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逢魔が時


 蜩が鳴いている。
 洛北の山奥、都の喧騒を離れた幽邃の地、そこにヒッソリと建つ尼寺、慈妙院の門扉を、藤三位大納言定永の息女、由姫(よしひめ)の行列が潜ったのは、もう夕刻であった。
「着きましたぞ、姫」
 青侍の兼光が馬上、由姫の輿を振り仰ぐ。
「そうか」
 返事をしながら、由姫は輿の中で、生あくびを噛み殺している。
 ――物詣でなど、くだらぬ。
 父の大納言にすすめられて、自邸を出立したものの、半日も輿に揺られてはかなわない。
「今宵は寺に宿をとるのか」
 さようでございますかな、と兼光が煮えきらぬ返答をした。山中ゆえの涼気が心地よい。
「姫様、お乗り物から御出で給え」
 侍女頭の楓が言った。
 御簾をあげて、年若い公達たちに「芙蓉もかくや」と囁かれている艶姿を現す由姫の履物を、雑色がそろえる。
「ようお越しくだされました」
 山門の前には住持の老尼が出迎える。齢六十ほどであろうか、一族の末流の女らしいが、面識はない。
「どうか、ごゆるりとお参りなさいませ」
「うむ」
「まずは白湯などお召し上がりください」
「そうか」
 やや権高く対応する。大納言の姫君が山寺の一住持に、辞を低くすることもあるまい。

 奥の間に通される。
 見習いの尼僧が菓子を運んでくる。
「なかなか味わい深き、眺めよのう」
 由姫が寺の佇まいを褒めた。
 勿体のうございます、と平伏する見習い尼。
「近頃は世間も騒がしいと聞き及んでおりまするが」
「騒いでおるのは侍どもだけじゃ。ワラワの邸内は静かなものぞ。乱世も騒擾も屋敷の土塀ひとつ向こうの話じゃ」
「左様で」
 神妙な表情で首肯している尼に、由姫は持ち前の悪戯心が鎌首をもたげ、
「そちは幾つになる?」
「十七にございます」
「若いのう」
 ワラワとさして変わらぬではないか、と由姫は憫笑した。
「あたら若い身空で世を捨てるのは、短慮というものじゃ。浮世にあらばこそ、魚鳥の肉の味を楽しみ、恋もできる」
 尼寺ではオノコの体も味わえまい、と相手が世間知らずの未通女ゆえに、公家の娘らしからぬ大胆な軽口がポロリとこぼれる。
 この姫君の淫蕩ぶりは都でも、つとに知られていて、若い公卿ばかりか、身分卑しき雑人、出入りの商人や果ては女色を遠ざけている僧侶まで、閨房にひきいれているとの噂であった。
「こちらはこちらで別の趣がございます」
と見習い尼は袖で口元を隠し、ホホ、と笑った。由姫を愚弄する色があった。
「尼寺の楽しみなど、たかが知れておろうに」
 由姫は不快そうに吐き捨て、負けじと優越感を漲らせ、剃髪染衣の若尼を見下ろす。
 スッと障子に影が差した。
「由姫さま、支度が整いました。本堂まで渡らせくださいませ」
 有髪の女童が取り次ぐ。
 ――支度?
 兼光も楓たち侍女も一向に姿を見せない。何処かで羽根をのばしているのだろうか。
「支度とは何か?」
「存じませぬ」
 まさか御仏の前で酒肴のもてなしでもあるまい。いや、それも一興ではないか。
「逢魔が時じゃな」
 化け物でも出そうな、と由姫は口をすぼめた。

 切りさげ髪の女童に先導され、本堂へと向かう。
 本堂には、寺内の尼僧たちが参集し、兼光も鹿爪らしい顔で着座している。
 中央に畳が一枚敷かれ、屏風がひきまわされている。傍らには脇息、水をはった鉢、そして三宝が置かれている。三宝の上には研ぎすまされた剃刀が乗っている。襷がけのいかつい体つきをした尼が、屏風のかげ、片膝をついて、身じろぎもせずにいる。
「これは何事じゃ?」
 訝る姫君に、
「得度の準備、万端整いましてございます」
 兼光が厳粛なる面持ちで言った。
「得度? 誰が出家するのじゃ?」
「恐れながら」
 兼光が平伏する。
「姫君でござる」
「!!」
 由姫は反射的に後ずさった。
「ワラワに・・・尼になれと申すか・・・」
 声が震えている。
「左様」
「控えよッ!」
 貴人にあるまじき大音声を発してしまった。当然の反応だ。寺参りとばかり思って、ノコノコこのような物さびた山寺を訪ねてみれば、ただちにこの場で髪をおろせという。青天の霹靂である。言葉もない。
「何故じゃ? 理由を申せ」
 かろうじて、これだけ訊いた。
「少々、放埓がすぎましたな」
 兼光は苦々しげに、ある人物の名を挙げた。
「宗平(むねひら)のことでござるよ」
「宗平?」
 朧気な気憶の中から、数ヶ月前契った細面の坂東武者の顔を拾い上げる。突如として洛中に現れ、突如として由姫に恋文を送ってきた男である。筋肉質の体と荒々しい閨房での振舞いは、日頃相手にしている公達連中と違い、新鮮で、何度か臥所を共にした。それだけの男である。
「宗平がいかがしたと申すのじゃ!」
「宗平は曲者でござってな」
 さる反幕派の大物御家人の息のかかった諜者で、朝廷と鎌倉幕府の間を離間させようと画策していたという。
「天下騒乱の火種の如き男でござるよ」
と兼光は言った。陰謀が露見し、追捕をうけ、自害して果てたという。
「どうやら、姫君にお近づきになられたのも、大納言さまを陰謀の一味に加えんがためでござる」
 朝廷や幕府から嫌疑を受けた由姫の父は、驚愕して、そのような企ては自分は一切あずかり知らぬこと、と八方陳弁したが、窮した挙句、嫌疑の「証人」である由姫を出家させることで、事態の収拾をはからんとしたという。愛娘を犠牲にしたのである。
「なんと・・・」
 あまりの出来事に呆然となる。
 冗談ではない。宗平など、戯れに閨にひき入れた数多の男どもの一人にすぎないのだ。
「わ、ワラワは何も知らぬぞ!」
「無論、姫君の潔白は我々とて存じあげておりまするが、事が事だけに・・・」
 父大納言も何らかの形で、ミソギをせねばならないのだ、と兼光が説明した。
「そ、それでワラワに尼になれと」
「いかにも」
 幼少の頃からの忠実な老侍は厳しい顔でうなずいた。
 ――バカな!
「御無念でありましょうが、ここは御家の為、得心いただきとうございます」
「待て、兼光」
 由姫の表情は蒼白だった。
「どうか御着座を」
 兼光が腕をあげ、剃髪の座を指し示す。
「待てと申しておろう!」
「御家の為でござる」
 兼光が繰り返した。否とは言わせぬ、といった態度だった。
「いやじゃっ!」
 由姫は悪鬼のような形相で叫んだ。とりすました姫御前の振る舞いなど、かなぐり捨てていた。
「尼になどならぬぞ!」
「姫様」
 三人の尼が、由姫の前に飛び出し、手をついた。
「楓!」
 侍女たちであった。
「私どもも、これ、この通り、剃髪して姫様の御供をいたしまする。ともに御仏にお仕えいたしましょうぞ」
 剃りあげたばかりの頭を深々とさげる。
 数珠のように三つ並んだ坊主頭は、由姫から理性を奪った。
「いやじゃっ! ワラワは頭など剃らぬぞ!」
剃髪の座に小走りで歩みよると、脇息を蹴り飛ばし、鉢をひっくり返す。
「名門の姫君たる御方がなんたるお振る舞いか」
 兼光は主の醜態に眉をひそめたが、すぐに女童に、鉢に新しい水をはってくるよう、言いつけた。断固として得度剃髪を実行に移すハラらしい。
「帰るぞ!」
 由姫は喚き散らした。
「己が安泰の為、娘を尼寺に入れるとは、さても見下げ果てたる父君よ! いそぎ屋敷に立ち戻って、心得違いをお諫め申しあげる! 輿の支度をいたせ!」
「供の者たちはすで去らせました。山門も閉じましてござる。それがし、姫君の御得度を見届けたうえで、帰邸し、大納言さまに御報告申しあげまする」
 お覚悟を、と兼光は、怒りと恐怖にワナワナと身を震わせる由姫に詰め寄った。
 ――なんたること・・・。
 朝には優雅な姫君として起居していた身が、夕には人界を離れた尼寺に幽囚同様に、押し込められる。転落とは、かくも容易いものなのか。
「の、のう、兼光・・・」
 由姫はひきつりながらも、無理矢理笑みをつくった。卑屈な微笑だった。
「こ、これは座興であろう?」
 一切を「座興」という形にして、兼光に翻意をうながすのだ。そうやって、この場をおさめる。尼寺入りから逃れるには他に道はない。
「父君とソチとでワラワを担いでおるのであろう? 悪戯者め。楓たちが可哀想ではないか。フハハハ、ハ・・・」
 兼光は笑わずに頭をふった。
「御着座を」
 ふたたび冷たい剃刀の待つ、畳に座るよう、うながされる。先に尼になった侍女たちもさめざめと泣いている。
「姫様、おいたわしや・・・」
「いやじゃっ! 尼にはならぬっ!」
 兼光は、これ以上の問答は無駄と判断したのだろう、腰を浮かせ、
「御免」
と主の許へと、いざり寄った。
 家臣の不穏な覚悟を察した由姫が、ヒィッと悲鳴をあげ、身を翻し、脱兎の如くその場を逃げ出そうとするところを、
「御免!」
と兼光が兎狩りを敢行した。
「ぶっ無礼者めっ! たっ、ただでは済まさぬぞ!」
 離せ、と抵抗する姫君を老人とは思えぬ大力で抑え込む老武士。そして、そのまま剃髪の座へと、主君をひきずっていく。
 尼たちが一斉に読経を開始する。まるで洛中一の容色と謳われた美女の弔いであるかのように。
「やめよっ! 乱心いたしたかっ!」
「兼光はいたって正気にござる。姫君こそ、良い加減に心をお静めくだされ」
と兼光は由姫を畳のうえに、引き据えた。そしてギラリと小刀を抜きはなつ。
「ま、待てっ! か、兼光! 見逃せ、見逃してたもれ! そ、そうじゃ、ソチに恩賞をとらすぞ。何がよい? 黄金か? 駿馬か? 望みのものを・・ぎゃあああああっっ!」
 兼光の手に根元からスッパリ切り取られた黒髪の束があった。
 放心したように、唇をパクパクと動かしている主君を抱きかかえた兼光が、
「さっ、春瑛尼殿」
と襷がけの尼をうながすと、春瑛尼も心得たもので、
「ハイッ」
 素早く朱塗りの三宝を捧げもつ。
 美濃紙の敷かれた三宝の上に、収奪された髪束が無造作に乗せられる。髪は自身の重さに傾ぎ、バサリと床に落下した。そして生き物のように床板を這う。
 あわてて拾いあげようと、腰をかがめる春瑛尼に
「後でよろしい!」
と兼光は剃髪を急がせる。
 介添えの尼が、ザンバラ髪を振り乱す由姫の頭頂部にタラリタラリと水を注ぎかけ、髪を湿らせる。
「尼削ぎ(オカッパ頭。昔の尼はこの髪型が多かった)でよろしいのではありませぬか?」
 住職の老尼が口をさしはさんだ。しかし、
「いや」
 昨日まで忠実にかしずいてきた家臣は、首を縦にふらず、
「剃りこぼってくだされ」
 春瑛尼は口中で経文を誦しながら、由姫の額に剃刀をあてた。慣れた手つきだった。そのまま、スウーッと剃刀をひいた。
 ジョリジョリジョリと剃刀と頭皮が摩擦し、髪が薙がれ、ツルリと瓜の如き地肌が覗く。
 姫がこの世のものとは思えぬ悲鳴をあげた。
 春瑛尼は手首だけ動かして、剃刀を前額に運び、つむじに向け後退させる。ゾリ、ゾリ。そのたび、都人にため息をつかせた黒髪が、あっけなく剥ぎ取られる。
「汝(うぬ)ら、よくも・・・許さぬぞ。七代後まで祟ってくれる・・・」
 歯噛みして、逆臣たちを睨みつける由姫。
「姫、妄執を抱かれたまま、仏門にお入りになれば、障りがござりまするぞ」
「黙れっ! かかる恥辱に耐えられると思うてか! 汝らはワラワに生きながら死ねと申すか! いっそ死んだ方がマシじゃっ!」
「ならばお死になされ」
 兼光は冷ややかに言った。
「へ?」
 兼光が突き出した懐剣に由姫は思わず息をのんだ。
「それがしは、止めはいたしませぬ。名家の姫らしく見事、御自害あそばされませ。むしろ、由姫様、此度の不始末の責めを負うて自害なされました、と申し開きすれば、世間の聞こえも良うございましょう」
 さあ!と懐剣を重ねて突きつけられる。兼光は本気だ。由姫は、ウッと懐剣から目をそむけ
「もうよい」
呻くように言った。噛みしめた唇から、血が滲んでいた。ゾリリと彼女の頭が鳴り、三宝の黒山がまた高くなる。
「何がよいのでござりまするか?」
 兼光が意地悪く尋ねた。図に乗っている。
「・・・出家する。髪をおろして・・・尼になる」
 がっくりと、うなだれる由姫とは対照的に、
「それは重畳にござる。それがしもこれで肩の荷がおり申した」
 兼光は喜悦を抑えきれぬ様子だった。この功によって、帰邸してから父大納言に少なからぬ褒賞を与えられるのであろう。
 老臣はようよう主の体を解放した。
 由姫は突っ伏してしまいそうな体を支えるかのように、脇息にもたれ、頭上を往来する剃刀の狼藉に耐えている。
 尼たちの読経は続いている。
 剥きあがった姫君の頭頂部は、清浄というより、どこか艶かしく、淫らであった。
 ハラリ、ハラリ、と黒髪がこぼれ落ちる。
「兼光」
「なんでござる」
「ワラワはもはやここからは出られぬのか?」
「御忍びくだされ」
「何故、ワラワが、このような目にあわねばならぬのじゃ」
「これも前世からの宿命でございましょう」
 由姫の嘆きに、兼光は抹香臭く応じた。
「兼光、ワラワはのう」
「はっ」
「もっと現世(うつしよ)を楽しみたかったぞ」
 現世と仏門を隔てる頭上の黒い壁は、みるみる毀たれていく・・・。ゾリリ、ゾリリ。
「もっと恋を楽しみたかった。少将殿や僧都殿と閨で睦言を交わし、いま一度、あの腕に抱かれたかったぞ」
「姫様」
 春瑛尼が剃髪の手をとめ、これから彼女の仲間になる女に、そっと耳打ちする。
「現世の悦楽など犬にでも食わせておしまいなさいませ。尼寺にはオノコに求めても得られぬ・・・」
愉しみがございますよ、と由姫の耳朶を甘く噛んだ。キャッと由姫が雑仕女のような、はしたない嬌声をあげた。
「あ、あ、尼御前よ」
 都一の姫の声は震えていた。恐怖や屈辱ではなく、歓喜の音色だった。
「い、いま一度」
「何度でもしてさしあげます」
 春瑛尼が由姫の耳に舌を這わせる。由姫は尼の官能の術に身をうちふるわせ、
「こ、これが尼寺の愉しみか?」
「左様でございます。女子のまことの悦びは、女子にしかわからぬものでございますよ、姫様。夜毎、お楽しみなさいませ」
「夜毎か! あ・・・頭を丸めれば夜毎、このような法悦が味わえるのかっ?」
 大納言の姫君の容儀は消え、ただの色情狂がそこはにいた。
「はい」
「そ、剃ってくれ!」
 色情狂は春瑛尼の袂をつかんだ。
「早う、剃っておくれ! そなたのような青道心にしておくれ!」
「ただし」
 春瑛尼はピシャリと言った。
「心得違いをいたしてはなりませんよ。あなたはもはや権門の姫に非ず。当山の新参尼として扱います。炊ぎ事や掃除もいたさせますよ」
 わかりましたね、とまた耳をせめられ、由姫はもう身も世もなく体をくねらせ、
「は・・・はい・・・」
 春瑛尼は、すっかり魂を抜かれた色狂いの後頭部に剃刀をあて、鋭利な刃物は、ゾリリ、ゾリリと、その頭を楕円形に剥きあげていく。焚きこめた唐渡りの香のかおりがする髪が、その持ち主から一房、また一房、さらに一房と摘まれる。収穫者の腕は見事で、容赦がない。嗜虐的ですらある。
 陰々滅滅とした読経が止む。
「まあ、おつむりの形のなんとよろしい」
 住持が手をうって、褒めそやした。
 肉汁が滲みそうな青光りする頭が、燭台の灯火に反射して、ゆらり、と浮かびあがっている。
 由姫は放心の態で、それでも両手を合わせ、形だけは合掌させられていた。
「姫君、ご装束を変え給え」
 一人の尼が素絹の衣を運んできた。先程、由姫の応対をした若い尼だった。

『廿四日。大納言定永卿御息女、昨日物詣での折、にわかに発心せられて其の場にて御落飾なされたり。御齢十八。道心けなげなりと世の人褒めぬ者なし』
と或る公卿は日記に書き残している。


                 (了)


    あとがき

 長期間コツコツ書きついでみたが、感想は・・・剃刀での剃髪の描写は難しい・・・orz強制断髪も難しい・・・orz
「初の時代劇だー」とスケベ心を出してはみたものの、苦戦。ベタな尼寺ポルノみたい・・・。
 どこが悪いんだろ・・・。う〜ん、やっぱり剃刀での剃髪はノらない。勝手がわからない・・・。
 生まれて初めて書いた歴史小説ですが、歴史物は現代小説のように軽いノリでは雰囲気が出ないため、なるべく重〜く書こうとして、ドツボにハマってしまいました。
 機会があれば、再チャレンジしたいジャンルです。



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