作品集に戻る


丸刈り婚


     (一)嵐からの隠れ場所


 床から天井へひとつづき貼られた一枚ガラスの向こうに、マンハッタンの街が一望の下見おろせる。

 このメゾネット・マンションに彼らが到着したのは、現地時間でもう夕刻近かった。

 これから一ヶ月住むこの部屋は矢鱈大きかった。部屋も10以上もあり、トイレも3つあった。優美、瀟洒、そんな言葉では片付けられないほどの煌びやかな内装だった。

 中でも磨き上げられた純白の大理石を使用したバスルームは圧巻だった。

 立ち尽くす彼に、

「ミック・ジャガーが『Emotional?Rescue』のレコーディングのとき住んでいた部屋ですよ」

とマネージャーの熊谷(くまがい)はその虚栄心をくすぐる。

 家具や調度品もすでに運び込まれていた。全部アールヌーボー調で統一している。

 由起子は先程からキッチンの使い方について、説明を受けている。業者は日系人で、たどだどしい日本語で、ココデ、グリルシマス、と教えている。

 熊谷は忙しい。由起子の許に駆け寄って、業者との間に入って、通訳を買って出る。業者は安心したように英語で話し始める。それを熊谷が日本語で由起子に伝える。

「まあ、そんなこともできるの!」

 由起子はいつもの柔和な面差しでうなずき、質問し、また微笑んでうなずく。

 本当は賄いのコックを雇うつもりでいたが、由起子が料理ぐらいは自分がすると言い張ったので、その方がいい、と彼も考え直したのだ。

 彼はせわしなく室内をウロウロする。こんな居住空間に身を置いたことなど、28年間の人生で初めてだった。

 業者が帰り、熊谷も明日の予定を彼に確認すると、

「では、明日。素晴らしい催しにしましょう。なぁに、絶対うまくいきますよ」

と力強く言って、辞去した。

 彼と由起子は二人きりになった。

「どうだい、この、マンションは? 気に入ったかい?」

 彼は振り返って訊いた。

「贅沢過ぎるわ」

 由起子は眉をひそめた。

「普通のホテルでよかったじゃない。たった一ヶ月住むのに無駄遣いし過ぎだわ」

「またそれを言う」

 この物件のためにだいぶ貯金を費やしてしまった。そのことに、しまり屋の由起子は、日本にいる頃から非を鳴らしてきた。

「海外進出の第一歩だ。舐められちゃいけない」

 彼はことさらに胸を張ってみせた。

「でも……」

 由起子はやはり不満そうだ。

「もう契約したんだ。済んだことをどうこう言っても仕方ないだろ」

「わかったわよ」

 由起子はようやく白旗をあげた。

 彼は腕組みをして、セントラルパークに沈む夕陽を見つめた。ミック・ジャガーも同じ光景を見ていたのだろうか。

 由起子は彼の隣にゆったりと歩み寄る。二人並んで夕陽を眺める。

 彼はリモコンをとり、少し窓をあけた。

 街のざわめきが、静謐だった室内に流れ込んでくる。

 街の音を聞きながら、彼は過去を思い、未来を思い、そして現在(いま)を思った。由起子がすぐ横にいる現在を。

 パァン、パァン、という破裂音が彼の感慨を急停止させた。

「銃声か?!」

 アメリカも近頃は、分断、暴動、と不穏な空気が流れている。夜間の外出はなるべく控えるよう、熊谷にも釘を刺されている。

「怖いわ」

 由起子は怯えて彼の腕をつかみ、身を寄せてくる。

「大丈夫だ」

 彼は想い人の肩を抱いた。

「2ブロック先に日本の調味料なんかが売ってるスーパーがあるらしいから、明後日にでも買い出しに行こう」

「怖いわ」

 由起子はまた言った。やはり事件があったらしく、パトカーのサイレン音が間近に聞こえる。

「大丈夫だ」

と彼は再度言い聞かせ、窓を閉めた。ふたたび静寂(しじま)が室内に戻ってくる。

 彼は由起子を抱き寄せる。由起子は顔をあげ、彼を見た。いつもの柔和な笑みは消え、強い眼差しを彼に向けている。見つめ合い、ゆっくりと唇を重ねる。

 ――オフクロと同じくらいの年齢(とし)の女なんてやめとけ。続くはずがない。

と或る知人は言った。

 皆、彼を止めたが、二人は自分の意思を貫いた。彼自身や彼女に多大な犠牲を強いて。

 そして、今こうして由起子と情熱的に口づけを交わしている。後悔はない。

「個展うまくいくといいわね」

「うまくいくとも」



 夕食はあらかじめ買ってきた中華のテイクアウトで間に合わせた。

 豪奢な住まいに、わびしい食事はひどくアンバランスで、今の彼らの在り様にはふさわしかった。

 食後、

「前祝いだ」

とシャンパンをあけ、二人は乾杯をした。

「個展が終われば――」

と彼はグラスを干して、

「結婚できるんだな、俺たち」

「ええ」

 由起子はほんのり頬を染めている。

「後悔してるか?」

「いいえ」

「過去は変えられない。明日からのことを考えよう」

「そうね」



 その夜、初めての異郷の地で彼は由起子を抱いた。

 由起子は彼を離すまいとするように、その身体を強く抱きしめた。彼は恋人の熱っぽさに応え、由起子の中に彼を押し入れ、押し進め、汗を流した。



     (二)運命のひとひねり


 由起子はいつしかスヤスヤと寝息をたてている。

 明日のことを考えると彼は眠れずにいた。外面では、強気で不遜な態度を鎧っていたが、実際の彼はアーティストらしく脆く繊細な心の持ち主だった。

 過去に思いを馳せる。

 ほんの一年前の今頃には望むべくもなかった栄光と豊かさ、そして由起子を、彼は手にしていた。



 一年前、彼は冷凍倉庫で凍えそうになりながら、アルバイトをしていた。

 彼の父は彼が幼いとき、事故で死んだ。

 母が女手一つで彼や彼の兄弟たちを育てた。

 高校一年生のとき、彼は学校を辞めた。経済的な事情からだった。

 奨学金で通えばいいとアドバイスしてくれる人もいたが、勉強も人付き合いも苦手な彼は、三年間も無為に机に座って過ごす気にはなれず、退学届を提出した。

 友達も恋人もいない荒涼とした人生の中、彼の心を慰めていたのは絵だった。

 小さなころから彼は、クレヨンで、絵の具で、絵を描くことに熱中していた。

 彼の画題はいつも同じだった。

 坊主頭の女性、そればかりを描き続けた。

 あれは6歳のときだったろうか。

 毎年お盆になると、菩提寺の年寄ったお坊さんが父の仏前にお経をあげに来訪するのだが、その年から老僧ではなく、若い尼僧が代行するようになっていた。後で知ったが、老僧の娘だったらしい。

 髪の毛のない女性を初めて目にした彼は、激しい衝撃を受けた。その坊主頭に惹かれた。尼僧その人も天上からの使いのように、神々しく思えた。

 彼は父の供養そっちのけで、読経する尼僧をクレヨンで何枚もスケッチした。

 懸命に描いたその絵を見せられ、

「あら、よく描けたこと」

と尼僧は微笑して褒めた。彼女の掌が優しく自分の頭の上にのせられたとき、彼は例えようもない喜びを感じた。

「将来絵描きさんになるといいわ」

 尼僧は無論軽い気持ちで言ったのだろうが、彼にはその言葉が何か巨きな存在による啓示のように聞こえた。



 それ以来、彼は坊主頭の女性の絵を描き続けた。

 最初はあの尼僧の姿を思い出しつつ描いていたが、やがて興味は坊主頭の女性全般に拡がっていった。

 そんな息子の絵を見て、

「気味が悪いね」

と母親は眉をしかめた。彼は深く傷ついた。それでも、自分の画題にこだわり続けた。

 小学校の帰り道、拾った雑誌に丸刈り頭の黒人女性モデルの白黒写真があったので、それを切り抜いて宝物のように大事にした。その写真を元に何十枚も画を描いた。

 クレヨン画から水彩画、油絵と画材は変遷していったが、対象はブレずにいた。小遣いだけでは、画材代は賄い切れず、美術部のクラスメイトの使いっ走りをして絵の具などを分けてもらっていた。

 思い余って、菩提寺に行き、あの尼僧にモデルになって欲しいと頼み込んだこともある。

 尼僧は困惑顔で一応は了承し、

「じゃあ、袈裟を着けた方がいいかしら」

と気を遣ったが、

「いや、そのままでいいんです」

と制して、白いコットンセーターにスラックスという私服姿の彼女を、カンバスに刻みつけるように描いた。

 その油絵は或る展覧会で銀賞をとった。

 ひょっとしたら俺は才能があるのか、と彼は驚き、思った。

 しかし、以降は尼僧には、モデルになるのは一回切りだ、と断られた。貧乏人の酔狂に時間を割いても何の得にもならないと、先方も思ったのだろう。

 彼は失望した。15歳のときだった。



 その翌年、彼は学校をドロップアウトした。

 コミュニケーションの苦手な彼は何度も就職活動を試みて、何度も落とされた。高校中退という学歴も選択の幅を狭めていた。

 結局彼は家を出て、アルバイトを転々として生計を立てざるを得なかった。

 引っ越し業者、土木作業員、警備員、ビルの清掃、果ては解剖用の死体の洗浄、と何でもやった。それしか生きる道はなかった。

 それでも絵はやめなかった。

 絵を描いているときだけ、彼は幸福だった。

 SNSを通じて坊主頭の女性を発見すると、絵のモデルになってくれないか、とダイレクトメールを送った。

 中には胡散臭がられたり、高額なギャラを吹っかけてくる女もいたが、大方は自己顕示欲や承認欲求の強いタイプなので、申し訳程度の謝礼で彼の乞いに応じてくれた。

 便利な時代だ、と彼はほくそ笑んだ。作品数も増えていった。

 だが、そんな彼を画壇が相手にしてくれるはずもない。変人の趣味、というカテゴリーに押しやられていた。

 冷凍倉庫のアルバイトは、彼にしては比較的長く続いた。

 絵以外のことはからっきし駄目な彼は職場で、叱責され、罵倒され、ときには小突かれたりもした。

 時給千円のはした金のために、屈辱に耐え理不尽に耐える我が身が悲しかった。みじめだった。

 友人もできず恋人なんて夢のまた夢。どうやったら、この境遇から脱け出せるのだろう、とあがくように思った。絵画で身を立てるのは到底無理だ。未来は真っ暗なままだった。

 このバイトが長続きした理由は、シフトが割合自由に組めるという一点だった。

 モデルになってくれる女と会う日は休みにできたし、事前に申し入れれば出勤日の変更もできた。

 それでも絵に没入し過ぎて徹夜して疲れ果てていたり、或いはもっと描いていたいという衝動に襲われたりもした。モデル側の都合で急遽当日に予定が持ち込まれる日もあった。

 そんなとき、彼は会社の事務方に仮病の電話を入れた。

 対応するのは決まって同じ女事務員で、不機嫌な声で、

「また欠勤ですか? ちゃんと体調管理するなり病院に行くなりして下さいね」

とつっけんどんに言われ、彼は小さな声で、すみません、を繰り返すのみだった。

 いつしかその女事務員は電話に出なくなった。寿退社したらしい。あんな女を嫁にするヤツなんているのかよ、と彼は世間の広さに呆れる思いだった。

 代わりに電話に出るようになった女事務員は甘さとビターさがほどよくブレンドされた声で、口調も柔らかで、

「大丈夫ですか?」

と労りの言葉をかけてくれた。そして、最後には必ず、

「お大事にしてくださいね」

と言い添えた。他人から優しくされたことのない彼には、涙が出るほどの「神対応」だった。

 声からして自分よりずっと年上の女性だろう、と彼は考えた。会社のOLたちの顔を一人ひとり思い出していった。

 そして、

 ――あの人だろう。

と察しをつけた。

 柔和な表情のほっそりとした和風美女だった。名前は知らない。が、あの人に違いない。あの人であって欲しい。

 名前も知らないのは当然で、「現場」の人足と事務方のOLでは身分に雲泥の差がある。

 向こうは皆大学出の美人ぞろい、こっちは氷点下の倉庫の中を這いずり回る虫ケラ、所詮は「高嶺の花」だ。

 それでも、想いを断ち切れない。

 そのOLの名は、

 海老名由起子(えびな・ゆきこ)

といった。何とか突き止めた。やはり既婚者らしかった。ますます高嶺に由起子は在った。



     (三)きみは大きな存在


 不思議なことに、意識し始めると会社の建物のあちこちで、由起子と遭遇するようになった。

 スリムな身体を地味な制服で包んでいる。節制のできている身体だ。スカートから出た二本の脚も細く美しく、フェチではない彼も見惚れてしまうほどだった。

 垂れ目の和風美女、肩下までの髪を、派手にならないくらいにブラウンに染め、カチューシャで前髪をあげ、おでこを出して、後ろの髪をハーフアップにしている。彼よりずっと年上のはずなのに、顔にはシワひとつない。いつも笑顔だった。

 彼はすっかり海老名由起子の虜になっていた。

 しかし、彼女には夫もいる。子供もいるらしい。

 彼にできることといえば、せいぜい由起子の夫を羨むのが関の山だった。

 諦めよう、とそう決めた。

 だが、心は自在にならない。

 由起子の姿を見れば胸がときめくし、声をかけられれば、挙動不審な態度をとってしまう。眠れない夜には由起子のことが、つい頭に浮かぶ。

 厄介なことに、彼の想いを由起子当人に気づかれてしまった。

 由起子は彼を無視するようになった。潔癖に彼を睨むこともあった。彼は落ち込んだ。邪な心を見透かされて恥ずかしかった。

 金が欲しい、としみじみ思った。

 金さえあれば、こんな恥辱の日々から逃れられるのに、と夢想した。

 しかし、空から金が降ってくるでもなし、彼は夢も希望もなく、暗鬱な毎日を暮らした。

 絵だけが彼の救いだった。

 粗悪な米と缶詰で飢えをしのぎ、彼は坊主頭の女たちを描き続けた。  

 絵を描いていることは、誰にも秘密にしていた。言えばきっと、どんな絵を描いているのか、と問われるだろう。どんな絵を描いているかを話せば、気味悪がられる。かつての母がそうであったように。

 それでも服や肌に絵の具がこびりついていたりして、絵を描いているのか?と同僚に訊かれることもあった。その都度、知り合いの画塾で手伝いをしていて、そのときに付着したのだろう、と彼は嘘を吐いた。訊いた方も、さして彼に興味があるわけでもなく、それ以上尋ねてはこなかった。

 素人モデルの中には、彼を誘惑してくる物好きもいたが、シャイでオクテな彼は拝辞した。ただひたすら絵に没頭した。



 海老名由起子との関係も変化し始めた。

 どういうわけか、由起子を避けようとすれば、逆に彼女との遭遇率は跳ね上がった。

 そういうとき、由起子は普段の笑顔を消し、用心深く、或いはツンとして、彼をスルーし続けた。彼は職場に行くのが怖くなった。しかし、休みの電話を入れれば、由起子が対応する。このダブルバインドにがんじがらめになっていた。

 ところがある日、由起子が事務方の用事で現場に足を運んできたとき、ちょっとした機械操作で難渋し、倉庫に閉じ込められかけた。

 周囲に他に人はおらず、彼はあわてて走り寄って、彼女を助けた。

「ありがとう」

と由起子にお礼を言われ、彼は甚だ間の抜けた受け答えをしてしまった。それが由起子のツボを刺激したらしい、彼女は声を立てて笑った。久しぶりに見る由起子の笑顔は、まるで慈雨のように思えた。

 こんな些細なきっかけから、彼は由起子と親しく口をきくようになった。

 由起子と話していると、彼は他の女性に感じている恐れをおぼえなかった。気おくれよりも楽しさが、緊張よりも安らぎが、コンプレックスよりも親近感があった。馬が合うのか、由起子の母性がなせる業なのか。

 特に、松野ススムといういまいちパッとしない芸人のやっている深夜バラエティーを、二人とも好んで視ていたことを互いに知ったときには、まさに意気投合して盛り上がった。

「深夜だから録画して視てるの。意味はよくわからないんだけど、なんか面白くって」

「俺も一回も欠かさず視てますよ」

「家にテレビないんじゃなかったっけ?」

「あの、ちょっと違法な方法で」

「わ〜、聞きたくない、聞きたくない」

 由起子はおどけて耳を覆う真似をした。こんな子供じみた仕草も、由起子にはよく似合っていた。

「息子や娘には”どこが面白いの?”って言われるんだけど」

 由起子は会話の端々に家族の話題を混ぜてくる。きっと彼を牽制しているのだろう。

 その薬指のリングを見やり、やはり彼女の夫が妬ましい。

 だが、彼はこうして由起子と話せるだけでも、この上ない僥倖だと感謝の念でいっぱいだった。

 絵を描いていることも打ち明けた。彼女に対して芸術論を一席ぶったりすらした。

 由起子は彼の稚気に大人っぽく苦笑しつつも、話の要所要所で、うん、うん、とうなずいていた。そして、

「どんな絵を描いてるの?」

 案の定訊かれた。

「人物画です」

と彼はお茶を濁した。

「モデルさんを使うの?」

「ネットでお願いしてます」

「あたしがモデルになってあげようか?」

などと軽口を飛ばすほど、由起子と彼の距離は近くなっていた。



     (四)彼女にあったら、よろしくと


 彼にとって人生最大の転機が到来した。

 思い切って、或るコンクールに自信作を二つ送ってみたら、それがさる老大家の目にとまったのだ。

 老大家は口を極めて彼の作品を激賞した。「天才現る」とあちこちのメディアに吹聴して回った。

 老大家に追随するように、画壇も彼に注目し出した。その才能を認め、賞賛を惜しまなかった。

 彼の住まいにはマスコミが押し寄せた。彼の作品に感銘を受けた美術ファンたちの声も、引きも切らず彼の許に届けられた。

 彼の懐には、今まで見たこともないほどの大金が入ってきた。



 それでもしばらくは、彼は人足生活を続けた。

 けれど、彼の「成功」を知った同僚たちから、

「画伯、新作のご予定は?」

と冷やかされるに至って、彼はバイトを辞めた。これからは画業一本で食べていくと決意を固めていた。

 バイトをすぐに辞めなかった唯一の理由は、由起子の存在だった。

 彼女に直接「ことを成した」と伝えたかった。

 が、神様は意地悪だ。

 今度は逆に、彼が会いたいと由起子を求めれば求めるほど、由起子と遭遇することはなくなった。思い切って、理由をつけて事務方に行ったが、由起子はいなかった。有給休暇をとっていたらしい。

 おそらく、恋愛の神様は彼の「邪恋」を戒めているのだろう。そう思うしかなかった。

 退職の日、灰色の会社のビルを振り仰ぎ、彼はため息を吐いた。とうとう別れの挨拶さえできなかった。



 フリーター暮らしからようやく脱した彼に、煌びやかな世界が待ち構えていた。

 どこに行っても彼はチヤホヤされたし、芸術について語らう画家仲間もできた。成功は彼に自信を与えた。自信は彼を魅力的に変えた。女たちは彼の周りに群がり、彼の寵を得ようと、艶を競い合った。

 けれど、彼の心には大きな渇望があった。

 海老名由起子、だ。

 ――今頃どうしてるんだろう……。

と毎日彼女のことを考えた。未練が断ち切れない。想いは募る一方だった。

 ついに彼は思い切って行動に出た。

 かつてのバイト先に電話してみた。賭けだった。

『はい、丸丸冷凍の海老名です』

 たった二ヶ月前でしかないはずなのに、その声はひどく懐かしく、彼の涙腺を緩ませた。

『もしもし? お電話遠いようですが』

「俺です」

 彼はかろうじて声を搾り出した。

『まあ!』

と由起子は絶句した。電話の相手がわかったらしい。

「会いたいんです」

『あの……』

 言葉に詰まる由起子に、

「明日の午後6時、会社のそばのスターバックスコーヒーで待ってます」

とぶっきらぼうに言うべきことだけ言って、彼は携帯を切った。



 そして、翌日、彼は指定した場所で由起子を待った。

 が、由起子は来なかった。

 四時間待った。

 が、由起子はやはり姿を現さなかった。

 彼は失望した。打ちのめされた。

 ――やっぱり叶わぬ恋だったんだ。潔く諦めよう。

と自分に言い聞かせ、失意の彼は店を出た。

 会社のビルにはまだ明かりが灯っていた。



     (五)リリー、ローズマリーとハートのジャック


 スキンヘッドの美女が艶然と微笑み、セクシャルに観る者を挑発してくる、或いは痩せこけた丸刈りの少女がリストカットの跡も生々しくその苦悩を訴えかけてくる、そんな諸相を武骨なタッチで描いた彼の絵は、普段芸術に無関係な層にも刺さり、その前には大勢の観客が詰めかけた。

 同業者や批評家筋もこぞって彼のデビューを讃えた。

 彼は築四十年の老朽アパートを出て、都心のタワーマンションに移った。売りに出ていた近くのフラットを借りてアトリエにした。

 モデル探しの苦労もせずにすむようになった。彼の為に髪を剃る女はいくらでもいた。

 画集も飛ぶように売れた。さらに版を重ねている。

 テレビでも彼の特集は組まれた。

 彼のキャラクターに目をつけた某局は、彼をワイドショーのコメンテーターに引っ張り出そうとしたが、さすがにそれは断った。

 彼の後ろ盾である老大家は、熊谷という男をマネージャーとして紹介してくれた。熊谷は若さに似合わず遣り手だった。彼は世俗の厄介事を熊谷に任せ、画業に専念していればよかった。

 わずか数ヶ月の出来事だった。

 ――まるで夢のようだ。

 彼は半ば呆然として、日を送った。



 そして、ついに念願の個展が開かれた。場所は銀座のギャラリーだった。全てが異例尽くめだった。

 会場では各界から送られた花々がひしめき合っていた。

 会場には著名人たちも姿を見せた。祝辞も数多寄せられた。

 人付き合いの不得手な彼はオープニングに顔を出したきり、後は熊谷に任せきりだった。

 個展が開催されて一週間経って、彼は観覧者の生の反応が知りたくなった。

 知りたくなると、矢も楯もたまらず、変装して会場に潜り込んだ。

 客層は老若男女様々だ。

 中には○○のエピゴーネンじゃないか、などとクサす者もあったが、ほとんどの観覧者は好意的だった。彼は満足した。

 そっと会場を立ち去ろうと踵を返しかけたとき、彼の目に一人の女性が飛び込んできた。

 その女性は熱っぽく彼の作品に見入っていた。

 彼は息をのんだ。我が目を疑った。

 海老名由起子だった。

 由起子は彼の絵に感動した様子だった。目を潤ませ、身じろぎもせず、絵の前に立ち尽くしていた。

 高鳴る胸をおさえ、彼は由起子に近づいて行った。一歩、また一歩、と。彼女の隣に立ち、

「海老名さん」

と小さく声をかけた。

 突然の彼の登場に、由起子は白昼幽霊を目撃したような表情(かお)で、目を見開いていた。

「来てくれたんですね」

「ええ」

 由起子は気を取り直し、微笑した。懐かしい笑顔に彼の心は癒される。

「素晴らしい絵ね。あなたにこんな才能があったなんて、ちっとも知らなかったわ。絵を描いてたことは聞いてたけど。でも、こんな……」

 後は言葉にならなかった。

「場所を変えましょう」

と彼は囁いた。

「今度こそお茶、付き合ってもらいますよ」

「ええ」

 彼女は吹っ切るようにうなずいた。

「頂くわ」



 近くの店で紅茶を飲みながら話した。

「見違えたわ」

と由起子はしみじみと言った。

「すっかり芸術家ね」

「いやいや、俺なんて、まだまだです」

 彼は謙遜した。

「あなたの絵、感激したわ。後でサインもらおうかしら」

「変な絵ばっかりでしょう?」

「お盆参りに来る尼僧さんを描いたのが、きっかけなんでしょ」

 由起子は知っていた。彼のインタビュー記事にも、しっかり目を通しているらしい。

「もう会えないかと思ってました」

 彼は皮肉を言ってみたくなった。

「スタバで待ちぼうけをくわされて、貴女への気持ちにはケリをつけたんだけどな」

「それは……」

 由起子は目を伏せた。

「ごめんなさい」

「謝ることないですよ。意地悪言ってすみません」

「まさか、あなたに会うなんて想像もしなかったわ。ただ、あなたの絵に、才能に、惹かれたの。ほんと、こんなことになるなんて……」

 しどろもどろになる由起子は、

「また会えますよね?」

と迫られると、困った顔でうつむいた。しかし、

「会えますよね?」

と何度も力攻めされ、ついに小さく首を縦に振った。



 その日から二人の禁断の関係は始まった。

 彼は由起子に耽溺した。信じられないことに売れてからも尚、童貞を捨てきれずにいた彼にとって、由起子は初めての女だった。

 彼は天にも昇る心地だった。

 由起子は良妻賢母の皮をスラリと脱ぎ捨てて、彼に対して大胆になっていった。彼の仕事について口出しすることすらあった。

 OL、家庭人、そして彼の愛人という三重生活をこなすのにも慣れていった。

 母子ほどの年の差の人妻との不倫関係を続ける彼に、その秘密を知る画家仲間らは、思いとどまるよう忠告したが、

「笑止」

と彼は不敵に笑った。

「ピカソだってモネだってダリだってレンブラントだって不倫してたじゃないか。名画の陰に不倫あり、ってね。芸術家の特権だよ」

 若さと成功と恋が彼を傲慢にしていた。

 夫の愛はすでに冷めている、夫婦関係は行き詰っている、家庭はちっとも幸福な場所ではない、と由起子はベッドの中で嘆いていた。

 それを言うと、

「莫迦だな」

と仲間の一人は嗤った。

「不倫している人妻の大抵はパートナーにそう言うものさ。実際はうまくいっている場合がほとんどだ」

「いや、由起子は嘘を吐く女じゃない」

 彼は頑強に言い張った。

 熊谷も彼のイメージダウンを危惧して、再三に渡り彼の不貞行為を諫めた。が、彼は聞き入れなかった。

 それだけ彼は由起子に首ったけだったのだ。

 なかんずく、彼がテレビ出演の際知り合った人気モデルの高井戸ミレの猛アタックを撥ね付けたときなど、

「お前は阿呆だ」

と友人である或る詩人は憤慨した。

「あんな既婚のオバサンより高井戸ミレに行くだろ、普通」

「由起子の方がずっと美人だ」

「ったく、どうかしてるぜ」

 詩人は頭を抱えた。

「それに由起子の方が家庭的だし、品もある。フィーリングも合う」

 彼の気持ちは毫も動かなかった。



     (六)愚かな風


 しかしとうとう恐れていた事態に陥った。

 二人の関係が世間に発覚してしまった。

 文春砲炸裂。二人の密会現場の写真がすっぱ抜かれてしまった。

 期待の新鋭の不祥事に轟々たる批判が、各所で巻き起こった。

 彼はバッシングを受けた。マスコミは彼の家の近辺で張り込むようになった。ネットの彼の公式サイトは罵詈雑言で埋め尽くされ、炎上、閉鎖された。世に出て初めて味わう逆風だった。

 由起子も夫や子供たちから責められた。

 しかし、彼と由起子の道ならぬ恋は、すでにのっぴきならないところまで来ていた。引き返すつもりも、もはやなかった。

 由起子は自分の家族を捨てた。会社も辞め、友人知人との関係も断って、身ひとつで彼の許に来た。

「何にもなくなっちゃたわ」

と泣き顔で、それでも微笑もうとする由起子を抱きしめ、

「俺がいるだろ」

と彼は言った。

「由起子、結婚しよう」

 世間からの攻撃は、かえって二人の絆を強くしていた。

「嬉しい」

 由起子は彼の胸に顔を埋め、幼子のように泣いた。

 間もなく、由起子と夫の間に正式に離婚が成立した。

 離婚に際して、由起子は娘から酷い言葉を投げつけられたという。

「もうあの子の結婚式に招かれることもないし、孫を抱くこともないわね。仕方ないわ。それだけのことをしてしまったんだもの」

 この十字架を永劫背負っていけなければならないのか、という考えが彼の脳裏をかすめた。だが、由起子を公然と手に入れて有頂天になっている彼に、襟を正している暇はなかった。ただひたすら彼女に溺れた。

 法律により、由起子は離婚後百日経なければ、彼と結婚できない。

 すでに、熊谷の敏腕で、彼はアメリカで個展を開くことが決まっていた。彼の作品は海外の美術ファンからも注目されていた。

 これ幸いと彼は日本でも煩を避け、由起子を伴いアメリカへ飛んだ。

 高価な住まいに腰を据え、インタビューに応じたり、高名な画家を表敬訪問したりするうちに、自信も回復し、創作熱もまた戻ってきた。

 欧米式に由起子を社交の場に同伴した。

 小柄で和風美人でコケティッシュな由起子は、チャーミング、キュート、と地元の画壇でもてはやされたものだ。



 個展も期待以上に盛況だった。

 彼も由起子もホッと胸を撫でおろした。海外進出の目途が立った。

 個展後もしばらくこの地に滞在して、小さな教会でひそかに結婚式を挙げる予定だった。婚姻届は帰国してから提出すればいい。

 略奪婚はうまくいかない。

という声も届かぬほど、彼らは幸せの絶頂にいた。



     (七)ブルーにこんがらがって


「ずっとここに居たいな」

と彼は呟くように言った。

「そうね」

 由起子もうなずいた。

 日本に戻って、叩かれたり追い回されたりする日常を想像するだけで、二人はナーバスになる。実際アメリカまで追いかけてくるゴシップ誌の記者もいる(無論硬派の美術ジャーナリストも多くいる)。

 連日のハードスケジュールにさすがに二人は疲れ、夕食を摂りながらの会話も途切れがちになる。

 明日は結婚式だというのに、いや、だからこそか、二人ともどこかギコちない。

 しかし、ソファーに並んで腰をおろし、デザートワインを酌み交わしていると、双方とも舌が滑らかになってくる。

「一年前の俺はあのクソ寒い倉庫で凍えながら這いまわって、その日暮らしの毎日を送っていた。お前にはツンツンされてたし」

「あなたのこと、よく知らなかったのよ。甘い顔見せて変なチョッカイかけられたくなかったし」

 由起子は弁明する。

 彼はラ・クータンセとポン・レベックを肴に、シャトー・ギローを干し、さらにしゃべった。

「それが今では画伯だ。そしてお前と結婚する。運命ってのはわからないもんだな」

「本当にそうね」

「まさか他人(ひと)にお前のことを”妻です”と紹介できる幸せを浴することになろうとは……」

「あたしも嬉しいわ」

「お前には散々辛い思いをさせたな」

「それは言わないで。あたし、今幸せなんだから」

 由起子はワインを一口飲むと、彼の肩に頭をのせた。

 しばらく沈黙があった。

「ねえ」

 由起子は意を決したように口を開いた。

「あたし、髪を切るわ。坊主頭に」

「えっ?!」

と彼は仰天した。

「本気か?」

と婚約者のハーフアップにした長い髪を見た。

「ええ」

 由起子の目は真剣そのものだった。

「あたしも頭を丸めれば、あなたの絵のモデルにしてもらえるかしら? ねえ?」

「ああ……勿論、願ったり叶ったり、だ。……でも……」

 逡巡する彼に、

「あたし、あなたの絵のモデルになりたいの。あなたの筆でカンバスの中で永遠の命を吹き込まれたいの。ずっと思ってた。それに、贖罪と新生の意味を込めて、リセットの意味を込めて、坊主頭にして明日の式に臨みたいのよ。認めて頂戴」

 由起子は自己の内側にある激しいものを吐き出すかのように、一息に言った。

 彼とて異存はない。むしろ彼の根底にあるフェティシズムは、由起子の希望と寸分違わず合致していた。

「本気なんだな」

と確かめると、

「ええ」

 由起子は澱みなく応えた。

「じゃあ、道具を買わないと」

「もうあるわ」

 由起子はあっさり言った。一昨日、彼が所用で外出している間に、近所のホームセンターに赴き、バリカンを購入したという。

 妻になる女の手回しの良さに、彼は舌を巻いた。由起子は本気で断髪を決意していたのだ。

「それなら――」

と彼は言った。

「俺も一緒に頭を刈ろう。二人で頭丸めて出直しだ」

「最高ね」

 由起子は垂れ目を細めた。

 彼はこみあげてくる喜悦を抑えきれず、由起子をソファーに推しつけ、キスの嵐を浴びせた。



 まずは彼が坊主になった。

 話し合って、3mmの長さに切ることにした。

 由起子はビッグサイズのバリカンを上手に使って、彼女のフィアンセの髪を刈り落とした。

「ちょっと、動かないで」

とたしなめつつバリカンを振るう未来の妻に、彼は母性を感じずにはいられなかった。

 すっかり刈り終えると、次は由起子の番だ。

「さあ、お願い」

 由起子は素早い動作でカチューシャやバレッタをはずして髪をほどき、床に座ると、シーツでその身を包んだ。

 シーツに巻き込まれた髪を、バッ、バッ、と払い出すと、やや神経質に乱れた髪を整えた。

「いいんだな?」

という彼の最終確認に、

「ええ」

と由起子は咲(わら)った。

「あなただけ坊主刈りにさせといて、や〜めた、なんて言わないわよ」

 バリカンがノイジーな機械音をまき散らす。

 彼は空いている左腕を由起子の首に回し、グイと後ろに引いた。由起子は彼の粗暴な作法に耐えた。

 その態勢のまま、彼はバリカンを逆手に握り、由起子の額の分け目にあてた。

 額の肉にバリカンの刃を感じ、由起子の身体は固くなる。

 次の瞬間には、バリカンは額から縦に由起子の髪を、一直線に断ち割った。

 グワアアァ、と髪がめくれあがる。グレーの刈り跡が露出した。刈り跡はツムジを通り越し、後頭部にまで達していた。

 その隣の髪にも同様にバリカンがあてられた。長い髪が一息に断たれた。

 バアアァァ、とサーフボードが波を切るように、由起子の髪は切り裂かれる。

 バサッ、バサッ、と由起子の年齢よりずっと若く綺麗な髪は、シーツの上に零れていく。

 一刀目と二刀目の刈り跡の間に細く刈り残された髪を刈る。ガアアアァ、と。

 ブラウンの部分は掻き消され、グレーの刈り跡は範囲を拡げる。

 彼はとてつもない昂奮をおぼえていた。この感覚を味わうために、ずっと由起子を求め続けていたような気さえした。

 彼はさらに刈り込んだ。

 ザバアアア、と左右に刈り跡を拡大していく。

 一刈りごとに外側の髪と内側の髪が絡み合って、大量の髪が由起子の頭上から払われていく。

 ようやく彼は左腕を離し、由起子の身体を解放した。

 由起子は目前の落髪を避けるように、目をつむり顎を引いた。

 バリカンを握った彼は、専制君主の如く振舞った。次、次、次、と前頭部を無造作に刈っていった。刈り手の未熟さゆえ、刈り損なったブラウンの毛が点々と在り、まだらになっていた。

 しかし、彼は構わずバリカンを突き動かした。情熱的に!

 グレーの刈り跡は今度は左サイドへと版図を拡げていった。

 コメカミから垂れ下がる長い髪を断った。耳が出た。その耳を押さえたり引っ張ったりして、周りの髪を摘み獲った。

「や〜」

と由起子の口から幼児のような悲鳴が小さく漏れた。あまりに激しい頭上での行為に、耐えきれなかったみたいだ。

 彼は心で仄暗く笑った。由起子が掌中のひな鳥のように思えた。生殺与奪、というと大仰だが、由起子の運命の手綱は、今彼が、バリカンと共に握っているのだ。

 ブラックな愉悦に浸り、バックの髪に取り掛かる。

 後ろの髪も真ん中からいった。

 長い襟足とうなじの間にバリカンの刃を、ザクリ、と挿し入れ、グワアアァと突き上げた。

 一本のグレーの小路ができた。その小路を大路へと拡張していく。

 セミロングの髪がセラミックの刃によって、押しのけられ、バラバラとシーツに散っていった。

 うなじから頭頂にかけて、下から上へ、下から上へ、何度もバリカンを押し上げていった。鯉の滝登りの如く、下から上へ、下から上へ――

 のっぺらぼうになった由起子の後頭部が、彼の目の前にあった。それは収穫の終わった冬の田を、故郷を、彼に連想させた。

 彼はどうしても由起子に虐を加えたいという誘惑に勝てず、彼女の半刈り頭を押さえつけ、まだ手付かずだった右の髪を、ゾリゾリ剃り込んだ。

 そう、ほんの一年前には鼻もひっかけてもらえなかった「高嶺の花」だった由起子の髪に、自分は今バリカンを入れまくっているのだ。彼はますますバリカンを持つ手に力を込めた。

 フェティッシュな欲望と、サディスティックな衝動と、妻になる女に対する「関白宣言」が入り混じり、彼は無我夢中で右鬢を刈り上げていった。

 長い髪を引っ張り、そして、根元からバリカンを挿し込む。バリカンが唸り、髪が爆ぜ、美しい女性の象徴が突き崩されていく。

 ザアアァ、とブラウンの毛髪が剥がれ落ち、グレーの刈り跡が寒々と取り残される。

 由起子は唇を噛み、彼の蛮行に耐え忍ぶ。けなげな女だ、と彼はしみじみと挙式前夜の花嫁を見直す。

 しかし、彼は容赦しなかった。

 ひたすら右鬢にバリカンを走らせた。

 そうやってひと通り刈り終えると、虎刈りの頭にホットなバリカンの刃を滑らせた。

 縦に、縦に、

 ジャアァアアアァアアァ

 ジャァアァアアアァァア

 横に、横に、

 ジャアァアアアァアアァ

 ジャアアァアァァァアア

 全ての頭髪は3mmの長さに一統された。

 彼はようやくバリカンのスイッチを切った。

 人足時代、憧憬の眼差しで見つめていた麗しき髪の毛たちは、残らずシーツや床にその残骸を晒していた。

 由起子は坊主頭を撫ぜ、

「サッパリしたわ」

と破顔した。刈られている間は子羊みたいな気分で辛くもあったが、丸めてしまったら爽快感のみがあったという。

「煩悩が十個くらい消えちゃった感じよ」

「まさに尼僧の境地だな」

 冗談を交わしつつも、彼は、爽やかで、より愛くるしくなった由起子に見惚れていた。

 二人、大理石のバスルームで丸刈り頭を洗い流しながら、激しくまぐわった。生まれ変わったような気持ちで抱き、抱かれた。



 結婚式当日は二人の前途を祝すかのような快晴だった。

 小さなチャペルで指輪を交換し、永遠の愛を誓い合った。在米中の画家仲間が数人、立ち合った。

 参列者たちは、坊主頭で登場した新郎新婦に驚愕していた。

 日本のマスメディアは侮れない。ニュースを嗅ぎつけた写真誌の記者が教会に潜伏して、二人を激写した。

 早速結婚式の写真は雑誌に掲載された。顔にモザイクこそかけられているが、由起子の丸刈り頭にウェディングドレスという姿は、読者に大きなインパクトを与えた。世間では「丸刈り婚」と騒がれた。



     (八)おれはさびしくなるよ


 挙式の次の日には、彼はもう仕事にとりかかっていた。

 カンバスに絵の具を塗りたくった。

 モデルは勿論由起子だ。

 一糸まとわず、生まれたままの姿で、彼の前に立つ。

 贅肉など一切ないスレンダーで華奢な身体、薄く茂ったアンダーヘアも露わにゆったりと微笑む丸刈りの妻は、彼にインスピレーションを与えた。

 彼は描いた。懸命に描いた。

 熊谷に命じて一切の音信をシャットアウトして、創作に打ち込んだ。

 由起子にも彼の情熱が伝染したらしく、疲れた顔ひとつ見せず、何時間もポーズをとり続けた。同じ姿形を保つため、毎日3mmの坊主頭に整髪され直していた。

 そんな日が続いて、

「これは最高傑作になるぞ!」

と彼は叫んだ。

「大きな声出さないで。ビックリするでしょ」

とオールヌードの妻は苦笑して、

「でも良かったわ。モデルに立候補した甲斐があったわ」

「あと一息で完成だ」

「楽しみだわ」

 由起子はハシャいだ。

「今日はこの辺で休もう」

「夕食はすき焼きにしようかしら」

「いいね、すき焼き!」

「シラタキがないわね。シラタキは抜きにしましょ」

「そんな〜、シラタキが入ってないすき焼きなんてすき焼きとは認めない」

「そんなこだわる具材かしら」

「こだわる!」

「わかったわよ。ちょっと買い出しに行ってくるわ」

「俺も一緒に行くよ。ついでにうどんも買ってうどんすきにしよう。肉も和牛にしよう」



 二人は外に出た。

 雑踏を歩く。

 お揃いの丸刈り頭に、お揃いの無地の白Tシャツ、お揃いのジーンズで、手をつなぎ、幸福そうに笑い合う二人。

 さすが多様性を重んじるアメリカだ、坊主刈りのアジア系カップルが歩いていても、ジロジロ見られたりはしない。

「熊谷さんが言ってたけど、アメリカの他の街でも個展の話、出てるんでしょ?」

「ああ、ボストン、サンフランシスコ、シアトル、前途は洋々さ」

「あたしのあの絵もいつか展示されるのかしら」

「勿論だよ。最高傑作なんだから」

「なんだか恥ずかしいわ」

「これからはモデルはお前だけだ。生涯お前を描き続ける」

「嬉しい」

 そう言ってピタリと寄り添ってくる由起子の肩を、彼は強く抱いた。

 その刹那――

 パァン、パァン、とすぐそばで破裂音が聞こえた。

「誰かが爆竹でも鳴らしてるのか?」

 二人は足を止めた。

「robbery(強盗)!」

という叫び声がして、また火薬が爆ぜる音、周囲は狂騒状態に陥る。

 すぐ目の前のドラッグストアから覆面をした男が三人、ボストンバッグを持って、飛び出してくる。三人とも拳銃を所持していた。

 彼と由起子は強盗たちと鉢合わせる形になってしまった。二人とも突然の出来事に言葉も出ない。

 強盗たちは犯行直後で気が立っている。

 邪魔だ!と由起子に向けて発砲した。

 二発の銃弾を至近距離から胸に受けて、

「あっ!」

 由起子はガックリと崩れ落ちた。糸の切れたマリオネットのように。

「何しやがる!」

 逆上して、丸腰のまま掴みかかっていく彼にも、銃口は火を噴いた。彼もコンクリートの上、倒れ伏した。

 強盗らは発砲しながらワゴン車で逃げ去った。

 血の海の中、彼は由起子の許へ這いずっていった。わずか1m足らずの距離が何十kmにも感じられる。

 由起子はすでにこと切れていた。物言わぬ骸になり果てていた。

 彼は妻の手を握った。まだ温かかった。

「由起子……」

 彼はうめくように妻に声をかけた。無論妻は応えない。

 これまでの彼女との思い出が走馬灯のように、彼の脳裏を駆け巡った。彼からの電話に優しく対応してくれたこと。想いがバレて無視されたこと。ちょっとした会話で盛り上がったこと。コーヒーショップで待ちぼうけをくわされたこと。個展での再会。初めてベッドを共にしたときの由起子の大胆さ。恋と肉欲に溺れた日々。不倫がスクープされバッシングされたこと。家族を捨てたときの由起子の涙。平穏だった海外生活。お互いに髪を刈り合ったあの夜。丸刈りになった由起子の愛らしさ。結婚式での花嫁姿。輝かしい未来に胸を高鳴らせていた笑顔の彼女。ヌードになった彼女の名状しがたい美しさ――

 薄れゆく意識の中、

 ――こいつと一緒に死ねるのなら悪くないのかもな。

と思った。

 パトカーのサイレン音が遠くで聞こえる。


               (了)






    あとがき

あとがき  長い!! 長すぎる!! 書き上げてみて、作者本人も大いに焦っています(^^;) 主人公がヒロインが付き合うようになるまでに、標準の文字数を軽く超えてしまっていました(汗) まあ、勘弁して下さい。。あまり長いので、チェックも大変でした。
 あと、タイトルからほのぼのハッピーを期待された方にもごめんなさい(^^;)
 昔或る御仁が「不倫は文化」という迷言を残されましたが、別に擁護するつもりはさらさらないのですが、不倫という題材が数多の小説や映画、音楽等を産み出してきたことも、また事実。しかし、デリケートな題材なので、かなり気を使いました。
 サイト初期に書いた「或るカラフトマスをめぐる身辺雑記」という作も、不倫を扱っているのですが、この頃は無邪気だったなぁ。この頃より、自分も大人になったんでしょうか。
 話はちょっとそれますが、テレビでもお馴染みの評論家の山田五郎さんがyoutubeで絵画について解説している動画ちゃんねるがあって、すごく面白いんですよ。知らない画家や作品をたくさん紹介して下さって、得るところ多いです。画家についてのゴシップ、スキャンダルも語っていて、結構不倫している巨匠もいる。
 で、あのシュルレアリスムの巨人サルバドール・ダリは、不倫どころか女性と接することも苦手な青年だったらしく、しかし彼の才能に惚れこんだ友人の妻にアプローチされ、ダリも10歳年上の彼女に夢中になって結局不倫→略奪婚に至るというエピソードを山田先生の講義で知り、それが本作のひとつのヒントとなった次第です。
 ラストは「うどんでも食べていこっか」エンド(しんみりver)とどっちにしようか迷ったのですが、バッドエンドになりました。現代モノの中では一番派手な死に方をしたヒロインかも知れない。。
 うろ覚えなんですが、北野武監督が自作の中で主人公が死ぬ率が多いことについて、「主人公はムチャクチャやった奴だけど、最後死ぬから、それで観客に勘弁して欲しいという気持ちがある」的な発言をされていて、自分もそんな気持ちです。
 あと昔観た映画「ネイキッド・タンゴ」の影響もあるかな>ラストシーン
 ちなみにこの映画、ヒロインの髪型チェンジ――ブロンドのロングから黒髪ボブ――があるんですよ。断髪シーンはありませんが。
 ……って、なんかあとがきまで長尺になってないか?!
 あとがきが長いときは大体自信のないとき(笑)
 今回は締め切りを気にすることなく、ある程度の余裕を持って書けてありがたかったです♪ 本当はしばらく書くことはお休みしようかと思ってたんですが、書くことが結構癒しになったりするので。
 最後までお付き合い頂き、どうもありがとうございました(*^^*)



作品集に戻る


inserted by FC2 system