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迷宮を抜けて、


「恵美! 恵美!」
 母の声がする。
 恵美は暗い納戸の中で息を殺している。
 本当は家の外に逃げ出したい。
 でも五年もの間、自宅に引き篭もり続けていた恵美は、どうしても家から出られず、こうして母の目を盗んで納戸に身を隠しているのだった。
「恵美! いるのはわかってるんだよ! 出てきなさいっ!」
 母の声は段々ヒステリックになり、母の足音はどんどん近づいてくる。
 引き篭もっていた五年間、美容院に行かずじまいだった恵美の髪は伸びに伸びた。狭い納戸の中、膝をかかえ小さくなっている恵美の身体は、その長い髪に包み込まれ、まるで藁ぼっちのようになっている。
「恵美ッ!」
 ぐぁらり
と納戸の扉があいた。その途端、バッと光が差し込み、恵美は目が眩みそうになった。
「あっ」
 見つかった恵美は反射的に母の横をすり抜け、逃げ出そうとしたが、
「待ちなさいっ!」
 ぐっ
と襟首を掴まれてしまった!
「は、は、離して!」
「ダメよ」
と首を振る母の左手にはホームバリカンが握られていた。最近、近所のホームセンターで買ったものだった。
「い、嫌ッ!」
 恵美は懸命にかぶりを振った。
「今更嫌だなんて言わせないわよ!」
 母は夜叉のような形相で叫んだ。
「死んだお父さんと約束したでしょ! お母さんと二人で尼さんになってお寺を守っていくって」

 恵美の父は先月この世を去った。
 住職でもあった父は病床で、お寺のこと、残される家族のことを絶えず心配していた。
「お寺のことは心配しないで」
と妻は夫にキッパリと言った。
「あなたに万が一のことがあれば、私が出家してお寺を守ります」
「すまん」
 夫は痩せ衰えた腕をあげ、妻の手を握った。しばらく二人で静かに泣いた。
「もうひとつ心配なことがある」
と夫は言った。
「恵美のことでしょう?」
 妻もわかっている。
「ああ、そうだ」
 夫はうなずいた。
 一人娘の恵美は中学一年のときから、学校に行かなくなった。
 以来ずっと部屋に篭りきり、漫画を読んだりテレビゲームやネットをしたりして毎日過ごしていた。
 両親に命じてお菓子や漫画を買いに行かせた。
 たまに両親に意見されたり、気に入らないことがあると、
「うるせえ!」「コノヤロウ!」
と物を投げつけ、壁をガンガン叩いて、手がつけられなかった。
「あの娘のことを思うと死んでも死にきれん」
と弱々しい声で嘆く夫に、
「大丈夫よ」
と妻は意を決したように言った。
「恵美も尼にします」
「ホウ」
 夫の目が微かに見開かれた。
「私と恵美、尼になって、母娘でお寺を守ります」
「それはいい」
 夫はか細く微笑しながら言った。それが最後の言葉だった。二時間後、清修寺住職・藤崎妙玄は帰らぬ人となった。

 恵美は父の葬儀にも出なかった。
 本当は出たかったのだが、人が大勢集まるところに顔を出す勇気は、とてもなかった。
 父の死は悲しかったが、正直言って、実感がわかなかった。これから自分はどうなるのだろうという不安もあった。

 葬儀が終わり、一週間ほど経って、母は恵美を仏間に呼んだ。
 その場で母は「自分が尼になって寺を継ぐ」と宣言した。そして、
「恵美」
 恵美がこれまで見たことのない厳しい表情で、
「お前もお母さんと一緒に尼さんになりなさい」
と言った。
 恵美は天地が裂けでもしたかのように狼狽した。
 度を失い、
「イヤだッ! 尼さんになんかなりたくないっ!」
と必死で反発して言い募ったが、母は許さなかった。
「もうこれまでみたいな甘えた生活はできないし、させないからね」
と厳しい口調で言い渡した。「優しいママ」はもはやいなかった。
 それでも仏門入りを嫌がる恵美だったが、
「これはお父さんの遺志でもあるのよ」
と言われると、さすがに沈黙した。そして、うち萎れたまま、母とともに尼になることに同意した。

 恵美の出家も決定し、母はテキパキと尼になる準備をはじめた。
 まず檀家に出家の意思を話した。そして、大きな寺に修行をさせてもらうよう頼んだ。出家や修行のために必要な書類や衣類、道具も整えた。
 こうなっては恵美も覚悟を決めた。
 これも運命、やってやる!と。

 しかし、その覚悟も脆くも崩れた。修行に入る前日のことだった。
 明日からの修行のため、母は鏡の前で自らバリカンをとって、長めだったパーマヘアーをゾリゾリと刈り落としていった。
 母は無表情で黙々と、自分の頭にバリカンを走らせる。微塵の躊躇いもなかった。
 バサリ、バサリ、と母の女の命が肩に、背に、畳の上の新聞紙に降り積もっていった。バサリ、バサリ・・・。
 そんな母を見て、
 ――アタシもあんなふうに坊主頭になるんだ!
 恵美は背筋を凍らせた。
 一時間かけて母はバリカンと安全カミソリを使い、独力で自分の頭を青く丸く剃りあげた。
 最後に鏡で坊主頭を念入りに確認し、
「これでよし」
 剃りたての頭を、つるり、とひと撫でして、初めて微笑した。
 そして、
「恵美」
と娘を振り返った。
「次はお前の番だよ」
「え? あ・・・あ・・・う、うん・・・」
 恵美は顔をこわばらせた。坊主頭になるなんて死んでも嫌だ! そう思った。
「さあ、ここに座りなさい」
と母に急かされ、
「ちょ・・・ちょ・・・ちょっと待・・・」
 狼狽した。逃げ出したい衝動に駆られた。
「ちょ・・・ちょっとトイレ、行ってくるから、ま、ま、待ってて」
 足早にその場を逃れた。
 玄関にある自分のサンダルを隠した。屋外に逃げたように偽装し、奥の納戸に身を隠した。後先など考えている余裕もなかった。ただ母の手にしているバリカンから逃れたい一心だった。
 母はすぐ恵美が逃げたことを察知した。
 偽装工作はあっさり見破られた。
 隠れ場所も容易く見つかってしまった。
「嫌っ! ボウズなんて絶対嫌っ!」
 恵美はあらん限りの力をふるって抵抗した。
 しかし学生時代、女子柔道でインターハイにまで出場した母にかかっては、蟷螂の斧だった。
「いい加減にしなさいッ!」
 母は右腕で恵美の首をしめあげた。つい今しがた自分で自分の頭を坊主に剃りあげた昂奮もあったし、不甲斐ない娘に対する怒りもあり、かなり感情的になっていた。
「やめろよ! やめろっ!! 触るんじゃねえ!!」
 ジタバタと腕の中で娘がもがくのを、無理やり剃髪の準備のしてある仏間へと引きずっていった。
 とうとう恵美は父の遺影の前に引き据えられた。
「やめろよ! やめろッつってんだろ!!」
 往生際悪く暴れる娘を押さえつけ、その身体にケープを巻きつけると、母はバリカンのスイッチを入れた。
 ブイイイイイイイイイイイイイイーーーン
「ひいっ」
 思わず悲鳴をあげる恵美。
「お母さん! お母さん! お母さん! や、や、や、やめてええええっ! か、堪忍してえええええええ!」
 母もすっかり常軌を逸している。
「こんな髪はね、こんな髪はね――」
 こうしてやる!と憤りをこめ、唸りをあげるバリカンを恵美の額にあて、
 ジジジジジジジジジジーーーーー
とツムジまで刈り込んだ。
 ドッバアアア
と目の前に落ちてきた黒い塊に
「きゃあああ!!」
と恵美はさらに悲鳴をあげる。
 髪を振り乱し、もがきにもがくが、母は娘をガッシリと押さえつけ、また、
 ブイイイイイイイイイイイイイン
と狩猟に満足せず鳴くバリカンを、今度は耳の上にあて、
 ジジジジジジジジジイイイイイイ
と座ると畳につくほど長いヒキコモリヘアーを剃った。
 バサリ、と1mはあろうかという髪束が畳に散った。次にコメカミにバリカンがあてられる。ブイイイイイイン、ジジジジジイイイイ・・・
「ふざけんじゃねーよ! 畜生、畜生ッ!」
 頭を刈り散らされ、恵美は目に涙をあふれさせて激しく悪態をつくが、
「恵美! お父さんが見てるよ! みっともない真似はやめなさい!」
 母にそう言われて、シュンとなった。
「見なさい」
と母は刈り取った髪束を恵美の目の前に突きつけた。
「ひっ」
 思わず目を背ける恵美だが、
「ちゃんと見なさい!」
と母は叱った。
「この髪」
と母は言う。
 ヒキコモリになる前までは恵美はショートカットだった。
「この髪の長さが、お前が外の世界から目を背けていた歳月の長さなんだよ」
「・・・・・・」
 恵美は涙で顔をグシャグシャにしながら、枝毛だらけの少し赤茶けた髪束を見た。
 母は散髪を続ける。
 ブイイイイイイイイイン
とバリカンがまた入る。右側を剃り上げる。ジョリジョリと剃り上げる。
 長い髪がバリカンの刃にひっかかって、
「痛い、痛い!」
と娘が悲鳴をあげてもお構いなしに、その身体を押さえ込み、容赦なくバリカンを走らせる。そして、まずは右半分を坊主頭に刈りつめた。
 続いて左の髪にバリカンが入った。ブイイイイイーーーン!!
 ググ〜、と鬢が持ち上がり、グシャ、と丸まり、バサッ、とケープを叩く。
 母はバリカンを左の鬢にあて、上から下へ、二度、三度、四度、五度、と押し上げた。
 ジョリジョリジョリイイイイーーーー!!
 ジョリジョリジョリイイイイーーーー!!
 ジョリジョリジョリイイイイーーーー!!
 バリカンの動きに合わせ、長い髪が剥がれて、浮き上がり、落ちる。あとには刈られそこなった髪と青い地肌のストライプ。そんな無残なトラ刈り頭を母は、今度は丁寧に刈っていく。そして最後に襟足。

 恵美をもう泣いてはいなかった。
 チョイチョイと指で涙をぬぐった。
 正直、悲しい。
 でも、こうしてすべての髪を落としきった今、どこかせいせいした気持ちもあった。
 うまく言えないけれど、今までずっと迷宮を彷徨っていて、ポン、と出口を見つけ出したような、そんな気分。
 見つけた出口まではまだまだ遠い。いっぱい歩かなくちゃならない。それでも歩いていけば、やがて出口に辿り着けるだろう。
 出口に何が待っているかはわからない。
 あるいは出口と思っていたのは単なる錯覚だったのかも知れない。
 でも、と恵美は顔をあげる。
 ただひとつ、現在(いま)確かに思うことがある。
 ――もう迷宮に逆戻りしたくはない。
 すでにバリカンカットは終わり、母はシックの二枚刃で恵美の頭を、ジ、ジ、ジ、と剃っている。恵美の態度の変化に呼応して、彼女も娘の身体をすでに解放していた。
 丸刈りから剃髪へ。恵美の頭はみるみるうちに尼さんらしくなっていった。
「お母さん」
「なに?」
 母は剃刀を洗面器の水に浸しながら、訊いた。さっきまでとはうって変わって柔らかな声だった。洗面器の水には、砂粒のような毛屑が浮いたり沈んだりしている。
「アタマの形・・・」
「え?」
「私のアタマの形、変じゃない?」
「変じゃないよ」
 母は答えた。やっぱり優しい声だった。
 ジイ、ジイ、ジイ、と剃刀と頭皮が擦りあう音。確かに軽くなった。確かに涼しくなった。
「これでオシマイ」
と母は熱い蒸しタオルで、キュッキュと恵美の頭を拭きあげた。
「鏡」
「ん?」
「鏡、見せて」
 母は黙って娘にハンドミラーを渡した。
 恐る恐る覗きこむ。
 鏡の中には可愛らしい小坊主さんがいた。頼りなげで、でも清げで初々しい小坊主さん。
「結構似合ってるかも」
初めて見る坊主頭の自分にはにかんで笑う娘に、
「似合ってるわよ、恵美」
と母も笑顔で太鼓判をおす。
 母娘ふたり、落とした髪を集め、霊前に供える。そして手をあわせ、修行の無事を祈った。
「お母さん」
「なに?」
「修行、がんばろうね」
「そうだねえ」
 ――お父さん・・・
 あの世の父に呼びかける。
 ――どうか私たちを守ってください。

 それから三年の歳月が流れた。
 母は住職として、寺を切り盛りしている。
 「女の住職なんて」とあまりいい顔をしなかった檀家のお年寄りたちも、今では女性ならではの物腰の柔らかな新しい和尚さんにすっかり親しんでいる。すべては順風満帆・・・。
 恵美はどうしているかといえば――
「お母さん、塔婆書き終わったよ」
 尼僧として母をしっかりサポートしている。
「あら、ごくろうさま」
「明日の法要の準備もしないとね」
「そうだねえ」
 坊主頭の母娘はうなずき合って笑う。
「その前にお茶にしようか」
「いいね!」
と頂き物の最中を食べる。食べながら、
「恵美」
「なあに?」
「お前、近頃“良い人”ができたらしいじゃない」
「なんで知ってるの?!」
 恵美は目を瞠った。
「尼さんの情報網を甘く見ちゃダメよ」
 それに、と母は言い添える。
「この頃のお前を見てればわかるよ。なんたって私はお前の母親なんだからね」
「あははは、バレてたのたか」
 おどけて肩をすくめてみせる恵美。
 最近、仏教青年会で知り合った若い僧侶だった。自分で言うのもアレだが、なかなかハンサムな好青年だ。お寺の出身ではない。それだけに世襲のお坊さんより熱意もある。バイタリティもある。優しみもある。誰よりも恵美のことを愛してくれている。
「今度、家に連れてきなさいよ」
「え〜、なんか恥ずかしいや」
「いいじゃないか。私にも紹介なさいよ」
「考えとく」
と照れくさそうに笑いながらも、母親のお墨付きを得て安心した。そして、
「不思議なもんだね」
とお茶をすすった。
「何がさ?」
「出家するってことは、全てを捨てることだ、って何かの本に書いてあったけど、私の場合、出家して色んな幸せを手に入れたよ」
 やり甲斐のある仕事・・・
 親との良好な関係・・・
 そして、素敵な恋人・・・
 あふれんばかりの幸福感に包まれ、恵美は思わず頬をつねりたくなる。
 「あの頃」を思い返す。
 迷宮の中で立ちすくんでいた自分。苦しみもがいていた自分。苦しみを抱えきれずに両親に、部屋の壁に、ネットの世界に当り散らしていた自分。
 気がつけば、「あの頃」から遥か遠くの場所まで歩いてきた。いつの間にか迷宮を抜け、一本道を歩んでいる。立派な尼さんになるための一本道を。幸せな家庭を築くための一本道を。一歩、また一歩と。
「そうだねえ」
 母も幸せそうな娘が嬉しい。顔をほころばせる。
 が、
「でも――」
 ちょっと意地悪そうな目をして、
「いくら若い者同士だって、坊さんと尼さんだからね、衣でラブホテルに入るのは謹んでちょうだい」
「うへっ」
 尼さんの情報網は本当に油断できない。
「せめてウィッグくらいは用意しときなよ」
「わかったよ」
 恵美はまぶしそうに苦笑するしかない。





(了)



    あとがき

 久々(だよな?)の強制断髪です。
 結構以前からチョコチョコチョコチョコ書いてた作品です。ほんと、去年からずっと牛歩で少しづつ書きついで。。。ようやく完成しました。
 書き終えててみて、昔「一蓮托生」という小説を書いたときと同じ感想です。  「もうちょっと膨らませられるネタじゃないのかなあ」と。1・5倍くらいの長さに。

 今回のヒロインはヒキコモリ少女です。
 よく新聞のテレビ欄に「ヒキコモリ少女に熱血和尚が愛の鞭」的な内容が乗ってたら、「ま、まさか、無理やり剃髪させて尼修行とか?!」とかアリエナイ妄想をしてしまうアホな迫水ですが(汗)ヒキコモリといえば、すさまじいばかりの長髪、そう「長髪」なんです。ロングヘアーとはまったく趣きの違う伸ばしっぱなしの長い髪。「絶○先生」の小○霧ちゃんのような。小○霧ちゃんの髪なんて、もう短く刈ってあげたいです。ベリショくらいに。でも一番、尼さんに向いてるのは加○愛ちゃんだと思う。・・・って何の話をしてるんだ?
 「坊主で脱ひきこもり」を書きたかったんですが、もうちょいヒッキー恵美の葛藤とか苦しみとか、また逆に荒廃ぶりをしっかり描写しても良かったかなあ、と思ったりもします。
 何にせよ、最後まで書けて良かった良かった(ホッ)
 お付き合い下さってありがとうございました♪




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