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図書館では教えてくれない、天使の秘密〜君が握るアリアドネの糸


 夕暮れの図書館。もうすぐ閉館時間だ。
 夏越千早(なごし・ちはや)は読んでいた本を書棚に戻した。
 少し離れたテーブルで女の子が四人、談笑している。声のボリュームがいささか大きい。日頃、図書館を利用し慣れていない娘たちなのだろう。
 制服で同じ中学の女の子だとわかる。ギザギザの不揃いショートカットでバレー部の女の子だとわかる。
期末テスト前だから部活は休みで、じゃあ、みんなで図書館で勉強でも、なんて慣れない真似をして、結局、勉強そっちのけで傍若無人に話し込んでしまったのだろう。
「だああ、こんな切られたあ」
 切りたての無惨なショートカットをなんとか体裁を整えようと、グシャグシャかきまぜる一人の女子。
「加東部長は容赦ないからねえ」
 少しマシな、でも気の利いた幼児なら嫌がりそうなショートを撫でながら、別の女子。
「ま、お互いさまだし」
「たまにはオシャレな美容院行きたい〜」
「と思いつつ、なんかさ、こう、スキンシップって感じするよね、部員同士、切ったり切られたりしてるとさ」
「・・・・・・」
 彼女たちの会話に羨望をおぼえる千早がいる。ちょっと前までは絶対認めたくなかった新しい感情、今でも持て余してしまう新しい欲望。それは、フェチシズム。言葉にしてしまうと、なんだか、ひどく味気ない。
 ――顔、合わせたくないなあ。
 少女たちとのニアミスに、怯みをおぼえる千早がいる。
 二ヶ月前に負った小さな傷・・・。
 千早は彼女らを避け、そっと反対側の通路に抜けようとした。
 ゆっくりと身体を反転させる。
 次の瞬間、
 ガタリ、
運命の歯車が小刻みに、でも確実に動いた。

 「あの人」がいた。
眼鏡をかけていた。
 ――田中先輩、眼鏡かけるんだ・・・。
初めて目にした眼鏡姿の「あの人」に、千早の鼓動が激しく、乱調のリズムを刻む。
頭に血がのぼる・・・。
眩暈がする・・・。
息ができない・・・。
胸が苦しい・・・。
身体が震える・・・。
ちょっと前まで、ポップソングのありきたりな常套句だと受け流していた状態に陥る。
「あの人」と出会ってから、何度も何度も体験した、この状態・・・。
「あの人」は、本棚から、つい今しがた千早が戻した本を引き抜いていた。
カットしたての無造作な短髪は少年のようだった。
薄い唇はいつもと同じ不機嫌に引き結ばれ、感情を表さない目はやはりいつもみたく外界を冷たくシャットアウトしていた。
知的でクールで端正な犯しがたい美貌に、地味なフレームの眼鏡はよく似合っていた。

「あの人」の名前が千早の日記に初めて登場したのは、二ヶ月前だった。
ピンクの表紙のノートはそれから、「あの人」の名前で埋め尽くされるようになった。今では「あの人」のことしか書かれていない日さえある。昨日もそうだった。

田中南。

それが、「あの人」の名前。
三年生で女子バレー部のエース。校内のスター的存在。

なんという僥倖なのだろう。
「あの人」が乱れた息遣いさえ届きそうなくらい、そばにいる。
もしかしたら、幾多の時の試練に耐え、数え切れない人々の人生を交差させてきた、この図書館をいつしか棲み処とするようになった妖精がいて、彼(彼女?)はごく稀に、奇跡を信じる勇気のない傲慢な弱虫に、俺はいるんだぞ、って、こんな悪戯をしかけるのかも知れない。
声をかけたい。
足摺するように思う。
でも、きっかけがない。
立ち尽くす千早の背後から、
「ごめんね」
と声。
返却本を大量に抱えた司書がヨロヨロと立っていた。千早はあわてて通路をゆずった。なんでワゴンを使わないんだろう(汗)
 老婆心は的中し、司書は蔵書を盛大に、床にぶちまけた。図書館の妖精の二度目の悪戯。
「大丈夫ですか」
 行きがかり上、千早は司書に付き合って、一緒に本を拾い集めた。
 田中南先輩もこの惨状を傍観できず、腰をかがめ、ちょっとイラついた表情で本を拾うのを手伝う。
「ありがとうございます」
 司書が言うべき言葉を奪って、先輩に献上する。
「ああ、別に」
と南は迷惑そうに、お礼の言葉を受け流した。
千早は内心、司書に感謝した。ネームプレートを確認した。
――野村さん、ね。
日記に書いておこう。
初めて南先輩と言葉を交わせたのも、このドジな司書さんのお陰なのだから。

「その本――」
 千早は南とのファーストコンタクトに逆上せてしまった。図書館の妖精がくれたチャンスに乗った。
「私も借りたばっかりで・・・すごく面白いですよ」
「ああ、そうなんだ」
 南は露骨な作り笑いで応じた。彼女がいつも張り巡らせているバリアーを、感じずにはいられなかった。
 でも、長身の南に見下ろされ、その美しい容貌と真っ直ぐ向き合えて、千早は幸福に緊張した。
「何回も借りてるんです」
「へえ、そうなの」
 南のほうは明らかに千早のアプローチをわずらわしがっている。それを知りつつも、
「あの・・・」
 思い切って訊ねた。
「私のこと、おぼえてますか?」
「え?」
「一年の夏越千早です。バレー部には仮入部でお世話になりました」
「ゴメン、おぼえてない」
 南はそっけなかった。
 激しく失望した。南との唯一の接点はあっけなく消えた。
 ――やっぱり、この人は・・・
他人に興味がないらしい。
「じゃあ」
 南は会話を一方的に打ち切って、手にした本を書棚に差し込んだ。新しく芽生えかけていた接点も南の方で断ち切ってしまった。さりげなくも、明確な拒絶。傷ついた。
 刈り込まれた短髪が遠ざかっていく。それを見送りながら、
――あの人は・・・。
ふと考えた。
 自分以外の誰かのことで胸を焦がしたことがあるのだろうか。眠れない夜を過ごしたこと、あるのだろうか。
 颯々と遠ざかっていく背中が答える。

そんなわずらわしい感情は自分には必要ないよ

と。


千早の中学校の女子バレー部には奇妙な風習がある。
四月、バレー部に入った新入部員たちは先輩たちから髪を、「切るな」と命じられる。
長い髪のまま、一ヶ月の仮入部期間を終え、本入部が決まった彼女たちを待ち構えているのが、先輩たちによる断髪式である。
先輩たちは新入部員のロングヘアーに容赦なく、そして、愉快そうに鋏を入れる。元々、髪の短い娘は一層短くされる。屈折したレクレーションであり、コミュニケーションでもある。
 その後、全員短髪となったバレー部員は毎月一回の「散髪日」に部員同士、髪を切り合う。
 だからバレー部の女子たちは皆、素人っぽいショートヘアーだ。
 昨今の風潮では余り望ましいとはいえない慣例だが、特に激しい反発はない。
部員間で自然発生的にはじまったため、顧問は関与してしないし、断髪の意思決定は本人に任されている。娘の無残なヘアスタイルに眉をひそめながらも、不景気なご時勢、美容院代が浮いて助かると内心では思っている親もきっといるだろう。
 慣れてしまえば、部員たちもごっこ遊びのように髪を切ったり切られたりを楽しみだす。
人気のある先輩にはカットのご指名が殺到する。可愛らしい後輩の髪を切ってあげたがる先輩もいる。
一種倒錯しているが、この慣習が部員間のコミュニケーションの潤滑油の役割を果たしているのは事実だ。
 勿論、髪を切るのが嫌で、仮入部はしたものの、結局入部しない娘もいる。 むしろ、そういう娘の方が多い。
今年も正式にバレー部員になったのは、当初の入部希望者のうちの三分の一くらいだった。残りの娘はよそのクラブに入部し直すか、帰宅部になるかして、バレー部から去っていった。
 千早も脱落組の一人だった。
 バレーボールは好きだった。
 でも、ずっと伸ばしている大事な髪の毛を、先輩に面白半分に切られるなんて、考えただけでゾッとした。中学の三年間をみっともない髪型で過ごすのもごめんだった。
 だからバレー部に入るのを諦めた。


 美術部に入部届を提出したその帰り、バレー部の「儀式」に遭遇してしまった。
 新入部員の女の子たちはわざわざ人目につく校舎の廊下で並んで椅子に座らされて、イジワルな笑顔の先輩たちにザクザク髪を切られていた。
 通りかかった女子たちは、「儀式」に目を丸くしてキャアキャア、ハシャいでいて、気の弱い男子は目のやり場に困っていた。
 初老の国語教師がにやにや笑いながら、なんだか某国の抗議集会みたいだな、と軽口を飛ばして、通り過ぎていった。
 髪をカットされている女の子の表情はさまざまだった。
グッと唇を噛んで涙ぐんでいる乙女タイプ、
目を剥いて大仰に恥ずかしがってみせているコメディエンヌタイプ、
ポカンと口を開けたままの茫然自失タイプ、
色々いた。
 斉藤幸巳の姿もあった。
 斉藤幸巳は千早の小学校時代からの友人だった。
 彼女も長い髪を切りたくなくて、千早と一緒に脱落組になる約束をしていたが、予定を翻し本入部を決めたのだった。
「ごめんね、チーちゃん」
と幸巳は千早に約束を反古にしたことを謝った。
「なんで?」
 狼狽して訊ねる親友に幸巳は苦笑して、
「昨日さ」
と心変わりの理由を打ち明けた。
 意地の悪い男子に、ブスは髪が長くても短くても変わらねーよ、と言われたそうだ。
許せない暴言だけれど、
「確かに、そりゃそうだなあ、と思ってね」
 幸巳はフッ切ることができたらしい。白い歯を見せて、
「どうせロングでもショートでもモテないならさ、好きなバレーやった方が悔いが残んないでしょう?」
 親友の晴れ晴れとした笑顔が眩しくて、千早は言葉を失った。
 幸巳は肩下までのロングヘアーを、すでに耳が見えるくらいに切られていた。
れいの暴言を吐いた男の子だろうか、腕白小僧に
「斉藤、頑張れよ〜」
と冷やかされていた。幸巳は顔を真っ赤にしながら、それでも、
「おう、頑張るゼ〜」
と腕白小僧に勢いよく手を振り返していた。
 幸巳と目が合った。
 媚びたふうな笑いを浮かべる幸巳から、千早はあわてて目をそらし、気づかぬふりをして、足早に廊下を通り過ぎた。
 ――裏切り者
という言葉が脳裏をよぎった。その言葉は何故か約束を破った幸巳ではなく、自分自身に向けられていた。媚びて無視されるのは本当は自分にこそ相応しい役回りのように思えた。
 一瞬の間に網膜にやきつけたさっきの惨劇を、頭の中、再生してみる。
 そのシーンには、田中南の姿はなかった。彼女は確かに「儀式」には参加していなかった。
 ――それはそうだ。
と一人うなずく。
 他者とのコミュニケーションを拒絶し、淡々と自己の技術の研磨にのみ励む南にとって、「儀式」に参加する意義など皆無だろう。
 南は仮入部のときも、新入部員の誰とも関わろうとはしなかった。一人、自分の練習をしていた。
 南の同級生部員たちも、そんな彼女の孤立を許していた。むしろ彼女たちは南の練習を妨げぬよう気遣って、南と外野(新入部員だけでなくファンと称する生徒たち)を遮断する防波堤の役割に積極的だった。彼女たちの心の奥には「天才を支える喜び」があったのだろう。南にはその喜びを満たし、さらに増幅させるだけの実力があった。実績もあった。美しいオーラがあった。同級生部員たちはそんな南をますます独占したがった。外野は「孤高の天才美少女」にいよいよ憧憬の念を深めた。

 ただ一人、南の唯一の親友で部長の加東明美だけは、例外だった。
「いや〜、南も昔はあんな感じじゃなかったんだよねえ」
 いつだったか図書室で後輩部員相手にしゃべっていた。
「チビでドジで弱虫でサエナクてさあ。妹キャラっつうのかな、よくイジってやったもんだよ」
「またまた〜」
と信用しない後輩たちに
「ホントだって」
と明美はムキになって、
「一年の終わり頃に大好きだった祖母ちゃんがポックリ亡くなっちゃってさ、それからだね、あの娘が自分の殻にこもるようになったのは」
 南はお祖母ちゃん子だったからね、と明美は独白っぽく述懐した。
「今のほうがいいですよ」
と一人の後輩が力説した。
「そうそう、翳があってね」
と他の部員たちも同意するのには、
「ファン心理は残酷だねえ」
と明美は苦笑していた。
「確かに南の殻は綺麗だけどさ、いくら綺麗でも所詮、殻は殻だよ。周りがそうやって南に殻をかぶせておきたがるから、あの娘、いつまで経っても、篭りっぱなしなんだよ」
「いけませんか?」
と後輩に開き直られて、
「少なくとも」
明美はちょっと真剣な顔になった。
「南にとってはあんまり幸せなこととは、アタシは思えないよ」
 親友を思う部長の心などおかまいなく、後輩部員は、
「次の散髪日には絶対、田中先輩にカットしてもらうからね」
「アタシが」
 いや、アタシが、と言い争いになっている。
「無理だね」 と明美はまた苦笑して、
「南はアンタたちの為に指一本だって動かさないよ」
 ビダル・サスーンにカットを頼む方がまだ実現性が高いかもね、とからかった。
「もし、南が後輩の誰かの髪を切ってやるようなことがあったとしたら、アタシ、ボーズになってもいいよ」
「マジですか?」
「ああ」
「約束ですよ」
「その代わり、アタシの言うとおりだったら、アンタたちの次のカットはアタシが担当だからね」
 明美のヘアカットは不器用なうえに容赦がないことで、部員間で敬遠されている。毎回、南のカットを担当しているのは、明美だったが、この不可侵の女神の髪に対してさえ、明美の鋏は手加減がない。髪型に無頓着な南は平然とカットされている。髪質からか乱暴なカットをされても、すぐに綺麗にまとまる。
「うんと短くしてやる〜」
「その代わり、ウチらが勝ったら部長、ボーズですよ、ボーズ」
 半月後、その後輩たちの髪は周囲がたじろぐほど無残な有様になっていた。
賭けは明美の圧勝だったらしい。
 ――良かった。
とホッと胸をなでおろす千早がいる。
 もし南が部員の誰かの髪を切ってあげていたとしたら、千早はその娘に嫉妬していたろう。
 ――じゃあ・・・
 二つ目の「If」が自分の心に投げ込まれる。
 もし、南が自分の髪を切ってくれるとしたら、嬉しいですか?
 心の奥で小さな声がした。

 YES

と。
 心の声に思わずたじろいだ。
 南に髪を切ってもらう自分を想像してみた。怖かったけれど、怖さの裏側には確かな甘さがあった。想像を繰り返しているうちに、甘さの方が大きくなっていった。
 南の長い指が自分の髪に触れ、南の操る鋏がゆっくりと髪を挟む。
 怖くないよ、
と想像の中の南は姉のような顔つきで、耳元で囁く。
 甘美が臆病を凌駕しきったとき、このヘンテコな欲望は確かに千早の中に根付いた。


 バレーボールがやりたい
 南に髪を切ってもらいたい
 なのに何故、自分は図書館にいるのだろう。
 「待ちぼうけ」のお百姓さんみたいに、今日もあの日、南と話した書棚の前で、二度目の偶然が降ってくるのを、何故、当てどなく待っているのだろう。本当に南に会いたければ、バレー部の部室に行けばいいのに。南はそこにいる。ここではなくて。
 ――今更・・・
と首を振る千早がいる。
 出戻る勇気もない。
 南にまた拒絶されるのが怖い。
 こんなプライド、全然必要ないのにな、と自己嫌悪に陥る。
 ため息をつき、書棚をあとにする。
 しょうがない娘だねえ、と、もしかしたら図書館の妖精が肩をすくめ、これが最後だよ、と奇跡のおまけをしてくれたのかも知れない。
 人の気配に振り向くと、南がいた。
「!!」
 千早は驚いた。
南の方も驚いたらしい。一瞬目を見開いたが、あわてて目を伏せていた。
 ――あれ?
 千早は南の様子に気づいた。
 南は千早に気づかぬふうを装いながら、あきらかに意識していた。唇を噛んで俯き、視線を泳がせていた。まるで大人に叱られそうになっている幼女みたいな表情だった。
 ――ああ!
 ようやく気づいた。
 ――この人、怖いんだ。
 明美の話していたドジでチビで弱虫でサエナイ少女が、本当の南が、思いがけぬ千早との再会で、ポンと殻から転げ落ちてしまったのだろう。狼狽して、元の殻に戻ろうとしている。
 ――こうやって、お祖母ちゃんが亡くなられた後、弱い自分を守ってきたんだなあ。
 千早は思った。殻よりも中身の方が好ましく、いや、愛おしく思えた。
「その本」
 南のドアをノックしてみた。
 不思議と拒まれる気がしなかった。
「やっぱり興味があったんですね?」
 この間、一旦は手にとったものの、南が本棚に戻した本だった。
「恥ずかしかったんだよ」
と南は白い頬を染めた。
「少女趣味でしょ? ギリシャ神話の本なんて」
「少女趣味? ギリシャ神話がですか?」
 ――なるほど、だから焦ってたわけか・・・。
 千早はおかしかった。
 自分の少女趣味を隠そうとする南も、ギリシャ神話の本さえも少女趣味のカテゴリーに入れている過敏な南もひどくユーモラスに感じた。
「少女趣味だとダメなんですか?」
「からかわれるでしょ」
誰もからかわないですよ、と南の自意識過剰をフォローしようかとも思ったが、ここは狡く、
「大丈夫です。誰にも言いませんから」
 南に恩を売っておいた。秘密を共有すると、南は普段の彼女とは別人みたく、おしゃべりになって、千早と読書の話をはじめた。
 学校では文学書を読んでいるが、本当は少女小説が好きだ、と南は打ち明けてくれた。
「ホント、乙女チックなんですねぇ」
と千早は目を丸くして、
「もしかして、部屋にヌイグルミがいっぱいだったりとか?」
と、これは冗談のつもりだったのだけれど、
「!!」
 南はギクリと千早を見下ろした。
――わかりやすい人だなあ・・・。
こういう性格だから少女時代、明美にイジられていたんだろう。たしかに、ヌイグルミはバレたら、からかわれると思う。
「この本」
 南はとっさに話題を変えた。
「面白いの?」
「面白いですよ」
 千早は笑いを噛み殺してうなずいた。
「私は『アリアドネの糸』のお話が好きですね」
「アリアドネの糸?」
 怪物ミノタウロスを退治するため、地下の迷宮に入った英雄セテウスに、彼に恋するクレタ王の娘アリアドネは一個の糸玉を与えた。怪物をたおしたセテウスは脱出困難な迷宮をアリアドネから貰った糸を辿って、無事、脱け出しアリアドネの許に帰った。
「だから今でも難問を解決するための鍵を“アリアドネの糸”って言うそうです」
「へえ」
と顔をほころばせて本の目次に目を通している南に、
 ――想いを伝えよう。
 決心した。
「あの・・・南先輩・・・」
「ん?」
「私・・・あの・・・」
「どうしたの?」
「あの・・・私、実は――」
 閉館のチャイムが鳴った。
 ここまでだよ、と図書館の妖精がウィンクしているような気がした。学校の問題はココじゃなくて学校でカタをつけな、と。
 ――ありがとう。
 千早は本棚を振り仰ぎ、妖精にお礼を言った。そして、
 ――当分、ここには来れないけどね。
 長いお別れを告げた。


 深呼吸。
意を決し、バレー部の部室のドアを開けた。
 南がいた。南だけしかいなかった。本を読んでいた。
 ――よし!
 これは偶然ではない。奇跡でもない。
 南は教室や図書館を避け、人のいない部室で読書していることがある。部活が休みのときも、家に帰らずここで読書をしていたりする。今日は部活はお休み。授業が終わったあと、職員室で確認したら、バレー部室の鍵がなかったので、やっぱり、と察しをつけたら、思ったとおりだった。
 南は入室してきた千早を見て、またか、という顔をした。多少うんざりした様子だった。
 バレー部に入部したいという千早の申し出にも、表情ひとつ変えず、
「部長に言いなよ」
と、つれない返事だった。
「南先輩」
「なに?」
「昨日のギリシャ神話の本なんですけど――」
「なに、おどしてるわけ?」
 南は露骨に不機嫌になったが、千早はひるまなかった。
「87頁」
「?」
「87頁の、髪の毛座の由来の話、知ってますか?」
「知らない。まだ読んでない」
 紀元前、エジプト王プトレマイオスが出陣中、王妃のベレニケは王の無事を祈って、美しい髪を切って、女神アフロディテに捧げた。
 あまりの髪の美しさに神はそれを天にあげて、星座にした。
「それが髪の毛座の由来なんです」
「だからナニ?」
 調子を狂わされっぱなしの南はイラついた表情で言った。
「私の髪はベレニケみたいに綺麗じゃないけど、でも――」
「・・・・・・」
「でも・・・もし・・・南先輩がカットしてくれるのなら、もしかしたら私の髪だって星座になるかも・・・なあ・・・って思ったり・・・」
 南はキョトンとしていたが、やがて噴き出した。
 ――ああ、失敗した〜!!
 きまり悪そうにしている千早を、南は意地悪く笑いながら、ためつすがめつして、
「夏越」
 ちゃんと名前をおぼえてくれていた。そして、テーブルに頬杖をついて、上目遣いで続けた。
「バレー部にロマンティストはいらないよ」
茶化してはいるが、千早にはわかった。自分の浅はかなロマンチィズムが、本当はこの人の中に住んでいる夢見がちな文学少女に届いたことを。
「こういうときはね、“気合い入れて下さい”って言うんだよ」
 南は迷宮の出口で糸の片っぽを握って微笑していた。

 南は散髪用具を借りに部室を出て行った。
 千早はケープを巻いて、静かに南のカットを待っている。
 ――南先輩、早く帰って来ないかなあ。
 夢見心地でドキドキしている。
が、
「じゃあ、やろっか」
と戻ってきた南の手には電気バリカンがしっかり握られていて、
「え?」
千早は頬を引きつらせた。
「せ、先輩・・・それ・・・は?」
「ああ、野球部で借りてきた」
 散髪バサミが見つからなくて、とこともなげに答える南。
「いや、ちょっと、あの・・・」
「大丈夫だよ、ボウズにはしないから」
「ああ〜、良かった〜」
「2センチくらいにしとくよ」
「それ、ボウズじゃないですかッ!」
 千早は血相を変える。
「2センチならベリショだろ」
 千早は南の大雑把さに驚いた。髪形観の違いにも驚いた。
 ――ええ〜!
知れば知るほど、好きな人のイメージは変わっていく。価値観の相違にも気づく。いい方にも悪い方にも。
「・・・・・・」
 イヤです、と言ったら、南に髪を切ってもらえない。だからといって、ほとんどボウズのベリショにされるのはかなわなくて、千早は顔いっぱいに困惑の色を浮かべ、無言で南に翻意を訴える。
 南の感受性はちゃんと、後輩の不安をキャッチしたけれど、
「ねえ、夏越」
 南は後ろからそっと千早の肩に両腕をかけて、耳元で囁いた。
「オマエのセールスポイントは何だ?」
「え?」
「バレー部に入るにあたって、何かウリになるようなモノをオマエはもってるのか?って訊いてるの」
「・・・・・・」
「運動神経は?」
「・・・人並みです」
「背も高くない」
「まあ・・・そうですね・・・」
「出戻りで中途入部で身長も運動能力も普通のアンタが先輩や仲間にすんなり受け容れられるには、それ相応のアピールが必要なんじゃない?」
「髪を思いっきり短くしてやる気を示せ、と?」
 ふくれる千早に、
「ご名答」
 南は破顔した。そして、
「じゃないと、これから、アンタ、風当たり強くなるよ〜」
 後輩のロングヘアーを撫で、優しく脅した。
「なんたってアタシの弟子になるんだからね」
 千早はハッと南を振り仰いだ。南は眩しく笑っている。
「お願いします!」
と千早は反射的にうなずいていた。
「イヤだって言っても刈ってたけどね」
 南はアタッチメントを調節すると、バリカンのスイッチを入れ、千早の鼻の頭まである前髪に差し入れた。そして、
「こんな長い前髪じゃ、ボール見えないよ」
と言いながら、バサッバサッバサッと一気に前を刈った。あっという間に視界が開けた。これからはこの視界が標準設定だ。
 ――うわああ!!
 身体中、鳥肌が立った。想像していた断髪と全然違う。バリカンの刃は馬鹿正直に乙女の髪を2センチに切り詰める。前頭部がゴルフ場の芝みたいになる。
 ――え? え? え? ちょっと!
「耳も出す!」
 指示がちゃんと聞こえるように、コート内の微かな空気も感じられるように、と南はいかにも天才らしい強引すぎる理屈を新入りに説きながら、サイドの髪もゴッソリ刈り上げた。
引き裂かれた長い髪が、バリカンの先、鍋からひきあげられた茹で上がりのパスタみたいに、ダラ〜とぶらさがっている。
 千早はただ、あ、あ、あ、と目を丸くしているより他になく、
 ――南先輩、こういうキャラだったの〜?!
 嘆いた。後悔もあった。でも昂奮の方が遥かに大きかった。「バレーボールをするためだけの髪型」にされていることに、高揚をおぼえた。南の手で、バレー部員に変えられていくことにも満足があった。
 興奮と羞恥で耳も頬も赤く染まっていた。
 南はうっとりと千早の髪を鋏んで、
「夏越」
「千早って呼んでもらえると嬉しいです」
「イヤだよ、恥ずかしい」
 ちょっと照れて、
「アタシん家、姉ちゃんと二人姉妹だからさ、小さい頃から弟が欲しかったんだよね」
「はぁ」
「まあ、その・・・なんだ・・・弟ができた気分だよ」
「弟・・・ですか?」
「不満?」
「妹の方が嬉しいかな」
「いいじゃん」  「弟子」って言葉には弟って字が入ってるんだし、と南はやっぱり天才らしい強引さで話をまとめてしまった。
 ――うう〜・・・
 南は男の子扱いされて頬をふくらませる千早の襟足を、楽しそうに刈り上げていく。
 初めてのぞいたウナジに南の息があたる。ドキドキした。心臓が破裂しそうになった。この瞬間が味わいたくて自分は人生最大の勇気を振り絞ったのだろう。恍惚の中、思った。
「頑張れよ」
と南は千早の左側頭部、ダラリと垂れ下がる髪を刈り取って、彼女の基準ではベリーショートの髪型を完成させ、互いに初めてとなる「儀式」をやってのけたのだった。
 散髪を終えると、千早は大急ぎで女子トイレに駆け込んだ。トイレの鏡でバレー部員になった自分の姿を確認した。
 ボウズ頭の少女が不安と緊張と昂奮を顔いっぱいにして、こっちを見ていた。
 ――カワイイかも・・・。
 鏡の中のボウズちゃんが笑顔になった。
 部室に取って返す。
 南は床に散った髪をフロアブラシで一まとめにしていた。
 戻ってきた千早を見て、
「こういうのは後輩の仕事だよ」
と厳しい顔で言った。
「す、すみません!」
 ボウズ頭を下げる。
「カワイクなったから許す」
と南は相好を崩した。腕をのばし、掌を新入部員の頭にのせた。
「あはは、気持ちいいっ」
 いつまでもザリザリと撫でている。いつまでも撫でていてもらいたかった。
「南先輩」
「ん?」
「私、南先輩のこと、好きです」
「・・・・・・」
 頭を撫でる南の手が止まった。
「南先輩は私のこと、どう思ってますか?」
 断崖から身をおどらせるように思い切って訊ねた。
 全身が強張る。
 二秒も経たずに訪れるであろう審判のときを待つ。
「・・・・・・」
 南はそっと指を千早の頤にあてた。そして、
「カワイイものは好きだよ」
 姉と王子様をミックスしたような優しく凛々しい顔で言った。
 言ってから恥ずかしくなったらしく、頬を染め、そっぽを向いて、
「これからアンタのカットはアタシが担当だからね」
 他の先輩に頼んだら破門だよ、と冗談めかして笑った。照れ臭そうに。
「はいっ!」
 アリアドネの糸の物語には、実は続きがある。
 迷宮を脱け出たヒロインを待っているのは別離の運命だ。
 自分たちもいつか別れの日が来るのだろうか。
 そんなこともあったな、って大人ぶって今、こうしてボウズ頭で幸福に泣いている自分に肩をすくめたりする日がくるのだろうか。
 そんな未来のことなんてわからない。
 確かなのは大好きな人と想いが通じ合った今、そして、明日から始まる大好きな人と一緒に過ごす放課後。
「次は1センチくらいいってみるかね」
 悪戯っぽく笑う南の未来は、とりあえずは一ヵ月先の散髪日までは確定済みらしい。
「1センチは勘弁して下さいよ」
 千早の未来も一ヵ月後に更新される。
「まあ、その件に関してはアイスクリームでも食べながら、ゆっくり話し合おう」
「南先輩のオゴリですか?」
「カットのお礼に千早がおごってくれるんじゃないの?」
「いえいえ、入部祝いに南先輩のオゴリですよ」
「じゃあ、ジャンケンで決めよう。三回勝負ね」
「南先輩、セコい!」
「千早に先輩を労わる気持ちが足りないんだよ」
 軽口を叩き合い部室を後にしながら、千早は南がいつしか自分のことを「千早」と呼んでくれていることが嬉しかった。

   エピローグ

 数日後・・・

「アッちゃん!! どうしたの?!」
 加東明美の新しい髪型に南は目を丸くした。
「あっはっは、チョイと賭けに負けてね〜」
 ひきつった顔で笑う明美は2センチの坊主頭だった。
「後輩に容赦なくバリカンで刈られたさね」
「・・・・・・」
 南は呆れ顔で、
「またバカな賭け、したんでしょ?」
「ま、最後の夏を坊主頭で迎えるのも乙だぁね」
 それにね、と明美は、ニヤッと笑い、
「賭けに負けて、アタシャ、嬉しいんだよ」
「強がっちゃって」
バカじゃないの、と、やっぱり呆れ顔の南の背をポンポンと叩き、
「ホント、バカかもね、アタシ」
 報われないのにさ、と呵呵大笑する明美。
「せいぜい愛弟子の夏越を仕込んでやんな」
「言われるまでもないわ」
「アタシャ、南のセッター、それでいいのさ〜」
「何言ってんだか」
 田中南は首を傾げながらも、中学最後の夏に向け踏み出す。




(了)



    あとがき

「図書館では〜」の続編です。
意外に書いてなかった気がする少女小説テイストのストーリー物です。
去年末から書いて今年の初め頃に完成しました。
正直、ハートフルネタは甘さと辛さの匙加減がよくわからないんで、発表するとき、照れます。
「図書館では〜」から二年後の南ちゃん、結構好きです♪
それにしても百合ネタが最近多いのは何故? 趣味?
あとバリカンのすごさを改めて認識しました。登場した瞬間、これまでの乙女チックな世界を揺るがしかねない破壊力で、書いてて焦りました。少女小説に出してはいけない小道具です(汗)




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