作品集に戻る


チェックアウト


 ●Overture

 Down Down Down
 深く。もっと深く――
 Dive Dive Dive
 深く。そして、もっと、深く――
 外界からの陽光が淡淡(あわあわ)と差し込み、水とコラボして、この音無き世界を鮮やかなブルーに彩る。
 さらに潜る。水は身体を圧してくる。それでも、もっと、深く――水底が見える。海賊のお宝や難破船の残骸などはなかったが。
 石や砂や貝殻が反射してキラキラ光り、海藻がユラユラ揺れる。闖入者に気付いた魚たちが、ササーッ、と群れなして泳ぎ去っていく。
 自分だけの世界に、少女の幼い自立心は躍る。冒険心は弾む。楽しい。
 アクロバットするように、水の中をクルクルと旋回する。長いバージンヘアーがたゆたう。愉快だ。
 ゴボ、と口から気泡がもれる。
 もっともっと深く潜ろうとするが、たちまち水にはじき出され、少女の体は水面へと急浮上――
「ぷはっ」
 海面から勢いよく顔を出す少女。外界への帰還。小さな探検からの凱旋。久しぶりに吸う空気は甘い。父がいて、母がいて、兄がいる、いつもの世界。
 父が少女を呼ぶ。
「七海」
「はぁい、何、パパ?」
 来栖七海(くるす・ななみ)は立ち泳ぎしながら、ビーチの父を振り返る。
「そこは深いから危ない。もっと浜辺の方で遊べ」
「えー、つまんない」
 せっかくの「冒険」に待ったをかけられ、七海は頬をふくらませる。ゴーグルをはずす。やや内斜視気味の眼が、どこかそこはかとなく小悪魔的ななまめかしさを醸し出している。
「いいから言うことを聞きなさい」
 父に強く言われ、七海はむくれる。
「もういい、もう泳がない」
とビーチに戻ると、
「ホテルに帰る」
 口を尖らせ、砂浜を蹴り蹴り歩き出す。
 小学校は夏休み。夏のリゾートで、この海辺の街に来た。父の知人のプライベートビーチを借り、一家で過ごしているが、来栖家のお姫様はただ今ご機嫌斜め。
「この近くで旨いパンケーキを食わせる店があるらしいから、もう少ししたら行ってみるか」
と父は姫君の機嫌をとろうとするが、七海は嬉しさを押し隠し、一生懸命ふくれっ面をキープする。
「それにしても、本当にポルトガルにでもありそうな街ね」
と母が言っているのが、耳に入った。そう、確かにこの街はエキゾチックな佇まいの街だ。別に住人たちが意図して異国っぽくしているわけではなく、自然にそうなった感じ。
 ゴーン ゴーン ゴーン
 岬の古刹から梵鐘の音が鳴り響く。
「おお、相変わらずやっとるなあ」
 父は職業柄(僧侶)この鐘撞きにいたく心をひかれている。
 しかし、七海は子供ながら、どうにも違和感をおぼえている。この異国風のロケーションにお寺の鐘はそぐわない。チャペルの鐘の音の方が、ずっとずっと似合うのに。
 だけど、審美タイムもほんの束の間、
 ――パンケーキ! パンケーキ!
とお腹がコールしている。


 ●First Movement

 ゴーン ゴーン ゴーン
と鳴り渡る鐘の音に、ぼくはハッと我に返った。
 ベッドの中ではマコが、一糸まとわぬ姿で、スヤスヤ寝息をたてている。ブラウンがかったソバージュのロングヘア―が、枕を這っている。
 ぼくはため息を吐く。
 意気地なしのマコは、とうとう髪を切れなかった。
 マコは尼になる。理由は言わないでおく。人には誰しも事情というものがあるのだから。
 今鐘の鳴ったあの岬の寺に、明日から入ることになっている。
 出家する前に目一杯贅沢をしてみたいというマコの望みを容れ、ぼくは有り金をはたいて、この高級ホテルを予約した。滞在は一週間。
 俗体でチェックインして、法体でチェックアウト、その予定だった。チェックアウトして、そのまま岬の寺へ行き、そこで尼としての生活をスタートする。
 だが、マコの俗世への執着は、ぼくが考えていたより、ずっと強烈だった。
 食事で、ショッピングで、遊興で、ギャンブルで、マコは散財した。そのたびにぼくは、自分の銀行口座の預金残高を思い、青息吐息だった。
 夜毎ファックするときのマコは、以前にも増して情熱的だった。小麦色のしなやかな身体をのけぞらせ、たっぷりと汗をかいて、くねらせ、のたうち、髪を振り乱して絶叫し、ぼくの身体に歯を立て、爪を立て、ほとんど狂乱の態だった。そして、きまってうわ言のように、
「尼さんなんかになりたくないわ」
と何度も口走るのだった。
 昼間のぼくならば、子供に対する親のように、
「もう決まったことなんだ。受け容れるしかないね」
となだめる口調で言うのだが、夜のぼくは違った。マコの出家への嫌悪感を煽るように、
「尼になれば、こうやってセックスすることも禁じられるんだよ」
と囁く。
「肉もダメ、酒もダメ、オシャレもできない。勿論こんなに長い髪なんて許されない」
と言いながら、マコのソバージュの髪を撫でると、ぼくの期待通り、マコは「絶望」というスパイスに刺激され、度を失い、刹那的にぼくの「身体」を求め、激しい、粘っこい、爛れたファックのうちに忘我の状態を渇望するのだった。もう一回、もう一回、とせがまれるまま、ぼくは腰を振り、マコは何度も果てた。ここ二三日は夜昼の区別さえなく、求めてくる。まるで一匹の餓鬼だ。
 こんなふうだから、本来ならばとっくに頭をスキンヘッドに刈っておかねばならないのに、マコは剃髪から逃げ続けている。
 毎日このスイートルームにまで寺の鐘の音が聞こえてくるたび、ぼくは焦燥感に苛まれる。役目を放棄して、マコを入寺させず、ノコノコ故郷に戻るわけにはいかないのだ。
 幾度も説得したのだが、いつもいつも、イヤだ、とか、怖い、とか、もうちょっとだけ待って、とかマコに懇願され、お互い思いきれぬまま、時間ばかりが過ぎていく。ぼくの苛立ちは募る一方だ。
「カネ――」
と不意に声がした。マコだ。いつの間にか両のまぶたをうっすらと開けている。お目覚めだ。
「カネ?」
 ぼくは一瞬Moneyのことかと思った。が、マコは今の梵鐘の音のことを言っているらしい。
「鐘がどうしたんだい?」
「この街には不似合いだなァ、と思って」
「・・・・・・」
「チャペルの鐘の方がピッタリくるのに。惜しいわね」
 この女はまるきりわかっちゃいない、とぼくは首がめりこむくらい肩をすくめたくなる。街のイメージにそぐわないその鐘を、いずれは自分がたすき掛けして撞くことになるんだぞ、マコ。
「お腹空いちゃった」
 お酒も少し飲みたい、というのん気なマコ。彼女の言いなりに、ぼくは部屋の電話をとり、アメリカンクラブサンドと白ワインのルームサービスを注文した。
 チェックアウトは明日の朝。ホテルからタクシーで岬の寺に行き、マコを引き渡す。それで、ぼくの仕事は終わりだ。しかし、時間がない。


 ●Second Movement

 ディナーは久しぶりにホテルの中で摂った。マコにとっては「最後の晩餐」になる食事。ホテルの1Fの無国籍風の大レストランで、クラシックギターの生演奏を聞きながら食べる。
 前日買ったばかりのワインレッドのドレスを得意げにまとい、ナイフとフォークを動かして、マコはフィレ肉を切り分けている。
 ぼくはつとめてさりげなく、そして、明るめのトーンで、
「この髪もいい加減切らなくちゃね」
とマコの髪を撫で、決意を促したが、
「イヤよ」
とマコは反射的に身を引いて、ぼくの掌から逃げた。ぼくは失望した。黙って、ボーイがサーブしてくれた皿の上のものを、口に運んだ。
「ねえ」
 マコは性急に話題を変えた。
「あの娘――」
と少し離れたテーブルで食事をしている家族連れに視線を向ける。
 ぼくもマコの視線の先に目をやる。
 少女がいた。妖精のような美しい少女だった。まだ小学生くらいだ。少女は両親や兄から、「ナナミ」と呼ばれていた。
「あの娘は将来たくさんの男たちを泣かせることになるでしょうね」
などと予言めいたことを、マコは口にした。確かにマコの言う通りかも知れない。無邪気のうちに、男たちを虜にせずにはいられない、蠱惑的な色香の萌芽が垣間見れる。
 クラシックギターの繊細で哀愁を帯びた音色が、各々のテーブルをすり抜け、場内に満ち、ガラスや壁から夜の中に漏れ出ていく。
 ナナミは食事も忘れ、ステージを見つめ、その演奏に聞き入っている。よほど音楽が好きなのだろう。
 ふと横に目をやると、ナナミの父親が黙々とキャビアを口に持っていっている。頭が禿げあがっている。と、思いきや、剃髪して、スキンヘッドにしていた。どういう職業の人だろう。あるいはヤクザか?
 マコはすでにナナミから目を離し、音楽もつまらないらしく、そして、ようやく明日のことが不安になってきたのか、浮かない表情でシャンパンを飲んでいた。


 ●Third Movements

 ようやくマコを説き伏せた。マコは涙を流しながら、剃髪を承知した。承知せざるを得なかった。今宵がタイムリミットだ。
 バリカンが充電されている間、ぼくたちは寸暇を惜しんでファックした。マコは無我夢中でぼくに武者ぶりついてきた。ぼくはそんなマコを少しわずらわしく思いつつも、彼女を愛撫した。
 パッとバリカンの充電ランプが赤から黄へと切り替わった。充電が終わったのだ。
 しかし、それでもマコは、
「イヤよ、坊主なんてイヤ! 死んでもイヤッ! なんであたしがスキンヘッドになんかにならなくちゃいけないの!」
と幼子のように駄々をこね、半ば錯乱状態でぼくに抱きつき、ファックをせがんできた。
「いい加減にするんだ!」
 ぼくはマコを突き放し、その頬を平手でぶった。
「目をさますんだ、マコ。キミは明日から寺に入るんだ。キミだって納得済みのことだろう? そんな意気地のないことでどうするんだ。現実を直視して、気を強くもたなくちゃダメだ。わかるだろ? いい子だから、聞き分けて髪を切らせてくれ」
 初めてぼくにぶたれて、マコは赤くなった頬に手をあて、放心状態でいたが、グシャリと顔を歪め、泣き顔でうなだれながら、
「わかったわ・・・」
と聞き取れぬほどの低声で言った。
 マコが心変わりしないうちに、ことを終わらせねばならない。
 ぼくは大急ぎで、断髪の支度にとりかかった。二間続きのスイートルーム、そのリビングルームで、やる。マコの首に散髪用のケープをまいた。マコはテルテル坊主みたいになった。テルテル坊主のまま床に跪かせた。床を汚さぬように、事前に調達しておいた新聞紙(「タイムズ」紙だった!)をひろげ、一面に敷き詰めた。
 ぼくは大きなバリカンをつかんだ。使い方はすでにわかっている。スイッチを入れた。
 ジリリリリ、とバリカンはアブラゼミのようにうなり出す。いよいよ、はじまる。
 マコがいたずらにパニックにならぬよう、後ろの髪から刈り始める。
 ソバージュの長い髪を掌で持ち上げ、うなじの生え際にバリカンの刃をあてる。その感触に、マコはさめざめと泣いている。気が引ける。だが、避けては通れぬ道、躊躇なく、でも、ある程度のエレガントさを心がけ、ゆっくりと、でも、力強くバリカンを上へと押し上げる。
 ザザザザアァ、とチーズみたいに髪が裂ける。まだまだ、とバリカンを上へ上へとさかのぼらせる。
 茶色い縮れ毛が、バリカンのボディを、ズル、ズル、と伝い、ドサドサとケープに落下する。バリカンが通ったあとには、マコの青ざめた後頭部の地肌が、見るも無残に幅10センチほどのライン状に浮き出て、そのラインは後ろの髪をズバリ分割していた。
 ツテを辿って入手したドイツ製のバリカンの働きぶりは、ぼくを十分に満足させるものだった。
 最初のラインを起点にして、後頭部のカットを続行する。右隣、左隣、とバリバリ刈って、ラインの幅をひたすら拡張していった。刈るスピードも徐々に速くなっていった。
 バサバサとケープが落ち髪とぶつかり合い、こすれ合う音がして、それがぼくの耳には小気味よくさえあった。縮れ髪がバリカンの圧迫で、盛り上がり、根こそぎ断たれて、無抵抗のまま、またバリカンのボディを伝い、ぼくの手の甲に伝い、ぼくは刈り続けながら、ほんのちょっと手を傾け、まといついた落髪を振り落とす。パサッ!
 ラインはやがて、大きな面となる。極限まで刈り詰められた青々とした後頭部が、眼前に、でん、と圧倒的な存在感でもって、こっちに迫ってくる。
 さらにバリカンを入れる。後頭部を仕上げていく。ジリリリ、ザザザザアァ――
 ああ、とマコの口から吐息がもれる。まるでバリカンに感じているかのように。この淫売め。
 少々腹が立ったので、意地悪して振動するバリカンの刃を、グイグイとむき出しになった頭皮に押し付けると、マコは、イタイ、イタイ、と悲鳴をあげた。
 なんだか、不出来な女奴隷にヤキをいれるアングロサクソンのような心持ちに、一瞬なった。
 後ろをあらかた刈ってしまうと、
「さて、次はどこから刈ろうかな」
と口に出して考える。マコは日本人離れした顔を、心的苦痛で歪めている。
「大丈夫、マコ、もうすぐ終わるよ。きっときれいな尼さんになる。ぼくが保証する」
 ぼくになぐさめられても、マコは恨めしげな眼を、虚空に漂わせるだけだった。
 左右の髪を落とす。
 ジリリリリ・・・ザザザザアァァ――ぼくはマコの頭の形に沿って、バリカンをすすめていく。バリカンが動くにつれ、ソバージュの髪が隆起して、バサッ、いつしか積もったタイムズ紙の上の落髪のボリュームに、自分のやったことながら、驚く。
 マコの頭を何度もさすり、刈り残しがないよう、小まめにチェックして、またバリカンを入れる。左利きのマコがいつも指でからめ、弄んでいた左サイドのもみあげも、ジリリリ・・・ザザザアァァ――跡形もなく消え去った。
 前髪だけが残っている珍妙なヘアースタイルになったマコ。褐色の肌と野性味を帯びた美貌のせいか、どこかの未開の部族を連想したりもする。
 前髪にバリカンを挿入しようとすると、
「イ、イヤッ!」
 今更になって、マコは取り乱しかけた。
「もう遅いよ。さぁ、大人しく刈られるんだ」
「イヤイヤ」
「動くんじゃない。手元が狂ったらバリカンが頭に刺さる。血が出るぞ。頭の皮や肉をえぐってしまうかも知れない」
とぼくはマコをおどした。基本安全にできている機具なので、そういったことはまずない。口から出まかせだ。しかし、バリカンについて、全く無知なマコは、いともたやすくぼくの出まかせを信じた。恐怖で顔をこわばらせつつ、座り直し、じっと不動の状態を保った。
 ぼくは一気に前髪を刈った。かきわけて生え際をさぐり、そこにバリカンの刃を突き入れ、容赦なくひっぺがした。ザザザザザアアァァ――エレガントに、なんていう配慮は、とうに失せ果てていた。心はいつしか獣性でおおわれていた。マコの髪を切ることに、性的な愉悦をおぼえていた。いつもぼくを振り回してきたこの女を、束の間でも支配下においているのだ。どうして常のテンションでいられようか。
 ハイになって、バリカンを何度も何度も挿し入れ、むしりとるようにして、とうとう全ての頭髪を刈り尽くしてしまった。
 ケープをはずし、二三度ふると、まとわりくっついていた刈り髪が、新聞紙に落ちた。
 すっぽり丸刈りにすると、ぼくは命じるようにマコに言った。
「さあ、服を脱ぐんだ」
 マコはすがるように、ぼくを見た。が、やがておずおずとドレスを脱ぎ、下着だけになった。下着も脱ぐように言った。マコは今度は素直に従った。そうして、さらに言われるがままに、オールヌードで新聞紙の上に四つん這いになり、丸刈り頭をぼくに差し出した。
 その丸刈り頭を、ぼくは3枚刃のT字カミソリで剃った。凹凸の多い頭だったのと、ぼくのカミソリ使いが乱暴だったのとがあいまって、マコの柔らかい頭皮はたちまち傷だらけになった。頭のあちこちに血がにじんだ。
 ぼくは構わずT字カミソリで、マコの頭をひっかき回した。マコは声を殺し、四つん這いの体勢で、痛みに耐えていた。
 それでもこらえ切れず、新聞紙の上には、ポタポタと涙がしたたり落ちた。
 これが明日尼僧として寺入りする、うら若き乙女のまごうことなき、前夜の有様だった。
 順剃り、そして、逆剃り。
 きれいに剃りあげると、衛生面を考え、マコの腕をひっぱり、シャワールームへと連れていった。シャンプーとどっちか迷ったが、髪はもうないので、ボディーソープで頭を洗い、熱い湯ですすぎ落した。ソープや湯が切り傷にしみて、
「痛いっ! 痛っ!」
 マコは泣き、吠え、悶え、青白い坊主頭をのけぞらせていた。
 床いっぱいの新聞紙に、大量の髪が散っている。
 片付けねば。そう思ったが、ぼくはなんだか憑き物でも落ちたかのように、虚脱して断髪の部屋を抜け出て、ベッドルームに戻った。寝台にもたれ、ベランダ際の床に、座り込んだ。
 潮騒が聞こえる。さっきまで鳴っていたバリカンのモーター音が、頭から追い払われていく。そのまま自然の音に耳を委ねる。
 気づけば隣にはマコが座っていた。スキンヘッドに全裸のまま、ぼくに寄り添うように、膝をかかえ座っている。ソバージュの髪を(そしてメイクを)落としてしまうと、マコはひどく若返って見える。若返りすぎて、幼くさえ見えた。
「風邪をひくぞ」
と毛布を肩にかけてやると、
「ありがとう」
とマコは言い、はにかんで笑った。やはり童女みたいだった。マコの方も憑き物が落ちたように、毒々しくすらあったあだっぽさが消え、穏やかで爽やかな雰囲気になっていた。
「頭、ヒリヒリする」
とマコは坊主頭を撫でた。だいぶカミソリ負けしたらしい。
「そのうち慣れるさ」
とぼくは言った。
 それきり会話は途切れ、ぼくとマコは黙って、身を寄せ合い、静かに夜明けを待った。不思議と肉欲はわかなかった。それはマコも同じらしく、ただ首を傾け、ぼくの肩に頭をのせていた。剃りたての頭は熱を帯びていて、温かかった。
 そして、朝が、来た。


 ●Postludium

 父母と朝の散歩からロビーに戻ってきて、七海はフロントでチェックアウトの手続きをしている異様な二人組を目撃した。厳密に言えば異様なのは二人組の片っぽだ。
 頭をツルツルに剃り込んで、一笠一杖の雲水姿だった。しかも女性だ! そして、七海はその女性の雲水のことを知っていた。
「ママ」
と七海は母の袖をひいた。
「あの女のお坊さん」
「ああ」
 母もフロントの珍客に目をとめた。
「尼さんなんて宿泊してらしたのね。全然気づかなかったわ」
「七海、あの尼さんのこと、知ってるよ。昨日まで髪の毛もあったよ。茶色い髪の毛。クルクル〜ってパーマあててて」
「人違いじゃないの?」
「ううん、絶対あの人だよ。昨夜も夕ご飯のとき、レストランで七海のこと見ながら、あの隣の男の人と何か話してたもん。間違いないよ」
 七海は言い募るが、
「そうだったかしら」
 母の記憶は曖昧で、話にならず、七海はプゥと頬をふくらます。
「ホウ、尼さんか。まだ若いな。いかにも出家したてといった風情だな。あの頭、初めて剃ったばかりみたいだなあ。隣にいる男は何者だろう?」
 父は「専門家」らしくプロファイリングしつつ、尼僧を観察している。
 チェックアウトを済ませた二人は、ホテルの入り口に向かって歩き出す。
 七海の前を通るとき、女僧は七海の視線に気づいた。そして、七海に莞爾と笑って、軽く会釈した。小麦色の肌と白い歯のコントラストは目にも鮮やかだった。七海は会釈を返すのも忘れ、去っていく女僧の背中を見つめ続けた。
「なんだ、七海、尼に興味があるのか?」
と父はひやかした。
「お前も後々、尼になるか?」
「ならない!」
 七海は即座に拒絶した。
「尼になるのも悪くないぞ」
 父は言う。
「パパが導師をつとめて得度してやろう。頭もクリクリに剃って」
「イヤッ、髪の毛剃るなんて死んでもイヤッ!」
「修行を終えれば、髪なんていくらでも伸ばせるぞ〜」
「パパ、ウザい〜」
 お姫様はだいぶオカンムリ。
「わかったよ、冗談だ。許せ」
 苦笑する父に、
「知らない」
と七海はそっぽを向く。そっぽを向きついでに、入り口の回転ドアに目をやる。が、もうあの男女の姿は蒸発したかのように、かき消えていた。なんだか幻でも見たみたいな気持ちだ。
 回転ドアの向こう、南の風だけが、ギラつく太陽の下、サッと吹き抜けていく。内斜視気味の目で、その風の行方を追ってみた。
 七海たちも明日、この街を発つ。家に帰る。
 山と残してきた夏休みの宿題たちのことを考えると、気が遠くなる。父母の言った通り、ここまで持ってきて、少しでも進めておくべきだった。
 ――お兄ちゃんに手伝わせよう。
 小悪魔の頭脳はすでに策謀をめぐらしはじめている。宿題の絵日記には、海での「冒険」のことを、おいしいパンケーキ屋さんのことを、クラシックギターの演奏のことを、この街での日々のことを書こう。でも、今しがたの女性雲水と男の人のことは、一行たりとも書くことはないだろう。たぶん、きっと。



(了)



    あとがき

 お久しぶりの迫水です。
 今回は大昔(バブルの頃?)流行った(と思われる)南国のリゾート地を舞台とした、ロマンティックだったり、官能的だったりする小説を念頭に置いて、書いてみました。
 これまた、「逆風」の中、チョコチョコ書きすすめました。
 懲役七〇〇年の三大ヒロインのひとり、来栖七海嬢も、なんとなくですが、登場させたくなり、ゲスト出演願いました。それにしても、十年も書いてると、初期作品とのリンクが難しくなる(^^;)
 享楽的ヒロインのバッサリ剃髪&出家というモチーフも、おきまりのパターンだなぁ(汗)
 しかし、大好きな作品です♪♪ 南国のホテルにのんびりと逗留して、リゾートを楽しみたい、との自身の願望をこめつつ書きました。
 最後までお付き合い下さり、感謝感謝ですぅ〜!!
 どうか今後とも懲役七〇〇年をよろしくお願いいたしますm(_ _)m




作品集に戻る


inserted by FC2 system