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真魚


 真魚(まお)は今頃、
 庭詰
の真っ最中だろう。
 数百年の由緒ある大寺に生まれ、何不自由なくぬくぬく育った彼女が尼僧堂の玄関で、終日這いつくばっている姿を想像すると胸が痛む。

 得度式を数日後に控えた真魚と会ったのは夜の歓楽街だった。女友達ふたりと一緒だった。まだ長い髪だった。
 真魚はほろ酔いで、シャバで遊び納めをしていたのだ、と私に言い訳して、
「アタシ、ちょっとテイさんと飲みたいから」
と連れの娘たちを先に帰路につかせた。そして私の都合など斟酌もせず、
「どこで飲もうか」
と私の腕にしがみついて、ふたりネオンサインの洪水の中を歩いた。
「もうすぐだね」
と私が言うと、
「今夜はその話はやめて」
 だいぶナーバスになっている様子だった。私にも経験がある。出家直前になれば、誰でも、これでよかったのだろうか、うまくやっていけるのだろうか、と不安になる。俗世への未練が生ずる。
 まして、家庭の事情で、しぶしぶ髪をおとす真魚にとっては出立の日が刻々と近づいてくるという現実は、大仰に言えば処刑を待つ死刑囚のような心境だったに違いない。

「テイさん」
と真魚は私を呼ぶ。私の僧名の半分をつまんできて、テイさん。別に真魚のオリジナルではなく、真魚の実家であるH寺での修行僧時代の仲間内での呼び名だ。
 あの頃は真魚もまだ化粧も男も知らない小娘だった。実家に寄食している修行僧たちの中では私がお気に入りのようで、始終、私にべったりだった。
「テイさんには彼女、いるの?」
などとマセた質問をされたりした。
「いるよ」
と私は答えた。当時、私には郷里に恋人がいた。平安顔の美人で、修行を終えたら結婚する約束をしていた。
「そうか〜、彼女いるんだ。残念」
 真魚は露骨に失望した顔をした。
「俺みたいなオジサンなんかほっといて、同級生の彼氏をつくりなよ。カッコイイ男子、いないのかい?」
「だってアイツらバカばっかりなんだもん」
と真魚は唇を尖らせた。
「アタシのこと、何て呼んでると思う? デメキンだよ」
「それはひどい」
 言いながら私は思わず吹き出した。たしかに二重まぶたがパッチリとした真魚はデメキンに似ていなくもない。
「テイさんまで笑うの?」
 真魚が目を剥いて、そうすると彼女の両眼がますます強調され、私はまた笑った。
「ひっどい!」
「いや、ゴメン」
 慌てて非礼を謝した。
「いや、その、なんだ、俺にもおぼえがあるけど、真魚ちゃんぐらいの年頃の男の子っていうのはさ――」
「好きな女の子には憎まれ口をきいてしまうもんだ」
 真魚は私の言おうとしていた台詞を奪って、諳んずるように、
「『真魚ちゃんは可愛いから、男の子たちもついイジワルして嫌なことを言ったりするんだよ』、でしょう? もう何回も聞かされたわ」
 お父さん、お母さん、お婆ちゃん、と指を折る。
「そういうこと」
 私は苦笑した。けして気休めではなく、真魚は周りの女の子たちよりもずっと可愛かったし、ずっと大人びていた。

 真魚の良くない噂を耳にした頃は、私もすでに一介の修行僧ではなく、実家の寺で住職見習いとして父住職の手伝いをしていた。
 その噂を運んできたのは、H寺での修行仲間だった。
 真魚がH寺の若い修行僧とデキてしまい、子供まで身篭ったらしい。真魚も相手の男も寺の跡取りのため、一緒になることはできず、男は別の修行寺に移り、真魚は体に宿った小さな生命をひそかに葬ってしまったという。
「あの真魚ちゃんがなあ」
「そうか、大変だな」
と私は物憂く応じた。
 その頃の私は自暴自棄に陥っていた。婚約者の彼女は私の修行中、他の男性とあっさりと結婚してしまっていた。
 恋人の裏切りは、彼女を思って過酷な修行に耐えてきた私にとっては、大きなショックだった。
 昼間は僧侶としての職務を懸命にこなした。そうすることで失恋の痛手を紛らそうとしたが、空虚な気持ちはどうすることもできず、私はいつしか夜の街を徘徊するようになっていた。パチンコ、スナック、キャバクラ、ピンサロ、一時の快楽に耽溺した。
 そんな私の行く末を心配した父は早々に引退を決め、私に住職の座を譲った。私に責任をもたせ、僧侶としての自覚を促そうとしたのだろう。
 だが親の心子知らず、いや、親の心は十分すぎるほどわかっていたが、私は誘惑に負け、あいかわらず放蕩の日々を続けていた。

 真魚と再会したのは、そんな時だった。
「テイさん?」
と街中で不意に声をかけてきた、けばけばしいルックスのあばずれ娘の正体が、あの聡明だった美少女の成長した姿だと知るには、
「忘れちゃった? アタシ。真魚よ、赤埴真魚。ホラ、H寺の」
と本人が自己紹介するまで気がつかなかった。
「ああ、真魚ちゃん!」
 彼女の変貌振りに戸惑う私に、
「久しぶり」
と真魚はニカッと笑った。昔と同じ大きな両眼だった。人好きのする笑窪もあの頃のままだった。
「飲もうよ」
 真魚はいい、私は気弱い微笑でうなずいた。
 実を言えば気が重かった。
 私は夜の歓楽街では自由でいたい。できるだけ身軽で束縛されず、ただひとり、渡り鳥のように気の向くまま、店から店、渡り歩きたい。知っている人間に気兼ねしながら遊ぶのは気がすすまない。真魚の悪評はすでに私の耳に届いている。私は真魚に同情している。真魚の味方でいてやりたいと思う。だから彼女の過去については素知らぬ顔を通すつもりだ。それが重い。
だが、出鼻をくじかれ、真魚に誘われるまま、小奇麗なバーに入った。
「何飲む?」
「水割り」
「じゃあアタシも」
 私と真魚はその店に御輿を据え、ひっきりなしにグラスを重ね、真魚は私の修行時代の失敗談を持ち出したりして、ハシャいでいた。
 昼間は弁当屋のアルバイトをしながら夜間の大学に通っている、と真魚は言った。
 夜も更け、店内に客がまばらになっても真魚は私を解放してくれなかった。
 酔いがまわった真魚は
「テイさん」
とテーブルに身を投げ出し、私に絡むように、
「テイさんも知ってるんでしょう? アタシの噂」
「まあ聞かないこともないが」
 今更嘘を言ってもはじまらないので、正直に返答した。
「アタシ、そんな悪いことしたかなあ?」
 私は黙ってグラスを干した。
「本気だったんだよ。コウトクさんのこと、本気で好きだったんだよ」
「そうか」
「高校の連中はアタシのこと、”サセ子”とか”ヤリマン”とか陰口言ってさ、子供おろしたとか面白半分で根も葉もない噂たてられてさ。デメキンてからかわれてた頃の方が何億倍もマシだったよ」
 私がかける言葉をさがしているうちに、真魚は泣き出した。私は言葉を諦め、真魚の頭に手をやった。
「お父さん、最近、体の具合が悪くてね」
 真魚はしゃくりあげながら言った。
「長女のアタシに早く婿をとってくれって言うのよ」
 あの人と別れさせておいて勝手過ぎるよ、と真魚はまた泣いた。
「お師匠だって悩んだはずさ。真魚ちゃんのこと、あんなに可愛がってたじゃないか」
「お父さんはアタシより寺の方が大事なのよ」
「真魚は子供だな」
「まだ十九歳なんだよ」
「もう十九歳だ。子供は水割りなんて飲まない。少しは親の気持ちもわかってあげないと」
「テイさんはどうなの?」
 逆襲され、私はひるんだ。
「アタシ、知ってるんだから」
「何を?」
「カノジョに逃げられて、遊びまわって現実から逃げてる」
 そう言われては、
「そうだな」
と苦笑するほかない。
「俺もまだまだ修行が足りない」

 それからしばしば真魚と飲むようになった。
 宗門のはみ出し者同士、意気投合し、まるで病み犬がお互いの患部を舐め合うように、逢瀬を重ねた。と言っても別に恋人になったわけではなく、私にとって真魚はあくまで師匠の娘、昔馴染みにすぎなかった。真魚の方はそんな私の認識が不満らしく、さりげなくホテルに誘ってきたりもしたが、私は頑として応じなかった。少女の頃から知っている真魚を「オンナ」として見ることは、とてもできなかった。

 真魚の父親が病床に伏したのは、真魚と再会してから八ヶ月後のことだった。
 寺門の世界というのは俗世間以上に弱肉強食の世界だったりする。住職が倒れたと知るや、H寺の利権を虎視眈々、狙っていた法類(寺仲間)連中はこぞって乗っ取りを画策した。真魚たち一家を寺から放逐して、その後釜に座ろうと圧力をかけてきたのだ。
婿養子を迎えている悠長な時間などとてもなく、けなげにも真魚が出家し、父住職に代わって寺を守ることで一家は窮地を脱したのだった。

 尼僧修行のため尼僧堂に入る真魚の保証人になってほしい、と頼まれたときは困惑した。
 法類たちは真魚の後継を喜ぶはずもなく、どうやら真魚の悪い噂を知っている他の和尚たちも、彼女の保証人になることに二の足を踏んでいるらしい。
 こんな破戒坊主にまでお鉢がまわってくるようでは、よっぽど先方も困っているのだろう、と同情し、
「喜んでお引き受けします」
と電話で答えた。
 H寺の法類どもは宗門でもかなり権力のある大寺ばかりだ。うかつに逆らうような真似をしては、今後、この世界での出世は諦めるしかない。
 しかし私は腹を据えた。酒場での真魚の泣きっ面が脳裏に浮かんだ。最後の最後まであの子を、真魚を、見捨てるものか、そう心に誓った。

 間もなく真魚と彼女の母親が菓子折りを携えて私の許を訪ねてきた。
 法類とのいざこざで心身をすり減らしたのだろう、真魚の母親は白髪も増え、めっきり老け込んでいた。
「この度は本当にありがとうございました」
と何度も頭をさげられ、私は恐縮した。
 真魚はほとんど口をきかなかった。申し訳程度に化粧をし、紺のスーツを着て、肩までの髪を後ろでまとめていた。なんだか就職活動中の大学生みたいな風情だった。
「真魚ちゃん、頑張ってね」
と私が励ますと、
「はい」
と不器用にお辞儀をした。悲愴な決意が見え隠れしていた。
 雑談の最中、真魚の母親が思い出したように、
「テイさん、お見合いするんですってね」
と言ったとき、真魚の表情に微かな変化があった。気のせいだったろうか。
「ええ、まあ」
 私は言葉を濁した。
 私の生活を見かねた父や檀家はしきりに見合いをすすめてくる。その度に言を左右にして取り合わなかったが、とうとう断りきれず、保証人として、真魚の修行が落ち着いてから、という条件で承知した。私も三十二。真魚だって新しい世界に踏み出そうとしている、そろそろ無頼な暮らしとは縁を切って、腰を据えて住職業に専念すべきだろう。

 そして深夜の街で「遊び納め」をしている真魚と鉢合わせした。
 友人たちとのバカ騒ぎも真魚の憂鬱を紛らすことはできなかったようだった。
 真魚につかまった私は彼女と飲み屋を二軒はしごする羽目になった。
 二軒目のカラオケスナックでは、酔った真魚はマイクを離さず、現実を忘れようとする かのように、ノリのいいアップテンポの曲を立て続けに七曲、熱唱した。私はそんな真魚がいじらしく、マイクを独占されて苛立っている従業員や他の客に、
「すいません、歌わせてあげてください」
あの娘、当分カラオケが歌えないんですよ、と片手拝みで謝ってまわった。
八曲目、真魚はハマザキアユミのバラードを選んだ。

今日がとても悲しくて
明日もしも泣いていても
そんな日々もあったねと
笑える日が来るだろう

 真魚は自分に言い聞かせるように、喉をふりしぼる。
 私はウィスキーをあおった。苦い。
 アルコールがこんなに苦いとは思わなかった。
「次はアムロね」
 とうとう九曲目に突入しかけ、客の忍耐の限界を察知した私は、
「真魚、もういい、もういいよ」
 あわてて彼女の袖をひき、店を後にした。

「さて謎々です」
 最後に立ち寄った場末のラーメン屋で真魚が不意に口を開いた。
「赤埴真魚はどうして尼さんになるんでしょう?」
「わからない」
「考えて」
「仏縁ってやつかな」
「そんな悟りきった答え、全然心に響かないよ。不正解」
「わからない。降参だ」
「女だから」
 男じゃ尼さんになりたくってもなれない、と真魚はあまり面白くない正解を得意そうに披露した。
「あのさ」
「ん?」
「コウトクのこと、知って――」
と私が言いかけたとき、お待ちどう、とラーメンがふたつ、目の前に差し出されて、私の言葉は宙に浮いた。
「コウトクさんのことでしょ? 知ってるわ」
 真魚が私の半ちぎれの言葉を引き取った。真魚がかつて愛した男は最近、妻を娶った。寺娘だという。
「ウチにも葉書、きたもの」
「そうか」
 やるせない気持ちになる。
「仕方ないよ。あの人も跡取りなんだしさ、結婚しなきゃ、ね、皆困るでしょ」
 真魚はほろ苦く微笑した。
「私だってもう大人だよ? それくらいわかってるって」
「そうだな」
「テイさんも見合い、するんでしょう?」
「ああ、周りがうるさくってな」
「皆、変わっていくんだね」
「諸行無常さ」
「明後日」
と真魚は話題を変えた。
「明後日、髪を切るの」
「そうか」
 わざとそっけなく答えた。変に同情して真魚の決心を揺さぶりたくない。
「食えよ。冷めちゃうぞ」
と言ったが真魚は器を見つめたまま、箸をとろうとしない。
「僧堂の食事は音をたてるのは厳禁だが、麺類だけはOKなんだぜ」
「アタシ、できないよ」
真魚は首をふった。
「尼さんなんて無理」
「やるって決めたんだろ」
「仕方なかったんだ」
 真魚は箸を割ると、殊更に大きな音をたててラーメンを一口すすった。
「お母さんはもう年だし、妹もね、大学行きたがってるんだ。お父さんの入院費もあるしさ、アタシが稼げるようになるしかないじゃない? アタシが嫌だってワガママ言ったら・・・一家離散だよ」
 でも本当は嫌だ、尼さんなんかになりたくない、と真魚は溜息をついた。
 ズルズルと麺をすする音だけが店内に響く。
 私は真魚の保証人になったことを後悔した。
 こんなときどうすればいいのだろう。どういった言葉をかけてやればいいのだろう。ぼんやり考えた。考えているうちにラーメンを食べ終わってしまった。そんな自分がつくづく嫌になる。僧侶の資格などないのかも知れない。
「出よう。終電に乗り遅れる」
「帰りたくない」
「帰りたくなくても帰れ」
「テイさん、アタシのこと嫌い?」
 真魚があの大きな両眼で私を見据えた。私の人生のうちで、こんなに熱い眼差しを私に投げつけてきたのは、私を捨てた恋人とこの夜の真魚だけだった。
「嫌いじゃないよ」
 私は真魚の肩を抱いた。真魚は私の胸に顔を埋めた。シャンプーが馨った。明後日には跡形もなく消えてしまう香り。もうすぐ遠くに行ってしまう真魚。帰したくない。激しい情欲がわいた。

 その夜、私は真魚を抱いた。真魚はありったけの情熱で私を受け容れた。知り合って何年になるだろう。私はかつての小娘の貪欲さに舌を巻きつつ、彼女の髪に指を差し入れ、唇をあて、最初で最後になるであろう柔らかな感触を愉しんだ。
子宮に届かんばかりに、陰茎を突き込む。
 壊レル、と真魚がうめいた。
 壊レチャエ、と私は言った。半ば本心だった。このまま壊れてしまえば、真魚はくだらぬ僧門のシガラミや責任から永遠に解放されるのだ。
 真魚を愛撫しながら、ふと、思った。
 何故、私が彼女の保証人を頼まれたのだろう、と。
 宗門は広い。真魚の寺は大きい。彼女の父親に世話になった僧侶も沢山いる。そういったネットワークの中で義侠心に富んだ高徳の僧侶たちを、私は何人も知っている。彼らならすすんで真魚の保証人になってくれるに違いない。保証人としては堕落僧の私などより、ずっと適役だ。
 だが、と私は考える。
 例えば、の話だ。
 もし、真魚が辛い修行に耐えかねて、尼僧堂を退転した場合、せっかく不利益を承知で引き受けてくれた保証人の顔に泥を塗る結果となり、迷惑をかけることになる。
 けれど私なら大丈夫。元より悪評芬々の破戒僧だ。真魚が修行先から逃げ出そうが、落とす評判などハナから存在しない。
 ハッと閃くものがあった。
 もしかして真魚の母親はそこまで見越して、私に保証人を依頼したのではないか。

「真魚」
 スヤスヤ幸福そうに眠っている隣の少女を揺り起こす。真魚はゆっくりと目をあけた。
「何?」
 私は財布の中身を確認した。ホテル代を差し引いたら二万八千円あった。情けない。毎夜の散財の報いだ。
「これ、ワラジ銭」
 有り金を全部、真魚に渡した。
「こんなに貰えない」
真魚は泣きそうな顔をした。
「いいから」
 私は強引に紙幣を握らせた。
「いいか、この金は財布なんかに入れておくんじゃないぞ。作務衣の裏にでも縫いつけておけ」
「作務衣の裏に?」
「僧堂では大金を持っているのが見つかったら、先輩僧に取りあげられる」
 なんでかわかるか?ときくと、真魚は、わからない、と幼子のように首をふった。
「金があれば、いつでも僧堂から逃げられるからだ」
 真魚は私の言わんとしていることの重大さに気づき、顔を強張らせた。
「お前はまだ十九歳。子供だ。自分のことだけ考えていればいい。自由でいていいんだよ。誰かの犠牲になる必要はない。辛かったら、その金で逃げ帰ってこい。ちゃんと修行に行って失敗したのなら皆、仕方ないと納得する。いや、俺が保証人として納得させる。親御さんや妹さんのことは俺が出来る限り面倒をみる。一度きりの人生を棒に振るな! 生きたいようにに生きるんだ!」
 放心したように私を見る真魚の肩を、わかったのか、とどやしつけると、真魚はおずおずと「ワラジ銭」を着衣の胸ポケットにしまった。それでも不安そうな視線を私に向けてくる。
「真魚、心配ない、心配ないよ。世界って結構太っ腹なんだぜ。俺みたいなクソボウズでも素知らぬ顔で生かしてくれている。辛いことがあっても、後でちゃんと利子をつけて返してくれるんだ」
「利子をつけて?」
「ああ」
「嘘、テイさんの嘘つき」
「嘘じゃない」
 私はそっと真魚に口づけした。

 真魚が黒髪を断ったのは得度式の前日だった。
 得度式のため、H寺に泊りがけで手伝いに来ていた私も立ち会わされた。
 真魚は白衣(びゃくえ)を着て、新聞紙を敷いた床の間に端座していた。
 真魚の母親、妹、伯母といった女衆が順繰りに真魚の髪に鋏を入れていった。
 真魚は最初のうち、切り離された髪束をいちいち確認しながら、
「やだ、こんなに切ったの?! 真菜(妹)、ちょっとは手加減してよ〜」
と大きな目を剥いておどけたり、
「ボウズってすごく経済的な髪型なのよ。かなりオススメよ」
とハシャいだりして、気丈に振舞っていた。真魚の母親は娘の強がりが悲しかったのだろう、目頭を押さえながら
「そうね。じゃあお母さんも坊主にしようかしら」
と無理をして下手な冗談を言っていた。
 けれど、三宝に髪の束が積まれていくにつれ、真魚の表情は固くなり、その持ち前の快活さは段々と、なりをひそめていった。
 真魚の妹は姉とは正反対の生真面目な優等生タイプらしく、優等生にありがちな他者を見下した態度で、髪を切られる姉を冷ややかに見つめ、
「お姉ちゃん、修行先から逃げ出したりしないでね。寺の恥になるから」
とヒヤリとするような冗談を言って、私は思わず真魚を見た。真魚は黙っていた。
 真魚の小さな顔をくるんでいたミディアムシャギーが無残に摘まれ、歪な切り口が、耳の上で、首筋で、ピンピンと反りかえり、持ち主が強い直毛であることを教えている。
「テイさん、お願いします」
と真魚の母親。仕上げのバリカンは私の役目だ。本当はこの場に連なっているのすらも苦痛なのだが、流石にバリカンは入れられない、と尻込みする女性連に懇願された。真魚にも、
「テイさん、お願い」
と拝む真似をされた。
 水色のケープを首に巻く。
「恨むなよ」
と耳打ちすると、
「大丈夫」
 真魚は破顔した。
「覚悟はできてるから」
 大きな口を叩いたものの、
「ちょっと待って」
と私を制して、気持ちを落ち着かせるつもりなのか、何度も両手で顔を撫でまわした。そして、
「ふう」
と大きく吐息をつくと、
「お願いします」
 やけに、しゃちほこばって両掌を膝のうえにおいた。
バリカンのスイッチを入れる。ジジジジとバリカンがアブラ蝉のように鳴きはじめる。それがゆっくりと頭に近づいてくるにつれ、
「・・・・・・・」
 真魚は上唇で下唇を噛んで、身を固くしている。視線は数十センチ先の畳の縁に。
 ゾリ、と襟足が鳴った。バリカンに手応えを感じた。ええい、ままよ、と一気に上に押し上げる。ジョリジョリと柔らかな髪の毛がバリカンの刃に抵抗する感触が、機械の振動をすりぬけて伝ってくる。バリカンは有名メーカーのものらしく、切れ味は抜群だった。
 短く刈り込まれた一本のケモノ道は私と真魚に腹を括らせるには十分だった。もう後戻りはできない、と。
 バサリと髪が新聞紙に衝突するたび、空気が揺れ、あの夜と同じシャンプーの匂いがした。
 嗅覚の記憶とともに、もう一度真魚を抱きたい、という妄念がわきあがり、私は自分の浅ましさを恥じた。
 二日前、愛でた髪が剃り落とされていく。
 真魚は目を閉じ、時々、ん、ん、と私にしか聞こえない吐息をもらした。バリカンに愛撫されているかのようだった。
 後頭部がすっぽりと剃りあげられた。茸みたいな頭になった。
 前髪の生え際にバリカンをあてる。真魚の喉が鳴った。唾をのみこんだらしい。
そのままバリカンをいれようとしたら、真魚がケープから右手を出して、鼻をこすったので、私はあわててバリカンをひっこめた。
「ごめんなさい」
と真魚は手を膝のうえに戻した。再度、バリカンをさっきの場所にあて、スーッと押しすすめた。ジョリジョリと髪と金属の摩擦音がして、真魚の頭髪は左右に引き裂かれた。青い地肌が覗いた。真魚が笑った。くすぐったそうに。
 真魚はすぐに笑いをおさめ、また神妙な顔つきになった。
 私も鹿爪らしい表情をつくり、バリカンを二度、三度と前髪の生え際から頭頂部にかけて走らせる。
 真魚の涼しげな三日月眉が現れた。白い額も、眉のうえにある小さなホクロも。
 すすり泣く声がする。真魚の母親と叔母だ。姉に憎まれ口をきいていた妹の真菜もバツの悪そうな顔をしている。
 さらにバリカンを走らせる。シャンプーの甘い香りにむせそうになる。真魚の頭がどんどん削られ、青く丸くなっていく。
 私と真魚の間には体を交わした者同士にのみ通ずる呼吸があって、バリカンの振動で手がしびれた私がちょっと休みたいな、と思うと、真魚は
「テイさん、手、大丈夫?」
と私を気遣い、私は私で真魚の微妙な表情の変化を見てとるや、
「足、しびれたろう? 崩しなよ」
「大丈夫」
「そうか?」
 心配になる。この程度の正座で足がしびれていては、尼僧堂ではやっていけない。早めに脱走するが吉だ。
「もうすぐ終わるから、もうちょっと辛抱して」
 実際、あとはコメカミとサイドの髪を残すのみだ。
 バリカンの刃先でモミアゲをすくいあげる。ガアアァァと押し上げる。残された地肌が頭頂部と後頭部の青い領域と合流する。
「お姉ちゃん、この先、ずっと坊主頭なの?」
と真菜が母親に訊いている。
 うちの宗派では尼僧は還俗しないかぎり一生丸坊主だ。

 真魚が丸坊主になった。
 記念写真を捕ろう、と真魚の叔母が提案し、真魚は別室で三十分かけて袈裟をつけ、ふたたび私たちの前に現れた。
 僧形になった真魚の清らかさに私は思わず息をのんだ。真魚への欲望が鎌首をもたげる。それは少年に欲情するような背徳感を伴った。
 そんな私の劣情を跳ね返すかの如く、真魚は凛々しい顔になっていた。いっぱしの修行僧の顔だった。
「どう?」
 真魚が僧衣の袖を翻し、クルリと回ってみせた。卸したてのワンピースをみせびらかす童女みたく。こういうところはまだ子供だ。少女と尼僧の狭間に立っている真魚がひどく眩しく、ひどく悲しかった。
「ハンサムだなあ」
と私は冗談めかして、褒めた。
「どこから見ても立派な尼僧さんだ」
「馬子にも衣装、デメキンにも袈裟よ」
と真魚は笑った。なんだか真魚を遠くに感じた。
「頑張ってね」
と叔母が真魚の肩をたたいている。
「・・・・・・」
 喉元まで出かかっている言葉を呑み込む。頑張るな、真魚。頑張らなくていい。とっとと逃げ帰ってこい! 家なんて捨てちまえ! そして、俺と一緒になろう。ふたりで暮らそう! 好きだ、真魚!
 そんな私の気持ちなど露知らず、真魚はできたての頭を勇ましく撫でまわしている。新しい自分の頭だ、という新発意の矜持が感じられた。

 一ヶ月後、尼僧堂にいる真魚から手紙が届いた。
 乱暴に殴り書かれた文字は修行の合間を縫って、大急ぎでしたためたせいだろうと容易に想像できた。
 書き出しに、しんどい、とあった。
『しんどい。足がイタイ。ねむい。死にそう! お肉たべたい〜。今日はじめてタクハツしました。500円もらった。すごくうれしかったです。ここでガンバルことにきめました。あのときもらったお金かえします』
 手紙には二万八千円が折りたたまれて同封されていた。手紙は
『返事いりません。ワタシももう手紙は書きません。さようなら。いろいろありがとう。お幸せに』
と結ばれていた。
 手紙を読み終えた私はしばらくの間、ぼんやりと座っていた。そして真魚と過ごした幾つもの夜を回想した。歓楽街のネオンサインも喧騒もアルコールの味もちっとも懐かしいとは思わなかった。ただ真魚だけが懐かしかった。
真魚の笑顔、泣き顔、大きな目、髪の匂い、柔らかな肌、他愛ない冗談、彼女の全てが私の脳裏に活き活きと息づいている。
 忘れたくない、と思う。でもきっと忘れるべきなのだろう。懐かしいもの、ちっとも懐かしくないもの、それら一切合財を忘れ、人生をリセットして、新生活に踏み出すべきなのだろう。
 真魚は早足で私を抜きさり、さっさと自分の道を歩いている。
 私も負けてはいられない。
 私は、手紙を封筒ごと文机の引き出しに入れると、ろくに見もしないで本立ての間に突っ込んだままにしておいた見合い写真を引き抜き、それをひろげた。




(了)



    あとがき

5万Hit御礼小説第三弾です。今年になって書いた作品では「女弁慶ふたたび〜」に続いて二本目。気に入ってます。

こういうふうな事情で尼さんになる女性ってけっこういるんでしょうね〜。
う〜、眠い・・・。おやすみなさい。




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