作品集に戻る


誕プレ


 向かいの桜井一哉は旨そうにジョッキを傾けている。
 桜井とは同じゼミを受講しているが、日頃、無愛想で人付き合いが悪く、ゼミの飲み会にも一度も来たことがない彼とまともに口をきいたことは、一度もない。
 そんな桜井はゼミの女子学生の間では、隠れた人気がある。単に端正なマスクだからというだけでなく、どことなくミステリアスな雰囲気が彼女らを惹きつけているようだった。 暗く深い瞳で黙々と、ノートにペンを走らせ、教授の他愛ない冗談にも不導体のように無反応で、またノートにペンを走らせる。サークルにも所属しておらず、ゼミの仲間とも 打ち解けず、他人が容易に入り込めないオーラが彼の周囲には漂っていた。
 桜井とこうして酒を酌み交わしているなんて、なんだか奇妙な感じがする。
 学校帰り、たまたま近くの本屋に寄ったら、桜井が太宰治の文庫本を立ち読みしていて、同じ作家のファンだった僕はつい彼に声をかけた。
 桜井は、最近昔の作家の作品を読もうかと考えている、と言って、太宰なら最初に何を読めばいいだろうか、と訊いてきた。僕は桜井の広げていた文庫本の表紙をふたたび確認すると、
「『人間失格』は最後にとっておけ」
「そうだろうか」
「まずは処女作の『晩年』か、『津軽』なんかの中期作品を読むべきだな」
「じゃあ、そうしよう」
 桜井は読書家のようで、ふたり、雑踏を歩きながらひとしきり文学談義に花を咲かせた。
 一杯どうだ?と誘うと、たまにはいいかもな、と太宰初心者は応じた。
 サークルのコンパでよく使っている居酒屋に入り、文学談義の続きをした。話は文学から政治、最近の芸能界、音楽、競馬のことにまで及び、僕は桜井の引き出しの多さに瞠目しつつ、このゼミ仲間と杯を重ねた。
 酔いがまわり、お互いちょっと黙りがちになる。
 僕はせっかく知り合えた桜井を、このまま、すんなり解放するのが惜しくなった。
「なあ?」
とケータイで時間を確認している桜井に、僕の秘密を教える気になった。
「何?」
「女真族って知ってるか?」
「こないだゼミでやったじゃないか」
「女真族は万里の長城を越えて、中国大陸に攻め込み、漢民族を征服し、清王朝を樹立した。その際、それまで結髪だった漢民族に辮髪を強要したんだよな。辮髪を拒否する者は容赦なく死罪にされた。髪型で王朝への忠誠を示させたわけだ」
 つまり、と僕はビールで喉をしめらせ、
「漢民族の辮髪は女真族の支配の象徴って寸法だ」
「そうだな」
 桜井はつまらなそうに相槌をうつ。
「辮髪にするヤツが増えれば、それだけ女真族の支配圏が拡大したってことで・・・」
「何がいいたいんだ?」
 桜井は訝しげに僕を見た。
「ゼミに城所夏美って娘がいたろ?」
「ああ」
「実はオレと彼女、付き合ってるんだ」
「そうか」
 桜井の心には漣すらたたない様子だった。
 すいません、と僕はバイト店員をテーブルに呼んで、シシャモを追加オーダーした。そして、
「最近の彼女の変化に気づいたか?」
「髪が短くなった」
 桜井の応答にちょっと驚いた。てっきりそうしたことには、無関心かとばかり思っていたのだ。
「よく見てるなあ」
「そうでもない」
という桜井のコップにビールを注ぎ足してやる。
「あれな、オレが切らせたんだ」
「ホウ」
 目の前の男に微かな変化があった。
「切らせるのに苦労したぜ。アイツ、これまで肩より短くしたことがないらしくてさ」
 このままの私じゃダメなの?と断髪を渋るセミロングの夏美を、お前は美人だから絶対似合う、とそそのかしたり、ショートの夏美が見たいな〜、と甘えたり、どうして彼氏の好みに合わせてくれないのか、とプレッシャーをかけたりして、頑なだった夏美も会うたびにヘアーカットを要求されるのには、閉口し、先週、ついに美容院に行き、バッサリと僕が注文したとおりのベリーショートにした。うなじも少年のように刈り上げさせた。
 美容院まで同行して、夏美がシャキシャキと長い髪にハサミをいれられて「オレのオンナ」になっていくさまを、悦にいって眺めていた。
 チョー短い、と顔をしかめる夏美の生まれて初めて露出した耳に、スゲーカワイクなった、と息をふきかけたら、夏美は、じゃあ今まではカワイクなかったの?と口を尖らせながらも、はにかんでいた。
「本田はショート好きなんだ」
「いや、まあ好きだけど、それよりも征服欲だな」
 オレも女真族なのさ、と笑う。
「女を『征服』した証に髪を切らせるわけか」
「まあな。本当なら焼印とか入れ墨をいれたいんだけどな。そういうわけにもいかんだろう」
 僕の冗談に桜井は笑わず、
「そうやって今まで付き合ってきた女に髪を切らせてきたのか?」
「ああ、全員同じ髪型だ。思いっきり刈り上げさせてな。こうみえてオレ、モテるんだぜ? 今まで女に切らせた髪はバケツ五杯分はあるんじゃないかな」
「たいしたもんだな」
 桜井はビールをあおり、しばらく黙った。彼のうちにある何か大切なものと相談しているように、僕は思えた。やがて、
「僕も女に髪を切らせたことがある」
 ボソリと言った。
「彼女にか?」
「いや」
 そこへシシャモが運ばれてきて、会話は一時中断する。店員がさがるのを待って、
「ショートにさせたのか?」
と訊くと、シシャモをまずそうに噛んでいる桜井の口から予想外の回答が返ってきた。
「いや、坊主頭だ」
「坊主頭?!」
 僕は毒気を抜かれて、桜井の顔を見た。桜井流のジョークかとも思ったが、彼は事実をそのまましゃべっているだけのようだった。
「なんで、また?」
 世の中にはごく稀に、例えば彼女が浮気をしたりなどしたら、激昂して女の命であるところの髪を切って、制裁を加える輩がいるらしいが、もしかして桜井も、そうした手合いなのだろうか。
「そうじゃない」
と桜井は二匹目のシシャモをくわえた。
「むしろ善行の部類に入るんじゃないかな」
 女を丸坊主にするのが善行? ますますわからない。
「詳しく聞かせてくれよ」
「タバコ、もらえないか?」
「ああ」
 マルボロを一本渡し、火をつけてやると、桜井はシシャモのとき同様、やはりまずそうに、それをふかした。悪魔と契約を交わすファウスト博士のような表情だった。
「言ってみれば、すごい莫迦莫迦しい話だ。ただ僕の中にある闇に深く関わってくる話でね、一生、自分の胸にしまったままにしておこうと決めてたんだけどなあ」
 勿体つけてはいるが、「王様の耳はロバの耳」と、ふと秘密を誰かに洩らしてしまいたい衝動に駆られたらしく、桜井は以下のような話を僕にしてくれた。

 もう十年以上も昔の出来事だ。
 僕(桜井)の郷里に尼寺があった。
 寺には元々、年老いた庵主さんがいて、そこを守っていたんだが、病を得て入院し、代わりに東京から来た彼女の遠縁にあたる女性が得度して、住職を代行していた。三十代半ばくらいのえらく綺麗な女性でね、僕たち地元の人間は「若庵主さん」とその女性のことを呼んでいた。
 若庵主さんは都会育ちらしく奔放な女性だった。尼さんなのにいつも香水をふっていた。髪型も老庵主さんと違って、剃髪せず、ホラ、バブル期に流行ったトレンディドラマに出てくる・・・浅野ナントカとかがしているみたいな、ああいう長い髪をしていた。勿論、法事のときなんかは後ろでまとめているが、普段はほどきっぱなしで、サラサラと肩や背 中にこぼしていた。
 かなり遊んでいたらしい。
 若くて独身でおまけに美人ときている。金もある。おとなしく身を謹んでいる方がおかしい。地元の若い連中の中にも彼女に懸想している者が、何人もいたようだった。
 週末にはメイクをし、愛車を駆って、しょっちゅう街に出かけていた。街にマンションを借りて、そこを根城に若いツバメを囲ってるって噂だった。
 噂の男といるところを一度見かけたことがある。両親と妹と一緒に街へ買い物に出かけたときだった。
 父の運転する車が交差点を曲がったとき、信号待ちをしている一組のカップルが、僕の目に飛び込んできた。若庵主さんだった。
 若庵主さんはブランド物の白いファーコートを羽織って、真っ黒なブーツを履き、男と腕を組んでいた。とても尼僧には見えなかった。
 男は水商売風だった。腑抜けた感じの色男で、いかにも「ヒモ」という蔑称が似合っていた。今にして思えば、若庵主さんはそういう頼りなげな男の面倒をみるのが好きな性分だったのだろう。
 両親は車の買い替えのことで口論していて、若庵主さんに気づかず、車は交差点を曲がりきり、僕の視界からカップルの姿は消えた。
 不潔感をおぼえた。嫌な女だ。そう思った。子供っていうのは厄介でね、露骨に性の匂いを振りまく存在に対して複雑な感情を抱くんだ。素朴な恐怖心だったり、好奇心だったり、憧憬だったり。
 そうした感情群の中から僕が選択したのは嫌悪だった。
 僕は別に潔癖な少年ではなかったけど、どうにも反抗心が強くてね、身の回りのたいていの大人は嫌いだった。父も嫌いだったし、母も嫌いだった。嫌いな大人のリストに若庵主さんが加わったのは言うまでもないだろう。
 でも尼寺の老庵主さんは好きだった。僕たちはその尼寺の隣の空き地でしょちゅう野球をして遊んでいた。ボールが境内に入っても、温厚な老庵主さんはいつもニコニコして、ボールをさがすのを手伝ってくれた。それだけ? そうだね、たしかに好意の根拠としては弱いだろう。人柄や風韻が良かった、とでもいうのか、老庵主さんの魅力は、曰く言葉にし難い。
 いや、今となっては告白すべきだろう。老庵主さんのことは大して好きでも何でもなかった、と。
 若庵主さんへの曖昧な感情を「敵意」へと一本化するために、僕は老庵主さんを利用した。あの素敵な老庵主さんの後釜が、あんないやらしい女なんて許せない、というふうなロジックを構築した。

 若庵主さんを「没落」させるには、彼女のある禁断の趣味を利用しない手はない、と僕はすぐに閃いた。
 若庵主さんが、俗名、川上文緒がまだ陰毛も生え揃っていない男児に注ぐ熱い視線に、僕は気づいていた。なかんずく僕に向けられる、あのソムリエがビンテージのワインを眺めるような陶然とした淫らな眼差しは、いまだに憶えている。最初は意味がわからなかった。けれど、だんだんとその眼差しの罪深さを、僕は理解していった。
 川上文緒はしばしば子供たちを尼寺に招いて、縁側で菓子を振舞った。
「○○君は学校楽しい?」
と当たり障りのない質問をしながら、あのほの暗い情念のこもった目で、男の子たちのランニングシャツや半ズボンからのぞく素肌をウットリと見つめていた。
 川上文緒は僕を「カズクン」と呼んだ。
「カズクンは好きな女の子いるの?」
などと訊かれたりもした。
 子供だと思って安心していたんだろう、しきりに僕の体に触れた。股間を撫でられたこともあった。
 尼寺に泊まらないか、と冗談めかして何度か誘われた。勿論その都度断った。
 川上文緒の風変わりな性癖を見抜いたのは、僕だけのようだった。他の連中は、大人も子供も、まさか、あの「若庵主さん」がそんなおぞましいシュミの持ち主とは、思いも及ばなかったんだろう。
 皆に話してしまおうか、とも考えたが思いとどまった。所詮子供の言うことだ、一笑に付されるのはわかりきっていた。今この話を聞いてる君だって半信半疑の様子じゃないか。
 だけど僕には困惑や嫌悪や恐怖よりも、優越感が先にたっていた。
なにしろ、あの村の若い男たちに騒がれている「若庵主さん」が僕みたいな小僧にゾッコンなのだ。
 僕は思った。川上文緒を陥れるのは存外容易い、と。そして時期を待った。

 老庵主さんが遷化したのは、川上文緒が村に来て一年目のことだった。これで川上文緒の枷は完全にはずれた。
 彼女は老庵主の残した寺をそっくり受け継ぎ、あとは正式な晋山式を待つのみだった。
 文緒は遊び狂った。老庵主の初七日も終わっていないのに例によって街に車を飛ばし、人々の眉をひそめさせた。潮はよし、そろそろ計画を決行しよう、と僕は判断した。

 晋山式も近づいたある日、主だった檀家衆が寺に集まった。僕も檀家役員だった祖父にくっついていった。チャンスだった。
 いや〜、これで寺も安泰だね〜、老庵主さんもあの世で喜んでるよ、と皮肉まじりのオベンチャラを言われ、川上文緒は
「そんなことないですよ。私なんてまだまだです。皆さんのご支援やご指導をよろしくお願いします」
とハシャぎながら、へりくだってみせていた。
 川上文緒が上機嫌だったのは、僕が座に連なっていたせいもあったろう。
彼女は僕が持参したラッピングされた箱が気になっている様子で、案の定、
「カズクン、それ、なあに?」
と尋ねてきた。
「若庵主さんにプレゼント」
と僕は言った。
「一昨日、誕生日だったでしょ?」
 彼女の誕生日をそれとなく聞きだしていた甲斐があった。
「え〜、本当ォ〜?」
 川上文緒さんは大袈裟に驚いてみせ、その得意は絶頂を迎え、
「カズクンに誕生日プレゼント、もらっちゃったわ」
 この年になると誰も誕生日なんて祝ってくれなくってね〜、プレゼントなんてもらったの何年ぶりかしら、と心底嬉しそうに、周囲に彼女の寵児からの貢物をアピールして、中身は何かしら、と献上された品物の包装をむきはじめた。
 かかった! 
 僕は大魚が餌にくらいついたときの太公望の喜悦をおぼえた。あとは魚に逃げられぬよう、一気に釣り上げるだけだ。
 プレゼント
が全貌をあらわした。
「カズクン、これって・・・」
 川上文緒は明らかにプレゼントの中身に困惑していた。判じ物のようにプレゼントを凝視していた。
「すごいでしょ?」
 僕は満面の笑みを浮かべてみせた。子供が表面は無邪気でいて、内奥には残酷な悪魔を飼っているという真実は古今東西の文学で描かれてきたが、このときの僕がまさにそれだった。僕は内に秘めた邪悪な意思を、いとも簡単に隠匿し、明るく人好きのする、一点の曇りもない笑顔を保ちつづけた。
「若庵主さん、お金ないから頭剃れないって言ってたでしょ?」
いつだったか、なんで若庵主さんは老庵主さんみたいな坊主頭ではないのか?と尋ねたら、
「若庵主さんね、老庵主さんと違って貧乏なの。だから床屋さんに行くお金がないのよ〜」
とニヤニヤしながら、そう言った。無論、相手が子供だと油断して、冗談でもって、適当にケムに巻いたつもりだったのだろう。
 また、その頃、文緒は彼女の浪費癖について、病床の老庵主さんからきつくたしなめられていたらしく、その不満が冗談の形で出てしまったのだろう。もし他の老獪な有髪の尼さんのように、大切なのはカタチではなくココロだ、といったふうな遁辞でごまかされてしまっていたら、僕とてどうにもできなかったに違いない。川上文緒は十歳になるかならぬかのガキにつけいる隙を与えてしまったのだ。
「だからね」
と僕はあいかわらず屈託のない笑顔で、
「僕がお小遣いをためて、それを買ったんだ。それがあれば若庵主さんも老庵主さんみたく頭、ツルツルにできるでしょ?」
 川上文緒は「それ」を両掌にのせたまま、無言。顔をひきつらせていた。笑い飛ばして、 その場を取り繕おうと、顔の筋肉を動かすが、どうにも笑うことができず、進退窮まっている様子がありありと見てとれた。
「それ、アメリカ製なんだって。二万円もしたんだよ」
 嘘ではない。貯金全額をはたいて通販で買ったやつだった。
「二万円・・・」
 ゴクリと川上文緒の喉がなった。目の前の小僧の「無邪気な好意」が、逃れられぬ重圧となって彼女にのしかかっている。たまらなく愉快だ。
「そりゃあ、いい」
 檀家でもお調子者で知られるシゲさんが首肯した。
「この際だから若庵主さん、いや新住職も形をあらためて心機一転してさ」
 シゲさんが口火を切る形になって、他の檀家連も、そうだね〜、せっかくだから剃るといい、有髪よりそっちの方が出家者らしい、と口々に言い出した。
 若庵主さんの放蕩には檀家衆一同、反感を抱いていて、それがこの場で一気に噴出したようだった。これも僕の想定のうちだった。だからあえて皆の前でそれ、即ち、海外製の業務用バリカンを贈ったのだ。
 川上文緒は切腹刀をつきつけられた怯懦な侍のように、青ざめ、体を小刻みにふるわせていた。頭髪を刈り込むための器具を気味の悪い生物であるかのように、臆病に両掌でサンドイッチしていた。だが、
「僕、若庵主さんのツルツル頭、見たいなあ」
と僕に言われると、フッとさみしげに微笑して、
「わかった」
と言った。人間、一瞬で覚悟をきめることができるらしい。
「カズクン、若庵主さん、ツルツルになるね」
 だけど、と言い添える。
「一週間、ううん、二週間待って。二週間したら、若庵主さん、必ずツルツルにするから」
「約束だよ」
 このときの僕はきっと堪えきれず邪悪な表情をしていたはずだ。
「うん」
約束、と川上文緒は悪魔に小指を差し出した。

 後で知ったのだが、それから二週間のあいだ、川上文緒は身辺整理を行っていたらしい。根は真面目な女だったのだろう。
 借りていた街のマンションを解約し、付き合っていた男たち――例の男の他にも何人かいたようだ――に手切れ金を払って別れ、服や靴や宝石を処分した。生涯、田舎寺の住持として埋もれていこうと腹を括ったらしかった。
 僕にとっては永遠のような長さに思われる二週間は過ぎた。

 川上文緒が頭を丸めた日のことは忘れない。
「美貌の若庵主さん薙髪」のニュースは村落中に知れ渡っていた。
 落胆する村の若い衆、いい気味だと溜飲をさげる女たち、反応はさまざまだった。
 その日は日曜日だった。
 僕は「狩猟(ハンティング)」の成果を実地で確認したくって、友人たちと誘い合わせて寺へと足を運んだ。
「アラ」
と川上文緒は突然の小さな野次馬たちの出現に目を丸くして、
「見せ物じゃないのよ」
と目元に含羞を滲ませながら、動揺を隠すように笑みを浮かべた。
 それもそのはずで淫蕩庵主の女優気取りの長い髪は無惨にもジャ、ジャ、ジャ、と砂を踏みしめるような音をたてて、裁ち鋏に齧り付かれている最中だった。
 鋏を握っているのは、おっかなそうなお婆さん尼僧だった。後でわかったが、老庵主の姉弟子で、川上文緒にとっては小うるさい伯母みたいな存在だ。今回の剃髪の一件を知るや、頼まれもしないのに、独り決めして断髪役をかって出たそうだ。
「宗慧(老庵主)もなんで今までこんな長い髪の毛を許してきたのかねえ。弟子を甘やかすにも程ってモンがあるよ」
と大層オカンムリの様子で、せっせと鋏を動かしていた。僕にはまるで川上文緒が折檻されているかに見えた。
 実際、川上文緒にとっては、叱られながら髪を剃られる、しかも子供たちに見物されている、という予想外の災難は、相当な苦痛と屈辱を伴うものだったろう。眉間に縦皺をよせて、近視の人が水平線を遠望する顔になって、いつもの快活さはなりをひそめていた。
 お婆さん尼は長さをたしかめもせず、触れるそばから長い髪の毛をひっつかんで、無造作に刈り取っていった。




 僕は自分の仕出かしたことの重大さを、初めて認識した。しかし歪んだ興奮はそんな罪悪感を凌駕していた。
 他の子供たちも僕と同じ興奮を隠し切れずに、最初のうちはコワゴワ遠巻きに眺めていたが、断髪がすすむにつれ、ハシャぎ出した。
「ねえ、若庵主さん、ツルッパゲになるの?」
 子供連のリーダー格のユキヒロが残酷な好奇心剥き出しで、老尼に訊いた。
 老尼は子供が嫌いのようで、
「ああ、そうだよ」
と、うるさそうに言った。
「リュウヘイみたいに?」
「リュウヘイって誰だい?」
「コイツ」
とユキヒロが最近は田舎でも珍しくなった丸刈りの少年を指差す。リュウヘイは川上文緒のお気に入りで、川上文緒はいつも嫌がるリュウヘイの坊主頭を、懐かしい、と撫で回しては、
「やっぱり男の子は坊主よねえ」
と目尻をさげていた。そんな上からの立場で愛でていた坊主頭に、彼女自身がもうすぐなる。
 川上文緒は居た堪れなさそうに、老尼の手荒な頭髪の切除作業を受けていた。
 反面、彼女の目にはいつしか、彼女自身も気づかない歓喜の色が浮かんでいたのを、僕は見逃さなかった。
「尼僧はね、オシャカサマの頃から坊主頭って決まってんだよ」
 長髪の尼などインチキだ、と老尼は言った。僕たちに対しての言葉なのか、断髪者に対して言ったのかはわからなかった。
 新人の女子プロレスラーみたいな短髪にされた川上文緒は彼女に向けられたものと思ったらしく、苦っぽく笑っていた。本日をもって長髪の尼を廃業するのだから怒りなさんな、とでも言いたげに。
 老尼はおもむろに僕の誕生日プレゼントを握ると、
「コンセントはどこだい?」
 その壁のところに、と川上文緒がコンセントの差込口を教えている。
「届かないよ」
 まったく充電ぐらいしておいたらどうだい、と婆に小言を言われながら、二人は一メートルほど場所を平行にずらした。子供らもハイエナの群れのように移動する。
 お婆さん尼がバリカンの電源を入れた。
 バリカンが川上文緒の頭に接近した。僕は暗い喜悦をかみ殺し、心の中で決定的瞬間の秒読みをした。三、二、一・・・
 川上文緒とバリカンが正面衝突する。バリカンが勝つ。文緒の前髪が、ゴッソリ頭頂部へと移動した。青い惨劇の痕を残して。頭頂部へと持っていかれた髪は持ち主だった人間の頭からこぼれ落ちる。ひどくスローに思えた。こぼれ落ちた髪の毛はシャーッとケープをこすりながら、迷うことなく一直線に地面に向け、滑走していった。
 さらに、もう一押し。ジョリジョリジョリ。ドイツ製の刃は見事に髪を根元から刈り込んだ。
 頭に二本の青線を刻まれた川上文緒は薄笑いを浮かべていた。含羞と卑屈がないまぜになった笑いだった。子供たちの無遠慮な視線が彼女の精神のマゾヒスティックな部分を、刺激したようだった。
 お婆さん尼はそんな川上文緒の陰性の感情をさらに煽るが如く、三刈り目を入れた。二本の線の間に取り残されて残っている黒い中州を覆し、一本の太い溝にする。
 お婆さん尼は潔癖症の主婦が汚れたテーブルをゴシゴシ拭くみたいに、情け容赦なく妹弟子の弟子の頭にバリカンを走らせていた。
 黒髪が果物の皮さながらに剥かれ、青く瑞瑞しい「果肉」が露になっていった。「果肉」はぬめりと光沢を帯びていた。
 バリカンは未開の原野を求め、襟足から後頭部を遡っていく。刈り手の尼は多すぎる髪を持て余して、苛立っていた。
 川上文緒は口元に微笑を残し、寂しそうな目で視線を宙に泳がせていた。あの華やかな若庵主さんの面影はそこにはもう存在していなかった。
 僕はいつしか勃起していた。
 川上文緒が惨めに断髪される情景は、幼かった僕の未熟な性衝動を喚起したんだ。
 その夜、生まれて初めてオナニーをした。川上文緒を汚した。

・・・・・・・・・・・・
「僕の話はここまでだ」
 桜井は虚無的な笑みとともに、話を終えた。
 僕は何とコメントしていいかわからず、黙って、冷たくなったシシャモを齧った。
 僕たちのテーブルだけ、いつの間にか照明がおち、暗転したかのような錯覚をおぼえた。
「この話をしたのは君がはじめてだ」
と桜井は沈黙を破って、ふたたび饒舌になった。
「川上文緒のあの表情、諦念という白いキャンパスに、堪え性もなく滲んでくる澱んだマゾヒスッティックな悦び、それを隠し切れない、あの表情。そいつが十年以上経っても僕を惹きつけてやまない」
「・・・・・・」
「今でも女性が髪を切られる場面を目にすると興奮する。インターネットで海外の女が丸坊主にされる動画を集めたりもする。髪を剃られる白人女の恍惚とした顔に、あの日の川上文緒を重ねてみる。でもちっとも重ならない。だから必死でさがす。川上文緒と似た顔、似た髪型、似たシチュエーション、そんなモデルはいないか、画像を漁る。記憶の中の川上文緒はそんな僕を嘲笑うかのように、まるで逃げ水みたく、僕を幻惑する。そう、僕は川上文緒の幻影を追い続けているのさ」
「川上文緒はそれからどうなった?」
 かろうじてそれだけ訊いた。
「いい庵主さんになったよ。寺を村のイベントのために開放したり、ボランティアにも積極的で、地域の興隆のために八面六臂、大いに働いた」
「今でも会うことはあるのか?」
「いや」
 桜井は首を振った。
「死んだよ、二年前」
 癌だったという。川上文緒、いや川上文慧は病床でも毎日剃髪を怠らず、綺麗に頭を剃りあげていたそうだ。
「祖父の代理で病床を見舞ったことがある。川上文緒・・・庵主さんは本山に宛てた手紙を書いているところだった。尼僧の地位向上が彼女の最晩年の社会奉仕だった。痩せていたが、血色は悪くなかったし、意識もしっかりしたものだった。ハッとするほど美しかった。・・・清らかで・・・訪ねてきた僕にあどけなく破顔して、笑顔は嵐の前の束の間の静寂を予感させて・・・そのとき、ああ、この人、死ぬんだな、って思った。枕元には秋桜の花が活けられていた」
 死の床の庵主は桜井に「ありがとう」と礼を述べたという。
アナタのおかげで尼僧としての自覚が芽生えたのよ。剃髪していなかったら私は漫然と葬式坊主になって、物欲まみれの満たされない人生を送っていたでしょうね。いま、こうして安らかな気持ちで旅立てるのも、全てはあの誕生日プレゼントのおかげよ。本当にありがとう、カズクン。
 それが庵主の桜井への最後の言葉だったという。
「結局、怪我の功名ってやつで、僕はあの女を救ったのさ」
 桜井は言った。自分に言い聞かせているように思えなくもなかった。
「ああ、そうだな」
 僕は同意し、
「でもお前は救われてない」
 桜井は虚を衝かれて、僕を見返した。哀しい光を宿した目だった。迷子の子供の目だ。
「違うか?」
「さあな」
 違わないかもな、という声は隣のテーブルのバカ騒ぎにかき消された。
「出よう」
「ああ」

 店を出てから駅まで双方無言で歩く。
 別れ際、桜井は
「もし今後、ゼミで会ったとしても声をかけないでくれるか」
と僕に言った。
「わかったよ」
 僕はうなずいた。
「今夜のことは忘れる。俺は今夜、誰とも会ってないし、お前とは単にゼミが一緒なだけの赤の他人だ」
 桜井は満足そうにうなずき、繁華街とは反対の開発地区の方へとゆっくり踏み出した。
「おい、電車、乗らないのか?」
「ちょっと寄りたいトコがあるんだ」
 桜井は闇に呑み込まれながら、振り向かず、答えた。
桜井が向かっている方角には、この辺りでは有名な自殺の名所の踏み切りがあることに、ふと気づいた。
「桜井!」
 僕は叫んでいた。
「莫迦な真似、するんじゃないぞ! お前は死んだって川上文緒のところには行けないんだぞ。川上文緒は天国、お前は煉獄行きだっ! この世でもっとマシな善行を積めっ! ちゃんと生きろっ! 孤高気取ってんじゃねえよっ!」
 桜井の姿はすでになく、闇だけがあった。
 ヒートアップした自己が可笑しくなった。何を熱くなっているのだろう。桜井が死ぬわけがない。アイツはこれからも自分の中の闇を甘やかしながら、誰にも心を開くことなく、最初のオナペットとバリカンが交差するグロテスクなファンタジーを追い求め、人生の裏路地を生きていくのだ。
 夜風が身にしみる。もう秋も終わる。寒い。寂しい。
 ケータイを取り出す。
 四回目のコールで相手につながった。
「もしもし、夏美? 俺。うん、うん、そう、え? まあ、ちょっと飲んでる。一人酒。ホントだって。浮気? バカ、してないよ。あのさ、これからお前のアパート、行っていいか? うん、ああ、そうだな・・・好きだよ。嘘じゃない。愛してる、愛してるから・・・」




(了)



    あとがき

 「有髪の尼撲滅委員会」製作第一回作品です。嘘です。5万Hit御礼小説第一弾です。と言っても、去年書いたやつに加筆修正しただけなんですが・・・(−−;
 書きながら「ああ、コレ、川上文緒視点にした方が絶対面白いコメディになるのにぃ〜」と後悔した今作、これまでの尼バリ小説の中で一番、難解(「よくわからん・・・」)な作品です。自分としても本能に従って書いたものなんで、いろいろツッコまれると、ツライものがあります。
 なにせ、今まで追い込まれる側の視点ばっかりで、追い込む側の視点はほとんどはじめてだったので、悪戦苦闘し、ストレスがたまりました。
 個人的に有髪の尼さんが剃髪ってシチュエーションは、正規の剃髪より萌えます。普通の女性スタイル→有髪に僧衣(一旦は剃髪を拒否)→剃髪の尼さんスタイル、というジラしに興奮します(ド変態)。このパターン、ありそうで意外になくって・・・。
「ウチの菩提寺の尼さん、ずっとロン毛だったのにいきなり剃ってた!」
「知り合いの有髪の尼さんが儀式に参列するため、初めて頭を丸めた!」
みたいな情報がありましたら、是非、迫水までご一報ください。
 ちなみに、どうでもいい設定なのですが、この物語の主人公(語り手)、本田幸登は「ろるべと」にチラッと登場しています(来栖七海といい雰囲気になるバンド青年)。




作品集に戻る


inserted by FC2 system