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嗚呼、得度カット


「ブワッハッハッハッハッハ!!」
 新しいヘアースタイルは悪友の笑いのツボを強烈に刺激したらしい。ハンバーガーショップが鳴動せんばかりの勢いで、沢渡瑞穂は大笑いしている。
 腹イテー、とテーブルをバンバン叩いて、ゼイゼイ肩で息して、
「中学時代の芽衣を見てるみたいだよ」
とまたゲラゲラ笑う。
「笑いすぎじゃないの」
 アタシはやんわり抗議する。
 確かにこんな髪型、中学のハンドボール部以来だ。でも、オイ、コラ、いつまでもヒトの外見をダシに爆笑コイてんじゃないぞ! アタシは別にアンタの免疫細胞を活性化させるために、髪型を変えたんじゃない。ヘックション!
「そりゃあ、風邪もひくって」
 季節を考えなって、だいたい今日日、刈り上げなんてアリエネー、と竹馬の友は店中の冷たい視線もどこ吹く風、とうとうテーブルの上に突っ伏して、のたうっている。
「好きでこんなアタマになったんじゃないよ」
 学生時代からのトレードマークだった肩下50センチのロングヘアーをバッサリ切って、時流も時候も無視したうなじモロ出しのベリショになったのには、それなりの理由(と書いて「わけ」と読む)があってのことだ。それにしても寒い。寒すぎる。
「ねえ、触らせて触らせて」
 うるさくせがんでくる妖怪笑い女に仕方なく、
「ほら」
と首をねじり、刈りたての後頭部を突き出す。冬の出血大サービスだ。
「うわっ、ジョリジョリするぅ〜」
 再びスイッチが入ってしまったらしく、笑い出す人間笑い袋。
「これくらいでそんなに笑ってたら、半月後はアンタ、笑い死ぬよ」
「アタシの葬式には芽衣にお経読んでもらうからイイよ〜」
などと軽口を叩き合うこの笑い女ともしばらくは会えなくなる。

 大銀杏、ポニーテール、モヒカン、アフロ、丸刈り、ボブ、チョンマゲ、エトセトラ、エトセトラ。人の歴史は髪型の歴史でもある。・・・と言うのは、ちょっと大袈裟だが、ヘアースタイルは時代や民族や性別、あるいは職業、果ては思想を判別する指標となる。
 お相撲さんはチョンマゲが結えなくなると引退しなくてはならないそうだ。
 カンフー映画などで辮髪の主人公が出てくると、ああ、昔の中国人なんだ、と暗黙のうちに納得する。
 ビートルズのマッシュルームカットは社会的論議にまで発展したし、オードリー・ヘップバーンのショートヘアーは世界中の女性たちを虜にした。
 ヒッピーの長髪はラブ&ピースだし、昔の不良のリーゼントは大人たちへの反抗、高校球児の丸刈りは勝利への意気込み、ザンギリ頭は欧米文明への参加表明で、ソウルシンガーのアフロやドレッドヘアーは黒人文化への憧憬、そして僧侶の剃髪頭は俗世を捨てる決意の表れだ。

 さて、そんなことをとりぼんやりとめもなく考えているアタシこと、雑賀芽衣(さいか・めい)はこれから有史以来人類が考案してきた無数のヘアースタイルの中で、考え得る限り、最もカッコ悪い髪形になる。

 得度カット。

 頭頂部に三点、真ん中が修羅髪、左右にそれぞれ右髪、左髪とひとつまみだけチョロりと髪の毛を残し、あとは丸坊主。ボーリング玉かよ! とツッコみたくなる、そう、どんな美男美女がやってもギャグにしかならない恐るべきヘアースタイル。誰が考えたんだ! 責任者出てこい!・・・などと古いギャグをかましてみても、天に唾するが如き虚しさに、ただただ嘆息するほかない。
 そもさん、ナニユエ、このアタシがかくの如き哀れなヘアースタイルになるハメに至ったか。それはおいおい語っていくことにして・・・
「冬籠り」
と瑞穂の口から発せられた単語が、アタシをとりとめもない想念から、駅前のファーストフード店の禁煙フロアに引き戻す。
「もうすぐだね〜」
「まあね」
 冷たくなった食べさしのチーズバーガーに齧り付く。
「ケチャップ、ついてるよ」
 瑞穂が紙ナプキンをアタシの口元に押し付けた。
「ありがと。は、は、は・・・」
 ハックシュン!

 「冬籠り」の直前に長い髪からいきなり頭を丸めると風邪をひくから、その前に髪を短く切っておけ、そうやって寒さに耐性をつけとくんだ、という「冬籠り」経験者の青島サンのアドヴァイスに従って、行きつけの美容院のドアを開けたのは昨日。カランコロン。
「いらっしゃい」
 いつもの美容師の「姐御」こと忍足サンが営業スマイルでアタシを迎えた。
 忍足サンは来店してきた客がアタシとわかるや、営業スマイルを、レディース時代「メデュウサ・オシダリ」の悪名を轟かせた頃の片鱗をうかがわせる不敵な笑みにシフトチェンジして、
「座んなよ」
とアタシをカット台に手招いた。他に客はいない。
 ケープを巻かれる。
「今日はいつも通り?」
「いや、短くお願いします」
 心拍数が極限まであがっている状態で注文する。
「短く?」
 元レディースは思いがけぬアタシの台詞に目を丸くしている。
「短くってどれくらい?」
 ドスのきいた声で尋ねられ、
「あの・・・耳を出して・・・後ろ、刈り上げちゃってください」
 刈り上げちゃってください、と口にしたとき、ちょっと声がかすれて震えた。語尾も半オクターブぐらいあがってしまった。今時、刈り上げはないだろう、とは自分でも思うが、うなじを外気にさらして、寒さに慣らしておかねばならない。反面「よく言えた!」と心のうちで拍手喝采する自分もいたりする。不安と恍惚のふたつ我にあり。
「ホントにいいの〜?」
 忍足サンが訊いてくる。ああ! 一度してみたかったんだよね、こんなやりとり。
「ハイ、バッサリやっちゃってください」
と答える。ああ! 一度言ってみたかったんだよね、この言葉。
 恍惚が瞬間風速的に不安を追い抜く。
 今までは毛先揃えたり、梳いたり、このロングヘアーを維持するためだけに通っていた美容室だったが、今日は違う。
 ――だけど・・・。
 もし美容師さんにもう一回「ホントにいいの?」と念を押されたら、やめようっと。不安が恍惚に追いつく。が・・・。
「ま、たまには冒険しないとな」
 忍足サンはさっさとアタシの髪を濡らしはじめていた。これが冒険ならば半月後に控えた
 剃髪
は何と呼べばいいのだろう?
 ブロッキング。美容師はアタシのサイドの髪を鋏でカットしていく。シャキ、シャキ。
 髪が頬のあたりで揃えられる。この十五年間、一度も許したことのないアタシの絶対領域。それを二枚の銀色の刃はいとも容易く侵犯する。
 ――うわ〜、やっちまったよ!
 鏡には顔を強張らせた自称松た○子似の女がいる。恨めしげな目で、アタシにメンチきってる。
 オトガイがあらわになる。なんだか恥ずかしい。
 鋏が開く。閉じる。ジョキ。忍足サンの手に切り離された髪が残る。忍足サンはそれを床に放る。パサリ。その運動が繰り返される。その運動にただ身を任せることにする。
「聞いたよ」
 腰をかがめ、テキパキと手を動かしながら忍足サンが言う。
「寺、継ぐんだって?」
「ええ、まあ」

 お前、寺を継ぐ気はないか?と父が長女で独身のアタシに単刀直入に訊いてきたのが、今年の正月休み。
 言われたアタシは頭の中で素早く算盤をはじいていた。
 一流大を卒業して、優良企業に就職した。三十路を前に管理職になった。社内では異例のスピード出世だった。傍から見れば、画に描いたようなエリートコースまっしぐらのバリキャリだったろう。
 確かにその通りで、雑賀サン、雑賀サン、と周囲にちやほやされた。嫉妬してイヤガラセしてくるヤツもいたが、そんなヤツは片っ端から潰してやった。容赦なくグリグリと。
 とは言えスカタンの上司に頭をさげ、アンポンタンの部下どもの尻拭いに奔走する毎日。残業も休日出勤も当たり前。ネバついて糸ひいてる組織の論理にウンザリする。自分の限界も見えてくる。この御時世、大過なく定年まで勤められる保障もない。先行き不安。いくら滅私奉公の精神で尽くしても、骨までしゃぶられて、ボロ雑巾のようになって捨てられるのがオチだ。
 その点、寺はいい。リストラも定年もない。そのうえ、実家は大寺だからヘタなサラリーマンよりも実入りがいい。誰かに頭をさげる必要はない。どころか「オショウニンサマ」「センセイ」と周りはペコペコする。
 住職の父は平日の昼間っから寝そべって時代劇の再放送を見ている。
 ――ボロい商売だ。
と思う。
 無論、剃髪も修行もノーサンキューだ。だが、それも一時のこと。何ヶ月か我慢すれば、後は悠々自適。髪も伸ばせる。
 多少の感傷もある。
 生まれ育った寺が父の代で終ってしまうのはサミシイ。
 やってみるか、と心が動く。
 アタシが辞表を提出したのは、それから数ヶ月後のことだった。

 床に目を落とすと、黒髪がうず高く積もっていた。
 チッチッチッと舌打ちするように鋏がうなじを刈り上げていく。ロングヘアーに未練はないと言えば嘘になるが、どうせ半月後には小坊主。それまではせいぜい流されながらも楽しもう。女三十にして転がりこんだこのモラトリアムを。
 冷たい鋏の刃が地肌にあたる。うなじに直接、外気を感じる。
 ――そう、あのときも・・・。

 ハンドボール部時代を回想する。

 なるべくラクチンなクラブに入りたかった。だからハンドボール部に入部届けを提出した。
 顧問のオジイチャン先生(名前忘れた)はほとんど練習に顔を出さず、出したところで何の指導をするでもなく、アタシたちは馴れ合いムードの中、練習してるのか遊んでるのかわからないようなユルユルのクラブ活動を満喫していた。
 だが二年生になって状況は一変する。
 転任してきた近藤って体育教師が、オジイチャン先生に代わって、新しい顧問になった。コイツがとんでもないバリバリの体育会系で、コイツの掲げる、コイツ以外誰も望んでいない「ハンドボール部新生」のスローガンの下、練習は泣くほどキツくなり、アタシたち部員には断髪令が発布された。
「三日の猶予を与える。それまでに短く切ってこい」
と。
 カンベンしろよ、と目の前が真っ暗になった。
 率先して髪を切ってきた部長の矢崎先輩は「まだ長い!」と叱られ、再度の美容院行きを余儀なくされ、去就をきめかねているアタシら部員は震えあがったものだ。
 ――ナンセンスだ!
と憤りをおぼえた。
 けれどアタシにできる反抗と言えば、断髪を二日間先送りにすることだけだった。
 そして三日目、アタシは髪を切った。この美容院で。
 ジョキジョキと長い髪に鋏をいれられ、
 ――ちょっと! ちょっと! ちょっと!
と狼狽している間に、女の子からサルへと退化を遂げた。
 それまでは、ちょっとオトナっぽいクールなイメージで通っていたのだが、こんなオンナ捨ててる頭にされちゃあ、単なるメスザル。途方にくれるしかない。
「さっぱりしたじゃない。こっちの方が中学生らしくてオバサン好きよ」
 不満げに短髪をかきまわしているサルに、美容師のオバサン(忍足サンのお母さん)はそう言って慰めた。
 この経験がトラウマになって、以来、アタシは今まで髪を肩より短くできなくなった。

「こんなカンジでどう?」
 忍足サンが鏡を開いて仕上がりを確認させる。十五年ぶりに露出した真っ白なうなじが目に飛び込んできて、アタシは溜息とともに、
「はあ、いいです」
 よくないんですけどね、ホントは。久しぶり、モンキー。十五年見なかったうちにメイクなんておぼえちゃって、まあ。・・・などと現実逃避してみたりして、でも切っちゃったものは仕方ないので、苦笑いで受け容れる。
 忍足家は親子二代に渡り、アタシのロングヘアーライフの幕引き役を果たしたのだった。
「さっぱりしたねえ」
 親子二代でおんなじことを言う。思わずまた、苦笑。

 店を出る。
「さみーよ〜」
と言いながら帰宅し、夜は、もうすぐバリカンの放牧地になる予定の短髪頭を、腕白小僧のようにゴシゴシと洗った。そして、ろくに乾かさず床についた。

 夢をみた。
 OL時代の夢だった。
 アタシはまだ長い髪だった。
 ひとり夜の会社に居残って、長い髪をかきあげながら、カタカタとパソコンのキーボードをたたいている。
 目の前にそっとコーヒーが差し出される。
 ――田沼君・・・。
 三つ年下の後輩だった。もう片方の手で自分の分のコーヒーカップを持って、微笑んでいる。

 尼になるため会社を辞める、という選択は自分で決めたことながら、エリート街道を歩んでいた身にはちょっとした屈辱だった。
 アタシが会社を辞めると知るや、皆、手のひらを返したように冷淡になった。
 アタシが会社を去ろうが、組織は何の支障もなく動き続ける。アタシの代わりなんて他に幾らでもいる。その当たり前といってしまえばごく当たり前の事実が淋しく、また空しく、エリートのプライドは傷ついた。自分が単なる歯車のひとつに過ぎかったということを、まざまざと思い知らされた。
 アタシのことを陰で妬んでいた同期の連中は、ここぞとばかり餞別代わりに嫌味をくれた。
 好奇心で色々訊いてくるヤツもいた。頭は剃るのか?とか寺は儲かるだろう?とか。
 うるせえ、とむかっ腹が立ったが、たつ鳥後を濁さず、最後まで模範的社員を演じ抜いてやった。
 退職日、帰りの電車のなか、虚脱状態のアタシの脳裏に「ドロップアウト」という単語がフッと浮かんだ。
 車窓から移ろいゆくオフィス街を眺め、華やかな世界に無言で別れを告げる。
 ――アバヨ!

 田沼耕平はアタシの退社を本気で惜しんでくれたこの地上で唯一の人間だった。
「雑賀サンがいなくなったら、ホント困りますよ」
 会社の損失です、と田沼は何度も言った。
 そんなことないよ、とアタシは肩をすくめてみせた。
「ありますよ」
 田沼は強情だった。母を乞う甘ったれの少年のように、アタシの翻意を促した。あるいはアイツ、アタシに惚れてたのかも知れない、なんて自惚れてみたりする。

   夢の中の田沼は優しくアタシの長い髪に触れる。アタシは目を閉じ、年下男の次の行動を、キスと抱擁を待つ。何故田沼に抱かれねばならないのか、とは思わなかった。それが夢ってモンだし。
 しかしアタシの期待に反して、田沼はクルリと踵をかえすと、アタシの許から去っていく。アタシは呆けた顔で田沼の背中を見送る。田沼のキレイに刈り上げられた後頭部、すごくセクシーだ。アタシのフェティッシュな部分を刺激する。触りてえ! アタシは衝動的に立ち上がる。
「田沼!」
 田沼が振り返る。その薄い唇が動く。
「――――」
 田沼の言葉が聞き取れない。異国の言葉みたくアタシの耳には響いた。
 ・・・・・・・・・・
 目が覚めたとき、アタシは泣いていた。鼻の奥がツーンとする。頭に手をやる。かきあげる髪がないことに気づき、行き場を失った手をうなじにあてる。ジョリという感触。これが現実。もうすぐ修行僧になる女のひんやりとした現実。まだ目覚めたくない。
 そのまま自分の体温を吸った布団にもぐりこみ、
「田沼アア〜、田沼アア!」
と左手で襟足を摩り摩り、夢の田沼の刈り上げを思い浮かべ、ズリセンをコイた。

 その数時間後、アタシはファーストフード店で瑞穂に爆笑されていた。
 「冬籠り」は、例えば宗門の大学である八頭大(通称バチカブリ大)の学生どもがやるような夏の「研修」なんぞとは比べ物にならないくらい過酷らしい
。  「万が一のこと」があっても本山側には一切責任を問わない、という誓約書にサインした(させられた)とき、
 ――早まったかな。
と会社を辞めたことを少なからず後悔した。
 そんな荒修行を前にビビッているアタシに瑞穂は
「こうなったらやるっきゃないよ」
とハッパをかける。
「骨は拾ってやるから、安心して行ってきな」
 こういう台詞は是非彼氏から聞きたいものだ。てゆーか彼氏がいたら女のアタシがわざわざ「冬籠り」なんぞに出張っていく必要もなかったんだよなあ。
「冬籠りが終わったら、どっか行こうよ。アタシ、有給とるからサ」
 こういうお誘いもできれば彼氏からの方がいいのだが、
「どっかって?」
とりあえず乗ってみる。
「海外とかサ」
「パスポート、どっかいっちゃったんだよなあ」
「また申請すればいいじゃない」
「坊主頭で証明写真撮れってか?」
「あははっ、ソレいい!」
 タイ行こうよ、タイ、仏教国だから芽衣、絶対敬われるよ、と瑞穂はニヤニヤしながら笑えない冗談を飛ばす。
「生きて帰ってこれたらね」
「芽衣が『冬籠り』してる間、アタシも男断ちして無事を祈ってるよ」
 持つべきものは親友だ。ありがたい・・・って瑞穂、アンタ、それ、今までと変わんないじゃん!
 男縁のない三十路女ふたり、ファーストフードを貪っている光景は、ゴッホの「馬鈴薯を食べる人たち」を髣髴とさせる侘しさがある。うぅ〜、「冬籠り」終わったら絶対オトコつくってやる!
 ふと昨夜の夢を思い出す。
 ――年下も悪くないかなあ。
と考えながら、ハックション!

 かくして寒風がバカみたく吹きすさぶなか、アタシは「お山」へと向かったのだった。

 えいっ、と勢いつけて門前町の床屋の扉をくぐ・・・ろうとしたら――
 カランカラン
 いきなりドアが開き、女性が出てきた。
 いま女性と言ったが、店の前で鉢合わせした人物を女性と判別するには、少々時間がかかった。
何故なら、その女性は丸坊主だったからだ。
 いや、完全なボウズ頭ではなく、頭頂部に三点、髪を剃り残している。
 ――うおおおおっっ!
 生まれて初めての生得度カットに、アタシは思わず目が吸い寄せられてしまう。
 アタシも三十分後にはこの頭で、この床屋から出てくるのだ。
 四十代とおぼしき得度カットの女性は、アタシの無遠慮な視線に
「お仲間ね」
 ほほ、と福相を崩して笑い、
「心配いらないわよ」
 皆この頭なんだから、とアタシの肩をポンと叩き、腰に手をまわすと、店の中へとそっと押しやった。
 ――いやいやいや、ちょ、ちょっとオバチャン?!
 テンパッているアタシに間髪いれず、床屋特有の匂いと
「いらっしゃい」
という大将の威勢のいい声。
 白状しよう。ヘタレのアタシはこの時点でチビッてました。
「お客さん、冬籠り?」
 ケープを首から巻き、テルテル坊主状態の三十路の女に大将が聞いてくる。
「はあ」
「じゃあ得度カットだね」
と大将が取り出す商売道具に
 ――バ、バリカン!
 縮みあがるアタシ。
 会社も辞めた。家族や檀家には「やる」と宣言してしまった。お経や所作の練習もした。髪も短く切った。だから今この瞬間、年季の入ったゴッツイ理髪台に座って、バリカンのモーター音をありえないくらい間近に聞いている。もはや後にはひけない。
 反面、アタシの心のうちのか弱き乙女が
 ――「やっぱや〜めた」と言っちゃえば・・・。
 トンズラきめこむ算段を始めている。
 アタシの学歴や実力やキャリアなら、この就職難のご時世でも、それなりの企業に再就職は可能だ。何も尼さんなんぞに転職して、頭丸めて陸の孤島で、生きるか死ぬかの修行三昧の日々を送る必要ない。そうだ、あのエリートとしての華麗な日常を取り戻すのだ!
 ――よし、やめよう!
「あの・・・」
「ナニ?」
と大将が聞き返してきたときには、アタシ、すでにバリカン入れられた後でした・・・。生まれて初めてのバリカンを・・・。ジョリジョリっと・・・。ド真ん中に・・・。
「・・・・・・・・・いえ、何でもないです」
「お姉さん、鼻水出てるよ」
 大将がティッシュを渡してくる。いきなりバリカンて、そりゃあ鼻水も出るわっ。
 クッキリと頭にバリカンが走った跡が刻まれている。
 アタシは観念した。観念しつつも、心中、号泣。もうこれでシャバには戻れない。エリートのプライドなど木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。
 バリカンがモミアゲをすくいあげ、ジョリジョリジョリ、コメカミまで剃りあげる。
 バリカンは飼い主を急かすようにウイーン、ウイーンと唸り続けている。飼い主はそいつに応えて、サイドの髪をガー、ガーと押し運ぶ。バサッ、バサッと髪が床に落ちる。あとには青々とした地肌が残される。みるみる頭髪が干上がっていく。引き潮。黒い海がひき、青い海岸が顔を覗かせる。
 後頭部が容赦なく剃りあげられる。うおおお! スゲッ! 振動がブルブルくる! ノーミソが揺さぶられるような感覚。
 大将はデタラメにバリカンを走らせているようにみえて、流石職人、的確に頭頂部に三つ髪のある部分を残し、その周辺をグリグリと刈ってゆく。
 出家とは捨てること、とはよく言ったもんだ。やり手OLの面影など最早何処にもない。思えばこの半月の間に超ロングヘア→ベリショ、ときて今日は得度カット、そして明日は完全剃髪、と転がるようにアタシの首から上は激変につぐ激変を遂げている。
 大将は鋏で三つの残り髪を整え、小さく小さくして、その後はシェービング、そうして露出した頭皮に安っぽい臭いのするローションをすりこまれた。頭が剃刀負けしてヒリつく。
 さて、得度カットのお値段は?・・・というと通常の大人調髪料金と変わらず四千円だった。ちょっと拍子抜け。

 床屋を出るなり、そっと頭をさする。残り髪がアタシの手のひらを弾く。
 コンタクトをはずす。荷物から眼鏡ケースを取り出し、眼鏡をかける。修行中はドタバタ動きまわらねばならんので、こっちの方が便利だ。準備完了っと。どっから見ても、得度を控えた冴えない田舎小坊主だ。
 ――さあ、一から出直しだ。
と妙にさばさばした気分になった。
 お山へと歩き出す。
 僧侶が二人、山を降りてきた。
 すれ違う。
「あれ、アンタ、頭に蝿がとまっとるよ」
 すれ違いざま、僧侶がにやにやとアタシの頭を指差す。得度者への意地の悪い歓迎なんだろう。
「明日になれば、どこかに飛んでいってしまうでしょう」
 そんなに悪くない切り返しだ、と我ながら思う。
 このテンションで「冬籠り」を乗り切り、
 ――そして・・・。
 南の島でバカンスを楽しもう。仕方ないから瑞穂と二人で。
 もしかしてイケてる外人サーファーにナンパされたり、ね。
 獲らぬ狸の皮算用と笑わば笑え。
 これはけして「ドロップアウト」じゃない。新しい世界への「ドロップイン」だ。
 ――それにしても・・・。
 さっきの坊さん、ちょっと田沼に似ていたな。
 「冬籠り」が終わったら、田沼に電話して驚かせてやろうか。そう考えてニンマリする。
「ただいま檀家募集中で〜す。法要にはキレイな尼さんが駆けつけますよ」 って。
 あ〜、やっぱアタシ、バカだわ。



(了)



    あとがき

 丁度、四年前書いて、未発表のまま(オチがイマイチだったので)寝かせておいたお話です。今回、埃を払って発表させてもらいました。読み返してみると、そんなに悪くないかなあ。そこそこ書けてる感じです。断髪シーンは相変わらずだけど(汗)
 いわゆる「得度カット」というのは実際にあるらしく、ユージさんも以前イラストで発表しておられてます。なんという慧眼!(サイト閉めちゃったの?(T T))。
 しかし一旦、お蔵入りしかけた作品を掲載するとは、よっぽど困っているのか?と問われれば、 はい、ちょっと最近遅筆気味(汗)
 掲示板が休止中なんで、ほんと、更新しないと、完全沈黙状態になってしまうので、焦りも少々ありまして・・・
 そろそろガンガン書きたいです。




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