時半をさしている。
 そろそろ夫が帰ってくる時間だ。
 仁美は大急ぎで、桐の箱を元に戻し、DVDを棚に順番通りに収めた。自分が入室した痕跡を注意深く消してまわった。
 部屋を出てからも、胸の動悸は続いていた。
 ――おぞましい!
 しかし、心の何処かで、剃髪という行為に強く惹かれている自分もいて、
 ――なんでだろう・・・。
 仁美は感情を持て余している。
 外で車の音がした。
 慈遠が帰宅したらしい。
 間一髪。危なかった!
 仁美は胸をなでおろした。

 夕食の席で仁美は人生で最大の名演技を披露した。
 脅える心を押し殺し、笑顔をつくり、慈遠の話に相づちをうってみせ、「いつもの自分」を演じ抜いた。
 ただ、
「仁美もそろそろ剃髪か」
と髪に触れられたときには、背筋が凍るような思いがした。頭の中でさっき目にしたばかりのDVDや前妻たちの髪がフラッシュバックした。
 しかし、懸命に微笑して、
「そうだね」
と何とか受け流した。
 けれど、何故だろう、夫の性的嗜好を激しく嫌悪するノーマルな自己がいる一方で、剃髪にアブノーマルな性的好奇心をかきたてられつつある新しい自己が、確かに存在している。
 夫の目を盗んで自分のパソコンの前に座る。インターネットで剃髪関連の情報を調べる。
 世の中には、慈遠のような「剃髪フェチ」「断髪フェチ」と呼ばれている種族が意外に多いことを知った。
 女性の髪を切りたい、という男性や、男性に髪を切られたい、と望む女性がいる。
 世間は広いなあ、と思う反面、後者の被虐的な心理に接近していく自分に困惑する。
 動画サイトも覗く。
 マニアが喜びそうな剃髪動画がたくさんある。
 チャリティーのため、頭を丸める若い白人女性の動画。
 後ろで束ねていた長い髪に、結び目のあたりからハサミが入る。ジョキジョキ、ジョキジョキ。
 Oh、と白人娘が大仰に目を剥いている。
 ザンギリ髪になったところへ、即座にバリカンが入れられる。たちまちのうちに女性の前髪が消える。
 オーマイガッ、と白人娘は熱い吐息まじりに、天を仰ぐ。
 白人娘の頭はみるみる坊主に剥き上げられていく。Oh、yeah、と身体をクネクネさせている。
 ――私も――
 間もなくこの女と同じようになるのだ。そう考えて、仁美は恐怖にうち震えた。
 しかし、恐怖の裏側には、マゾヒスティックなコーフンが確かに在った。
 液晶画面越し、坊主頭にされる娘の恍惚とした表情に、奇妙な羨望をおぼえた。

 いよいよ剃髪する日が来た。
 その前夜、
「明日、床屋に行って、頭を剃ってもらおうか」
と慈遠は思い立ったかのように告げたときは、心が激しく揺れ動いた。
 けれど、
「わかったわ」
 仁美はひきつった微笑で応えた。
「そうか、そうか」
 慈遠は、むしろ動揺を隠せずにいる仁美に、満足しているのか上機嫌だった。
 そして、理髪店に予約の電話を入れた。
「ああ、うちの女房が今度、得度するんでね、そう、尼さんになるんだよ。でね、明日、おたくの店で頭を剃ってもらいたいんだけどね。ああ、うん、時間? ああ、そうだな、午後がいいな」
 慈遠はわざと妻に聞かせるように、電話口、高声で話をまとめている。
 仁美は思わず髪に手をやった。
 ――剃りたくない!
と思う。当然の女心だ。
 しかし、もう後戻りはできない。得度式は二日後だ。
 翌日、仁美は出荷される牛のように車に乗せられ、町外れの小さな理髪店へと連れて行かれた。
 慈遠はかつての妻たちを剃髪させるにあたって、うらぶれた場末の理髪店を好んで選ぶ傾向があることは知っている。
 仁美が連れ込まれた理髪店も、どこか小汚く荒んだ雰囲気があった。例えば、待合席の本立てには、競馬や風俗の情報誌が突っ込まれていたりしていた。
 カット台は二つあった。
 右側のカット台ではチンピラ風の男性客が、ヤカン頭の老理髪師にパンチパーマをあてさせていた。
「田山さんですか?」
と応対に出たヤンキーあがりっぽい若い理髪師が訊いた。
「ああ、昨日電話したよね」
 慈遠がうなずくと、
「じゃあ、奥さん、こっちへどうぞ」
と否も応もなく、ひきたてられるようにカット台に座らされた。
 グーッと椅子が上昇する。
 ――もう逃げられない!
 心臓が激しく動悸し始める。
「髪を切るところを記念に撮ろう」
 慈遠は用意のデジカメで、ケープを巻かれた仁美を撮影し出す。
 例えようもない不安と恐怖が仁美を襲う。
 シュッ、シュッ、と霧吹きで髪が湿されていく。
「さあ、仁美」
 慈遠はデジカメを構えたまま、妻に訊ねる。
「これからクリクリの坊主頭になる気分はどうかな?」
「・・・・・・」
 仁美は答えることができず、うつむいた。
 理髪師はコームで仁美の髪を梳き、セミロングの髪全体に水分をいき渡らせる。コームの歯が頭皮をゴリゴリひっかいて痛い。
 理髪師が大きな散髪バサミを取り出した。
「じゃあ、やりますよ?」
 事務的に最終確認され、
「はい」
と応じる声が別の誰かの声のように、仁美には聞こえた。
 最初に長い髪を粗切りされた。
 理髪師はハサミとコームで仁美の長い髪を梳き刈りした。コームが髪に深く入り、下から上に梳かれ、コームからはみ出た髪は何の躊躇もなしに、ジャキジャキ刈られた。
 髪は宙に跳ねあがり、ケープに落ちる。
 ずっと大切にしてきた髪を、手荒くカットされ、仁美は驚きと悲しみが入り混じった気持ちだった。
 あっという間に左耳が出た。
 ジャキジャキ、ジャキジャキ
 右側の髪も梳き刈りにされた。何十センチもある髪が無情にも切られ、渓流を跳ねる川魚のように、バッ、と空を舞い、ケープに落ち、ケープを伝って床に積もり、その屍を晒していく。
 思わず、ポロリと涙がこぼれた。
 慈遠はそれを見逃さず、
「仁美、悲しいか?」
と意地悪く訊いてきた。
「はい・・・」
 仁美は答えた。
「悲しい・・・です」
 ケープから手を出して、指先で涙を払いながら言った。慈遠が喜びそうな言葉やリアクションを、あえて選んでいる自分が不思議だった。
 右耳が出た。
 理髪師はバックの髪もうなじが見えるくらいに切った。とどめを刺すように、トップの髪を切った。左の指で髪を根元近くで挟み、はみ出した長い髪を、どんどん切っていく。ジャキジャキ、ジャキジャキ――
「仁美、男の子みたいだぞ」
と慈遠にひやかされた。明らかに悪意があった。
 仁美は恥ずかしそうに目を伏せ、ほんのり頬を染めた。やはり、心の何処かで、こうした反応が慈遠の欲望を一層かきたてることを承知していながら。
 慈遠の言うとおり、鏡の中の自分は少年のような短髪にされていた。カット台に座らされてから、まだ4、5分しか経っていないというのに。
 鏡に映る自己の姿形が、若い異性の手によって変貌していくさまに、強いときめきをおぼえる。
 同時に、鏡の自分の「美少年ぶり」にウットリとなる。ナルシスティックに目を細め、唇を半分開き、心持ち胸をはってみた。
 しかし、それも本格的な嵐の前の静謐だった。
 理髪師はカット台をあけると、中から仁美にとって、未知の器具を取り出した。
 バリカン。
 こんなに間近で見たことすら、初めてだ。
 この器具が自分の頭にあてられるのだと思うと、戦慄した。
 理髪師は仁美の動揺を無視して、業務用バリカンのコンセントをつなぐと、スイッチを入れた。
 ヴイイイイイイィィーン
 耳障りなモーター音が店内に鳴り響く。
 バリカンが前額に近づいてくる。
 仁美は思わず目を閉じた。
 ジャ、
と、髪がバリカンと摩擦して悲鳴をあげた。
 ジャリジャリジャリッ、
とバリカンは見事に、仁美の頭髪を左右に引き裂いた。
 髪がめくれ、後ろへと押し運ばれた。
 初めてのバリカンに仁美はショックを隠せず、鏡の向こうの逆モヒカンの無様な姿を、恨めしそうに見つめているだけだった。
 しかしショックを受けながらも、自分の奥底でそんな情けない自己にマゾヒスティックな昂ぶりをおぼえてもいた。
 慈遠は口数も少なくなり、目を炯炯と光らせ、撮影に集中していた。
 二度、三度、とバリカンが入れられる。まず右半分の髪が刈られた。
 バリカンの振動を頭に感じる。
 バサリ、バサリ、と刈り離された髪が、持ち主に別れを告げるように、ケープ越し、肩や腕を叩いて、床に落ち積もっていく。
 ――嘘・・・嘘でしょ!
 仁美の頭はドミノ倒しみたいに、みるみるうちに、順繰り順繰り、黒から青へと変わっていく。剃髪とはかくも容易いものなのか・・・。
「仁美、いい感じに仕上がってきてるぞ」
 思い出したように、ひやかす夫に、
「あなた・・・恥ずかしいわ」
 仁美はまた頬を赤らめて、うつむき、夫の嗜虐心に応えた。
 バリカンはすでに左の髪に取りかかっている。
 短くされた髪を根こそぎ覆し、剥ぎ除いていく。あとには、青白い五厘くらいの坊主頭が残される。
 頭から髪が減っていくたび、悲しみは大きくなる。同時にマゾヒスティックな快感も膨れあがっていく。
 いつしか仁美の秘壷は、トロリと甘い蜜をほとばしらせていた。
 ――何で、何でよ!
 仁美はあわてる。
 頭皮が感じるバリカンのバイブレーション。
 くっきり涼しくなる頭部。
 年齢も性別も定かならぬルックスに変貌させられていく鏡の中の自分。
 そんな自分を視姦し続ける夫。
 その夫のカメラによって録画されている映像が、夫の所有物に加えられるであろう事実。
 それらが、仁美の奥に眠っていたアブノーマルな情念を揺り動かし、表へと引っ張り出したかのようだ。
 夫は妻の変化にいち早く気づいたらしい、
「どうした、仁美?」
と意地悪く訊いてくる。
「頭を剃られて感じているのか? この淫売め」
 罵られて、仁美は唇を噛んだ。口を開けば、ヨガリ声が出てしまいそうだ。こうしている間にも、秘壷から溢れ出る蜜は、下半身を濡らしていく。
 ――あ・・・ああ・・・
 バリカンは襟足から後頭部にかけて、髪を刈り上げていく。
 トラ刈り頭の自身の見苦しい姿が、かえってMっ気を燃えあがらせる。
 ――こ、こんなに・・・こんなにみっともなくなっちゃったよォ〜。
 ネットの動画でみた、丸刈りにされる白人娘の恍惚の表情を思い出す。鏡の中の自分も似たような顔をしていた。
 バリカンは縦横無尽に、仁美の頭にチョボチョボと残っている刈り残しを、実務的に摘んでいく。
 ついに丸刈り頭にされた。
 仁美の隣でパンチパーマをあて終えたチンピラ風の男は、仁美と僧形の慈遠を交互に見て、
「ネエサン、尼さんになるのかい?」
と訊いてきた。
「はい」
「スゲーな」
 男は感嘆すること、しきりだった。
「女が坊主頭にするっつうのは、俺たちが指つめるくらいの覚悟がいるんだろうなあ」
 自分はそこまでのことをやってしまったのか、と改めて丸刈りの自己を見つめ直す。
「風邪ひかねーようにな」
と男は仁美に言い残すと、料金を払って店を出て行った。
 丸刈り頭が蒸される。蒸しタオルが熱すぎたが、仁美は我慢した。
 蒸しあがった頭にシェービングクリームがたっぷりと塗られた。
 理髪師は小刻みに剃刀を動かし、仁美の頭を剃った。
 ジッ、ジッ、ジッ、と剃刀が頭皮を擦る音がする。これまでとは、うって変わり理髪師の手つきも慎重だ。ビッシリと刈り込まれた五厘の頭を、さらに青く白く、仕上げていく。
 慈遠は黙々と、剃髪される妻の様子をデジカメに収めていく。息づかいが荒い。かなりコーフンしているようだ。
 ジー、ジ、ジッ、ジッ、ジー、剃刀の動きに合わせ、クリームと五厘の髪が除かれ、頭の地肌が浮き上がってくる。
 強い喪失感に襲われる。が、瞬間風速的なもので、すぐにM的な快感に追い抜かれる。
 ついに坊主頭に剃りあげられた。
「仁美、どうだ、丸坊主になった感想は?」
 慈遠が訊く。
「き・・・・・・」
 辛うじて声が出た。
「気持ち・・・いい・・・です」
 ショーツはグッショリ濡れている。
 ジャブジャブと頭を洗われたときの水の感触。キュッキュッと頭を拭きあげられたときのタオルの表面のゴワゴワ感。店内の空調の風。照明の熱。それら、ひとつひとつを剥き出しになった頭皮は敏感に感じ取った。
「仁美、可愛くなったぞ」
と夫にひやかし半分で褒められ、
「いや」
と仁美ははにかんで、目を伏せた。
「切った髪は記念に持って帰るから」
と慈遠は理髪師に言った。
 床に散った髪に目をやり、
 ――この髪も・・・
 桐の箱に入れられ、慈遠のコレクションになるのか、とぼんやり思った。

 それから月日は流れた。
「ちょっと、アンタ!」
 妻に呼び出され、
「なんだ?」
 オドオドと面前に現れる慈遠に、
「真葛(まくず)をお風呂に入れてやって」
「いや、俺は今ちょっと手が離せなくて――」
「どうせ、マニア向けビデオでも観てたんでしょ! いいから早く!」
「わかったよ」
 慈遠は不満げに妻に従う。
 あれから、お互いの嗜虐趣味と被虐嗜好が、プラスとマイナスでうまく合致し、夫婦仲は一層良好になった。
 仁美は慈遠に髪を剃らせたがり、それは慈遠にとって無上の悦楽となった。こんなケースは以前の妻たちとの間にはなかったようだ。
 剃髪フェティシズムに目覚めた仁美に、慈遠は夢中になった。
 数年後、待望の子供が生まれた。女の子だった。真葛と命名された。
 子供ができると、女は強い。
 いつしか夫婦間のパワーバランスは逆転。
 慈遠は仁美の尻に敷かれる。仁美に命じられるまま、前妻のDVDや髪を泣く泣く処分した。
 いつだったか、真葛の将来の話になって、
「男の子ができなかったら、真葛を尼にして寺を継がせようか」
などと言い出した夫に、
「アンタ、バカ? まさか真葛を剃髪させて、ビデオに撮ろうとか考えてんじゃないでしょうね?」
と仁美は目を剥いてみせた。
「い、いや、そ、そんなつもりはないよ」
 キョドる夫を、
「ホント?」
と睨むと、
「ああ、ホントだとも」
 慈遠は何度も点頭してみせていた。
 無論、ムチだけでは夫を操縦できない。
 だから、毎朝、慈遠にバリカンで頭を坊主に整えてもらう。
 それが一種の愛の営みになっている。
 妻をとっかえひっかえして頭を剃らせてきた孤独な青髭は、もういない。慈遠は剃髪フェチの部分以外では妻子を愛する、ごく普通のマイホームパパになった。
 本日も「ご出勤」。
「行ってらっしゃい」
と娘を抱いて玄関まで見送る。
「あ、ば、ば」
と母親の真似をして手を振る真葛に、
「真葛〜、パパお仕事行ってくるからね〜」
と慈遠は相好を崩しっぱなしだ。
 夫の背中を見送りながら、仁美は思う。
 ――我が家は全てこともなし。




(了)



    あとがき

 前々からあったアイディアを元に書いてみました。
 最近、話をまとめられず、今回の話もかなり長くなっています(汗)
 書いている迫水本人が一気読みできないもの(汗)>最近の小説
 でも、割合楽しく書けました♪
 長いお話でしたが、最後までお読み下さり、感謝感謝です!!




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