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北条政子のヘアドレッサー


 鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」には、何故か幕府の創始者・源頼朝死去の前後の記事が、3ヶ年ゴッソリと欠落している。 この「空白期」を舞台に、以下の物語は進行する。



 庭にて。

「乙姫(おとひめ)様、本当にいいんですか?」

と時男は、この長い長い黒髪の主に確認せずにはいられない。

「よいのじゃ」

 首からケープを下げ、腰掛に座っている乙姫は、快活に答える。まだ、あどけない顔を笑ませて。

 が、侍女たちは、乙姫がこれからしようとしていることの恐ろしさに、一様に顔を硬くしている。

 ただ一人、乙姫の母である政子(まさこ)だけは、微笑を浮かべている。時男と目が合うと、

「よいのですよ」

とゆったりうなずいてみせる。

「乙姫の意のままにさせてあげて下さい」

 このお方が首肯しているのだから大丈夫だろう。何せ、政子はこの国の「ファーストレディー」なのだから。

 晩夏の光と熱の中、時男たちは居る。

「時男、疾う、疾う!」

と苛立たしげにせがまれ、時男も、ええい、やってしまえ!と度胸を据えた。あとは美容師の矜持のみが、彼を突き動かす。

 カット鋏を握り、地に這うほどの乙姫のロングヘアを挟み込み、

 ザクリ!

といった。

 切った髪は、かしずく侍女の一人が、サッ、とキャッチして盆の上にのせる。

 ザクザク、と鋏は乙姫の右の髪を、肩上でスッパリと断って、そのまま後ろの髪を同じ高さで切り、そうして左の髪を圧し切って、まずはボブカットに仕上げていった。

 こんな大量の髪を切ったのは、時男にとって初めての経験だった。

 ――まさか、鎌倉時代のお姫様のヘアカットをすることになるとは……。

 しかも、ただの姫ではない。

 天下の覇王である源頼朝の、今は唯一の娘だ。

 小学生の頃、修学旅行で見た華厳の滝のように、長い髪がケープを伝い、ザアアァ、ザアアァ、と絶え間なしに流れていった。

 勿論それらは、侍女に巧みに拾い上げられ、盆の上に積み重なる。

 長めのボブにした髪を、ヘアクリップで仮留めする。

 そうやって、内側の髪を短く詰めていく。

 チャッチャッ、チャッチャ、と鋏が鳴る。

「よき音(ね)じゃの」

 乙姫は無邪気に笑う。彼女は最近、健康がすぐれずにいる。青白い笑顔は儚げであり、痛々しくもあった。

 チャッチャッチャッチャ、

 乙姫の髪は丁寧に摘まれる。時男は精一杯施術した。

 チャッチャッチャッチャ、

 チャッチャッチャッチャ、

 そして、ブロッキングした髪を解き、バッ、と短い髪に覆いかぶさるのを、切り詰めていく。

 ジョキジョキ、ジョキジョキ、ジョキジョキ、

 時男は完全主義なところがあり、未来で美容師をやっていたときも、自分のカットになかなか納得がいかないことも多々あったが、今回の乙姫のカットは会心の出来だった。

 全体を、乙姫所望のショートボブの形に造っていく。

 ジャキジャキ、ジョキジョキ、

 耳が半分出るほどに切る。

 前髪も短く作る。前髪ありにしようか、無しにしようか、ちょっと考えたが、ありにした。

 額で分けているのを、眉上でカット。大胆に横に切り、繊細に縦で切る。

 シャギーも軽く入れてみた。きっと乙姫は、髪にシャギーを入れた日本史上初の、いや、世界史上初の女性だろう。

 襟足はうなじが覗くくらいに切った。

 大小の髪がケープに散っている。

 乙姫は見事なショートボブになった。

 もし21世紀に生まれ合わせていたならば、周囲の男子から熱い視線を集める学園ヒロインになっていたに違いない。

「さあ、シャンプーをしますよ」

「おお、“しゃんぷう”か!」  

 乙姫は目を輝かせる。

 用意のぬるま湯に髪を浸し、シャンプーでゴシゴシと洗って、すすぎ流す。頭皮のマッサージもしてやった。

 乙姫は気持ち良さそうに、目を細めている。

 シャンプーの香りについては、この時代の人々の鼻には、適う適わぬがあるのだが、乙姫には適うようで、

「得も言われぬ香りじゃ」

と莞爾と笑う。やはり、あどけない。満年齢ではまだ12歳の少女だ。

 洗髪を終えるとドライヤーを、といきたいところだが、電気のない時代、夏の太陽で乾かす。扇で風を送りながら。

 そして、ヘアワックスで、毛先をちょっと遊ばせる。

「時男、大儀であるぞよ」

 乙姫は至極満足そう。

 時男の美容師魂も充足する。

 そこへ、

「これは一体何事ぞ!」

 大音声が轟き渡った。

 縁に頼朝が立っていた。怒りで頭の血管がブチ切れんばかりの、凄まじい形相だった。

「そこな下郎!」

と怒りの矛先は時男に向けられる。

「ははー」

 冷や汗三斗、かしこまる時男に、

「汝(うぬ)は己のしたことがわかっているのかッ! この慮外者めが! 成敗してくれん!」

と佩刀を引き抜いた。

 頼朝の怒りも当然といえる。この時代、髪を切る、という行為は、世を捨て出家するということを意味する。時男などが出る幕のない時代なのだ。

 ――ああ! やっぱりこうなるか〜!

 美容師のプライドも引っ込み、時男は、

「すんません! 悪気はなかったんです! どうかご勘弁を〜!」

と平謝りに謝る。

「父上」

 乙姫もとりなす。

「ワラワが無理を申して、時男に髪を切らせたのです。何卒ご容赦下さいませ」

「ええい、聞く耳持たぬ! 乙姫、そなたには帝の后(きさき)になるという自覚がないのか! それとも、この父への面当てか!」

 頼朝は端正な顔を歪め、怒り狂っている。

「下郎、そこへ直れッ!」

と庭に飛び降りた。

 ――ああ〜!

 時男は泣きそうになった。

 ――オレの人生もこれまでか……

「あなた」

 政子が夫を制した。その眼光に、頼朝も怯む。ややクールダウンして、振り上げた太刀をとめた。

「時男は私に仕える者です。あなたと言えども勝手にその命を奪うことは許されませんよ」

 いつもながら政子は凛としている。

「ええい、そなたまで妙チクリンな髪の形をしおって!」

 政子の髪も、時男が今朝、巻いてやったばかりだ。ヘアアイロンがないので、火箸を炭火で温めて代用した。

「それは女子(おなご)ですもの、身を飾りたいと思うのは自然の情ですわ。ミライの髪の形もなかなか趣があって、良き気晴らしとなりますわ」

「だからといって、乙姫はどうするのだ。そんな尼削ぎ(おかっぱ)で入内はできまい」

「カモジ(かつら)を使えばよいでしょう」

 政子は平然と言う。

「乙姫もこの頃は気が塞いでいるのです。鎌倉にいる間は望みのままにしてやるのもよいではありませんか。私は乙姫にまで、大姫(おおひめ)のようになって欲しくはありませんからね」

「…………」

 大姫の名を聞いて、頼朝は黙った。

「もはや是非を申してもはじまりませんわ。この者の首を刎ねたところで、乙姫の髪はすぐには伸びませんもの」

「なんたること、なんたること……」

 頼朝は頭を抱え、

「薬師を呼べ。歯が痛うてかなわぬ」

と奥へと引っ込んでしまった。

 ――助かった……

と思ったら、時男はヘナヘナと尻餅をついた。

「時男、すみませんでしたね」

「怖かった〜」

 腰を抜かした時男に、政子は小娘のようにコロコロ笑った。出会ったばかりのときには泣いていた政子だったが、いつしか本来の明るさを取り戻していた。

「そなたは臆病ですね」

「戦争のない国から来たので」



 そう、芳山時男(よしやま・ときお)は21世紀の日本から、この鎌倉の世に来た。

 業界ではそこそこ名の知られた地元のカットハウスで、美容師をしていた。

 父も理髪師だった。

 その父は時男が美容師になったのを見届けるようにして逝った。まだ五十代の若さだった。

 時男は店でメキメキと頭角をあらわした。技術も接客も素晴らしく、また美男子の彼を指名する女性客も数多いた。

 調子に乗り過ぎて、新入り――たしか甲本隆太(こうもと・りゅうた)といった――をいじめて、殴られたこともあった。今は反省している。

 段々、仕事に嫌気がさして、店を欠勤するようになった。手を抜くようにもなった。

 そんなとき、店の出張サービスで、

「メンドくせえなぁ」

とボヤきつつ、車で隣市に向かっている途中、車が謎の光に包まれ、気が付けば見知らぬ地にいた。

 最初に、

 ――空気旨っ!

と思った。こんなおいしい空気は、シティーボーイの時男にとっては初めてだった。

 立ち並ぶ中世の家屋、映画のセットかと思った。行きかう烏帽子や直垂、小袖姿の侍や庶民も映画のエキストラかと思った。それにしては、街も人も「現代の匂い」がなさすぎた。面相も背丈も身体つきも異風であった。

 彼らにしてみれば、カットシャツにジーンズ、ピアスをあけ、茶髪の時男の方が異風だったろう。

 ジロジロ見られ、その視線を避けて、人のいない方いない方へと時男は歩いていった。

 そこで、彼女と出会った。

 池の端に彼女はいた。

 池は小さかった。水面には水連が浮いていた。

 池での出会い、まるで「三四郎」みたいだ、と時男は元カノにすすめられて読んだ漱石の小説を思い出した。

 その美しい人は、水辺に佇み、水連を眺めるともなく眺め、身じろぎもせずにいた。服装から、身分の高い女性らしい。

 時男はその人に強く惹かれた。理由はわからない。が、無性に慕わしく思えた。

 彼女は泣いていた。両眼から涙を流し、頬を濡らしていた。

 侍女らしき女性と侍姿の男が彼女を見つけ、駆け寄ってきた。

「御台様」

と侍女は彼女を呼んだ。

「ここにいらっしゃいましたか。探しましたぞ」

「たまには一人にさせておくれ」

「また大姫様のことをお思いですか。そのようにお嘆きあそばしますと、大姫様の後生の障りになりますぞ」

「わかっています。わかってはいるのです。しかし、我が心は、我が意をもってしても、どうにもできないのです」

 美しい人がそう言った瞬間、

「あっ!」

 時男は足を滑らせ、池にはまってしまった。

 ザブウゥゥン!!

 侍女と侍の表情(かお)に、サッと緊張が走る。

「曲者!」

「い、いや、怪しい者じゃありません!」

 時男は溺れながら身の潔白を訴えた。

「た、助けて! オ、オレ、泳げないんです!」

 バシャバシャともがく時男に、

「うふふ」

と美しい人は笑い、そうして、

「助けておやり」

と侍に命じた。

 侍は不承不承時男に手を差し伸べ、池から引っ張りあげてやった。

「珍妙な装束をしていますね」

 美しい人は一転、不敵な表情(かお)になった。いたずらっぽい目つきをしている。元来好奇心の強い性質(たち)なのだろう。

「風邪をひきますよ。身寄りがないのなら、我が館へ参りなさい」

 そう言って、その人はクルリと踵を返した。時男は不得要領顔の侍女や侍と一緒に、その人の後に従った。

 それが政子との出会いだった。



 時男は政子から一室を与えられた。

 真新しい着物や食事も与えられた。

 居候生活のはじまりだ。

 尾張国から流れてきたという善ショウ坊(せんしょうぼう)なる僧と相部屋だった。

 年は四十くらいだろう、額が前にせり出して、大目玉で、下唇のぶ厚い剽げた面相の善ショウ坊は人恋しかったらしく、聞かれもせぬのに、昼酒で口を湿しながら、政子やその夫頼朝についてあれこれ語った。

「今は喪中でな」

と声をひそめ、

「鎌倉殿(頼朝)の御長女の大姫様が、ついこの間身罷られたのよ」

「そうなんスか」

 時男は政子の池での涙のわけがわかった。

「大姫様はおかわいそうな女人でのう」

 かつて最愛の許嫁を、政治的な理由で父の頼朝に殺された。大姫がまだ七つの頃である。

 それ以来、大姫は心を閉ざし、病の床についてしまった。

 頼朝や政子が縁談を持ってきても、けして首を縦に振らず、自分の殻に閉じこもり続けた。

 平家を滅ぼし、義経を討ち、奥州を平らげ、鎌倉幕府を樹立した頼朝だが、新たな野望に熱中し始めた。

 それは、かつての藤原一族や平家のように、天皇家と縁続きになることだ。

 野望の実現のため、頼朝は大姫を手駒にしようと思い立った。

 即ち、大姫を今上帝(後鳥羽天皇)の后として宮中に入れようと、京都政界に運動し出したのだ。上洛し、多くの公卿と接触し、入説し、密約を交わし、賄賂をバラまいた。

 だが、その努力も空しく、大姫は病が嵩じて帰らぬ人となった。まだ二十歳の若さだった。

 政子は幸薄き娘の死に、悲嘆にくれた。毎日泣き暮らした。

 そんなとき、時男と邂逅した。

 毎日のように時男を召し、彼の話を聞きたがった。

 二日経ち、三日経ち、七日経つうち、時男は、自分が鎌倉時代にタイムスリップしてしまったという事実を、受け容れざるを得なかった。

「そなたは何処(いずこ)から参ったのですか?」

と政子に問われ、

「未来から来ました」

と正直に答えたが、政子は「ミライ」という国があると勘違いして、

「ミライ国について教えておくれ」

 問われるままに、時男は話した。自動車のこと、飛行機のこと、電気のこと、携帯電話のこと、議会政治のこと、コンビニのこと、etc……

 政子は聡明な女性だったが、その聡明さをもってしても、未来世界を理解するのは困難だった。時男が説明下手というせいでもあった。いや、鎌倉時代の人間にインターネットについて理解させろというのが、土台無理な話なのだ。

 ペテン師だ、と時男を誹謗する者も多い。

 が、政子は信じた。

「ミライとは面白きところですね。私も行ってみたい」

ともの思わしげに言った。

 時男は黙っていた。彼自身が未来に帰られる可能性すら皆目わからないのだ。



 政子の許で居候生活を送っていたある日、政子は時男をからかって、

「私の恩に報いたければ、ミライ流の施しをなさい」

と軽口を飛ばしたことがあった。

「うーーん」

と時男は生真面目に考え込んだ。

 そして、未来から彼と一緒にタイムスリップしてきた美容道具一式のことを、思い出した。

 ――そうだ!

と豁然思いたった。

 早速、政子にシャンプーとトリートメントを施した。

 奥の一室で、侍女や侍の監視のもと、わかした温水で政子の髪を洗った。政子の首にはシャンプー用のケープを巻いた。

「泡が出るので目を閉じていて下さいね」

という時男の言葉に、政子は素直に従った。時男に頭を委ねた。

 この時代、男性も女性も滅多に洗髪しない(それどころか入浴もしない)。だから、政子も侍女らも丈長き黒髪に、香を焚きしめ匂いをごまかしている。侍女の中には、脂っぽかったり、フケだらけの髪の持ち主も何人かいた。

 政子の長い髪には、大量のシャンプーが要った。

 白く泡立つ黒髪に、

「これは面妖な!」

「大事ないであろうな」

 周りの者は怪しんだ。

 時男は力と心をこめて、政子の髪を洗った。

「よい気持ちです」

と政子は目を瞑り、恍惚としている。

「不思議な香りですね」

とも言った。

 自然乾燥させた髪に手をやり、

「こんなに心地よき洗髪は初めてです」

と小娘のように目を輝かせていた。



「いくら将軍家の御台様とは言っても、根を洗ってしまえば、伊豆の田舎土豪の娘だからの」

と善ショウ坊は相変わらず濁り酒をあおりながら、床に大あぐらかいて、彼の政子評を弁じ立てている。

「これはけして悪口(あつこう)ではないぞ」

と言い訳して、

「卑賎の出ゆえ、下情に通じていて、気取りがなく、情け深く、素直で闊達、珍しい物好きの御性分なのさ」

「はあ」

 時男にとっては、北条政子とは、日本史の授業で習った「尼将軍」のイメージしかない。その生涯についても、全く知らない。

 確か、承久の乱のとき、一席ぶって鎌倉武士を奮起させたというエピソードが、頭の片隅にあるのみだ。

 こんなことなら、大河ドラマ枠で放映していた「義経物語」を観ておけばよかった、と軽く後悔したりもしている。

「あのぅ、承久の乱ってまだ起きてないっすかね?」

「承久の乱? なんじゃ、それは?」

「いえいえ、こっちの話ッス」

 まだみたいだ。

「それにしても鎌倉殿の執念深さよ」

と善ショウ坊は酒臭いため息をついた。

「大姫様御逝去の後は、その妹の三幡(さんまん=乙姫)様を天子様に嫁がせようとなさっておる。三幡様はまだ十三の女童じゃというのに……。そんなに朝廷と結びつきたいものかねえ。御家人どもは皆首をひねっておる。近頃では弟君の蒲殿(範頼)や御一門の一条殿も次々と誅されて、どうも人間、天下を獲ると耄碌するらしい。平家の清盛入道と同じ道だね。おっと、口が滑った。今話したことは他言無用ぞ」

「はい。大丈夫っす」

「どうも、そなたの間抜け顔を見ると、こっちも口が軽くなる。ついつい、いらざることまで、しゃべってしまうわい」

「あははは(汗)」

 シャンプーの件以来、政子の時男への寵は、ますます深まった。大姫のことで受けた心の傷を癒すかのように。

 時男もあれこれ工夫して、火箸をヘアアイロン代わりに使って、政子の髪を巻いてみたり、大姫の死後から目立ってきた白髪を染めたりしていた。

 娘の乙姫(三幡)も時男になつき、母親と同じように彼女の髪をいじってもらいたがった。

 乞われるままに、未来の髪型について話し、紙に筆で描いて説明してやると、

「ワラワもその“しょーとぼぶ”という髪にしてみたい!」

と言い出し、聞かなかった。

 時男が持て余していると、政子が、

「時男、乙姫の望みのままに」

と頼んできた。これには時男もビックリした。

 そうして、結局引き受ける羽目になり、頼朝の逆鱗に触れてしまった。

 後から考えてみた。

 何故、政子は乙姫の突飛な願いを聞き入れたのだろう、と。

 ひとつは頼朝への面当てだろう。

 政子は頼朝の宮廷工作に嫌気がさしていたのだろう。

 大姫入内の根回しのため、頼朝と共に上洛し、そこでまみえた海千山千の公卿連中に激しい嫌悪感をおぼえ、そんな中に可愛い乙姫を放り込むことを望まない母心もあったのだろう。

 同時に、朝廷に数多いる反武家政権派が乙姫入内を阻止せんと動き、全ては画餅に帰すだろうという政治眼も働いていたはずだ。

 ゆえに、頼朝の徒労とも言える行動を、大っぴらに諷してやりたかったのではないか。

 何より、乙姫は入内話以来、不安のせいか心労のせいか、亡き姉の如く、病身になりかけている。それを不憫に思い、できるだけ娘の希望を叶えてやりたくもあったろう。

 そして、そんなことなど見て見ぬふりをして、計画をすすめる夫を、政子はどんな目で見ていただろうか。



 ある日、館が慌ただしくなった。

 有力御家人たちが次々と参上し、行き交う侍女や郎党も顔を青ざめさせている。

 さながら合戦でも起きそうな物々しい空気が、館を包んでいた。

 何事かと事情を訊こうとしたが、皆、時男にかまけている暇はないといった様子で、黙殺され、時男は仕方なく自室の隅で小さくなっていた。

 善ショウ坊も朝からいない。この浮世の事象を知ること語ることが、三度の飯よりも好きな(この時代は一日二食だが)怪僧は館のあちこちを飛び回って、情報を集めているのだろう。

 食事も出ず、空腹だった。

 耐えかねて、ふたたび室の外へ。

 政子の姿が遠くに見えた。何かを侍女に命じていた。政子だけは常と変わらず、淡々と下々の者たちを取り仕切っていた。

 昼過ぎになって善ショウ坊が戻ってきた。厨(台所)からくすねてきた酒や食べ物を、

「お主も食え」

と時男にも分けてくれた。ありがたく頂戴した。

「一体何の騒ぎですか?」

と時男が不安そうに尋ねると、来たな、とばかりにニヤリと笑い、

「大きな声では申せぬが――」

と勿体をつけ、

「鎌倉殿が身罷られた」

と言った。

「ええっ?!」

 時男は仰天した。

「しっ、声が大きい」

「す、すんません」

と口をおさえるが、衝撃は大き過ぎる。天下の主が突如として消えたのだ。

「マジ死んだんスか?」

「ああ」

「悪い病気っすか?」

「以前から患っていた飲水病(糖尿病)のせいと申す者もいる」

 善ショウ坊は舌を振るいたい欲求に抗えず、

「落馬が元で死んだと申す者もいる。実際、先だって相模川の橋の落慶供養の帰路、落馬なさっておるからな。平家の怨霊の祟りだと言う御仁もいたなあ。中には朝廷より差し向けられた刺客の手にかかったのだと、訳知り顔で申す手合いもある」

 ペラペラと喋りたてた。

「それは、つまり、原因不明ということッスか?」

「なんの」

 善ショウ坊は胸を張り、

「真の理由は馬鹿々々し過ぎて、言うも憚られるわい」

 グイ、と杯を傾けた。

 善ショウ坊が語るところに寄れば、話は半月前に遡る。

 頼朝と政子が夜話の折、

 頼朝「鎌倉の御家人の中で一番イケメンて誰よ?」

 政子「畠山重忠じゃね」

と今風の口調に引き寄せてしまったが、そうした会話が交わされた。

 このやり取りの後、頼朝はヒゲや髪を畠山重忠風にして、若やいだ衣装を着、大男の重忠に寄せて、服の中に布を詰め、昨夜政子の寝所に忍び込んだらしい。

 新手のプレイだったのか、政子の貞操をテストするつもりだったのか、はたまた単なるドッキリ的趣向だったのかは、何せ当人がこの世にいないため、ついにわからなかった。

 確かなのは、怪しげな男が、ぬっと寝所に入ってきて、政子は賊が侵入したと思い、すかさず跳ね起き、

「長押から薙刀をとって、曲者め!と一振り、灯りを点けてみれば、鎌倉殿が血の海の中絶命なされておったそうな。女房殿に賊と間違われるは、鎌倉殿の天運も尽きておったのじゃな。アッハッハ、いかんいかん、こういうときに高笑いは禁物禁物。あらぬ疑いをかけられては身の破滅。しかし、天下の鎌倉殿が嬶殿に夜這いをかけて斬られたとあっては、未曾有の醜聞だからね。宿老連中も頭を抱えておるわい」

 時男は先ほどの政子の様子を思い出していた。

 違和感があった。

 ――まさか?!

 恐ろしい想像をして慄然とした。

「どうした? 顔色が悪いぞ」

 善ショウ坊が時男の顔をのぞき込む。どぶろくの強烈な匂いに、時男は思わず顔をそむけた。



 頼朝の遺骸はただちに荼毘にふされた。天下人のものとは思えぬ葬送だった。

 死因は「御病死」と公表されたが、口さがのない者たちは、

「実は落馬死だったのだ。武家の棟梁に似合わざる御最期かな」

と噂し合った。当局もその噂を黙認した。

 時男は完全に蚊帳の外だった。そっちの方が気楽でいい、と本人は思っていた。

 血の気の多い坂東武者の中には、時男のことを、

「あれは公卿方の回し者ではないか」

 斬るべし、と息巻く者もいたが、政子は彼らを諫めていた。



 頼朝の初七日を前に、政子は時男を召し出した。

「将軍位は嫡男の頼家(よりいえ)が継ぎますが、あの子はまだ幼く、未熟です。しばらくは私が御家人たちを束ね、幕府を支えます」

と政子は言った。

「その意を無言で示すためにも、華やかで荘厳なミライの髪の形にして、法会に臨むつもりです。そなたに任せますゆえ、その腕を振るって下さい」

 一方的に言い渡された。

 政子はすでに「頼朝以後」のことを考えている。よっぽど凡庸でない限り、政治家たる者はそうあるべきなのだろう。

 時男は大いに困惑した。

「そうおっしゃられても……」

 政子は珍しく焦れて、

「そなたは男子(おのこ)でしょう。いつもいつもかように煮え切らぬようで、どうしますか。ミライ男児の意気地を見せなさい」

 姉にでも叱られているような気分だ。

「わかりました」

 時男は一旦、退出すると、美容道具の入った鞄をまさぐった。

 そうして、カラーリング剤を使って、政子の髪をキンキラキンの金髪に染めあげてしまった。この作業には半日かかった。

「これは良い! 時男、恩に着ます」

と政子はいたく満足して、その金髪で法要に出で、御家人たちのド肝を抜いた。

「金色(こんじき)の髪とは、いやはや恐れ入った」

「平泉の金色堂を思い出すのう」

 頼朝の死を契機に、よからぬことを企てんとしていた輩も、毒気を抜かれ、沈黙した。

 政子の父で幕府の重鎮の時政(ときまさ)は、金壺眼をギョロつかせ、

「御台よ、なんたる髪じゃ。あのミライ国の奴めの入れ知恵か? 北条一族の顔に泥を塗るでない」

と苦虫を噛み潰したような表情(かお)をしていたが、政子は涼しい顔で、

「どうせ、すぐに剃ってしまう髪です。私の良きようにさせて下さいませ」

「そなたは恐ろしい女子(おなご)よのう」

「父上に似たのでしょう」

「口の減らぬ娘よ」

「政子殿の御髪(おぐし)が無くなっては、あのミライ国の小冠者も御役御免ですわねえ」

と時政の後妻で政子の継母である牧の方(まきのかた)はそう言って、ホホホ、と嫌味ったらしく笑った。

 時政も牧の方もこの六年後、政子によって鎌倉を追放されるのだが、その運命を知る者は、当事者を含め、まだ一人もいない。



 もうすぐ頼朝の四十九日だ。

 それまでに政子は亡夫の菩提を弔うため、髪を断って尼になるのが古来よりの習わしだ。

 当然、政子は時男に剃髪を依頼するつもりでいる。

「時男、よろしくお願いしますよ」

「あのぅ、クリクリの坊主にしてくれってことッスよね?」

「そうです」

「オレ、剃刀は扱えないんですよ」

「ミライ国には剃刀はないのですか?」

「あるにはあるんスけど、オレたちの仕事ではシェービングはできないんです」

「しぇいびんぐ?」

「剃髪等のことッス」

「ホウ」

「ってことで、今回は勘弁して下さい」

 正直、政子の髪を剃るのは嫌だ。剃刀を使えないでよかった〜、と美容師である身に、心から感謝した。

 しかし、政子は、

「そなたならできます」

 あっさりキッパリ言い切った。

 You can do it。言われて時男は絶句した。

 弱りきる時男に、

「落飾は明日の午に行います。頼みましたよ」

と政子は言い置き、金色の髪を翻し、座を立った。

 時男は腕組みして考え込んでしまった。

 ――「そなたならできます」……か……。



 例によって鞄をまさぐる。シェーバーはあるにはあるが、電気のないこの時代、使用は不可能だ。

 ――どうしよう……。

 頭を抱える時男。これでは、依頼主様の期待に応えられない。

 ――やんぬる哉。

と最近おぼえた鎌倉言葉を、心中漏らす。

 と、

 鞄をひっくり返すと、

 ゴトリ

と何かが落ちてきた。

 鈍い光沢を放つその物体を見て、

 ――こ、これは!

 バリカンだった。それも手動式の。

 亡き父の形見だった。

 小さい頃、イタズラをすると、このバリカンで坊主刈りにされたり、この角でガツンとやられたものだ。厳しい父だった。反抗したこともあったが、今はもう孝行したくてもできない。

 父亡き後、所有者のいなくなったこのバリカンを譲り受け、お守り代わりに道具鞄に入れていた。すっかり忘れていた。

 刃をチェックしてみたら、まだ使える。

 ――やってみろ。運命を切り開け。

とまるで父に背中を押された気持ちになる。

「…………」

 しかし、ひとつだけ確かめずにはおけないことが、時男にはあった。



 その夜、時男は政子の寝所に忍んでいった。

 警備は厳しかったが、屋敷の内部のことはよく知っている。うまいことすり抜けて政子の枕元に立った。

 闇の中、政子はパチリと目を開けた。闖入者の存在に気づき、

「時男ですか?」

 時男は肩をすくめ、不敵な微笑を浮かべた。

「やはり夜目がきくんスね。頼朝様同様、薙刀の錆になるかどうかの賭けだったんですが、オレの勘は正しかった」

「何の真似です?」

「この闇の中でオレをオレと判別できるのに、頼朝様を賊と見間違えたりはしないでしょ」

「…………」

「頼朝様が殺された朝、貴女の姿を遠くから見かけました。普段通り落ち着いてらっしゃった。つい前夜、間違いとは言え夫を斬り殺した妻とは思えなかった。だいぶ違和感がありました。そこから疑念が生じたんスよ」

 なんだか名探偵にでもなったような気分が、時男を饒舌にさせる。

「…………」

「政子様、賊と間違えた振りをして、頼朝様を手にかけましたね? きっと計画性はなく、とっさの思いつきだったんでしょうケド」

「鎌倉殿の晩節を汚したくはなかったのです」

と政子はあっさり白状した。

「鎌倉殿が死んで、皆幸せになったのです。乙姫も御家人も民も」

「貴女もですか?」

「訊かないでおくれ」

「じゃあ訊きません。でも、本当に皆幸せになったんですか? これからは平和な世の中になるんスか?」

 政子は黙った。やがて、

「父時政がすでに動き始めています。或いは鎌倉殿の死が、新たな騒乱の火種を生んでしまったのやも知れません」

 誤算でした、と政子は言った。途方に暮れたような弱々しい声音だった。こんな自信なさげな政子は、時男にとって初めてだった。

 新鎌倉政権は、政子を中心に有力御家人たちの寄り合い所帯となる。それらの中には、血の気の多い者もいる。腹に一物抱く者もいる。

「鎌倉は陰謀と粛清の渦巻く魔都になるやも知れぬ。ゆえに――」

 政子はキッと顔をあげた。

「私はもっともっと強くならなければなりません。鎌倉殿の…頼朝様の創られたこの幕府を守るために」

 不意に雲が晴れ、月明り、政子の顔が一瞬夜叉に見えて、時男は怯んだ。

「明日の剃髪はその覚悟を固めるためのものでもあるのです」

「わかりました」

 時男はうなずいた。

「政子様のお心のままに」

 しばらく沈黙があった。

 時男は跪き、政子の唇を吸った。政子はそれを受け容れた。

「政子様、初めて会った日からずっと貴女をお慕いしていました」



 翌日、時男は仏間にて、政子の髪を手動式バリカンで刈り落とした。

 首に散髪用ケープを巻かれた白衣の政子は、瞑目し、微動だにせず、断髪の刻(とき)を待っている。

 最初に政子のブロンドヘアを後ろで束ね、鋏で断った。

 ジョキジョキ、ジョキジョキ、ボリューミーな髪は鋏を撥ね付けんとするも、時男は荒馬を手なずけるようにして、根元からザクリザクリといった。

 ようやく切り離した髪の束を、侍女の捧げ持つ三宝に置く。豊かな髪は三宝からこぼれ落ちそうなほど。

 政子はザンバラのオカッパ髪になった。

 この長さなら十分尼僧としての体裁はクリアーされるのだが、中途半端なことが大嫌いな政子は、完全なる剃髪を望んだ。

 所望に応え、バリカンを襟足の内側に差し込み、突き入れた。

 カチャカチャ、カチャカチャ、とバリカンは政子の後頭部を刈り上げていった。カチャカチャ、カチャカチャ――

 長い金髪を肉体から切り離し、スッとバリカンを軽く振ると、収奪された髪が、バッと宙を舞った。

 政子の後ろ髪は極限まで刈り込まれていった。後に残るは、青々とした生熟れの瓜の如き頭の地肌。

 骨董品に近い手動式のバリカンだが、時男の手にかかれば、そのポテンシャルは最大限に引き出される。

 しかし、さすがにバリカンが古いのと、政子の髪が豊か過ぎるのとで、二度ほど、

「あっ」

と政子は小さくうめいた。

「すんません」

「大事ありませぬ。構わず続けるように」

「ハイ」

 時男はカチャカチャとバリカンを押し進める。

 バッ、バッ、と髪が振り落とされ、うなじがのぞく。耳ものぞく。

 鎌倉殿が、そして時男が、愛でた髪が浮き上がり、バリカンの刃の上に平行移動して、バッとケープに落ち、床に落ちる。

 バリカンというものを初めて目にした周りの者たちは、

「なんとも凄まじき道具よのう」

「剃刀よりこの方が早く済みそうじゃ」

「珍しや、珍しや」

とその利便性に舌を巻いている。時男はちょっと得意になる。

 時男は刈った。獲り入れのときを待つ豊饒な稲田を連想させる金色の髪を。

 立ち位置を変える。

 前髪にバリカンをあて、額から一気に、カチャカチャカチャ、カチャカチャカチャ、分け目が消え、ツムジも消え、青白き大路が一本切り開かれる。

 その横を、カチャカチャカチャ、さらに横を、カチャカチャカチャ、大路はみるみるその幅を拡げていった。

 前頭部の髪を刈り尽くすと、バリカンは悠然と両脇の髪に取り掛かる。

 カチャカチャカチャ、バサッ、カチャカチャカチャ、バサッ、バサッ!

 バリカンは政子のサイドの髪に噛り付き、齧って、齧って、齧り尽くす。

 政子は今、聖と俗の狭間にいる。刈りかけのマダラ頭を天につきあげ、泰然自若、両手は膝の上、荒ぶるバリカンに、気高く一切を委ねている。

 また髪がベロリと上から下に浮きあがった。

 青白き大路は合流して、線から面へ。三つ目の三宝の上、金髪は積み重ねられる。

 政子の頭は青く丸くなる。

 点々とあるブロンドの食べ残しを、バリカンは疎漏なく食む。カチャカチャ、パサ、カチャカチャ、パサ、一本の例外も許さず、認めず、カチャカチャ、パサ、カチャカチャ、パサ、カチャカチャ、カチャカチャ――

 かくてバリカンの午餐は終わりぬ。

 政子は青光りする坊主頭になった。口元はほころんでいる。満足そうですらあった。「尼将軍」誕生の瞬間だ。

「終わりました」

と時男が囁くと、おもむろに自分の頭に掌(て)をあて、笑みを浮かべた。妖しい笑みだった。

「時男、大儀でした」

「いえ、よくお似合いっすよ」

 お世辞ではなく、そう言えた。髪のない政子も美しい。

「後で褒美をとらせましょう」

「あざっす」



 夕餉のあと、時男は政子に呼ばれた。

 すっかり尼姿になった政子から絹や黄金を賜った。

 さらに、

「これは私の俗世の形見です」

と螺鈿の鏡までもらってしまった。

「マジでありがたいッス」

 恐縮する時男に、

「よいのですよ」

 政子はだいぶ疲労困憊しているのだろう、生気のない顔で笑った。政子のこんなに虚ろな笑みは初めてだった。

 時男は早々に政子の室を出た。

 寒い。

 ――この寒さ、政子様も頭に染みそうだなぁ。

と廊下を歩いていると、突如、

「この奸物め!」

と太刀風とともに叫ぶ声。時男はとっさに跳ね飛んだ。自分でも驚く敏捷さだった。

 三人の侍が抜刀し、時男に切りかかった。

 時男は無我夢中で逃げた。

「ひ、ひ、人殺しだあぁぁ! 誰か助けてええぇぇ!」

と大声でSOS。だが、館の内は森閑と静まりかえっている。

「鎌倉に仇なす悪党め! 刀の錆にしてくれるわ!」

「ひいいいぃ!」

 時男は庭に飛び降りた。

 その刹那、刺客の刀が一閃した。時男は胸に一太刀浴びた。

 ――し、死んだあああぁぁ!

と思ったが、政子から拝領した鏡を懐に入れていたので、刀はそれに当たり、奇跡的にかすり傷ひとつ負わずに済んだ。どっと冷や汗が流れた。

「逃げるか、この卑怯者!」

「三対一の方が卑怯だろ!」

 そのとき、月明りの下、三人の刺客の顔が見えた。

 その中の一人は、

 ――アイツだ!

 池で溺れていたのを助けてくれた政子の近習だった。その男が、

「追え! 追え!」

と叫んでいる。

 時男は走った。泳ぎはダメだが、足には自信がある。学生時代陸上部のエースだった。

 一秒でも早くこの館から脱出せねばならない。

 ラッキーにも手ごろな長さの竿があった。それを拾い上げ、猛然とダッシュした。

「追え追え! 切れ切れ!」

という声が後方から聞こえる。

 ――死んでたまるかよっ!

 時男は塀際まで走り、竿を地面に突き刺し、

「ええいっっ!」

と棒高跳びの要領で塀を乗り越えようとした。

 バッ

と時男の身体は宙を舞った。

 塀を飛び越えた。脱出成功!

 無論マットなどはない。したたかに地べたに尻餅をついた。

「いってえ!」

 それでもヨロヨロと走る。

 間一髪、難を逃れた。

 時男は全てを察していた。

 自分に刺客を差し向けたのは、政子だ。

 ただでさえ、都方の間諜ではないか、と疑われている身だ。胡乱な者は「排除」すべし、と政子に迫る有力御家人もいる。政子もかばいきれなくなったのだろう。

 それに時男は、政子の秘密――頼朝殺害は言わば確信犯であったということ――を知る唯一の人間だ。生かしておけば後々厄介だ。政子もそう踏んだに違いない。

 ――恐ろしい人だ。

 政子は髪をおろした瞬間から、マキャベリストになった。髪もろとも情まで削ぎ落してしまったのだろう。

 トボトボ歩く。

 いつの間にか池に来ていた。政子と出会った池。ここから全てが始まったのだ。

 時男は立ち尽くす。

 人影――

「やはり来たか」

 三人の侍はすでに先回りして、時男を待ち伏せしていたらしい。刀をギラつかせ、迫ってきた。

 ――ああああああ!

 時男、絶体絶命!

 ――もうダメだああぁぁ!

 本能的に一歩動くと、

 ジャボオオーーーン

 また池に落下してしまった。

 ――ああっっっ!

 時男は水の中、沈んでいった。幾らもがいても無駄だった。深く、深く、どこまでも、どこまでも、どこまでも――



 パッ

と目を開けると、光。

 まぶしさに目がくらむ。

「時男!」

 母がいた。友人もいた。職場の同僚もいた。たくさんの顔が時男を見下ろしていた。皆心配そうな表情だ。涙を流している人もいた。

 ――あれ……ここは……?

 懐かしい顔に囲まれて、時男はぼんやりしつつも、

 ――たしかオレは侍たちに殺されそうになって……それで……池に落ちて……あれ? あれ?

 記憶が錯綜する。

「動いちゃ駄目だよ。じっとしてて」

と母が時男を押さえた。

自分がベッドの上にいることに、ようやく気づいた。

「ここは?」

「病院だよ」

 職場のオーナーが教えてくれた。

「君は事故に遭ったんだ」

 車で出張先に向かっている途中、向こうから来た車が対向車線をはみ出して走ってきて、それを避けようとして思わずハンドルを切ったら、ガードレールに激突、頭を強くうって、この病院に搬送されたという。

「三日間も意識を失っていたんだよ」

「三日間……」

 時男はオウム返しに呟く。

 あの鎌倉での出来事は全部夢だったのか。しかし、とても夢とは思えない。時男は頭を抱える。

「とにかく意識が戻って良かった。植物人間になるんじゃないかって、皆心配してたんだ。今はあまり考えすぎん方がいい」

 一同は安堵の胸を撫でおろしていた。

 見舞いの人々が帰り、母も席を外して、一人になった時男は身を横たえながら、鎌倉時代のことを考えた。あの日々は夢だったのだろうか。幻だったのだろうか。

 ふと胸がチクりとしたので、パジャマに手をつっこんでみたら、キラキラ光るもの――政子からもらった鏡の破片だった。

 ――夢じゃない!

 時男は心で叫んだ。

 ――オレ、本当にタイムスリップしてたんだ!

 ネットで北条政子について調べてみた。

 政子は頼朝の死後、「尼御台」と呼ばれ、幕府の中枢で歴史を動かした。

 幕権を固める一方で、弟の義時とともに権謀術数の限りを尽くし、邪魔な有力御家人たちを次々と消していった。息子である頼家や実朝両将軍の暗殺にも関与していたともいう。

 そして、承久の乱で御家人をアジって、後鳥羽上皇の軍に打ち勝って、「尼将軍」と讃えられた。その四年後、幕府の安泰を見届けるように死去した。幸福な人生だったのか否かは、本人のみぞ知る。

 時男の知らない政子がそこにはいた。

 政子の言葉を思い出す。

 ――私はもっともっと強くならなければなりません。鎌倉殿の…頼朝様の創られたこの幕府を守るために――

 政子はその言葉を真っ直ぐ実践したに過ぎない。

 乙姫(三幡)は父頼朝の死よりわずか半年後、病死した。まだ十三歳。薄幸の姫君だった。

 時男はノートパソコンの電源を切り、病室の窓から故郷の山河を眺めた。

 ――早く仕事に戻りたい!

と砂漠の旅人が水を乞うように思った。遠い過去での様々な経験は、時男を大人にしていた。



 「吾妻鏡」の編者は時男が鎌倉から消えた翌日から、思い出したようにその筆を走らせている。

『正治元年三月二日 甲午 故将軍ノ四十九日御仏事ナリ 導師ハ大学法眼行慈(後略)』



(了)






    あとがき

 いかがだったでしょうか?
 今回のお話は「仁〜JIN〜」とか「信長のシェフ」が人気を集めていた頃に思いついたものです。美容師が過去にタイムスリップして、歴史上の女性の髪を切るという……(昔の姫君が現代にタイムスリップして髪を切るというストーリーは、初期に書きましたが)。
 でも、タイムスリップ理論とか、歴史考証とか美容技術考証とか、難しいのでずっと放置されていました。
 で、今回、ちょっと書いてみて、ダメだー、となったのですが、粘ってみたら書けました(笑) もう完成度とか尺とか気にせず、断髪第7世代(なんだ、このククリは?)の人とかがこれを読んで、「自分ならこうする」ともっと素晴らしい作品に昇華して下さることに期待して、種を蒔く人のような気持ちで。。
 結果、かなり長いお話に、うん、ね、いつものことで(^^;) これが現在の迫水の精一杯です(と誕生日の前日に書いている私)。
 自分の蒔いた一粒の種が、いつかどなたかの才能によって大きく花開きますように。
 最後までお読みいただきありがとうございました♪




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