身代わりお菊 |
母は娘の髪を梳り、 「お菊、許しておくれ」 何度も詫びた。 お菊は莞爾と微笑み、 「良いのですよ、母上」 と言った。 「私の命でお家を救えるのならば、これに代わる喜びはありません」 元より死したも同然の身ですから、と後に続いた言葉に母の胸は痛んだ。うっ、と嗚咽しかけたが、かろうじて堪え、 「作法は知っていますね?」 「何を仰るの」 お菊は今度はコロコロと声をたてて笑った。 「幼い佐太郎に作法を教えたのは私ですよ」 谷家の嫡男、佐太郎が衆道がらみの遺恨から主君の寵臣に襲われ、これを返り討ちにしたのは、先月のことだった。 激怒した殿様より佐太郎には直ちに切腹の沙汰が下されたが、佐太郎は城下から逐電してしまった。 窮地に立たされたのは佐太郎の父、八左衛門である。 温和な人柄で上役同輩からも領民からも慕われていた、この老武士はただ一人の息子の仕出かした不始末に悩み、自分が腹を切らずばなるまい、と家の者に覚悟を伝えた。 しかし、 「私は反対です」 キッパリとした口調で、長女のお菊が言ったので、皆驚いた。 お菊、二十四歳。 二度、他家に嫁いだが、添い遂げられず、今は実家に戻り、ひっそりと暮らしている。柔和で口数も少なく 「ハキと物言わぬ娘じゃな」 と父が言うように今まで自分の意見を口にしたことがない。 そのお菊が今回、真っ向から父親に異を唱えたので、八左衛門も、 「お菊、何故じゃ?」 と訊いてみた。 お菊が言うには、 「父上は谷家の当主です。父上が亡くなられては家の者たちが困ります。それに谷家が絶えてしまってはご先祖様にも申し訳が立ちません」 「ならばどうする?」 と苦りきる八左衛門にお菊はどんでもないことを言い出した。 「私が佐太郎の身代わりになりましょう」 「身代わり、とな?」 「佐太郎の出奔はまだ藩の御重役方のお耳には届いていないのでしょう?」 「うむ」 「だから私が佐太郎ということで、腹を切ります」 「な、な、な・・・」 八左衛門も他の家人もお菊のあまりの申し出に二句のつげがなく、あんぐり、口をあけている。 「戯けたことを申すな!」 老父に怒鳴りつけられても、お菊も譲らなかった。 「いいえ、谷家の家名を守るにはそれしかありません」 「な、ならぬぞ!」 「でも他に手立てがありまして?」 「だからわしが・・・」 「父上は谷家をお潰しになるおつもりですか?」 「う、うーむ」 沈黙する婿養子の八左衛門にお菊は、 「父上、佐太郎をお責めにならないで下さいね」 弟のことをとりなした。 「彼奴めは許さぬ。切腹を恐れて逃げた臆病者だ。武士の風上にもおけぬ」 「佐太郎を逃がしたのは私です」 「なんと!」 「あの子はね、切支丹だったのです」 これには常識人の八左衛門、腰を抜かしかけた。切支丹といえばこの国で一番のご禁制である。露見すれば、佐太郎一人のみならず累は谷家全員に及ぶ。 「き、き、き、切支丹とな?」 「切支丹では自害を固く禁じておりますゆえ、佐太郎は悩んでいました。腹を切れば教えに背く、さりとて切らねば不孝になる、と。あの子の苦衷を見かねて、私が逃げるよう説き伏せたのです。咎は私にあります」 だから私が佐太郎の身代わりに、と言うお菊に八左衛門は 「できん! できん!」 と頑なに首を振るばかりだった。 とは言え、妙案もなく、切腹の期日は迫ってくる。お菊は毎日のように八左衛門に言い募る。 ある夜、こんなことを言った。 「命には使い時があるのですよ」 「そなたに言われずともわかっておるわ」 「ならばお聞き届けください。私、このまま、漫然と生きていても、とても何方かのお役に立てるとは思えませんわ。どうせ甲斐なき命ならば、父上の為、弟の為、母や妹たちの為に使いとうございます」 「菊」 「はい」 「そなた、帯刀(たてわき)殿のことを未だに・・・」 お菊は幽かに微笑した。 馬瀬帯刀は家中でも聞こえた美男で、武芸にも秀で、家中の女たちに騒がれていた。 この帯刀にお菊も想いを寄せていた。帯刀もお菊を憎からず思っていた。 しかし家格が合わぬ、と八左衛門は二人の仲を許さず、お菊は他の藩士の許へと嫁した。 お菊は想い人を恋うて、帯刀様と添えぬならば、いっそ尼になりたい、と密かに母に漏らしていたという。 その帯刀が今回の切腹の介錯をつとめるという。 「帯刀様の刃にかかって死ぬるは本望にございます」 「あのとき、そなたの心を汲んでやればよかったのかも知れぬな」 と八左衛門は天を仰いで嘆息した。 ともあれ、 「菊」 八左衛門は平凡だった五十四年の生涯のうちで、最も辛い決断を下さねばならなかった。 「許す」 とだけ言った。 「ありがとうございます」 お菊は晴れやかな顔で笑った。 その前夜、母は娘の髪を男の形にした。 畳に届くほどの長い黒髪を切った。鋏が黒髪を滑り、それを押し切り、何度も目頭をおさえた。 お菊は黙って目を閉じている。 続いて月代を剃らねばならない。母は剃刀を手にとった。盥に張った湯に浸した。 それを娘の額にあてた。 少しためらって、思い切ってひいた。 スウーと髪が払われ、青い頭皮がのぞいた。 母はたまらず袖をおおって泣いた。 「母上」 お菊は流石に困った様子で、さめざめと泣く母を振り仰ぎ、 「泣かないで」 と言った。 「これは宿命(さだめ)なんですよ」 「これが宿命と言うならば・・・私は来世ではけして武家の女には生まれたくはありませんよ」 と嘆く母を 「それは私どもの決められることではありませんわ」 娘は諭した。 「私たちに出来るのはただ、現世をよく生きよく死ぬことだけ」 私はよく生きられなかったので、せめてよく死にたいのです、とお菊は再び目を閉じた。 母もあきらめたように、また剃刀を握った。娘の前髪の生え際にあてた。ひいた。髪がまた少し失われ、瑞々しい青の部分が広がった。 お菊はその感触を愉しむかのように、恍惚とした表情でいる。 月代が剃りあがり、髷が結われた。 「鏡を見せてください」 お菊は母が差し出した鏡で自分の髷姿を確かめると、 「良き男振りでしょう?」 とニコニコと母を見た。高揚を抑えきれないのか、頬が杏色に染まっていた。 同意を求められた母は、 「まったく」 とうなずいた。 「本能寺で果てた森蘭丸もこのような美丈夫だったのでしょうね」 母の言うとおり、男の姿になったお菊は女性であったときより艶やかな色香を漂わせていた。 「この髪は」 とお菊は懐紙に包まれた剃髪を指差した。 「後で帯刀様にお渡しください」 翌日、お菊は死んだ。 腹を切るため、諸肌脱ぎになったお菊に、事情を知らずに立ち会った検死役の侍たちは あ! と息をのんだ。晒しで巻かれた乳房はまぎれもなく女のものだった。 しかし彼らは八左衛門の立場やお菊のけなげさに心をうたれ、お菊の立派な最期にも深く感じ入り、このことを不問に付した。主君には、 「谷八左衛門倅佐太郎、上意に従い見事割腹仕り候」 と報告がなされた。 谷家はお咎めを免れ、明治まで続いた。 お菊の介錯を果たした帯刀がどんな気持ちだったかは察するしかない。 ただ、彼はお菊の死後間もなく武士を捨て、僧となって諸国を巡り歩いたという。 (了) あとがき これも「懲役七〇〇年のメッチャ怪しい誕生秘話」と同時期に書いて、二年間お蔵入りになっていたものです。マニアックなような気がして・・・。 ああ、そうだ、「時代劇のヒロインはいつも不幸な状態になるなあ」と不満で、「今回もか〜」と思って、発表する気になれなかったんだっけ。 発表する機会をうかがってるうちに、「切らずの市弥」ができて、余計に出しづらくなったんだよなあ。 女性の切腹フェチ というのがいるらしく(驚いたけど、相当歴史古いらしい)、そういう人向けの小説をネットで読んだんですね。 それがかなり読ませる内容で(まあ、それで食べてる人たちのものだから)、迫力があるんですよ。で、毒されました(笑) 同じフェチでも断髪フェチで良かった。 日常的にあるものだし。。。 |