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物の怪、黄猿


 戸川忍群の頭領である女忍者、冴(さえ)が出家して尼になる、という噂に、忍びの里は大騒ぎとなっている。
 下忍頭の黄猿(きましら)も驚愕し、ともかくも事の真偽を確かめるべく、冴の館へと馳せ参じた次第である。
 冴はいた。
 庭に面した縁側で一人、爪を切っていた。表門から息せき切って飛び込んできた黄猿を一瞥すると、
「れいの件か?」
とうんざりしたような顔で訊いた。出家の噂を聞きつけて、あちこちから黄猿のように館まで真相を質しに来る者が大勢いるのだろう。
 しかしそんなことを斟酌している余裕は、黄猿にはない。
「はい!」
と大きくうなずき、
「出家なさるとのお話、まことでございましょうか?」
 前口上も省き、ズバリと訊いた。
「まことだ」
 冴は爪を切る手も止めず答えた。まだ三十路を過ぎたばかり。艶やかな黒髪や豊かな肉置き(ししおき)が男の劣情をそそらずにはいられない。
 それが出家などとは、
 ――勿体なや。
 思わず生唾を飲みかけ、
 ――いかんいかん!
 黄猿はすぐさま我に返った。
 そして、
「何ゆえ、尼になられるのですかッ!」
 詰るように訊いた。
 必死の形相の黄猿だが、冴は見向きもせず、
「裏にまわれ」
 サク、とまた爪を切った。
「井戸で水を飲め。顔と手足を洗え。少し頭を冷やせ。話はそれからだ」
 黄猿は仕方なく、言われたとおり館の裏へ行った。たしかにあわてていたため、顔も洗わず、手足も土まみれだった。それに、いくらあわてていたとはいえ、下忍頭の自分が頭領の館に表から参上するのは、身分上許されない非礼にあたる。
 ――冴様の仰るとおりじゃ・・・少し頭を冷やした方がいい。
 黄猿は井戸端で、ことさら大きな音をたてて、手や洗い足を洗った。
 バシャバシャと水音をたてながら、冴のことを考えた。
 冴は代々、戸川の忍者を束ねる長の家に生まれた。
 優れた頭領だったし、一人の忍びとしての技量も男が舌を巻くほどだった。
 黄猿は幼い頃から、冴に忍びの術を仕込まれた。
 冴の指南は厳しかった。
「違う! そのような動きでは敵に気取られてしまうぞ!
「何度言えばわかるのだ!
「呼吸をよめ! この小猿め!」
 何度も叱られ、小突かれた。
 叱られても小突かれても、黄猿は嬉しかった。美しい冴に稽古をつけてもらえることに、幽かな幸福を感じていた。
 黄猿十五のとき、
「今宵、我が寝所に来よ」
と冴は命じた。黄猿は高鳴る胸をおさえ、冴のもとに忍んでいき、そして、ひとつ臥所で寝た。
 冴が黄猿に自身を抱かせたのは色恋ではなく、忍びの術の指南の一つとしてだった。
 敵方の女と通じて情報を得、あるいは虚偽の情報を流し、あるいは女を言いなりにし、味方に仕立てあげる。そのためには女を悦ばせる閨房術は男の忍びには不可欠だった。
 黄猿の場合、頭領の冴が直々に男女の道を伝授した。
 冴は閨でも厳しかった。
「そうではない。女子はもそっと優しく扱うのだ
「急くでない。このようなザマで女子を骨抜きにはできぬぞ
「そうじゃ、ここで少し力を抜け。ああ、そうだ、そのように」
 黄猿は楽しむ余裕もなく、ただただ冴に指図に従い、初めて触れる女体に夢中で接した。冴は年下男を教え導きつつ、豊かな乳房を揺らし、長い髪を振り乱した。彼女なりに愉しんでいるふうでもあった。
 ことが果てると、冴は優しく黄猿の頭をなで、
「初めてにしては上出来だったぞ」
と珍しく褒めた。そして、
「明日も来よ」
と囁くように言った。
 閨での指南はひと月に及んだ。黄猿は冴によって女を知った。甘い唇、熱い体温、驚くほどに柔らかな肌、生々しい吐息、臥所を這う長く黒い髪・・・・・・。いまだに思い出す。忘れられずにいる。
 昼夜に渡る冴の指南と、生来の素質もあり、黄猿は若くして幾人もの下忍を従える頭となった。
 冴の命で城に潜り込み、敵情を調べ、合戦の際には下忍を従え撹乱工作を行った。
 戸川の黄猿は物の怪か?!
と忍びの間では知られ、恐れられていた。
 冴との「秘め事」は過去のことだ。それに色恋ではない。あくまで忍びの術の稽古だ。冴が閨で術を授けた男子は黄猿一人ではない。
 わかってはいる。
 わかってはいるものの、いざ冴が尼になると知れば黄猿の心中は穏やかではない。
 心を静めるため、時間をかけて手足を洗い、口をすすぐと館の裏にまわった。
 冴は小さな裏庭に面した縁に座り、黄猿を待っていた。
「来たか」
「はっ」
 黄猿は地に片膝をついて、冴を拝した。いつもは、この場所でこのようにして冴の指図を仰いでいる。
 が、今日の用向きは違う。
「尼になるとは本気で仰せですか?」
「ああ」
「何ゆえに?」
「聞きたいか?」
「是非とも」
 冴はしばらく黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「先だって、坂元の間者が我が里に入り込んだのは存じていよう」
「はっ」
 戸川忍群は昔から秋月家のために働いてきた。
 坂元家は秋月家とは表向き友好を保っていたが、内心では秋月領を狙っていた。そのため近頃秋月領内に多くの間者を潜り込ませているらしい。
 先月、ついに、秋月方の目となり耳となっている戸川忍群の本拠地まで、間者を差し向けてきた。
「それを私が自ら斬った」
と冴は言った。黄猿は黙って聞いている。
「間者は三人、中の一人はまだ十五、六の小僧だった。覆面を剥ぎ取ってみて、まだ童臭い死に顔があらわれたときは、ゾクリとした」
「お、お待ち下され」
 黄猿はせっかちに冴の言葉をさえぎった。
「よもや、その年若の間者を憐れんで、御出家なさるおつもりか」
「まあな」
「莫迦な!」
 黄猿は冴の袖にすがらんばかりに、前のめりにいざりよった。
「殺生は我ら忍びの宿命(さだめ)ではございませぬか! 冴様もそれがしもこれまで何人も人を殺めてきたはず。数多の仲間の忍びたちの死にも立ち会うても来たはず。いまさら年若の、しかも敵方の忍びを斬ったからとて、御出家なさるとは道理に合いませぬ」
「道理に合わぬことはわかっておる。だが、あいつの死に顔を見たら無性に尼になりたくなったのさ。尼になって、あいつの・・・あいつだけでなく今まで殺めてきた敵、死なせてしまった味方の菩提を弔いたくて仕方なくなった。理屈ではない。まあ、これが道心というやつだろう」
 お前にはわからぬさ、と冴はさびしげに笑った。
「何卒、お考え直し下さい」
「できぬ。もう決めたのだ」
「頭領がいなくなれば戸川の里はどうなるのですか!」
「私の跡ならば甥の平蔵に任せる」
「お言葉ですが、平蔵様はまだお若うございます」
「私とて女の身で十八になるかならぬかの頃から戸川の里を統べてきた。平蔵にできぬはずがない」
「仏門入りのこと、今一度、御再考願わしゅう――」
「くどい!」
 冴はもう耳を貸さなかった。
「これより西蔵院に参る。そなたも供をせよ」
 有無を言わせぬ語勢に、黄猿もただただ首を垂れるしかなかった。

「和尚、いるか」
と現れ、ズカズカと庫裏に入ってきた忍びの頭領に、温厚そうな住持は、
「おや、これは珍客珍客」
と笑顔で迎え、
「麦湯と・・・干し柿があったろう、あれを持って参れ」
 如才なく小僧の一人に命じた。
「湯茶の接待ならば無用だ」
 冴はどっかりと板の間に腰をおろすと、
「和尚に是非頼みたいことがあってな」
 性急に話を切り出した。
「はて、何事でござるかな?」
「この日本国の尼の数を一人増やして欲しいのよ」
「ほほう」
 老僧は微笑した。
「で、どなたが尼になられるのかな?」
「この私だ」
「おや、まあ」
 さすがに老僧は絶句した。忍びの者が出家するなど、この辺りでは聞いたことがない。
「何ゆえ尼になられるのか?」
と問われ、
「皆、同じことを訊くのう」
 冴は苦笑した。
「人を斬った。斬って世の無常を知った。知ったからには尼になる以外の生き方は思いつかぬ」
「冴殿は戸川衆の頭領でありましょう。跡目は如何なさる?」
「甥御に継がせる。甥御に頭領の器量がなくば、力ある者が代わって束ねていくだろうさ。それが忍びの世界だ」
 供として傍に侍る黄猿は二人のやりとりを苦りきって聞いている。
 さすがに、
「男はどうなさる?」
「断つ」
という問答には、心が波立たずにはいられなかった。
「これは勿体ない。まだまだ若やいでおられるのに。拙僧があと十年も若ければ、放ってはおかぬ、それぐらいのお美しさじゃ」
「だから十年待ったのだ」
 冴の冗談に住持は声をたてて笑った。しかし、すぐ真顔になると、
「お髪(ぐし)はどうなさる?」
 これが本題とばかりに低い声で訊ねた。黄猿も思わず身を乗り出す。
「無論」
 冴はニヤリと右の掌を髪にあて、
「頭は丸める」
 スッと掌を動かし、頭を丸める仕草をしてみせた。
 ――なんたることじゃ・・・
 黄猿は全身から力が抜けていくのをおぼえた。剃髪の件は薄々は覚悟していたが、実際に冴の口からそのことが出ると、ため息がこぼれる。
「ほれ」
と住持はからかうように言った。
「お供の方もため息をついてござる。法名だけはお授けしましょう。髪の有るまま、尼になられよ。そして頭領もそのまま、お続けになられればよい」
「それでは出家の意味がないではないか!」
 冴は怒号した。
「頭領の座も男も私財も髪も一切を捨て、きれいさっぱりとなって、御仏にお仕えしたいのだ!」
「なるほど」
「否というならば、他の寺に行くまでよ」
「いや、承知仕った」
「得度させてもらえるのだな?」
「はい」
「これは嬉しや」
「お髪のこと、まことによろしいのですな」
 豊かな黒髪をためつすがめつして、僧は念を押した。
「ああ、遠慮のう剃りあげてくれ」
「坊主頭に拳固は痛うござるぞ?」
「和尚は拳固を食らわせるのか?」
 冴は目を丸くした。
「勿論」
 僧は重々しくうなずいた。
「一郷の地頭といえど当山で出家する以上、小坊主同様に扱わせていただきます。炊ぎ事、掃除などの雑事は当然、やっていただきます。失敗じれば拳固、怠ければ拳固、悪さをすれば拳固。容赦はいたしませぬぞ。それがお気に召さぬというならば、どうか他所の寺へお行き下さい」
「いや、むしろ望むところよ」
 冴は悠然たるものだ。
「還俗などという見苦しい真似は、当山の不名誉になりますゆえ、くれぐれもなさらぬように」
「無論、覚悟の上だ」
「得度の式は如何なさる?」
「すぐにでも」
と勢い込む冴だが、
「それはいかぬ」
 僧は首を振った。
「こちらにも支度がある。冴殿にとっても生涯一度の大切な儀式じゃ。縁のある方々をお招きして、それ相応の形で行わねば」
「形などどうでも良いではないか」
と冴は抗ったが、こちらは住持の言い分が通って、得度式は七日後、人を集めて執り行われることに決まった。

 黄猿は憂鬱な足取りで家路についた。
 ――何たること・・・何たること・・・
 つい舌打ちが出る。ため息が出る。
 家の前に、人影があった。
「誰だ?」
 誰何すると、
「俺じゃ」
 人影は答えた。女の声だった。
「なんだ、緋鳥(ひどり)ではないか」
 配下の女忍びだった。
「緋鳥では悪かったか?」
 緋鳥は肩をいからせて、怒る真似をした。長い髪を後ろで束ね、狐皮の胴着を着て、腰には武骨な大小をぶち込むように差している。
 勝気で快活な少女で、主の黄猿にも乱暴な口をきき、生真面目な黄猿をしょっちゅうからかっては楽しんでいた。
 そのお転婆娘が熱っぽく、満身に決意をたぎらせ、
「お頭、今度の戦、是が非でも俺を連れていってくれ!」
「女子が“俺”などと申すものではない」
「まぜっかえすな」
 緋鳥はふくれた。
「今度の戦に連れていけと頼んでおるのじゃ」
「ならぬ」
 黄猿は一顧だにしない。
「次の戦では我らは陣働きをせねばならぬ。女子のお前を連れてはいけぬ」
「そのような口舌、もう百万遍も聞いた!」
「お前が百万遍も言い募るからではないか」
「お頭!」
「帰れ。ワシは疲れている」
「疲れている?」
 ふふん、と緋鳥は意地悪く笑った。
「おおかた、冴様の出家のことで右往左往しておったのだろう?」
「帰れと申すに!」
 図星をつかれ、黄猿はあわてた。
「知っておるぞ、お頭は冴様に懸想なされておるのじゃ」
「そのようなこと、あるものか!」
 撥ね付けながらも、声がかすれた。
「まあ、いい」
と緋鳥は肩をすくめた。
「それよりも今度の戦のことじゃ」
 黄猿は噛んで含めるように緋鳥に言い聞かせた。
「今度の戦は生きては帰れぬことになるやも知れぬ大戦だ。それに男ばかりの陣中に女子を連れていけば無用の嫌疑や摩擦が生じる。なあ、緋鳥よ、聞き分けてくれ」
「生きては帰れぬかも知れぬ戦だから、付いていくのじゃ!」
 緋鳥は身悶えせんばかりに叫んだ。
「俺は・・・」
と言って口ごもった。自分の内にある正体のわからない気持ちを言葉にしようと、懸命に搾り出そうとしているようだった。
「俺は死んでも構わぬ!」
 それが緋鳥の口から出た言葉だった。
「そして・・・死ぬならお頭と・・・お頭と共に枕を並べて討ち死にしたい!」
 そう言って頬を染める緋鳥に、黄猿はしばし言葉を失った。
 しかし、
「許さぬ」
 心を鬼にして突っぱねた。
「お頭・・・」
「先程も申したとおり、女子は陣中には入れぬのだ」
「もうよい!」
 緋鳥は目に涙をためて走り去った。
 黄猿は天を仰いだ。いつの間にか星が出ている。
 ――明日も晴れるなあ。
 心の中に突如割り込んできた緋鳥の面差しを振り払うかのように、無理やり他愛のないことを考えた。

 得度式当日、西蔵院の本堂には、仏殿には似合わぬ武骨な男たちが参集していた。
 彼らは皆、忍びの者たちだった。中には冴と同様に忍びの者を統べる頭領衆の姿もあった。
「まさか、冴殿が出家するとはのう」
 髭面に毛皮の羽織を来た荒男がニヤニヤ笑いながら言うと、
「まったく、まったく」
 小太りの男が和した。
「どういう風の吹き回しやら・・・。酔狂にも程がある」
「まだ女盛りというに、あな勿体なや勿体なや」
「あの腰のくびれ具合を思い出しただけで、唾(つばき)が出るわい」
 一座の者たちは、どっと笑った。
 居並ぶ忍び衆は、冴の出家を面白がっている。
 末座に座る黄猿は苦々しい思いで、参列者たちの軽口を聞いている。
 ――少しは慎まれよ。
 そう言いたい。
 しかし、軽口はやまない。
「あの男勝りの冴殿がツルツルの坊主頭になるとは」
「しかも、小坊主から修行なさるとか」
「わっはっは、笑うてしまうなあ。狂言の太郎冠者でも敵わぬ」
 ――狂言か・・・。
 出来れば全てが一場の狂言であって欲しい。
 そんな黄猿の思いをよそに、式ははじまった。
 白い装束を身にまとった冴が、侍僧に導かれ現れると、さすがに座も粛然とした。髪はいつもより艶々と輝くよう。おそらくは昨夜、糊を使い丹念に洗いおさめたのだろう。名残を惜しみつつ。
 黄猿は冴の女心を垣間見た気持ちだった。
 冴が仏前にすすみ、端座する。
 冴と仏の間には住持がいる。
 ここで得度を授ける者、授かる者の間で問答が取り交わされる。
「今汝が為に頂髪を剃除せんや否や」
 厳かな声で問う住持に、
「唯、願わくは剃除し給え」
 冴が型通り、凛とした声で応じ、すぐに浄髪の儀が行われた。
 水をはった盥が運び込まれ、衆人が見守る中、冴の髪は落とされた。
 まずは鋏で切られた。
 住持は冴の背後にまわると、肩から背に垂れる長い髪を一房握り、鋏を入れた。
 ジャキ、ジャキ
 そして、摘んだ髪を侍僧の捧げ持つ白木の三宝の上にのせた。
 黄猿は煩悶のあまり叫びそうになるのを堪えていた。
 その反面、目を閉じ合掌したまま身じろぎもせず髪を切られている冴の美しさに、震えるほどの欲望をおぼえる自己を持て余してもいた。
 鋏はさらに、髪に入れられる。
 ジャキ、ジャキ、ジャキ、
 一房、また一房と三宝の上に髪は積もっていく。
 油を含んだ豊かな髪は鋏を拒み、ギチギチ啼いた。冴の思いとは裏腹に、髪だけは、
 そう易々と女子であることを捨てるものか!
と別の生き物の如く抗っているかのようだった。
 しかし住持は容赦なく鋏を動かして、腰まで届く黒髪を収奪していった。
 冴の髪は首のあたりで揃えられた。
 禿髪(かみろがみ=オカッパ)が水でたっぷりと湿される。
 続いて住持は剃刀をとった。
 そして冴の左の鬢にあてると、ゆっくりと後ろにひいた。
 ジリリ、ジ、ジ、ジイィー
 肉と鉄がこすれる音をたてながら、髪が剃刀に貼りつき、頭から剥がれ落ちる。落ちた髪を侍僧が拾いあげ、新しい三宝にのせる。
 住持はさらに、剃った。
 ジイー、ジ、ジ、、ジィィィィー
 ジ、ジ、ジィィィィ
 忽ち左鬢は三宝の上に骸となって横たわり、青い頭皮のみが残された。
 剃刀は今度は額の左側にあてられた。それを住持は頭の頂に向けてひいた。
 ジジ、ジ、ジィィィー
 ハラリ、と、また黒髪がこぼれる。そして、またハラリ、と落ちる。
 この間、小坊主たちは剃髪偈を朗々と誦している。これから自分たちの「妹弟子」になる三十女の出家を祝うかのように、底意地悪く楽しむかのように。
 ハラリ、ハラリ、と髪は落ち、とうとう冴の髪は右半分を残すのみとなった。
 住持は剃刀を動かして、右の鬢を削いだ。ジ、ジ、ジィィー。髪が薙がれ、冴の肩に降り落ち、パサッと音を立てる。
 僧は手首のみを動かし、見事な剃刀さばきで、ジィィィ、ジィィィィ、と右鬢が剃られていく。
 冴の頭が丸くなった。
 何筋もの髪が三つの三宝に山となっている。
 住持は念入りに丸い頭にさらに剃刀をあてる。左の五指で頭の頂きをおさえ、右手で、ジージージー、ジージージーと後頭部を上から下に剃り上げた。そして、前頭部も両脇も丹念に剃り上げた。
 ――見事な!
 黄猿は住持の剃刀さばきに感嘆した。同時に瞑目したまま、眉ひとつ動かさず恬淡と剃髪を終えた冴の態度にも、感動した。
 頭を丸めると冴には腰衣が与えられた。冴はそれを着けた。上は白衣、下は黒の腰衣という小坊主の姿になった。
 小坊主姿の冴は仏の前に跪いて、その身を投げ出すようにして拝礼する、いわゆる五体投地を形式通り繰り返した。
 尼が一人、誕生した。
「見事、見事!」
 それまで気圧されて、しわぶきの声すら遠慮していた列座の忍び衆だったが、式が一段落し、緊張から解放されると、手を拍って冴を囃す者も現れた。
「ああ、何やらスースーするぞ」
 冴も神妙な態度からコロリ一転、茶目っ気たっぷりに青白い頭をなでまわした。盥の水をのぞきこみ、小坊主になった自己を確かめると、
「これは妙、これは妙」
 小娘のように、はしゃいでバシャバシャと乱暴に坊主頭を洗った。
「えも言われぬ心地ぞ」
 さらには、
「青大将! 馬を借りるぞッ!」
と言い捨て、頭領衆の一人の持ち馬に乗り、寺を飛び出していってしまった。
「やれやれ」
 一同、呆れるやら、おかしいやらで、黄猿も、どっと疲労をおぼえた。
 だが疲れている場合ではない。
 小坊主たちが運び去ろうとしているもの、それが黄猿の奥底に眠る情念を激しくかきたてた。黄猿はそっと座を外すと小坊主たちの後を追った。
「待たれよ」
「何か?」
と振り返る小坊主たちが持つ三宝、その上には冴の捨て去った豊かな黒髪がたっぷりと載せられている。
「そ、それは――そのお髪は一体、どうするのじゃ?」
 自分を抑えきれず訊ねた。
「ああ、こいつですか?」
 「こいつ」と小坊主は興もなげに言った。里の男たちが羨望の眼差しで眺めていた丈長く美しい黒髪は、もはや単なる物体となり果て、小僧たちに淡々と取り扱われている。
「箱か壷にでもおさめて、土に埋めます」
 小坊主は冷ややかに答えた。
「そ、それを、わ、わずかで良い、分けてはもらえぬか?」
 気がつけば、自分でも驚くようなことを口走っていた。
「このようなものを御所望なのですか?」
 小坊主たちは一様に首を傾げている。
「是非」
 黄猿は懸命に頼んだ。
 黄猿の必死さに、
「はてさて」
「どうしたものでしょう」
 日頃、大人たちの応接をしている小坊主どもは狡猾だ。黄猿の足元をみて、渋ってみせた。
「ただでとは言わぬ」
 黄猿は小僧たちに銅銭を握らせた。
 それならば、と小坊主たちは勿体ぶりつつ、一束の髪を黄猿に渡した。黄猿はそれを懐にねじこみ、
「このこと、くれぐれも内密に、な」
 念を押すと、怪訝そうな視線から逃れるように、そそくさと席に戻った。

 一刻(2時間)ほど経ち、夕暮れ時近くになって、ようやく冴は寺に帰ってきた。
「どこへお行きだったのじゃ?」
「こちらはとんだ待ちぼうけよ」
と列席者にひやかされ、冴は坊主頭をかきかき、
「出家した姿を近郷近在の者たちに見せたくてな」
「皆、さぞ驚かれたでしょうなあ」
「驚いたとも」
 事情も知らず田畑を耕していた百姓たちも、青々とした坊主頭に小僧の衣装をまとった冴に仰天して、
「“そのお姿は?”と問うので、“これよりは御仏にお仕えする尼となりました”と殊勝な物言いで合掌してみせたら、皆、狐にでも化かされたような顔をしておったぞ」
 冴は呵呵大笑した。
 そこへ、
 ゴツン!
 剃りたての頭に住持の拳固が振り下ろされた。
「痛っ!」
 思わず悲鳴をあげる冴に、
「このタワケ奴が!」
 住持の大音声が響き渡った。
「わざわざ、そなたの為に参られた方々をお待たせするとは何事か!」
 殴られて冴は、
「確かに坊主頭に拳固は染みとおるように痛い」
と顔をしかめた。
 冴のぼやきに列座の者たちは危うく笑いそうになったが、住持の手前、堪えた。
「許せ、和尚」
 冴は詫びたが、住持の叱責はおさまらない。
「それが師に対する言葉か! それに和尚ではなく、お師匠様と呼べ」
「はッ、申し訳ありませぬ、お師匠様」
と叩頭する冴の頭上から、住持の叱声が飛ぶ。
「では、冴、さっさと水を汲み、この仏殿の床を磨くのじゃ」
「はいっ!」
 黄猿も他の忍び衆も、他人から指図される冴を初めて目の当たりにして、衝撃を受けた。
 冴は一介の小僧となって、他の小僧たちにたち混じり、こまごまと働きはじめた。
 この光景に、忍びの者たちは、
 冴殿は出家なされたのだ
と改めて実感したのだった。

「では、これにて失礼いたす」
「さらばでござる」
「たまには里にも顔を出して下され」
 列席者たちは次々と別れの言葉を口にして、寺を去った。
 黄猿も去った。
 懐にしまった一房の髪が何やら重く、熱く、まるで奇妙な獣の子供でも抱いているような異物感があった。
 ――このお髪の香りを嗅ぎたい!
 無性に思った。
 おそるおそる懐に手を入れ、髪束を取り出そうとしたとき、
「お頭」
 行く手に緋鳥が立っていた。
「おお、またお前か」
 黄猿はあわてて髪を懐の奥へと押し込んだ。
「何度頼んでも無駄だ。陣中に女子は連れていけぬ」
「わかっておる。だから――」
と網代笠をとった緋鳥に黄猿は息をのんだ。
 緋鳥は、青々と月代をそり、髪を茶筅に結い上げていた。
「これならば女子とは思われまい?」
と片目をつむってみせる緋鳥に、
「たわけが」
 黄猿は舌打ちした。
「やってしもうたのか」
「やってしもうた」
 緋鳥は頬を紅潮させ、破顔した。
「よもや、これでも連れていかぬとは言うまいな?」
「ああ、わかった。連れていこう。ただし――」
「ただし? なんじゃ?」
「そなたと枕を並べて討ち死には御免だ」
「なんじゃと!」
 目を剥く緋鳥に、
「共に生きて帰ろうぞ」
 黄猿は優しく笑ってみせた。
「嬉しや」
 緋鳥は黄猿の胸に顔をうずめた。黄猿はその肩を抱いた。

 その夜、黄猿は囲炉裏で冴の髪を焼いた。
 髪は炎の中、音をたててはぜ、反り返って、縮み、めらめらと燃えていった。異臭が辺りに漂った。
 黄猿は髪が燃え尽きるのを、凝と見つめていた。
 冴との別れの儀式のように思えた。


 ソシテ・・・ハジマリ・・・



(了)



    あとがき

「乱世東国戦記」シリーズの第4弾です。
元々は中学のとき、書いた小説もどきを下敷きにしています。忍者の女頭領の出家に心惑う配下の忍者の話。かなりマセてたんだなあ、と我ながら思う・・・。
「篠塚優子」「誕プレ」「水魚の交わり」「岩倉理子」「妙久さん」と迫水作品の中で繰り返される「年上の女性の断髪にドキドキする男の子(女の子)」というモチーフは中学時代まで遡れるんだなあ(しみじみ)。なんでだろ、自分でもよくわかりません。
もともと素朴な「原作」に、閨での指南ネタや拳固ネタ、秋月家と坂元家の抗争などいろいろ膨らませて、それと緋鳥という女忍者も新たに登場させました。
緋鳥のシーンは一旦書き終えた後、後から挿入しました。華が欲しかったし、黄猿も報われないままではさびしいし、それとコウキさんの開拓しつつある「丁髷萌え」に便乗しようという下心もあり(笑)(なんか掲示板みたら迫水の名前が出てて驚いた! ごめんね・汗)
ともあれ、完成に漕ぎ着けられてよかった、よかった(^^




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