紫子お嬢様の過激な猛アピール |
「ねえ、パパ」 朝の食卓、フレンチトーストをイライラと切り分けながら、伊集院紫子(いじゅういん・ゆかりこ)は、コーヒーを口に運んでいる父親に言う。 「なんだい、紫子?」 「うちの英語担当の教師なんだけど、ソイツ、私に盾ついてくるの」 「えーと、井伊(いい)とかいう先生だったかな?」 「名前なんて知らないわ」 吐き捨てるように紫子は、そう言うと、 「アイツ、クビにして」 「一体何があったのかね?」 「私がちょっとスマートフォンをいじってただけで、それを没収したのよ」 「授業中にかい?」 「そう」 「なら、紫子にも非があるだろう」 「何でよッ!」 「没収されたスマートフォンは?」 「授業が終わってから返して寄越したわ」 「じゃあ、問題なかろう」 「私は許せないのッ! 顔もムカつくし、いいからさっさとクビにしてッ!」 「そんな乱暴な・・・」 「何よ! パパは私の味方じゃないの?」 「もちろん味方だとも」 「だったら、私のお願い聞いて!」 皿の上のフレンチトーストは、切り裂きジャック事件の被害者のように、ズタズタに切り刻まれている。 「憲五郎(けんごろう)さん」 と祖母が紅茶の入ったティーカップをおもむろに置き、口を挟んだ。 「紫子はゆくゆくは伊集院家の富と力を引き継ぐ身です。そんな紫子を一介の教師風情に辱められて、黙っているという法はありませんよ」 「そうですとも」 と母も実母に同意する。 「身の程をわきまえさせてやればいいんです」 「うーむ・・・」 養子である憲五郎は、義母や妻にプレッシャーをかけられ、低くうめいている。元々、伊集院家は女の力が強い家系だ。 「ソイツ、私のこと、いやらしい目で見てくるし」 「おお、いやだ!」 母は大仰に目をむく。 「即刻排除すべきだわ」 「しかし・・・ねえ・・・」 父は渋ったが、 「あら、パパ、私がこんなに頼んでいるのに、聞いてくれないわけ? なら、私、もう一生パパと口をきかないわよ」 と愛娘に最後通牒を突きつけられるに及んでは、憲五郎、 「わかった、わかったよ。その井伊先生もまだ若いのなら、他に就職口は幾つもあるだろう。理事長には言っておくから」 「うふふ、だからパパって大好きよ」 邪悪な笑みを浮かべる紫子である。 伊集院紫子は、名門カテジナ学院の高等部に籍を置いている。 伊集院家は日本有数の資産家であり、政界や教育界にも睨みをきかせている「上級国民」ファミリーだ。 この一族にかかれば、一教師を学園からつまみ出すことなど、鼻くそを飛ばすより容易い。 そういう環境で育った紫子が、人を人とも思わない驕慢な娘になったのは、当然といえよう。 一族の権力と財力をバックに、欲しいものは必ず手に入れ、嫌いなものはためらいもなく、切り捨てた。 紫子は類まれな容色の持ち主でもあった。 三日月眉はキリリとして凛々しく、目はパッチリとして、鼻も口も形が良く、その瓜実の輪郭に、品よく収まっていた。 その美貌に、誘蛾灯に群がる虫のように、男たちは引き寄せられた。 彼女の寵愛を得るため、男どもは競い合うようにして、甘い言葉やプレゼントを献上したものだ。 学園アイドルであり、社交界の華だった。 しかし、そんな紫子にも苦手というか、目の上のたんコブ的な存在はいる。 宍戸エリカ。 紫子とは同じ年頃の少女だ。 才色兼美もここに極まれり、といった淑女で、あの笠原コンツェルンの御曹司・融のフィアンセでもある。 紫子はこの宍戸エリカを一方的にライバル視していた。 最初はピアノのコンクールだった。 紫子はピアノには自信があった。実際、彼女の腕前は素晴らしかった。 しかし、コンクールで優勝を掻っ攫うのはいつだってエリカ。紫子は毎年二位に甘んじていた。 ――何よ、この娘! と紫子は嫉妬の炎に燃えながらも、トロフィーを受け取るエリカを睨みつけるばかりだった。 紫子はエリカにことごとく対抗した。彼女を超えようとした。 エリカが英語のスピーチが得意だと聞くや、英会話に没頭し、エリカがロシア文学に造詣が深いと知るや、ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフの全集を原書で取り寄せ、辞書をひきひき読破した。 ダンスが巧いエリカの向こうを張って、猛特訓し、一泡吹かせようと、パーティーなどで、エリカの目の前で華麗なステップを踏んでみせたりもした。 無論、そういった座で英会話を披露し、ロシア文学についてのウンチクを傾けたりもした。 が、エリカの方はそんな「宿敵」を全く意に介してはいなかった。まるで道端の石のように。 それが紫子のプライドを一層傷つけ、エリカへのライバル心を煽りたてた。 忘れられないのは中等部のときのチェス大会。 その頃、エリカはチェスにだいぶ入れ込んでいた。 紫子はその後を追うように、いや、追って、チェスをはじめた。ルールはすでに知っていた。 テクニックを学び、実力をつけて、 ――いざ! と臨んだアマチュアのチェス大会。エリカも紫子も、歴戦の強者を老若男女問わず破り、勝ち進んだ。 そして、決勝リーグで二人は激突した。 しかし、蓋をあけてみれば、エリカの圧勝。紫子はあせって、ポカを連発し、完全に敗北した。 あのときのエリカのポーカーフェイスを思い出すたび、紫子は髪をかきむしりたくなる。 エリカの圧倒的な才能。その後塵を拝し続け、紫子はますます意固地になる。何としても宍戸エリカに勝ちたい! あるとき、紫子はエリカの通っている高校のことで、彼女をからかおうとしたことがあった。 「宍戸さんて聖峰高校に通ってるそうね」 「ええ、一応公立なの」 とエリカは興味なさそうに言った。 「まあ、なんでそんな庶民の学校に?」 と攻勢に出ようとした紫子の出鼻をくじくかの如く、 「聖峰高校は自宅から近いし、偏差値も高いから」 ――偏差値も高いから ――偏差値も高いから ――偏差値も高いから からかうつもりが、どん底に突き落とされた。 紫子は屈辱に身を震わせる。やっぱり、この女に、宍戸エリカに、勝ちたい! そのエリカが、なんと聖峰高校の野球部に入るという風聞を、紫子が耳にしたのは、教師の井伊をカテジナ学院から逐った直後だった。 お嬢様のエリカが、体育会系の男子に混じって、白球を追うという。 ――なぜ??? 彼女を知る人々は皆一様に首をかしげた。 紫子も首をかしげた。 エリカの婚約者の融も同じらしく、この間のパーティーで、 「エリカさん、本当に野球部に入るのかい? 「君には似合わないな 「ソフトボールじゃ駄目なのかい? 「周りは男子ばっかりなんだろ? 心配だよ。もし、何か間違いでもあったら・・・」 としきりにエリカの翻意を促していた。 しかし、エリカは頑強にその意思を貫いた。 彼女の情熱の根源にあるものは、周囲の人間でさえわからずじまいだった。 だが、紫子は決めた。 ――私も野球部に入るわ! ためらいはあった。運動経験はあるが(ソフトテニスやバレエ)、野球は門外漢だ。興味もない。どちらかと言えば嫌いだ。下賤なスポーツだと思っている。 けれど、エリカが野球をはじめるなら、自分もやる。それ以外の選択肢など、打倒エリカに燃える紫子には、ない。 運動の基礎は自分の方ができている。初めてエリカに勝てるかも知れない。 逸る気持ちを抑えきれず、紫子は野球部に入部届を出した。 本来ならば女人禁制の部なのだが、希望者が伊集院家の令嬢とあっては、顧問の教師は平身低頭して、入部届を受理するしかない。 紫子のリベンジは順調な滑り出し。 ・・・と思いきや、強大な壁が彼女の前に立ちはだかった。 野球部監督の尺谷(しゃくたに)だ。 「お前が伊集院紫子か」 とこの樹齢数百年レベルの松の木の瘤を連想させる、いかつい五十男は、変わり種の入部希望者をしげしげと見て、 「女だろうと容赦はせんからな。そのつもりでいろ」 と厳格な口調でまず言い渡した。 ――ナニ、こいつ! 紫子は当然、強い反発をおぼえた。 しかし、何十年も野球指導を続けてきた闘将のオーラに気圧され、何も言い返せなかった。 そもそも尺谷という、この男はこのブルジョア学園では、すこぶる異質な人物だった。 十数年前の野球部創部の際、当時の理事長が三顧の礼をもって招いた人材である。着任早々、お坊ちゃま部員たちを丸刈りにさせ、猛練習につぐ猛練習によって、彼らの分厚いプライドをゴリゴリと、極限まで削ぎ落してしまった。 今でも野球部員には丸刈りが強いられ、気性もバンカラ、他の学院生たちとは趣を異にしている。こういうことから、紫子は野球に対して良い印象をもっていなかったのだ。 だが、エリカを打ち倒したい紫子は、この際好悪の感情は捨て、尺谷の指導を受けることに決した。 この男なら自分をエリカに勝たせてくれる、という直感があった。 早速、野球漬けの日々がスタートした。 勿論、生粋のお嬢様の紫子に、尺谷が課す練習は過酷にすぎた。 「もうやってられないわ!」 と紫子がグローブを地面にたたきつける場面も、十度や二十度ではなかった。 しかし、尺谷は無慈悲だ。 「伊集院、聞こえなかったのか? あと投げ込み50球だぞ」 「も、もう無理よ」 「早く立て。立たなければ、さらに50球追加するぞ」 「あなた、誰に向かって物を言ってるの。あなたなんて、私がパパに頼んだら、今すぐにでもクビにできるのよ!」 と凄んでみせたが、尺谷は顔色ひとつ変えず、 「ならやってみろ」 「言ったわね!」 「その代わり――」 と尺谷は冷笑を浮かべ、 「そんなザマじゃ、宍戸エリカには一生勝てんぞ」 紫子はハッとなる。 さすが名将・尺谷、部員一人一人の個人情報を得て、ただ一人、紫子の入部動機を見抜いていた。 監督の殺し文句に、紫子はポロポロと涙を流し、それでも歯を食いしばって、練習を再開した。 尺谷の言う通り、エリカはメキメキ実力をつけてきているらしい。この間初めて非公式の練習試合に、レギュラーで出場したらしい。 相当打ちこんでいるらしく、社交界からも遠ざかって、しばらくエリカを見ない。 このままでは、宍戸エリカにどんどん水をあけられてしまう。 紫子は死ぬ気で練習に没入するしかない。 宍戸エリカは他の男子部員に倣って、頭を丸刈りにしているらしい、との噂に、紫子は驚くより吹き出しかけた。 ――そんなのありえない。あの宍戸エリカが丸坊主なんて。 しかし、信頼できる筋からの話だったので、一笑に付すこともできず、居ても立ってもいられず、お忍びで聖峰高校野球部の練習を偵察に行った。 エリカはいた。 見違えるほど強靭な肉体になっていた。肌もすっかり黒くなっていた。 「すいません」 と先輩に帽子をとって謝るエリカの頭からは、長い髪は消滅していた。見事に丸刈り頭になっていた。まるでゴルフ場の芝生のような。 紫子は肝を潰した。 野球に賭けるエリカの強烈な決意が、ありありと伝わってきた。激しい目眩に襲われる。 それ以上直視できず、 「帰るわよ」 とお付きの者に車を回させ、逃げるようにその場を去った。車の中でも、エリカの坊主頭が、坊主頭のエリカが、脳裏でグルグルと渦巻いていた。 さて、「肝心なこと」を失念していた。 紫子の髪型のことだ。 紫子の髪は背中まであった。 幼少の頃から、贅の限りを尽くして、ケアし、キープしてきた枝毛一本ない髪、これこそが紫子が自分の身体の部位の中でも、最大の自慢だった。 美しいロングヘアーは紫子の容姿を、十倍にも二十倍にもはねあげ、紫子の顔や華やかな性格はそのロングヘアーを、十倍にも百倍にも魅力的足らしめてきた。この理想的な相互関係は、野球部に入ってからも続いていた。 不思議なことに、鬼軍曹も顔負けの尺谷も、紫子に断髪は命じることはなかった。彼なりのポリシーでもあるのだろうか。 なので、紫子は丸刈りの男子とは違い、髪をお団子にまとめ、その上から帽子をかぶり、練習に臨んでいた。 もし仮に、断髪を強制されたとしたら、紫子は尺谷を即座に追放していただろう。 ロングヘアーが黙認され、紫子は入部前同様、モデルや女優御用達の東京の美容院に通い、余念なくその髪を磨きあげていた。 本来ならクリクリ坊主のエリカを指さして嗤い、溜飲をさげることができる立場であるはずなのに、何故かそんな気になれなかった。 逆に、なんだか負けたような気分に陥った。 それはそれ、紫子は大いに不満だ。 尺谷に対してだ。 今日も、 「監督!」 と尺谷を難詰していた。 「どうして私を試合に出さないの!」 と鼻息も荒く、吠える。 野球部に入ってから、ずっと、自分を試合に出せ、とごねてきた。ルールもろくに知らないクセに。 当然、ニベもなく却下されてきた。 「お遊びじゃないんだよ」 と。 「あなた、私を誰だと思ってるの!」 と息巻く紫子に、 「新米部員の伊集院紫子、だろう」 「あなた程度の人間なんて、簡単にお払い箱にできるのよ!」 「勝手にすればいい」 「言ったわね! 吠え面をかかせてやるから!」 と怒り狂う紫子に、尺谷はシニカルな笑みをのぞかせるだけだった。 だが、紫子は自分の言葉を実行には移さなかった。 彼女は、自分を育成できるのはこの五十男だと、本能のレベルで感じていた。この男こそが、自分をして宍戸エリカに勝たしむる存在であると、心の奥底で信じていた。 そうは思っていても、自分を一向に試合に出さない尺谷に、苛立ちは募る。 「練習試合なら女子でも出られるんでしょ! どうして私を出さないの!」 「言っただろ。お嬢様のお遊びには付き合ってはいられんのさ」 とは言え、他の部員たちも首をひねる。 カテジナ学院はけして野球強豪校ではない。その部風から、部員数も多くはない。 尺谷は積極的だ。下手な部員も代打などに起用している。だから、ほとんどの部員は試合経験がある。 「経験を積め」 がその口癖だ。 しかし、紫子にはお呼びがかからない。 もう入部してから四か月以上が経ち、ルールもおぼえ、筋力もつき、技術も向上している。投手としての才能の片りんも見せ始めている。 ゆえに、 「1イニングでも投げさせてやればいいのに」 と皆、尺谷の方針に疑念を抱き、ロッカールームでヒソヒソ話している。 「打たれりゃ引っ込めればいいだけの話だろ。そっちの方が伊集院のお嬢も懲りるだろうよ」 「もしかしたら、女子だからケガでもされちゃ敵わないとでも思ってるのかなぁ」 「それ以前に伊集院さんの存在自体を疎んじてるのかもな。“女のクセに”って」 「でも監督は厳しい人だけど、差別なんかする人じゃないよ」 「そもそも伊集院さんのあの性格じゃ、チームプレーには向いてないぜ」 「確かに。俺たちともコミュニケーション取ろうとしないしな」 「内心見下してるもんな、明らかに」 「でも仮に、もし、向こうからコミュニケーション取ってきたらどうするよ?」 「一回ヤラせて、とお願いする」 「まあ、ハレンチ!」 「ギャハハハ」 「しかしエリカさんといい、伊集院といい、最近はお嬢様の間では野球ブームなのか?」 「二人とも性格キツいとこは共通してるよな」 「そのエリカお嬢様の聖峰高校と、今度練習試合があるんだよね」 「マジかよ?!」 「エリカお嬢、メキメキと頭角を現してるから、今度の試合、レギュラー確定かなぁ」 「対する伊集院さんは不動の補欠」 「世紀のお嬢様対決が拝めると思ってたのに」 「付き合うのならどっち?」 「そりゃあ髪のある伊集院だろう」 「まあそうだな」 「坊主女子じゃ勃たないぜ」 「いや、オレは一度丸刈り美女とヤッてみたい。なんかそそられる」 「マニアックだな」 「ギャハハハ」 こうした、結果的に下卑た方面に堕してしまう男子部員の会話をよそに、紫子は煩悶し、眠れぬ夜が続いた。 自由気ままに育った紫子にとって、こういう「眠れぬ夜」というのは初めてだった。 ――どうか聖峰との練習試合、スタメンになれますように! と神様に祈った。「神様に祈る」という行為も初めてだった。 しかし、神様は紫子に微笑まなかった。 練習試合当日、スタメン発表で尺谷の口から紫子の名が呼ばれることはなかった。 だが、神様はひとつだけ、紫子に奇跡を授けた。 なんと控え投手の中に、紫子が加えられていた。 初めてのベンチ入り。紫子はいけないこととは知りつつも、自軍の敗勢を願った(それが「いけないこと」と知るほどには、彼女は長足の進歩を遂げていた)。 自軍のピッチャーに対して、 ――打たれちゃえ! と念を送ってしまう。 そんなダークなオーラを漂わせているベンチ隅の一選手を尻目に、試合は白熱、好ゲームとなる。 なかんずく、宍戸エリカの活躍はすさまじかった。打っては三打席三ヒット一打点、守備でもファインプレーを連発、名スラッガーとしての資質を、敵味方に見せつけていた。 こんな試合でも、いや、こんな試合だからこそ、尺谷は大胆に、選手を入れ替えていた。控えの選手を次々と、グラウンドに投入した。その効果は確実にあった。 しかし、やはり紫子にはGOサインは出ない。 紫子は憤死せんばかりだ。 聖峰のベンチにはエリカの他にも女子部員がいた。名前は知らない(あとで訊いたら「稲葉素子」というらしい)。 彼女は笑顔で、 「エリカー! 打っちゃえ、打っちゃえ〜!」 とバッターボックスに立つエリカに声援を送っていた。驚いたことに、その少女も丸刈りの坊主頭だった! 流行なのか? ともかくも、シーソーゲームは途中から雲行きが怪しくなりはじめた。 カテジナ学院のエース・所沢の調子が狂い出し、聖峰の打線が火を噴いた。均衡は崩れた。 所沢の苦境を見かね、尺谷は新しい投手を送り込んだが、彼もまた聖峰の打線の餌食になった。 ――ああ、もォ! 三番手の紫子はジリジリしている。 「ピッチャー交代!」 と尺谷は割れ鐘のような声で怒鳴った。 ――ついに! ついに! 紫子の胸は躍る。武者震いがする。 「ピッチャー、橋口!」 「え?!」 当の橋口もビックリしていた。彼は外野を守っている。強肩だが、投手経験はない。それをピッチャーと入れ替わらせた。 皆、紫子の方を見た。 紫子はこめかみに血管を浮き上がらせ、噴きあがる怒りをこらえていた。 こらえきれず、ベンチをガンガンと殴りつけた。が、尺谷は無視した。その態度がますます紫子を激高させた。尺谷に殺意すらおぼえた。 紫子はため息を吐いた。クールダウンの必要に駆られた。 「ちょっとお手洗い行ってくる」 と立ち上がった。 その背に、 「ちゃんと試合前に済ませとけっ!」 と尺谷は振り向きもせず怒鳴った。 「スミマセン」 紫子は去った。 勝手知ったる学院のトイレに向かう途中に、男子のロッカールームがある。ドアが開いている。 ――不用心ね。 と眉をひそめる余裕もあらばこそ、紫子は幽鬼の如き表情で、歩を進める。 が、ロッカールームから垣間見えた或る物体に、ふと目をとめた。 ――バリカンか。 男子部員が散髪のため、共有しているものだった。 ――あっ! 紫子の頭に電光のように、閃くものがあった。 気がつけば、ロッカールームに侵入し、そのブツを手に取っている自分がいた。 決意など、覚悟など、1秒でついていた。 トイレに駆け込む。時間がない! 洗面台で気狂いみたいにバシャバシャと顔を洗った。 そうしてお団子にまとめた髪をほどく。手櫛を入れ、髪をひろげる。肩に、背に、長い髪が垂れ下がる。 鏡を見る。 勝負の世界に分け入った者が持つ鬼相を包み込む髪、その髪にサヨナラを告げる暇さえわずらわしい。 大きめのバリカンのスイッチを入れる。 ブイイイィイン 右手に強い振動を感じる。 紫子は鏡の向こうのロングヘア―の乙女を睨み据え、左手で前髪をかきわけ、震える刃を、額の生え際にあて、一気に突き入れた。 ジャアアアァァアアァアァ! 青い地肌が露わにのぞいた。バリカンはギコチなくも、確実に紫子の髪を一房、根元から削ぎ獲っていた。 長い髪が、ズルズルとバリカンのボディから右手の手の甲を伝い、紫子の肩に落ちる。それを払い除ける。バサッ! バリカンはアタッチメント無しだ。が、お嬢様の紫子にはそんなバリカン知識などない。 むしろ青白い刈り跡は、 ――宍戸エリカより短いわ! と紫子の対抗心を充足させた。 二刈り、三刈り、バリカンの動きに沿って、前頭部が剥きあげられる。頭皮に浮かぶ脂が電光に、青々照りかえる。まさにピカピカ坊主だ! 社交界の殿方たちにため息を吐かせ、レディーたちが羨望の眼差しで見送った髪は、続々とトイレの床に落ちていく。 ジャァアアァァアアアァ バサッ、バササッ 前頭部の髪を引き剥がす作業に、紫子は没頭する。刈る。徹底的に刈る。後悔など、字の如く後ですればいいだけの話だ。 すっかり落ち武者頭にしてしまうと、次は右のもみあげにバリカンの刃を挿入。右鬢をひたすら突き崩していく。 そんなに器用でもない紫子だが、火事場の〇〇力というやつだろう、見事な刈りっぷりで、自らを一介の高校球児へと変化(へんげ)させていった。 バリカンは紫子という猛獣使いによって、その用途通りの働きをする。 ブイイイィィイィン 咆哮するバリカン。 ブワーッ、と刈り詰められる髪。 青白い轍が、幾筋も連なり、合流して、そして、刈り髪はトイレの床へ。 ちなみに、この屋外トイレは1960年代に設置されたもので、 お化けトイレ と呼ばれ、数多の怪談が言い伝えられている。すっかり老朽化して、臭く汚く暗く怖いの4Kだ。普段は不良生徒の溜まり場となっている。 その埃だらけ、垢だらけ、ヤニだらけの床の上に、ありあまる富を費やしてきた美髪が、うず高く散り積もっていく。 お化けも不良も、そして他人の目も怖くない。自らの情熱のおもむくがまま、紫子はバリカンを繰る。 ジャアァアアアァアァアァ バサッ、バサッ、バサッ、バサッ! しかし、情熱だけではどうにもならず――所詮素人のセルフカットだ――刈り残しがマダラに残る。 それでも構わず、刈り進める。後でキチンと刈ればいい。 バリカンを後ろ頭にあてる。バックの髪を一束にまとめ、 ジャアァアアアァアアァ、 ジャァァアアァアァァア と切り落とした。 ザンバラになった髪を、うなじから頭頂に向け、バリカンを上昇させ、始末していく。 ぐわあああぁぁ!と髪が裂け散る。さらに二刈り、もっと三刈り、もっともっと四刈り、とバリカンで掻き切っていく。 ばあああぁぁ!と髪が奔流のように、身体に、床に、雪崩れ落ちていった。 頭が露出、ゼッペキだ。 一瞬怯んだが、もう引き返せない。無我夢中でバリカンを走らせる。 チョロリ垂れ下がる最後の一房が摘まれた。 青光りするゼッペキ頭だけが、鏡の中、取り残される。 刈り残しや刈りの甘い栗色の部分が、青に混じっている。スイカみたいに。いわゆるひとつの「虎刈り」だ。 だが、きれいに整えている暇はない。 紫子は髪と一緒に、過剰な自意識まで削ぎ落してしまったらしい。心は湖水のように静かで、澄み切っていた。 丸刈り頭に化(な)って戻って来た紫子に、カテジナ学院のベンチは、しーん、と水をうったように静まり返った。 部員たちは衝撃の余り、言葉もなかった。どの顔も青ざめていた。 尺谷だけが、 「いい面構えになったな」 とニヤリ笑い、 「ピッチャー交代!」 また割れ鐘のような声で叫んだ。 「伊集院!」 紫子は若干緊張しながらも、マウンドへと向かった。 聖峰の連中も紫子の激変に呆然自失、見物に来ていた野次馬衆も同じだった。 試合経過は9回表で11−2。紫子は敗戦処理を押し付けられた形になった。 そして、迎えるバッターは―― 7番セカンド・宍戸エリカ! 「練習を思い出せ!」 と尺谷は叫ぶ。 一塁、三塁、とランナーを置いて、エリカは悠々バットを構える。 両軍ベンチもスタンドも森閑として、対決の行方を見守る。にらみ合う二人の間を、風だけが、砂ぼこりをあげ、吹き抜けていく。まるで西部劇の決闘みたいだ。 ――ついにこのときが来たわ。 紫子、ここを先途とばかりに、ボールを握り直す。このときのために、辛い練習にも耐え、頭を丸刈りにまでしたのだ。 が、肩に力が入ってしまい、二球連続でボール。二球目などは暴投に近かった。 「スマイル! スマイル!」 と尺谷は連呼する。 紫子は監督の言う通りに、薄く微笑してみた。すると不思議と肩の力が、スーッと抜けた。 そして、投げた。 「ストライク!」 エリカはバットを振らず、見送った。 そして、もう一球―― 「ストライク!」 主審が大声で言う。エリカはまたもバットを振らなかった。振れなかったのだろうか。 ここで一球外すように、キャッチャーが指示したが、紫子は首を振って、あくまで三振を狙いにいく。 ここでキメる! 宍戸エリカを超える! 全身全霊で、キャッチャーミットめがけ、ボールを投げ込む。 次の刹那、 カキイイイイーン! 快音が響き渡った。 エリカのバットは紫子のボールの真芯をとらえ、ボールはライトスタンドに吸い込まれていった。スリーランホームラン! 紫子はガックリとマウンドでうち萎れていた。 ――また、敗けた・・・。 完全敗北だ。紫子はうなだれる。 そんな紫子の背に、ダイアモンドを回るエリカが言葉をかけた。 「坊主祝いよ」 と。 結局、紫子は三振を一つもとれず、どころか7点を失った。新人としての洗礼を、浴びに浴びた。最悪のデビュー戦となった。 試合終了後、紫子はエリカに呼び出された。 散々嘲弄されるのではないか、と気が塞いだが、逃げるわけにはいかない。 グラウンドの一隅でエリカと対面すると―― 「紫子さん!」 エリカは、普段のクールな彼女に似ず、喜色満面、紫子の手をとり、 「紫子さんも坊主デビューしたのね!」 「え・・・ええ・・・まあ・・・」 ハイテンションのエリカに、紫子は困惑しまくった。 「嬉しい! 丸刈りの女子球児なんて相当レアだものね。どうか、私とお友達になって下さらない? バリカンや坊主ケアの話をしましょう! ときにはお互い刈りっこしましょう!」 熱っぽく迫られ、紫子はついつい、 「あ、ああ・・・う、うん・・・そうしましょ」 とうなずいてしまった。 「宿敵」から「友人」へ。 ――なんだかなあ・・・。 ポリポリと虎刈り頭をかく紫子だ。 紫子の断髪は学園内に狂騒を巻き起こしたが、一週間ぐらいで終息した。慣れというのは偉大なり。 髪を伸ばしたくなくもなかったが、エリカとの「付き合い」もあり、紫子は坊主頭を維持している。 そんな坊主女子ぶりを買われ、演劇部から主役になって欲しいと、頼まれた。 熱烈なオファーに、 「もしかして『西遊記』の三蔵法師役とか? こう言ってはなんだけど、ハマリ役ね」 「いえ、『西遊記』ではありません」 「じゃあ『一休さん』かしら。チャーミングな男の子役も悪くはないわね」 「違いますわ」 「それでは『少林寺』かしら。私、殺陣もうまくやれる自信があるわ」 「いえ、『少林寺』でもありません」 「じゃあ、何の役なの?」 「実は――」 そして劇の本番当日。 白のランニングシャツに、リュックを背負った紫子は、 「ぼ、ぼ、僕は、オ、オ、オムスビが好きなんだな」 と裸の大将こと山下清役を熱演し、 「伊集院さん、だいぶ変わったよね」 と観客たちは囁き合っていたという。 少し余談が過ぎた(司馬遼太郎風に) (了) あとがき 迫水野亜でございます。 コロナ禍で家にいることが求められている昨今、当サイトもヒット数があがっており、自宅に居る方が読んで下さっているようで、とてもありがたいです♪ せっかくなので、家で退屈している方への応援(?)のために。 少しでもお役に立てれば幸甚でございます(*^^*) 今作は「一蓮托生後日談」シリーズの第五弾です。意外と書いてなかったなぁ、このシリーズ。 元々頭の片隅にぼんやりとあったネタを、ストーリー化しました。 断髪までの過程が長い長い(汗) 迫水もセルフ坊主経験がありますが(よしなしごとをご参照下さい)、思ったより難しいんですよね〜。 しかし、まさか令和も一年にして、こんな災厄に襲われるとは・・・。 どうか皆様、御身大切に、なるべく外出は避けて、自宅に居て下さいね(お仕事の都合等でそうも言ってられない人もいらっしゃるでしょうが)。懲役七〇〇年の過去の小説を読み返してみるのもいいんじゃないでしょうか(と宣伝してみたり)。 普通の日常が一日も早く戻ってきますように、と祈りつつ。 |