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春めく


 漆原馨(うるしばら・かおる)が安曇靖彦(あずみ・やすひこ)の許を訪れたのは、春は名のみの風の寒さや、という唱歌の歌いだしを思い起こさせる、まだ冬の寒気が居座っている三月の後半だった。
「お前、本当に馨か?!」
 靖彦は目を瞠った。
 小学校の卒業式の二日後に会ったときは、まだ長い髪に私服姿だったのに、今、目の前に立っている馨は髪を短く切って、セーラー服を着ている。
 寒々しくも清らかだった。
「今日切ってもらったの」
 透けるほど白い頬を、高揚と恥じらいで紅潮させ、白い息を吐きながら、
「お父さんが――」
と馨は言う。中学生になった姿を、
「本家に見せに行ってこい、って」
 本家にというより、「婚約者」である靖彦にお披露目させようという馨の父の配慮だろう。

 安曇家は代々この辺り一帯の地主で、現在でも「頭領様」と呼ばれ敬われている。敬われているだけでなく、権力も財力もあり、地域の支配権をいまだに握り続けている。
 長男の靖彦もいずれは安曇家の当主になる予定である。本人もその運命を受け容れていた。
 当主の嫁に迎えるのは一族の女性、というのが慣わしだった。
 安曇家の分家筋にあたる漆原家の長女である馨は、生まれたときから、未来の安曇家当主の妻となる運命が与えられた。
 とはいっても、状況はさほど深刻なものではない。
 閉鎖的なこの地域でも、封建的因習はゆるやかに崩れはじめ、都会流のデモクラチックな風が吹き込みつつある。
 靖彦と馨の「婚約」は安曇家、漆原家の当主同士で勝手に取り決めた、いわば老人同士の口約束にすぎず、昔ほどの強制力はない。
 靖彦もこの「婚約」については、大して気にとめていない。将来の伴侶は当世風に自由結婚でと内心では考えている。
 馨のことは嫌いではない。むしろ愛情を感じている。
 けれど七つも年下の子供の馨を恋愛や性欲の対象として見ることは、靖彦には到底できなかった。
 「靖兄」と彼のことを呼ぶ少女を、彼はどうしても妹のようにしか考えることができずにいた。
 だから高校でも、そして今現在親元を離れて通っている都会の大学でも、普通の若者と同様に同世代の女の子とのかりそめの恋やセックスを楽しんでいた。
 馨の方はといえば、自分の婚約について何の疑問ももたず、一途に靖彦を慕っていた。
 勉強もでき、スポーツもでき、ルックスも良い年上の「婚約者」に憧憬の念を抱いていた。当初はまだ無邪気な幼女の恋の域を出なかった。それでも、一族が集まるときなど、靖彦にベッタリくっついて、ままごとのように未来の夫の世話を焼きたがった。
 一族の男子たちを見渡し、
「やっぱり靖兄が一番カッコいい」
とひとり満足げにうなずいていた。女の子たちには、
「靖兄は私の将来のお婿さんなんだからね」
と得意そうに宣言していた。そして、
「靖兄」
と長い髪をツーサイドアップにした少女はフィアンセの顔をのぞきこんだ。
「学校の授業でね、研究発表があるの」
「へえ」
「郷土の歴史を調べなきゃなんないんだわ」
「ほう」
「でね、図書館に行くんだけど、靖兄も付いてきてよ」
「なんで?」
「靖兄、頭いいからさ、色々手伝って欲しいの」
「手伝ってもらったら、意味がないだろう」
「いいじゃん。でさ、帰りに図書館のそばのハンバーガー屋さんに寄ってさ」
「結局おごってもらうのが目当てかよ」
とからかうと、馨は色をなして、
「違うよ。靖兄とデートがしたいんだってば! 私の分は私が払うから、ね、お願い、一生のお願い」
なんて手を合わされて困惑したものだ。

 馨のそういった無邪気な花嫁志願も、彼女が小学校の高学年になる頃には鳴りをひそめた。
 馨は靖彦を避けるようになった。
 けして自分を嫌いになったわけではないことはわかった。思春期の恥じらいと過剰な自意識が彼女の中に芽生えたのだ。
 安曇一族の子女のほとんどは、本家分家問わず、小学校を卒業すると、地元の中学には進学せず、中高一貫の都会の私立名門校に通う。その学校は地元の中学と大違いで、校則も緩やか、制服もオシャレな感じで、いかにも名家の子女が通うにふさわしい優雅な校風の学び舎だった。
 ただし、一族の中でも例外がある。
 当主の花嫁になる女性は地元の中学に通う。
 将来、村落を表から裏から仕切る安曇家の当主を陰で支えるためには、早いうちから、なるべく地元の人間、風土、考え方に馴染む必要があるからだ。
 靖彦の母も祖母も地元の中学校の出身だった。
 ただ、馨の場合、もう時代が時代だし、婚約だの当主の裏方だのといった旧思想で縛るのは可哀そうだと大人たちは思っていた。
 それゆえ、小学校の6年生になる頃、馨の父親は娘に、
「楓ヶ丘に行くか?」
と都会の私立校へ進学するか訊いたそうである。
 しかし馨は首を横にふった。
「こっちの中学に行く」
とキッパリ言った。
 それは、ゆくゆくは靖彦と結婚したいという強烈な意思表示に他ならなかった。
 そして今日、地元中学の校則に従って、あんなに長かった髪を少年のように、バッサリと短く刈った。
 そして、短髪のセーラー服姿を婚約者にお披露目に現れたのだ。
 ――参ったな。
 靖彦は当惑している。
 こたつの卓をはさんで向き合って座る、年の離れた婚約者に、いまだかつてなかった感情が生まれつつある。
 いかにもお子様風のツーサイドアップのロングヘアを刈り込んで、ボーイッシュなセシルカットになった馨は異化効果というやつだろうか、かえって艶っぽい。ときどき、心細げに、あるいは恥らって刈りあげられた襟足に手をやる仕草にも女性を感じる。
 ――馨ももう子供じゃないんだなあ。
 セーラー服に視線をやりつつ思った。ついこの間までキティちゃんがプリントされたピンクのトレーナーを着ていたのに。セーラー服に包まれている馨の身体は、きっともう自分が考えている以上に大人のそれになっているのだろう。不埒なことを考えて、あわててうち消した。
「入学式はいつだ?」
「来週」
「それにしても、切りすぎだろう、髪」
「バスケットボールやるつもりだから、もっと短くてもいいと思う」
「バスケやるのか?」
「靖兄と同じクラブだよ」
「そうか」
「でもレギュラーにはなれないかもね。私、運動音痴だから」
 そう言って馨が苦っぽく笑うところに、靖彦の両親が出先から戻ってきた。
 もちろん二人は地元中学生スタイルの馨に驚きながら喜んでいた。
「馨ちゃん、お姉ちゃんになったね〜」
と褒められると、馨は逆に子供スイッチが入ってしまったらしく、恥ずかしがって、いやいや、とコタツに頭をつっこみ、新しい髪型の披露を拒んでいた。
「なんだ〜、馨、婿さんには見せられて小父さんたちには見せられないのかあ?」
と靖彦の父にからかわれ、馨はいっそう恥ずかしがって、
「違うの、寒いの、頭が寒いの!」
 コタツの中、くぐもった声で無理のある弁解をしていた。まるで幼女だ。靖彦は苦笑した。
「馨ちゃん、今夜はうちでご飯食べてきなね。入学のお祝いにうんとご馳走するからね」
 靖彦の母はただでさえ可愛く思っている馨が、自分の母校の女生徒らしい髪と服になって、ますます可愛くてたまらない様子だった。
 靖彦の父も同じで、
「これで何か好きなモン買えや」
 遠慮するな、と馨にお札を握らせていた。
 母に付き従って、セーラー服の上からエプロンをつけて、甲斐甲斐しく台所で立ち働く馨の後姿を眺め、
「靖彦、ありゃあいい嫁になるぞ」
 お前、ツイてるなあ、と父はしみじみと息子に言った。
「そうかな」
 靖彦はあわてて懐疑的な態度を装った。本当は父親と同じ感想だった。
 夕食の席で大人たちから何度も髪型のことを褒められ、馨は、嬉しいくせに、
「寒い」
「男の子みたい」
とアマノジャクになって、短い髪を貶し、乱暴に手櫛をいれてみせていた。
 帰りは靖彦が馨を彼女の家まで車で送った。
 馨は黙りがちだった。
 自宅が見える頃、
「ねえ、靖兄」
 思い切ったように馨は口を開いた。
「なんだ?」
「私、もう子供じゃないよ」
 馨の言わんとすることは、靖彦にも伝わった。
「靖兄のことも、これから“靖彦さん”て呼ぶ。だから――」
「ああ、桜の花が――」
 靖彦はあわてて話題を逸らした。
「桜の花がほころびはじめてるなあ。入学式までには間に合うかわからないけど、こりゃあ新学期の初めには満開になるなあ」
「靖兄!」
 馨はむくれた。
「“靖彦さん”って呼ぶんじゃなかったのか?」
 揚げ足をとられ、馨はますます不機嫌になった。
 しかし靖彦としても、このまま小学校を卒業したばかりの馨と男女の仲になるわけにもいかない。
 車から降りるとき、
「キス」
と馨はねだった。
「キスして」
「ああ」
 靖彦は馨の額に唇をあてた。子供の頃から、いつもこうやってキスしてやっていた。以前は長い前髪を手で除けて口付けていたが、額を思い切りよく出した今の髪型ならば、前髪を除ける手間が省ける。上唇に短い前髪がサワサワ触れた。
「おでこじゃなくって、口に・・・唇に――」
 して欲しかったのに、と馨は不満そうだった。
「馨がもっと大人になってからな」
 そう言ってなだめると、
「ほんと? 約束だよ」
 言質を取られ、靖彦は、
 ――参ったなあ・・・。
 あるいは軽率だったかも知れない。

 数日後、馨の父が安曇家を訪うた。
 先日、靖彦の両親が入学祝いを持参して訪問したとき、生憎留守にしていたため、改めてお礼を言いに来たとのことだった。
「先日は大変結構なお祝いの品を頂きまして、ありがとうございました。おかげさまで、あのお転婆も中学にあがることになって――」
という型通りのお礼の口上からはじまり、靖彦の両親と四方山話に花が咲く。
 辞去するとき、
「靖彦さん」
と一枚のDVDを手渡された。
「これは?」
「良かったら観て下さい。馨には黙ってて下さいよ」
 馨の父は唇に指をあてて、内緒というジェスチャーをしてみせた。

 その夜、靖彦は何の気なしに、昼間、馨の父から渡されたDVDを再生してみた。
 馨が映っていた。
 長い髪だった。
 散髪用のケープを身体に巻かれている。
 場所は自宅の庭に面した縁側だった。
 どうやら中学に入るにあたっての断髪式の様子をデジカメで撮影したものらしい。
『長女の馨、中学にあがるため、これから髪を切って、“お姉ちゃん”になりま〜す』
という撮影者――馨の父の説明ナレーション(?)が画面の外側から聞こえる。
『いや、撮らないで。恥ずかしいよォ〜』
と父親を止めようとする馨だが、撮影は続行される。
 鋏を執るのは馨の母親だ。
 霧吹きでシュッシュッと髪が湿される。
 髪全体に水分を行き渡らせると、母は鋏を握った。
 いつもツーサイドアップにしていた髪はほどかれ、前髪は顔半分を覆うほど長い。
 母はまずその長すぎる前髪に鋏を入れた。右のコメカミのあたりに鋏の片方の刃を滑り込ませた。もう片方の刃は前髪の外側に。
 鋏がゆっくりと閉じる。
 ジャ、と微かな音がして、端っこの前髪が落ちた。
 鋏はジャキ、ジャキ、ジャ、ジャキ、と馨の顔を横断していく。バサバサと髪が雨だれのように落ち、馨のしかめっ面が、右から左へ徐々に現れた。
 鋏が切断されたラインより上に入る。前髪がさらに短く詰められる。また右から左に、ジャキ、ジャキ・・・ジャキと馨の髪を断っていく。
 眉毛があらわれた。
『ああ〜』
と馨は身悶えしながら、悲しげに笑っている。
 前髪のカットはまだ終わらない。三度、四度と鋏が入れられ、眉毛と前髪の間隔はどんどん開いていく。ついに額がはっきりと見えるところまで切って、前髪のカットは終了した。
 靖彦には、その短く揃えられた前髪のラインが、馨の少女時代と思春期の分水嶺のように思えた。
 サイドやバックの髪も前髪に合わせて、短く切り落とされた。
 バサッ、バサッ、と収穫され、ケープに、地面に、縁に敷かれた新聞紙に落ちていく髪を、馨はじっとしたまま、目だけ動かして、不安そうに見送っていた。
 馨の母は勢いよく長い髪に次々と鋏を入れていった。時々思い出したように、
『頭が軽くなるわよ』
『頭を洗うのも楽よ』
と不安顔の娘を慰めた。
 何十センチもある髪の束が馨の周囲に降り積もっていく。
 この漆原家のドメスティックな儀式が、なんだかセミが脱皮して成虫になる自然界の現象と重なって見える。
 キノコのようになった髪を、素人理髪師は櫛を使い、鋏を使い、器用に、かつ大胆により一層短く仕上げていく。
 サイドの髪がジョキジョキと刈られて、両方の耳が露わに出でた。
『寒い!』
と馨は大袈裟に肩をすぼめた。
『馨』
と父親の声が問う。
『やっぱり楓ヶ丘に行った方が良かった、って後悔してっか?』
『してない!』
 馨の返答は明瞭だった。カメラ(父親)を睨んで、
『だって、私、靖兄のお嫁さんになるんだもん!』
 カット中のザンギリ頭で宣言する。
『そうか、そうか』
 父親は娘の真剣さにひやかすのをやめ、
『そんなに想われて、靖彦さんも本望だろうさ』
 しんみりとした口調だった。
 馨の髪はどんどん短くなる。トップを刈られ、襟足を刈られた。
 全体を整える作業は難航した。
 特に襟足は強い毛先がピンピンはねて、まとまらず、
『バリカンで刈り上げようか』
ということになり、奥から古ぼけたバリカンが持ち出されてきた。
 バリカンの出現に、馨は、
『え? ちょっと、バリカンとか使うの?!』
と目を白黒させていたが、もはやなりゆきに任せる以外になく、おとなしく刈られていた。
 ウィーン、ジジジャ、ジ、ジャジャ
とバリカンは七回ほど馨のうなじを上下して、ようやくカットが終わった。多少歪な部分もあるが、全体的には素人にしては見事なセシルカットだった。
 後で聞いたが、この前日、馨の母はたまたまテレビで放映していた「悲しみよこんにちは」を観ていて、ヒロインであるジーン・セバーグのセシルカットに惹かれ、
 馨にも似合うんじゃないかしら
と思ったらしい。
 確かに美しい顔立ちの馨に、セシルカットは映えた。
 できあがった髪形をハンドミラーで確認し、
『こんなに切ったのォ〜』
と馨は驚きと嘆きとわずかながらの達成感の入り混じった表情で、切りたての髪を撫で回していた。
『制服着て、中学生になったところを本家に見せに行ってこい』
と父が言う。
 「本家」と聞いて、馨は顔を赤らめた。靖彦のことを思い浮かべたのだろう。

 DVDはそこで終わっていた。
 靖彦はしばらくぼんやりと、再生を終えたテレビ画面を見つめていた。
 馨の父が自分に、このDVDを渡した意図が、わかるような気がした。
 馨の父親は、靖彦と一緒になりたくて髪を切ることになった娘の幼いながらも真摯な気持ちを、どうしても靖彦に伝えたかったのだろう。そんな父心を察した。
 そして、馨に対して、以前はどうしても持てなかった愛おしさを感じた。同時に、やはり以前は持てなかった「婚約」についての厳粛な気持ちが胸に湧き上がった。
 部屋の窓を開ける。
 夜風が温かい。
 ――もう春なんだなあ。
としみじみ実感する。
 桜もそろそろ花開きそうだ。
 大学の新学期に合わせて、明後日には下宿に戻るつもりでいたが、桜の花が咲くまで、延期しようかと思う。
 音無川の桜並木を馨と二人で手をつないで遊歩したい。
 ――そういえば・・・
 昔、誰か大切な人と一緒に桜を見ようと約束したことがあったような気がする。結局その約束は果たせなかった。いつのことだったか、相手は誰だったか、全く思い出せない。中学時代? 高校時代? それとも輪廻転生する前の遠い過去世の出来事だったのかも知れない。
 それは置いておいて、
 ――今度は――
 馨の望むようなキスをしてあげたい。蕾がいつか花開くのを待つのも悪くはない。
 未来は不確かだ。結婚の約束がこの先、果たされるかどうかもわからない。
 ただ、今は無性に馨と一緒に桜を満喫したい。
 思い立ったら、矢も盾もたまらず、ケータイをプッシュした。
 トゥルルル、トゥルル・・・
 ツーコールでつながった。
『靖・・・彦さん?』
 馨の声が聞こえた。
「もしもし、馨?」
 少年のように弾んだ声が自分でもおかしかった。



                 (了)


    あとがき

 久々の入学バッサリです。
 以前、断片だけ書いていたのを、物語化しました。苦戦するかなあ、と書き始めの頃は覚悟しましたが、意外とすんなり書けて安堵しています。それにしても最近、断髪と恋愛をからめたストーリーが多いような気がする。
 「年下の女の子」のバッサリは自作の中にあまりなく、書いていて、結構新鮮でした。
 そうそう、あと季節もドンピシャでした。冬に夏の話を書いたり、秋なのに入学断髪を書いたり、作品内の季節と発表時期を一致させることって、なかなかできないので、かなり嬉しいです!
 最後までお付き合い下さり、ありがとうございました♪♪




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