清浄化 |
前置き 某宗某派の総本山は、Z師が首座に就くまでは、一部の心ある僧尼たちから、 魔窟 と嫌悪をこめて呼ばれていた。 賄賂が半ば公然と行われ、風紀は乱れ、邪淫に耽る破戒僧破戒尼たちが横行していた。 出世をめぐる闘争も凄まじかった。 仏道より金、仏道より出世、仏道より色事、という頽廃が一山を覆いつくしていた。 なにしろトップであるK師からして、本山詰めの尼僧と密かに情を通じていたのだ。 しかし、このK師の醜聞が発端となり、本山の改革、刷新を求める純粋派の僧尼が立ち上がった。 彼らはK師の「非行」を糾弾した。 これには上層部もあわて、K師の愛人だった尼僧――牧田俊昌を左遷し、口実を設けて彼女に男僧ばかりの厳しい寺院での修業を命じて、本山から追放した。 これで一件落着、と上層部はたかをくくっていたが、改革派はおさまらない。愛人のみに責任を押し付け、自身はのうのうとその地位に居座り続けるK師に批判が集中した。 結果、K師は引退を表明、本山から退去した。 K師に代わって本山のトップに迎えられたのは、厳格で知られたZ師だった。この就任劇には改革派の意向が大きく働いていた。 Z師とZ師の側近団は早速、本山の「清浄化」を目指し、次々に布石を打っていった。 以下に記す二、三の挿話はこの「清浄化」をめぐる悲喜劇である。 一・ 女帝 もう朝か、と尼僧・町田桂月(まちだ・けいげつ)は物憂げに寝返りをうった。 横には若い僧侶が蓮月同様、一糸もまとわぬ姿で寝息をたてていた。 だるい。 とりあえず僧侶を小突いて起こし、コーヒーをいれさせた。 目覚めのコーヒーを口に運びながら、 「めんどくさいなあ」 とひとりごちた。今日はこれから本山の行事に参列しなくてはならない。 本山の隣市にあるマンションの一室である。 「めんどくさいったって」 火遊びの相手は桂月のために、せっせと卵とベーコンを焼きながら、 「それがお前の仕事なんだから、仕方ないだろう」 「はいはい」 と生返事して、昨夜食べ残したチーズを齧り、飲み残したボルドー産のワインで流し込んだ。さらにワインをもう一口。 「おいおい、晴れの儀式に酒飲んで出仕しちゃマズイだろ」 「うるっさいわね」 桂月は尼僧らしからぬ長い黒髪をかきあげた。三度ほど寝た相手の彼氏気取りをうとましく思った。 ――コイツもそろそろ捨て時かしら。 町田桂月は三十代前半。まだ若い。才知に長け、そしてなかなかの美貌だった。 山内の実力者であるJ師と私通し、権勢をふるっていた。 収賄を行い、せっせと蓄財に励んだ。 周囲をイエスマンばかりで固めている。逆に気に入らない僧や尼がいれば、どんどん山内から追い払った。山内の人事のほとんどは、J師との甘く熱い夜の桂月の囁きで決せられたといっていい。 そのくせ、J師だけでは満足せず、これ、という僧侶を見繕っては、火遊びを楽しんだ。僧たちは本山の陰の権力者のお誘いに喜んで、あるいは後難を恐れて彼女を抱いた。 人事権を密かに握っている蓮月の許に、皆競って群がった。機嫌をとり、金品を贈った。桂月は当然の如く、彼女に捧げられる追従や金や物を受け取った。 長い髪をなびかせ、ロングワンピースを着て肩を露出し、真っ赤な外車を乗り回す桂月に、反感を持つ者も少なからずいたが、祟りが怖いので皆口をつぐんでいた。 そんな桂月の没落はあっけなかった。 例の本山のお家騒動の結果、K師は引退。桂月の権力の源だったJ師もその職を解かれた。 桂月は持ち前の政治的な嗅覚を発揮して、J師を裏切った。本山の革新派と結んで、J師の排斥に一役買った。 ――これで一安心。 と桂月は胸をなでおろした。 が、そうはいかなかった。 本山の「清浄化」を標榜する改革派にとって、桂月のような存在は拭い取るべき魔窟の汚穢だった。 「冗談じゃないわ!」 窮地に立たされた桂月は狼狽した。かつての取り巻きたちに運動を命じたが、J師という打ち出の小槌を失った彼女のために動く者は、もはやいなかった。 やがて、 ○○修行道場の指導員に任ず という辞令がおりた。 さらに、 指導員としての研修のため として厳しいと評判の男僧ばかりの修業道場への入門が命ぜられた。 牧田昌俊と全く同じ処分である。 実を言えば、牧田昌俊の場合、彼女の処分をめぐって議論が百出したとき、 「それなら――」 とJ師に耳打ちして、もともと反りの合わなかった昌俊を懲罰的修行に追い込んだ張本人は何を隠そう桂月だった。 自分の案が採用されて、 「いい気味だわ」 とワインをかたむけ、昌俊を笑っていた桂月だが、皮肉にも、 それは使える と改革派は思ったらしい。 結果的に桂月は自分の考えついた懲罰の受刑者になってしまった。ギロチンの発明者の逸話を連想させる話である。 追い込まれた桂月はどうしたか。 遊び狂った。 ホストクラブに通って、ドンペリをあけ、豪遊した。若いツバメをマンションに連れ込み痴戯に耽った。毎晩のようにビンテージのワインをガブガブとあおった。優雅な生活への未練と、待ち構える荒行への恐怖、自分を苦境へと追いやった本山の現主流派へのせめてもの抵抗心が彼女の酒量と放蕩に拍車をかけた。 「さあ」 とお気に入りの三人のホストの前に、札束を積んで、 「優勝は誰かしら」 と彼らに飲み比べをさせた。 目の色を変えて、アルコールを口に流し込む三人を眺めつつ、 「あら、アナタたち、だらしがないわねえ」 サディスティックな笑みを浮かべ、 「もっと、もっと、一気に! 一気に! ほらほら!」 高笑いする桂月だった。 それから33時間後―― 「ぬほおおおおおおおーーー!!」 桂月はサラシにフンドシという半裸状態で、滝にうたれていた。 「町田ッ! 声を出すな!」 道場の指導僧の容赦のない叱責が飛ぶ。 「ククッ・・・」 剃りたての坊主頭に冷水は飛び上がるほど染みる。季節は冬。正気の沙汰ではない。だが歯を食いしばって耐える。 魔窟の住人にふさわしく、書類をごまかして正規の修行を受けずに尼となった桂月にとって、男も逃げ出す荒行は拷問に等しい。 実際、脱走した修行僧のフンドシをあてがわれ(男僧の道場なので女性用の衣類が用意されていない)、その汚らしさに鼻白みつつ、着用に及んでいる。 修行中は剃髪がきまりである。 今まで一度も坊主頭になったことのない桂月は、剃髪を嫌がり抜いた。剃髪の免除を各方面に訴えたが、無論許されるはずもなかった。 修行に入る前日、道場のそばの床屋に飛び込んで、渋々頭を丸めた。 理髪師は当然困惑したが、桂月もまさか名だたる荒道場に長い髪のまま行くわけにもいかない。 還俗 という選択肢は桂月にはない。臥薪嘗胆。ここで粘りに粘って、また権力の座に返り咲くのだ。そして、自分をこんなミジメな目にあわせた連中に復讐してやる。そう心に誓っていた。 「お願いします。頭を剃って下さい」 懇願され、理髪師も仕方なくハサミをとると、桂月の髪を粗切りしはじめた。 ザクザクとロングヘアーが刈られた。 バッバッと切られた髪が宙を舞い、くるくると丸まってザーッとカットクロスを滑り落ちていった。 剃髪の一部始終は本山から付き添ってきた改革派の尼僧が、テジカメで撮影した。 「後で本山のホームページに載せるので」 と尼僧は説明した。 魔窟の代表ともいえる女の没落を象徴する場面を、全国に公開するのは、改革派にとっては意義のあることだった。 桂月はこの屈辱に身をふるわせた。 理髪師は理容学校で学んだとおり、手際よく仕事をした。 ロングヘアーは忽ち、摘みとられた。あとにはムザンな散切り頭が残された。 理髪師はカット台の引き出しをあけ、バリカンを取り出した。そして、スイッチを入れ、ウィーンという機械音とともに小刻みに運動する刃を、桂月の額のド真ん中に差し込んだ。 ジジジジジジという摩擦音が店内に響く。 桂月の顔が歪んだ。 桂月の髪は頭から引き剥がされ、床に落ち、ゴミになった。額からツムジにかけて青い道が開通した。 ――な、なんで・・・なんで私がこんな目に遭わなくちゃならないの・・・ 桂月の嘆きをよそに、理髪師はサクサクと仕事をすすめていく。 バリカンは傍若無人に桂月の頭を走り、彼女の髪を削ぎ取っていった。ジョリジョリジョリ〜 ズズッと髪がバリカンの運動に従って盛り上がり、肩に首筋に落ちた。 付き添いの尼は愉快そうに、桂月が剃髪されるさまをデジカメにおさめている。 「祥念!」 ついに桂月は怒気を発し、叫んだ。 臨時カメラマンである尼僧の祥念はかつて桂月が目をかけ、何くれとなくなく世話をしてやったものだった。それが―― 「なんでしょう?」 祥念は涼しい顔で訊いた。 「この恩知らずが!」 桂月は吼えた。 だが、 「仕事に私情は禁物ですわ」 祥念はやはり涼しい顔。 「おぼえてらっしゃいッ! アンタのような忘恩の徒は、わっ、あっ、あっ、べべべべ」 落ちてきた短い髪が口の中に入り、桂月の呪詛の言葉は半ちぎれのまま、宙に消えた。すでに頭髪のほとんどは刈り尽くされていた。 「まあ、いいザマですこと」 祥念は嘲笑った。 桂月はもはや怒る気力も失せ、ただ理髪師のなすがままに任せていた。 理髪師はタオルで蒸された丸刈り頭に丁寧に剃刀をあてた。そして、ゾリゾリとミリ単位の髪をこそげ落とし、 つるり と丸く剃りあげたのだった。 青剃り頭を寒空にさらし、 「頼もう!」 と桂月が道場の門を叩いたのは、その翌日だった。 そして、連日の滝行で風邪をひいてしまった。 髪があった頃は、自称偏頭痛持ちの桂月が、 「なんだか気分がすぐれないの」 と一言いえば、 「それはいけない! すぐ病院に行きましょう! オレが送りますから」 と若い僧侶や美形のホストが彼女を抱きかかえ、スポーツカーを走らせたものである。 が、今は違う。 旧日本軍の下士官を連想させる、むくつけき道場監督が肩をいからせ、 「何ぃ? 風邪だぁ? ケツにネギでも突っ込んでおきゃ治る。いや、治せ」 命令一下、修行僧たちによってたかって下着をひん剥かれ、 ――ちょ、ちょ、ちょっと、ちょっとおおおぉぉ!!! ずぶり。 肛門に熱く激しい異物感を感じた。 ――ぐはあッ!! 魔窟の住人たちを意のままに動かしてきた闇の女帝の尻に、深々とネギが突きたてられた。本山時代の知人が見たら、我が目を疑うであろう光景だった。 坊主頭をプルプル震わせ、 ――や、やっぱり―― 朦朧とした意識で考えた。 ――復讐なんてやめよう・・・。 スーパーのレジでもいい、掃除のオバチャンでもいい、早いところトンズラして俗世で真っ当に一からやり直そう、と。 二・ 自由人 出世するのも考えものだ。 真田花袋(さなだ・かたい)はため息をついた。 花袋は巷では「翔んでる尼さん」として知られている尼僧だった。 袈裟や作務衣といった尼僧らしい格好を嫌い、ゴスロリファッションを好んで着ていた。髪も剃髪ではなく、ブラウンに染めてクルクルと巻いていた。 桂月同様三十代前半の女性にしては、ギャル姿は少々無理があったが、 「尼僧らしく見られたくない」 と本人は広言していた。「〜らしい」「〜らしく」といった社会通念に対して、根っからの自由人としての反発心が湧くようだ。 ただし、花袋は単なる変物ではない。 学識もある。信仰もある。行動力もある。 若い女性向けにわかりやすくユーモアたっぷりの仏教書を、何冊も上梓している。 面白い尼さんだ とマスコミも目をつけ、テレビやラジオで人生相談をしたり、ワイドショーのコメンテーターをしたりと引っ張りだこだった時期もある。 各地を飛び回って講演活動もしている。 そんな花袋の才能を本山も放ってはおかない。 改革派による「清浄化」運動は、破戒僧尼を放逐する一方で、有能な人材を吸血鬼が生き血を欲するように求めていた。 早速、本山に出仕するよう要請されたが、花袋は固辞した。 「冗談じゃないわ」 と周囲にこっそり漏らした。 今の「清浄化」が進行中の本山に詰めれば、肉も酒も男も断たねばならない。巻き髪もゴスロリファッションも許されない。一切の自由がなくなる。坊主頭に袈裟を着け、精進料理で命をつなぎ、組織の歯車として滅私奉公など御免蒙りたい。 花袋には男女問わず複数の恋人がいたし(彼女はバイセクシャルだった)、著作やタレント活動など収入も十分すぎるほどある。その収入でおいしいものを食べ、おいしい酒を飲み、好きな髪型をし、好きな服を着て、恋をして、人生を楽しんでいる。 何を好き好んで自由で華やかな生活を捨て、山の中で禁欲生活に入らねばならないのか。考えただけで怖気が走る。 本山側は執拗に花袋に出仕を求めた。花袋はその都度、断った。 花袋の対応について、 無礼ではないか と非難の声があがった。花袋としては苦しい。 とうとうトップであるZ師が直々に花袋の庵を訪れるに至り、 「本山の再建のために是非貴僧の力をお貸し願いたい」 とまで懇請されては、 ――仕方ない・・・。 花袋は折れた。折れざるを得なかった。 「ご出世ですねえ」 と祝いの言葉を口にする僧や尼がいたが、 ――何が出世なもんか。 内心しかめ面の花袋である。 彼女の信奉者の中には、 「“翔んでる尼さん”ったって、所詮は俗物だっだんだなあ。出世に目がくらんで体制側に組み込まれちゃって、なんだかガッカリ」 と無責任に落胆する向きもあった。 ――好きで出世するわけじゃないわよ! と叫びたい。 出仕の日が近づき、花袋は頭を刈らねばならない。不承不承床屋へ向かった。 床屋のお兄さんは巻き髪にゴスロリファッションという年増ギャルの客に当惑し、 「本当にいいんですか?」 と何度も念を押してきた。 こっちもそれ相応の覚悟を決めてきているのに、ゴチャゴチャと余計な気を使われても迷惑だ。 「いいから、きれいさっぱりやってちょうだい!」 つい声を荒げてしまった。 「わかりました」 理髪師はやや憮然として、バリカンを持ち出した。 ――うわ〜! いきなりのバリカンの出現に、花袋は毒気を抜かれ、沈黙した。 理髪師はコームで花袋の前髪を手早くかきわけると、ジーと鳴るバリカンを額から押し入れた。 ジャリジャリジャリ、ジャリジャリジャ と髪がはぜる音がして、前髪が頭のてっぺんまで持っていかれた。 バサリ、とバリカンにまとわり付いた髪が床にこぼれ落ちた。 生まれて初めてバリカンなどという器具に世話になり、花袋の表情は苦い。 ――こんなハズじゃなかったのになあ。 順風満帆だった、つい数ヶ月前までの過去が懐かしい。戻れるものなら戻りたい。 バリカンは花袋の気持ちなど斟酌せず、せっせと巻き髪を刈り取っていく。 丸まっていく頭をぼんやり見つめながら、花袋は淋しい気持ちでいっぱいだった。バサリ、バサリと落ちていく髪が惜しくてたまらない。 ガアア、と右サイドの髪が剃り上げられる。そして次に左サイドの髪が、やはりガアアアアッ、とバリカンの餌食になる。「翔んでる尼さん」の面影はもうない。 前頭部、側頭部、と坊主頭になった。 茶色い巻き毛が驚くほどの量、床に散り拡がっている。 理髪師は後ろの髪にとりかかった。 長い髪を指にひっかけ、ガアアアッと右から順々に刈り取っていく。 刈られた髪がボタボタと雨垂れのように、頭から剥がれ、落ちていく。剥がれたそばから青い丸刈り頭が浮き出てくる。 かつて雑誌の企画で女流の作家と対談したとき、 「私は形にとらわれたくないんですよ。」 と花袋は語っている。 「だからこういう髪型と格好でいるの。形ばかりにこだわって中身が空っぽの尼さんを見飽きるほど見てきたし、その度に“ああはなりたくないな“って思うわ。ホホホホ。」 と笑っていたが、まさか自分が僧形を強いられるとは、当時、思いもよらなかった。 すっぽりと五厘の坊主頭に丸められた頭を、さらに蒸され、ゾリゾリ剃られた。 剥き出しの裸頭が店の照明で、テカテカ光っている。 「ああ〜」 花袋は剃ったばかりの頭を情けない顔で撫で回した。 「風邪ひかないでよ」 と理髪師は笑いを噛み殺して、そう言いながら、フロアブラシで床の巻き髪を掃いていた。掃き集められた巻き毛は、なんだか小さな獣みたいだった。 そそくさと帰宅すると、メイクを落とし、作務衣を着た。 鏡を見た。 「翔んでる尼さん」の艶姿は影も形もなく、地味顔の冴えない尼さんが心細そうにこっちをうかがっていた。 ――うわあ〜!! 思わず鏡をふせる。 しかし鏡から目を背けたところで、髪が伸びるわけでもない。現実を直視せねば。 ――えいっ! 気合いを入れて、もう一度鏡を覗く。 やっぱり冴えない尼さんがこっちを見ている。 ――こうなっちゃ仕方ないわね。 花袋も腹を括った。 スッと頭に手をやり、 ――頑張るしかないか。 待ち受ける宮仕えの日々を思った。 途端、 「クシュン」 大きなクシャミが出た。頭が寒すぎる。明日、毛糸の帽子を買おう。 ――それと・・・ スキヤキ、スッポン、トンカツ、フグチリ、ジンギスカン・・・本山に行く前に食べておきたいもののメニューが頭に浮かぶ。 三・ 幽霊と野良犬 本山詰めの尼僧・半藤宗薫(はんどう・そうくん)は目立たない存在だった。 「あれ、宗薫さんいたの?」 としょっちゅう言われていた。 顔立ちは十人並み。自己主張するタイプでもない。普段黙々と事務の仕事をこなし、宴席でも隅っこでひっそり座っていた。 「幽霊みたいだな」 と陰口をいう者もいた。 魔窟の連中は金や出世や淫行に熱中していて、宗薫のことなど構っている暇もなかった。魔窟の腐敗や闘争をよそに宗薫は淡々と自分の仕事をこなしていた。 そんな宗薫の身に変化がおきたのは、Z師が本山のトップに就任してからだった。 例の「清浄化」によって山内も大きく変わった。 多数の僧尼が山を追われ、多数の僧尼が山に入り込んできた。ちょっとした民族大移動の観があった。 だが、宗薫の身辺は平穏だった。彼女は頽廃とは無縁だったし、その事務能力を改革派にも買われたのか、そのままの職にとどまっていた。あるいは主脳部の誰も、彼女の存在など気にもとめなかったのが実際のところだったのかも知れない。 変化したのは、宗薫の内面である。 ――これは好機じゃないだろうか。 事務をこなしながらも、そんなことを考えている。かつては存在しなかった野心が宗薫の中で、沸々とたぎりはじめていた。 「清浄化」の進行に伴う混乱に乗じて、一気に上昇できるのではないか。 そう思うと、十年一日の如く、カビくさい事務室で書類に囲まれている現状に飽きたらなさを感じる。 野心は日ごとに膨れ上がっていく。 ――U師になら・・・ とZ師の側近の名と顔が浮かぶ。彼に接近することで、本山の中枢に入り込むことができる。 このまま幽霊のように誰にも気づかれず、埋もれていくのは嫌だ、と思う。 ――ただ・・・ 髪は剃らなくてはならない。 Z師もその側近団も僧侶たるもの男女問わず剃髪が望ましいという、いかにも厳格な思考の持ち主たちだった。そのため、中の上くらいから上位の僧尼には半強制的に剃髪が求められている昨今だ。 宗薫はおぼえず髪に手をやる。 ――切りたくない。 と思う。肩までの髪は、いつもは後ろでひっつめているが、宗薫にとっては自分の身体の中で唯一、自慢できる美しい部位だった。得度のときも修行のときも剃らずに今に至っている。 それが、 ――坊主頭になんて・・・ 唾棄したい気持ちに駆られるが、ここが思案のしどころだ。髪を惜しんで、出世のチャンスを諦めるか、それとも頭を丸めて一発逆転を狙うか。 宗薫は悩む。悩みに悩む。 結局、野心が勝った。 出世の見込みがないようなら、また髪を伸ばせばいい、と自分を納得させ、門前町の床屋へ駆け込んだ。 先客がいた。しかも女性だった。 「檜垣さん!」 「あら」 バリカンで頭を刈られまくりながら、檜垣祥念はキマリ悪そうに苦笑した。 祥念は魔窟の女帝ともいうべき町田桂月の腰巾着だった。桂月が没落して、本山から追放されるにあたり、彼女を裏切って改革派についた。巧みな遊泳術で懲罰や追放は免れたが、前歴が前歴だけに、上層部に対して何らかの「禊」の必要を感じたのだろう。 ――で、頭を丸めたわけか。 宗薫は瞬時に目の前の事態を理解した。保身に汲々とする祥念を軽蔑しかけたが、 ――よく考えたら、檜垣祥念を笑えないわね。 権力者への阿諛(おべっか)という点では、祥念も自分も同じだ。 「半藤さんも、もしかして頭剃りに来たの?」 祥念に訊かれ、 「ええ、まあ・・・」 宗薫は言葉を濁した。 祥念の頭はすでに九割方、刈りあがっている。 「剃髪かい?」 店の主はぶっきらぼうに訊いた。 「ええ」 宗薫が小さくうなずくと、 「もうすぐこの尼さんの頭、終わるから、ちょっと待ってて」 最近はこうした門前町の床屋も、「清浄化」特需とでもいうべきか、男僧女僧がひっきりなしに頭を剃りにやって来るらしい。 だから自然、女の髪を剃ることにも抵抗がなくなり、接客もややぞんざいである。 宗薫はおとなしく待合席に腰をおろした。 理髪師は「仕事」をこなしていく。 バリカンで祥念の髪を一本残らず刈ってしまうと、タオルで蒸した。丸刈り頭が蒸されている間に、さっさと床の髪を掃き集め、容赦なくゴミ箱に捨てていた。 ――次は自分の番。 そう考えると緊張する。 理髪師は祥念の坊主頭にシェービングクリームをたっぷり塗り、剃刀でジリジリ剃りあげていった。 祥念はションボリと鏡を見ている。魔窟時代の威容は、もうない。 しかし宗薫の手前もあってだろうが、虚勢をはって、 「まあ、坊主頭も悪くはないわね」 などと言い、 「半藤さんはどうして剃髪するの?」 と訊いてきた。 「私?」 宗薫は言葉に詰まる。まさか「出世したいから」と本音を漏らすわけにはいかない。 「ちょっと思うところがあってね」 と思わせぶりなことを言って誤魔化した。 「ふ〜ん」 祥念は鏡越しに宗薫を見た。品定めでもするような視線だった。宗薫は思わずうつむいた。 祥念の頭が剃りあがった。 「寒い! 寒い!」 と祥念は大仰に首をすくめ肩をすぼめ、背中を丸めて、 「ああ、寒いっ!」 安っぽいローションの匂いをプンプンさせながら、床屋を飛び出していった。まるで水でもぶっかけられた野良犬のようだった。実際、「飼い主」だった町田桂月を失い、現主流派からも白眼視されている彼女は、寄る辺のない野良犬だ。 「さ、どうぞ〜」 理髪師の親爺は次の仕事の準備をはじめる。 ばさり、とカットクロスをかぶせられる。タオルが首筋に巻かれる。 ――いよいよだ。 と思うと得体の知れない戦慄が全身を駆け巡る。 理髪師がヘアゴムをとると、長い美しい髪が、肩にこぼれた。 「いいんだね?」 理髪師の最終確認に、 「はい」 と応える声が他人の声のように聞こえる。どうにも腹が据わらない。 そんな揺れる乙女心も知らず、理髪師はゆっくりした動作で、バリカンを持つと、スイッチをいれた。 ジジジジジ とバリカンがけたたましく鳴りはじめる。 ――っていうか、オジサン! そのバリカンはもしかして?! 宗薫はド肝を抜かれる。先ほどまで祥念の頭にあてていたバリカンではないか? ――ちゃんと洗浄してるのっ?! 祥念の髪の脂をたっぷり付着させたバリカンの刃、いやもしかしたらこの日ずっと、様々な客のフケや髪脂をつけたバリカンの刃が小刻みに振動している。 潔癖症なところのある宗薫はそれだけで、目眩をおぼえた。「清浄化」すべきなのは、本山内だけでなく、こういう部分もではないか。 スッと額の分け目の左側にバリカンがあてられる。理髪師の左手の五指が後頭部に添えられている。 ――うわっ、うわっ! ザシャアア、ジジ、ズシャアア、とバリカンが走り、髪がめくれあがった。そのまま頭の頂まで髪が押し運ばれる。バリカンの振動を頭の地肌に感じる。 長年慈しんできた髪がケープを流れ、 ばさり、 と床に落ちる。 あとにはクッキリと3mmほどの丸刈りのラインが残された。 ――やってしまった・・・ こうなっては、もう後にはひけない。 二刈り目が入る。ジジジ、ザシャ、ジャアア・・・また髪が押し上げられる。 丸刈りの部分が拡がった。 そこへ、 「ちょっと、アンタ!」 店の奥で女の声。理髪師のオカミさんらしい。 「なんだ?」 「いいから、ちょっと!」 理髪師はバリカンのスイッチを切ると、宗薫を残して店の奥へ入っていった。 逆モヒカンのまま、宗薫は放置された。 店の奥から夫婦の会話がきこえる。 「だから、やめろ、って言ったろ」 「仕方ないでしょ、花沢さんにはお世話になってるし」 「ああ、もう俺は知らねえよ」 「じゃあ、もう今度からアンタが全部やってよね!」 「だから、俺は知らん! 勝手にしろよ!」 何やら諍っている様子。 ――ちょっと! 夫婦喧嘩なら後にしてよ! 宗薫はあわてる。 鏡にうつる落ち武者頭の自分の姿の情けなさに、目を背けたくなる。やっぱり坊主なんかにするんじゃなかった、という後悔もあったし、こうなった以上早いとこ、坊主頭にして欲しい、というもどかしさもあった。 「この糞ババア!」 「なにさ、ロクデナシ!」 口論は永遠に続くかに思えた。 実際には3分ほどで済んだが、宗薫の内に秘めた自尊心を粉々にうち砕くには、十分過ぎるほどの時間だった。 「ああ、いいよ、いいよ! お前も俺が死んだら俺の有り難味がわかるよ!」 と言いながら理髪師が奥から出てきた。初めての剃髪なのに、状況は最悪だ。 「ったく、あのババア」 理髪師は怒りがおさまらないようで、それから髪を刈る間、宗薫はずっと彼の妻に対する憤懣を聞かされる羽目になったのだった。 「はあ、 「そうですよね 「ねえ 「大変ですね〜」 と相槌をうちながら、宗薫は泣きたい気持ちだった。 バリカンは理髪師の不機嫌に呼応するかのように、ヴィンヴィン唸り、ジョリバリと宗薫の自慢の髪を乱暴に食い散らしていった。 前頭部が丸まり、左サイドの髪が消え、続いて左の後ろ髪が刈られた。ズルズルと髪がカットクロスを流れ、白い床に墨汁をぶちまけたように落ち拡がる。 残るは右サイドの髪にもバリカンが噛り付く。ジャアアア、ジジジ、ジョリイイイイ、下から上へバリカンが何度か上昇し、髪がなくなった。 刈り残されて、チョビチョビと立ち退きを拒んでいる細かい毛も、バリカンは見事に削ぎ取っていった。 坊主頭になって丸顔の宗薫は、 ――お地蔵さんみたい! 言葉ではなく実感として、「頭を丸める」という慣用句が浮かんだ。 刈った髪はやっぱり無造作に廃棄された。ゴミ箱の中、転落した祥念の髪と、上を目指す宗薫の髪が入り混じっている。 熱いタオルで頭を蒸すと、理髪師が剃刀をとった。 ――ちゃんと洗ってるんでしょうね? 変な病気でもうつされてはかなわない。 ジ〜〜、と剃刀が入る。ジージー、ジージーと頭の肉が鉄と擦り合って鳴いている。青々とした地肌が外界に露出する。 「アンタ、惚れ惚れするような綺麗な剃り跡だねえ」 と剃刀を扱いながら理髪師が褒めた。 「そうですか?」 「ああ、やっぱり若い尼さんの青い剃り跡は、ゾクゾクするほど色っぽいやね」 そう言われると宗薫も満更ではない。 ――うふふ。 剃りあがった頭をなで、斜め45度の角度から鏡を見る。淫らな、と形容したいくらい薄緑色の陶磁器のような光沢とぬめりが目にも鮮やかで、なるほど、確かに妖艶な尼僧といった風情だ。頭、ヒリヒリするけど・・・。 気持ちが高揚しているせいか、寒さも感じない。 ――よし! 大仕事を終えたような気になって、意気揚々と床屋を出た。 頭を丸めた宗薫は早速、改革派の首領の一人、U師に接近した。 聡明で仕事もできる宗薫はその才をU師から愛された。U師が宗薫の身体まで愛するようになるのに、さほど時間はかからなかった。 自然の情で、U師と男女の仲になった途端、宗薫は豹変した。 U師を後ろ盾にして権勢を振るいはじめた。改革派の実権は宗薫が握った。 宗薫にとって目障りな僧や尼は、「清浄化」の名の下に処罰された。逆に彼女に気に入られれば、出世は思いのままだった。 「宗薫地蔵」と陰で呼ばれた。「お供え物」をすればご利益がある。山内の人間は争って宗薫に媚びへつらった。宗薫の許にはおびただしい「お供え物」が届けられた。 純粋に本山の「清浄化」を求めていた僧尼は失望して、山から去った。 山内に新しい権力者が誕生した。 それに対抗しようという動きもなかった。 本山には今日も信心深い善男善女が参拝に訪れている。 彼らは一様にご本尊様に手を合わせる。 ご本尊様は何も言わない。 ただ慈愛に満ちた眼差しを、拝む者たちに注いでいるだけだった。 (了) あとがき 「妙久さん」の番外編的な小説です。以前からずっと書きたかったネタです。ようやく書き終えて、満足しています。 ちなみにこの本山は架空のもので、実在しません(・・・とことわっていた方がいいな)。 トゥーマッチというか、お腹いっぱいというか、たぶん全部通して読むと剃髪の多さに胸焼けをおこしてしまう方もいらっしゃるかと思います。書いてる本人がお腹いっぱいです(笑) 好きなところをつまみ読みされた方がいいかなあ、と思います。 最後までお付き合い下さり、感謝感謝です! |