ぼくたちの「Boy Meets Girl」 |
レオス・カラックス監督の「Boy Meets Girl」を範子と観たのは、ぼくが高校三年生の夏休みだった。 映画を観終え、劇場を出て、範子のカローラに乗る。 「Boy meets Girl」は本国のフランスでは絶賛され、カンヌでも激賞され、それから何年も経って、ようやく海を渡って日本にきた。ヒップな映画青年たちはこぞって観に行ったし、カラックス監督は映画通からも、新鋭登場!と熱い視線を注がれていた。 映画通を気取るぼく――勿論ハリウッド映画などは鼻で嗤っている――もこの波に乗って、範子と東京までノコノコやって来た。 そして、映画を観たのだが、正直ピンとこなかった。 モノクロの画面の中、少年のモノローグを基調に、全体的に淡淡としたタッチで、少年と少女の出会いと悲劇が描かれる。激しい愛と性を期待した向き(ぼくもだ)には、肩透かしをくったような形だ。 そんな自分の当惑を、 ――これぞアートだ。実にクールな作品じゃないか。 とスノッブに抑え込み、高尚な気分に浸ったが、あまり意気があがらない。 この「恋愛映画」でロマンティックな気分になって、流れで範子とホテルへ、という心算だったが、アテが外れた。 「何か食べていこうか」 範子の方も色欲よりも、まずは食欲のようだった。 「何が食べたい?」 「何でもいいよ」 「”何でもいい”が一番困るぅ〜」 範子は歌うように言い、アクセルを踏み込む。東京が遠ざかっていく。 「外、涼しそうだね」 範子はカーエアコンのスイッチを切り、窓を開けた。 サアアー、と夕暮れの涼しい風が車中に吹き込んでくる。もう秋も近いな、とぼんやり思う。 範子の長い黒髪が、バァーッと風にたなびく。 ぼくは思わずそれに見とれる。なんて艶っぽいのだろう。 「ラーメン」 と範子の口が動いた。 「ラーメン、食べよっ」 「フランス映画観たあとにラーメンかよっ」 「今日はラーメンって気分なの。何でもいいよって言ってた人は誰だっけ?」 「すいません」 実を言えば、範子と一緒に飲食店で食事をするのは、あまり気がすすまない。 この夏に18歳になったばかりのぼくだが、まだ高校生。ゆえに自然と範子が伝票をとる。範子が会計を済ませている間、彼女の後ろに突っ立っているのは、気まずい。普通はこういうのは男が払うものだろうと思うと、キマリが悪い。 ぼくもバイトをしてお金を稼ぎ、 「今日は俺が払うよ」 と格好つけようとするのだけれど、 「いいよ。気持ちだけありがたく受け取っておくよ」 と範子にいなされてしまう。今日のチケット代だって―― 風に舞う範子の髪が、ぼくの顔をなでる。ほのかにシャンプーの香り。ぼくは陶然となる。 カーラジオからは天気予報が流れている。 長い信号待ちに飽きて、ぼくと範子は唇を重ねる。 情熱的に――。 濃厚に――。 明日の最高気温は30度近くになるらしい。まだまだ夏は終わらない。 パッと信号が青になった。 車は機嫌よく走り出す。 ラーメンショップをさがしつつ、 「出会ってそんなに経ってないのに、ヒロインが死んじゃダメでしょ」 と、それが範子の本日の映画評だ。 「それもサマにならない死に方。奇を衒っちゃダメだよ」 「そうかな」 とぼくは異を唱えるが、言葉が続かない。 「ハリウッドのラブストーリーを見習わなきゃ」 言いながら、範子の目は道沿いの食べ物屋をサーチしている。 「まず美男美女が出会って、反発しながらもいいムードになってさ、で、一旦幸せになるんだけど、二人を苦難が襲って――すれ違いだったりライバルの登場だったり、何かしらの障害が立ちはだかったりして、別れ別れになるんだけど、それでも互いのことが忘れられず、ドーンと勇気を出して、遮るものを蹴散らして、困難を乗り越えて、それで二人は結ばれてメデタシメデタシっていうのが王道よ」 「そういう定型のストーリーばっかり量産してるから、ハリウッドはダメなんだ」 「でもお客は行列して観てる」 「作り手にアーティストとしての矜持はないのか。ルーティンワークに陥っている。堕落だよ、堕落」 「ルーティンワークと王道は違うわ」 「王道ねえ」 「なんか、こう焦らしてさ、ドキドキさせて、時には突き放して、ハラハラさせて、そうやって観客が主人公と一緒になって、スクリーンの中に入り込んでいく。そして最後にカタルシスを得て、ほんわかした気持ちで映画館を出る。最高じゃない」 「通俗だね。映画は芸術だ。アートだ。アートはけして大衆に媚びない。現実逃避の具にはさせない。安っぽい感動なんて与えず、観客に衝撃を浴びせ、挑発し、立ち止まって考えさせる」 「映画はアートでもあるけど、同時にエンターテイメントでもあるわ。日頃日常世界で疲れたり落ち込んだり冴えない気持ちを抱えている人に、しばらく世知辛い現実を忘れさせて、夢を見させてくれる。そんで、さァ、明日からまた頑張ろう、って気持ちにさせてくれる。それって、すごく尊いことじゃない?」 「それは欺瞞さ」 「そうかなあ」 範子と議論すると結構白熱する。ここまでぼくが意見を戦わせることができるのは、世界で範子ただ一人だ。 25歳なのに、七つも年下の小僧に弁舌を振るってくれる相手がいることは、範子の言葉を流用させてもらえば「尊い」ことなのだろう。 「夏休みの宿題、ちゃんとやってる?」 範子は話題を転じた。 「まあボチボチ……」 映画のときと違って、ぼくの歯切れは悪くなる。 「大丈夫でしょうね? 夏休みが終われば大学受験ももう目の前なんだよ」 「そういうのを一時忘れるために、今日映画観に来たんじゃないか」 「ホーラ、何が” 観客に衝撃を浴びせ、挑発し、立ち止まって考えさせる”よ。思いっきり現実逃避してるじゃない」 「う〜」 範子にはかなわない。 「とにかく世界史の宿題だけは提出して。貴方のこと叱りたくないのよ」 「そんなこと言って、範子、俺のこと結構叱ってるぞ」 「カモフラージュよ。それに叱られる方が悪い。全部見逃してあげてたら、あたしたちの関係が怪しまれるでしょ」 ぼくは軽くショゲて、映画館で購入したパンフレットをパラパラとめくる。 ――やっぱりあのシーンは衝撃的だったなあ。 頭をよぎるはヒロイン――ミレーユの残像だ。 範子とぼくは、教師と生徒、いわゆる「禁断の関係」だ。 範子はぼくの部活動の顧問だ。 ぼくは中学時代まではサッカー一筋だったが、高校生になる前に偶然テレビで放映していた或る洋画を観て、それがきっかけで映画に狂った。 それから一年半、映画を観まくった。小遣いやバイト代はみんな劇場代やレンタルビデオ代につぎ込まれた。 生来の拗ね者らしく老若男女が群がる人気作に背を向け、ゴダールだったり、タルコフスキーだったり、トリュフォーだったり、ベイルマンだったり、ヴィスコンティだったりとヨーロッパの小難しい芸術映画を、背伸びして観まくった。勉強しろ!と親に怒られながら。 中でもフェリーニが一番お気に入りの監督だった。「道」と「甘い生活」がフェイバリットで、台詞をおぼえてしまうほど観た。 高校も2年生半ばになって、うちの学校に映研があることを知った。同好の士と共通の話題で熱く語り合うのも悪くない。 早速放課後、職員室に行き、担任に相談すると、担任は、 「それなら――」 と職員室の一角を指さし、 「あそこに髪の長い先生がいるだろう」 担任の指さす先に目をやると、たしかに長い髪の女の先生が、せっせと書類にペンを走らせていた。 「あの先生が映研の顧問だから、あの先生に申し込むといい」 ぼくはソロリソロリと顧問の先生のデスクに歩み寄り、 「あのぅ……映研に入りたいんですが」 先生は顔をあげ、 「ごめん、ちょっと待っててね。すぐ終わらせるから」 と言い、また事務作業に、髪をかき上げかき上げ、没頭していた。 言葉通り、作業はすぐ終わり、先生はぼくに向き直った。 「入部希望者? 何年生?」 「2年です」 「そう、じゃあ、こっち来て」 とぼくを部室や視聴覚室に案内して、機器の説明等をしてくれた。 映画鑑賞だけでなく、制作もするらしい。昔の部員が撮影した自主制作映画を見せてもらった。お粗末な代物だったが、こういうのを観るのは初めてだったので興味深かった。 先生によれば、現在部員は0人とのこと(だから顧問を引き受けたのよ、と後に彼女は明かしてくれた)。猛者やかわい子チャンとの交流を期待していたぼくは拍子抜けした。 最後に、 「どうする? 入部する?」 と訊かれ、 「します」 と答え、入部届に氏名その他諸々記入した。 目的は顧問の女先生だった。 帰ってすぐさまその女先生をおかずにオナニーした。 それがぼくと範子の出会いだった。 綿貫範子(わたぬき・のりこ)先生は平安美人顔で、長い黒髪がよく似合っていた。甘い声が印象的。陽性の性格だった。 そこはかとない色香があり、魅了されている同僚教師や男子生徒は実は結構いた。ぼくもその一人だった。 この手のフェロモン系の女性は、えてして同性の受けが悪かったりする。 実際、一部の高カーストの女子連中が、 「綿貫ムカつく、何だよ、アイツ」 と陰口をきいているのも耳にした。 「男子たちに色目使っちゃってさ」 といった主観丸出しの誹謗もあった。 そんな中傷など意にも介さず、ぼくと範子は第二視聴覚室で「逢瀬」を重ねた。 といっても、ただ映画を観るだけだ。 でも、狭い第二視聴覚室で身体を寄せ合うようにして、先生の体温を感じながら、何本も映画を観た。 綿貫先生のベスト映画は「トップガン」、好きな俳優はトム・クルーズだった。まったくお話にもなんないね、とぼくは肩をすくめた。が、互いに、こんな作品はどう?と双方の好みをすり合わせて、週に二三回、映画鑑賞会を開いていた。 ぼくは、食わず嫌いだったカンフー映画の面白さを知ったし、先生は先生でアート映画の構図の美しさに感動していた。際どいシーンや台詞になると、お互いソワソワしたりなんかして。 先生が職員会議などで、鑑賞会がつぶれたりすると、ひどく寂しかった。まるでカップルみたいだった。 変な噂になるかも知れない、とぼくは心配したが、先生は、 「堂々としてりゃいいのよ」 と平気でいた。 心のどこかで、ぼくとの関係を楽しんでいたのかも知れない。「トップガン」の教官ケリー・マクギリスと教え子のトム・クルーズみたいだ、と。 冬の或る日、ぼくと先生はとうとう一線を越えてしまった。 名作と謳われているテオ・アンゲロプロス監督の「旅芸人の記録」という映画を観ていて、あんまり退屈だったから、ふざけて手を握り合い、身体をまさぐり、髪を撫で、口づけを交わし―― アンゲロプロス監督には本当に感謝している。 「あなた、どことなくトム・クルーズに似てるわね」 と先生は言った。 「先生もケリー・マクギリスにそっくりだ」 恋は盲目、平安顔も欧米美女に見える(ぼくも相手のことは言えないけど)。 「先生なんて呼ばないで」 そうまさしくこの日、「顧問の綿貫先生」は「恋人の範子」になったのだった。単なる性の対象から、愛しい想い人へ。 まさか教師と恋仲になるなんて、考えもしなかった。 範子にしてみれば、ちょっとした「火遊び」のつもりだったに違いない。そう思っていたが、付き合ってみると、範子は結構真面目だった。 ぼくも範子との恋に溺れた。 範子の方はやはり大人だ。交際をはじめるとなると、 「これからは学校の外で会おうよ」 と恋の舞台を校外に設定した。なにしろバレたらクビだ。 文化祭で発表するムービーのロケだ、とうるさい向きには言い訳して。 ぼくたちはこの「完全犯罪」をやりおおせていた。 デートして、食事して、セックスした。シーツの上に長い髪を這わせ、乱れる範子ときたら、それはもう――。ちょっと前まで童貞だったことも忘れ、ぼくは範子の肉体にのめり込んだものだ。 一応、「証拠」として、「映画」も撮った。ぼくがカメラマンで範子が主演女優だ。 範子に線路を歩かせて、それを延々ビデオカメラで撮影した。或いはカフェでコーヒーを飲んでいる姿だったり、ヘンな神社の石段をのぼるところだったり、適当にフィルムに収めた。 調子に乗って、 「はい、じゃあ脱いで〜」 とポルノ映画になりかけたが、 「いや」 と範子に笑いながら斥けられてしまった。 しかし、こんな活動で学校から活動費を出させているのだから、範子はかなりの「悪女」なのかも知れない。 ちなみに3年になって初めて彼女の授業を受けたが、教室では先生面して、 「ボケッとしない!」 とか、 「やる気がないのなら出ていきなさい!」 とか、ことさらに叱責してくる。カモフラージュが過ぎて、 「綿貫先生、お前にばっか厳しいな」 とかえってクラスメイトに訝られてしまっていた。 まぐわいながら、 「なあ、世界史の成績、なんとかならない?」 と頼んだりするが、 「ダメ、ちゃんと勉強しな」 と撥ね付けられてしまった。 でもテスト問題はコッソリ教えてくれる。やっぱり悪女だ。いや、ぼくが範子を悪女にさせているのだろうか。 受験が近いので、会うのは控える。 「あたしのせいで受験失敗させたら、それこそ教師失格だからね」 と範子は自分に言い聞かせるように言う。 それでもなんとかデートの時間をひねり出す。 フェイクの「自主制作映画」のフィルムもたまっていく。 最初は投げやりかつ面白半分だったけれど、段々熱を帯びはじめる。 範子と海に行ったときなど、範子の砂浜を歩かせたり、走らせたり、波打ち際でハシャぐ演技をさせたり、海に沈む夕陽に向かって叫ばせたり、しまいには範子が、 「撮影はもういいよ」 と呆れるくらい熱中してしまった。「映像作家」としての自我が芽生えてきていた。文化祭が楽しみだ。 「Boy Meets Girl」が日本で封切られたのも、同じ夏だった。 割合本格的なラーメン屋で醤油ラーメンを食べた。支払いはやっぱり範子。早く大人になりたい。範子にフランス料理のディナーをごちそうできるくらいの大人の男に。 ぼくは「Boy Meets Girl」のシークエンスをひとつひとつ思い返していた。 印象深いところは色々あったが、なかんずくぼくが心惹かれるのは、ヒロインのミレーユが髪を切るくだりだ。 彼氏との恋をあきらめたミレーユが、自殺を思いとどまり、長かった髪をショート、それも坊主頭と見まがうほどのベリーショートに切ってしまうシークエンス(その直後に主人公と「出会う」)。どういうわけか、ぼくのアレはこの場面で、ムクムクと隆起してしまった。 少年みたく髪を短くしたミレーユが妙にエロく感じた。切る前を知っているから尚エロい。他の映画でもこういうシーンでこういう気持ちになることがある。どうやら、ぼくの中には奇妙な性的嗜好があるらしい。 範子の髪を見る。晩夏の風にたなびく長い髪を。 範子には遅刻癖がある。しょっちゅう待ち合わせの時間に遅れてくる。これでよく教師が務まるな、と呆れる。 以前、範子がまた遅刻をやらかし、 「ごめんね〜」 と謝って、ぼくは何の気なしに、 「次遅刻したら、髪の毛ショートな」 と言ったら、範子はギョッと顔をこわばらせた。激しい衝撃を受けたようだった。範子のあの表情(かお)は今でも忘れられない。 そのくせ、範子はそれからも遅刻を繰り返した。まるで髪を切るというお仕置きを期待しているかのように。勿論ショート云々はあの場限りの冗談のつもりだったので、ぼくはそのことを持ち出しはしなかった。が、心なしか範子はアテが外れたように見えなくもなかった。 でも、まさかここまで伸ばしたトレードマークのロングヘアを、バッサリ切りたいはずもなかろう。当然だ。ありえない。 カローラはぼくたちの生活圏に入った。まだ7時台だ。 ぼくは罪深い欲求を実現したくなった。実現不可能と承知した上でだ。 「範子」 「うん?」 「頼みがある」 「宿題は手伝わないよ」 「違う。そんなことじゃない」 「じゃあ何?」 「聞いてくれるか?」 「何でも聞いちゃう(はぁと)ってわけにはいかないわね。内容によるかな」 「なら、やめとく」 「何よ、それ、男でしょ、一度口にしたことを簡単に引っ込めないの」 「う〜ん」 「何よ、頼みごとがあるなら言うだけ言ってみなさい」 ぼくは意を決して、映画のパンフレットをひろげ、ベリーショートのミレーユのショットを指でさし、 「こういう髪型にして」 とお願いした。 「え?!」 範子は動揺のあまり、赤信号を見落としてしまうほどだった。あやうく事故を起こすところだった。 怒りのクラクションを背に、 「ごめん。今の話はウソウソ。なかったことにして」 「……」 「大体こんな時間じゃ美容院は店じまいしてるだろうし」 しかし、範子は、 「まだ開いてる美容院はあるよ、この近くに」 ――ええー?! ひょっとして範子、髪切りたいの?! ぼくは範子の気持ちがわからず、困惑した。嬉しいことは嬉しいのだけど、戸惑いの方が大きかった。 「かなり前に一度行ったきりなんだけどね、毛先整えに」 と範子は財布の中から、その美容院のポイントカードを出して、ぼくに渡し、 「予約入れて」 「あ、ああ」 ぼくは自動車電話の受話器を持ち上げた。手が震えていた。 美容院はやや繁華なところにあった。 小ぢんまりとした瀟洒な店構えだ。駐車場もある。 予約はあっさり取れ、四十代くらいの美容師がぼくたちを待っていた。 むしろ範子の方が積極的になっていた。ぼくは従うように範子の後ろにくっついていた。情けない話だ。 それから、ぼくらは映画のパンフレットを見せて、代わる代わる要望を伝えた。ぼくも範子の側頭部に指をあて、ここは短く刈り込んで、などと説明した。 美容師はロングヘアの範子に怯んで、いきなりベリーショートにするより、一旦ボブぐらいにしてはどうかと提案してきたが、範子はぼくと彼女の要望を押し通した。中途半端が嫌いな範子の面目躍如だ。 美容師も折れ、断髪の準備をはじめた。 まずはシャンプー。 それから、カット台に移動して、範子の断髪式が行われた。 美容師は最初にレザーで、範子の長い髪を削ぎ落していった。 シャッシャッシャッ シャッシャッシャッ 丈長き黒髪は次々とケープに落ち、範子の身体の傾斜に沿って、ザァー、バサバサと床に降り積もっていく。 範子は神妙な面持ちで、鏡を見据えている。普段の明るさや軽やかさは、すっかり影をひそめている。 美容師は一見無造作に、でも的確に、範子の頭から髪を切り捨てていく。 長い間、伸ばされ保たれ、綺羅を飾ってきた彼女の女の命が床に散乱している。 一時的にオカッパへと変貌していく範子。 ぼくの脳裏に閃くものがあった。 「範子、車のキー貸して!」 「なんで?」 と尋ねる余裕もないまま、範子はぼくに車のキーを渡した。 車の中から撮影用の機材を引っ張り出し、店へと取って返す。 ビデオカメラを向けられた範子は、 「ちょっと、何撮ってんのよ〜」 とあわてていた。「主演女優」のクレームを無視して、監督兼カメラマンは撮影を続行する。 美容師もビックリしていたが、皆、三者三様、目の前のことに没頭する。 左右に分けられていた前髪がカットされる。 鋏で額が丸出しになるくらいに切り詰められる。美容師はコームを動かし鋏を動かし、ギリギリまで切る。この短すぎる前髪をベースにして、全体の長さが決まるのだ、といった意味のことを美容師はレクチャーしてくれた。 「これだけ量切ったの初めてだわ。切り甲斐あるわ〜」 美容師の声は弾んでいる。ぼくと範子をチラチラ交互に見て、 「失恋てわけでもないんでしょうね」 「彼のリクエストで」 範子はちょっと誇らしげだ。 美容師はぼくに、 「お兄ちゃん、この彼女大事にしなよ。男のために、ここまで切ってくれる女の人なんて、なかなかいないよ」 美容師の言う通りだ。ここまで範子を愛おしいと思ったのははじめてだった。 肩の長さに切った髪を、美容師は熟練の手さばきでブロッキングして、襟足が丁寧に刈られた。 襟足は首の半ばまで揃えられた。うなじが覗く。ぼくは、ゴクリと唾を飲みこむ。そのうなじに舌を這わせたい衝動に駆られる。どうやら、ぼくはうなじフェチでもあるらしい。 カメラもズームでうなじに寄る。 チャッチャッ、と鋏は軽快に鳴り、続いて右の髪にカットは移る。 髪はガッと刈り込まれ、耳の周りをグルリとカットする。かわいらしい耳がピンッと出る。 美容師は真剣な表情で、カットの跡を確認しながら、鋏を動かす。 ジャキッ ジャキッ ふっと「Boy Meets Girl」を思い出す。あの映画の中で鋏は二度、重要な役割を果たす。一度目はミレーユの髪を奪い、二度目はミレーユの命を奪う。 なんだか不穏な気持ちになる。 ――あの鋏が範子の胸に……グサリッ…… そんな奇天烈な妄想をするぼくを放って、鋏は今度は左の髪に、ザクザクと喰らいついている。 大胆に刈り詰め、また耳の周りを切って、左耳がポロリ。 ぼくは自分でも驚くくらい巧緻なカメラワークで、そのさまをフィルムに収めていた。 範子の耳、少し赤い。範子も昂(たかぶ)っているのだろう。 ブロッキングされた髪が解かれ、バラリと切られた部分を覆い隠す。うなじも耳もまた見えなくなった。 それらの髪どもも美容師は的確に躊躇なく、注文通りに切り落としていく。 いつしかケープの首周りは、細かな髪が散るだけ散って、真っ黒になっていた。床の惨憺たる有様も言わずもがなだ。 範子の目に光るものがあった。それはそうだ。長年のパートナーを、一夜にして失うのだから。だが、気丈な範子はさりげなく涙を拭い、毅然と鋏を受ける。 美容師が言う。 「お兄ちゃん、あんた幸せ者だよ」 本当だ。 平安顔の周りから、黒い物がサワサワと消えていく。 範子の髪は、極限まで切り込まれた。9割以上の髪が落とされた。切り終える頃にはもう9時近くになっていた。 ジャブジャブと短い髪が洗われ、ドライヤーで乾かされた。 ミレーユと同じ坊主頭に近いベリーショートに、範子はなった。 髪以外は、違った。 範子は典型的な昭和女で、いわゆる寸胴、手足も短い。小柄なのが救いと言えるが、端正なマスクとスレンダーなボディのミレーユとは似ても似つかない。 でもぼくは思う。 「ミレーユよりずっとずっと魅力的だよ」 と。 「ウソつけ」 範子は不機嫌を装って、ぼくを試している。 「本当だよ。長い髪の時より好きだ」 ぼくは範子を力いっぱい抱きしめた。その頭にあごをのせた。範子の強(こわ)い髪の先があごをチクチク刺す。 「おお、お二人さん、お熱いね〜」 と美容師に冷やかされ、ぼくたちはあわてて身体を離した。 「ずっと切りたかったの、長い髪」 帰りの車中で範子は打ち明けた。 「だけど、踏ん切りがつかなくて。だから、彼氏に”切って”って背中を押して欲しかったの。でも今までの彼は皆、”綺麗な髪だね”とか”絶対切っちゃダメだぞ”とか、ひどい人になると”髪を短くしたら美的価値が激減する”的なこと言われて、あたしって長い髪以外何の魅力もないのかなぁ、って自信が持てなくて、それでますます切れずにいたの。”切って欲しい”って言ってくれたのは貴方だけ。まさか、ここまで短くするとは思いもしなかったけど――」 と苦笑して、 「でも、嬉しい」 最後に、笑顔で短い髪を撫でる範子をカメラに収めた。自主映画の撮影もこれにてクランクアップ。 夏休み明け、ベリーショートで出勤した「綿貫先生」に、校内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 範子を嫌っていた一部女子たちほど、きゃあきゃあ好意的にハシャいでいた記憶がある 「何があったんですか?」 と色んな人に訊かれて、 「ちょっとイメチェン」 と幸福そうに微笑む範子に、「失恋説」は吹き飛ばされた。 「この髪型、男ウケ悪すぎ。全然モテなくなったよ」 女子には評判いいんだけどな、とボヤく範子に、 「大丈夫、俺がもらってやるから」 「頼むゼ」 校内の死角でぼくたちは抱擁を交わした。 範子とぼくが付き合っている、という匿名の投書があったのは、夏休みが開けて二週間が経った頃だった。 なんとか言い抜けようとするぼくたちだったが、添えられた大量のツーショット写真を突きつけられては、ぐぅの音も出なかった。あと半年、秘密を守れていたら……。 範子は学校を辞めた。表向きは、家庭の事情で自主的に退職、という形で学校の体面は取り繕われた。 ぼくも厳重な処罰――退学も含めてだ――を覚悟していたが、短期間の停学で済んだ。 後で聞いたが、範子が懸命にかばってくれたらしい。自分が悪い、彼をそそのかしたのは自分だ、全ての責任は自分にある、彼の未来を奪わないで欲しい、と。 ぼくは必死で範子と連絡をとろうとしたが、駄目だった。彼女のアパートにも行ったが、もうすでに引っ越した後だった。住人をつかまえて訊いたら、故郷に帰ったらしいとの話だった。 範子はぼくのいる世界から、サヨナラも言わず消えてしまった。 無論映研も廃部になった。 しかし、ぼくは周囲の白い眼もお構いなしで、学校に通った。そして、学校の機器を使って、範子のフィルムを編集した。 何かにつり憑かれたように寝食を忘れ、ぼくはひたすら映画制作に没入した。映研がなくなって、もはや発表の機会を失ったフィルムをつなぎ合わせ、コラージュして、音楽を入れ、効果音を入れ、ナレーションを入れ、一本の短編映画に仕上げていった。 車を運転する範子。銘菓を頬張る範子。公園の鳩に餌をやる範子。電話ボックスから手を振る範子。オモチャのピストルの銃口をカメラに向ける範子。ぼくの指示通り小芝居をする範子。ぼくの指示通り際どいポーズをとる範子。駆ける範子。跳ねる範子。飛ぶ範子。長い髪を風になぶられる範子。髪を切る範子。短い髪で微笑む範子。 ぼくはあふれかえる感傷を懸命に抑え、フィルムを創造していった。ぼく以外誰も観ることのないフィルムを。 そして、出来上がった短編映画に「Boy Meets Girl Another」というタイトルをつけた。 ミレニアムだ、と盛り上がっていたのが、ついこの間のように思える。年齢(とし)をとったなぁ、と我ながらおかしい。 台風が近づいているらしい。 雨が降り始めたので、スタジオから直接駅まで、長女を迎えに行く。物騒な世の中だし。 長女は理系女子で、某大学で助手として、研究に打ち込んでいる。最近論文も学術誌に掲載された。研究者としての道を、着実に歩みつつある。それは慶祝だが、異性が苦手で、妙齢なのに浮いた話は全くない。多少心配だが、口出しは差し控える。 「お父さん、ちょっとコンビニ寄ってくれない?」 という姫のワガママにも、 「はいはい」 と従う。 この間メガホンをとった作品も、ようやく公開の目途がたった。四方八方飛び回った甲斐があった。世はまさに乱世、な昨今なので、映画監督だからって、偏屈ぶって孤高のカリスマを気取っているわけにもいかない。 試写会では、うるさ型の批評家先生たちも口を極めて絶賛してくれた。 まだまだ中堅。好きな題材を好きに撮らせてはもらえず、「何でも屋」だと自嘲していたが、先年一念発起して、数名の同志と独立プロを設立した。 すでに賞を獲ったり、国際映画祭に出品されている作品もある。順調な滑り出しだ。 「次回作のコンセプトは?」 と訊かれたら、 「こんな時代だからこそ、温かくてハッピーな映画」 と答えたい。 長女と帰宅。 「お帰りなさい」 と妻が玄関まで出迎えてくれる。夕食の煮物の匂いが鼻をくすぐる。 「Sさんから電話があったのよ」 と妻。 「次回の映画、出資を検討して下さるんだって」 との福音にぼくは思わず顔をほころばせた。 「よかったわね」 と妻も笑う。 大学生の次女と高校生の長男、まだ小学生の次男がリビングでテレビを見ながら、ワイワイ話している。炉べりの幸福。 「パパ、お帰り〜」 女優志望の次女はぼくにしなだれかかって、 「次のパパの映画、端役でもいいから出させて〜」 と売り込みをはかってくる。 「いいとも」 ぼくはうなずき、 「その代わり、うんと虐めてやる。最低でも50テイクは覚悟しとけ。キューブリック並みにな」 「パパのイジワル〜」 次女は脹れっ面。 「就活頑張れ〜」 と小学生の弟に野次られ、 「このやろっ」 とプロレス技で応じていた。 「オヤジ、なんだよ、それ」 と長男はぼくが手にしているディスクに目をとめる。 「次回作と関係あるのか?」 「関係あると言えばある……かな?」 遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、と前口上を述べ、 「これぞ俺が高校時代、初めて監督した映画だ」 今日スタジオで懇意の技術さんに頼んで、フィルムをデジタル化してもらったばかりだ。 「観たいだろう?」 「観たくな〜い」 子供たちは口をそろえる。生意気な。 「ええい、どけどけ、皆、本当は観たいんだろう?」 と強引に割って入って、ディスクをレコーダーにセットし、再生する。 「“Boy Meets Girl Another”? ベタなタイトルだなぁ」 「ちょっとダサいよね」 と子供らはクサしていたが、主演女優が登場すると、 「え? え? これってママ?!」 「母ちゃん、髪長ぇ〜!」 と目を丸くして、画面に見入っている。 ご飯よ、と呼びに来た妻――範子は、若き日の自分を見て、 「ちょ、ちょっと何よ、これ?! やめて! ストップ!」 とすっかりあわをくっている。が、 「お母さんかわいい!」 と褒められると、 「そう?」 と満更でもない様子。 「マドンナ先生だったからな」 「貴方、下駄履かせすぎよ」 あれからぼくは、結局、某美術専門学校に進学した。映画学科に籍を置いて、腕を磨いた。範子のフィルムがきっかけで、映画作りの魅力を知った。 そうして、偶然範子と再会した。別れてから三年、ぼくは二十歳を過ぎていた。 範子はベリーショートの髪をキープしていた。 「貴方のことが忘れられなくて……」 とうつむき気味にその理由を明かしてくれた。 「俺もだ」 と、ぼくは範子を抱き寄せていた。もう離さないぞ、と。 それから交際は復活し、やがて結婚、四人の子を授かった。 範子は下積み時代のぼくを支えてくれた。そして、現在は独立プロの社長として、ぼくを導いてくれている。 その内助の功があって、今の自分がいる。家族が在る。子供たちも生意気ながら、真っすぐ育っている。こんなにありがたいことはない。 「Boy Meets Girl Another」は佳境に入っている。 高校時代のぼくのナレーションが挿入される。 『「Boy Meets Girl」を観て感動したNORIKOは、ヒロインのミレーユと同じベリーショートヘアにしたいと熱望した』 「何よ、これ! 嘘よ! 捏造よ! お父さんが”ミレーユみたいな髪型にしてくれ〜”って泣きながらせがんできたのよ!」 「泣いてはいなかったぞ。そっちこそ捏造だ」 そして、範子の断髪シーン。娘たちは、キャアキャアと大仰に悲鳴をあげ、息子たちは、勿体ね〜、と真面目な表情(かお)で画面を見つめていた。父親の道は辿るなよ。こないだも雑誌のインタビューで、「監督の作品では必ずヒロインが髪をバッサリと切るシーンがありますが、これはどういった意味があるのでしょうか?」と訊かれて、いや〜、個人的な趣味ですよ、趣味、ってなんとか煙に巻いたんだからな。 「ママ、髪長い方がいい感じじゃね。また伸ばしなよぉ〜」 と娘たちに盛んにすすめられていたが、範子は短い髪に手をやって、 「さすがにもうこんなには伸ばせないよ〜」 「せめてボブくらいに」 と食い下がられ、 「もうこの長さに慣れちゃったからね。さあ、ご飯よ、ご飯。支度手伝って」 そそくさとキッチンへとひきさがっていった。 ラストは、 『この映画を最愛の人、範子に捧ぐ』 との献辞がテロップで出るが、範子はもう台所に。子供達には散々冷やかされた。冷やかしつつも息子や娘らの表情は明るかった。 ――今度は夫婦水入らずで、こっそり観るか。 そう、あの第二視聴覚室の二人に戻って、「あの頃」のことを妻と一緒に色々話したい。 もう、たまには思い出話にふけってもいい年齢(とし)だろう。 (了) あとがき 今回最後のアップロード作品です。やっぱ80年代はいいやね〜(と言っても主人公は作者より上の世代ですが)。 迫水は十代の一時期、友人たちと映画を撮っていたので(結局完成したのは一本だけなんですけど)、当時を懐かしく思い出しつつ書きました。 ここ二三ヶ月映画ブームがきていたので、「タランチュラ」と本作はその産物です。過剰とも言えるハッピーエンドもハリウッド映画に倣いました。 本当は小さくまとまるはずでしたが、書いてるうちに話があちこちに転がって、かなりの長尺に(汗) 迫水作品で繰り返される年上女性のバッサリ、今回もそんなお話です。 ほんと、恋愛モノは苦手です。……って十五年前から同じこと言ってるなあ(大汗)。全然成長してへん。。 「Boy Meets Girl」は通して観たのは、実は一度きりです。それも大昔に。今回の小説を書くにあたって、再見しようかなとも思ってたんですが、あの映画、ミレーユ・ペリエのバッサリ変身がエグいくらいツボすぎて、ストーリーを冷静に楽しめないんだよな〜、と迷っているうちに小説ができあがちゃった(^^;) ちなみに断髪シーンはありません(そこがまた想像をかきたてるんですね)。>「Boy Meets Girl」 暇を持て余している方、いらっしゃったらチェックしてみて下さい。ミレーユがヘアメイクさんに髪切ってもらってるメイキング映像とかあったら、是が非でも観たいです!! ちょっと調べたらミレーユ、実生活ではカラックス監督の恋人だったらしい。監督、ベッドで説得したのかよ、コノヤロウ! えー、リクエスト企画なのですが、そろそろやりたいと思います! 当サイト、ちょっとヤバいかも知れません。 今年末か来年初くらいにネット環境が大幅に変わるので、もしかしたら、更新を続けられない可能性もあります。 本当にギリギリの状態でやっているサイトなので、結構脆いんですよ。。 なので、予定よりちょっと早めにリクエスト企画開催します! 詳しいことはまた後日、発表しますんで、ひとつよろしくお願いいたしますm(_ _)m |