切らずの市弥、走る、奔る 第四話 |
(七)賢婦 日当たりの良い縁側で出雲守正室、幾多殿は侍女に頭を剃らせていた。 「坊主頭とは不便なものですね」 自らの頭を滑っていく鋭利な刃の感触におどけた調子で言った。 「二日も剃らぬと見苦しきことになる」 「真でございますね」 剃刀の扱いにも慣れてきた侍女はうなずいた。水でたっぷりと湿した大振りの坊主頭に剃刀をあてながら、 「奥方さまはおつむりの形がおよろしいゆえ、尼姿もお似合いにございます」 スーッ、スーッ、と動かした。 「未だに慣れませんよ。でも――」 幾多殿は剃刀の感触に心地よさそうに半眼で 「髪のあった頃より若やいで見えるでしょう?」 と侍女に同意を求めた。 「真に」 侍女も逆らわず、頷いた。 ――どうにもなあ。 二人の会話は庭先で控えている市弥の耳にも届いている。 色が浅黒く吊目でふっくらと肥えた丸顔の幾多殿が頭を丸めてしまうと、煮ても焼いても食えなさそうな海千山千の尼僧に見える。出雲守の死後、ますます肥え太り、妖尼ぶりもいよいよ増した。 「秋姫も髪をおろしたそうですね?」 「はい。原田主馬殿との仕合に敗れ、その場で御落飾あそばされた由にございます」 「良い気味です」 幾多殿は憫笑した。 「亡きお屋形様の御寵愛を嵩に着ての増長ぶりは目に余るものがありましたからね」 「左様でございますとも」 侍女も尻馬に乗った。 「京かぶれの春姫さま、色狂いの夏姫さまに続き、お転婆姫さまもようよう奥方様に倣われたこと、祝着にございます」 「ホホホ、何事も御家のため、亡きお屋形様の御威光をお守りするためですよ」 幾多殿の賢夫人気取りに、市弥はうんざりした。 「奥方様がその方と目通りしたいそうじゃ」 と修理亮が打ち明けたのが数日前のことだった。 「しかしじゃ」 「何でございましょう」 「奥方様は服喪の折ゆえ、家中の者とはお会いになられぬ」 そこでじゃ、と修理亮は非公式の拝謁の方法を伝えた。 「奥方様が縁先でおつむりを剃られている間に」 「偶然」庭にいた市弥が幾田殿の「独り言」を耳にした、という形で、この対面は行われた。 ――回りくどいことだな。 市弥は物憂い。 幾田殿の考えていることなどお見通しだ。 殉死を渋る「切らずの市弥」を公に引見しては、賢婦の評判にこだわる幾田殿にとって具合が悪いのだろう。 「そろそろ惟虎殿に嫁を取らねばなりませんね」 幾田殿が言った。腹を痛めた我が子が当主の座につき、得意そうである。 ――喪も明けきらぬというに、もう縁組みの話か。 市弥が駈けずりまわっている間に、世は移ろっている。 「どこかによき姫御寮人はござりませぬかねえ」 浮き立つ侍女に、 「秋月家の姫はどうでしょう?」 秋月家は幾田殿の実家である児嶋家の傘下にある大名家である。 「まだ十二ですが、なかなかに利発な姫御と聞いています」 「それはよろしゅうございます」 「輿入れにあたっては、心きいたる者が惟虎殿のお側におらねば、なにかと不自由ですから不破と水野を御評定に加えるとよいでしょう」 新しき治世には新しき能臣を、と幾田殿は自分の構想に満足げにうなずいた。 不破と水野の両臣は幾田殿の輿入れにあたり、児嶋家から付き従ってきた、いわば幾田殿の股肱の家来である。それを政治に参画させるという。 実子が領主となった。その後見人としての立場を確固たるものにしたい。だからこそ実家とゆかりの深い姫君を嫁に迎え、自らの息のかかった家臣を引き立て、どうやら幾田殿は「児嶋閥」とも呼べる勢力をつくって、家政を壟断しようと目論んでいるようだ。 ――生臭いのう。 市弥は幾田殿の化け物じみた坊主頭をしげしげと振り仰いだ。 ――以前はもっと慎み深い若奥であらせられたのだが・・・。 先日、家中の実力者である御家門衆の雅樂助が隠居を願い出た。 秋姫に木刀で打ち据えられた一件を、今更、 「女子に弄り者にされるとは、武士の恥辱にござ候わずや」 と修理亮や頼母に面と向かって詰問されたのである。ただでさえ、愛娘夏姫の突然の出家に気落ちしていた雅樂助は厭世的になり、家督を放り出したのだった。 幾田殿と老臣たちが手を結んでの政治劇だった。 雅樂助という目の上の瘤が消え、幾田殿を掣肘する者はもう誰もいない。 出雲守の生前かぶっていた猫の皮をスラリと脱ぎ捨て、幾田殿は権力への意欲を露わにしはじめている。 さっさと俗体を捨てたのも、亡夫への弔意からではなく、尼という「法外の者」になって、自由に政道に参加できる立場を得ようとしたのだろう。 「御家の名を辱めるお側女たちがいなくなり、せいせいいたしましたねえ」 侍女が口にする追従に、幾田殿は鷹揚にうなずき、 「ああいう者たちがのさばっていては、惟虎殿の為になりませぬからね」 ――自分の為であろう。 と市弥は心中吐き捨てた。坂元家第一の女人として君臨するのに、目障りな前支配者の寵姫たちを俗世から追い払ったのである。 ――お側女たちの方がよっぽど可愛げがあったわ。 市弥は髪をおろした側室たちの為に弁じてやりたかった。 なるほど、春姫は権高であった。けれど、幾田殿のように現世の権力までは望まなかった。 なるほど、夏姫は淫蕩だった。けれど、幾田殿のように賢夫人の評判は欲しなかった。 なるほど、秋姫は驕慢であった。けれど、幾田殿より遥かに深く出雲守を愛していた。 しかし世間は幾田殿を是とし、側室たちを否とする。 ――一体どちらが悪女であろう。 「嫁御寮人をお迎えするまでに奥をきれいに掃き清めておかねばなりませんね」 幾田殿がはじめて庭の市弥を見た。柔らかく微笑していた。が、目は笑っていなかった。 「塵ひとつ残さぬように」 ――冬姫さまのことを仰っているのか。 市弥は素早く幾田殿が自分に言わんとしていることを察した。 「近いうち、吉報がありましょう」 侍女も面を伏せる市弥を見て言った。 「そうであれば良いのですが」 市弥は黙礼して庭を去った。 「あれが”切らずの市弥”ですか?」 幾田殿が訊いた。 「はい」 侍女がうなずいて、剃刀を湯のはってある盥に浸した。剃った毛屑が湯に浮いている。 「よく働く。亡きお屋形様が重用していただけの者のことはある」 しかし、と幾田殿は冷酷な眼差しで呟いた。 「あれは評判が悪すぎますね」 「成り上がり者ゆえ、忠義の心を知らぬのでしょう」 侍女も市弥に好意をもっていない。 「少し惜しい気もするが、ああいう者を側に置いては惟虎殿の名に傷がつきます。冬姫のことが片付いたら速やかに閑職に追いやるが良いでしょう」 「御加増の件は如何いたしますので?」 「程々で良い」 「それを不満に他家に奔ったらば?」 「そのときは然るべき措置をとれば良いでしょう」 と幾田殿は凄みのある笑みを浮かべ、 「それにしても」 と剃りあがった頭をなでた。 「この頭で冬を越すのは難儀なことですねえ」 つづく |