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邪宗門へ


 S県のとある寒村で、一人の女性が行き倒れになっている、との119番通報があったのは秋も終わりの頃だった。

 女性はただちに近くの病院に搬送された。

 伸びかけの坊主頭に、半裸の状態、何週間も山の中をさまよっていたらしく、衰弱は極に達し、意識を失っていた。

「死にぞこないだろうよ」

と村の故老たちは噂し合った。

 この地では、これまでも富士の樹海に入って行って、奇跡的に生存し、脱け出られた自殺志願者が幾人かいたらしい。

 警察も同じ見方だった。

「女の身元がわかりました」

 新米刑事の畠山(はたけやま)が報告する。

「尾崎未来恵(おざき・みくえ)27歳。運送会社で事務をしていて、半年前から行方不明になっていました。人間関係のトラブルから、一度、自殺をはかっています。入院して、それから間もなく消息を絶っています。両親はすでに亡くなっており、父方の叔父から捜索願が出されていました」

「やっぱり自殺未遂か」

と上司の鵠沼(くげぬま)がうなずく。が、畠山は、

「自分にはどうも事件性があるように感じるのですが・・・」

「事件性? 何故だ?」

「尾崎未来恵の二の腕に焼き印を押されたような跡がありました」

と写真を取り出す。差し出された写真には、確かに畠山の言う通り、直径10cmmくらいの禍々しい紋章が、痛々しくも白い腕に刻印されている。

 鵠沼は写真を見るなり、

「こりゃあダメだ」

  眼を背け、手を振り言った。

「捜査の必要なし。自殺未遂で処理する」

「なんでです?」

 食い下がる畠山に、鵠沼は難しい顔をして、

「世の中にはアンタッチャブルな案件が、たしかに存在するんだよ。君も長生きしたけりゃ、このことは忘れろ。いいね?」

と畠山に因果を含めるように言うと、食堂に昼飯食いに行ってしまった。

 畠山は肩をすくめるしかなかった。

 結局、この事件はそれきり世間から忘れ去られた。




 尾崎未来恵が意識を取り戻したのは、搬送されてから10日目のことだった。

 しかし、彼女は虚ろな目で、黙りこくったまま、駆け付けた身内の人間たちにも無反応だった。

 警察の形式的な質問にも沈黙を貫いた。

「相当ひどいショックを受けたようです。しばらくはそっと見守りましょう」

という医師の言に従い、皆、これ幸いと潮のひくように、未来恵の許から離れて行った。

 未来恵は心を持たぬ人のように、毎日を過ごした。

 ――尾崎未来恵は心を失っていない。

と、看護師の園子(そのこ)だけは気づいていた。

 未来恵のその眼が、晩秋の柔らかな陽光に細くなることも、富士山の方を見るときに名状しがたい恐怖の色を浮かべることも、園子だけは知っていた。

 未来恵の方もそんな園子に心を和らげている節があった。

 お互い波長の合うこともわかり、入院から三週間後には、二人はちょっとした雑談を交わすようになっていた。

 その様子を見て、看護師長は園子を未来恵の専属担当にあてた。

 未来恵は段々と体力を取り戻した。

 園子に対してだけは饒舌になった。

「お寿司が食べたいわ」

などと言ったりもした。

「ウニ、エビ、それになんてと言ってもトロね。考えただけでお腹が空いちゃうわ。今日の夕食の献立は?」

と甘えた口調で訊いてきたり、かと思えば、夜の闇を異様なほど怖がり、

「アタシ、殺される、殺されちゃうわ! 怖い怖い!」

と口走ったりもした。

 青ざめて、恐怖を訴えて来る担当患者を、園子は持て余した。その表情は真に切迫したものだった。

「殺されるって誰に?」

「言えない! 言えないわ!」

 身体を曲げ、シーツに顔を押し付け、子供みたく怯える未来恵に、園子は困惑するばかりだ。

 未来恵の右腕の焼き印、それが持つおどろおどろしさが、彼女の恐怖を如実に園子に伝えて来る。

「尾崎さん、落ち着いて下さい。そこまで生命の危機を感じていらっしゃるならば、警察の方に相談してみましょうよ」

「警察なんてアテにならないわ!」

 取り乱す未来恵に、園子ができることと言えば、鎮静剤や睡眠導入剤を投与するくらいがせいぜいだった。

 得体の知れない恐怖に日毎おびえるこの患者に、出来うる限り寄り添ってあげたいと思う。だけど自分は一介の看護師でしかない。無力だ。




 ある日、消灯が近づいてきて、ちょっとしたことで未来恵はひどく暴れた。ベッドのそばのものを手当たり次第に園子に投げつけ、罵詈雑言を浴びせた。

 園子は人を呼ばず、甘んじてそれに耐えた。

 ひとしきり荒れ狂うと、

「ごめんなさい」

 未来恵は風船がしぼむように萎れ、大人しくなった。

「いいんですよ」

 園子は微笑んで、未来恵がちらした部屋を片付け始める。

「ごめんなさい」

 未来恵はまた謝った。

 しばらく沈黙があった。

 未来恵は決心したように、口を開いた。

「こんなこと、急に話されても困ると思うんだけど――」

と前置きして、

「アタシはこれからどうなってしまうかわからないけど・・・でも・・・でも、誰かに話しておきたいの。アタシの体験した、あの忌まわしい悪夢のような出来事を、アタシが死んだ後にでも、誰かに知っていて欲しいの。話したいの」

「わかりました」

と園子は固い表情でうなずいた。

「私でよければ伺いますよ。お聞かせ下さい」

 そう言いながらも園子は複雑な心境だった。

 彼女の内で、面倒ごとに関わりたくないという臆病心と、未来恵の話を聞いてみたいという好奇心、看護師として患者に寄り添わねばという使命感が相克していた。

 部屋の電気を消す。備え付けの電気スタンドをつける。電気スタンドに照らし出された未来恵の顔は、まるで一匹の幽鬼のように、園子の眼にはうつった。

 未来恵は声を低め、語り始める。




 アタシ(未来恵)は一年前までは、普通のOLだった。

 本当にどこにでもいる、さえないながらも、仕事をして、遊んだり、美容に興味があったりするOL。

 それなりに幸せだった。いいえ、今にしてみれば、もう二度と帰らぬ幸福な日々だった。

 恋をしてた。前澤って男。SNSで知り合ったの。実際に会ってデートした。ハンサムでスマートで、女性を喜ばせることに長けていてね。

 コイツがアタシの人生をメチャクチャにしてしまった。

 アタシは前澤に夢中だった。

 前澤には随分貢いだわ。有り金全部。貯金も切り崩して・・・しまいには会社のお金にまで手をつけてしまった。幸いにもまだ発覚していないみたいだけれど。

 よくある話かも知れない。

 でもあの頃の自分を嗤う気にはなれない。とにかく必死だった。

 前澤の振る舞いはどんどんエスカレートしていった。アブノーマルなプレイも強要されたりした。横領だって、前澤にそそのかされてやったのよ。アタシは奴の言うことに絶対服従していた。

 でも、ある日、前澤は一線を超えてしまった。

 何人もの男たち――外国人もいたわ――にアタシを無理やり・・・。

 前澤は凌辱されるアタシの動画を撮影していた、笑いながら。そして、奴の命令に従わなければ、その動画をネット上にバラまく、と脅された。




「なんて酷い・・・」

 園子は思わず言って、眉を吊り上げた。

「前澤っていう男の本質を見抜けなかったアタシも莫迦だったわ」

 未来恵は薄く笑った。そして、話を続けた。




 アタシは絶望した。

 性犯罪の被害者になってしまって・・・男というものに対して、身震いするほどの嫌悪感を、恐怖感を、抱くようになってしまった。触れるのも、そう、声を聞くのさえぞっとするくらい嫌だった。

 何もかもに望みを失い、アタシは自暴自棄になった。苦しみに耐え切れず、自殺をはかった。でも失敗した。

 一命はとりとめたものの、アタシは半ば廃人だった。会社も使い物にならなくなったアタシをお払い箱にするつもりだったみたい。

 そんなとき、アタシは彼女と出会ったの。




「彼女?」

と園子は呟くように言った。

「ええ」

 そう答えて、未来恵は頬を染めた。



 本社の敏腕社員だった。浦田(うらた)さんていう女性。30歳って言ってた。美人で背が高くて、モデルって言っても通ったんじゃないかしら。スーツ姿もさまになっていて、ヒールを履いて、いかにもエリート然としていて、アタシとは月とスッポンだった。

 うちの会社を視察するときは、必ずそのメンバーの中にいた。アタシはその応接にあたっていて――と言ってもお茶汲みよ――それだけの関係だった。

 だから浦田さんがアタシの病室を見舞ってくれたときには、本当に驚いた。

 リストラ寸前の木っ端OLに何の用があるのか、とアタシは不可解な思いだった。

「ちょっとそこまで来たものだから」

と言いながら、浦田さんはピンクの胡蝶蘭をくれたの。

 ピンクの胡蝶蘭の花言葉を知ってる? ――“あなたを愛しています”。

 それから、浦田さんはたびたびアタシの病室を訪れるようになった。

 浦田さんは優しくて、カッコ良くて、会話もうまくて、冗談のセンスもあって、アタシを少しずつ立ち直らせてくれた。

 前澤のことで男性恐怖、いいえ、男性憎悪にまで達していたアタシに、

「私も同じよ」

と言った。単なる同調を超えた真摯なトーンだった。

「男なんて皆死ねばいいと思ってる」

とまで口にした。典型的なモテ女の浦田さんの口から、そんな言葉が飛び出すなんて、アタシには意外だった。

 浦田さんは毎回花束を持ってきてくれた。赤いアネモネ、リナリア、白バラ、etc――花言葉は“君を愛す”“私の愛に気づいて”“私はあなたにふさわしい”・・・。

 アタシの心は男性憎悪も手伝って、急速に浦田さんに傾いていった。

 二人、寄り添い、病室の窓から、山際に沈む夕日を眺め、暮れなずむ街を見下ろして、そうして浦田さんはそっとアタシの手を取って――ごく自然のなりゆきで、キスをした。それ以上の行為にも進んだ。

 退院して自宅療養になってからも、浦田さんはアタシのアパートに頻繁に訪ねてきて、二人幸福な時間を過ごした。今考えると、ゆっくりと破滅の道を辿りはじめていたのね。

 そんなある日、浦田さんが奇妙な質問をしてきた。

「現代の日本社会において、男の自殺率は女の自殺率の2倍以上もある。どうしてだかわかる?」

 アタシは返答に詰まった。浦田さんの様子から、この質問に答えられなくては次の話題に進めないみたいだった。浦田さんは試すような表情をしていた。

「男の方が不器用でストレスがたまりやすいから、かな。その点女性は柔軟で適応能力が高いから自殺までには至らない・・・とか・・・」

とアタシが回答を絞り出すと、浦田さんはけたたましく笑い出した。そりゃもうお腹を抱えて。

「じゃあ――」

と浦田さんはふくれ面のアタシに、二つ目の質問をしてきた。

「男の行方不明者が、女のそれより2倍も多いのは何故?」

 アタシはやはり首をひねった。浦田さんがなんでそんな質問をするのかも含めて、皆目わからなかった。

「さあ、なんでかしら・・・」

 また嗤われるのも業腹なので、アタシはアンサーを避けた。

 浦田さんは悪戯っぽい眼をして、

「これは偶然だとか、性差や社会がどうこうという理由じゃないのよ」

 そうして、屹と真顔になった。まるで、「天皇陛下」というときの昔の軍人めいていて、それぐらい厳粛な面持ちだった。

「華夜叉さまの御業(みわざ)よ」

「ハナヤシャ様?」

 まったく未知の名前に、アタシは戸惑い、

「有名な人なの?」

 浦田さんは厳粛な顔のまま、首を振った。

「確かに言えることは、この世の全女性の味方よ。救世主とでも言うべきかしら」

「救世主・・・」

 アタシは華夜叉という女性について、根掘り葉掘り聞きだした。

「フェミニストなんて生易しい方じゃないわね。できることなら、この世界から全ての男を根絶したいと思っていらっしゃるわ」

 アタシはいよいよ華夜叉さまに惹かれるものを感じた。

 その思想は戦国時代に遡るという。

 遊女あがりの華照尼(かしょうに)という女人が、ある仏典の解釈を拡大して――ありていに言えば捻じ曲げて――女性同士の「結合」こそ真実の悟りへの道、という教義を開いた。その教えは長い歳月をかけて、分派し、いまだ命脈を保っていると浦田さんは話してくれた。

 分派した中で最もラディカルな宗門の長が、華夜叉さまだという。

 その総本山――組織のアジトが富士の樹海にあるという。

「女を食い物にしたり、苦しめたり、虐げたりする男には、華夜叉さまは容赦なく『仏罰』を下してくださるわ」

「どうやって?」

「呪殺がほとんどだけど、その他の方法をとることもあるわ」

と説明する浦田さんに、

「その他の方法とは何ですか」

とは訊けなかった。暗い想像が頭をよぎっていた。

「政治家も警察も教団には手を出せないの。だから、ほとんどの場合、自殺とか行方不明とかで片付けてしまうの。さっき言った数のカラクリがわかった?」

「浦田さんも華夜叉さまのお弟子なの?」

「末座を汚させて頂いているわ」

「なんで?」

「私も男を憎んでいるから」

「そうなの?」

「義理の父親に処女を奪われたり、結婚詐欺にあって財産を失ったり、会社でセクハラされたり、ね。でも、そいつら全員、華夜叉さまが呪い殺してくれた。爽快だったわ」

 そう言って浦田さんは笑った。悪魔みたいな笑顔だった。でも人間、神様よりも悪魔に魅了されることが往々にしてある。

 浦田さんは「俗世」で男に虐待されている、これはという女性を、教団に誘う役割を命じられているらしかった。

「未来恵も出家して教団に入らない? 女だけの楽園よ。女同士でするときの、あの快楽も貴女は十分味わっているはずよ。女たちで愛し合い、憎い男どもに復讐しましょうよ」

 浦田さんの誘惑に、アタシは即座に乗った。

 脳裏には、前澤やアタシに乱暴した男たちの顔が浮かんでいた。復讐心が燎原の火となって燃え盛っていた。

 話は浦田さんに主導される形で、すぐにまとまり、アタシは「出家」を決意した。




 アタシが浦田さんの運転するバンに運ばれて、俗世と魔境を隔てる富士の樹海の入り口に降り立ったときは、もう真夜中だった。満月が煌々と輝いていた。

 バンに乗っていたのは、アタシだけではなかった。四十代と五十代の女性が二人、アタシと同い年くらいの女性が一人、十代の女の子が三人、アタシを含め、七名いた。それぞれが男によって酷い目にあってきたのだろう、皆憂悶の色を浮かべ、重苦しく沈黙し、車中には異様な雰囲気がたちこめていた。

 私たちはバンが停まったところに降ろされた。

 目の前に、ブラックホールのように、どこまでも果てしなく膨張している樹海。その場所には古(いにしえ)の時代を思い起こさしめるかがり火が焚かれていた。

 浦田さんも能面みたいな顔になって、

「貴女方の帰依の心、男性への憎悪、男社会への憤り、復讐心は華夜叉さまのお耳に達しております。これからは一人の新発意(しんぼち)として、楽園に転生し、世界から男という性を駆逐しましょう。貴女方は言わば、選ばれし者たちなのです。その誇りをもって、堂々邁進して参りましょう」

 淡々と弁ずる浦田さんに、皆うなずいてた。アタシも厭離穢土(おんりえど)の心が湧き上がっていた。それは楽園への憧憬に支えられていた。

 しかし、浦田さんの口から次に出た言葉は、アタシたちの心胆を氷点下まで寒からしめた。

「華夜叉さま及び教団への忠誠を証し立てるため、これより皆さんの腕に、教団の紋章を刻印させて頂きます」

 浦田さんはかがり火の中から、鉄のコテを引き抜いた。コテは真っ赤になって、ジュウジュウと熱を発散させていた。

 ――これは踏み絵だ。

とわかった。アタシたちの「信心」を最終確認するための、アタシたちを完全に華夜叉さまの「信徒」にするための、これは儀式なのだ、と。

 皆、恐ろしさに顔色を失っていた。

「さあ、早く」

と促され、まず年輩の二人の女性が前へ出た。その右腕に浦田さんは無感情に、焼き印を押しあてた。

 ジュウウ、と肉が焼ける匂いが鼻をついた。アタシたちは震え上がった。

 けれど、一人二人とやってしまうと、

「ならば自分も」

と次々と覚悟を決める女たちの群れ中にアタシもいた。逃げ出しそうになる心を、前澤らのことを思い浮かべ、懸命に押しとどめて。

 この腕に紋章を焼きつけられたときの苦痛は、いまだに忘れられない。

 肉の焦げる音と匂いは、夢幻の如きこの先の出来事の中で、唯一生々しい記憶として脳裏にこびりついているわ。




「ほら」

と未来恵は普段隠している腕の烙印を、園子の前に突き出して見せた。

 形象文字さながらの、女人をかたどった印が二つ、丸の中、絡み合っている。「女女和合」を意味していると未来恵は語った。

「二度と消えないわ」

「手術で消すことはできますよ」

 園子が慰め顔で言うと、

「仮に身体の刻印は消えても、心の烙印は消えないわ。華夜叉という女性に精神的奴隷として屈服したという刻印はね」

 忸怩たる面持ちで、そう言って、未来恵は過去の話を続けた。




 七人中五人までは焼き印を受け容れたのだけど、十代の女の子のうちの二人は、

「できません!」

「無理です!」

と泣きじゃくって、「踏み絵」を拒んだ。

 まだ人生経験も浅い、若い女の子には覚悟が足りなかったのね。

 浦田さんは、

「帰りなさい」

と冷たく言った。二人は泣きながら、樹海から遠ざかって行った。

 夜の闇に消えていく二人の姿を、アタシたちはぼんやり見送っていた。

 これはアタシの想像なんだけど、今から考えると、二人とも消されたと思うわ。それが「教団」のやり方だから。「退転者」は容赦なく抹殺される。今のアタシもどうなるかわからない。




 アタシたちはもう前に進むしかない。

 その前に全員服を脱ぐよう命じられた。所持品も全部その場に捨てさせられた。

 一糸まとわぬ姿で、それでも一人に一本、錫杖を渡された。

 そうして、ついに樹海へと入っていった。

「さあ、一列になって、私についてらっしゃい」

 浦田さんはすっかり命令者だった。

 アタシたちは彼女に言われるがまま、樹海の奥へ奥へと分け入っていった。

 当然虫やヘビ、トカゲ、獣の出迎えを受けた。

 そして無数の人間の骸や骨にも遭遇した。

 アタシたちもこうなってしまうのだろうか、とふと思ったりもした。本当は「楽園」なんて全部浦田さんの作り話で、実は単なる自殺ツアーではないのか、と。それでも構わない、と捨て鉢な気分で思った。

 二日目になると、そんなことを思う余裕もなくなった。

 アタシは意志を失い、浦田さんに命じられるまま、ひたすら歩き続けた。土を踏み、苔を踏み、石を踏み、毒虫を踏み、屍を踏み、髑髏を踏み、どこまでも進んで行った。

 同じところを二度も通ることもあったが、どうでもよかった。これは浦田さんが道を間違えたのではなく、おそらくは「総本山」の位置をアタシたちにぼやかすために、わざわざ複雑で迂遠なルートをとったのだろう。

 それに、アタシたちに時間や空間に対する感覚を喪失させる目的だったんじゃないかしら、とも思う。

 沈黙と薄明の中、樹海の中を彷徨しているうちに、アタシは太古の、そう、言語も文明も持ち合わせなかった旧石器人になったかのような錯覚をおぼえていた。そして、旧石器人から獣へ、獣から魚へとアタシの意識は過去へ過去へと遡っていった。

 浦田さんは日に二度、乾パンをくれた。アタシたちはそれで露命を繋いだ。




 何日間、歩いただろう、アタシは或る気配を感じた。

 人の気配、それもたくさんのつつましい定住者の醸し出す生活の気配、その気配にアタシは我に返りかけた。

 ついに「総本山」に辿り着いたのだ。

 「総本山」は想像していたのとはだいぶ違った。

 和風ではなく、アンコールワットを彷彿とさせる石造りの建築だった。

 外塀は牛糞とワラをつなぎに使った中世ヨーロッパのレンガだった。それが途方もなく広い敷地を万里の長城のように、どこまでも囲んでいた。

 巨大な石で作られた伽藍やその他の建築も、こんな人界を絶した陸の孤島に、どのように資材を運び、どのように建てられたのか、考えるのもバカらしくなるくらいだった。

 圧倒されると同時に、自分の全裸姿が急に恥ずかしくなった。自分が魚ではなく、人間であることを、ようやく思い出したのだろう。

 鬱蒼とした木々がその大いなる「総本山」を取り巻いている。樹海との調和はしっかりととれていた。

「私の役目はここまでよ」

と浦田さんは五人の出家志願者に言った。

「今日はグッスリ眠って、明日は剃髪よ」

 剃髪、と聞いて、心はさざ波だったが、でも出家するのだから当然か、とそれを想定していなかった自分の迂闊さに、苦笑する思いだった。

「これからは、この総本山の長老、ナガイ師が貴女方をご指導して下さるから」

と紹介されたナガイ師は「長老」といっても四十代くらいの若さだった。小柄な女性だった。頭は丸められていて、黄色い僧衣をまとっていた。彼女は慈愛に満ちた表情で、アタシたちを迎えてくれた。

「華夜叉さまはどうされておりますか?」

と浦田さんはナガイ師に訊いていた。

「十日間の瞑想の行に入っていらっしゃいます」

とナガイ師は答えていた。

「だとすると御対面の儀は?」

「七日先になるわ。それまでに僧形にさせておくわ」

「よろしくお願いします」

と浦田さんは踵を返した。また人間界で「布教活動」に従事するのだろう。

 浦田さんの姿を見たのはそれが最後だった。




「さあ、こちらへいらっしゃい」

とナガイ師はアタシたちをレンガ塀の中へと導いた。

 石畳の上を歩いた。南アジアの僧院のように、石づくし、レンガづくしだ。

 たくさんの塔や堂があり、とても日本とは思えない。

 カラフルな僧衣を着けたスキンヘッドの尼たちが、花みたいに点々、あちこちで愛し合っていた。ナガイ師もにこやかに尼僧同士の「交流」を眺めていた。彼女らはナガイ師に気づくと、悪びれたふうもなく、立ち上がって合掌していた。そして、アタシたちにも微笑んで見せた。アタシは早く衣服を与えてもらいたかった。

 ナガイ師はアタシたちをレンガ造りの建物の一室に連れていった。

 室内は暗く、ジメジメしていて、殺風景で、剥き出しのレンガが敵意も露わにアタシたちを取り囲んでいた。鉄製の固そうで狭苦しそうな二段ベッドが三つあった。

 ようよう衣服を頂いたけど、ひどくみすぼらしい代物だった。異臭もした。

「今日からしばらくはこの部屋で寝起きしてもらいます」

とナガイ師は言った。

「出家したら、もっと明るくて綺麗な部屋に移れますよ」

と心得顔でウィンクすることも忘れずに。

 でも、

「明日は剃髪を行います」

と新入りの心を引き締めることもまた忘れてはいなかった。

 ナガイ師が去って、アタシたちは戸惑った。

 何しろ互いに出会ってから一言もしゃべってはいない。名前すら知らない。

 ベッドに横たわり、アタシたちはそれぞれ簡単に自己紹介して、自分がここに来るに至った身の上を語った。

 学校で男子から凄絶なイジメを受けていたという女の子。恋人に散々貢がされた挙句自己破産して、その恋人にも逃げられたという女性。男ばかりの会社でセクハラやパワハラを受け、心を病み、生活保護を受けて引きこもっていたという女性。理由はさまざまだが、皆、男という生き物を嫌悪し、憎悪していることは一致していた。

 何人かはアタシと同様、同性同士の行為を経験していた。その経験はひとつの結論を導き出していた。

 男なんていらない。

 おしゃべりは尽きなかった。

 夕食にはワッフルとパンケーキ、オレンジジュースが出された。

 樹海に足を踏み入れてから、はじめてまともな食事にありつけた。

 アタシたちはマナーもそっちのけで、それらを貪った。そして、その日は泥のように眠った。




 翌朝の朝食はトーストとフルーツ類だった、そして紅茶。今にして思えば、あの紅茶の中に怪しげな薬が入れられていたのかも知れない。

 食事が終わる頃、ナガイ師が現れた。

「では、これから剃髪を行うから付いて来るように」

と告げられた。

 アタシたちは皆、二番目に大きな建物に連れられて行った。

 設えてある浴場で、言われるまま、湯浴みをした。髪を洗い、口を漱ぎ、身体を清めた。白装束を与えられたのでそれをまとった。

 大広間ではすでに尼たちが集まっていた。石畳の上で読経していた。

 中央の奥には祭壇らしきものがあった。二人の女性が「和合」して、大蛇に巻きつかれている異様な像が安置されていて、どうやらこれが御本尊のようだった。

 尼たちは色とりどりの衣をつけ、アタシたちの両脇に居並んでいる。中にはアタシたちを「品定め」している視線もあった。

 尼たちの読みあげている経文は、聞いたことのない奇怪なもので、同じフレーズがリズミカルに繰り返されていた。木魚や鐘、太鼓などの鳴り物もあった。それらも、パーカッシブで、ときに煽情的に堂内の空気を盛り立てる。まさに異端の音楽だった。

 アタシたちは二列縦隊で御本尊の前に正座させられた。アタシは後列になった。

 皆、激しくも催眠的な経や鳴り物――それにいつの間にか一服盛られていたドラッグのせいもあったろう――でトランス状態になっていた。

 まず前列の三人が髪を落とした。

 パーマヘア―の四十代女性、黒髪ロングの少女、アタシと同い年のショートヘアの女性が並んで、尼たちが髪をおろす。

 研ぎ澄まされた刃物で、髪を切られ、剃られた。

 三人とも神懸かり的な表情で、陶然と髪を断たれるに任せていた。

 断たれた髪は、介添えの尼たちがひろげている布の上に、バサバサと落ちていった。

 本当に何から何まで手際よく、三人は見る間に頭を剥きあげられていったわ。

 中には露骨に性的な悦びを満面に表している女もいた。十代の少女はちょっとだけ顔を赤らめていた。羞恥なのか、高揚なのかはよくわからなかったけど。

 次はアタシと五十代の女、並んで介添えの尼に教えられるまま、掌を合わせた。

 後悔はなかったわ。

 これで「楽園」の一員になれるのだ、という昂奮があった。いいえ、完全に忘我の境地――催眠術にかかっていたようなものね。

 尼は刃物でアタシの髪を切り刻んだ。アタシ、結構髪が長くて背中まであったのよ。

 その洗い髪が、切り詰められていった。

 シャッ、シャッ、という音が耳元で鳴り響いた。その音が異常なくらい大きく聞こえた。尼たちの動きがひどくスローに見えた。灯明の火がやけに歪んで見えた。やはり人工的な何かをキメられていたのね。

 異形な経文とパーカッションの中、アタシの髪は極限まで切り摘まれていった。

 濡れ髪はゆっくりと布の上に落ちていった。

 剃られているアタシは、さぞ痴れた顔をしていたに違いない。すこぶる快感だった。意識が朦朧として、頭の中は真っ白。されるがままだった。

 刃物は微塵の躊躇もなく、アタシの頭をスライドして、短い毛をこそげ落とした。

 剥き出しになった頭に、富士山麓の冷え冷えとした風を感じた。

 剃り手の尼は、アタシの頭を剃りながら、アタシにキスしたり、白装束の裾に手を入れて胸をまさぐってきたりした。それは「教義」によって許された行為のようだった。まさしく邪教ね。

 アタシは拒まなかった。恍惚と一切を委ねた。

 そんな行為に及びながらも、尼は熟練の腕でアタシの髪を巧みに削いだ。

 朦朧とした意識の内、前澤とその一味の顔が浮かんだ。

 ジャッ、ジャッ、とうなじが剃られ、アタシは完全に丸坊主にされたわ。

 剃髪が済むと、出家者たちはナガイ師に引率されて、寺院の裏手にある井戸の周りで水垢離をさせられた。そうして、頭にくっついている毛を洗い落とした。

 こうしてアタシはこの教団の尼としての第一歩を踏み出したのだった。




「華夜叉さまにお会いしたのは、それから何日も後のことよ」

と未来恵は言った。

「どんな方だったんですか?」

 園子は訊いた。

「それはまた今度――明日にでも話しましょう」

と未来恵の方が気遣うくらい夜は更けきっていた。

「なんでその総本山を脱走なさったのですか?」

「それもおいおい語っていくわね」

 眠い、と未来恵は薄っすら笑った。日頃不眠を訴えていた彼女には珍しい。

「死んだ両親が、未来に恵みあれ、という思いから“未来恵”って命名してくれたんでしょうけど、アタシの未来は暗い闇に閉ざされている。皮肉なものね」

「これから幸せな、恵みある未来が待っていますよ」

「アタシに未来なんてあるのかしら」

 未来恵は腕の焼き印を撫でながら、寂しく微笑した。

「ありますよ」

と園子は力をこめて彼女の患者を励ました。そして、

「さあ、もう寝ましょう」

と電気スタンドのスイッチを消した。未来恵の微苦笑は闇に埋没する。

「おやすみなさい」

と園子が言うと、

「おやすみなさい」

と闇が応えた。

「尾崎さんの未来に恵みがありますように」

 そう言い添えて、園子は病室を出た。




 尾崎未来恵が死んだのはその翌朝だった。

 心臓発作だという。

 死に顔は悪鬼のように凄まじい形相だった。

 園子は未来恵の亡骸の前、立ち尽くした。

 ――華夜叉に消されたんだ。

とすぐに悟った。

 退転者には死、それが「教団」の掟だった。そのことで未来恵はあんなに怯えていたのだ。

 未来恵の死とともに、華夜叉やその組織の証言者はいなくなった。

 全てを話す前に未来恵は逝ってしまった。

 ――もしかしたら、私も消されるのか?

 そんな恐ろしいことを考えて、総毛立つ。

 昨夜未来恵から聞いた話は全部悪い夢だ、と自分に言い聞かせる。

 ――でも――

 尾崎未来恵という患者が存在していたことは、生涯忘れられないだろう。その哀しみとともに。




 園子はトイレの中、いつも持ち歩いている同棲中の彼氏の画像を見る。

 この男は定職にも就いていないくせに、嫉妬深く、園子を束縛し、しばしば暴力を振るっていた。

 今夜もこの男の待つ家に帰らなければならないのか、と思えばため息しか出ない。

 そのDV彼氏の画像を、園子は片っ端から削除していった。

 男性観をこじらせないように。「出家」へと導かれる悪しき芽は、今のうちに摘んでおくに如(し)くはない。


             (了)






    あとがき

 リクエスト小説第五弾です!
 まだまだリクエスト頂いた中から何本か小説を書かせてもらいますが、今回のアップロードはここまでです。年内に終われるかな(汗)
 で、今回のお話はというと、長い!! 他の小説の二倍はある!!
 「男性に虐げられていた女性たちの悪の組織があって、その組織に入るために数名の女性が剃髪」といった御趣旨のリクエストがあり、小説化してみましたが如何だったでしょうか?
 え? ストーリーの長さの割に剃髪シーンが少ない? 何を今更(笑) ・・・すみません。。
 エンタメ小説を意識してみたのですが、大してエンタメしてない(^^;) 正統派エンタメならば、これから熱血刑事・畠山と園子がタッグを組んで華夜叉や組織に立ち向かう、といった流れなのでしょうか。
 今回、一番手こずりつつも、書いてて楽しかったです♪ ジャングルとか結構血が騒ぐ。前世、アマゾンとかアフリカとかの部族の一員だったのかな?
 ともあれ、今年も残すところわずか。皆様も悔いの残らぬよう晴れ晴れとした気分で、年末に向かえますよう、陰ながらお祈り申し上げております(-人-)




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