「切らずの市弥、走る、奔る」 |
ときは戦国真っ只中。ところは東国のさる大名家。 武勇に優れ、またたくまに四隣を切り従えた名将、坂元出雲守清虎の四十九日の追善供養から、この稿ははじまる。 (一)難題 「早いものだな」 出雲守清虎の家臣、柘植市弥は天を振り仰ぎ、ひとりごちた。 追善供養もつい先刻終わり、式場である菩提寺の境内をひとしきり逍遥して、山門の前、鱗雲の間から指す陽光に目を細め、大きく伸びをした。 「これも天命というものかなあ」 主君、出雲守が鷹狩の帰路、立ち寄った百姓家で振舞われた鯉の膾にあたって、七転八倒の挙句、あっけなく卒したのが二月あまり前。まだ四十二歳の若さであった。 稀代の名将の急死に一時は家中も大いに動揺したが、幸い、嫡男の惟虎は元服して、父の名を辱めぬだけの器量はあったので、 「嘉田家のようにならずに済んだわい」 と家臣領民、ホッと胸をなでおろした。 近隣の大名、嘉田家では当主が討死の後、奥方が幼君の後見となり、その細腕で家政を切り盛りしている。 ――一寸先は闇の乱世だからなあ。 と他家を慮ったりしている市弥の身に、間もなく思いがけぬ運命が降りかかるとは、神ならぬ彼には思いも及ばない。 「柘植殿」 小姓の源助が背後から市弥を呼んだ。 「何かな?」 「園田様、堀様がお召しにこざいます」 「はて、何用であろう?」 「さあ」 首を傾げる源助の白い頬が皮肉に歪んでいる。 ――やはりな。 嫌な予感は的中したようだ。 市弥は肩をすくめながら、 「すぐ参る」 「お急ぎめされ」 遅れをとるは武士の恥にござる、という源助の言葉には二重の棘がある。百姓あがりの市弥への軽侮と、もうひとつは――。 方丈の奥間にて、 「来たか」 宿老の園田修理亮が同じく宿老の堀頼母に向けていた白髪頭を、ゆっくりと市弥に向け直した。何やら密談の様子。 「お召しとのことで参上仕りました」 「ああ」 修理亮は扇をひらいて、パタパタと風を胸元に送った。 「秋というのに暑いのう」 暑がりの修理亮は法要の最中も大汗をかいていた。 「もうすぐ刈り入れの時期でございますなあ」 市弥は穏当な話題でその場を取り繕おうとした。 「今年は天候も良く豊作にて、領民たちは安堵しております」 「重畳じゃ」 と修理亮は性急に打ち切り、 「市弥」 と本題に入った。 「はっ」 「お馬廻り衆の和田孫平太もな、昨日腹を切ったぞ」 「左様で」 市弥、背中に冷や汗を流れるのをおぼえた。 「流石は譜代の臣だけある。昨夜、妻女と水杯を交わし、お屋形様の死出のお供をいたした」 と堀は感じ入ったていで、懐中から紙片を取り出し、 「和田の辞世の写しじゃ。その方ほどの歌心はないが、武人らしい味わいがある」 「その方ならば、きっと見事な辞世を詠むであろうなあ」 「いえ・・・そのような・・・」 「奥野甚三、前原将監、そして和田、泉下のお屋形様もさぞお喜びであろう」 「・・・・・・」 要するに殉死の催促である。 この時代、主君の側に仕えていた武士が主の死後、後を追って殉死するのが武士社会の美風とされていた。 まして出雲守によって、百姓からお側衆へと引き立てられた市弥である。当然殉死するものと周囲はきめてかかっている。 「お急ぎめされ」という先刻の源助の言葉にも「何をグズグズしているのか」という嫌味が露骨に含まれている。 ――侍の世界は窮屈だな。 市弥は内心大きな溜息をついた。 市弥には市弥の言い分がある。 なるほど、確かに出雲守には深い恩義がある。 しかし出雲守が自分を重用したのは、自分の文才、吏才といった官僚としての才能からで、単に一個の道具として、使ってきたに過ぎない。そして自分は「道具」として主君の期待に応えた。民政に外交に心血を注いできた。出雲守から拝領した知行はいわばその報酬である。出雲守との関係は殉死した譜代衆のような情誼に根ざしたものではなく、もっと乾いた功利的なものである。 出雲守から与えられた地位と知行の分だけの働きは現世で返した。 そのうえ、命まで差し出せとは、 ――割りに合わぬわ。 と元々武士ではない市弥は吐き捨てたい心境である。まだ二十代。現世に未練はある。生きて自己の才能を活かしてみたいし、人である以上、命は惜しい。 市弥が黙っているので、修理亮は、 「それにしても奥方様は――」 と釣り人が釣り場を変えるように話題を転じた。 「見事であらせられた」 「いかさま」 頼母も首肯した。 出雲守の正室、幾田殿は夫の死を看取るや、直ちに髪を切って、喪に服した。さらに今回の四十九日の法要を前に、菩提寺の雲海和尚を導師に受戒し、頭を剃り上げ正式に尼となった。芳紀三十六歳。まだ女盛りの身であった。 剃髪染衣で法要に臨んだ若き未亡人に一門や家臣たちも涙を流して、改めて主家への忠節を誓ったのだった。 「流石は武門の誉れ高き児嶋家の姫君だけはある」 「武将の妻はかくありたきものよ」 老臣ふたりは口をそろえて、幾田殿を褒め称えた。そして、 「それにひきかえ――」 深々と嘆息した。 「他のお側女たちの不甲斐なきことよ」 英雄色を好むというが、亡き出雲守には四人の若い愛妾がいた。 彼女らは出雲守の没後も一向に落飾の気配もなく、気儘に暮らしている。どころか今回の主の追善供養にも辞を構えて参列しなかった。 「市弥、どう思うか?」 「はあ・・・」 市弥もいわば「同類」だから、批評は控えた。 「まずいのう」 修理亮は苛立たしそうに、盛んに扇を動かしている。 「不世出の英傑のご寵愛を賜った姫御前たちが俗体のまま、遊び呆けておられるのは、チト具合が悪い」 「世間の聞こえもあるでのう」 二老臣はうなずき合った。 どうやら、そのことで今日密談を交わしていたらしい。 「そこでじゃ」 修理亮は射抜くように市弥を睨んだ。 「市弥」 「はっ」 「その方、よきように取りはからえ」 「よきように、とは?」 殊更に鈍い表情で聞き返す成り上がり者に、短気な修理亮は焦れて、 「かの四人の姫御前たちに仏門に入るようお説き参らせよ。その方ならばうまい才覚もあろう」 市弥を激しく扇ぎたてた。 「和田や奥野とは、また違った忠義の尽くしようもあろうでの」 と頼母も言った。 つまりは腹を切りたくなければ、四人の側室たちを尼にしろ、ということである。 ――なんたることじゃ・・・。 あまりの難題に市弥は目が眩む思いだった。 とは言え、 「働き次第によっては御加増もあるぞ」 と修理亮も頼母も功利主義者の市弥の欲心を煽ることを忘れてはいない。 (二)浮舟 春姫さま 夏姫さま 秋姫さま 冬姫さま 紙片に書き連ねた四つの名を睨み、 「爺どもめ、できぬ相談をいたすわ」 市弥はうめいた。 亡き出雲守はいかにも武人らしい無造作さで、囲っている四人の愛妾たちに春夏秋冬の四字をそれぞれ与えた。皆、元の名はあるのだが、家中では、春姫さま、夏姫さま、秋姫さま、冬姫さま、と通称で呼ばれている。 「どれも厄介なお方ばかりだなあ」 長屋に帰ってから、市弥は数日、考え込んだ。考えあぐねて、いっそ逐電するか、とまで思い詰めたが、むしろ、 ――この危地を好機に変えてみせようぞ。 とやる気になった。 「さて」 頭がおかしくなるほど凝視した四つの名前を、また見つめ、さらに見つめ、よーく見つめ、 「まずは春姫さま」 最初の相手を決めた。 決めるとすぐ登城し、 「田代殿はおられるか?」 と命懸けの大事業の助手をさがしまわった。 春姫の屋敷は城下の南にあった。 「これはまた見事な・・・」 と市弥が息をのむほどの豪奢な屋敷だった。 「流石は公卿の姫君よのう」 春姫は公家の出身らしく、権高で京好みで、この屋敷も「万事都風に」という春姫の意向に従い、はるばる京の都から匠や絵師を呼び、築山をつくらせ、襖絵を描かせ、金箔を貼らせたという。 「春姫さまにお目通り願いたい」 と市弥は言った。 取次ぎの侍女からそれを聞いた春姫は、 「待たせておくように」 とだけ言って、侍女たちと貝合わせに興じていた。貝をめくりながら、 「東国の武者は礼を知らぬ」 前触れもなしに参上し、対面を要求する市弥に眉をひそめた。 「分を弁えさせておやりなさいませ」 侍女たちも主を焚きつけた。 二刻(四時間)以上、待たされた。 ようやく現れた貴婦人に市弥は平伏した。 「春姫さまにはご機嫌麗しゅう存じまする」 「雲州の家来か」 と春姫は言った。 「ははっ」 気位の高い春姫は主人である出雲守を「お屋形様」とは呼ばず、「雲州」と呼び捨てにしていた。側室ながら決して正夫人の幾田殿の下風に立とうとはしなかった。 出雲守はこの京下りの姫君を寵愛していた。彼女に強請されるまま、城下に目のくらむような屋敷を建て、高価な着物や調度品を自由に買わせていた。 だが、春姫が黄金七枚という途方もない高値で「伊勢物語」の写本を購ったときだけは、寛容な彼もこの浪費家の姫君をたしなめた。 叱られた春姫は不満そうに押し黙っていた。しかし後で、 「だから雲州はアズマエビスなのじゃ」 物の値打ちがわかってはおらぬ、と侍女たちに当たり散らした。 「いくら城を獲るのに長けたところで、詩歌の道を知らぬようでは、野盗足軽も同然ぞ」 都へ帰りたい、と大騒ぎして、これには出雲守もほとほと手を焼いたという。 その話を伝え聞いた修理亮などは、 「推参なり」 と白髪頭をふりたてて憤慨した。 「お屋形様が城獲りに長けたお方だからこそ、かの姫御前も無用の費えができるのではないか」 貧乏公卿の娘が都風を吹かせおって、と言わんばかりの口吻であった。 「何用か?」 と春姫は市弥に訊ねた。 「先日のお屋形様の追善供養、お蔭様をもちまして滞りなく終えましてございます」 「ああ」 春姫は扇であくびの口元を隠し、 「ワラワは急な病にて行けなんだ」 「残念なことにございます」 市弥は神妙な顔で頭を垂れながらも、 ――見え透いた嘘を仰せだ。 参列すれば、正室である幾田殿の下座に着かねばならない。それがこの京下りの春姫にすれば、耐え難い屈辱なのであろう。 ともあれ、 ――なるほど、お屋形様が心を蕩かされたのも無理はない。 と市弥は心中、感嘆した。 公卿の出らしい瓜実顔に按配よく目鼻が配置され、都で磨かれた白い肌は唐渡りの陶器のように輝かんばかりで、絹のようにきめ細やかである。 ――このお方ならさぞや尼姿もお似合いであろう。 などと目の前にいる肥しくさい武士が不遜極まりないことを考えているとは露知らず、 「そうそう」 春姫はゆったりと口を開いた。 「実はの、無心があるのじゃ」 追善供養の話もそこそこに買い物の話をはじめた。 「はあ」 「『源氏』の写本があってのう」 「はあ」 「浮舟のくだりでのう」 「ああ、宇治十帖でございますか」 「存じておるのか?」 「はっ、それがし、少々和歌を嗜んでおりまして」 百姓ながらも文才のあった市弥は幼い頃、実家のそばにあった寺院に通い、文字や和歌を習い、侍になってからも和漢の書を読みふけっていた。無論、「源氏物語」も読んでいる。武功自慢の家中の者たちは、そんな市弥を「文弱の徒」と嘲笑っていた。 「ホウ」 春姫は半ば意地悪く、半ば興深げな顔をした。京から下向した東国で無聊の日々をかこっていた彼女にとって、和歌の話のできる市弥の出現は、賽の河原の地蔵菩薩である。 市弥がスラスラと宇治十帖の和歌を諳んじてみせると、 「もそっと近くに来よ」 と目を輝かせた。 一刻近くも「宇治十帖」について語らう頃には、春姫は市弥にだいぶ心を許していた。 「やはり浮舟の出家の段には、いつも涙を誘われまするなあ」 「そうじゃのう」 「あわれとはあのような情景を申すのでございましょう」 「まったく」 「こう申しては何でございますが」 市弥は剽軽な口ぶりで、 「先だって奥方様が仏門にお入りになられましたが、いやはや、どうにも浮舟のようには参りませぬなあ。田舎臭うて、まるで狸が袈裟を着て、化けそこねているような有様でして」 「これ、口さがのない」 とたしなめつつも、春姫、袂で口をおおっている。 「これが京育ちの春姫さまならば、浮舟にも優るとも劣らぬ清らな尼僧ぶりであったものを、とそれがし、密かに溜息をついたものでございます」 「ホホ、おだてても何も出ぬぞ」 春姫は幾田殿への優越感を満たされ、上機嫌だった。同時に自己の清楚な尼僧姿を想像したのであろう、ウットリとした表情になった。 「斯様な草深い地にも、そちが如き歌詠む武者がいたとは」 「恐れ入りまする」 「雲州にも、そちの如き歌心があればのう」 「何を仰せなさいますか」 市弥は一転、大真面目な顔になった。 「亡きお屋形様は風雅の道にも秀でた花も実もあるもののふでございました」 気色ばむ市弥に、 「それは初耳じゃのう」 と春姫は笑いを引っ込めた。 「実はそれがし、本日まかりこしましたのは、お屋形様が今際のきわに、特に春姫さまだけに書き残された文をお渡しするためにございます」 「ホウ」 春姫は切れ長の目を見開いた。「春姫さまだけに」という言葉が、心地よく彼女の耳朶をうったようだった。 「見せよ」 「はっ」 うやうやしく差し出された文を広げ、 「確かに雲州のて(筆跡)じゃ」 と春姫は呟いた。読みすすめるうちに濃い睫毛が濡れはじめた。文をもつ手が震えている。 「なんと・・・なんと見事な・・・」 何度も袖で目頭を拭った。 文には出雲守の春姫へのこまやかな愛惜の情が、雅な表現で綴られていた。都の公達でも詠めぬような和歌も二首、添えられていた。 亡夫の意外な優しさと文雅の才に、春姫の女心は激しく揺れ動いている。 「これをお屋形様がワラワに?」 春姫の出雲守への呼び方が「お屋形様」に改まったのに、市弥はほくそ笑み、 「ははっ」 とかしこまって平伏した。 嘘である。 あれよあれよという間に息をひきとった出雲守が、わざわざ春姫に都めかした文など残すはずもない。偽手紙である。 文面は市弥が考え、それを祐筆の田代がしたためた。田代は祐筆という役目柄、亡き出雲守の筆跡を真似ることができたのである。和歌は昔、都からきた連歌法師が城中の宴で献じたのを、まるまる引き写した。 ――都振りには都振り。 という市弥の策は大いに功を奏したのである。 「お屋形様は最後まで春姫さまの御身を気遣うておられました」 「そうか」 と春姫はまた袖を目頭にあてた。 「”わしが死ねば嫡男惟虎と奥(幾田殿)の世になる。さすれば春姫の立つ瀬がなくなる。それが不憫でならぬ。このような田舎で余生を過ごさせるより、疾く都へお帰り願うべし”との御遺言にございました」 「なんと!」 春姫がサッと青ざめた。 何度も「都へ帰る」と言って出雲守を困らせたのは、単に甘えていたに過ぎない。 いまさら荒れ果てた都へ戻ったところで、待っているのは、位階はあっても日々の糧にも窮する貧乏公卿の暮らしと、盗賊や足軽の跋扈する戦乱の巷である。 泣かせた後は脅す。 市弥は碁の打ち手のように、一石一石と目の前の姫君を、当人の知らぬ間に出家へと追い込んでいる。 「”春姫はまだ若い。都で新たな良人を見つけるであろう。くれぐれも尼になるなどと短慮をおこしてはならぬ”との仰せでした」 「待ちやれ、柘植」 「はい?」 「都には戻らぬ」 「と申されますと?」 「この地にとどまり尼となってお屋形様のご冥福をお祈りしたいと、ずっと考えておったのじゃ」 「左様でございましたか」 白々しい、と市弥は内心、憫笑した。今の富裕な生活を奪われそうになって、狼狽し、咄嗟に市弥の口から出た「尼」という語に飛びついたのだ。 ――都の貧乏姫より東国の浮舟といったところかな。 が、 「それでは困ります」 市弥はわざと渋面をつくり、首を振った。 「お屋形様の御遺言を違えるわけには参りませぬ」 「貞女は二夫にまみえず、と漢籍に申すではないか」 拒まれて天邪鬼な春姫はむきになった。 「春姫さまを尼にしては、それがし、あの世のお屋形様に合わせる顔がありませぬ」 「恋しき殿御のために黒髪を断つは女人の本懐ぞ」 「はてさて」 と困惑した様子をつくりながら、市弥は獲物が網にかかった猟師の心境であった。 「そこまで御決心がお固くては致し方ありませぬな」 「承知してくれるか」 春姫は嬉しそうに言った。まさか半刻前には、自分の口から「尼になりたい」などという言葉が出るとは夢にも思わなかっただろう。が、本人はすっかりその気になっている。 ――げに変わりやすきは女人の心。 所詮は俄か道心、時を置いては、またすぐ心変わりするかも知れない。そこで、 「実を申さば」 市弥は声をひそめた。 「清空上人を御存知でございますか?」 「存じておる」 清空上人は都の僧である。上は天子にまで敬われた名僧であったが、名利を厭い、諸国を行脚していた。 「その清空上人が――」 この城下に来ている、と打ち明けられ、春姫は身を乗り出した。 「まことか?!」 「数日前から御逗留なされている由」 「なんという奇遇」 「これも巡り合わせでございましょう。春姫さまの御道心が上人をこの地にお呼びになられたのです」 「おお」 春姫の声は感激に震えていた。いつの世にもいる、偶然を「運命」とか「奇跡」と手前勝手に思いたがる人種なのだ。同時に名だたる名僧に得度を授かることは、この肥大した虚栄心の持ち主にとっては、無上の喜びであろう。こうした志向の人間もまたいつの世にもいる。 「急ぎお招きいたせ!」 春姫は度を失っていた。 「清空上人のお剃刀によって髪をおろせるとは、なんたる果報であろう」 疾う、疾う、と追い立てるように市弥を上人の許へ走らせたのであった。 市弥が清空上人――であるはずがなく、城下をうろついていた旅の物乞い僧を連れ、ふたたび御前に参上したときには、春姫はすでに内掛けを脱いで、白小袖となり、剃髪の支度を整えていた。 「どうか名高きお上人様の御手により、ワラワに僧形をお与えくださいまし。お上人様の功徳を賜りたく存じまする」 物乞い坊主に深々と頭をさげる春姫に、 ――これはこれは・・・ 市弥はあやうく失笑をこらえた。 ――詩歌の道もアテにはならぬなあ。 しかし春姫も名家の女性である。剃髪の座に着くと、作法通り、スッと袂を袖の中に入れた。この所作には俗世を捨てるという意味がある。 その見事さには市弥もうならずにはいられなかった。 けれど肝心の「清空上人」は作法も知らず、その辺りの田舎後家の頭でも丸めるような無造作さで、春姫の頭髪をひっつかむと、 ザクリ、 と鋏を入れていた。 バサリ、 と黒髪が畳を叩き、春姫が好んで髪に焚きこめていた唐土の香木の薫りが、少し離れたところに控えている市弥の鼻孔にまで届いた。侍女頭がそれをうやうやしく拾い上げ、白木の三宝に載せた。 また一房、僧が姫君の髪に深く鋏を入れた。 ザクリ、 髪が根元から断たれた。 また一房、また一房と髪が摘まれていった。三宝のうえ、嵩になって積もっていく黒い物に、 「・・・・・・」 春姫はチラリと視線を送った。当惑の色があった。 ――都振りでないのがお気に召さぬのかな。 と市弥は散切髪の春姫の心中を察した。 都では公卿の姫は尼になっても、髪は肩のあたりで揃える、いわゆる尼削ぎである。 しかし俄かに清空上人に仕立てあげられた田舎の法師が、京洛の慣わしなど知りようもない。東国流のつるつるの青坊主に丸めてしまうつもりらしい。 春姫も「清空上人」のやり様には文句も言えず、今は観念して、目を閉じている。口元で静かに経文を誦している。 侍女たちも主に和して、経を唱えた。どの顔も迷惑そうであった。主が出家すれば、自分たちも立場上、俗体のままでいるわけにはいかない。 ――この者らも東国流かな。 春姫の頭が破戒僧のような毬栗坊主にされた。 長い黒髪を切れるだけ切り、僧はようやく懐より剃刀を取り出した。日頃、彼の頭を剃りあげているものなのだろう、泥棒市でも見当たらぬような古ぼけた小さな剃刀だった。 それを春姫の額の生え際にあてた。 「・・・・・・」 姫は身を硬くしている。 僧は剃刀を動かした。 ジッ、 ジッ と擦りつけるように剃りはじめた。 毬栗頭が剥き上げられ、瓜のような青い春姫の頭の地肌がのぞいた。 毛屑ほどの短い髪が春姫の捧げもつ懐紙に、パラパラと落ちた。 古剃刀は物乞い僧の年輪を経た坊主頭を保つには十分だったが、はじめて剃髪する姫君の柔らかな頭皮には無骨に過ぎた。 春姫はたまりかね、 「お上人様、痛うございます! 何卒、ご容赦下さいませ!」 と悲鳴をあげた。 僧は仕方なく用意の湯で毬栗頭を湿らせ、剃髪を続けた。それでも春姫が、痛い、痛い、と騒ぐので、とうとう癇癪玉を破裂させ、 「静かにさっしゃい!」 と怒鳴りつけていた。 ――とんだお上人様だなあ。 市弥は呆れた。 生まれてから一度も他人に大声を出されたことのなかった貴族の姫は、のけ反らんばかりに驚き、恐れ入っていた。灸を据えられている童のように、目に涙をため、歯を食いしばり、素直に痛みに耐えていた。 スーッ、スーッ、と最後に後れ毛が剃り落とされた。 青白い坊主頭ができあがった。 坊主頭のところどころに無残な切り傷があった。侍女頭が怖々と懐紙で血を拭った。 市弥は即刻、剃髪された頭にふさわしい僧衣を用意した。 「これを着るのか」 絹に慣れた春姫は田舎じみた麻の袈裟に不満を漏らしたが、 「何分、急なことで」 すぐに都より五条の袈裟を取り寄せますゆえ、暫しご辛抱くだされ、と説き伏せられ、渋々それを身に付けた。 「似合うか?」 「雅な尼君になられました」 市弥の追従に 「そうか」 春姫は満足げにうなずいた。 翌日から法体を周囲に誇示するように、亡夫出雲守の墓前に詣でる春姫の姿があった。 彼女の鄙びた尼僧ぶりに、家中の者たちは仰天するばかりだった。修理亮は目を丸くして、 「市弥、その方、如何にしてかの姫御前を説き伏せたのだ?」 と訊ねた。 市弥は 「詩歌の道は生きてこそ役立つものでござる」 とだけ答えた。 本当は、 「俺は辞世を詠むために歌を学んだのではないぞ」 と言いたかった。 春姫さま 夏姫さま 秋姫さま 冬姫さま と書きつけた紙を広げ、春姫の名を、線を引いて消した。 「まず一人」 これまでのどんなお役目より疲れた。湯浴みも酒もいらなかった。せんべい布団にゴロリと身を横たえた。春姫の尼姿を思い返した。 ――うなじが美しかったなあ。 まどろみながら考えているうちに、深い眠りに落ちた。 (了) あとがき どうも、迫水です。 懲役七〇〇年時代劇第五弾です。 おいおい、時代劇続きすぎだろ、と思われるかも知れませんが、アップは同時期なんですけど、「法師武者〜」は三月入稿、本作は九月入稿、と半年間のタイムラグがあります。 本作のコンセプトは「尼僧剃髪フェチ的なギャルゲー」です。 でもギャルゲー、「サクラ大戦」しかやったことない・・・(しかも途中まで)。 最近、現代物だと、どうしても非ストーリーや笑いに走ってしまうので、時代劇でやってみました。 自分では「習作」と思ってます。思うことにしてます! 何故なら、 この後、どんどん「剃髪<物語」になっていくから・・・。 この剃髪とストーリーのバランスが、なかなか・・・。 以前から言い訳してますが、今回も「断髪描写のある物語」と自分に言い聞かせて書きました。 よかったら最後までお付き合い下さいね〜。 |