夫の菩提を弔うということ |
小さい頃から美紅(みく)は、自分の美貌をちゃんと自覚していた。 フランス人形みたいだ、と周囲から賞賛され、育った。 長じて高名な大学に入り、そこでミスキャンパスの栄冠を得た。 美紅は自分の美貌に賭けていた。ひたすらに美を追求した。そのための投資を惜しまなかった。そうやって磨きあげた容姿にふさわしい教養や社交術、マナー、家事能力、趣味を抜かりなく身に着けた。 全ての努力は、 金持ちの男を獲得するため! その一点に集約されていた。 そして、ついにハンティングに成功した。生涯の伴侶を捕らえた。美紅、二十五歳のときである。 相手の尾藤は、なんと美紅より二十以上も年上。 この年の差婚に周りは大いに戸惑っていた。誰よりも当の美紅が戸惑った。戸惑ったが、尾藤は美紅に夢中だったし、美紅も尾藤が憎からず思っていた。ルックスも美紅のタイプだった。フィーリングも合う。何より、日本でも高名なアパレル関係の実業家、というセレブだった。 それに年齢が離れている尾藤なら、同世代の男性より甘えやすいし、頼りやすい。実際、尾藤は頼り甲斐のある立派な大人の男だった。美紅を大いに甘やかせてくれる度量の持ち主でもあった。 美紅は尾藤との結婚を決めた。 セレブの仲間入りを果たした。 毎朝、運転手つきの外車で、会員制のジムに行って汗を流し、エステやヘアーサロンで美しさに磨きをかけ、高級スーパーで食材を買い、腹を空かせて帰宅する夫のために、料理の腕をふるう。夕食はしばしば外で摂ることもある。フレンチ、イタリアン、スパニッシュ、中華、インド、トルコ、韓国、ベトナム、タイ、寿司、鉄板焼き、懐石、etc――美食家の夫の識(し)る名店の美味に舌鼓をうつ。どの店もこのセレブ夫妻を歓待し、サービスの限りを尽くしてくれたものだ。 セレブとの結婚!という大宿願を叶えた美紅だったが、実はもうひとつ、奇妙な願望、というべきか、或る「理想の夫婦のあり方」が頭の一隅を占めていた。 話はさかのぼる。 それは、美紅がまだ小学校の低学年の時分のこと―― 父と一緒に、毎週、NHKの大河ドラマを観ていた。 当然子供の美紅には難しくて、ストーリーはよくわからなかった。ただ、憧れの美人女優が武将の妻を好演していて、それが目当てだった。 何話目だったろう、夫の武将が戦場の露と消え、妻役の女優は悲嘆に暮れていた。 美紅が衝撃を受けたのは、次のシーンだった。 パッと画面が切り替ると、美人女優は頭に白い頭巾をかぶり、黒い衣を身にまとって、仏前に手を合わせ、経文を唱えていた。 華やかな着物姿から一転、白と黒の質素な身なりに変貌した女優に、美紅は目をパチクリさせ、 「この女の人、尼さんになったの?」 と隣の父に訊いた。「尼」という存在や語は、かろうじて知っていた。 「そうだよ」 と父は答えた。 「なんで?」 父は娘からそんな質問をされるとは、思っていなかったのだろう、ちょっとたどたどしい口調で、 「夫の菩提を弔うためだよ」 勿論、美紅には意味がわからない。 「オットノボダイヲトムラウ?」 オウム返しに、さらに問い重ねられ、父も気を取り直して、 「旦那さんがちゃんと天国に行けますように、って、こうやって尼さんになって、お経をあげて、仏様にお祈りしてるんだよ」 今度は丁寧に噛み砕いて教えてくれた。 「ふーん」 それでも美紅は腑に落ちない。 「じゃあ、パパが死んだらママは尼さんになるの? ならないよね? よくわからないよ」 「昔の身分の高い人はそうだったんだよ」 父にそう言われ、美紅もそれ以上、父を質問責めにするのは本意ではないので、口をつぐんだ。しかし、そのシーンは美紅の心に焼き付いて、ずっと離れなかった。女優の尼姿の清らかな美しさは、大人になった今でもありありと思い出される。 それから美紅は、自分の疑問は自分で解こう、と持ち前の自立心を発揮、自分の心に強烈に訴えかけてきた、あのシーンの意味を知るべく、せっせと歴史や仏教の本を読み漁った。 そうして、わかった。 昔の上流階級の――特に武家の妻女は、夫の死後、亡夫の鎮魂のため、剃髪して尼となり、ある女人は館の内に持仏堂を建て、ある女人は山奥に草庵を結び、ひっそりと余生を送る習わしがあったらしい。 北条政子や日野富子、秀吉の妻の北政所、大石内蔵助の妻の理玖なども、貞女烈女悪女関わらず、皆、夫と死別してすぐ髪をおろし、法体になっている。 父が言っていた、 「夫の菩提を弔う」 ために、だ。 ――そんな時代もあったのか。 と中島みゆきの歌詞みたいな感慨を抱いたものだ。 普通の女の子なら、そんな時代に生まれなくて良かった〜、と胸をなでおろすところだろうが、美紅は違った。なんとなく、残念に思った。 ドラマで観たあの女優の尼僧ぶりが思い起こされる。颯颯と風が胸を吹き抜けるような清涼感があった。相手の死後も貫く愛、それって、愛の究極の形ではないか。 再婚も「第二の人生」を楽しむことも拒み、現世を捨て、虚飾を捨て去り、ひたすらただ一人の男性のために、残りの人生を捧げる。それはとてもロマンティックで、甘美で、崇高な愛情表現ではないのか。 時代劇で、歴史小説で、尼になる未亡人の姿に触れるたび、美紅はうっとりと妄想の中、武家の女性となって、夫の菩提を弔う。髪を切り、御仏の前にぬかずき、夫の霊に経を手向ける。 そして、必ず思ったものだ。 ――それほどまでの気持ちにさせてくれる男性(ヒト)とめぐり逢いたいものね。 尾藤はまさに、「それほどまでの気持ちにさせてくれる男性」だった。 ――この人の菩提なら―― 尼になって弔いたい、と思う。心の底から思う。日々思う。 ある夜、ベッドの中、尾藤に囁いた。 「貴方がもし死ぬようなことがあったら、私、尼さんになって貴方の菩提を弔うわ」 若妻の思いもかけぬ言葉に、尾藤は虚をつかれ、一瞬沈黙したが、 「尼さんに?」 と訊いてきて、 「ええ、なるわ」 と美紅は今度ははっきりと言った。 「変な冗談言うなよ」 と笑い飛ばそうとする尾藤だが、美紅は真面目も真面目、大真面目で、 「冗談なんかじゃないわよ。私、貴方に先立たれたら、出家して貴方の菩提を弔うって決めてるの」 「気持ちは嬉しいけど、死者に縛られる必要なんてないさ」 尾藤には尾藤の愛情論があるらしい。 「遺産はしっかり残しておくから、俺が死んだ後は、うんと楽しむといい。他に良い人がいたら、再婚するのも君の自由だよ」 「再婚?」 と美紅は目を剥いた。 「じゃあ、ナニ? 貴方は私が先に死んだら、他の女とくっつくわけ?」 と若妻に声を尖らせ詰め寄られたら、 「そんなことはないよ」 と尾藤は嘘でもそう答えるしかない。それに、そこまで一途に自分のことを想ってくれる若い妻の気持ちが――多少は重たいにせよ――嬉しくなかろうはずがない。 「美紅が出家したら、日本一の美人尼さんになるだろうなぁ。心安らかに成仏できそうだ。いや、美紅の尼僧姿に惹かれて、未練が残って成仏できずに地縛霊になっちゃうかもな」 と冗談にまぶしつつも喜んでいた。 「私のお経で絶対天国に行かせてあげる」 そう言って、美紅は尾藤のものをくわえ、とりあえずは夫を間近の天国へと導くのだった。 それからも美紅は、セレブ妻としての優雅な暮らしを享受しながらも、同時に「夫の菩提を弔う」件についても思惟を続けた。 尾藤としては、美人妻に菩提を弔われるのは夫冥利に尽きるが、たびたび自分の死後のことを口にする美紅に、ちょっと違和感をおぼえたりもする。なんだか自分が、そそくさと現世から退場しなくてはいけないような気にすらなる。 子供でもできれば妻の出家願望もうやむやになるだろう、と漠然と考えているが、神様はなかなかこの夫婦に赤ちゃんをお授け下さらぬ。 美紅は夫にゾッコンだ。子供は欲しくはあるが、できなければできないで別に構わない。そう考えている。 出家の念は去らない。去らないどころか年々強くなっていく一方だ。 夫の死んだ後、尼姿で夫の往生を祈る自分の姿を思い浮かべる。口元がゆるむ。 あら、と自分でも驚く。これでは、まるで夫の早死にを望んでいるみたいではないか。自分でもわけがわからなくなる。 歳月は流れる。 尾藤は年を取る。美紅も年を取る。 尾藤はあっけなく逝った。まだ61歳だった。未亡人の美紅は39歳だった。最後まで仲睦まじいオシドリ夫婦だった。 病床で末期の際、すでに意識を失っている尾藤にすがりつき、涙ながらに、 「貴方、約束通り、私は貴方の菩提を弔うわね」 そう言った瞬間、 ピー―― 心電図の波線が直線になった。 ご臨終です、と医師が言った。 尾藤は美紅の言に是と応えるようなタイミングで旅立った。少なくとも美紅にはそう思われた。 尾藤の葬儀は盛大なものだった。 多くの名士が参列して、彼の死を悼んだ。 美紅は喪主としての務めを立派に果たした。 そして、葬儀が済むと、出家に向け、猛然と動き始めた。 現在の日本では、自由に出家することはできない。 最初のステップは「師僧」を見つけることだ。ちゃんとした僧の弟子になり、その「師僧」が総本山との橋渡しとなって、僧(尼)となる認可を貰い、得度して、晴れて仏弟子の仲間入りを果たせる。 「師僧」は尾藤の骨が眠る菩提寺の住持に引き受けてもらった。 「尼僧になって夫の菩提を弔いたいんです」 という美紅の出家志願に、 「それは近頃御奇特な」 老僧はシワだらけの顔を笑ませ、承諾した。 無論、この御時世、仏弟子といえども、カスミを食って生きているわけではない。住持にはだいぶ吹っかけられた。黙って、言いなりの金を渡した。総本山もそれは同様で、僧籍取得のため、かなりの額、寄進した。金のある者しか出家できないようになっているのが、当世らしい。 師僧の指導で、基本的な経文を三つ四つおぼえた。 京都から法衣屋を呼び寄せ、尼僧の衣を仕立てさせた。 準備は着々とすすむ。 夫の遺産を整理した。大部分、慈善団体に寄付した。セレブ妻として、思うさまその恩恵に浴した。もう十分だ。未練はない。 豪邸や別荘、土地、車やヨット、家財も売り払った。子供がいないのが幸いして、厄介な存続問題も生じず――夫側の親戚とちょっとゴタついたが――全て美紅の思い通りに運んだ。服や宝石などの類も処分した。尼には無用な代物だ。身軽になった、という心地の好さがあった。 食べていくのに困らない程度の金と、得度費用分の金だけは手元に残しておいてある。 そして、尾藤の所有していた某所の小さな土地のみは売らずに、そこにささやかな草庵風の建物をつくらせた。以後はここが終の棲家となる。 まだ若いのだから、と翻意を促す声も多かったが、美紅は耳を貸さず、自分の意思を押し通した。 父も、 「考え直せ」 と何度も止めた。まさか、自分が娘と観ていたドラマが、娘の出家願望の出発点になったとは、考えも及ばない。 そうこうしている間に、本山から許可がおりた。尼への道が開けた。 法名を与えられた。「香鴦(こうおう)」。「鴦」(オシドリのメス)という字を用いるあたり、師僧も心憎い。 得度の日取りも決まった。 できればたくさんの知人に集まってもらいたい。数多の衆目の中、尼へと変じたい。 式もそれなりの規模でやりたい。得度の費用は潤沢にある。俗世の名残に金に糸目を付けず、美々しく賑々しくやろう。そう考え、実行にうつした。 ついに得度式当日を迎えた。 美紅の招きに応じて、大勢の親族友人知人たちが本堂を埋め尽くした。遠路はるばる馳せ参じた者も多かった。それらの交通費や宿泊費も、全て美紅の方で負担した。 友人たちは、 「美紅さん、よく思い切ったわね。まだそんなに若い身空で・・・」 「そこまでご主人のことを愛してらしたのね」 「これでご主人も心置きなく、あの世で安らかに過ごせるわね」 と口々に言い、美紅の決意に涙を流していた。 「尾藤も最高の嫁さんをもらったな。うちの女房に美紅さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」 と言う男性もいた。 美紅も自らの支度で忙しい。参列者たちへの個別の挨拶もそこそこに、控室となっている庫裏(くり)へとトンボ返りして、あわただしく準備をした。 寺嫁に手伝ってもらって、着物をつけた。この日のためだけにわざわざ仕立てた加賀友禅だった。長い髪も和装に合わせ、後ろでまとめた。 出入りを許された近親者のみが、その和服姿にため息をもらしていた。父などはもう落涙していた。 最後の俗体を大きな鏡の前で、くるり、と回って確かめた。まだまだ若い。その若さと美しさに美紅は満足した。花は美しいうちに散るが良し。 「そろそろ式を始めますので、来賓の方はお席にお着き下さい」 と役僧に促され、周囲の人々は本堂へと去っていった。美紅と師僧のみが室に残った。 「では、打ち合わせ通りに」 「はい」 「わからないことがあっても、役僧が教えてくれるから、言う通りに動けばいい」 「お心遣い、ありがとうございます」 「剃髪の儀が終わったら、一旦こちらに戻ってくるように。床屋を呼んであるからね。こっちで髪を落とすことになる」 改めて念を押され、 「はい」 美紅は答えながら、鏡に目をやった。自分の髪のある顔を心に焼き付けた。 「それにしても――」 師僧はしみじみと言った。 「ワシも僧侶になって五十年経つが、こんなに豪奢な得度式は初めてだわい」 「・・・・・・」 美紅は微笑した。この得度の費用だけで、高級外車が何台も買えるほどの金が飛んでいる。最後の贅沢だ。 鐘が打ち鳴らされ、得度式は始まった。 僧俗男女で満ちあふれんばかりの本堂へと入堂する。 たくさんの僧たちが朗々と誦する経に迎え入れられるように、着物姿の美紅は、背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで、仏前へと進んでいった。 美紅が着座すると、間を置かず、戒師の師僧が入堂。 「ご焼香を」 と役僧に耳元でささやかれ、美紅は言われるまま、焼香する。万事こういったふうに、周囲の介添えもあって、式は進行していった。教わった通り、五体投地をし、師僧や父母らに三拝した。 剃髪の儀。師僧が剃刀を執り、美紅の髪にあて、剃る真似をした。 そして、役僧に先導され、美紅は加賀友禅を翻し、楚々と本堂を後にした。それが、美紅を知る者たちが最後に見た、彼女の有髪姿だった。 剃髪の室には、すでに床屋が控えていた。女性の床屋だった。美紅よりまだ若い女性だった。 いよいよ髪を剃るのだ。そう思うと、美紅の心もさざ波立つ。まだまだ女盛り。ためらいが生じる。 しかし、尾藤の顔を脳裏に思い浮かべ、逡巡を振り払おうとする。 そんな美紅の動揺が伝染したのだろう、女性の床屋もオロオロして、 「何分、女性の方の頭を剃るのは初めてでして」 と腰が引け気味で、とりあえずは美紅を用意の椅子に座らせ、ケープを巻いて、おずおずと剃髪の支度に取り掛かった。 床屋のスローな動きに、美紅は焦れ、 「何トロトロしてるの! 皆さんに待って頂いているんだから、愚図愚図せず、早くやって頂戴!」 と、ついセレブ時代の癖で、不心得なメイドでも叱るような口調になってしまった。 女床屋はムッとした顔になって、黙って業務用のバリカンを握った。 美紅は自分の態度を後悔したが、謝るタイミングを逸してしまい、口を閉じた。 双方、押し黙ったまま、カットが始まった。 ドゥルルルルル とバリカンが無機的なノイズをはじけさせつつ、美紅の頭部に迫ってくる。 「お急ぎのようなので、粗切りは省かせて頂きますね」 と女床屋は嫌味っぽく言い、もはや遠慮会釈なしに、美紅の額の生え際にバリカンをあて、さっさと走らせていた。バリカンの振動を、軽い痛みを、前頭部から頭頂までの頭皮に感じた。 ザザザザッサー! バサバサバサッ!と息を呑むほどの嵩の落髪。 美紅は思わず顔をしかめた。出家=剃髪、と覚悟を決めて臨んだものの、いざ現実に髪を刈られて、その衝撃の余り、やめて!と叫びだしたくなる。別に有髪の尼でもよかったのではないか、と悔やみもする。 しかし、もう遅過ぎた。 早くもバリカン三幅分の月代が、ブラウンのウェーブヘアーを左右に分け裂いていた。オシャレな落ち武者といった感じだ。 月代はどんどん広がる。 ドゥルルルルル、ドゥルルルルルル ザザザザッサー! ザザザザッサー! 無念、と歯噛みする美紅。しかし、女としての自分は虚勢され、すっかり仕事モードに切り替わっている女床屋の支配下に置かれ、滅びの時を待つのみ。 ドゥルルルルルルル ザザザッサー! ザザザザザザッサー! 絶え間なくバリカンは運動し、絶え間なく髪が降り落ちる。 毎週のように一流の美容室に通い、カリスマ美容師たちのテクニックによって、時流に合わせ美しく整えられ、飾り立てられてきた髪が、そこら辺のパッとしない女床屋のバリカンで無造作に刈り落とされていく。 ドゥルルルルル ザザザザッサー! 美紅は不本意な表情をますますひきつらせるばかりだ。女として完全に店じまい。仕方ない。自分が望み、自分が選んだことだ。あとは俗欲にとらわれず、ひたすら尾藤を弔う日々に入るだけだ。 ふと背後ですすり泣く声がした。 鏡越しに見たら、いつの間にか父母や友人二人が室の一隅にかしこまり、美紅の剃髪に立ち会っていた。皆泣いていた。 何か言葉をかけたかったが、バリカンがうるさいので、開けかけた口をまた閉じた。 バリカンは暴れに暴れる。ふと、馬のペニスを連想する。荒ぶるそいつは、美紅を蹂躙する。美紅は屈服し、従順に頭をさしのべる。 茶色がかった密林を薙ぎ払い、薙ぎ倒し、頭は瑞々しいブルーへと、ペンキでも塗り替えるかの如く、みるみるその色を変じていく。 ドゥルルルルル ドゥルルルルルル ザザザザー、ザザザザッサー! バリカンは後頭部の髪とせめぎ合っている。そして、あっけなく打ち勝ち、容赦なく切り捨て、剥ぎ取り、ゴミと化したそれらなど意にも介さず、一路、頭頂を目指す。そうして、前頭部の青と結合して、その面積を増大させていった。 鏡に女床屋の能面のような無慈悲な表情がうつった。鏡の中で目が合った。女床屋は、フン、といった顔をして、髪の収穫に没頭する。 美紅は寂寞とした心で、寒々しい様子になっていく自分の頭を見つめた。尾藤のことを思った。 ――あの人は喜んでくれているかしら。 きっと草葉の陰、喜んでいるはずだ、と自分に言い聞かせ、剃髪前の――ほんの10分ばかり前だ――前向きな気持ちに戻ろうとした。 全ての髪が美紅の頭から消え去った。 ズバと刈り込まれた五厘頭が蒸され、次はシェービングだ。 クリームが頭全体に塗られる。 床屋は剃り込んだ。ゾリゾリと1mmにも満たぬ毛髪を、レザーで本格的にシェービングしていく。 ジージジー、ジー、ジジ―、ジー、ジーー、 ジジー、ジー、ジージジー、ジー、ジー、ジジジー、 生白い頭皮が摩擦音を立てながら、電灯の下、テカテカ浮かびあがる。 レザーが シッ、 と毛に食いつくと、床屋はそれを後ろにひく。 ジーー 剃り余しのないよう、入念に頭が剃りあげられる。 ジジ―、ジー、ジジジー、ジー、ジー、ジー ジー、ジジ―、ジ、ジー、ジー、ジー、ジジー、 かくして剃髪は終わりぬ。 頭がカミソリ負けしてヒリつく。剃り手も師僧任せにせず、自分でそれなりの店から、それなりの理髪師を呼ぶべきだった。 それでも、鏡の向こうの坊主姿を見やり、似合っている、と安堵した。そして、初めて、 ――尼さんになったんだ・・・。 という実感と満足を得た。 ふたたび寺嫁に手伝ってもらい、法衣をまとうと、充足感はさらに増した。 「なんて清々しい!」 「本当に見事な尼さん姿よ、美紅さん」 二人の友は尼になった美紅(「香鴦」と呼ぶべきか)にうっとりと見惚れていた。 「よく似合っているぞ」 と父もハンカチで涙を拭き、 「お前の決めた道なのだから、しっかりと全うしなさい」 と娘に訓戒を与えていた。 僧形となった自分が再度入堂するや、列座の人々の空気がピリリと引き締まるのが、美紅にはわかった。緊張が走った後には、声にならぬどよめき。それも伝わってきた。 この瞬間を味わいたいがために、美紅はかくも大がかりな得度式を挙行したのだ。予想以上の反応に、美紅の心はひそかに浮き立たつ。 式の最後に、美紅は参列者に向け、簡略なスピーチをした。 「皆様、本日はご多忙の中、わざわざ足をお運び下さり、ありがとうございます。心より感謝申し上げます。(中略)亡き夫尾藤は私にとって、かけがえのない伴侶でございました。もし、尾藤に先立たれることがあれば、出家してその菩提を弔いたい、という念が心の内にずっと強くありました。尾藤はそれだけ、私にとっては、夫として、一人の人間として素晴らしく尊敬できる存在でございました。まあ、ノロケではございますが(笑い)。そして、本日、こうして晴れて、仏様の弟子の末座に加わらせて頂きまして、身の引き締まる思いでございます。とは申し上げても、衣もはじめて着させて頂き、頭も、こう、軽すぎて(と頭を撫で)、フワフワと地に足がつかぬ感じで(会場から笑い)、でも、これから追々慣れていくことでしょう。(中略)今後は静かにひっそりと尾藤の供養をする毎日となります。その節目に、これほどたくさんの方々にご臨席を賜りましたこと、お見送り頂けますこと、ただただ嬉しく、ただただありがたく、皆さまお一人お一人のお顔を心に刻み、今後は仏道に邁進していこうと決意を新たにしております。本日は本当にありがとうございました」 美紅の言葉に、皆、場所柄、拍手の代わりに深々と頭を下げた。 得度式を終え、美紅こと尾藤香鴦は草庵に引き移った。 その小さな庵室を、自分の法名から一字とり、妙鴦庵(みょうおうあん)と名付けた。 得度費用として手元に残した金はまだまだふんだんに残っていた。 香鴦はその余った金を投じて、妙鴦庵の地下に核シェルターを作らせた。 (了) あとがき (自分的に)程よい長さに収まった小説です♪♪ もし、今どき、夫の菩提を弔う!という女性がいたらどうなんだろう、との着想を得、書いてみました。ラスト、ちょっと時局色を織り込みつつ。 途中、もうちょいストレートでハートフルな純愛モノにした方が良いかも、とも思いましたが、それはそれで後日また書けばいいや、と当初の考え通り書ききりました。変化球的なストーリーです。 最近得度式多めのような気がします。こういうのは、あんまりしょっちゅう書いてると(書く側が)新鮮味を失ってしまうので、気を付けよう。。。 とにかく濫作は避け、一作一作大切に、楽しんで、誠実に創作活動をしていきたいです(*^^*)(*^^*) 最後までお付き合い下さって、本当にありがとうございますm(_ _)m 猛暑の折、皆様もどうかご自愛くださいませ♪♪ では! |