虫愛ずる洋子ちゃん |
これは世間を騒がせた校内暴力も、そろそろ下火になりかけた頃のお話です。 じりじり、じりじり、、、とセミの声。夏真っ盛りです。 黒川洋子(くろかわ・ようこ)の住む長屋も暑い、暑い、うだるような暑さです。 長屋のどの部屋にも、クーラーなんてものはありません。 戸障子や窓を開け放したり、ウチワをバタバタ使ったり、裏路地で行水をしたり、そして、風鈴を吊る下げたりするのが、せいぜいです。 ドブっ蚊もすごい。特に日没近くにはあちこちブンブン飛び交って、もう大変。 それを叩き叩き、夕暮れ、浴衣姿で縁台に腰かけ、将棋を指しておられるご老体も、二人おられます。 「最近物騒になりましたな」 「然り、然り」 「物価高もひどいもので」 「確かに」 と世間話しながら、一手、また一手、一局、また一局、と飽くことなく駒を動かしています。 二人とも、青年の頃は日本のゲーテ、ハイネたらんと詩作に励んでいたものですが、兵隊にとられ、命からがら祖国に戻ってきたものの、生活難、食糧難で詩作どころではなく、かと言って旨い話もなく、ただただ生きて生きて、落魄して、こうやって不遇の身をかこっています。 かと思えば―― 「アンタ、また日当全部呑んじまったのかい! この宿六ッ!」 「うるせえ! お前みてえな陰気くせえオカメ面が待ち構えているのかと思やぁ、素面でなんか家に帰れるかい!」 日雇い工夫の亭主とおかみさんが言い争っています。 「誰がオカメだい! 今日っていう今日は承知しないよ!」 「痛っ! 殴りやがったな、コノヤロウ! 一家の主に何てことしやがる!」 「何が一家の主だい! 主なら主らしいことの一つでもしてみなよ!」 「許せねえ!」 ガラガラガシャーン!!とガラスの割れる音。オギャアオギャアと坊やの泣く声。それらが長屋中に響き渡ります。 この夫婦は元はそれなりの大店のご令息とご令嬢だったらしいのですが、親同士の折り合いが悪く、惚れ合っていても一緒になれず、それで手に手をとって駆け落ちして、気づけばここに居ついてしまったそうです。そんなロミオとジュリエットの成れの果てが、 「アンタなんかと一緒になったのが、こっちの運の尽きさ、この甲斐性なしの呑んだくれ!」 「そりゃあ、こっちの台詞だい! ヒステリーのオタンチン・パレオロガスが!」 連日連夜の大ゲンカ。長屋の皆も、また始まった、と聞き流しています。 一部屋一部屋に事情があり、ドラマがあります。 こんな中、洋子は小学校に通い、帰れば勉強そっちのけで遊んでいます。 どちらかと言えば男の子っぽい遊びの方が好きです。 特に虫取りが大好きです。 虫取り網と虫カゴをさげて、独りで小学校の裏山に分け入っては、クワガタを獲ります。バッタやカマキリも獲ります。蝶々も獲ります。 そうやって、夏休みなどは一日中、昆虫採集に明け暮れたりすることもたびたび。ちょっと変わった子です。独りが好きで、いつも独りで居たがります。友達もいません。いなくても、洋子は別に平気です。 お母さんには、 「虫ばっかり獲ってないで、家の手伝いをしな!」 としょっちゅう怒られています。しかし、洋子は怒られても、ケロリとして、次の日もまた裏山へ。 洋子がちょっと変わった子だというエピソードを、二つ三つご紹介しましょう。 ある春の夕暮れ、いつものように、パープー、パープー、と豆腐屋さんのチャルメラが聞こえてきて、お母さんに豆腐を一丁買うよう言いつかり、洋子は外へ出ていきました。 しかし、出ていったきり、いつまで経っても洋子は帰ってきません。 すわ一大事! 誘拐か! 家出か! 神隠しか!と長屋中大騒ぎとなり、消防団まで出動し、皆で洋子を探し回りました。 洋子は見つかりました。もう深夜のことでした。 豆腐を持ったまま、裏山でぼんやりと立ちつくしていたところを、消防団の人たちが発見したのです。訊けば、豆腐を買って帰ろうとしたら、 「珍しいチョウチョがいたから――」 それを追って、裏山まで走ってきて、そこで見失ったので、山の中をあちこち、時間も忘れ、月明りを頼りに探し歩いていたとのこと。 これには、お母さんもカンカンで、 「こんなに心配かけて! 迷惑かけて! 皆に謝りなっ!」 とさんざ叱りつけましたが、洋子も頑固で、とうとう最後まで謝りませんでした。 「アタシ、チョウチョをさがしてただけだもん!」 「洋子! いい加減にしなよ!」 すったもんだする母娘に、 「まあ、とにかく無事でよかったよ、よかった、よかった!」 と消防団の長老格の権助さんが、間に割って入って、この一件は幕となりました。 次は昆虫の話ではなく、学校の話です。 どこか魯鈍な感じのする洋子は、クラスメイトの――特に男子のからかいの格好の的でした。悪口を言われたり、あれこれとイタズラをされたりしました。 いつもはボーっとしているか、時にはヘラヘラさえしている洋子でしたが、どういうわけか、ある日ある男子のイタズラに、突如烈火の如く怒り出し、机にしまってあったカッターナイフを持ち出し、すさまじい形相で刃を振り回し、その男子を追いかけ回しました。 幸いケガ人は出ず、そもそもの原因はイタズラをした男の子にあったので、先生たちもその男の子も、学校や自身の体面を考え、ことは穏便に済みました。洋子は担任の先生に軽く注意されただけでした。 でも、この一件以来、 「あの子には要注意だ」 と先生たちは洋子に警戒の目を向け、男子たちは、 「ありゃあ、キ印だ。何を仕出かすかわかったもんじゃない。構わない方がいい」 と陰でヒソヒソ申し合わせています。 山で獲った虫は、お気に入りのやつだけ虫カゴに入れて、あとは逃がしてやります。お気に入りの虫たちは、ケースに入れて飼います。虫はどんどん増えていきます。 うるさい、気味が悪い、飼育代もバカにならない、とお母さんは始終、文句を言っています。 「まるで虫屋敷だよ」 とため息を吐いたりもしています。 お父さんだけは、 「随分獲ったなぁ」 と薄く微笑んで言います。秋に鈴虫を飼っていたときは、 「いい声だ。心が洗われるね。ちょっと聞かせておくれ」 と虫カゴに耳を近づけ、その鳴き声をそっと楽しんでいます。 洋子のお父さんは売れない絵描きです。絵本や小説の挿絵などを細々と描いて、糊口をしのいでいます。 お父さんは昔、「ガクセイウンドウ」というものに熱をあげ、世の中を良くするために闘っていたそうです。しかし、あえなく敗れ、色々あってその仲間たちとも交際を断ち、今はこうして絵を描いて、ひっそりと暮らしています。 仕事があってもなくても、一日中、奥の部屋に籠っています。外に出ることなど、月に三回くらいしかありません。無精ひげを生やし、和服を着流しています。冬はドテラをはおります。 滅多にしゃべりません。全然笑いません。時折寂しげな微笑をもらすのみです。 でも優しいです。お母さんには嘆かれ、学校では持て余し者になっている洋子に、温かく理解ある態度で接してくれます。 洋子はそんなお父さんが大好きでした。 ちょっと話が逸れてしまいましたね。 洋子が変わっているのは、やはり「髪の毛」のことでしょう。 洋子は散髪が大嫌い。昔っからお母さんの散髪を嫌がっています。 無理に散髪しようとすると、泣いて、わめいて、もう手がつけられません。 お母さんも呆れ、閉口し、あきらめて、今では強いて髪を切らせようとはしません。 身なりに頓着しない洋子が、なんで髪を切るのを嫌がるのか、その理由はお母さんにはわかりません。実は当の洋子にもよくわかりません。 髪はどんどん伸びます。とうとうお尻のところまで伸びました。前髪も顔を覆い隠すほど。 お手入れもせず、ただ伸びただけの髪の毛なので、パサパサしています。お世辞にも清潔とは言えません。 不衛生なその髪に、周りの大人たちは眉をひそめています。 「切ったら」 としょっちゅう言われます。先生にもたびたび、 「切りなさい」 と注意されます。 近所の口の悪いペンキ屋さんなどは、 「洋子ちゃん、まるでコジキの子みてえじゃないか。短く切っちまいなよ。そっちの方が子供らしくていいやな。便所のときなんか大変だろ? 切っちまいな、切っちまいな」 ペンキ屋さんの言う通り、トイレのときは大変です。この間、髪の毛の先っちょに、ウ〇チがちょっとくっついてしまい、気づいたお母さんは、顔をしかめ、タライに水をはって、ゴシゴシと洋子の髪の汚れた部分を、一時間ぐらい癇性に洗っていました。 「こんなに伸ばしてるからだよ」 とブツブツ言いながら。 以降、用を足すときは、髪を上げるようになった洋子ですが、相変わらず髪を切ることは承知しないでいます。 そんなこんなで洋子にとって、十回目の夏が来ました。そこでこのお話は冒頭に戻ります。 じりじり、じりじり、、、とセミの声。夏真っ盛りです。 夏休み。 洋子は毎年の如く、裏山で虫取り三昧です。 少しは女の子らしくなるために、とお母さんがなんとかお金を工面して、初夏の頃、生け花教室に洋子を入れたのですが、親の心子知らず、洋子はお稽古をサボって、虫を追いかけ回しています。勿論、夏休みの課題なんてものは、その存在すら忘れています。 顔も手足も日焼けで真っ黒。子供らしいと言えば言えるのですが。 それにしても暑い。 連日の猛暑に、皆参っています。 今日も虫取りに行くとき、近所のラジオから、明日も全国的に厳しい暑さになるでしょう、と天気予報士が言っているのが耳に入りました。 洋子は大汗をかきかき、山へと向かいます。 激しい日差しに目がくらみそうです。喉もカラカラに乾きます。 変わり者の洋子といえども、暑いものは暑いのです。 ――暑い! 暑い! 暑い! 洋子は恨めしげにお天道さんを仰ぎ見ます。 そうしたら、瞬間、素晴らしいアイディアが閃きました。 ――この髪を切っちゃえば涼しくなるはず! この思いつきは、歴史上のえらい学者やえらい芸術家や、えらい宗教家たちの開眼、発見、悟り、転換といったものと、根っこは同じものでした。 思いつくと、矢も楯もたまらず、洋子はダッシュで家へと取って返しました。玄関に駆け込み、 「お母さん! お母さん! お母さん!」 と叫びました。 「うるさいね。なんだい?」 「髪の毛、切って!」 お母さんは思いもかけぬ娘の要請に、棒立ちになります。キツネにでもつままれたような顔で、訊きます。 「切るったって・・・どのくらい切るのさ?」 「短く! うんと短く!」 「なんで、また急に?」 「暑いから」 あっけらかんとした返答に、お母さんはまだ半信半疑で、でも洋子が自分から髪を切ると言い出したのは、もっけの幸いなので、善は急げとばかりに、 「ちょっと待ってな」 とそそくさと散髪道具を取りに行き、ハサミ、刈布、櫛、霧吹きなどを持って戻ってきました。 古新聞紙を敷いて、 「そこに座りな」 とお母さんが言うので、洋子は狭い玄関に、ペコリと座りました。 お母さんは早速、洋子の首に刈布を巻いて、霧吹きで、シュッシュッ、と髪を湿らせました。長くて量の多い洋子の髪を湿らせるには、たくさんの水が必要でした。 お母さんはハサミを持ち、おとなしく座っている洋子の髪をくしけずって、耳が少し出るくらいの辺りで、両刃をまたがせました。いい機会なので、この際できるだけ短く切っておこう――洋子のリクエストでもあるし――という算段です。 ハサミが閉じます。 ジャ、キッ!と髪が切られる音。ハラリ、と一筋の髪が落ちます。 またジャキッ! 洋子の左耳が半分のぞきます。 慣れない感触に、洋子は目をクリクリ、口をあんぐり。あれれ〜?という顔をしています。 首筋もすっきりと出ました。 お母さんは普段からお父さんの散髪をしてあげているので、カットも手慣れたものです。あっという間に左半分がオカッパの長さになりました。 後ろの髪は少し長めにとります。ジャキジャキ、ジャキッ、ジャキジャキ―― バサバサッ、バサバサバサッ、とコンクリートの三和土(たたき)に長い長い髪が散ります。 そこへ、 「ごめんよォ」 戸が開いて、大家さんが入って来ました。 大家のお爺ちゃんは、いきなり目の前に半分スーパーロング半分オカッパ女の子がいて、 「おやっ!」 とビックリして思わず後退さりしていました。無理もありません。 「娘さんの散髪かい?」 と声が動揺しています。 「夏だから、本人が切って欲しいって言いましてね」 お母さんは大家さんの顔を伺い伺い、作り笑いして説明します。 大家さんは戸惑いつつも、言うべきことは言わねばと、 「先月分と先々月分の家賃をまだもらってないんでね」 お母さんは気まずそうに、 「すみません。あのぅ、あと一ヶ月、いえ、半月ほど待ってもらえませんかね? 今主人に二つ仕事の依頼がきてましてね、そのお金が入ったら、すぐに滞納している分を払いますんで、ね、必ずお払いしますんで」 カット中の洋子の頭上で、「大人の話」が飛び交います。 置き去りにされた洋子は、徒然に百面相をしたり、はじめて露わになったオトガイをチョイチョイと指で撫でたりして、話がつくのを待っています。 「わかったよ。半月後、また来るから、そのときはちゃんと払ってよ」 と大家さんが全面的に譲り、話はまとまりました。 大家さんも断髪途中の洋子がいなければ、もっと粘り強く催促したのでしょうが、どうにもタイミングがタイミングなので、だいぶ気勢がそがれたようです。肩を落として帰っていきました。 お母さんはふたたび洋子のヘアーカットに専心します。大家さんをうまく追い払えて、安堵したらしく、声も弾んでいます。 「ほら、こんなに前髪が長くっちゃ、目も悪くなっちゃうよ」 と前髪もジョキジョキ、眉毛が出る短さに切り揃えていきます。 バラバラと落下していく前髪、視界がクッキリと開けました。洋子はまぶしそうに目を細めます。 あれだけの長い多い髪が振り落とされるように無くなり、その軽さ、その明るさ、その涼しさたるや、得も言われぬ快感です。それは洋子にとって生まれて初めて体験する未知の感覚でした。 お母さんがしつこくすすめるので、髪をバッサリと切った自分の顔を、手鏡で見てみました。 両側の髪は耳が半分出るくらい、前髪は眉毛の少し上に切り整えられています。 ――草井道代チャンみたい。 とクラスの女の子の名前と顔が――あまり目立たない女の子です――まず一番に浮かびました。なんだか自分じゃないみたい。変な感じ。 「どうだい、サッパリしただろう? 子供はこれくらいのオカッパさんで丁度いいんだよ」 お母さんは上機嫌です。 「うん、サッパリした〜」 という洋子の返事に、ますます機嫌良く、後片付けに取りかかります。 でも、洋子は不敵にも思っています。 ――もっとサッパリしたいなぁ。もっと切りたいなぁ。よし、もっと刈ろう! 「お母さん」 「なんだい?」 「アタシ、坊主にする」 「坊主ぅ〜?!」 お母さんは素っ頓狂な声を発しました。当たり前です。しかし、洋子は平然と、 「そう、坊主。お隣のカンちゃんみたいな」 腕白小僧のカンちゃんは一分刈りの坊主頭がトレードマーク、ガキ大将でいつも威張っています。将来の夢はプロ野球選手です。 「女の子が坊主なんて変だよ」 とお母さんは洋子を説き伏せようとしますが、 「やだ、アタシ、もっとサッパリするの! もっと刈りたい! もっと刈って! 坊主にして!」 と洋子は折れません。頑固に坊主頭を要求します。いくら止められても聞きません。 洋子にとっては幸いなことに、洋子の家には電気バリカンがあります。 去年、兼爺(かねじい)と呼ばれていた長屋のお爺ちゃんが心臓の発作で急に亡くなって、身寄りのない兼爺の遺品を長屋の皆で「形見分け」したとき、お母さんが頂戴した幾つかの品の中に電気バリカンがありました。お母さんはそのバリカンを、お父さんの散髪のときに、二三度使ったきり、忘れていましたが、洋子はそれをしっかりおぼえていたのです。 結局、一度言い出せば後にはひかない洋子の性分を、誰よりも知っているお母さんなので、まあ、夏休みだし、新学期までには多少は生え揃うだろう、なるようになるさ、と楽観的に割り切り、電気バリカンを持ってきました。 お母さんはご丁寧にも、電気バリカンの替え刃まで頂戴していました。すごいハイエナぶりです(生活力の乏しいお父さんと暮らしているうちに、こうした逞しさを身につけたのでしょう)。そして、新しい刃に付け替えていました。準備完了です。 「あとで泣いても、お母さん知らないからね」 とお母さんは念を押して、兼爺形見のバリカンのコンセントをつなぐと、スイッチを入れ、ウィーン、ウィーン、と小刻みに動く刃をオカッパ髪に差し込みました。 まずは襟足にバリカンを入れます。 ジャアアアァァアアァアアァ ジャァアァアアァアアァァ とうなじをバリカンがさかのぼります。があああっ、と後ろの髪をかき分け、後頭部を縦一文字に突っ切っていきます。ばあああっ、と髪が裂け、一本道! その一本道は、 ジャァアァアアァアァ バサバサッ、バサッ ジャアアアァアアァアア バサバサバサッ とバリカンが上下に運動するたび、拡張されていきます。こうやって、髪が刈り落とされ、刈り詰められ、後頭部はビッシリとタワシのようになっていきます。 「カンちゃんみたいにだよ、カンちゃんみたいに」 と洋子はしきりに注文します。 「おや、アンタ、まさか、あんなジャガイモ面が好みなのかい? だったら、カンちゃんのトコにお嫁に行けばいいさね」 「カンちゃん、虫好きだからお嫁さんになってあげてもいいかも」 「妙な結婚条件だね」 お母さんは呆れつつも、バリカンを動かします。 最初は冷たかったバリカンの刃が、徐々に温かくなってきます。 外気が3mmの毛を隔てたその隙間から、頭皮にジワジワと沁みこむように伝ってきます。洋子は首をすくめます。頭も心もくすぐったい! 「やってみると、結構楽しいもんだね。石鹸いらずの頭だね。こりゃあ節約にもなるね」 お母さんの声はいつの間にか浮き立っています。 「銭湯に行ったら、女湯のお客もビックリするだろうね。男の子が入ってきた〜、ってさ」 そんな他愛ない冗談を飛ばし飛ばし、お母さんは今度は前髪――額のド真ん中にバリカンをあて、押し進めます。 ジャアアアァァアアァアァア 前髪も裂けて、一本道! 後ろの坊主との道が開通します。 バサッ、バサッ、と一定のリズムのうちに、たくさんの髪が目の前を雪崩れ落ちていくのが、洋子にはとても小気味よく思われます。 そこへ、 「チワース、美川屋でーす」 近所の商店の若い衆が訪れます。ツケがかなりたまっているので、掛け取りに来たのでしょう。 が、戸を開けたら、バリカンで丸刈りにされている女の子、その周囲にはおびただしい嵩の髪が散乱していて、 「うわっ!」 と肝っ玉の小さな若い衆はとっさに飛びのき、腰も抜かさんばかりで、震え声で 「お、奥さん・・・こ、これは一体――」 「ああ、娘の散髪だよ」 「さ、散髪たって・・・」 「ま、夏だからね。それよりサブちゃん、何の用だい? お金なら無いよ」 「そ、そうですか、じゃ、じゃあまた後日うかがいますんで」 若い衆は逃げるように立ち去りました。 「大家といい、美川屋といい、お前の散髪には厄除けの効果もあるのかねえ」 とお母さんはおかしそうに、クックッと笑っていました。当の洋子はバリカンの振動に気を取られ、お母さんの言うことなど上の空です。 前髪が左左左、右右右と順繰りに3mmに刈られます。 ジャアアアァアアァアァァ バサバサバサッ ジャァァアァアアァア バサッ、バサッ 髪が次々と持っていかれ、日焼けした顔がみるみる剥き出しになります。 細かな毛が鼻のあたまにくっついて、 「くしゅん!」 と大きなクシャミが出ます。 両脇の髪だけが残りました。まるで江戸時代の人みたいです。 バリカンは右サイドを、 ジャアアアァァアアァアァ ジャジャアァアアアア と刈り落とし、続いて左側の髪を当るを幸い、 ジャジャジャアアアァアァアァ ジャアァァアアアアァ と切り払い、薙ぎ倒し、最後の一房まで刈り尽くし、それでもまだ止まず、 ジャアアアァアァアアァアァ ジャジャアァアアアアアア ジャァアァアアアァァア と仕上げに頭全体を満遍なく刈られ、洋子はとうとう丸刈りの坊主頭になってしまいました。 すっかり坊主にしてしまうと、お母さんは切り落とした、セーターが何着も編めそうなほどのボリュームの落髪を掃き集め、眺めながら、 「これ、何かの焚きつけになるかねえ。そうすりゃ、ガス代の節約になりそうだね」 とひとりごちています。 洋子はただただ坊主頭の快適さに、浸りきっています。 「気持ちいい〜」 と、そんな言葉が口からこぼれます。触るとジョリジョリして、頭も掌も至福の心地良さです。 鏡を見ました。丸くて黒くて、 ――剥きたての甘栗みたい! ついヨダレが出ます。 「おや、洋子、どうしたんだい、その頭は?」 昨夜はお仕事で徹夜していたお父さんが、仮眠から覚めて、後ろに立っていました。さほど驚いた様子もありません。 「暑いから坊主にしたの〜。サッパリした〜」 と洋子は無邪気に笑って、そう答えました。 「サッパリか」 お父さんはオウム返しに呟くと、自分のモジャモジャ頭に手をやって、 「僕も洋子のように坊主にしてもらうかな。こう暑くちゃ敵わない」 「ええ、アンタも?」 お母さんは不満そうな顔をしました。美男子のお父さんが密かに自慢なのです。 「わーい! お父さんとお揃いだ〜」 洋子は嬉しくって、刈布を巻いたまま、ピョンピョン飛び跳ねました。そのはずみで、刈布にくっついていた髪の毛が、バッ、バッ、と散ります。 「あっ、コラ、汚れるだろ! もォ!」 お母さんが注意し終えるのを待たず、洋子は刈布をはずし、虫取り網をひっつかみ、虫カゴをさげ、外へ飛び出しました。その背に、 「ちゃんと頭を洗うんだよ!」 「はーい」 「帽子をかぶりな!」 「イヤッ」 畑の傍のポンプ井戸で、ザバザバ頭を洗います。頭にまといついている毛屑を、洗い流します。 ギラギラと照りつける太陽。そのお陰で頭もあっという間に乾きます。 「洋子ちゃん、どうしたんだい?!」 畑を耕していた源二オジサンが、白昼幽霊を見たかのように目を瞠っています。 「さっき会ったときは、髪があったじゃないか!」 「えへへ」 と洋子は笑うだけです。 そうして、サッ、と白いシャツを翻すと、坊主刈りの少女は入道雲の広がる夏空の下、駆けだしました。左後頭部に十円ハゲがチラリ。 夏の中に溶けていく少女のその背中を、その十円ハゲを、源二オジサンは眩しそうに、いつまでも見送っていました。 (了) あとがき 「イタズラっ子メルちゃん」と同時期――小学校半ばくらいに描いた絵物語を基に、話をふくらませて書きました。「メルちゃん」よりこっちの方が若干先に描いたので、原作(元ネタ)ではこれが懲役七〇〇年最古です。これより古いネタは流石にもう出てこないでしょう。 「原作」の描かれている落書き帳はまだ残っていると思いますが、まあ、単に、「黒田洋子」という超長い髪の女の子が、夏場、暑いのでお母さんに髪を切ってもらい、超ロングヘア→オカッパ→坊主、になるだけの話なのですが。 同時に発表させて頂いた「夫の菩提を〜」のセレブ生活より、今作の昭和な庶民(貧乏?)生活の方が、何故か書いていて楽しいです(笑)発表時期も真夏とドンピシャ!!(しかも今回は未来、現在、過去、と三作とも時代が別々だ!) 執筆も楽しかったですし、内容的にもすごくすごく気に入っている作品です。「温故知新」で次へとつながる一作となれば嬉しいです♪ この先もスキルアップしていきたいなぁ、と思ってます。 お読み下さり、ありがとうございました〜(*^^*) |