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すきすき! 妙久さん♪


(1)神田川

 祖父の十三回忌なので、菩提寺の張雲寺に行ったら、住職の妙久さんがいきなり頭を丸めていたので、皆、のけぞらんばかりに驚いた。
 最初、坊主頭に僧衣の人が現れたとき、
何処の坊さんだろう?
と訝った。
 親戚たちも同様だったらしい。
 それが妙久さんだと気づいて、男性陣は凍りついた。女性陣は騒然となった。
「随分さっぱりしちゃって、どうしたの?!」
 さっぱりするにも程があった。
 妙久さんは照れ臭そうに、
「アラ、イヤだ、恥ずかしいワ」
うふふ、と笑ってごまかした。

 法要がはじまった。
 俺はうわの空で、読経する妙久さんの寒々とした後頭部を見つめていた。
 いつもはたっぷり蓄えた黒髪を高々と結い上げ、ウナジの後れ毛が色っぽかったのに。
 参列者もソワソワと落ち着かぬ様子だった。

 長谷川妙久さん、尼僧。俗名は久恵という。幼い頃から彼女を知っている祖母は「ヒーちゃん」と彼女のことを呼んでいた。
 大学を出た後、地元の農協に勤めていたが、父親の住職が急逝したため、二十代で張雲寺第二十四世になった。以後、十年以上寺を守り続けた。
 垂れ目でポッチャリとした天平顔、中肉中背――三十をすぎて少しふっくら肥えてきた。
この辺りでは美人住職で通っていた。
 正直、「美人」といっても、マスコミが濫用する「美人○○」みたいなもので、住職にしては、まあ、カワイイんじゃないの、といった程度のレベルだった。
 とは言え、独身のせいか年齢より十歳は若く見えたし、色香もかなりのものだった。見た目二十代、色香は四十代、ある意味最強である。
妙久さんも自己のフェロモンを自覚してか、コケティッシュに振舞っていた。
 有髪というのも「美人住職」の大きな理由だったと思う。有髪も有髪、腰近くまでのロングヘアーだった。
 法要や檀家参りなど尼僧の仕事のときは、勿論、きちんと後ろでまとめていた。プライベートではそのまま、肩に背中に流していた。

 妙久さんの長い髪は「バブル」というより、もう一、二世代ほど前の「神田川」っぽかった。
 実際、妙久さんの大学時代はまだ学生運動の余燼がくすぶっていた頃だった。入学した大学も「左寄り」と世間で言われていた。
 彼女はいわゆるノンポリだった。
 しかし、キャンパスの空気に馴染み、ファッション的な部分だけ、ヒッピーっぽくなっていった。
 ヒッピーと言えば長髪である。自由とラブアンドピースのシンボルこそ、長髪である。
 出家してからも変わらなかった。
むしろ出家して一般的な感覚が麻痺してしまったようだった。
彼女と同世代の女性が社会に出、家庭に入り、なにかの歌の歌詞にあるように、「もう若くない」と髪を切ったり、染めたり、パーマをあてたりしているのに、妙久さんは乙女の頃のまんま、浮世離れした長い黒髪を維持し続けていた。
妙久さんが犬を連れ、河川敷を散歩しているのを、よく見かけた。
 インディアンガールのように額の真ん中で分けたロングヘアーをなびかせ、上はエスニックな柄のシャツ、下はスラックスというイデタチで田舎の風景の中をゆく妙久さんには、郷愁を誘う70年代のフォークソングが似合っていた。

 今は亡きナンシー関さんは左翼系文化人の長めの髪を評して、「首から上は生理」という名言を残している。
 髪型については、「ファッション」や「メンタル(気合とか心機一転ってやつ)」「メリット」「ルール」の面でばかり語られるが、「生理」の部分で語られることは余りない。
 髪を伸ばしたいと思っても、我慢できず、つい切ってしまう人、逆に切りたくても切れない人、思い切ってイメチェンしても、すぐに元の髪型に戻ってしまう人、色々あるが、意思の力のみでは如何ともしがたい、「生理的に落ち着く髪の長さ(形)」が個人個人に存在するケースも多々ある。
妙久さんの超ロングからも、そういうニュアンスが伝わってきた。
 彼女のロン毛は、好き嫌いのレベルを超越して、例えば、深海魚が海底の水圧でしか生きられないように、彼女が人間として存在していくうえでの必要条件のようですらあった。
 俺も周りも妙久さんがこの先、天地が裂け、太陽が西からのぼり、西暦が宇宙世紀になろうとも髪を切ることはないと思っていた。

 ところが妙久さん、髪をバッサリ切ってしまった!
 それも丸坊主に!
 何事か?!
と皆、色めきたつ。

(2)ガアーッ

 読経が終わり、いつものように妙久さんの法話になる。
 法話は良寛さんの逸話だった。
 妙久さんは、自分の頭に突き刺さる好奇心と困惑に満ちた視線に閉口したのだろう、法話のしめくくりに、
「私は良寛さんには及びもつかない下っ端の尼僧ですが、頭だけはこうして、良寛さんみたいに」
と坊主頭を、ザラリとなでながら、茶目な顔をして、
「昨日さっぱりと丸めて参りました」
「尼さんらしくなったよ〜」
と源蔵叔父にひやかされ、はにかんで笑っていた。
 法要が終わり、お茶が出た。
 妙久さんはまるで交際が発覚したアイドルのように、皆から、突然の坊主頭について、質問攻めにされていた。
「今度、本山に行くのヨ」
と妙久さんは事情を話してくれた。
 彼女の説明と、後に色々と取材(笑)して得た情報を総合すると――
 ウチの十三回忌から数日後、本山で重要な法会がある。平安時代から続く由緒ある法会だという。
 妙久さんの宗派では、住職クラスの僧侶はこの法会を絶対に受けなければならない。そしてこの法会に参加する僧侶は男女問わず剃髪するきまりになっているそうだ。
 大人になってから、ある僧侶作家のエッセイを読んだとき、たぶん、この法会じゃないか(確証なし)、と推測される一文があった。
 エッセイによると、その法会は僧侶の「卒業試験のようなもの」で、
「この○○(儀式名)を受ける者は必ず坊主に頭を剃らねばならない」
とのことだ。
 エッセイ、続けて引用する。
「今年も、前日まで髪を伸ばしていた尼さんが何人か、生まれて初めて坊主頭になって参加していた」
 妙久さんがまさにそれに該当する。
 得度のときも修行のときも頑なに有髪を通してきた妙久さんだが、さすがに1000年の伝統には敵わず、人生最大のバッサリを余儀なくされた。
 宗教はすごい。
 例えば、教師がクラス全員に「お前ら坊主にしろ」と命じたら、問題になるだろう。
 総理大臣ですら、閣僚や役人に坊主頭を強要できない。
 その点、宗教は、
「参加者の方は剃髪でお願い致します」
の一言で全国の何十人何百人という女性に粛々と頭を丸めさせてしまう。
 そう、目の前の妙久さんみたいに・・・。

 実は妙久さん、この法会を受ける機会を、三度逸している。
 一回目は参加を申し込んだが、定員オーバーで受けられず、二回目は理由不明、三回目は母方の祖母が入院したので、その世話をしていた。
 今回ようやく参加できることになったはいいが、本山から葉書がきたときに、まず初めに、
「”嗚呼、坊主決定ぃ〜”と思った」(本人・談)
そうである。
「赤紙をもらった気分」
と、これも本人談。
「その頭、床屋でやってもらったの?」
という質問に、
「ええ、馬場さんのところで」

 バーバー馬場

という赤ちゃん言葉みたいな店の名前の床屋には、俺もいつも世話になっている。
「バリカンでガアーッって」
 言いながら妙久さんは握り拳を坊主頭にあて、バリカンで頭髪を刈るジェスチャーをしてみせた。
「あっという間に坊主だったワ」
 そうなの?!
と心中驚いた。

 尼さんが髪を剃るときは、こう、白無垢みたいなのを着て正座して、えらいお坊さんが剃刀をとって、
「本当によろしいのですな?」
「はい」

・・・とかやるんじゃないの?
 バリカンでガアーッって、そういうのなら、俺も中学に入るときにやったよ?
 妙久さんの言葉を裏付けるように、彼女の頭は「ただバリカンで刈っただけ」の3mmほどの丸刈り。
 丹念に剃りあげた剃髪ならば、有り難味もあり、なんとなく艶かしくもある。
が、妙久さんの丸刈りはえらくチープな印象だった。そして、俺にとって、そのチープさは生々しく、密かに興奮していた。
 興奮しながら、戸惑っていた。それはそうだ。丸刈りのオバサンに性的な興奮をおぼえるなんて、とても他人には言えない。言えやしない。
 しかも妙久さん、坊主頭になって、「美人住職」の面影は何処へやら、性別も年齢も不詳になってしまい、これはこれで、まあ、可愛いとは思うが、ひどくマニアックになってしまった。
「ミッ君、おいで〜」
と懐いてた従兄弟(四歳)を抱っこしようとして、大泣きされ、傷ついていた。まあ、子供は泣くよなあ。
 意に沿わぬ坊主頭にさせられるわ、可愛がっていた子供に怖がられるわ、妙久さんも災難である。
 従姉のサエちゃんやサエちゃんの同年代の女の子たちは、触らせて〜、と前日できあがったばかりのホヤホヤの丸刈り頭をザリザリさすって、気持ちよがっていた。
「スゴイ、スゴイ!」
と小娘たちは感嘆していた。
大人たちも、
「ご利益があるかもねえ」
と便乗して、撫で仏さながらにザリザリさすっていた。男性陣はさすがに遠慮していた。
 勿論、俺も遠慮(我慢)した。
きちんと手間暇かけて本格的に剃髪をせず、「バリカンでガアーッと」乱暴に済ませてしまうあたりに、妙久さんの
 嫌々やりました
とでも言いたげな心情を勝手に垣間見た。さらに興奮した。
 「ガアーッ」って擬音には、バリカンのスピードとパワー、そして、そんなバリカンの非情なまでの利便性の実体験者の仄かな嘆きが伝わってくる。
「ヨウちゃんももうすぐ坊主だね」
 四つ下の従兄弟の洋介は半年も経たず、中学に入学するため、丸刈りにしなくてはならない。叔母から水を向けられ、憮然としていた。
 妙久さんにも
「ヨウちゃんもアタシみたいにバリカンでバサッといかなきゃ」
と言われていた。
 「バサッ」というのは、髪が落ちる擬音だろう。あれだけたっぷりした妙久さんのロングヘアーが全部落ちたんだから、昨日はバーバー馬場の床、鳴りまくったことだろう。男性の短い髪に慣れきったバリカンも「ノルマ」の多さにビックリしたんじゃなかろうか。
 坊主の話題になると、いつもむくれる洋介だったが、妙久さんには素直に、うん、とうなずいていた。
 それも当然だろう。
 母親や女子に「丸刈りくらい何よ」とハッパをかけられても、
そりゃあ、アンタらが丸刈りにするわけじゃないからいいよな
とシニカルな気分になるが、丸刈りの女性に「バサッといかなきゃ」と言われたら、これは、もう、拝受するしかない。
 洋介ももうすぐ妙久さんと同じ店、同じバリカンで同じ丸刈りになるだろう。
そう考えると、昨日、俺が友人宅でテレビゲームをやっている間、妙久さんが三十年以上慈しんできた艶やかなロングヘアーに入れられたバリカンは、先々週、俺の散髪に使われたのと同じ――もっと言えば、この地域の男子を丸刈りの「お兄ちゃん」に変え、運動部員たちに試合前の気合いを入れてきた汗と涙のバリカンだったのだ。

  これは公然の秘密だが、妙久さんの初恋は中学のとき。相手は同級生だった赤木秀行さん(その後、実家のガソリンスタンドを継いでいる)。ラブレターを出したりしてたそうである。赤木さんは無論、当時丸刈りだった。
 もしかして、妙久さん、バリカンで丸刈りにされながら、
 うふふ、アタシ、秀行クンと同じにされてるワ〜
と甘酸っぱい気持ちに浸っていたろうか。それどころではなかったろうか。

 それどころではなかったろう。

 証言がある。

 妙久さんの断髪を目撃したバーバー馬場の主人の一人息子、健也(当時十歳)によれば、妙久さんは最初は、
 頭の形ヘンじゃないカシラ、
とコケティッシュに笑って愛嬌を振りまいていたけれど、最終的に、
「『素』になっていた」
そうである。

 同じ丸刈り経験者として、僕にもおぼえがある。
 初めての丸刈りのとき、髪がバリバリ刈られて、みるみる顔が露になる。顔のみが剥き出しになる。見慣れている顔なのに髪がなくなるにつれ、非常にグロテスクで、まるで別人のような気分になる。ちょっと待って、とゆっくり確認する暇もなく、バリカンは容赦なく仕事を続ける。
 鏡に映る自分の変化+バリカンの能率(刈り手がプロならば尚更である)、しかも自分は100%受身の状態では、初めての人は、混乱する。
 驚き。困惑。悲しみ。焦り。否認。羞恥。嫌悪。拒絶。絶望。脱力。諦め・・・。これらの感情群からどれかを選択する猶予も与えられず、結局、恨めしげな目で鏡の向こう側の
 情けない現実=おとなしくボーズになる以外に道ナシ
を見据えるしかない。
 妙久さんの場合、「女性なのに丸刈り」「ずっとロングヘアーから一気に丸刈り」「必要に迫られ不本意ながら丸刈り」の三重苦では、そりゃあ、「素」にもなる。

(3)バーバー馬場のこと

 理容店バーバー馬場は張雲寺から車で二十分。
 江戸時代にはお伊勢参りの旅人や絹を売る商人たちがテクテク歩いた往還から、道を一本離れた田舎道にある。
 周囲は稲田が整然と並び、養鶏場もにある。人家はまばらで、いかにも牧歌的な風景の中、ポツンと営業している。
 妙久さんも愛車のカローラを駆って散髪に向かう途中、晩秋の刈穂を眺めたに違いない。そして髪に手をやって、未練たっぷりに最後の感触を楽しみ、感傷に浸っていたかも知れない。車中のBGMは彼女がいつも愛聴しているエルヴィス・プレスリーだったろう。

 バーバー馬場は元々はその当時の主人の父親が床屋を開業していた。創業は高度成長期の頃だった。その時分には「馬場理髪店」という屋号だったという。
 時は経ち、息子の代になり、四年前、改築工事をして、外装内装ともにだいぶモダンになった。店の名前も「バーバー馬場」になった。カット技術料もあがった。
 改築が功を奏して、若い客層も目立つようになった。中学生や高校生もカットに来るようになった。
 もっとも中学生は丸刈りオンリーだった。
 必然的に店主の丸刈りの技術も向上した。
 店主の馬場氏は温厚で尚且つ覇気があった。まだ青年の匂いの残っている人だった。
 僕も毎月散髪してもらっていたが、店主は
「N先生ってまだいるの? オレ、あの先生にはしょちゅう怒られてさ」
と中学のOBという立場で如才なく接してくれていた。

 妙久さんが久恵時代からの頭髪を処分するのに、バーバー馬場を選んだのは、店構えがモダンだからでも、店主の技術や人柄からでもない。
 馬場家は先祖代々、張雲寺の檀家なのである。
 特に先代の店主は寺への寄付や奉仕活動に熱心だった。
 そういう家だから、今回の法会の情報もキャッチしていた。妙久さんが剃髪せねばならないことも知っていた。
 隠居した先代が助平顔を笑み崩して、
「ウチなら半額で頭刈ってやるよ」
と冗談半分に妙久さんのヘアカットを買って出て、それなら、と妙久さんも好意を受けることにした。
 別に「半額」という言葉に反応したわけではあるまい。たかだか二千円程度の話だ。
 せっかく熱心な檀徒の厚意があるのに、余所の店――例えば、いつも髪のケアをしてくれている心安い美容院など――に行ったら、馬場家の心証を害するかも知れず、妙久さんも謂わば女手ひとつで一寺を切り盛りする経営者だから、そうした機微を踏まえ、「政治的配慮」から、成人女性には敷居の高すぎる床屋の客になったと推測される。

「妙久さんがウチに来たのは、午後三時ジャストだった」
と健也少年は回想している。我々が彼女の丸刈り頭に肝を潰す十九時間前である。
 健也少年はいつも居住空間の2Fから、1Fの店に降りてきて、豊富にある漫画本を読んでいた。この日、腹痛で学校を休んでいたが、午後から痛みもなくなり(と本人は言うが、もしかして仮病か?)、店に降りて漫画を読み散らしていたところへ、彼が初めて目撃する成人の女性客が現れた。
「青っぽいセーターを着ていた。下はジーンズだった。髪は結ばずそのまま背中へ垂らしていた」(馬場健也・談)
 その女性の客が法要やお盆でお経を読んでくれる「お姉さんみたいなオバサン」だと、健也はすぐに気づいた。
いつもはまとめていてわからなかったが、妙久さん髪が腰近くまでの長さだと知って、健也は驚いた。
「“こりゃただ事じゃないぞ”って思った」
と健也は語る。
 子供は直感が鋭いから、健也少年もこれから行われるバーバー馬場創業以来、前代未聞のヘアーカットをとっさに予感した。(それにしても健也少年の記憶が正しいとすれば、妙久さんはカジュアルな私服で頭を丸めに行ったらしい。もう少し尼さんっぽい、袈裟や作務衣の方が良かったのではないか、と老婆心ながら考えてしまう。まあ、本人にとってはどうでもよかったのだろう)

(4)日和見派

 話は前後するが、妙久さんがバーバー馬場のドアをくぐる一時間前に、張雲寺を訪問した老婦人がいる。
 老婦人の名は池内那美子といって、長年僕たちの中学のPTA会長をしていた。妙久さんとは生け花の集いを通じて、交流があった。

 那美子女史はきっと満面に喜色を浮かべていたろう。

 うちの中学でも時代の流れを受けて、丸刈り校則の見直しが囁かれるようになり、ついに昨年、
 廃止にすべき
との意見が出た。
 当然、反対論もあって、その急先鋒が那美子女史であった。
 妙久さんも那美子女史に同調していたらしい。
 那美子女史が主催する「丸刈り校則を守る会」にも参加していた。
 「守る会」の議事録に、妙久さんの発言がちゃんと記載されている。以下はその抜粋。

「丸刈りの方が清潔感があっていいと思うんです」
「(丸刈りは)さっぱりしていて中学生らしいんじゃないでしょうか」

 発言からもわかるが、あまり強い信念や思想はうかがえず、「さっぱりしてていいんじゃないの」ぐらいのボンヤリとした認識だったようだ(だから前に「ノンポリ」と彼女を評した)。
 大体自分だって尼僧らしくない長髪のクセに、公の場で他人の髪型を云々するのはいただけない。
 尤も、妙久さんにとって、重要なのは池内那美子という地元の有力者との社交で、同調といっても、知り合いの那美子女史に「お付き合い」といった程度の感覚でしかなかったようだ。実際、「守る会」の会合には一回目に顔を出したきりで、以後ほとんど活動に参加していない。
 意地の悪い見方だが、「どうせ坊主にされるのは他人なのだし」、と無責任に考えていたフシもある。地元中学生を自己の社交の犠牲にしたのか? だとしたら妙久さんもひどい。
 結局、「守る会」に阻止され、丸刈り校則廃止案は頓挫、その翌年も百人以上の男子が一気に坊主頭になった。
妙久さんにも責任の一端はあるといえる。

 丸刈り校則堅持さる、の「朗報」を伝えに張雲寺を訪れた那美子女史は勝利に狂喜乱舞していたが、共に凱歌をあげるつもりでいた「同志」であるはずの妙久さんの顔色はすぐれなかった。
「ああ、そうですか」
歯切れ悪く言ったきりだった。
 妙久さんの反応がいまひとつだったのも仕方ない。
この後、那美子女史は別の「同志」の許を訪ね、妙久さんのリアクションの悪さについて、
「肩すかしをくらわされた気分だったわよ」
とこぼした。こぼした頃には妙久さん、すでに3mmの丸刈り頭を秋の風にさらしていた。
 那美子女史来訪の直前、いつまでもグズグズ髪を切ろうとしない張雲寺二十四世住職に母君が焦れ、
「アタシが散髪してやろうか?」
とまで言い出したので、妙久さんは「不器用な母親<プロ」と判断して、大あわてでバーバー馬場に予約の電話を入れたそうである。母君が法要の後、話してくれた。
妙久さんも当事者になってみて、初めて、中学校の入学式を控えた新入生男子の気持ちがわかったのではないだろうか。
もしかしたら宗教者らしく、
 因果応報
という四字熟語が脳裏に浮かんでいたろうか。
 それとも、単に目の前で滔々と弁じたてる老婦人に早く帰って欲しい、と願っていただけだろうか。
 そんな事情は知らない那美子女史は興奮冷めやらぬ態で、
「やっぱり丸刈りが一番よ」
と気焔をあげていた。
「長谷川さんもそう思うでしょう?」
と同意を求められて妙久さんも
「そうですワね」
とふくよかな天平顔をひきつらせて笑っていたそうである。
「おかしくて仕方なかった」
とは二人の会話を聞いていた母君の談。

(5)「落飾」

 もしかしたら、散髪に向かう直前の那美子女史との会話が、その三十分後、バーバー馬場における妙久さんの
「丸刈りでお願いするワ。長さ? ん〜、じゃあ3mmで」
というオーダーを誘引したのかも知れない。この台詞、目撃者の馬場健也が妙久さんの口真似までして再現してくれた。

 以下、馬場健也の証言をもとに、妙久さんのヘアーカットを再現してみる。

 妙久さんが店を訪れたのは、前述したが、予約通り、午後三時だった。
 割合落ち着いた様子だった。健也少年にも「学校はどうしたの?」とニコニコと話しかけたそうである。
 店主である健也の父は事情を知っているから、
「はいよ、お上人さんも辛いだろうからさ、こういうのはパッと済ませちゃった方がいいんだよね」
と言いつつも、いつもの覇気のある接客ぶりは鳴りをひそめていた。
 まあ、色香ムンムンの「美人住職」の坊主刈りとあっては、小便くさい中学生男子とは勝手が違ったはずである。
 だがしかし、これまで何十何百という坊主頭を作っては店から送り出してきた馬場氏である。すぐに仕事モードに切り替わった。
慣れた手つきで、たちまち妙久さんの身体に柄のついた小洒落たケープを巻いた。俺も巻かれたことのある水色の、ナントカって大きくロゴの入ったやつ。
 妙久さんの方だってツワモノ、なにせ、これまで女性の身で一山の住職をつとめあげてきた。小娘のようにメソメソしたりしない。
 したくてもできなかったはずだ。
 檀家の馬場氏の店で泣いてしまって、馬場氏の口から(馬場氏は決して軽薄な人柄ではなかったが)
「張雲寺のお上人さん、頭剃るとき、泣いちゃった」
という話が広まっては甚だ体裁が悪い。最悪、こんな村社会では、下手をしたら死ぬまで語り継がれる可能性だってある。泣きたくても泣けない。正直、年齢的に、ヘアーカットで泣かれてもキツイものがある。そこの辺りは自他ともにわかっている。
「で、どのくらいにする?」
「丸刈りでお願いするワ。長さ? ん〜、じゃあ3mmで」
 妙久さんは「守る会」の関係で、多少丸刈りについての知識はある。本山に行って、咎められないであろうギリギリの長さを選択したのだろう。
「3mmで」
と注文しながら、妙久さんは最後に名残を惜しむようにケープから引っ張り出した右手でそっと髪をなでた。撫でつつ、
「頭の形ヘンじゃないカシラ」
 ちょっとハシャいでみせた。
「大丈夫だよ」
 店主はやおらバリカンをカット台の引き出しから取り出し、スイッチを入れた。業務用の大きな代物で、音も
JIRIRRRRRRR
と掘削用ドリルを連想させる。
「いい? やるよ?」
 馬場氏が儀礼的に最後の確認をした。
 妙久さんはすでに覚悟を決めていて・・・って言うか開き直っていて、
「ああ、もうバッサリ刈っちゃって頂戴」
 しかめ面で笑っていた。
「若返ると思うよ」
 馬場氏は慰め顔でそう言って、弓手に櫛、馬手にバリカンの二刀流状態で、妙久さんのトップの分け目に櫛を入れた。
 コームでさっさっと分け目を掻き分け、髪を後ろに引っ張り上げ、バリカンをあてる。JIRRRRRとバリカンは鳴る。
 ズーとバリカンが前頭部に入れられた。
 バサリ、
 久恵時代からの髪がひと房、ゆっくりとケープに落ちた。
 馬場氏は今度は妙久さんの頭頂部で、バリカンを垂直気味に立てた。そうやって、できたばかりの轍のような刈り跡を、行き止まり、とでもいったふうにチョンチョンと軽く逆向きに刈った。
 馬場氏の丸刈りの刈り方である。まずは前を刈り込み、丸刈りの形にする。相手が野球部員だろうが美人住職だろうが、刈り方は同じである。
 分け目を削ってできた轍を中心にして、左、左、左、右、右、右、と順繰りに額の上の髪が刈られた。
 馬場氏はいつものように、ステップを踏むように、セカセカと立ち位置を変え、バリカンを繰った。
 気のいい人だから、かわいそうに、という憐憫の情も湧いたろうが、ロングヘアーの「美人」を坊主にするという初めての仕事に床屋の血が騒いだかも知れない。
 檀家の一員としても、やり甲斐のある仕事だったに違いない。
 なにしろ間もなく行われる法会をクリアーしなければ、妙久さんは宗門の規定的には、「半人前」なのである。菩提寺の住職が半人前では檀徒としても、肩身が狭く、具合が悪い。寺の将来も不安だ。
 妙久さんのロングヘアーにバリカンを走らせる行為が、菩提寺の保持発展につながる。ひと刈りひと刈りが菩提寺に対する「奉仕」になる。
 ――まさかバリカンでできる檀徒活動があったとは!
と馬場氏の父祖以来の篤信者の遺伝子は喜悦していたはずだ。

 妙久さんが前頭部から頭頂部までが刈りあがった。注文通りびっしりと3mmに刈りつめられた。
 続いて、右鬢にバリカンがあてられた。耳のあたりから、上へ上へ刈りあげられた。
長い髪が、バ〜ッとバリカンですくわれて持ち上がり、根元から切除された。右サイドの3mmの部分と前頭部の3mmの部分が合併、半分近くが丸刈りにされた。
 この頃には、妙久さん、入店からの笑顔も消え、押し黙っていた。健也少年曰く、「素」になっていた。
 「しんみりしてた」
とも健也少年は回想する。
 この「しんみり」は、やはり妙久さんほどの年輪を重ねた女性でなければ、出せないように思う。
 これが若い女の子のバリカン坊主だと、喜怒哀楽、生な感情が露出する。大泣きしたり、逆に、イエ〜イ!とかハシャいだり。
 社会的経験のあるアダルト女性の場合、感情の抑制がきく。それでいて、有髪時代は何十年とある。髪を慈しんできた経験、髪にまつわる思い出もティーンの少女などの比ではない。まだ女性として、「現役」な人ほど、胸のうちにわきあがる寂しさは大きい。けれど理性がその表現を最小限に押さえ込む。
 諦めつつ、受け容れつつも、こみ上げてくる寂しさは隠せず、
「しんみり」
と半刈りの現実を鏡越し、見つめている妙久さんが浮かぶ。

 後ろの髪も容赦なく、バリバリとひっぺがされた。
 馬場氏は妙久さんの腰まである長い後ろの毛を、左手にひっかけ、持ち上げた。
 そして、左の方向へ片寄せた。
 このとき、これまでじっとしていた妙久さんが人差し指で鼻のあたまをかき、ちょっと鼻をすすった。しんみりを――無意識だろうが――動作で表現した。
 後ろ髪をのれんのように左に寄せたら、当然ながら、右側が手薄になる。襟足も覗く。ボリュームの減った右の後頭部の生え際にバリカンを差し込み、
 ジ〜〜〜〜〜
と刈り上げる。
 刈ったところのすぐ左を、また、
 ジ〜〜〜〜
と刈り上げる。
後頭部がみるみる3mmに刈り詰められていった。

 あれだけの長髪をどうやって丸刈りにするのだろう?と興味深く見守っていた健也少年だが、バリカンのみでテキパキと仕上げる父親の作業を目の当たりにして、なるほど、と感心した。父親のカット技術に初めてリスペクトの念を抱いた。
 ナイフでリンゴの皮を剥くように、妙久さんの髪はきれいに剥かれた。剥かれたあとは、閑散と丸刈りの長さに整えられている。
 長い黒髪が雨だれみたいにバサバサバサバサ落ちていった。床にうず高く積もった。
 人体から離れたこれほどの量の髪の毛を、床屋の息子の健也少年ですら、初めて見た。これ以後も見たことはなかった。
 ぐるり、と右回りに丸刈りにされ、最後に左の髪が残った。
 左側の髪はダラ〜〜ンと腰までブラ下がっていた。
 見苦しく垂れ下がる数筋の髪と、刈り込まれた大部分の丸刈りのコントラストが、妙久さんがこの日やってのけた行為の凄まじさを、同時に、必要とあらば女性にすら坊主頭を強制する伝統宗教の苛烈さを、健也少年に戦慄とともに感じさせた・・・かは知らない。
「怖かった。ホラー映画みたいだった」
とは言ってた。

 長々と語ってしまったが、バリカンのファーストカットから、この状態になるまで、五分もかかっていない。
「あっという間に坊主だったワ」
という妙久さんの体験談はまぎれもない事実だった。
 「残党刈り」が執行される。
 バリカン四回で最後の髪も落とされた。
 妙久さんが四十年近く愛したロングヘアーは、たった五分で、一本残らず刈り尽くされたのだった。
「さっぱりしたぁ〜」
 散髪を終えた妙久さんは重荷を下ろした笑顔で、頭をさすって、手触りを楽しんでいたそうである。
「別人みたいだよ」
と馬場氏に言われ、
「自分でもそう思うワ」
「皆驚くんじゃないの?」
 馬場氏の予言は的中し、翌日俺たちは驚いた。

 蛇足だが、妙久さん、馬場氏の好意に甘えて、本当に半額(二千円)で
「やってもらったのヨ〜」
と俺たちに自慢していた。チャッカリしている。自慢すればするほど坊主頭が安っぽくなる気がした。
チープさに比例して、興奮度があがってしまい自己嫌悪に陥った。

(6)舞台の表裏で

 丸刈りになって帰宅した妙久さん、自宅の犬に吠えられたそうだ。
 犬にまで別人と間違われるほどの変わり様だった、と妙久さんは笑い話にしていた。
 こんなふうに、妙久さんは笑える坊主頭体験レポートを我々に提出してくれ、俺以外の参列者を抱腹絶倒させた。さすが、説法で話術を鍛えられただけのことはある。
 曰く、坊主頭のことを忘れて鏡を見て、ギョッとしたワ。心臓に悪い髪型。
 曰く、この髪型に合う私服がないのヨ。どうしようカシラ。
 曰く、白髪かと思ったら糸くずだったワ。くっついちゃうのよネ。
 話が逸れて、料理の話題になって、母が自作の煮物へのこだわりを語り、
「まあ、手前味噌なんだけどね」
と謙遜すると、
「ま、アタシはマルコメミソなのよネ」
と自らイジられにいき、従姉のサエちゃんなんて涙を流して爆笑していた。
ここだけの話、サエちゃんは何故か妙久さんが大嫌いで、陰で「ロングの尼さんなんてアリエナイ。頭剃れ」と罵っていた。願いが叶って、さぞ満足だったに違いない。

 妙久さんの坊主レポートから漏れた二、三の逸話をちょっと紹介しておく。
 話は前日のバーバー馬場に戻るが、丸刈りになった直後、
「切った髪、持って帰る?」
という馬場氏の心遣いを、
「いいワ、捨てちゃって」
と無造作に謝絶して、妙久さんは店のトイレを借りた。しばらくトイレにこもっていた。
「泣いてるんだろうな」
 馬場氏は妙久さんの髪をチリトリで二回に分けて、ドサドサとゴミ箱に盛大に捨てながら、ポツリと呟いた。
 父親の呟きを聞いた健也少年は、トイレでひっそり泣いている妙久さんの姿を思い浮かべ、少し切なくなった。胸がいっぱいになった。
 妙久さんが店を出た後、家人も兼用している、そのトイレに健也少年が入ったら、ほんのり便臭が匂ったそうである。
「あの人、頭丸めたすぐ後にウ○コしてやがったんだよ!」
 信じらんねーよ、同情して損した、と健也少年は憤慨していた。
こればっかりは生理現象なので、仕方ない。男のロマンチシズムはいつも女性のリアリズムに砕かれる。
とは言え、あれほどの断髪でありながら、ここまで良質なフェチ的感情移入を許さないケースも珍しい。
 匂いの記憶というのは強烈で、その後、健也少年は妙久さんがお盆参りに来るたび、れいの便臭を思い出したそうである。

 健也は翌週の学校の国語の授業で、妙久さんの散髪事件を作文に書いている。頼んで見せてもらった。
 以下、その一部を抜粋した。

 先週、お寺のみょうきゅうさんがうちの店にきた。
 ぼくのお父さんがバリカンでクリクリぼうずにした。
「さっぱりした」
とみょうきゅうさんは言っていた。気もちよさそうだった。
 そしてうちのトイレでう○こして家に帰った。

 この作文は本人によって、クラスで朗読された。
 担任には真面目に書くように注意を受けたが、30人のクラスメイトには大ウケした。作文に書かれた出来事は、すぐに校内に広まった。妙久さんこそ、いい面の皮だろう。
 馬場氏は馬場氏で、バリカンの刃にこってり付着した張雲寺二十四世の髪の脂に閉口していたそうで、妙久さん、立つ鳥跡を濁しまくりだったらしい。

 知らぬが花、妙久さんは談論風発、ハイテンションで、
「尼僧なんだから一度くらいは坊主にしないとダメだわネ」
「坊主頭にできる勇気のない人は尼僧になる資格なんてないワ」
と僕たちに語り、語りつつ3mmの頭に掌をのせて、その感触を楽しみ、
「ほんとキモチイイわ」
と丸刈りを絶賛していた。転向者によくある熱っぽさがあった。
でも、源三叔父さんが現在のヘアースタイルをフォローするつもりで、
「今までの髪が長すぎたんだよなあ、モッサリしてて、ちょっとむさ苦しかったよ」
と過去の超ロングを貶めたら、妙久さん、一瞬、ムッとしていた。ここら辺、女心は複雑である。
「大チャンももう一回、丸刈りにすればいいワ。アタシみたくバリカンでガァーッって」
と高校生になって髪を伸ばし始めた俺を仲間に引き込もうとするので、
「嫌だよ、そんなズンベラボウ!」
 照れも手伝って、荒っぽく拒絶した。

 その二日後、俺はいそいそとバーバー馬場に行き、丸刈りになった。
 妙久さんとの関連を否定する動機作りのため、わざわざ高校の野球部に籍をおいて(無論、練習には二度出たきり、幽霊部員となった)。
「丸刈りは久しぶりだろ?」
と目を細める馬場氏にバリカンを入れられ、
 ああ、二日前、この椅子に妙久さんは座ってたんだなあ、
と興奮した。
 妙久さんと同じ店、同じ理髪師、同じバリカンで、同じ3mmの丸刈りになった。
 バリカンの振動を頭上に感じた。
 ああ二日前、この振動を(以下略)。
 バリカンの刃には、消毒液で洗浄され切れなかった妙久さんの髪の脂がまだ残っているかも知れない。妙久さんの残り脂と俺の髪の脂がバリカンの刃を通じて、ねっとり混濁しているような気がして、股間が膨張した。どうせケープで隠れている。思う存分、膨張させた。
 妙久さんのことを色々聞きたかったが、なかなか切り出せなかった。切り出せないうちに散髪は終了した。

 皮肉にも妙久さんが髪の毛と一緒に美人住職の座から落っこちて初めて、俺の中で彼女への欲望が生まれた。そう、恋でも思慕でもなく、純粋に性的欲求の対象。
 周囲の男性が「ナシ」とのジャッジを強めるほど、「あの良さがわかるのは俺だけ」というスノッブな自意識は肥大していった。

(7)助演女優?

 本山から帰ってきた妙久さんの丸刈りライフについて、引き続き、随筆風に語る。

 意外なことに、妙久さんは丸刈り頭を続けた。
 てっきり――以前ほど極端なロングヘアーではないにせよ――髪を伸ばすと思っていた周囲はびっくりしていた。
「せっかく坊主にしたから」
 当分はこのままでいるワ、と妙久さんは笑っていた。どうも長年ロングヘアーをキープしていた反動らしかった。個人的には非常に嬉しかった。
 髪が伸びたら、飄然とバーバー馬場の扉から半身をのぞかせ、
「やってもらえるかしら?」
と飛び込みで散髪してもらっていた。
 健也少年は、ほんの二、三ヶ月前にはションボリと頭を刈られていたロン毛の「バリカン処女」が、
「いつも通りにお願いわネ」
と涼しい顔で丸刈りを注文する「バリカン姐さん」へと成長を遂げていることに、驚嘆した。

 丸刈りに作務衣姿で犬の散歩をする妙久さんに、最早70年代のカラーを見つけることは不可能だった。
「上野の西郷さんみたい」
と口の悪いサエちゃんなどはこっそり評した。70年代は70年代でも1870年代まで遡ってしまった。気がつけば、神田川より田原坂が似合う女性になっていた。

 実は妙久さんは頭を丸めてから半年後、銀幕デビューを果たしている。
 タイトルは失念したが、地元の有志が資金を出し合って製作した戦争映画(当時まだ景気良かった)。スタッフはプロだったが、出演者のほとんどは素人の地元民だった。
 非常に中途半端な脚本で、反戦を訴えたいのか、ヒロイズムを強調したいのか、いまいちスタンスの定まらない作品だった。
 妙久さんが出演すると聞いて、尼さん役か、と予想したら、
 少年飛行兵役
だった。
 後で知ったが、十代の若い連中はわけのわからない映画に、丸刈り頭になってまで(しかもノーギャラ)出たがらず――俺も誘われたが断った――中学生は部活に塾に忙しく、エキストラが集まらなかったらしい。
 スタッフをしていた池田那美子女史は困り果て、この際女性でもいいや、と丸刈りの妙久さんに出演を依頼した。「悪縁」という言葉が浮かぶ。
「台詞もないし、ただ端の方で映ってるだけだから、ね、お願い」
 妙久さんは渋々引き受けた。撮影前日には、2センチぐらいに伸びた髪を、1mmにまで刈って「役作り」した。

 俺はその映画を隣町の文化会館で観た。
 妙久さんのシーンも観た。
 他の飛行兵役のエキストラ(頭の悪そうな中高生)に混じり、カーキ色の戦闘服に白いマフラーを巻いて、少年飛行兵役を熱演していた。
 垂れ目も釣り上らんばかりに顔を怒張させ、不器用に敬礼していた。眉毛の細さが気になって仕方なかった。
 この不自然な少年兵が、つい半年前まで、「美人住職」と地元の男性にチヤホヤされていたという事実を、映画を観ている客は知らない。知る知らぬ以前に、ずっとスクリーンの端っこに映っていたので、会場中で妙久さんに注目していたのは、たぶん俺一人だったんじゃないだろうか。
 妙久さん、フィルムではずっと飛行帽をかぶっていた。わざわざ1mmの丸刈りにしたのに、「役作り」は全く意味がなかった。
「貴様ら、たるんでおるぞ!!」
とオカンムリの上官に少年兵全員がビンタされるシーンがあった。
 妙久さんも殴られていた。
 殴る役も素人(商店街の八百屋の若主人・AV好き)なので、つい力の加減を誤ってしまい、妙久さんは思いきり吹っ飛ばされ、よろめいていた。
 妙久さんは小学校時代、雨の日は車で送り迎えしてもらっていたようなお嬢さん育ちなので、もしかしたら三十路過ぎになるこの時まで殴られた経験は皆無だったかも知れない。繰り返しになるが、ノーギャラである。

この映画は大方の予想通り、大コケして関係者&地元の「黒歴史」となり、現在忘却の彼方である。フィルムはどこかのスタジオで埃をかぶって、眠りについているだろう。リバイバル上映は100%ないと断言できる。

(8)伝説誕生

 従兄弟の洋介もこの戦争映画に出演している。
 ヒロイン(売れないアイドル)の弟役という大役を見事射止めたのである。悪く言えば、父親も映画製作委員会のメンバーなので、無理やり駆り出された。嫌なコネである。
 クランクインに間に合うよう、中学入学よりだいぶ前なのに、役作りのため、フライングして丸刈りにさせられた。
 坊ちゃん刈りでも良かったのだけど、中学生になっても撮影は続く。坊ちゃん刈りのカツラをつくるか、断髪日を少し繰り上げるか、答えは明白である。
 バリカンをとったのは、なんと妙久さんだった。
 妙久さんはこのときにはすでに、ラディカルな丸刈り推進派になっていた。
 正確に言えば、バーバー馬場で自らの髪に生まれて初めてバリカンを入れられて、最後の一筋の髪が刈り落とされるまでの五分足らずの間に、日和見的丸刈り支持派から、「バリカン大好きオバチャン」へと変貌を遂げていたのであった。
 どのくらいバリカンが大好きかというと、丸刈り校則的には長髪の男子を見ると、
「バリカンで丸刈りにしちゃいたいワ」
とのたまうほどだった。檀家の男の子にも誰彼構わず、
「“お姉ちゃん”みたいにボウズにすればいいのに」
と丸刈りをすすめてまわっていた。お陰で張雲寺の周りで遊ぶ小学生男子はいなくなり、妙久さんが檀家参りで自宅に来るのを嫌がる男の子は多かったという「妙久さん伝説」が生まれた。
 ここまでは世間でよくいるオバサンと変わらない。
 妙久さんと世間一般の保守派オバサンを隔す、特記すべき点は、妙久さんは自分の頭も丸刈りにしていたことだろう。電気屋でナ○ョナルのホームバリカンを購入して、洗面所でジョリジョリ刈っていた。パワフルな業務バリカンが恋しくなると、バーバー馬場の客になった。
 丸刈りのオバs・・・お姉さんに丸刈りをすすめられて、小さな男の子なら「嫌だ」とためらいなく拒否できるが、小学生も高学年の男の子くらいになると、なんとなく女性である妙久さんに負けたくなくて、でもボウズは勘弁して欲しいし、なかなか辛い状況だったろう。
「さっぱりして気持ちイイワよ」
との丸刈りの尼さんのコメントは説得力があった。

 結局、春には妙久さんのバリカンによって、八人の丸刈り君が誕生した。
 妙久さんの床屋、意外に需要があって、驚いた。
 考えてみれば、確かに床屋代は浮く。丸刈りだから素人でもできる。お寺はこの地域の暮らしに密着してるから、心安い。しかも尼僧の妙久さんは女親にすれば、男のお坊さんよりずっと心安く、気軽に散髪を頼めるようだった。
 男の子の中には綺麗な尼さんにバリカンで髪をカットされて、ポワ〜ンと甘酸っぱい気持ちになっている子もいた。
 夏になる頃には、
「お金とればよかったカシラ」
と妙久さんが冗談を言うくらい、カット希望者が増えた。地域の尼僧フェチ予備軍も増えた。「坊主頭の三十代尼さんにドキドキ」という歪んだ初恋をした可哀想な少年も何人かいた。
 妙久さんのカットを担当した馬場氏、はからずも自ら最大の商売敵を作ってしまった形になった。皮肉である。

 洋介は妙久さんの最初のお客だった。
 女の子たちに観戦武官のように立ち会われての断髪だった。
 観戦武官たちにひやかされ、洋介は泣きべそをかいていた。妙久さんはバリカンをとめて、
「泣かない、泣かない、ヨウちゃん、似合ってるワよ」
 キスするように耳元で囁かれ、洋介は頬を赤らめていた。
 洋介は母性本能をくすぐるらしく、実は女の子たちに人気があった。
 ひやかしていた女の子たちの悔しさを隠しきれない表情が印象的だった。俺も悔しかった!

 かつての村落には、若い男に色事を教える比丘尼がいたという話を聞いたことがある。
 元々貴族社会の慣わしであったらしい。
 村落によっては、若い男子が初めての経験にオロオロせぬよう、筆おろしの役目一切を村ぐるみで年長けた比丘尼(後家さんの場合もあった)に任せていたという。
 若者たちはその尼さんによって、通過儀礼を済ませ、大人になった。

 この地域における妙久さんの役割もそれに似ている。
 少年たちの長い髪をバリカンで丸刈りにしてあげて、一種の「通過儀礼」を果たさせてやる若き比丘尼、汝の名は妙久・・・。

(9)観世音菩薩

 まあ、俺だって妙久さんで本物の「筆おろし」、済ませたんだんだけどね。
 この地域に未だ根付く、

 夜這い

という習俗によって。
 これまで触れないでいたが、妙久さんはそっちの道でもなかなかの遣り手だった。
 村のティーンエージャーから、資産家の老人まで、独身の美人住職の許へ忍んでくる男性は少なくなかった。来る者拒まずの妙久さんと関係をもった者も多く、だから、ひとり身の尼僧でも、妙久さんのセックスライフは彼女と同年代の俗世の女性より、遥かに充実していた。
 「夜の観世音菩薩」
 それが妙久さんの日没後の顔だった。
 中学時代の同級生のNとDも妙久さんの手ほどきで、「男」にしてもらった。
「オバサンじゃねえか」
と僕を含む彼らの悪友たちは彼らを冷笑した。けれど股間は、羨ましがっていた。なにせ相手は見た目二十代、色香四十代、である。

  しかし丸刈りになってから、男出入りはパッタリ途絶えているようだった。

 時は今!

 愛宕神社の明智光秀のように決断した。
 直ちに夜這いを実行に移した。
 妙久さんの「銀幕デビュー」の直後である。

 寺の離れにある妙久さんの寝室に、身体をねじこんだ。
 妙久さんは俺の女を知らない皮かむり君を、彼女の性技を尽くして歓待してくれた。
 「つまみ食い」なんて生やさしい表現では、追いつかない。「食らう」という表現が相応しいほど、妙久さんはガツガツと若い地元高校生の肉を愉み尽くした。
 未だかつてない下半身のブランクがあって、妙久さんも孤閨に耐えかねていたのだろう。
 俺が丸刈りだったことも、妙久さんを悦ばせた。俺も妙久さんの坊主頭に昂ぶった。
 妙久さんの秘壷が鳴るほどの勢いで、一物をつき立てた。
 蒸し暑い初夏の夜、寺の一室で、二つの丸刈り頭はジットリと汗ばみ、狂ったように揺れまくった。
 3ラウンド目には俺にも、ようやく余裕ができた。
 妙久さんを抱きながら、3mmの髪に鼻をあてた。臭かった。俺の頭と同じ匂いだった。女性の丸刈りでも臭いは変わらないらしい。
「臭え!」
と囁くと、
「あら、ご挨拶ね」
 妙久さんは俺の頭に鼻を押し付け、大チャンも臭いワ、と囁き返した。
 臭え、臭え、と言いながら、妙久さんの頭に口をつけ、舐めまわし、浮かんだ汗をすすった。
 妙久さんはノリにノッて、俺の屹立しまくった一物を、グイと握り、
「じぃー」
と彼女の頭にあてた。あきらかにバリカンに擬していた。
「じぃー、じぃー、じぃー、じぃー」
とバリカンのモーター音を再現して、握ったものを自らの坊主頭に擦りつけた。俺の息子が磨耗しそうな勢いだった。3mmの髪がジョリジョリと息子を刺激した。
 刺激し抜かれた末、筋肉がゆるみ、次の瞬間、妙久さんの坊主頭に大量の精液のシャワーが降り注いだ。
「シャンプー」
と俺は冗談言って笑った。
「シャンプー」
と妙久さんも鸚鵡返しに言って笑った。笑うと目がなくなって、幼女みたいにあどけなくなる。
 かわいい、と思った。
 二人ともこの痴的なプレイを大いに気に入った。それから明け方まで、二度、やった。

 小学生の頃から毎日つけている俺の日記によれば、一昨年のこの日、妙久さんのことが書いてあった。すっかり忘れていた出来事だった。以下、ちょっと抜き出してみる。

 (前略)墓参り。お寺に行く。妹が「あ、妙久さん髪切ってる〜」というので、あわててキョロキョロした。妙久さんがいてカローラを洗ってた。髪はいつものように長い。担がれたかと拍子抜けした。よくよく見たら確かに先っぽをちょっと切っていた。やっぱり拍子抜け。(後略)

 この頃は数センチのカットが妹の注意をひくほど、妙久さんのロングヘアーは頑固に保たれていた。
 「拍子抜け」という語には、俺の「もっとバッサリいけよ!」という不満と、「切らないでよかった」という安堵、双方がこめられている。断髪フェチシズムの表裏だ。

 以下、また日記の引用を続ける。

 (前略)墓参りのあと、洗車を手伝いながら妙久さんと話す。受験の話。○○高校に単願のつもりというと、「もう少し、考えた方がいいんじゃないかしら」と言われた。(中略)母が大輔(注・俺のこと)の床屋代がかさむ、とこぼすと「バリカン買って家でやってもらえばいいんじゃない? 安くあがるわよ」と言っていた。でもバリカンの値段はよく知らないとのこと。そこから髪型の話になる。妙久さんはこの間、電車ですごい髪型の女の子を見たという。小学生くらいの子でワカメちゃんみたいに後ろを刈り上げたオカッパだったという。「女の子にバリカンはかわいそうよ。親が悪いわ」と言っていた。――

 バリカン処女時代の妙久さんの部外者的なヌルさがありありと伝わってくる良い記事である。自画自賛。
 そして、受験のアドバイスをしていた小僧に、二年後の同じ日、坊主頭にザーメンをぶちまけられていた。人生は本当にわからない。

 朝、同じ布団で目が覚めて、とりあえず、バリカンでお互いの頭を刈り合った。一緒にモーニングコーヒーならぬモーニングバリカン?
 妙久さん、ズルしてマイバリカンの手入れを怠っていた。刃には、丸刈り頭の宿命であるフケがたっぷりくっついていた。「丸刈りは清潔感があっていい」と有髪の頃、妙久さんは主張していたが、そうでもない。ぶっちゃけ枕も臭かった。ロングのときには絶対、シャンプーの匂いがしてたはずだ。
 本人も身をもってわかっていて、キマリ悪そうに、
「水洗いできるから、洗うワね」
と言うのを、
「いや、いい」
と押しとどめて、匂ってきそうな刃でそのまま刈ってもらった。今度こそ、お互いの髪脂はバリカンの刃を介して、ジットリと混ざり合った。ウェットな昂奮をおぼえた。
 妙久さんの頭を刈った。
 が、他人の散髪など一度もしたことのない俺なので、思いっきりトラ刈りにしてしまった。
「不器用ねえ」
 スイカみたいな頭にされ、妙久さんは苦笑いしていた。

(10)Ekaterina

 高校を卒業して、東京に出た。一人暮らしして予備校に通い、大学に通い、就職した。この不況下で結構いい就職だったが、人間関係がうまくいかず、すぐやめた。フリーターになった。そして再就職。そこも人間関係が辛くて、一年で退社・・・と、まあ世知辛い話はやめておく。

 俺が大学生の頃に、郷里ではようやく丸刈り校則が廃止された。
 妙久さんは「守る会」をリードして、獅子奮迅の働きで廃止を阻止しようとしたが、時勢には逆らえなかった。会長の那美子女史の方が、高齢もあって、日和ってしまい、
「目に余る長髪じゃなければいいんじゃないかしら」
と妥協しかけたが、
「ダメです」
 妙久さんは過激だった。
「中学生はサッパリと丸刈り、これは譲れませんワ」
 坊主頭を振り立てられ、那美子女史は会長の椅子を妙久さんに譲渡した。
 奮闘空しく、その年、制限つきで髪型の自由化が実現。けれど妙久さんは諦めず、「守る会」を「復活を望む会」に変え、運動を続けた。その筋の人たちにとっては、エカテリーナ女帝のような存在である。
 「望む会」と並行して、個人的な活動もした。「活動」っていっても、地元の子に、
「丸刈りにしちゃいなさいヨ、”お姉さん”がバリカンで刈ってあげるワヨ」
とすすめて回るのである。
 子供たちはいよいよ彼女を恐れ、疎んじた。
 子供たちの間で「妙久さん伝説」は真実味を帯びて語られた。
 幾つか紹介する。

 妙久さん伝説その1・夜、一人歩きすると、妙久さんがバリカンを持って襲いかかってくる。その場合、「バーバー馬場」というと逃げる。
 妙久さん伝説その2・お坊さんの仲間を増やそうとして、子供を坊主にしたがっている。
 妙久さん伝説その3・長い髪の男の子に毒殺されかけ、以来長髪の男子を敵視している。
 妙久さん伝説その4・元々すっごい髪が長かったが、床屋で散髪中寝ている間に坊主にされた。怒って床屋と床屋の家族を丸坊主にした。
 妙久さん伝説その5・T神社の杉の木を「バリカンバリカン」と唱えながら十周すると妙久さんが現れる。
 妙久さん伝説その6・鳥取県で三百人の男の子を丸刈りにした。女の子も九人丸刈りにした。
 妙久さん伝説その7・セトウチジャクチョウの法力でも倒せなかった。

・・・と、まあ、こんな感じで、確かに種を蒔いたのは妙久さんに間違いないが、それにしても、チビッ子、育て過ぎだ。口裂け女、人面犬並みのデマが流れまくっているらしい。
 大人も大人で子供が言うことを聞かなかったり、夜更かししていると、
「妙久さんがバリカン持ってくるよ」
とおどす親もいたそうである。

 こうした情報は洋介を通じて入ってくる。
 マザコン気味のところがある洋介は高校を卒業するまで、妙久さんに散髪してもらっていた。
 散髪中、学校での悩みや進路の相談もしていた。
 妙久さんは「色即是空」とか「莫妄想」とか仏教用語をつかって、色々とアドバイスしてくれてたみたいで、
「”バリカン説法”だな」
と俺は笑った。
「子供を怖がらせるより、そっちの路線で攻めた方がいいんじゃないか」
と言うと、電話の向こうの洋介は、
『ああ』
とうなずいて、
『説法+散髪なら、妙久さん、すでに考えてるみたいだよ』
「ありゃ」
 どうもあの人には敵わない。

 あれから、何度も夜這いをかけ、性交渉をもった。毎回、「シャンプー」をした。「モーニングバリカン」もやった。
 のぼせ上がって、
「いつか結婚しようナ」
とまで口走ったが、妙久さんは天平顔に微笑を差し上らせ、答えなかった。

 高校二年生の終わり頃、初めて付き合ったカノジョは、俺の丸刈り頭を嫌がったので、せっせと蓄髪に励んだ。努力の甲斐なく、その子とはキスもしないまま別れた。
 ふたたび頭を丸める気もおきず、流行り始めていたロン毛で東京に出た。
 友達もできた。カノジョもできた。
 それなりに充実していたけれど、やっぱり「それなり」だった。
 辛いとき、さみしいとき、落ち込んだとき、必ずといっていいほど、妙久さんでオナニーした。妄想の中の妙久さんは大抵丸刈りで、俺にとっては彼女の3mmに調髪された丸刈り頭は故郷とつながっていた。
 たまに超ロングヘアー時代の妙久さんも現れた。
 俺は妄想の中、ダメだろ、尼さんなんだから、と彼女を優しく叱り、バリカンでせっせと3mmに刈りこんであげた。妄想の中で切った妙久さんの髪の長さは、トータルすると、陸上競技場のトラックの距離をユウに越えてしまった。東京のせいだ。
 東京で髪を伸ばしている俺と、故郷で丸刈り頭を続ける妙久さん。二人の距離は遠い。
 三十を過ぎでも、俺の人生は定まらない。
 この間、祖母の十三回忌があったが、理由を設けて帰省しなかった。
「妙久さん、大ちゃんに会いたがってたよ」
とサキちゃんが電話で言っていた。
 俺も会いたい。
でも、向こうももう大年増、こっちだって中年にさしかかっている。会わぬが吉だろう・・・。

(11)繋ガル

 尼さんポルノを観て、飢餓感を満たす日々である。尼さん役の女優は化粧してるし、モノホンを抱いてしまった俺にとっては、作り物くさくて、入り込めない。
 コイツなら、と思い切って三年越しの彼女(二十八歳、カジテツ)にバリカンプレイを頼んだら、それから連絡がとれなくなった。
 飢餓感がつのった。
 生尼の生断髪が見たい!
 ネットで断髪情報を収集する。人脈をつくる。大正時代に生まれていたら、一生巡り合うこともない人たちと、現実世界の誰とも話せない話題で盛り上がる。
 未曾有の不況だろうが、人心が荒廃しようが、学級が崩壊しようが、俺は現代に生まれて幸福を感じている。

 以前、Y山のG学院でという僧侶の学校のそばにある床屋で、新入生尼僧の生剃髪が見られる、との情報があった。
 情報提供者のミッチーによれば、彼は実際に剃髪を見物したうえ、Sちゃんっていう尼さんの卵と性交にまで及んだ由。ちょっと信じられない。嘘を嘘と見抜けなければ(尼僧剃髪マニアをやるのは)難しい。

 最近、なんと尼さんと称する「ジャクチョウ」ってコテハンとチャットで知り合った。
 刈るのも刈られるのも、両方やりたい、という。怪しい・・・。どんな尼さんだ?
 でも一億分の一の確立に賭けてみた。
 向こうも俺のことを気に入ったらしい、トントン拍子に話はすすんだ。
 今日、彼女が俺のアパートまで来るという約束だ。
 ちょっと後悔している。
 どうも話がうますぎる。
 聞かれるまま、ついつい住所や本名など、個人情報を相手に教えてしまった。必死になりすぎた。
 そのくせ向こうの情報はほとんどない。ジャクチョウといういうふざけたハンドルネームと、「仲間由○恵に似ている」という外見、あとは、「餃子が好き」とか「最近ダイエットしてる」とか「お盆参りが忙しいよ〜(><)」とか微妙な情報ばかりである。
 けれど、もはや犀は投げられた。
 待つ。それ以外に俺には何もできない。だから待つ。

 ピンポーン
 チャイムが鳴った。
 祈るように、というか実際、信じる者は救われる、アーメン、と祈りながら、ドアを開けた。

「こんにちわ」
 坊主頭に袈裟の女性が立っていた。

 妙久さんだった。

 一回りぐらい小さくなったような気がする。
「久しぶり、ジャクチョウです」
と妙久さんは相好を笑顔で崩した。どうやら、IT革命を幸いに、こうやって「個人活動」の幅を広げているらしい。
 俺は言葉もない。
「驚いた?」
と妙久さんはドッキリカメラの仕掛け人のように、悪戯っぽい目をして、また笑った。
「東京でね、本山関係者の集いがあったから、ついでに”ダイノジ”クンに会っておこうかなあ、と思って」
 「ダイノジ」とは俺のHNである。
「二、三日泊めてもらうワね」
 バリカンもってきたのヨ、とご機嫌な妙久さん。
俺は笑顔をひきつらせ、かろうじて言った。
「すいません、チェンジお願いします」

(了)

あとがき

長さ、マニアックさ、くだらなさ、どれをとってもすごい・・・。自分でも呆然としてます・・・。
やりたい放題度では迫水作品中、最高峰に位置するこのお話、如何でしたか? と言うか、最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます!
元々、「近所の有髪の尼さんが儀式のために剃髪」という普通にありそうな話を書こうと、悪戦苦闘した挙句、「絶対になさそうな話」ができあがってしまいました・・・。長いスランプの末(二ヶ月くらい)、ようやく筆が動き始めたと思ったら、便秘の後のお通じの勢いで、こんなふうになりました(汗)
とにかく思いついたこと、全部書いちゃう感じで、書いててこんなに楽しかった小説はなかったです!
長すぎマニアックすぎなんで、好き嫌い分かれるかなあ?と躊躇しつつ、「十年後にはウケるかも」(笑)と自分や読者の方に言い訳して載せます。
恐ろしいことに、この「妙久さん」シリーズ、面白がって書いてるうちに第四弾まで完成してます(笑)
もしよろしければ、お付き合い下さいね!


(了)



    あとがき





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