切らずの市弥、走る、奔る 第五話 |
(八)天女 ――冬姫はそっとしておいてやれ。あれを尼にするのは不憫じゃ。 俗世を去るにあたり、秋姫はそう言い残した。 ――まったく同感だな。 だから冬姫を一番後回しにしたのだ。 さりとて順番は回ってくる。お役目はお役目である。不首尾に終われば、失脚、下手をすれば命を失う。 重い足取りで奥の庭を歩いた。庭には今年の初霜があった。それを荒々しく踏み潰し、歩いた。 「・・・・・・」 市弥の歩みがピタリと止まった。 歌が聞こえる。 誰かが歌っている。 「?」 市弥は耳をそばだてた。 歌は小唄でも地謡でもなかった。今までに聞いたことのない調べと抑揚だった。 歌声はか細く淋しげだった。そこはかとない哀調を帯びていた。汚れなく澄みきった声だった。消え入りそうな儚さの裏に強さがあった。哀愁の陰にきらきらとした輝きが同居していた。この世で聞いたことのない声だった。 ――天女ではあるまいか。 と市弥はまるで闇の中、燭台の灯に引きつけられる羽虫のように、ふらふらと歌のする方へと歩み寄っていった。 天女がいた。 少女だった。 病身らしく、寝着の上から木綿の内掛けを羽織っている。 透けるような白い肌だった。 傍らに鳥籠がある。 籠の中には鶫がいた。手負いの小鳥だった。 少女の黒く澄んだ目は餌を食む小鳥を慈しむように見つめ、無心に不思議な歌をうたっていた。 市弥は放心したように、しばらく少女を見つめていた。 「・・・・・・」 少女が市弥に気づいた。 ハッと口をつぐんだ。黙って市弥を見た。濃い睫の下の両眼に怯えた色があった。 「ご無礼仕った」 市弥は我に返り、謝った。そして、 「もしや、冬姫さまではございませぬか?」 と訊いた。 「・・・・・・」 少女は黙っていた。凝と上目遣いで市弥を見る目からは、警戒の色がありありと伝わってきた。 「そなたは何者ですか?」 と詰問口調で誰何したのは、少女ではなく、庭の声を聞きつけて現れた老女だった。 「ここは奥ですよ。お侍衆の出入りは禁じられているはず」 「お側衆の柘植市弥と申します」 と市弥は名乗った。 「本日は内々の儀によって奥にまかり越しました。そちらにおわす姫様の歌に聞き惚れ、ついお邪魔をいたしてしまいまして・・・ご無礼の段お許しくださいませ」 「早くお下がりあれ」 老女はとげとげしい態度を改めなかった。 「失礼仕った」 「冬姫さま、お風邪を召しますゆえ、お部屋にお入りください」 という老女の声を背後に聞きながら、 ――やはり、冬姫さまであったか。 市弥は最後の相手を確認した。 長屋に戻ってからも、脳裏からあの不思議な歌が離れて消えなかった。 歌を口ずさむ蕾のような唇が浮かんだ。愁いを帯びた目元が浮かんだ。ほっそりとした指が浮かんだ。陰影のある表情(かお)が浮かんだ。 ――参ったなあ。 どうも、あの姫に特別な感情を抱いてしまったらしい。 冬姫は地侍の娘である。 百姓に毛の生えた程度の身分で、ありようは市弥と同じ階級の出身だった。 領内を巡検中だった出雲守が彼女の美貌に目をとめ、手折るように側室にした。 奥御殿に一室を与えられたが、その直後、出雲守は身罷ってしまった。 「一度のお渡りもなかったそうだ」 との噂である。事実だろう。 冬姫は未通女のまま、寡婦となった。どころか主の出雲守と正式の対面を果たさぬうちに、出雲守はあわただしく世を去った。冬姫は出雲守の顔すらよく憶えていないに違いない。 しかし側室は側室である。慣例に従って尼となり、亡き主の菩提を弔わねばならない。 とは言え、 憐れではないか。 と同情の声も多い。 冬姫は慣れぬ城中の暮らしに心労が募り、元々身体が弱かったせいもあって、病がちになった。出雲守の法要に参列しなかったのも、病床にあったためだった。 世間はいよいよ冬姫に同情した。 そうした世論に配慮して、幾田殿も重臣たちも冬姫に出家を強いることを憚ってきた。 ところが最近、ある事情がもちあがり、風向きが一変した。 冬姫に懸想した者がいる。 こともあろうに坂元家の新しい当主である惟虎であった。 亡父の側室を見初めた若きお屋形様は 「是が非でもかの姫御前を我が妻に」 と懇望して、母や家臣たちが諫めても聞かなかった。 亡父の側室を息子が娶るなど、ありうべからざる醜聞である。重臣たちはあわてた。 息子の縁組には然るべき――すなわち自分に都合の良い姫を、と企てている幾田殿にとっても、到底看過できない事態であった。 「かくなるうえは一刻も早くあの姫を仏門に入れるべし」 と奥御殿が鳴動する勢いで、朝な夕な、冬姫に出家を迫った。 ところが、この冬姫が頑なに出家を拒み続けているのである。 あのようなか弱き少女の何処にそんな気丈さが潜んでいるのだろう。 と重臣たちは呆れ、幾田殿は焦れ、平侍たちは感嘆していた。 市弥も驚いていた。 奥でいじめられて身の痩せ細るような思いをするよりも、いっそ、尼になった方が楽ではないか、とそう思うのである。 奥御殿の庭で出会った美少女を思い返した。 「とりあえずは、修理亮の爺めに働きかけて――」 ――まずは、また、今度はちゃんとお会いしてみることだ。 と市弥は考えた。本当はお役目を口実に、冬姫といま一度見えたかった。 城内にある茶室で、市弥は冬姫と再会を果たした。 市弥が亭主である。茶をたてる。かろうじて作法を知っている程度だが、こういう場所でなければ、親しく語らえない。禅家の掛け軸を借りたり、冬花を活けたり、なんとか体裁を整えた。 客の冬姫は固い表情で端座している。風邪をひいているらしい。青白い顔でしきりに咳をして、 「何分、病中にて。申し訳ございませぬ」 とか細い声で謝られ、かえって市弥がまごつき、恐縮した。 「いえ・・・それはどうも・・・」 能弁家の彼らしくもなく、甚だ気のきかない受け答えをしまった。 この間、市弥を咎めた冬姫付きの老女も同座している。用心深く市弥の一挙手一投足を凝視している。冬姫が幼い頃から身の周りの世話をしていた女だという。なるほど、いかにも農婦といった風情の女だった。 「田舎立てではございますが」 と冬姫に差し出された茶碗を、老女は横合いから引っ手繰るように奪った。 「これ、タシ」 冬姫が老女の非礼を叱った。 「毒など入っておりませんよ」 と市弥はにこやかに言った。 冬姫がタシと呼んだ老女の懸念は察するに余りある。 冬姫の頑固さに辟易した幾田殿の周辺では、 「いっそ毒を盛ってしまえば良いではないか」 出家ではなく、「ご病死」という形での始末も考えはじめているらしい。 「市弥さま」 冬姫は心から済まなさそうに、 「ご無礼の段、お許し下さいませ」 と老女の手から茶碗を取り上げた。唇にあて、ゆっくりと傾けた。慣れぬ手つきで茶を喫し終えると、 「結構な御点前でございました」 深々と頭を下げた。 「苦うございますか?」 市弥は素早く乙女の表情を読んでみせた。 「いえ・・・そのような・・・」 冬姫は恥ずかしそうに面を伏せた。 「実を申さば」 市弥はいつもの彼に戻って、 「それがしも茶など旨いと思うたことはありませぬ」 とおどけた口ぶりで打ち明けた。 「姫さまもご存知の通り、それがしは百姓あがりにござれば、かような勿体ぶった庵で茶の湯よりも、日の照った田の畦で麦こがしの方が旨く思えます」 「まあ」 と冬姫は微笑した。市弥はこの姫の笑顔を初めて見た。何度でも見たくなるような和やかな笑顔だった。 「日の照った畦で・・・麦こがしを・・・?」 冬姫の脳裏に、故郷の田園風景が鮮やかに甦った様子だった。つい半年足らず前まで彼女のいた貧しくても心安らぐ世界だった。 「能楽よりも田植え踊りの方が心が浮き立ちます」 「私もです」 冬姫もうなずいた。 「田植え踊りと申さば――」 市弥は少年の頃の思い出を面白おかしく物語った。 田植え踊りでは若い男女が踊りを通じて懇ろになったりする。色気づきはじめていた市弥も大人の真似をして、年頃の娘に言い寄ってみたが、 「いやはや、これがかなりの情の薄き女子で――」 と袖にされた失敗談を語ってみせた。 冬姫は今度は声をたてて笑った。 だがそれも束の間だった。 「市弥さまは酷いお方です」 とすぐに元の愁い顔に戻った。 「何故でしょう?」 市弥は戸惑って、訊ねた。 「捨て去ったはずの里心が、また胸に満ちてしまうではありませんか」 「郷里を懐かしむは悪しきことでしょうか?」 「いっそ――」 冬姫は恨めしそうに両掌に乗せた茶碗に視線をおとした。 「毒を盛ってくだされば私は嬉しかったのに・・・」 「りん様」 老女が思わず少し前までの主の名を口にした。 「どうかそのようなこと、申してくださいますな」 タシは悲しゅうございます、と泣き伏す老女の背に手をあて、 「タシ、許してね」 主に詫びられ、 「いいえ」 タシは嗚咽している。 二人の苦衷は想像を絶するものらしい。 「冬姫さま」 市弥は主従の間に割って入った。 「はい」 「ひとつお伺いいたしたいことがあります」 「なんでしょう?」 冬姫は威儀を正した市弥を怖々と振り仰いだ。 「その前にそれがしの話をお聞きください」 市弥はゆっくりと話しはじめた。 「実はそれがし、家中で”切らずの市弥”との異名で呼ばれています」 「切らずの・・・市弥?」 「亡き出雲守様のお引き立てを受けながら、追い腹を拒み、こうして生き永らえております」 「・・・・・・」 「それがしにはそれがしの存念がありまする。腹を切らぬを恥とは思いませぬ。さりながら、周りは納得いたしませぬ」 「・・・・・・」 「重臣(おとな)方はそれがしに、殉死が嫌ならば、亡きお屋形様のお側女たちを尼にいたすようお命じになりました」 「では・・・そなたは」 タシが市弥を睨みつけた。 「春姫さま、夏姫さま、秋姫さまを仏門に入るよう仕向け奉ったのは、この柘植市弥でございます」 冬姫も驚いて目を瞠っている。 「村の話で姫様のお気をひいて・・・うまうまと乗せられるところでした。この慮外者!」 「タシ、やめなさい」 冬姫は激昂するタシをたしなめ、身体ごと市弥に向き直った。 「市弥さま」 「はい」 「まだ続きがあるのでしょう?」 「はい」 市弥は冬姫の聡明さに感謝した。 「しかし冬姫さまを尼にいたすは、それがし、どうにも忍びなく――」 「抜けぬけと申されることよ」 「タシ、おやめ」 「率直にお伺いいたします。何故、ご出家を拒まれるのでしょうか?」 「・・・・・・」 「かような毒飼いを望むほどの地獄のようなお城暮らしに、冬姫さまがご執着あそばされているとは、市弥には到底思えません。何故、お城を出て――」 尼におなりあそばされませぬ、という言葉はさすがに差し控えた。 冬姫は黙っていた。やがて、 「私にも存念があるのです」 とだけ言った。 「存念とは?」 「これ以上はお聞きくださいますな」 そう言うと、冬姫は激しく咳き込んだ。 「姫さま」 タシがあわてて、主にいざり寄った。 冬姫は茶室を辞去した。去り際、市弥は 「またお会いできましょうや?」 思い切ってきいた。 冬姫は答えなかった。ただ、 「市弥さま」 「はい」 「私たち、似ていますね」 切らずの市弥と剃らずの冬姫、と呟くように言った。 ――切らずの市弥と剃らずの冬姫か。 確かに似ている。 異なるのは、市弥は出雲守から多大な恩恵を受けているところだろう。 出雲守は側室たちにも様々なものを与えた。 春姫には経済的な豊かさを、 夏姫には悦楽の自由を、 秋姫には恋する心を、 それぞれに与えた。 ――しかし・・・。 市弥は老女の介添えで奥へと帰っていく冬姫の後姿を拝しつつ、悲痛な気持ちになった。 ――あの姫は何も貰うてはおらぬ。 貰うどころか、平穏な生活を奪われ、病身となった。出雲守に恨みはあっても、恩はない。今はその出雲守のために尼になれと虐め抜かれている。 ――救われぬ話だ。 その足で修理亮の許へ参上した。 「首尾はどうであった?」 と修理亮に訊かれ、 「なかなかに」 と市弥は浮かぬ顔で言った。 「情に流されてはお役目は果たせぬ」 修理亮は市弥の逡巡を見抜いた。 「近頃は冬姫さまの評判は芳しくない」 あれだけ出家を拒み続けているのは、魂胆があるのではないか、と悪意に満ちた噂が流れているという。 「うまくゆけば惟虎様の御正室の座が転がり込んでくるからの」 「そのようなお方には見えませなんだ」 「あのような儚げな姫御前こそ怪しいものよ」 「左様でしょうか」 「市弥、その方、あの姫御前に懸想したのではあるまいな」 「め、滅相もない!」 市弥はあわてた。 市弥自身、己の胸中にある想いが恋なのか同情なのか、判然としていない。 「例えば――」 と冬姫のために知恵を出した。 「あの姫を親元にお返しなされては如何でしょうか」 「ならぬ」 修理亮は一顧だに与えなかった。 「英雄の妻妾は皆、出家してその菩提を弔うべし」 この老爺は亡き主君の神格化に躍起になっている。名称坂元出雲守の伝説を完全なものとするには、冬姫だけ例外は認めないという。 ――修理も耄碌したのう。 幾田殿の野心、修理亮の虚妄、冬姫の強情、三者の間で市弥は窒息しかけている。 「今一度、お説き参らせよ」 と修理亮は命じた。 「できぬとあらば、潔う自身の始末をつけるがよい」 と死をチラつかされては、 「はっ」 市弥は応じるほかない。 (九)秘密 尼姿の春姫は童たちに囲まれていた。 童たちは皆、孤児であった。襷がけして、 「ひとりひとつずつですよ」 と言いながら、甲斐甲斐しく菓子を配っていた。市弥の姿に 「おや、これは珍しき客人ですね」 とにこにこ笑った。 「丁度良い。そなた、ワラワのつむりを剃(た)れて下さらぬか」 忙しゅうて放っておいたら、この有様ですよ、と頭巾をとって毬栗のように伸びた髪をなでた。 市弥は困惑したが、言われるまま、縁側で春姫の頭に剃刀をあてた。 春姫は懐紙を額の高さで捧げ持った。 市弥は丁寧に伸びた髪を剃った。 「いっそ還俗なさいますか?」 という市弥の軽口に 「今更」 パラパラ落ちる髪を懐紙で受けながら、春姫は薄く微笑した。 「慣れてしまえば、坊主頭もなかなか良いものですよ」 「折角、お取り寄せした五条の袈裟はお召しになりませぬのか?」 「毎日動き回っているゆえ、ああした華美な僧衣では何かと不自由なのですよ」 「聞き及んでおります」 と市弥は言った。 「孤児を養うておられますので?」 「皆、戦で家を焼かれ、親を失った子です」 春姫は屋敷を開放し、孤児たちを衣食させている。自ら子供の身体を洗ってもやる。あれだけの衣装や家財を売り払って、孤児たちの食費に変えても、あっという間に消えて 「以前より物入りですよ」 と苦笑する。 「焼け石に水ではございませぬか?」 「だからと言って、焼けた石を座して見過ごすわけにもいかぬであろう」 春姫はわずかの間に人間的に成長している。 「慈悲のお心でござるなあ」 市弥の感嘆に 「はて」 春姫は首を傾げた。 「初めの頃はワラワも慈悲と思うていましたが、どうも違うようです」 「慈悲に非ずと申されまするのか?」 「慈悲・・・と申すよりも、欲心でしょう」 「欲心、でございますか?」 今度は市弥が首を傾げた。 「手がとまっていますよ」 「申し訳ありませぬ」 また剃刀で黒々とした髪を払う。 「孤児に粥を与えたきは欲心でしょうか?」 「人には欲があります」 と春姫は言った。 「美味しいものが食べたい欲。出世したい欲。眠りたい欲。女子ならば良き殿御と添いたい欲」 「さしずめ、それがしなどはもっと生きたい欲、生きて浮世を楽しみたい欲に囚われておるのでしょうな」 春姫は市弥の欲を是というように、微笑して、 「ワラワの欲は――」 「なんでしょうか?」 「人の役に立ちたいという欲です」 孤児の笑顔が見たくて家財をはたき、身を粉にしているという。 「ホウ」 「菩薩行ではありませんよ。欲でやっていることゆえ、誉められたくもなく、労われたくもなく、あの子らに有難がられたいとも思いませぬ。むしろ――」 「むしろ?」 「与えることによって真実救われるは、与えられる者より与える者の心かも知れません」 「貴い欲ですな」 「誰にもある欲ではないでしょうか?」 市弥は冬姫の笑顔を脳裏に描いた。 ――確かに・・・。 「いま、誰かの顔を思い浮かべましたね」 春姫に図星をつかれ、 「い、いえ」 「よい」 と春姫は久方ぶりに覗いた頭皮を満足そうに確かめ、 「そなたがその御方の役に立てるよう、祈っておりますよ」 と笑顔で言った。 冬姫は目を細め、麦こがしを味わっている。 「如何でござるか」 「美味しゅうございます」 「タシどのにも馳走したしたかったのですが」 今日は無理やり、遠慮してもらった。 畳の茶室には市弥と冬姫の二人きりである。 市弥、命の危機も忘れ、心が浮き立つのをおぼえた。 が、心を鬼にした。 「世間では、冬姫さまが出家ならさぬのは、惟虎様の御正室の座をうかがってのこと、と申す輩が少なからずおります」 と冬姫の心に石を投げ込んでみた。 「左様ですか」 冬姫は淋しげな微笑を浮かべた。 「如何?」 「世間などどれほどのものでしょう」 と冬姫はきっぱりと言った。 「私は己に恥じない生き方をしております」 「・・・・・・」 市弥は少女の凛冽な言葉に、話の接ぎ穂を失い、茶室にはしばらく沈黙が流れた。 やがて、 「市弥さま」 冬姫の唇が動いた。じっと市弥を見つめている。強い眼差しだった。 「私はもう長うは生きられませぬ」 「お気の弱いことを仰せられますな」 「いいえ」 わかっているのです、と冬姫はかぶりをふった。 「この冬は越せますまい」 「・・・・・・」 「ですから、どうか仏門入りのこと、今暫しご猶予くださいませ。私が死ねば総ては丸く収まりましょう」 お家も奥方様も市弥さまも、と冬姫は市弥の立場まで気遣っていた。 「それほどまでに出家はお嫌でござるか?」 「出家はできませぬ」 「何故」 「・・・・・・」 冬姫は意を決したように、静かに首に下げていたものをはずし、市弥に手渡した。 銀色に光る首飾りを市弥は見つめ、 「これは?」 「ろざりあです」 「ろざりあ?」 「私は切支丹なのです」 秘事を明かされ、 「ああ!」 市弥も近頃流行している、この異国の教えは知っている。 「なるほど」 ようやく納得した。 切支丹ならば出家はできまい。 「しかし」 市弥は声をひそめた。 「当家では切支丹はご禁制のはず」 全国的な禁教令が発せられるのは、まだ先の話だが、局地的に切支丹を禁じている大名もいる。坂元家の領内でも切支丹は固く禁じられていた。 亡き出雲守が寺社や保守勢力の突き上げで、禁令を出したのだ。 「もし発覚すれば、どのようなお咎めがあるかも知れません」 「わかっております」 冬姫はうなずいた。 「だから苦しいのです。私一人でことが済めば良いのですが、罪は一族やタシにも及ぶでしょう」 切支丹では自害を禁じております、と冬姫は言った。 「出家もできず、自害もできず、ただこうして死を願うております」 「すぐにご棄教なされませ」 「それも考えました。毎日毎日。今も心は揺れております。しかし――」 冬姫は市弥の手からスッとロザリオを取り返した。 「やはり、自分の心に嘘はつけませぬ」 ――ああ・・・。 市弥は嘆息した。 百万の軍勢を、億万の富をもってしても、この心をおとすことはできぬ。 「何故」 かろうじて訊いた。 「それがしにそのような大事をお話しなされたのですか?」 「さあ」 冬姫も自身でよくわからないようだった。 「南蛮の僧侶様は余人には話し難い胸の内を聞いてくださって、でうす様との間を取り持ってくださるそうです。その話を思い出したのかも知れません」 「それがしは南蛮僧ではございませぬ」 と首をふる市弥の胸には二つの気持ちがある。 冬姫の秘密を知ってしまったことによる重圧感。 冬姫と秘密を共有できたことへの喜び。 「お話ししてしまったからには、もはや悔やんでも詮無きこと。どうか、市弥さまのご存分になさいますよう」 ――試されている。 と市弥は思った。 冬姫にではなく、冬姫が「でうす」と呼ぶ存在に・・・。 自分が「運命」と呼ぶ理に・・・。 冬姫が切支丹であることを重臣たちに注進すれば、容易に決着はつく。 冬姫は直ちに処断される。彼女の係累をたどって、領内の切支丹狩りははかどるだろう。当然、訴人の市弥は褒賞を与えられるはずである。 ――だが―― 市弥はこの茶室で新しい生を見出しつつある。 能吏としての栄誉を得るか。 ――それとも・・・・・・。 「もう、お会いすることもありますまい」 新しい生は幽かに笑んで、立ち上がった。彼女に待っているのは、病死か毒殺か、あるいは刑死、獄死の無情な終幕だ。 「・・・・・・」 市弥は唇を噛んだ。 次の瞬間、 ぐらり、 と激しく地が揺れた。強震。 「あっ」 と冬姫がよろめいた。 「姫さま!」 市弥はとっさに冬姫の身体を抱きとめた。 ――軽い! と驚いた。野の香りがした。田園の中にいるような錯覚が満ちた。 「ご案じなさいますな」 新しい生を抱く両腕に力を込めた。 「ご案じなさいますな」 と繰り返した。 「姫さまの御身はこの市弥が必ずお守りいたしますゆえ」 冬姫が市弥の胸に埋めていた顔をあげた。市弥の顔を仰ぎ見た。 「・・・・・・」 冬姫の唇が動いた。よく聞き取れなかった。 「今一度」 市弥の頼みに唇がふたたび開いた。 「まこと・・・ですね」 「まことです」 力強くうなずく市弥の背に、冬姫は手を回した。顔には赤みがさしている。瞳は涙で濡れている。冬姫は両眼を閉じた。押し出された雫が頬を伝った。 「はれるや」 と冬姫が小さく言った。切支丹の言葉らしかった。 「はれるや」 と市弥は意味のわからぬまま、その語を反芻した。 つづく あとがき ええ、いよいよ「剃髪<ストーリー」に傾きつつある「切らずの市弥」です(汗) これ、二年前(「岩倉理子」より以前)に書いて、ようやく陽の目をみることになったんですが。 二年経ってあらためて読み直すと、ちょっと固くなっているような気がするかなあ。肩に力が入りすぎてるというか。 ともあれ、発表できて良かったです♪ 作品集に戻る |