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坂元惟虎の最期


「坂元も懲りぬな」
 軍神、と敵からは畏れられ、味方からは崇められている秋月忠清(あきづき・ただきよ)――実は女性である清姫(きよひめ)は独り言を呟く。
「追うても追うてもまた攻め寄せてくる。まるで蠅のようじゃ」
「いかさま」
 傍らの薄田昌謙(すすきだ・まさかね)もうなずく。彼は清姫の許婚(いいなずけ)である。
「しかも毎回毎回、力攻めの一手。たまに疎漏な、児戯にも等しい調略を弄するのみ。おそらくは碌な軍略家もおらぬのでしょう」
「真実(まこと)下り坂というのは恐ろしいものだな。知恵の鏡も曇りに曇っておるわ」
「兎にも角にも、今後一層国の境を固めねばなりますまい」
「お屋形様に進言しておこう」
 坂元軍を須臾にして一蹴した戦神の化身は、おもむろに兜を脱いだ。男にも負けぬ大月代を天に衝き上げ、
「昌謙、汗」
と命じ、昌謙は用意の布で、将来の妻の汗ばんだ月代を拭った。
「この頭になってから、兜をつけても頭が蒸れずに済む」
と目を細める清姫に、
「なあ、お清殿」
「陣中でその呼び方はよせ」
「では、御大将」
「なんじゃ」
「いつまで、かような男子(おのこ)の如き月代頭でおわすのか?」
 昌謙は少々苦い顔で訊ねた。
 許婚のそんな表情が可笑しくて、
「天下から戦の種がなくなるまでよ」
と清姫はうそぶき、カラッと笑った。
「まあ、そなた程の器なら、男髷の女房でも添うてくれよう、と兄上も申されておったわ」
「うーむ。主命とあらば」
「ハハハハ、そのように嫌々添われても、少しも嬉しくないぞ。そなたとのこと、別に破談となっても、一向に構わぬのだぞ」
「お、お清殿〜」
「頭(つむり)の話はこれまでじゃ」
と清姫は総大将の表情(かお)になり、首実検の支度を命じた。
 そして、
「それより、坂元の間者、半歩たりとも領内に入れるな。坂元との国境に関所を設け、忍びの者たちにも、怪しき者あらば斬れ、と厳命せずばなるまい」
「はっ」
「それと、こちらからも坂元領に間者を送りこむべし。乱破なども使うて、坂元を内から揺さぶり、その力、弱めるのじゃ」
「ははっ」
「なるだけ才長け、事にふりし者が良い。生半可な者では務まらぬ」
「忍びの中に“物の怪”と呼ばれている手練れがおりまする。これに人数を与え、坂元領に潜りこませましょう」
「それがよい。すぐに命じよ」
「承知仕りました」
「それにしても、坂元惟虎(さかもと・これとら)、もう少し才覚のある男子かと思うていたが――」
 清姫はそれ以上は言わず、黙って坂元の城の方角を仰ぎ見た。

 東国一の弓取り
と畏怖されてきた坂元出雲守清虎が世を去り、支柱を失った坂元家は、揺れ始めた。
 跡目を継いだ嫡男の惟虎は、勇気もあり、覇気もあり、武将としての器量も十分に備えていた。
 しかし、いかんせん若すぎた。何より亡父の清虎が偉大すぎた。十代の惟虎にはその後継者の座は、いささか重すぎた。
 しかも、家中は混沌としていた。
 惟虎の実の母、幾田殿は何かと政(まつりごと)に口をはさみ、権力の座をめぐって一門衆と角突き合わせ、惟虎は惟虎で、両派の専横を嫌って、父のように独立した一個の人格として、家中を一統したかった。
 こうした政治的状況に、千軍万馬の宿老たちはうんざりして、次々と隠居してしまった。これにより、東国最強を謳われた坂元家の軍事力は、大幅に減衰した。
 惟虎は母を抑え、一門衆を振りきり、未熟な新重臣たちを従え、歯を食いしばり、御家の舵取りをせねばならなかった。
 それでも惟虎はやった。やはり名将の子だけはある。側近団をつくって自分の足場を固め、生熟れの臣どもをまとめ、かろうじて坂元家の武名を守り抜いた。
 しかし一方で、惟虎は勇敢でありすぎた。
 家中の団結をはかり、自らの威を内外に示すには戦しかないと、思い込んでいる節があった。
 それゆえ西へ東へ、盛んに軍を動かした。
 友好関係にあった秋月家の領内にも、しばしば兵をいれた。その都度、「軍神」清姫に追い散らされた。
 実はその清姫は、惟虎が当主となったとき、是非息子の正室に、と母が望んだ姫だった。
 結局、母の干渉を嫌った惟虎の意思で、その縁談は流れた。
 もしかしたら夫婦(めおと)になっていたかも知れぬ姫に、連戦連敗している自己をおかしがる余裕は、惟虎にはなかった。
「あの雌猿めが!」
と敗れるたび、歯噛みしていた。
 他の軍事行動も何一つ実を結ばず、惟虎は焦り、煩悶し、鬱々として楽しまず、段々と深酒に溺れるようになった。昼間から呑むこともあった。
 盃を干しながら、家中の者どもは陰で自分のことを嘲り笑っているのだろうな、と思った。そう思えば、酒量はすさまじく増えた。
 あれだけ秀麗だった容貌も、いつしか目は落ちくぼみ、どんよりとして、目の下は黒ずみ、頬はこけ、肌は色艶を失い、幽鬼さながらになってしまった。
 新領主となった当初は、領内の仕置きにも大いに力を入れ、領民たちの評判も上々だったが、今ではすっかり投げやりになり、乱暴な沙汰が下されることも、しばしばだった。
 彼の配下たちも、まさに「虎」の威を借りて、横暴の限りを尽くした。
「市弥様がおられた頃は、こんなふうではなかった」
とかつての名吏の名を出して、嘆く領民も多かった。

 そんな惟虎の許に持ち込まれたのが、
 根田八幡宮の一件
である。
 惟虎の寵愛を――閨でも――受けている側近の堀田某と根田八幡宮の間に、所領をめぐる争いがおこり、さらに堀田があてつけに殺生禁断の八幡宮の神領で、狩りをしたことも重なり、八幡宮の側が社領の回復と堀田の処罰を求め、惟虎に訴え出たのである。
 これには惟虎も頭を悩ませた。
 思案の挙句、社領の件は篤と吟味する、堀田の役目を解き、蟄居させる、と裁決したが、そんな生温い裁定に、八幡宮側は納得しない。かえって火に油を注ぐ形となり、これまでに横領した旧社領を直ちに返せ、堀田にはもっと厳しい罰を科すべし、と鼻息荒く惟虎に迫った。
 ――あやつら奴。
 惟虎は凶相を歪めた。
 元々惟虎は神道を好まなかった。
 彼は熱心な崇仏の徒だった。亡父清虎の供養のため、清心寺、という大寺を四年かけて建立したほどである。
 当時は神仏混交で、神道と仏法の境界は曖昧であったが、惟虎は偏執的なまでの潔癖さで、腹の中、あれは神道、これは仏教、とこと細かく分けて、区別していた。そして、仏こそ真実尊ぶべきもの、と決めてかかっていた。
 そんな男だから、今度の八幡宮の訴訟について、本当は、
 ――糞でもくらえ!
と叫んでしまいたくなるくらい、苦々しく、苛立たしく思っていた。八幡宮の度重なる訴えに、彼のただでさえ制御のおぼつかぬ理性は、すでに吹き飛ばんばかりになっていた。

 ついに、八幡宮の血気盛んな若い社人たちが徒党をなして、堀田の屋敷を襲い、土塀を壊し、庭を踏み荒らし、家屋を引き倒したと聞くや、惟虎の堪忍袋の緒が切れた。
「根田八幡宮を潰す!」
 これには周りも驚いた。
 根田八幡宮は六百年の歴史ある聖域である。坂元家の代々の当主たちも庇護してきたし、家臣領民たちも厚く崇拝してきた。
 重臣たちは懸命に惟虎を諫めた。翻意を促した。
 が、惟虎は聞かなかった。
 余りに執拗に諫言した油川と梅井の両臣は、手討ちにされた。惟虎はすでに常軌を逸していた。
「社殿を床板一枚に至るまで破却せよ! 社領は全て召し上げじゃ!」
 かくして、惟虎の言葉は直ちに実行に移された。兵どもはわななきつつも、由緒ある社殿を跡形も残さず、打ち壊した。死者も出た。そうして、没収した社領を、惟虎は彼の寵臣たちに分け与えてしまった。
 惟虎は命じた。
「禰宜どもは全員、領外に追放せよ!」
 さらに命じた。
「巫女は一人残らず尼にしてしまえ!」
 この期に及んでつべこべと抗弁する者は首を刎ねよ、とも督励されては将兵も、人の心など捨てざるを得ない。この命令も行政化され、忽ち執行された。
 中でも哀切をきわめたのが、何の罪もない巫女たちである。
 彼女らは捕らえられ、清心寺に送られ、そして、待ち受けていた寺僧によって、哭きながら髪を剃り落とされ、巫女装束を剥ぎ取られ、黒衣を着せられた。二十人以上の尼が一度に急造された。坂元家がこのような大がかりな宗教弾圧を行ったのは、初めてのことだった。
「なんたる恐ろしいことを・・・お屋形様は碌な死に方をするまい」
と領民は密かに囁き合った。

「姉上、早う、早う」
 先ゆく妹の雲雀(ひばり)にせかされながら、姉の嬉野(うれしの)は険しい山路を歩く。
 姉妹は二人ともに、根田八幡宮の巫女であった。
 身の危険を素早く察知し、混乱の中、間一髪、神社から逃れ出たのだ。
 坂元領を出るか。それとも領内の深山にでも身を隠すか。
 今はまだ決めかねているが、ともかくも身の安全を第一に、人目につく峠道は避け、ひたすら険路に分け入る。しかし、足弱の女子(おなご)の身、その歩みは遅々として、逃避行は困難を極める。
それでも、
「追手が来る前に逃げねば。急ぎましょう」
と二人の巫女は励まし合い、山の奥の奥へと進んで行く。
 巫女の格好では見つかりやすい。俗服に着替えたいが、山中ゆえ、衣類等が手に入るべくもない。
 根田八幡宮の嬉野、雲雀と言えば、坂元家の家中でも聞こえた美貌の巫女姉妹だった。
「かの名花二輪、如何にしても手折りたや」
などと若侍が罰当たりなことを、囁き合っていた、そんな二人だった。
 けれど今は追われる身、
「さあ、参りましょう」
「いずこかに清水はないでしょうか。喉が渇いて渇いて仕方ありませぬ」
「歩いておれば、山中のこと、湧水がありましょう」
「何ゆえ、惟虎様はかかる暴挙に出られたのでしょう。お気が狂われたとしか思えませぬ」
「今更申しても詮なきことです。行きましょう」

 逃避行の末、嬉野と雲雀が惟虎の面前に引き据えられたのは、社殿破却から三日後のことだった。
 場所は清心寺。
 大勢の荒武者どもに遠巻きに囲まれ、彼らの無遠慮な視線を浴びながら、二人の美しき巫女は庭先に敷かれた粗莚の上、座らされていた。捕らわれたときの、白衣と緋袴の巫女姿のままだった。
 姉も妹も口もきけぬほど疲弊して、髪は乱れ、やつれ果てていた。が、それでも憤りに満ちた両眼を、縁先で彼女らを見下ろす惟虎に向けていた。
 惟虎が口を開いた。
「根田八幡宮は余を侮り、その暴慢無礼の態度の数々許しがたし。よって余が自ら鉄槌を下してやった」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 姉も妹も何も言わなかった。
「その方どももよくわかったであろう、神など大して頼みにならぬことが。もし神、真実に力あらば、八幡宮は破却を免れ、その方どももかような縄目の恥辱を受けずに済んだはずじゃ」
 姉妹はやはり黙っていた。
「本日はその方らの得度のさま、余が直々に検分してつかわす。他の巫女ども同様、その方らもこれより頭を丸め、尼になれ。尼となって仏に仕え、仏を拝み、これまでの所業を悔い改めるがよい。良民を欺いてきた罪を償え、償うのじゃ。それとも――」
と惟虎は好色な笑みを浮かべた。
「二人とも余の妾となり、余の伽をつとめるか? さすれば尼になること、考え直してやってもよいぞ」
「所業を悔い改めるのは、お屋形様の方ではありませぬか」
 嬉野がはじめて言葉を発した。
「何?」
「今に神罰が下りましょうぞ」
と雲雀も言った。
「神罰とは片腹痛し」
 惟虎はカラカラと高笑いして言った。
「巫女二人も守ることのできぬ神の罰など、たかが知れておるわ」
 そして、剃刀を手に控えている寺僧に、
「そのような切れ味の良い剃刀など、無礼者には勿体ない。錆びた剃刀を用意せよ」
と命じ、古ぼけた鈍らの剃刀を持って来させた。
 嬉野と雲雀は顔を青ざめさせたが、それでも、屹、と暴君を睨みつづけていた。

 剃髪が執り行われた。
 寺の僧が二人、それぞれ嬉野と雲雀の背後にまわった。
 そして、丈長き漆黒の髪に剃刀をあて、ひいた。また、あて、また、ひいた。
 ジッ、ジジッ ジジジ――
 ジ、ジジッ、ジ、ジジ――
 僧たちは獲れた髪を三宝の上にのせる。二つの黒い山は次第に積みあがっていった。
 錆びだらけの剃刀ゆえに僧も持て余し、剃髪はなかなかはかどらずにいた。
 鈍らの刃で頭皮を擦りあげられる二人の苦痛は、言語を絶していた。二人とも歯を食いしばり、嬉野は懸命に目を、グッ、と閉じ、雲雀は裂けんばかりに両眼を、くわっ、と見開き、それでも呻き声ひとつ立てず、耐えていた。
 今回の騒動の発端となった堀田は何食わぬ顔で、惟虎の傍に侍り、苦しげに髪を剃られている姉妹を、
「痛いか? 痛かろう? 八百万の神に祈るか? よせ、よせ、無駄なことじゃ。それよりも“痛うございます”と泣いてお屋形様のお慈悲にすがるがよい」
と嘲弄した。
 侍たちは、どっと笑って、
「泣け、泣いてしまえ」
「どうやら、根田の八幡宮の御利益はなさそうじゃの」
「これからは経文を読め。座禅を組め」
と堀田の尻馬に乗り、口々に嘲った。
 寺僧も惟虎や侍どもにおもねって、わざと乱暴に剃刀を扱った。
 それでも嬉野は堪えた。雲雀も堪えた。
 豊かな黒髪は二人の頭上から、三宝へと移し替えられていった。
 鈍刃でひきちぎるように髪が切られ、そうしてゴリゴリと頭を剃られた。柔らかな頭皮が傷つき、ブシュ、と鮮血が飛び散った。凄惨な剃髪となった。
 僧は血まみれの頭を濡れ布で拭い拭い、剃刀を動かした。
 ジッ、ジッ、ジジッ、ジッ――
 ジッ、ジジッ、ジッ、ジジッ――
 嬉野と雲雀は苦痛と憤怒に夜叉の如き形相になっていた。半剃りの頭が痛々しい。
「皆、よう見ておくのじゃ」
 惟虎は周囲の者を見回した。
「余に刃向かう者は、かようにして虐を加えられ、その恥辱を末代まで語り伝えられるのじゃ。神とて例外に非ず」
 侍たちは蛙のように平伏した。
 ジジッ、ジッ、ジッ、ジジッ――
 ジジッ、ジッ、ジッ、ジジッ、ジッ――
 剃髪は、責め苦は、一刻(二時間)に及んだ。
 まず嬉野の頭が剃りあがり、次いで雲雀の髪も剃りあがった。
 傷だらけの坊主頭が二つ並んだ。
 坊主頭に巫女装束という不釣り合いの姿になった嬉野、雲雀は凄愴な表情で、粗莚に座っている。
 ただちに尼の衣が与えられ、処女二人、衆目の中、巫女装束を脱ぎ、半裸になり、黒衣を身につけさせられた。
 尼がまた二人出来た。
「重畳、重畳」
 惟虎は愉快そうに手を拍って、呵々大笑した。侍たちも追従して笑った。
 これで、根田八幡宮の一件は決着した。

 しかし、その夜から惟虎は、毎晩同じ夢を見るようになった。
 剃刀の夢である。
 暁闇か夕暮れかもわからぬ薄闇のなか、剃刀が一つ置いてある。それだけである。
 辺りには誰もおらず、何も無く、夢の主である惟虎さえいない。ただ剃刀だけがある。あって鈍く光っている。
 剃刀は無論物言わず、ピクリとも動かず、薄暗い闇のうちに在る。しかし、それが、筆舌に尽くしがたい不気味な妖気のようなものを放ち、夢の主に不吉な予感を呼び起こさしめ、その胸を騒がせ、その目覚めを重苦しげなものにしていった。
 最初のうち、惟虎は気にとめないでいたが、そんな夢が、何日も何日も続くと、首をひねりはじめた。
 ――これは面妖な・・・。
 だが、剛腹な彼はこの不思議な夢の話を、一切他言しなかった。
 もっとも、家臣に話してみても、腹の中で笑われるばかりだろう。それに剃刀の夢の薄気味の悪さを、惟虎自身、うまく言葉にできないでいる。
 そのうち、惟虎の身体に異変があらわれた。身体が重く、だるく、常に目眩をおぼえ、食欲も失せ、食が細くなれば、当然痩せ衰えた。
 側近にすすめられ、侍医に診させ、投薬も受けたが、一向に快方の兆しなく、惟虎はみるみる衰弱していった。
 夢の中の剃刀は愈々、淫らに、とすら言えるほどの妖気を放ち、弱り切った惟虎の精神(こころ)を圧していった。
 惟虎は剃刀を嫌うようになった。嫌う、というより恐れた。月代にも髭にも剃刀をあてさせず、伸ばし放題にした。傍目にも異様な姿となっていった。
 そうしている間にも、れいの堀田が落馬して死んだ。外出の折、雨でもないのに、急に落雷があり、驚いた乗り馬が暴れ、地に放り出されたという。
 惟虎は堀田の死をさほど悲しまなかった。それよりも、堀田の不慮の死について、
「神罰じゃ」
とヒソヒソ噂する士民の声が気にかかった。
 剃刀の夢を見なくなったのは、この頃だった。
 惟虎は安堵した。
 穏やかな心地で眠れるようになった。
 しかし、五日目、惟虎はまた怪夢を見た。
 彼は海の上を歩いていた。夢なので別段不可思議とも思わなかった。海水は黒かった。それも、また夢の中、疑問を抱かなかった。
 惟虎は歩行を続けた。黒い海は何筋もうねうねと波打って、微かに粘としていて、仔細に見ると糸状の何かの集まりで、その糸状のものに、彼は何度か足をとられ、その歩行を妨げられた。
 何処へ向かっているのだろう、惟虎は焦りつつ、前へ前へと歩き続けた。
 次の刹那、ピカリ!と雷光の如き激しい光。何事か、と仰ぎ見れば、巨大な何かが光を放ちながら、そびえて居る。
 ジジジジーッ
と地鳴りのような音がして、光る巨物は動き、黒い海を圧し、黒い海はひっくり返らんばかりの勢いで盛り上がり、夢の主を呑み込まんとした。
 ――つ、つ、津波か?!
 ハッ、と目覚めたら、寝所だった。
 寝着も夜具もグッショリ濡れている。信じられぬくらいの大汗をかいていた。脇には、久方ぶりに閨に呼んだ愛妾が、スヤスヤと穏やかな寝息をたてていた。
 この悪夢も連夜続いた。黒い海、光る巨大なもの、大津波。
 惟虎は毎夜うなされた。
 そして、すっかり憔悴して、ついに病の床についてしまった。
 人々は、神罰也、祟り也、と噂した。惟虎もそう思った。
 病床から、
「根田八幡宮を再建せよ。巫女たちも還俗させよ。社領も出来うる限り返してやれ」
と命じた。
 しかし、惟虎の余命はもはや幾ばくもなかった。
 子のいない彼は、死の床で、坂元家の跡目を従弟の景明(かげあきら)に譲ると遺言した。
「なんたること。惟虎殿、そなたはこの母を残して逝くのですか」
とすっかり愚母に立ち返りさめざめと泣く母・幾田殿に、
「母上、これまでの親不孝、そして、母より先に死ぬる親不孝、どうかお許しあれ」
 惟虎は詫びた。心からの謝罪であった。
 そして、
「それにしても――」
とため息を吐いて、
「余も武門の子、死ぬることは恐ろしくはない。だが、たった一つ心残りがある」
と弱々しい息づかいで言った。
「何でございましょう? 仰せ下さりませ」
と重臣の一人が膝をすすめると、
「信長卿のことよ」
「信長?」
 今、西の方で盛んに暴れ回っている、その男の名は東国にまで伝わってきている。所詮出来星大名、早晩没落するであろう、と東国者はほとんど気に留めていなかったが、大方の予想を裏切り、信長はその勢力を伸張していっている。
 その信長の動向を、
「後五年、いや、三年、いや、一年でもよい、生きて見極めたかった」
と惟虎は苦しげに、途切れ途切れに言う。臨終の間際になって、本来の透徹した眼を取り戻したかのようだった。
「或いはこの東国にも攻め寄せてくるやも知れぬ」
と惟虎は懸念している。
「そのときは――」
「はっ」
 新当主の景明は畳に手をつき、勇猛で聞こえた惟虎に迎合せんと、
「信長の軍勢攻め来れば、それがし、弓矢をもって、見事蹴散らし、東国武者の強さを上方勢に知らしめまする。万が一武運拙く敗れることあろうとも、坂元家の武名を傷つけることなく、最後の一兵まで戦い、城を枕に討ち死にいたしまする」
と勇ましげに応えたが、
「たわけめ」
と惟虎は一言の下、斥けた。
「もし、信長卿、来襲せば、城の門という門を全て開け放ち、城内の金穀、馬、武具など一切を差し出し、そなたはじめ家中の者は皆、烏帽子直垂を着け、衣紋を正して平伏し、香を焚きしめ、音曲を奏して、これを迎え入れよ」
 それが、坂元惟虎の他者への最期の言葉となった。
 そして、臨終の間際、混濁した意識の中、かすれ声で呟いた。
「冬姫・・・」
 それは、彼がかつて想いをかけた女性の名だった。枕頭に侍る人々の中で、惟虎のこの呟きを聞き取れた者は、彼の母ただ一人だけだった。事情を知る幾田殿の哭泣のうちに、惟虎は不帰の客となった。まだ三十にも満たぬ若さだった。
 東国にも新しい時代の曙光が、射し始めている。


(了)



    


あとがき

 ほとんど自分だけの楽しみで書いている「乱世東国戦記」シリーズです。今回のストーリーは「時系列的にはシリーズ最後のストーリー」です(シリーズ自体はまだまだ書かせて頂くつもりです)。
 そして、今回は「怪談」の趣向を取り入れてみました! 「文学の極意は怪談である」(by佐藤春夫)とも言われていますが、意外と、いや、かなりムズい(^^;)まあ、習作ということで、ひとつ御勘弁下さい(^^;)
 あと以前から巫女さんの剃髪(巫女から尼僧へ)を書いてみたかったので、実現できて嬉しいです(^^) バチ当らないかな〜、と今更ながら思い、ちょっと弱気になったりもしましたが、惟虎君に身代わりになってもらいました(笑)
 最後までお付き合い下さり、本当にありがとうございましたぁ〜♪♪




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