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驟雨の後で


 時は80‘s

 一希は急ぎ足で校庭を歩いていた。
 一心不乱に歩く。心が急く。心が逸る。校内を走ることは禁じられている。その制約内で許される限りのスピードで、一希は歩をすすめる。
校門まであと7m・・・6m・・・5m・・・
「穂積さん、待ちなさい」
と呼び止められ、一希がもどかしげに振り返ると、教師の三波が立っていた。
「挨拶を忘れてるわよ」
 頭の中は「校外のこと」でいっぱいで、すれ違ったのに気付かなかったらしい。
「すみません」
 一希は膨れ面で謝り、
「ごきげんよう」
とかったるそうに型通り挨拶する。
 三波は話のわかる教師だ。反抗的な態度の一希にも、
「欠礼は鉄拳五発よ」
などと笑いながら冗談を言って、ごきげんよう、と挨拶を返し、去っていった。
 校門を出るなり、一希は夢中で駆けだした。
 学校の裏手にある白樺の林を、息を切らせて走り抜ける。
 やがて白樺の林が尽き、湖が見える。
 小さな湖、その湖の畔に克己は居た。
 一希の胸は躍る。高鳴る心をおさえ、克己の背中に、抜き足、差し足、2m・・・1m・・・50cm・・・
「克己!」
 ガバッと抱きついた。
「わっ、ビックリした! 一希か!」
「うふふ、驚いた?」
「うん、すごく驚いた。授業は終わったんだね」
「うん」
 一希はうなずいた。
 空は少しずつ翳りながらも、温かな風を吹かせ、若い二人に束の間の恩寵を与える。風は湿り気を帯びている。ひと雨来そうだ。
 一希は靴を脱ぎ、ソックスを脱ぎ、水辺を歩く。そんな裸足の彼女に、克己はニコンのカメラを向け、何回もシャッターを切る。
「口の中は撮らないでよ」
と一希はカメラマンに、いつもの注文を繰り返す。
「OK」
 克己はうなずき、またシャッターを切る。
「春なのに冷たい」
 足をひっこめ、口元を隠して笑う一希に、
「春だから冷たいんだよ。もうひと月くらい待たないと」
と一希に付き合って裸足でいる克己は笑った。
 二人の距離は自然に縮まる。
 一希は水に浸した足を、水や泥にとられぬよう、ゆっくりと克己に歩み寄っていく。2m・・・1m・・・60cm・・・20cm・・・ゼロ。
 二人はごくナチュラルに、抱き合い、唇を重ねる。
「オレ、一希の長い髪が好きだよ」
 克己は、そう言って、一希の背中まである豊かな髪を、愛おしそうに何度も撫でる。
「嬉しい、嬉しいよ、克己」
「もう少ししたら、夕立がくる」
と克己は言う。
「行こう」

 穂積一希(ほづみ・かずき)がこの山間(やまあい)の町に引っ越してきたのは、半年以上も前だ。
 両親の仕事(アート関係)の都合から、都会からここへ来た。学校も転校した。新しい学校はミッション系の女子校だったが、その厳格な校風に、比較的自由な都会の高校に通っていた一希は、どうしても馴染めずにいた。だから、孤立して、いつも一人でいた。
 そんな暗闇に、一条の光が、不意に射した。
 それが「彼」だった。
 出会いは、この町の短い夏の終わりの頃だった。
 授業をさぼって、白樺の林をさまよい歩いていると、一人の青年がいた。マッシュルームカットで、温和そうな顔立ち、やや華奢な身体つき、どことなく中性的な雰囲気のある青年だった。
 青年は野鳥の写真を、カメラにおさめていた。
 あまりに熱心に撮っているので、一希は興味をひかれた。声をかけてみた。
「鳥が好きなんですね」
と。
 思わぬ闖入者の出現に、青年は、ビクッ、と肩を波打たせ、おそるおそる背後を振り返った。後ろに立っている一希の好奇に満ちた無邪気な表情(かお)に、安堵した様子で、
「ああ、うん、鳥は好きだよ。でも、それより――」
 カメラが好きなのだ、と青年は言った。被写体として心惹かれるものならば、鳥に限らず何でも好きだ、と。
「ここら辺の道祖神や野仏も全部、フィルムにおさめたよ」
「プロのカメラマンを目指しているとか?」
「そんな大それたことは考えてないよ。ただの趣味」
 青年は一希に問われるままに、自身の身の上を語った。
 入江克己(いりえ・かつみ)21才。東京の大学に通っていたが、休学して、今はこの近くのペンションに住み込みで働いているという。
「男手が増えて助かる、ってオーナーの奥さんは大喜びだったけど、ご覧の通り痩せっぽちの非力でね、薪割りさえ満足にできなくて、情けない有様さ」
 そう自嘲して、克己は微苦笑した。
 その憂いを帯びた横顔に、一希はときめくものがあった。

 それから一希が、克己の一番の被写体になるまでに、そう時間はかからなかった。
 出会った白樺の林で、湖で、車中で、路上で、街角で、カフェで、レストランで、田の畔で、神社で、海岸で、雪原で、一希の写真は増えていった。思い出も増えていった。
 一希の学校では男女交際は禁じられていたが、二人は逢瀬を重ねた。そんな状態さえ、一希はスリルをおぼえ、あたかも、ナチス統制下の「白バラ」のレジスタンス運動家たちになったかのような高揚すら感じ、禁則はかえって一希の恋心を燃え立たせる焚き木となるばかりだった。
 寂しい秋も、凍えそうな冬も、二人は熱い想いを通わせ、乗り切った。
 一希は克己に夢中だった。
 毎晩電話した。お互いの境遇を顧慮し、会話は5分と決めていたが、ついつい時間を超過してしまうことも、しばしばだった。
 母に教わって手編みのマフラーをプレゼントした。克己が好きだと言っていた小説やレコードも借りて、読んだり聴いたりした。
 美容にも今まで以上に気をつかうようになった。ファッション、スキンケア、ダイエット、etc・・・特に克己が「好きだ」と言ってくれるロングの髪のケアには、念を入れる。
 歯列矯正もはじめた。以前から、母から勧められていたが、自分の八重歯をひそかにチャームポイントにしていた一希は、あまり気乗りがしなかった。しかし、ルックスのアップにつながるかもと考え、やることにした。
 シルバーの矯正器具を歯にはめた。なんだか恥ずかしくて、一希は、しゃべるとき、笑うとき、必ず手で口元を隠すようになった。一時の辛抱だ。
 ただでさえ、洗練された都会娘だったのが、ますます磨きがかかり、
「一希、一体どうしたんだい?」
と父親が目を瞠るほど美しくなっていた。
「芸術家のくせに、鈍感ねえ」
と後で母は肘で夫の脇腹をつついた。母はちゃんとわかっていた。

 しかし、遅い春がはじまって、しばらくした頃、それは起きた。
 克己の一希への態度がおかしくなってきた。
 上手く言えないけれど、どこかよそよそしい。
 一希が話しかけても、上の空でいることも多いし、仕事を理由になかなか会ってくれなくなった。逢瀬の回数はめっきり減った。口数も減った。カメラのシャッターに指をかけることも減った。風邪だから、とキスを拒まれたりもした。何かを思い詰めているかのように、沈鬱な面持ちでいることが度々あった。心の内に秘めているものがあるように、一希の目には映る。
 それでも一希は懸命に克己に寄り添おうとした。しかし、それも、一希のひとりよがりに終わった。
 運の悪いことは続くもので、克己との関係が学校側に発覚してしまった。
 学園長の部屋に呼ばれ、教師たちが居並ぶ中、一希は尋問を受けた。
 一希は反発した。退学も覚悟した。教師の中で三波だけは一希をかばってくれたが、しかし、大勢の教師たちに取り囲まれ、お前のやっていることは罪だ、悔い改めるべきだ、と責めたてられると、所詮は十代の少女、最後には反省文を書かされ、もう二度と克己とは逢わないと誓わされた。
 しかし、面従腹背、その日も克己に電話する一希だった。
 だけど、克己は黙りがちで、会話は弾まない。
 学校での件についても、
「大変なことになったものだなぁ」
とまるで他人事のよう。
 たまりかねた一希が、
「こっちは退学覚悟で電話しているんだよ! 何よ、その態度!」
と詰ると、
「なぁ」
と克己も真剣な口調になり、
「こうなった以上、オレたち、もう逢わない方がいいんじゃないかな」
と言い出した。
「オレのせいで一希の将来がメチャクチャになっちゃったら、オレ、一希にも一希の両親にも合わせる顔がないよ。もし一希が退学にでもなったら、こんな田舎じゃ、皆から白い眼で見られるだろうし・・・辛いけど、もう逢うのはよそう」
「そんなおためごかしは止めて。あたしに飽きたなら、飽きたって正直に言えばいいでしょ!」
「いや・・・そんなつもりじゃなくて・・・あっ、ごめんね、お客さん来たから」
 電話は切れた。一希は受話器を置いた。
 恋は終わるのだろうか。それとも、この逆境を乗り超えたら、以前よりも強い絆が生まれるのだろうか。できれば後者であって欲しい。
 ――とにかくちゃんと話そう。
と思う。
 ――電話ではなく、直接会って話さなきゃ。そう、明日にでも。
 もう一度、克己の心のドアをノックしてみよう。
 ――これまでもうまくやってきたんだもん。これからだって・・・大丈夫、大丈夫。
 自分に言い聞かせた。

 しかし、その翌日、一希はインフルエンザに罹ってしまった。
 病臥していても、頭に浮かぶのは克己のことばかりだ。もどかしい。
 四日経つと熱もさがり、体調は回復した。
 そして、克己にアポイントメントを取り付けるため、彼の働くペンションに電話した。ペンションのオーナーが電話に出た。
 克己に取り次ぎを乞うたら、オーナーは驚くべきことを言った。
「入江君なら辞めたよ」
 三日前のことだという。
 一希は度を失い、ペンションに自転車を飛ばした。必死でペダルを踏んだ。
 オーナーと会い、直に話を聞いた。オーナーは一希にホットミルクを振る舞いながら、知っていることを話してくれた。
 克己は急遽、東京に戻ったという。
 オーナーの話すところによれば――
 克己は大学で或る令嬢と恋に落ちたが、先方の両親に交際を猛反対され、失意のうちに大学を休学して、傷心を癒すため、この山深いペンションを訪れ、都会での煩を避けたのだそうだ。しかし、最近になって想い人が、両親に膝詰めの談判をして、ようやく克己との交際を認めるよう説得できた。その報に克己は小躍りし、すぐさま上京し、復学することを決めた。そうして、とるものもとりあえず、この地を去ったのだった。
 オーナーの話が真実ならば、
 ――あたしは克己にとって、一体何だったのだろう・・・。
 一希は呆然となる。
 ワラにもすがるような思いで、
「克己さんから何か預かっていませんか? 手紙みたいなものとか・・・言伝でも・・・」
と訊ねたが、
「ないねえ」
 オーナーは気の毒そうに頭を振った。
 一希は目の前が真っ暗になった。激しい絶望に襲われた。
 春の日差しの温もりも、一希の心には届かない。
 結局は克己の本命は東京の女子大生で、自分は暇つぶしの「現地の愛人」に過ぎなかったのだ。彼のバカンスの「おなぐさみ」でしかなかったのだ。
 一希は克己を呪った。許せない、と思った。男心は本当にわからない、と匙を投げたくもなった。今までの思い出を全部台無しにされたという悲しい気持ちにもなった。あんなに激しく愛し合ったのに、こんなあっけなく終わってしまうなんて。
 それから、自転車をカラカラひいて、どこをどう歩いたか思い出せない。それでも、自宅に辿り着いていた。
 帰宅するなり、自室へ直行した。
 ベッドに突っ伏し、思い切り泣いた。初めての恋を失った。

 そんな酷い仕打ちを受けても、まだ諦めきれずにいる一希がいる。
 町を歩いていて、髪が長めで痩せた黒い服(克己は黒い服を好んで着ていた)の青年を見かけると、
 ――克己?!
 ハッとなる。そんなことが日に何度もある。
 そのたび、
 ――もう克己はここにはいないんだ。今頃東京で女子大生の彼女とよろしくやっているんだ。
と一希は自分に言い聞かさねばならなかった。
 それでも克己への未練は消えない。消えないどころか、ますます強くなっていく。そんな自分に、バカみたい、と苛立つ。
 今日も学校をサボって街をぶらつきながら、
 ――こういうときは、どうすればいいのだろう・・・。
と途方に暮れる。同時に、
 ――なんであんな男のことなんかで・・・。
という憤りもある。
 幸福そうなカップルとすれ違うたび、呪わしくなったりもする。
 ベーカリーのウインドウに映る自分が目に入った。
 髪は乱れ、両眼は虚ろ、頬はこけて、まるで幽霊のようだ。誰よりも一希本人が驚く。
 ボサボサ頭に手をあて、
 ――髪切ろうかな・・・。
 漠然とそう思った。世間の女の子の中には、失恋して髪を切る娘も結構いるらしい。ちょっと前までの一希はそんな風潮を、くだらない、と嗤っていたけれど、今は違う。
 髪をバッサリ切って、このモヤモヤを、このムシャクシャを、吹き飛ばしたい。そうやって過去と決別し、心を未来へと向けたい。
 でも、せっかくここまで伸ばした髪だ。ちょっともったいない。一希はためらう。
 そこへ突然雨が降ってきた。
 雨脚は激しい。スコールみたいな夕立になる。まるで一希の気分に同調するかのように。
 街もあわただしくなる。店々は露天にひろげていた商品を引っ込め、人々はそんな商店の軒下に、雨を避ける。
 一希も雨宿りする。いっそ、この雨が聖書の大洪水のように、全てを押し流してくれればいいのに。捨て鉢な思いに駆られる。
 一希が自分に軒先を提供してくれている店が、小さなカットハウスだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
 店名は、
 Alice
とあった。その店名にピッタリの英国風のエレガントな外装だった。
 髪を切ろうか迷っていた矢先だっただけに、一希にはこの偶然がただの偶然とは思えなかった。何か見えない力が、自分の背中を押してくれているような気がした。
 迷いは瞬時に霧消した。
 一希はカットハウスのドアを開けた。

 カランコロン
とドアベルが鳴る。
 いきなり巨大なハンプティダンプティのぬいぐるみが、ドーン、と一希の視界に飛び込んできた。
「いらっしゃいませ」
 明るく弾んだ女性の声がした。三十代後半くらいの美容師がいた。一人で店を切り盛りしているらしかった。
 一希は店の中を見回す。
 小さな店だが、内装も凝っている。
 木材がふんだんに使われている。キュートなデザインのソファーやクッションやぬいぐるみが置かれている。アンティークのインテリアの数々が、落ち着いた雰囲気を醸し出している。なんと蓄音機まである。なんだか、童話の世界の住人になったような気分になる。
 洒脱で風刺的な西欧のイラストも何点か、額におさめられて飾られている。きっと名のある創作家が描いたに違いない。ビクトリア朝時代のポスターや、黄ばんだフランス語の手紙も同様に、額に入れ飾られていた。きっと歴史的価値のある物なのだろう。ローズマリーやミモザのスワッグも壁を彩っていて、ともすれば沈みがちになる骨董品とコントラストをなし、いい具合にアクセントになっている。
 客は一希の他、誰もいない。
「あの・・・予約してないんですけど・・・」
「構いませんよ。この時間の予約は入っておりませんので」
 美容師はあっさりと応じた。物腰の柔らかな人だ。
「今日はカットでしょうか?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
 話はスムーズに進み、一希はカット台に座る。
 自分が制服姿だったのに気づいて、一希はあわてた。「学校はどうしたの?」と訊かれると厄介だ。言い訳を半ダースほど考えたが、美容師は最後まで、そのことについては触れなかった。
 カットクロスを巻かれ、
「どれくらい切りますか?」
と訊ねられ、
「短く切って下さい」
と言ったが、まだ言葉が足りないように思え、
「うんと短く、サッパリと」
と言い添えた。
「ショートでよろしいのでしょうか?」
「ベリーショートに」
「いいんですか?」
「はい」
 一希は淀みなく答えた。
 それから、一希と美容師は話し合い、具体的な長さや形について決めた。美容師は概ね、一希の要望を容れた。
 話はまとまり、いざカットとなる。
 美容師は霧吹きを使い、一希の長い髪を湿らせていった。
 水分を髪全体に行き渡らせると、美容師はレザーとコームを両手に、水気をたっぷりと含んだロングヘアーを削いでいった。見事な手際だった。
 右側から襟足、左へと、グルリとレザーで髪が断たれる。ザッザッザッ、ザッザッザッ―― 一希の髪はまず首筋のところで揃えられる。
 床にはたくさん髪が散っている。克己が「好きだよ」と言っていた長い髪が、屍と化して、永遠(とわ)の眠りについている。
 それを見て、一希はフッと微笑する。せいせいした。この解放感よ!と叫びたかった。
 オカッパ頭がブロッキングされ、いよいよベリショコースへと進む。
 美容師はレザーをハサミに持ち替え、ハサミは、チャッチャッチャ、と軽快に鳴り、一希の髪を、彼女の望む短さへと切り込んでいく。
「頭が軽くなりますよ」
と美容師は明るい口調で言う。
「そうですね」
と一希もつられて笑顔になった。鏡の中、ブラケットをつけた歯が剥き出しになり、一希はあわてて口を閉じた。
 チャッチャッチャ、と耳周りが刈られる。ブロッキングした髪も解かれ、切られる。モミアゲをわずかに残して、耳が、まず右、次いで左、とスッキリと出る。
「もう春ですものね」
 美容師はひとりごちるように言いながら、シャキシャキと仕事をすすめていく。
 目にかかる前髪も、ジョキジョキ切り落とされる。前髪は眉毛にかからぬこと、という校則に抵触しているので、これまでことあるごとに注意を受けてきたが、これで教師たちも何も言わなくなるだろう。
 襟足が刈られる。ウナジがのぞくほど切り詰められた。
 のぞいたウナジに、店の空調を確かに感じる。隠れっぱなしだった両耳も、外の空気を感受し、ほのかに紅く染まっている。
 美容師は素晴らしい手際で、一希の髪の量や長さを調節し、品よく整えていった。チャッチャッチャ、チャキチャキ、チャッチャッチャ、チャキチャキ――シャンプー――そして、ドライヤー――
 一希は美少年になった。
 合わせ鏡。襟足は極限まで刈り込まれていた。最近のアイドルたちが競うようにしている、ボーイッシュな耳出しショートヘアーだった。
 これまでのネガティブな出来事や感情が、髪と共に振り落とされたかのように、サッパリした。
 美容師も、
「よくお似合いですよ」
と顔をほころばせる。そして、
「お茶でも如何ですか?」
 一希は遠慮したが、
「そう仰らずに。今日は時間が空いていますから」
とすすめられるまま、店のソファーに座り、美容師から紅茶とスコーンのもてなしを受けた。
「入店なさったときとは別人のようですよ」
と本格的なイングリッシュティーを差し出しながら、美容師は言う。
「そうですね」
 一希はモロ出しになったウナジを撫でて、破顔した。矯正器具も気にならなかった。
 一緒にティータイムを楽しんでいるうちに、一希は美容師のフンワリと包み込むシルクのような雰囲気に甘え、饒舌になり、髪を切る決心をするに至った経緯を――克己との恋についてのあれこれを話した。
 美容師は一希の話を聞いた。うなずき、時々、まあ、そうですか、ひどいですね、辛かったでしょう、と相づちをうちつつ、最後まで聞いてくれた。そして、過去の恋を思い出し、涙でグショグショになった一希の顔をハンカチで拭いて、
「せっかく思いきって新しいヘアースタイルにしたのですから、心機一転して、新しい恋を見つけて下さいね」
「でも・・・あたし・・・」
「今すぐじゃなくてもいいんですよ。ゆっくり心の傷を癒してからでも、遅くはありませんよ。でも、どうか、髪を切った勇気をムダにしないで下さいね」
 克己とのことを洗いざらい話してしまったら、頭だけではなく心まで軽くなり、
「はい。そうします!」
 この店に入ってよかった、としみじみ思う一希だった。
 紅茶を飲み干すと、一希は支払いを済ませ、美容師に、
「今日は本当にありがとうございました。紅茶美味しかったです。また来ますね!」
と心からのお礼を言って、店を出た。
 雨は止んでいた。やはり通り雨だった。青空。春の陽光が、心に、身体に、嬉しい。
「あ、虹だ!」
と通行人たちが空を見上げている。
 振り仰ぐと、淡くアーチを描く虹。
「まあ」
「綺麗!」
という声があちこちからあがっている。
 一希は微笑むと、虹に背を向け、通学路に続く道を歩き出す。一歩、一歩、また一歩、また一歩――。
 午後の授業には間に合いそうだ。


      (了)






    あとがき

 お読みいただき、ありがとうございます(^^) 迫水野亜でございますm(_ _)m
 一応「春小説」のつもりなのですが、必須条件である桜は出てきません。忘れちゃってた(汗)
 以前発表させて頂いた「四十億年」が、海の町での恋の成就を描いていたので、今回はそれと対をなす形で、山の町を舞台に恋の破局を書いてみました。
 そういえば、あまり見かけない「失恋バッサリ」、結構おいしい素材のはずなのに、何故今まで書いてなかったんだろう。。今時そんな女子はいない? じゃあ、作品内の時計の針を巻き戻せばいいじゃないか、と思い立ち、トライすることに決めました。最近昭和づいてるし(笑)
 しかし、いざ書こうとなると、シリアスでいこうかコメディでいこうか、かなり迷いました。結果、こんな形に着地しました。今後も第二弾、第三弾と「失恋バッサリ物」書いてみたいと思っています(^^)
 最後までお読み下さり、本当にありがとうございました(*^^*)




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