ざ・こんてぃにゅーいんぐ・すとーりー・おぶ・女弁慶 |
今年も○○寺の御輿担ぎの季節がめぐってきた。 昨年、女性で初めて、この御輿担ぎに参加して、一部の好事家の関心をよんだ娘の容海も、あれ以来、少しは心を入れ替えたらしく、副住職業に励んでいる。 もっとも色気の方は、まだまだ残っているようで、二度目の剃髪後、ふたたび髪を伸ばしだした。 ただし、以前みたく、バカ高い美容院に通って、チャラついた今風のヘアースタイルにするのはやめて、大人しめの黒髪ショートに安定している。 ――まあ、いいだろう。 黙認する。母と娘が見出したオトシドコロである。本当は、キチンと剃髪してくれるのが一番なのだけれども。 いつだったか、珍しく母娘で外食したとき、二度も剃ったんだし、いっそのこと、丸めちまったらどうだい? と冗談めかして勧めたら、 「いつでも剃る心構えはできてるよ」 と、なかなか性根の据わった返答がかえってきた。出家して二年以上。だいぶ成長した。 この娘になら、安心して寺を継がせられる。将来は安泰だ、と満足した。 ――ただ・・・。 尼僧容海の師僧としては嬉しいが、「母心」の部分では複雑だ。世間一般の母親同様、愛娘がツルツル坊主になるのには抵抗がある。 こないだ、娘の許に再度、御輿担ぎの儀への参加要請がきた。 「赤紙」を前にした娘に、 「気合い入れてもらっといで」 片倉さんトコで、と過去二度、娘の剃髪を請け負った床屋行きを命じると、 「どうしても剃らなきゃマズイかな・・・」 「出撃準備万端」のはずの、容海の歯切れはどうも悪い。 母、江徳には娘の逡巡の理由がわかっていた。 最近、男ができたのだ。 まだ紹介はされていない。銀行だかに勤めていると容海は言っていた。 深夜、デートの帰り、門前でキスしている現場を、偶然目撃した。容海より年下のようだった。実直そうな好青年だった。 ――あの娘にしちゃ上出来な男だ。 と相好を崩す。 今までロクな男をつれて来た例しがない。水商売風だったり、ピアスなんぞした遊び人だったり。 今回ばかりは、娘も本気で、結婚を前提に付き合っているらしい。ただでさえ婚期を逃しかけているのだ。堅気の恋人を得て、本気にもなる。 丸坊主になんかして、せっかく掴んだチャンスを棒に振りたくはないのだろう。 「別に剃ることもないだろう」 江徳は言った。今年は母心が勝った。 「そう?」 救われた表情の後継者に、 「もう子供じゃないんだし、お前が自分でいいようにしな」 と判断を委ねた。 自室で寺関係の資料を探していたら、懐かしいものを発見した。 小学生だった容海の描いた絵だ。 水彩絵の具で描かれたエプロンに長い髪の女性。 「ママ」と大書してある。 二十数年前を回想する。 「出家? 私が?」 榊江利子は、向かいの席のキタムラが、せっかちに切り出した要求に、目を丸くした。久しぶりに口にした、インスタントではないコーヒーを、味わう暇もなかった。 江利子の母は信心深い女性だった。 信心が高じて、若くして夫をなくした後、地元の人々に「庵主さん」と畏敬されている尼の許に身を寄せ、自らも得度して尼僧の道に入った。まだ幼かった江利子も、母にくっついて、「庵主さん」の尼寺の一隅に住まい、そこで寄食した。尼寺の名を海音院といった。 高齢だった「庵主さん」がほどなく遷化し、母が新しい「庵主さん」として、海音院の住持となった。 その母も、先年死んだ。 海音院の住職は空位のまま、しばらく月日が流れたが、このたび、檀家の上役たちが鳩首協議して、新住職を迎えることが決定したという。 「ついては」 と檀家役員のキタムラは言う。 「先代の一人娘の江利チャンに、出家して寺を継いで欲しいんだ」 「困ります」 無論そう答えた。 いかにも田舎紳士然とした風采のキタムラに、いきなりパート先のスーパーにまで、乗り込んでこられたときには、かなり面食らった。興信所を使ったのだ、とキタムラはタネを明かした。 話がある、と近くの喫茶店に引っ張り込まれ、用件をきけば、尼になってくれ、という。冗談じゃない。人を何だと思っているのだ。 「私、もう寺を出た人間ですから」 それに、と江利子はつづけた。 「私の地元での評判、悪いんでしょう?」 渋い顔をして沈黙するキタムラの様子に ――やっぱり。 いきなり尼僧になった母を、自分勝手だと憎んだ。随分反抗した。 中学の頃には、郷里でも札つきの不良娘だった。 母が、自分を尼にして、後継者にしようと考えていることを知って、ますます反発した。喫煙。ケンカ。カツアゲ。シンナー。果ては麻薬にまで手を染めた。住職の母の信用を失墜させてやろうと非行を重ねた。 十七のとき、妻子ある檀家の男と駆け落ちし、故郷を出奔した。 男はあっさり別の女をつくって、蒸発してしまった。 江利子はそのとき、すでに身篭っていた。 間もなく容子が生まれた。 「確かに、アンタを心良く思ってない連中もいる」 隠しても仕方ない、とキタムラは認めた。 「だが、ほとんどの者はアンタの後継話に賛成してる。俺もだよ。先代の娘の江利チャンなら、って。先代は皆に慕われてたからな」 「やめてください」 キタムラの話をさえぎった。 キタムラに母の死を聞かされても、悲しくなかった。もう親子の縁は切れているのだ。二度と海音院の敷居をまたぐつもりはない。 「先代は死ぬ間際まで、江利チャンのこと、心配してたんだぞ。臨終の床で何度も、うわ言で江利チャンの名前、呼んでたよ」 「今更そんな話、されても・・・」 もう遅い。寺のことには一切関わりたくない。 「私のことは、もう放っておいてください」 「ちゃんと生活できてるのかい?」 キタムラが江利子の身なりに目をやりながら、尋ねてきた。攻め口を変えたようだ。 「キタムラさんには関係ないことです」 突っぱねるが、語気は弱い。 未婚の母に世間の風は冷たい。女ひとりで、幼子を抱えて生きていくのは、筆舌に尽くしがたい苦労がある。学歴も身元保証人もない江利子には、マトモな就職さえ覚束ないのだ。 「容子チャン、もう小学生だっけ?」 「・・・・・・」 「今の子供は昔みたいに、ただ、三食くわせてるだけじゃダメなことくらい、江利チャンだってわかってるだろう? 女の子だって大学に通うご時世なんだからさあ。アンタ、容子チャンが大学行きたいって言ったら、学費出してやれるのかい?」 江利子はうつむいた。 先日、容子がピアノを習いたいと言い出した。 NOと答えた。経済的に難しい頼みだった。 ピアノは勿論、教室の月謝さえ払えない。 夜の仕事をやろうか、と考えている。その矢先のキタムラの出現だった。 「ここだけの話さ」 キタムラが声をひそめる。 「坊主丸儲けってわけにはイカンけど、海音院の住職なら、普通のサラリーマンより見入りがいい」 ゴクリと江利子の喉が鳴った。そんな自分を浅ましいと恥じた。 キタムラは江利子の心にたった、さざ波を見逃さず、 「どうだい? 引き受けてくれないか」 と畳み掛ける。 「もう昼休みが終わるので」 足早にテーブルをたつ背中を、 「日曜の午後一時、ここで待ってるから」 というキタムラの声が追った。 「ヨウチャン、いい子にしてた?」 パート先でもらった、コロッケの紙袋を抱えて、アパートに帰ってくる。 容子のクツはある。が、返事がない。 「ヨウチャン?」 容子は部屋の隅で泣いていた。 「またイジメられたの?」 いつものことだ。 貰い物のボロボロのランドセルをからかわれ、級友の持ち物が紛失するたび、吊るし上げられる。典型的なイジメられっ子だ。 「ご飯にしよっか?」 容子はまだ泣いている。 「今夜はコロッケだよ〜」 「・・・ピアノ・・・習いたい」 蚊の鳴くような声で、せがまれた。二回目だ。日頃、聞き分けのいい容子が、こんな執着をみせたのは初めてだった。 「○○ちゃんも○○ちゃんも習ってる。あと、○○ちゃんも・・・」 「他所の子は他所の子」 と、たしなめながらも、我が身を不甲斐なく思う。 「わかったわ」 膝に顔を埋めてる容子の肩に、そっと手をおく。 「ママも考えてみるから」 「ホント?!」 「うん。だからご飯食べよ」 尼寺の住職になる以外に、全くアテがないわけではない。 ただ、それは、女としての尊厳を犠牲にする選択だった。 数日前、パート先の主任のコガに、愛人にならないかと迫られた。 コガは強引だった。 「榊さん、どう?」 と至近距離で口説いてくる中年男の口臭に、思わず顔をそむけた。 「榊さあん、キレイな髪だねえ」 コガは断りもなく、江利子のたっぷりとしたロングヘアーの感触を、サラサラと掌で愉しんでいた。皆が褒めてくれる髪、とりわけ容子は気に入っている。暇さえあれば触れたがる。猫みたいにジャレつく。拙い手つきで、編む真似事をする。 いつか、 「ジャマだし切ろうかしら」 とポロリと口にしたら、 「ダメ! 絶対切っちゃダメ!」 とあの引っ込み思案の娘が、頑なに首を振っていた。 その髪をコガに弄ばれて、ゾッと総毛だった。 ――触るな! 元不良の血が騒いだが、こらえた。やっとのことで見つけた働き口を失いたくなかった。 「店長、冗談はやめてくださいよ」 ひきつりながらも笑顔をつくり、穏便に取り繕おうとするが、 「榊さあん、ボクは本気だよぉ〜」 口臭が接近する。 「ちゃんと月々、手当ては出すからさあ。ね?」 考えておきます、となんとか、その場を逃れた。 その夜、久しぶりに、容子と銭湯に行き、コガに触られた髪を何度も洗い流した。 以来、コガは、江利子への欲望を隠そうとはしなくなった。職場で手を握られたり、髪や身体を撫でられた。 キタムラもコガも金のことを口にした。 どいつもこいつも、人の足元を見て、尼さんになれだの、愛人になれだの、手前勝手なことばかり。悔しい。 ――だけど・・・。 容子がいる。 容子を育てる義務がある。容子は生き甲斐だ。娘がピアノを習いたいと望むのならば、習わせてあげたい。容子のためなら、何だってできる。 ――コガの情婦になるしかない。 今になって、おめおめ帰郷できない。母のようには生きられない。 ――尼になんて・・・。 しかし日曜日、キタムラが指定した時間、指定した場所に、足を運んでしまった。コーヒーにつられたのだ、と自分に言い訳して。 「容子チャンは?」 と訊かれ、 「知り合いの家に預けてきました」 嘘をついた。容子を預かってくれる知り合いなどいない。今頃、アパートでひとり、お絵描きでもしているだろう。 「どうだい?」 キタムラは相変わらずせっかちだった。 「こっちとしても、あまり悠長に構えてはいられなくってね、アンタがどうしても、断るって言うんなら、他に住職になってくれる人を探さなくちゃならないからさ」 焦りを感じた。何故だろう。寺を継ぐつもりなんてないのに。 「あの・・・住職になるってことは・・・当然、その・・・頭を剃って、修行しなくちゃならないんですよね?」 江利子の質問に、キタムラはちょっと口ごもった。 「まあ、ね。江利チャンだって寺で育ったんだから、わかるだろう?」 「それは・・・難しいです。私には娘がいますから」 キタムラは腕組みをして聞いている。 「容子をおいて修行にはいけません。それに母親が尼さんじゃあ、あの子がかわいそうです。坊主頭では授業参観にも出られませんし」 自己嫌悪をおぼえた。本当は自分が尼になりたくないのに、理由を娘のせいにしている。 「容子チャンなら、修行中はウチで預かるよ。授業参観には鬘をつけていけばいい。そういう尼さん、いくらでもいるよ」 キタムラは食い下がった。 「修行はそんなに長い期間じゃあない。髪を切りたくないなら、そういう尼僧道場もある」 「キタムラさん」 初老の田舎紳士に思い切って尋ねた。 「どうして、そんなに私を後継者にしたがるんですか?」 キタムラは再会してから、初めて破顔した。 「実を言うとさ、俺も最初は半信半疑だった。江利チャンとは江利チャンが高校生のとき以来会ってなかったし、正直、アンタに住職が務まるもんか自信がなかった。けどさ、アンタをこの目で見て、確信した。アンタなら立派にやれる。いい尼さんになるって。アンタは認めたくないだろうけど、やっぱり、あの庵主さんの娘だよ」 「・・・・・・」 コーヒーを、ひとくち飲んだ。 気づけば、人生の岐路に立っていた。 キタムラに賭けて尼になるか。 コガにこの身体を委ねて、彼の情婦になるか。 「どうだい?」 この返事に、自分と容子の運命がかかっている。 ――やってみようか。 コーヒーを飲み干すと同時に、決断した。 「わかりました。お引き受けします」 「やってくれるかい?」 「海音寺を継ぎます」 イロ(情夫)にもつなら、コガよりホトケサマの方がいい。 「ありがたいっ!」 キタムラはガッシリと江利子の手を、両の掌で握りしめた。 即日、パートを辞めた。 しつこく引きとめようとするコガを、ブン殴ってやった。スッとした。 容子の手をひいて、夜行列車に乗り込んだ。 「ママ・・・アマサンになるの?」 幼い容子も薄々、事情を理解しているようで、 「頭、ボウズにしちゃうの?」 と心細げに訊いてきた。 「しないわよ」 多少は短くするかも知れないが、ツルツルにはならない、と答えると、容子は安堵して眠りにおちた。 帰郷。 キタムラをはじめ、壇信徒らは、新しい「庵主さん」候補を駅のホームに、出迎えてくれた。 後ろ足で泥をかけて飛び出した郷里。温かい反応に、キマリの悪い思いをした。 ただちに有髪の許されている尼僧道場に入門が決まった。 海音寺での日々は快調に滑りはじめた。 だが、地元は必ずしも、歓迎ムード一色ではない。日が経つにつれ、一部の人間の、自分へのいまだ根強い反感、あるいは軽蔑を感じた。 連日、寺に届く匿名の手紙には、ふしだらな女が住職など認めない、とあった。 出て行け、淫売、などと殴り書かれた紙が、門や塀に貼られていたりもした。 外出すれば、好奇に満ちた視線が自分に集まる。 「気に病むことはないさ。一時のことだよ。アンタの将来は俺が保障する」 キタムラは力強く励ましてくれたが、江利子は「第二の決断」の必要を痛感していた。 一晩、まんじりともせず覚悟を固めた。 ――母さん・・・。 江利子がいま、思い悩んでいる部屋で、母は髪をおろした。 「庵主さん」が器用な手つきで、母の黒髪に剃刀を入れていた。 母は合掌し、身じろぎもせずに、瞑目している。 ゾリッゾリッと、一房、また一房、母の頭から髪が失われていく。 少女だった江利子は、女でなくなっていく母の姿に戦慄した。 ――こわい! と震えあがった。 母が自分に寺を継がせるつもりだと知ったとき、キタムラが後継話を持ち込んだとき、真っ先に浮かんだのが、この光景だった。 ――母さん・・・。 ふたたび虚空の母に呼びかける。 ――逃げられない運命なんだね。 だったら立ち向かおう。突きつけられた運命を味方につけよう。自分のため、容子のため。 夜が明けると、キタムラの家に出向いた。 「どうしたんだい?」 時ならぬ海音寺次期住職の訪問に、キタムラは不審そうだった。 「お願いがあるんです。修業先を変えたいんです」 「まだ間に合うと思うが・・・どこか希望でもあるのかな?」 「できるだけ厳しい道場にして下さい、剃髪も義務付けられている」 「ほう」 江利子の意外な申し出に、キタムラが目を見開く。 「なんで、また?」 「ケジメです。住職として信用を得るには、それ相応の決意を示さければならないと悟りました」 江利子の気迫に、キタムラもうたれた様子で、 「本気みたいだな」 「ハイ」 「まあ、修行が終わってからでも、髪は伸ばせるしね」 「イエ」 江利子はキッパリと言った。 「もう一生、髪は伸ばさないつもりです」 江利子が剃髪すると知って、容子は、やだ、やだ、と駄々をこねた。まるで自分が坊主頭にされるかのように。 「ヨウチャン」 江利子は厳しい表情で、娘の顔を睨んだ。 「女にはね、髪を切ってでも頑張らなきゃいけないときもあるの」 「剃髪についてなんだが」 修行に出立する日が近づいてきた、ある日のこと、明日床屋に行くと話す江利子に、キタムラが言いにくそうに、 「檀家のキミエさんが是非、ハサミをとらせて欲しいというんだ」 試すような目をするキタムラに、 「それは・・・」 江利子は絶句した。 かつて駆け落ちした男の妻だった。 「やっぱり断ろうか」 「イエ、お願いします」 ――これもケジメ。 と自分に言い聞かせた。 「まさか江利チャンが庵主さんになるとは思ってもみなかったわ」 キミエは、刈布に身体中、すっぽりくるまれ、身動きがとれずに、庫裏の縁側に腰かけている仇敵を、ひんやり見下ろしている。嗜虐的な暗い瞳で・・・。 キミエが持参した薄汚い刈布からは、すえた臭いがした。 楽し・・・というキミエの微かな呟きが、耳に入った。 楽しいだろう。 夫を、平凡ながらも幸福だった生活を、奪った憎い女の髪を自らの手で、ザクザクと切り落とすことができるのだ。できれば喉笛を掻き切りたいぐらいだろう。 反面、そんなことでしか鬱憤を晴らすことができないキミエを、哀れだとも思う。 江利子は一言も詫び言を口にしなかった。謝って許される罪ではない。ただ、 「遠慮なさらず、存分に」 とだけ言った。 「遠慮?」 キミエがせせら笑う。誰が遠慮なんてするもんですか、と言いたげに。 キミエがゆっくりと憎悪の対象の黒髪を梳りはじめる。女の命に執拗に櫛をいれる。 江利子の「命乞い」を期待しているのだ。 少し離れて容子がいる。容子は何も事情を知らない。容子の傍らに、詰襟の学生服を着ている少年が立っている。キミエの息子だろう。彼は母と江利子のことをわかっていて、 この場に立ち会っているのだろうか。 「いくわよ」 修羅の道に堕ちた女の声は弾んでいた。 「お願いします」 いまの自分にできることは恨まれることだけだ、と思った。 「ケンイチさん、優しかったんですよ」 わざとキミエを挑発することを言う。仇は仇らしく、キミエにいらぬ仏心を抱かせぬように、と。 「・・・・・・」 「結局、あの人はキミエさんのこと、愛してなかっ・・・ッ!!」 激しい痛みに、江利子は低くうめいた。 逆上したキミエが、手動バリカンを力任せに、江利子の頭上に走らせたのだ。 バサリ。 長年慈しんできた髪が乱暴に収穫され、冷たい地べたに落ちた。 「痛かった? ごめんなさいね〜」 キミエは笑った。凄みのある形相だった。 「家も生活が苦しくってね〜。マサルの散髪も近所から頂いた、このお古のバリカンで私がやってる有様なのよ。痛かったら遠慮なく言ってね」 戦慄をおぼえた。江利子が、痛い!痛い!と悲鳴をあげて苦悶するさまを期待しているのだ。 「お願いします」 カチャカチャと手動バリカンは牙を鳴らし、迫ってくる。 二刈り目が容赦なく入れられる。 ジャリジャリジャ・・・。錆びたバリカンは豊かな髪に抵抗され、なかなか前進せず、キミエは舌打ちしながら、グリグリとバリカンを押し込む。 歯を食いしばって激痛に耐える。全ては自分の蒔いた種だ。甘受せねばならない痛みだ。 ――できることなら・・・ 恥も外聞もなく、ヒィヒィと泣き声をあげてしまいたい。 ――だけど・・・ 容子を見る。泣きそうな顔だった。それでも黒髪を落とす母親をじっと凝視している。 容子の前でみっともない姿をさらしたくはない! 三度、四度と収穫は繰り返される。 バサリ、バサリと地面に落ちた髪の束を、キミエは邪険に足で払いどかす。 頭に残寒をおぼえた。きっと無残に刈り散らかされているのだろう。 バリカンが耳の真上にあてられ、グイと頭上に向け、進軍する。原住民の激しい抗戦に停滞しながら、上へ上へと、登りつめて、止まる。 キミエの左手が六十センチほどの髪束を鷲掴んでいた。ポイと放られた髪束は、たちまち砂埃にまみれる。 「江利チャンも坊主頭になっちゃ、もう男遊びもできないわよね〜」 「・・・・・・」 江利子はうつむいた。キミエは口撃を続ける。 「色キチにこれ以上悪さをするなっていうホトケサマのご意思なのよ」 「口ではなく、手の方を動かしてもらえますか?」 激痛がふたたびはじまる。涼気を感じる頭の部分は広がり、キミエの足払い運動は頻繁になって、尼僧への道を漸進する。 略奪した男の妻に、女としての自分を殺される。因果応報だ。 頭が軽い。生まれて初めてのぞいたウナジが近づく春を感受する。 これまでの汚猥がサッパリと髪とともに、落ちていくような気持ちがした。 キミエのバリカンさばきが、心なしか丁寧になった。 「アンタもさ、苦労したんだろうね」 聞こえてきた声は優しかった。 「容子ちゃん抱えて、女ひとりで随分頑張ってきたんだろうね」 良く考えたら私たち、おんなじなのね、と刈り込んだ丸刈り頭の毛くずを払いながら、キミエは寂しく微笑した。おんなじオトコに惚れて、おんなじオトコに逃げられて、おんなじオトコの子供を女手ひとつで育てて。 容子はヒック、ヒックと唇を噛んでしゃくりあげていた。無表情だったキミエの息子の顔にも、ほんのり赤みがさしていた。 「これで許すわ」 とキミエは言った。 うっ、とこみあげてくるものがあった。あんなに堪えていた涙がこぼれる。 「す、すみませんでした・・・」 あっちに行こう、と少年が容子を連れて、その場を離れる。江利子に気を使ってくれている。容子は少年を腹違いの兄と知らぬまま、手をひかれ、何度も母たちの方を振り返りながら、ついていく。 「すみませんでした。親不孝して、いっぱい人を傷つけて・・・ゴメンナサイ、ご、ゴメンンサイ!」 江利子はキミエの胸に顔をうずめ、嗚咽した。 「つ、辛かったんです。本当につら・・・かったんです!」 「やり直せるわよ」 いい庵主さんにおなりなさい、とキミエは江利子の坊主頭を両掌で包んだ。 シェービングをほどこされ、青々とした剃髪姿になった母を前にして、容子は大声で泣きじゃくった。 「これが新しいママなのよ。早く慣れて、ね、ヨウチャン」 と娘をなだめたが、容子は頑なに首を横に振っていた。 キタムラがたおれたのは、修行を終えた江利子が住職として普山して間もなくだった。癌だった。 初めて江利子のパート先を訪れたとき、キタムラは自らの余命が幾ばくもないことを知っていた。そして最後の力をふりしぼって、江利子を海音院の住職の座に据えたのだった。 「すっかり庵主さんらしくなって」 病床のキタムラは、見舞いにやって来た江利子の尼姿に満足そうに目を細めていた。 「間に合ってよかったよ」 「何がです?」 「新しい庵主さんに・・・江利チャンに・・・俺の弔いをしてもらえてさ。嬉しいよ」 江利子はキタムラの秘めた想いに、ようやく気がついた。そっとキタムラの手を握った。 「縁起でもないこと言わないでください。キタムラさんの手助けがなくっちゃ、私なんて半人前です。私をこの道に引き込んだのは、キタムラさんなんですからね。ちゃんと責任もって、これからも長生きして、私の行く末を見届けてもらいます」 キタムラは瞑目し、想い人の手を握り返した。それが精一杯のようだった。 キタムラが世を去ったのは、その二日後だった。 容子は尼僧の母を、なかなか認めようとはしなかった。 学校の図工の時間、母親の絵を描くように、という教師に対して、ロングヘアーにエプロン姿のウソの絵を提出した。 年頃になると、坊主頭の母親が平然と授業参観に来るのを嫌がった。 恥ずかしいから来ないで、と懇願する娘を 「何言ってるんだい!」 と叱り飛ばした。 「尼さんのどこが恥ずかしいんだい。ウチはこの頭で食べてるんだよ」 ふくれっ面の容子を見据えて、いつの日か娘も理解してくれるだろう、と自らをなぐさめた。 結局、容子も自分と同じ道に入った。母から自分、自分から娘、とタスキは渡される。そう考えると感慨深いものがある。 容子の絵をしまう。 居間に戻ると容子、いや容海がテレビをみていた。 母親が入ってきたのにも、テレビがCMに切り替わったのにも、気づいていないで、なにやら考え込んでいる。 「ヨウチャン」 と声をかけると、静電気が走ったようなリアクションをして、 「なんだ、母さんか〜」 なによ、昔の呼び方して、キモチワルイと、テレビを消した。 「久しぶりにアンタのピアノ、聴かせとくれよ」 「なによ、いきなり」 「いいじゃないか」 促されて、容海が渋々、居間に陣取っている中古のピアノの前に座る。そして楽譜とにらめっこしながら、指を動かしはじめる。 ――ヘッタクソだねぇ〜。 失笑を禁じ得ない。ミスタッチばかりで、知らないで聴いていると到底、ちゃんとした曲とはわからない。 ――やれやれ。 あれほど強情はって、習いたがってたくせに、バイエルの途中で投げ出してしまった。尼僧稼業もこんな調子でやめてしまわなければいいが、と少し心配だ。 「母さん」 ピアノと懸命に格闘しながら、容海。 「なんだい?」 「明日、片倉さんの店、行ってくるから」 ポロポロとヒッチャカメッチャカなバイエルの練習曲が、母娘の沈黙を埋める。 「・・・いいのかい?」 「なんで?」 「オトコに逃げられちまうよ」 「その時はその時」 と容海は背中で答える。 「坊主頭くらいで逃げる男なら、こっちから願い下げよ」 それに、と未熟なピアニストは続ける。 「アタシ、片倉さんと結構波長が合うのよね〜」 「あのクマみたいな主人とかい?」 「そう」 「だったら一緒になりゃあいいじゃないか。あのクマ男なら、坊主頭の嫁だろうが、喜んでもらってくれるだろうさ」 「それもアリだね」 ――まったく・・・。 冗談か本気かわかったものではない。ともあれ、 「今年の御輿担ぎはうまくいくといいねえ」 「うまくいくって。アタシ、本気出せばやれるんだから」 容海は妙に自信たっぷりに、鍵盤をたたいている。 「本当かねえ」 娘のいつにない自信を訝りつつも、内心嬉しい母である。 「うまくいくって」 ポン、ポンとピアノが軽快なスタッカートを刻んだ。 (了) あとがき 「懲役七〇〇年」史上、完成までに最長の時間を要した苦心作です。とりかかったの春だったな〜。 いつもヘタレな迫水作品のヒロインたちだが、たまにはカッコイイ尼さんがいてもいいだろう、という趣旨のもと、白羽の矢が立てられたのが、「女弁慶」の榊容海のご母堂である。 しかし、あまりのベタさ、クサさに何度も中断。このまま、ボツにしようかと挫折しかけました。実際、未完成のまま、放置プレイを続けていたのですが、いや、待て、そんなに悪くないんじゃないか? と自分を励まし、ようやく完成にこぎつけました。 「女弁慶」(容海の尼僧時代)、「フェルチェ」(容海の高校生時代)と合わせて読んでいただくと、それも面白いかな〜、と勝手に思ったりして。 読み返してみて気づいたのだが、断髪描写が思いっきりドMだ。 |