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役得


 夏は暑い。
 昔、周防国(現在の山口県)の鋳銭司(すせんじ)村というところに村田良庵という変わり者の医者がいて、夏のある日、村人が
「お暑いですなあ」
と挨拶すると、
「夏は暑くて当然ジャ」
と無愛想に答えたという。
 この良庵先生、後に官軍の参謀として幕府軍相手に連戦連勝し、明治維新の立役者となる大村益次郎なのだが、それはまた別の話。

 良庵先生ではないが、当然、夏は暑い。
 とにかく暑い。
 最近はいるのかしら。
 佳恵は起きぬけの朦朧とした頭の中、ぼんやり考えた。
 夏に向けて、髪をバッサリ短く切る娘。
 昔は普通にいたけどなあ。
 場合によってはクラスの女子の2/3以上がショートなんてこともあったりした。
 まあ、今はどこの家でもエアコン完備だしね。
 よくよく考えたら、髪を切っても暑いものは暑い。そもそも夏が来るたびに、いちいち髪を短くしていたら、髪を伸ばす暇がない。
 でも、あの気持ち的に「サッパリ〜」な感じがいいんだよねえ。
 今風な、ウネウネ〜、クルクル〜っとしたナチュラルでフェミニンなショートも悪くないけども、昔のあの、ザックリスッパリ切り揃えて、耳もうなじもすっきりモロ出しな少年風ショートの方が
 さっぱり感
がすごかった。小学生女子の「夏ショート」なんて実用性以外の要素はまったくなかった。涼しきゃいい、みたいな。あれ、親の意向によるところが大だったと思う。
 いたよねえ。
 おもいっきり髪を短くされて、うつむきながら登校班で歩いてる娘。帽子を深くかぶって、隠そうとしてるんだけど、無惨に刈り込まれた襟足がモロ見え・・・昨日まで背中に届くほど伸ばしてたのに、みたいな夏の一齣。
 で、たまたま知り合いのオバサンとバッタリ出くわして、
「あれ、ミナちゃん、髪切ったの?!」
なんてオバサンが目を輝かして、翌日、そのオバサンの娘も夏ショートってパターンもあったりした。
 女親って「○○ちゃんも持ってるのに」と欲しい物をねだるときは、
「よその子はよその子」
ってモンロー主義なのに、髪型に関しては
「○○ちゃんも切ったんだから、あなたも短くしなさい」
って考え方が横並びだ。
 ・・・などと意地悪く考えてしまうのも、自分に子供がいないせいなのだろうか。  佳恵はぼんやり考える。

 佳恵も「夏ショート」の経験がある。
 ずっとロングヘアーだった。
 親がいくら切るようすすめられても、頑なに首をふった。
 いつも散髪を担当している母親に、
「ここまでだからね、ここまでしか切らないで」
と毛先から5センチを頑固に指定していた。
 でも心の片隅にショート願望は確かに存在していた。
 TVでアイドルの女の子がショートにして「かわいい」と共演者たちから絶賛されてると、結構気になっていた。
 漫画でロングヘアーのヒロインの女の子が勇ましく断髪するシーンを読み返しては、
 ――カッコイイなあ・・・
とヒロインになりきって、髪を切られる感触を想像したりもした。
 中学生の従姉の部屋で見つけたファッション雑誌の読者モデルがロングからショートになる「変身コーナー」のページをひろげて、ひそかにドキドキしたものだ。雑誌にはカットの過程の写真も掲載されていたので、余計にドキドキした。
 この長い髪、バッサリ切ってしまったら、きっとすごく気持ちいいんだろうなあ、といつも考えていた。
 しかし、それでも散髪のときは頑なに、
「ここまで」
と5センチのラインを固守し続けた。だって、一度短くしてしまったら、後悔しても、もう取り返しがつかないから。
 それにアマノジャクな佳恵にすれば、短髪にして母親を喜ばせるのが、なんとなく癪だった。
ただ夏になると、閉口した。長い髪がわずらわしくてたまらなかった。

あれは小学四年生の夏のことだった。
近所の高校生の里美お姉さんが回覧板を持って家にきた。ずっとロングヘアーだった里美お姉さんがいきなりショートになっていてビックリした。
佳恵の母も、
「あら、髪切ったの?」
と驚いていて、里美お姉さんは、
「我慢できなくて」
と刈り上げた襟足をなでながら笑っていた。
「我慢できなくて」という言葉に、佳恵は、うんうん、わかるわかる、と心中うなずいていた。こう暑くっちゃ、ロングヘアーは辛い。汗をじっとり吸って、ベタつくのも敵わない。
「サッパリして、こっちの方がいいです。手入れも楽だし」
と満足そうな里美お姉さん。
「サッパリ」っていう言葉が、心に甘く響いた。羨ましく思った。
里美お姉さんがクラスの友人たちと決定的に違うのは、自分の判断で髪をショートにしたことだ。親に強いられて嫌々髪を切らされた娘たちと違って、かっこいいと思った。髪形の決定権があくまで本人に帰属しているあたり、オトナだなあ、って。
大きくなって、ボキャブラリーが多少増えてから、
「潔い」
って言葉をおぼえたが、里美お姉さんの場合はまさにそういう感じだった。
 長い髪に執着しない。
 必要なら髪を切る。
 リスクを冒して、結果サッパリと快適な夏を得る。
 佳恵は里美お姉さんに尊敬の念のようなものを抱いた。
 その夜、
 ――里美お姉さん、どこで髪切ったんだろう?
とベッドの中で考えた。
 ――やっぱり久米さんの店かな?
 通学路にある美容室を思い浮かべてみた。そこの30代くらいのオバサン美容師にシャキシャキと気持ちよさそうに髪をカットしてもらっているお姉さんを想像してみた。お姉さんになりきって、ドキドキした。
 ――切る前に「バッサリ切って下さい」って言ったのかな?
 漫画などのフィクションではよくある台詞だけど・・・それとも普通に「ショートで」とオーダーしたのだろうか。
 ――ああ! 私も――
 ガシャガシャと長い髪をかきまぜる佳恵。
 ――髪切りたい!!
 切ってしまいたい!!と今だかつてない激しい衝動が、佳恵の小さな身体を貫いた。
 翌日さっそく、洗濯物を干している母に、
「ねえ、お母さん」
と声をかけた。
「なあに」
 母は洗濯物を干す手をとめず、訊いた。
「髪の毛切って」
「え?」
 娘の方から初めて散髪をせがまれた母は、今度は手をとめ、訝しそうな顔で佳恵を見た。
「この間、切ったばっかりじゃないの」
「いいじゃん」
とさらにせがまれ、
「これから買い物行くから、あとでね」
「も〜」
 むくれる佳恵。
 切って欲しくないときには、「早く座りなさい」って急かす母なのに。

 夕方になり、ようやく、
「佳恵」
と美容師からお呼びがかかった。
「ふぁ〜い」
 庭では母がちゃんと椅子をおいて、散髪の準備を整えて待っていた。
 カットクロスを巻きながら、
「今日もここまで?」
と毛先5センチを指で挟んで訊く母に、
「もっと」
と言って、佳恵の心臓は高鳴る。
「どのくらい?」
「あのさ、う〜ん」
 もったいぶって考えるふりなんかして、
「ショートにしてくれない?」
 注文してしまって、
 ――ああ・・・
と何か自分の殻を破ったような気持ちだった。これまでの人生にはなかったほどの高揚をおぼえた。
 ――言っちゃったよ〜!! 言えたよ〜!!
「ショート?!」
 母は目を丸くした。
「なんで?」
「いいじゃん、短くしたいんだもん。夏だし暑いし、短く切ってサッパリしたいんだってば」
 髪に手をやりながら、再び注文。「短く切って」とか「サッパリ」というワードが自分の口から出るたび、ドキドキした。
「いいでしょ? 男の子みたいに短くして」
 普段娘の長い髪にあまり良い顔をしない母のくせに、いざショートを要望されると、
「う〜ん」
と躊躇っていた。もしかしたら母の中にもアマノジャクがいるのかも知れない。
「お母さん、美容師じゃないから、ショートは難しいなあ」
「いいよ、短ければ。ねえ、早く切ってよ〜。もう長い髪、鬱陶しいんだってば」
 いよいよムキになる佳恵に、母も、
「ま、夏だしね、ショートもいいかもね」
とさっさと佳恵の髪に鋏を入れはじめた。
 ジョキジョキと素人くさい鋏さばきによって、まず右サイドの髪がバサリと芝生に落ちた。つづいて左サイドの髪もジョキジョキ、バサリ、と切り落とされた。冷たい金属の感触を頬に、うなじに、眉上におぼえた。金属があたるところより下の髪は、すべてケープを滑り、地面の芝生に落ちていった。
 結局、ショートというより、短いオカッパ頭になった。「ホタルの墓」みたいな。それでも佳恵は満足だった。
 ――やったゼ!
という充足感があった。
 佳恵の父も娘の短くなった髪に目を細め、
「えらいなあ、佳恵はえらいなあ、そっちの方がカワイイぞ」
と褒めてくれた。そして佳恵を車に乗せて、近所の喫茶店に連れていき、ご褒美だよ、とチョコレートパフェを食べさせてくれた。父はせっせとパフェを口に運ぶ短い髪の娘を目を細めて見ていた。
 チョコレートパフェはとてもおいしかった。父が褒めてくれたのも嬉しかった。甘い思い出だ。

 その父も二年前他界した。
 結局髪を短くしたのは、あのとき一回きり。以後十五年以上、佳恵は髪を長く伸ばしている。
 けれどあの日の思い出は胸の奥、まだ残っている。
 佳恵はまだ寝床の中。
 背中まである長い髪は、たっぷり汗を吸って、顔に身体にベッタリとはりついている。
「暑いな」
 長い髪をうるさく感じる。乱暴に手櫛で乱れ髪をかきまぜながら、
 ――ああ、もう!
 短く切ってしまいたい、と昔みたいな衝動に駆られた。
 昨日TVでやっていた高校野球を思い出す。高校球児たちのサッパリと刈り込んだ丸刈り頭を羨ましく思い返し、
 ――いよいよ・・・
 自分も丸坊主にしてしまおうか、と考えた。
 長い髪をもてあまして、
 坊主にしちゃいたい!
と思う女の人は多い。勿論、実行する女性はまずいない。
 ――でも――
 自分ならば坊主にしたいと思えば即実行できる。
 何故なら、
 尼さんだから。
 住職だった父から得度を受け、尼僧になったときも、髪を切るつもりは毛頭なかった。父は苦い顔をしながらも有髪を許した。
 剃髪を免れ、
 ――よっしゃ!
とガッツポーズをきめながらも、心の片隅で、
 ――1回くらいなら坊主にしてもよかったかも・・・。
ナンテ贅沢な後悔をしているアマノジャクも実はいた。
テレビなんかでお笑い芸人が罰ゲームでバリカンを使って丸刈りにされてたりするのをみて、
 ――ぬおお〜!
とコーフンをおぼえた。
 ある映画で主演の女優が劇中で、ブロンドの髪をバリカンでバリバリ刈られるシーンがあって、
 ――うはああ〜!!
と劇場で一人、昂ぶった。後でDVDを買って、その場面を何度も繰り返し観た。
 数日前、偶然、動画投稿サイトで白人の女性が丸坊主になる海外のムービーを見つけた。どうやらマニア向けのものらしかった。
 女性はバリカンでザリザリと髪を落とされながら、セックスでもするように、Oh、とか、Ah、とか熱い吐息を漏らしていた。
 思わず見入ってしまった。
 同じような動画はたくさんあった。
 何回も再生しては、ああ・・・、と外人娘とシンクロして、心の中、自分が坊主になる妄想に耽った。子供の頃、ファッション雑誌をめくりながら、ショートになる(される)イメージを恐々楽しんでいたように。三つ子の魂百までというやつか。
 ――やりたいと思えば自分も坊主にできるんだ。
 そう考えると居ても立ってもいられなくなる。せっかく堂々と坊主にできる職に就いたのに、一生やらずに終えるのは、かなり勿体ない気がする。
猛暑が坊主願望をぐいぐい後押しする。
 ――暑い!
 髪をかきむしる。里美お姉さんではないが、我慢できない。
 佳恵はバッと布団をはねあげ、床を抜け出ると、普段は滅多に着ない作務衣に袖を通した。
 そそくさと洗顔をすませ、朝食もそこそこに、
「ちょっと出かけてくる」
と家族に言い残し、自分の気が変わらないうちにスクーターを飛ばした。向かうのは街はずれの床屋。大切なのは勢いだ。

 カランコロン
と床屋の扉が鳴って、現れた若い女性客に、四十代くらいの床屋の主人は不審そうな顔で、
「どうぞ」
と、とりあえず理髪台にさし招いた。
 無骨な椅子に身体を預け、他に客がいないことに佳恵は安堵していた。
 鏡を見るとちょっと不安げな顔がうつっていた。あわてて表情を隠した。
「カットですか?」
「ええ」
「どれくらい?」
「丸坊主にして欲しいんだけど」
「お客さん、尼さんなんですか?」
 作務衣を着てきたことが奏効した。
「重要な儀式があるから、どうしても頭を丸めなきゃならないんです」
と一息に言った。嘘。でも嘘も方便。尼さんが坊主頭にするために吐く嘘ならば、仏様も笑って許してくれるだろう。
「それなら仕方ないねえ」
とあっさり話はまとまった。長さについて、色々話し合って、結局1mmの丸刈りになることになった。
 理髪師は佳恵の首にタオルを巻いた。身体にケープを巻いた。霧吹きで髪が根元まで湿された。
そして、主人の手はカット台の引き出しをあけ、その中へ。
 引き出しから抜かれた手にはバリカンが握られていて、
 ――い、いきなりバリカン?!
 鏡の中に出現したバリカンにさすがに佳恵も肝を潰した。驚きと戸惑い、そしてM的な悦びが混濁し、心拍数がはねあがった。
 ぶいいいぃぃぃん
とバリカンはうなり、小刻みに震える刃が額のど真ん中に差し入れられた。
 ――ああ!
 バリカンはズズーとつむじまで押し進められた。佳恵はこれまでずっと髪を額で分けていた。その分け目はきれいに消え、青白い刈りあとが髪を左右に分かっていた。
 バサリ、
と黒い塊がバリカンの刃先からこぼれ、そのまま床に落ちた。丸坊主にしようか随分迷ったが、こうして思い切りよくバリカンを入れられてしまうと、晴れ晴れとした気持ちだった。
 バリカンはさらに青白い部分のすぐ隣の有髪の部分に躊躇なく入れられた。
 ぶいいいぃぃぃん
 ジッ、じじじいいいいい〜、ざざざ〜、
と髪がこすれ、バリカンに押しのけられ、ぐう、と後ろに運ばれ、その後はクッキリと坊主の長さになっていた。間もなく全ての髪がこの長さに、刈り縮められることになる。
 床屋の主人は、
「やっぱり尼さんは坊主頭の方が有難みがあるねえ」
とか、
「長いこと床屋をやってきたけど、こんだけ長い髪を一気に丸坊主にするなんて初めてだよ。なんだか勿体ない気もするけど、反面刈り甲斐があるよ」
とか言って、ホクホク顔だった。
 刈る方も快感なら刈られる側も快感で、
「バリカンってすごいわね」
と感心したり、
「坊主頭で夏を乗り切る。これが尼僧の醍醐味よ」
尼でよかったわ、とにこやかに主人に応じていた。
 バリカンはいよいよ前頭部を全て刈り尽くし、綺麗に坊主の形にした。坊主頭を挟み右、左とロングヘアーはケープ越しに肩に背に垂れている。落ち武者のようだ。坊主の部分にクーラーの冷気を確かに感じる。
 バリカンは仕事を続ける。次は右の髪を刈る。
 バリバリとモミアゲの部分からコメカミ、上へ上へと遡っていく。で、前頭部の坊主部分と合併。じいいいいいぃぃぃ、と、この運動が何回か繰り返される。
 濡れ髪はベトッとケープに落ち、中にはクッタリとケープにくっついたまま、反り返っているやつもいる。
 後ろの髪もジョリバリ剃り上げられる。ずっと伸ばした髪が消え、首筋がスースーする。思った以上に涼しい。
 あとは左の髪を残すのみ。コメカミからダラリと垂れ下がっている。
 ――トウモロコシみたい。
とおかしかった。
 店主は指に残り髪をひっかけ、ぐい、と頭上の高さにまで持ち上げる。そしてバリカンを耳の上にあて、
 ぶいいいいん
と残り髪を根元から刈り上げた。もう一度、さらにもう一度、二回、三回、四回、と刈り上げられ、佳恵の頭を真ん円にしてしまった。
 ――うはあ〜!
 髪がなくなって、佳恵は我に返った。鏡の向こうには年齢性別不詳の坊主が顔をこわばらせていた。ようやく自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気づき、肌が粟立った。
 勢い任せで丸坊主にしてしまったけど、いざ完成してみると、清潔とか可愛らしいというより、なんだかグロい。ちょっと妖怪じみてるような気さえする。
 ――なんか予想してたのと違う〜!
 佳恵が黙りこんだので、店主も黙った。黙ったまま、浮島のように頭に点在する刈り残しを丁寧に刈っていく。
 最後の浮島が刈り取られた瞬間、
 ――まあ、やっちゃったもんは仕方ないか。
 さばさばと気持ちを切り替えた。頭は涼しすぎるほど涼しく、軽すぎるほど軽かった。今だかつて経験したことのない涼しさと軽さだった。かくして、坊主、完成。

 が、カット料金を払う段になって、
「あっ」
と佳恵は青ざめた。
「お財布忘れた・・・」
 気が変わらないうちに、と大急ぎで家を飛び出してきたのがマズかった。
 店主は、いいよいいよ、お金は、お布施だと思えばさ、と笑って許してくれたが、まさかタダ刈りというわけにもいかず、自宅に電話をかけ、財布を持ってきてもらうよう頼んだ。
「東町のバーバー坂下ってお店にいるから。急いで」
『バーバー坂下? お前、なんで床屋なんかにいるんだ?』
「いいから、早く」
と言って、携帯を切ると、
「すみません」
 店主に剃りたての坊主頭をペコペコ下げた。顔から、頭から、火が出そうだった。小学校時代以来出した耳が真っ赤になっていた。

 財布を届けに来た婿養子で現住職の夫は、妻がいきなり坊主頭になっていて、目を白黒させて仰天していた。
 とにかく、ようよう支払いを済ませ、店を出た。
 店を出るなり、刈りたての頭に手をやった。ザラリという感触。さらに掌で丸刈り頭をかきまぜるように撫で、
 ――気持ちいい〜!
 頭も気持ちいい、掌も気持ちいい、アルファー波が出そうだ。
 帰宅してから、思う存分、坊主頭を撫でまわし、その手触りを心ゆくまで楽しんだ。
 ――当分――
 坊主で通そう、とそう思った。
 坊主頭を満喫する妻に
「なんでまた坊主にしたんだ?」
とまだ驚きのさめやらぬ様子で夫は訊いた。
「暑かったから」
あっけらかんと佳恵。
「ショートにするくらいなら、いっそ坊主にした方がいいかなと思って」
 尼僧の役得よ、と笑うと、
「“三蔵法師”というより、“一休さん”だな」
と憎まれ口で返された。
「いいもん」
と子供のように口を尖らせながら、
 ――お父さんにも見せてあげたかったな・・・
 死んだ父親のことを考えた。坊主にしたいときに親はなし、だ。
 感傷にふけっている佳恵に、
「ほれ」
と夫が丸いものを差し出す。
「なに?」
「水羊羹。昨日檀家さんからもらった」
「チョコレートパフェがいいなあ」
「何子供みたいなこと言ってんだ」
と夫は苦笑して、さっさと自分の分の水羊羹を食べはじめた。
「そうだね」
と佳恵も苦笑して、羊羹に匙をいれた。遠くで蝉が鳴いている。




(了)



    あとがき

このサイトがスタートするずっと以前から、書いてみたかった「”夏だし暑いから“という理由で髪を剃る有髪の尼さんの話」です。
恋なし、涙なし、オチなし、というドラマ性皆無の日常的な尼僧剃髪ストーリーです。よくよく考えたら坊主願望のある尼さんて初めてか?
実際は多分そんな尼さん、なかなかいないと思いますが、でも女性でも坊主にしたければできる(したくなくてもしなきゃいけない場合もあるが)唯一の職業なので、一種の役得ととらえてる尼さんもいるんじゃないかと思うんですね。
もうちょっと掘り下げたいテーマです。
最後までお付き合い下さってありがとうございました♪




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