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喪服を法衣に着替えたら


 夫の初七日が終わって、三日、四日、と経っても、栗林美佳(くりばやし・よしか)は喪の和装のまま、仏前に座りこみ、呆けたように亡夫の遺影を見つめ続けていた。
 写真の夫は晴れやかに破顔している。
 小さなお寺の住職だった亡夫、玄章(げんしょう)とは、茶道を通じ、知り合った。二年間交際した。
 お寺の嫁になることをためらう美佳だったが、玄章の、
「大丈夫、どんなことがあっても俺が君を守るから。だから一緒になってくれ」
というプロポーズの言葉に結婚を決めた。
 ――嘘つき・・・。
と遺影に向かって、か細く詰る。
 出先で倒れ、美佳が病院に駆けつけたときには、夫はもうこの世の人ではなくなっていた。蘇生措置を断念した医師や看護師たちに、淡々と夫の死を告げられ、美佳は床に崩れ落ちた。しばらく立ち上がれずにいた。
 まだ三十代前半の美佳を置き去りにして、遺言らしい遺言もないまま、玄章は逝ってしまった。
 美佳は涙を流す暇もあらばこそ、「喪主」として、通夜、葬儀、と世俗のあれこれに追われっぱなしだった。
 そして、法要を終え、周囲から人も去り、ようやく夫の死と対峙した。が、向き合えずにいた。玄章が遥か西の彼方へと旅立ったという現実を、どうしても受け容れられずに、喪服を脱がず、毎日ぼんやりと過ごしていた。
 そんな喪服姿の美しい未亡人に対し、よからぬ思いを抱く男たちも少なからずいた。
「少しはオシャレして外に出たらいいわ」
と気遣って助言してくれる婦人もいたが、美佳は薄く微笑むばかりだった。
 冬の陽光が障子から淡く射している。風が吹き、庭の枯葉をまき散らす。木の葉が、カサカサとこすり合う音が幽かに聞こえる。
 悲しみから、寂しさから、辛さから、逃れたくて、
 ――いっそ私も・・・。
と夫の後を追いたい衝動に、日に何度も駆られる。
 しかし、今、自分まで逝くことはできない。
「ただいま」
と玄関から男の子の声。
 息子の拓海(たくみ)が、小学校から戻ってきた。
 おそるおそる仏間に顔をのぞかせ、母の姿を確かめると、安堵したように顔をゆるませた。
「ただいま」
とまたアイサツする。
「おかえりなさい」
と美佳は目を潤ませながらも、笑顔で応える。
 拓海はおずおずと、
「お母さん、ご飯食べたの?」
 真っ先に母親の身を気遣ってくれる。優しい子だ。
「ううん、お母さん、そんなにお腹空いてないから」
「そう・・・」
 拓海は表情を曇らせる。子供は子供なりに、いや、無垢な子供だからこそ、今のこの異常な状況を敏感に察知しているのだろう。
 ――玄章さん――
と遺影を振り仰ぎ、
 ――私はまだ貴方の許へは行けないわ。
と強く、刻みつけるように、念ずるように、思う。
 ――この子が、拓海が、いるから。

 拓海が生まれたときの玄章の喜びようといったらなかった。
「コイツは俺の後を継いでくれるかなあ」
と、そう言っては、何度も頬ずりをしていた。
「西郷さんは“子孫に美田を残さず”と言っていたらしいけど、俺には無理だな。拓海がゆくゆく受け継ぐときに、食うに困らないように、この寺を少しでも大きくしたい」
としきりに言っていた。そして、その言葉を実践して、普段の勤行や法要に精励するのは勿論、毎日のように、東奔西走して、少しずつ檀家を増やし、霊園や大寺にも頭を下げて仕事を回してもらい、大好きだった酒も断ち、道楽もせず、文字通り寝食を忘れ、働きづめに働いた。
「あんまり無理しないで」
と美佳は夫の健康を気遣った。
「お金のことだったら、私もパートに出るわ。今だって別に生活に困ってるわけじゃないんだから」
 心配する妻に、玄章は笑って、
「拓海が大きくなって、“こんなお寺なら自分も坊さんになって、後を継ぎたい”と思えるような大寺に、この寺をしておきたいんだよ」
 昼夜ない勤めぶりにより、拓海が小学校にあがる頃には、檀家も増え、僧侶としての活動も充実し、それらがようやく実を結びかけた、その矢先に玄章は遷化してしまった。虚弱な身体に過労が祟ったのだ。
 玄章はその早すぎる晩年、寄付を募り、自らも私財をはたいて、自坊の大がかりな改修を行った。
「多少は見栄えもよくしておかないとな」
と。
 そして、自坊の境内にある石造りの五輪塔や樹齢を重ねた枝垂桜の歴史的価値、文化的価値を行政に訴え、文化財として認めてもらい、観光業界にも売り込んで、提携して、観光客の呼び込みに心を砕いていた。
「いくら生臭坊主と謗られようが、俺は拓海に“美田”を残してやりたいんだよ」
と美佳には打ち明けていた。
 苦労の甲斐あって、お寺にはチラホラと観光客の姿も見かけるようになった。
 しかし、そこで玄章の寿命は尽きた。後に残される美佳と拓海のことを思えば、さぞ無念だったろう。
 実際、彼の死後、嵐はそれを待ちかねていたかの如く、母子に襲いかかったのである。
「邪魔するよ」
と玄関から忌まわしいダミ声。
 法類のお寺の和尚がでっぷりと肥えた身体を運び、返事も待たずズカズカと仏間に闖入してきた。
「和尚、御足労頂き、痛み入ります」
とその隣には、檀家総代の吉川が愛想笑いを浮かべながら、痩せぎすの身体を縮こまらせ、ヘコヘコと付き従っている。
 ――また来た・・・。
 美佳には夫の死を受け容れ、悲しむ猶予さえ与えられていない。
 和尚は喪服姿の美佳を一瞥すると、
「まだそんな恰好しとるのかい」
とせせら笑い、美佳が黙っていると、
「なんだ、この寺は客人に座布団も用意してくれんのかい」
と嫌味を言って、畳にどっかりと座った。吉川もかしこまって、和尚の脇に侍した。
 拓海がお茶を運んでくる。お寺を切り盛りする父母の姿を毎日見てきて、いつしか接客についての心得も、子供ながらに備わっている。
「おお、坊、気が利くなあ。これくらい気が利けば、将来立派な社会人になれるぞ。会社員になっても商売人になっても十分やっていけるだろうよ。しかし、まったく、この寺は大人より子供の方がよっぽどしっかりしとるなあ」
「いやはや、恐れ入ります」
 すっかり和尚に篭絡されている吉川は、ペコペコと和尚に薄い頭を下げている。
 和尚はお茶を一口飲むと、
「坊、すまんが、これからは大人の話だ。あっちに行っとれ」
と拓海を追い払い、ギョロリと美佳を睨め、
「さて――」
と本題に入った。
「奥さん、何遍でも同じこと言うけどな、住職が死んで、息子もあんなに小さかったら――しかも将来寺を継ぐか継がんかもわからん子の成長を十年も二十年も待っとるような悠長な真似は、いくら辛抱強い檀家さんでもできん」
 吉川はあたかも檀家衆の代表といった面つきで、和尚の言うことに、うんうんと大きくうなずいてみせている。
「この寺を無住のまんまにしておくのは、法類の身としても見過ごしちゃおれんでな」
「・・・・・・」
 美佳はもう何度も聞かされた口上を、今日もまた聞かされ、反吐が出そうな気持ちでいる。
「で、単刀直入に言わせてもらうが――」
 和尚の大目玉が光る。
「奥さん、アンタと息子さん、早々にこの寺から立ち退いてくれんか」
 今までは匂わす程度だったが、今日はズバリと核心を突いてきた。和尚もだいぶ焦れてきているようだ。
「お寺が住職不在だと困るんですよ」
と吉川も和尚の援護に抜かりがない。
「お寺は貴女たちの私物じゃないんです。本山や檀家のもんです。玄章さんがあんなことになられた以上、いつまでも貴女たちに居座られていたんじゃあ、檀家総代の自分としても、大いに迷惑なんですよ」
 吉川が滔々と弁じ立てているのは、正論だ。住職が遷化して、後継者がいない場合、その家族はお寺を出ねばならない。そうして空いた寺には、本山肝いりの新しい住職が迎え入れられる。それが宗門のシステムだ。
「幸い――」
 吉川は和尚と目配せを交わし、
「こちらの和尚様が法類のよしみで、このお寺を兼務して下さるとおっしゃる。檀徒一同としては、まったくありがたい話です。実にありがたい! 地獄に仏とは、まさにこのことです」
「そういうことでな」
 和尚は悪相を笑み崩している。
 美佳は背筋を伸ばし、眦を決し、屹と、招かれざる二人の客に向き直った。
「住職の葬儀を出したばかりで、未だ喪も明けきらないというのに、もうお寺を出ていけと言うんですか! これまで住職を、お寺を、陰ながら支えてきた家族に対して、あんまりじゃないですか!」
 美佳の怒気に、和尚も吉川も意表を突かれた様子で、鼻白んだが、
「しかし、無住の状態は少しでも短縮されるべきですよ。貴女たちの心の整理がつくまで待っていたんじゃあ、埒があきませんや」
 吉川はなんとか優勢を保とうと、食い下がる。
「こうした話は早い方がいいからな」
と和尚もうなずく。
「ともかく、玄章は息子の拓海の後継を強く望んでいました。玄章の跡目を継ぐのは拓海です!」
 美佳はきっぱりと言い切った。
 しかし、対坐する二人は納得しない。
「だから言ってるだろう、あの坊が一人前の僧侶になるには、いくら少なく見積もっても十年以上はかかる。それまで住職なしで寺をやっていけるのか? 甘いこと言うもんじゃないよ。第一あの坊が大きくなってから僧侶にならん、寺を継がん、と言い出したらどうする? 一種の詐欺行為だとワシは思うぞ。はっきりした保証もないのに、軽々しい口を叩くもんじゃあない」
 和尚は語気を荒げたが、美佳は頑として聞かず、
「とにかくお引き取り下さい」
と繰り返し、和尚と吉川も怒りで顔を真っ赤にして、
「また来るからな。いつでも寺を出れるように、荷物をまとめておけよ」
とプリプリしながら帰っていった。
 二匹の鬼を追い払うと、美佳は激しい疲労に襲われた。畳に突っ伏した。
 ――ああ!
 戦国時代みたいなものだからなァ、といつか玄章が、寺の世界について、苦笑まじりにボヤいていた。当主が死んで、後継者がいないか幼いか暗愚だった場合、隣国の武将に攻められ、城を乗っ取られ、領土は併呑される。例えば家康が秀吉の死後、豊臣家から天下を奪ったように。例えば武田信玄が今川義元横死の後、今川領を手中におさめたように。寺院間でもしばしば似たような件がもちあがる。さすがに流血沙汰にはならないものの、油断はならない。
 あの和尚もこのお寺の旨味を知っていて、住職が空位になった、またとない間隙を縫って、策謀し、檀家総代の吉川を抱き込んで、乗っ取りを企んでいるのだ。
 ――玄章さん、なんで死んじゃったのよォ!
 恨めし気に遺影に目をやり、心の中で嘆く。
 こんなお寺、いつでも出て行ってやる!と拓海を連れ、実家に帰りたい思いに駆られる。毎日のように退去を思う。
 しかし、そうしたら、玄章が家族のため、拓海のために、とそれこそ命を削って増やした檀家、築き上げたコネクション、改修した建物、観光地化の計画、それら全てが人手に――それもあの因業和尚の手に渡ってしまう。玄章の労苦が全部水の泡になってしまう。
 そんなことにはしたくない。
 ならばどうすればいい。
 美佳はうなだれるばかり。
 ハラリと頬にかかるほつれ髪をかきあげた刹那、ハッとなった。身体を雷でうたれたかのような衝撃をおぼえた。
 ――この髪を剃って――
 尼になる。尼になって一時的に住職として、このお寺を守る。そして、拓海が成長して一人前の僧となった暁には、晴れて住職の座を譲り渡す。自分が玄章と拓海の中継ぎとなるのだ。
 こうしたケースが割合多いことを、寺嫁である美佳は知っている。
 ――だけど――
と髪を撫で、深いため息をつく。
 自分にそんなことができるだろうか。自問自答する。
 長期間の厳しい修行に耐えられるだろうか。いや、それ以前に僧になるための必要最低限の素養もない。お経も読めない。所作も知らない。仏教についての知識もない。女の細腕でこのお寺を維持していく自信もない。何より人一倍豊かな髪を断ち切る勇気もない。ないないづくしだ。

 失意のまま、空しくときを過ごす。やはり喪服のまま過ごす。
 先日も和尚と吉川が来た。バブル期の地上げ屋さながらに、ほとんど恫喝に近い口調で立ち退きを迫られた。美佳は切羽詰まった。
 ――もうお寺を去るしかないのか・・・。
 玄章には申し訳なく思うが、悔しくて仕方がないが、もう限界だ。お寺を出て、実家に身を寄せるほか、すべがない。
 そう諦めかけたある日のことだった。
 退去に向け、荷物をまとめていて、ふと拓海の姿がないことに気づいた。
 ――あの子、どこにいるのかしら。
 あちこち家の中をさがしていたら、微かに拓海の声が聞こえた。声のする方に歩む。仏間からだ。
「――じーしょーけんごーおんかい――」
 そっと戸の隙間からのぞくと、拓海がいた。
 拓海は亡き父の遺影に向かって正座し、合掌して、般若心経を唱えていた。玄章が生前、息子に教え込んだ経文だ。そのお経を亡父に手向けるように、子供ながらしっかりと力強い声で、節回しも亡父のそれとそっくりそのまま、一心に誦している。
「――いっさいふーやくふーふーみょーじん――」
 美佳の両眼から涙があふれた。
 拓海だって、悲しいのだ。苦しいのだ。辛いのだ。しかし、母には何も言わず、父の死と懸命に向き合い、幼いなりに父の魂を慰めようとしている。
 美佳は自分が恥ずかしくなった。
 そして、父のために読経する拓海の清らかで頼もしい横顔を見て、確信を抱いた。この子はきっと将来、立派な僧侶になる、と。
 その日の夕食のとき、美佳は拓海にさりげないふうを装って、訊ねた。
「拓海、拓海の将来の夢は何?」
 拓海は黙っていた。母親に対して遠慮しているようだった。
「聞かせて」
と美佳は促した。
「大きくなったら、何になりたいの?」
 拓海は意を決したように口を開いた。
「お父さんみたいなえらいお坊さんになりたい」
 はっきりと言った。真っすぐに言い切った。その顔は輝いていた。美しかった。凛々しかった。
「そう、わかったわ」
 覚悟は一瞬で決まった。
 ――尼になろう。尼になって、このお寺を守り抜こう。
 その日、美佳は喪服を脱いだ。

 翌日から美佳は尼になるための準備に奔走した。
 まず主だった檀家に集まってもらい、彼らの前で、
「私が得度して、息子が僧籍を得るまで、このお寺の住職を務めさせて戴きます。どうかご協力を給わりますようお願いいたします」
と決心を伝え、理解を求めた。
 吉川はなんだかんだと異論を差しはさんだが、美佳の意思の固さと、他の檀家連の強い賛同に、ひき下がらずを得なかった。
 因業和尚も渋々、美佳たちのお寺から手をひいた。
「在家出の女如きに寺を切り盛りできるか、ひとつ見物といこうじゃないか」
と言い放ったのを、後で人づてに聞いた。やるしかない、と美佳は改めて決意を固めた。
 玄章に好意的だった某寺の住職に頼んで、お経など僧侶としての勉強に励んだ。
 住職はそんな美佳に、
「あんたも若い身空でよく決心したなぁ。息子さんのためにも頑張ってな」
としみじみ言い、応援を惜しまなかった。
 拓海は母の出家に驚き、困惑していたが、しかし、
「もうこのお寺を出ていかなくていいのよ」
という母の言葉に安堵の表情を浮かべた。でも、ふたたび、不安な顔になり、
「お母さん」
と訊いた。
「お母さんもお父さんみたいに、頭ツルツルにするの?」
「するわよ〜、ツルツルに」
 美佳はつとめて明るい態度で応じたが、拓海は顔を曇らせていた。母親の頭から髪の毛がなくなってしまうのが、だいぶ不満らしい。
「女の人でも頭ツルツルにしなくちゃいけないの?」
とさらに問い重ねる。よほど母の髪を切らせたくないようだった。
「男でも女でも頭はツルツルにするのが、このお寺のご本山の決まりなの」
と教えたが、息子は釈然としない様子だった。
 美佳としても、剃髪はつらい。
 仏門に入り尼となれば、もうオシャレとは無縁の生活を送ることになる。
 勿論、美容院にも行かなくなるし、メイクもできない。服を買って着飾ることもできない。お世話になっている住職夫人が、
「カツラを買ってオシャレすればいいのよ」
 他の尼さんたちもそうしている、と助言してくれたが、そういうことはしないつもりだ。悪評の因になる可能性もある。拓海にお寺を継がせるまでは、女であることを捨て、自らを厳しく律し、身辺を清らかにして、仏道一筋に邁進する。そう誓いを立てている。
 その誓いをより強固にすべく、美佳はそれまで愛用してきた化粧品やアクセサリーや服を、残らず処分した。売り、捨て、譲った。ブランド品も躊躇なく手放した。
 ただ一つ、玄章がプレゼントしてくれた高価なルージュがあった。まだ一回も使わずにいた品だった。そのルージュを鏡の前で、唇にひいてみた。最後のオシャレ。鏡にうつる赤く塗られた唇の艶めいた自分、その姿に満足し、美佳はルージュを捨てた。過去との決別。
 これからはすっぴんに僧衣の毎日がはじまる。
 得度式の日が迫っていた。

 得度式の朝は小雨がパラついていた。
 せっかくの門出の日なのに。
 しかし、美佳の心には一片の曇りもなかった。ここから始めよう。止まない雨はないのだから。
 式はお世話になっている住職の厚意に甘えさせてもらい、住職のお寺で行われた。美佳の望みでひそやかな式となった。
 参列したのも、美佳の父母と檀家の役員が二名――吉川は孤立し、総代の座から去っていた――そして、拓海の五人だけだった。
 借り着の和服姿で美佳がしずしずと入堂してくると、美佳の母などはもうすすり泣いていた。
「拓海と一緒にうちに戻って来い」
と何度も美佳に言っていた父も、こらえきれず目を潤ませていた。
 戒師である住職は声をはりあげ、誦経し、美佳は前夜、そして今朝、と戒師に教えられた通り、見事に立ち居振舞った。その落ち着きぶりに檀家役員も感じ入ったようで、何度も小さく点頭していた。
 いよいよ剃髪の儀に入る。
 剃髪にうつるための問答が交わされる。
「汝が為に頭髪(ずほつ)を剃除(たいじょ)せんや否や」
と戒師は問い、
「唯願わくは剃除したまえ」
と美佳は高らかに答えた。

 剃髪は別室で行われる。
 役僧に導かれ、美佳は一旦、退堂する。いくつもの熱っぽい視線に見送られながら。本堂を後にする美佳の背を後押しするかのように、戒師は朗々と剃髪偈を読みあげる。
 別室では床屋が待機していた。戒師が手配してくれていたのだ。美佳より年上の女性だった。薄緑色のユニフォームを着ている。
「では、こちらにお座り下さい」
と女性の理髪師が用意した丸椅子に、美佳は腰かけた。
 美佳の首の周りに、クリーム色のカットクロスが巻かれるのを見届けて、役僧はそっと座をはずした。あとは女二人だけになる。
 理髪師は固い表情で、これから尼僧になる女人の髪を解き、梳りながら、
「まだお若いのに・・・大層御決心が要ったでしょう」
と痛ましそうに言った。
「人生最大の決心でした」
と美佳はことさらに茶目なトーンで答え、笑った。理髪師に余計な心理的負担を与えぬようにという配慮からだった。
 それが奏功して、理髪師も大いに救われた表情を浮かべていた。
 それでも、美佳の長い髪を束ね、ひとまとめにして断つときは、どちらも無言になった。
 理髪師は神妙な面持ちで、根元から鋏を入れた。
 ジャ、と髪が啼いた。ジャキ、とまた髪が啼く。ジャキ、ジャキ、と鋏は一口一口噛みしめ味わうように、髪を引き裂いていく。
 ザックリ、と長い髪がまとめて切り獲られ、バサリ、と朱塗りの三宝に敷かれた西陣織の布の上、載せられた。後で仏前に供せられるのだろう。
 美佳は先日読んだばかりの新聞の記事を思い出した。
「ヘアドネーションってあるんでしょう?」
と理髪師に訊いた。
 慈善活動のひとつで、髪を切って寄付して、その髪で医療用ウィッグを作り、例えば病気で髪を失った子供たちのためなどに提供する、というものだ。海外ではポピュラーな活動だが、悲しい哉、この極東の島国ではまだまだ認知されず、ウィッグ提供を待つ子供たちはたくさんいる、との記事だった。
 そのドナーになれれば、と記事を読んでふと思っていたが、幸いにも、
「うちの店も受け付けてますよ」
と理髪師は言う。
「私のその髪も差し上げたいのだけど、後で受け取って頂けますか?」
「でも・・・」
と理髪師はひるんだ。尼僧になる女性の髪の取り扱いについて、俗人の理髪師には見当がつかないらしく、
「バチが当たりませんかね?」
と心配そうに訊ねた。
「こういうのって、お寺にお納めして、大切に保管するんじゃないんですか?」
「大丈夫ですよ」
 美佳は笑った。
「私に言わせれば、この髪をお寺の蔵の隅っこで埃をかぶらせている方が、よっぽど勿体ないですよ。それよりも――私にも小学生の息子がいるんですが、そういう子供たちの役に立てたら、どれほど仏様の御心に適っているか知れませんわ。どうせ、いずれはゴミとして処分されてしまうのでしょうし。ここのご住職には私の方から話しておきますので、どうか貰って下さいな」
「そうですか?」
と理髪師も得心がいった様子で、
「では、責任をもって預からせて頂きますね」
と晴れやかに微笑した。
 しかし、理髪師が電気バリカンを手にすると、さすがに双方、真顔になる。
 ヴイイィィイイン
 理髪師は小刻みに震える刃を、散切りになった襟足にもぐらせ、一気に上へと押し上げ、一刈り、一刈り、えぐり獲っていった。
 ジャリジャリジャリ
 ジャリジャリジャリ
 激しい、熱い、バイブレーションを後頭部に感じ、美佳はほんのちょっと顔を歪めた。無理に快活に笑おうとして、失敗し、結句、苦笑いに着地した。
 カサカサと落髪がカットクロスに擦れる音が、絶えず聞こえる。
 この先、もう一生髪を伸ばすこともないのかも知れない。そう思うと、あわただしさの中、最後にちゃんと有髪姿を見納めしておかなかったことを、悔いる気持ちもあった。また、そんなふうに未だオンナを捨てきれぬ己を、叱りつけたくもあった。
 ジャリジャリジャリ〜
 ジャリジャリジャリ〜
 バリカンの感触は後頭部から頭頂へ、何度も伝っていく。
 そのバリカンに圧され、前や横の髪がザンバラに乱れ、前へ前へと輪郭にさらに覆いかぶさり、顔面を包み込んでいく。
 バリカンは勢いづき、ついに前頭部に達した。
 バッ!
と大量の髪が、目の前で跳ね散った。
 横髪も、ヴィンヴィンと余すところなく、剃りあげられた。
 理髪業界で使用されている特別なバリカンで、極限まで短い丸刈りに仕上げられた。剃刀での剃髪は時間がかかるため省かれ、バリカンのみでの断髪だった。それでも頭は青々とてかり、ほとんど剃髪同然だった。
 理髪師に、
「ありがとうございました」
と丸くなった頭を下げて、お礼を言い、ふたたび役僧に従い、また別の間に移る。
 そこにはやはり戒師のはからいで、法衣屋が控えていた。法衣屋は坊主頭で現れた女人に、
「この度はおめでとうございます」
と慣れた様子で畳に手をつき頭を下げた。
傍らには住職夫人もいて、
「あら、なんて美しいのかしら!」
と目を瞠り、心の底から感嘆していた。
「お召し替えをいたしますので、お着物をお脱ぎ下さい」
 法衣屋は美佳の女心を慮り、目を伏せ、その間、美佳は夫人の介添えで、衣装を全部脱ぎ、坊主頭に白で統一したブラジャーとランジェリーという、ショッキングな姿になった。まだ十二分に瑞々しく、ハリのある柔肌は、この期に及んでも尚、美佳がオンナであることを、懸命に訴え続けているかのようだった。
 住職夫人に手伝ってもらい、まず白衣を着、その上に法衣をまとった。
 夫人や法衣屋のすすめで、等身大の姿見で、はじめて自分の尼姿を美佳は見た。すでに心は平静だった。だから、僧形の自分も、
 ――すごくよく似合っているわ。
と、その自然さ、その清々しさ、その落ち着きぶりに、満足した。――はずが、ポロリと涙が一粒。
 あわててそれを指でぬぐって、背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を向いて、美佳は本堂へと引き返した。
 剃髪染衣して再度、人々の前に現れた娘に母は声を放って泣いた。父も泣いた。父親が涙を流しているのを初めて見て、美佳は驚いた。それだけのことを自分は今、してしまったのだろうか。
 拓海は泣かずにいた。しかし、目を見開き、唇を噛んでいた。激しい衝撃を受けたらしい。
 悲しそうな瞳を向けてくる息子に、美佳は、
 ――大丈夫!
というふうに視線を送り、莞爾と笑ってみせた。
 来週から尼僧の勉強や修行のため、長期間、本山に籠らねばならない。その間、拓海は美佳の両親の許で預かってもらうことになっている。
 なんとしても遂行せねば、との気持ちを胸に、御仏に合掌し、静かに祈る。そして、亡き夫にも。
 ――玄章さん、あなたの残してくれたお寺は私と拓海でしっかりと受け継いでいきます。どうか見守っていて下さい。
 玄章の、あのはにかんだ笑顔が浮かんだ。

「オフクロ」
 拓海が美佳の部屋に顔を出す。
「何さ?」
と訊くと、
「今度の観音様の開眼供養なんだけどさ、檀家さんたちが“ご隠居さんにも是非、お式でお経をあげて欲しい”って言ってるんだよ」
「私はもう引退した身だからね、裏方にまわってひっそりと余生を過ごさせてもらうわよ。隠居が晴れの場に出しゃばっちゃダメさね」
「参ったなぁ。そう言わずにさあ」
 拓海は困り顔でつるりと剃髪頭を撫でる。
 美佳が尼となって幾星霜、拓海も立派な僧になり、住職の座を継承したのは四年前、寺は益々栄えている。
 住職を辞しても、周りの人々は「ご隠居さん」と親しみと尊敬をこめて美佳をそう呼ぶ。草むしりなどをしていると、お墓参りに来た檀徒が、
「ご隠居さん、精が出ますねえ」
とにこやかに声をかけてくれる。その度に、
「これも皆さんのお陰ですよ。ありがたいことです」
 相変わらず剃髪と作務衣の生活を続けている美佳は謙虚に応える。
 まだ五十代だというのに、日焼けと少食と労働のため、
「干しシイタケみたい」
と軽口をたたかれるほど、かつての容色は失われてしまったが、美佳は意にも介さず、女手で植木の剪定をしたり、雨樋の修繕をしたり、日々せっせと働いて暮らしている。
 美佳は見事に初志を貫徹した。尼僧となり、寺を守り、さらに富ませ、息子を一人前の住職に育てあげた。
 拓海は妻を娶った。お寺の娘だった。孫が生まれた。男の子だった。今年二歳になる。
 拓海は暇さえあれば息子を抱き、
「コイツは俺の跡をとって、この寺を継いでくれるかな」
とその頭を撫で撫で、亡父と同じようなことを、のたまっている。
 寺族出身の嫁と在家出の美佳では価値観の相違があって、しょっちゅう角突き合わせ、拓海もこの嫁姑問題には頭を痛めている。無論妻を愛してはいるが、我が身を犠牲にして、自分を守護してきてくれた美佳に、拓海は頭があがらないのだ。
「オフクロ、ここは俺を助けると思って、あいつの顔を立ててくれよ」
と美佳にペコペコ頭を下げるのも、毎度毎度のことだ。
「大の男が情けないねえ」
 美佳は肩をすくめ、ため息をつき、
「わかったわよ」
と折れてやることもしばしば。
 最近では孫の育て方をめぐって、嫁とやりあっている。
「嫁とケンカできるくらいのパワーがあれば、ご隠居さんもまだまだ大丈夫だねぇ」
とこの間、檀家総代の古賀はそう言って笑っていた。
「うんと煙たがられる姑になってやりますよ」
と美佳も呵々大笑したものだ。
 諍いながらも、双方、互いの美点を知り、認め合うところもでき、ほんのちょっとずつだが、歩み寄っていっている。逆に諍いがバネになり、好結果につながることもある。未来は暗くはない。それは確かだ。断言できる。
 拓海の人徳もあって、寺の勢いはいよいよ盛んだ。
「こんな時こそ気をつけなさい」
と美佳は息子に訓戒する。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな、って言うだろう? 手柄は全部他人に譲って、責任は全部あんたが引き受けるよう心がけなさいよ」
「うん、わかったよ」
 拓海は聡明だ。母親に言われなくとも、ちゃんとわかっている。常に謙譲の心を保っている。
 ――玄章さん――
と亡き夫の顔を心に思い浮かべ、
 ――拓海は素晴らしい僧侶に育っています。あなたの撒いた種が花開きましたよ。
 美佳よりずっと年下になってしまった心の中の玄章はニッコリと笑んでいる。温かく笑んでいる。
 お寺の隆盛を象徴するかのように、このたび篤志が集まって、10メートルはあろうかという巨大な観音像を、お寺の境内に建立してくれた。実に見事な像だった。
 その開眼供養に「ご隠居さん」にもお経をあげて欲しいとの、信徒の強い要望が拓海を通じてあり、もはや表舞台に出るのを厭う美佳はなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。
 しかし、幾つになっても可愛い息子の説得に折れ、
「わかったわよ」
と息子の伴僧として、式での読経を承諾した。久々の母子の「共演」に実は嬉しい気持ちもある。そして、
「開眼供養が終わったら、温泉旅行にでも行こうかしらねえ」
と出家してから初めて、休暇らしい休暇を自分に与えようと、不意に決めた。
「それはいい!」
と拓海も勢い込んで賛成する。
「ゆっくりしてきなよ」
「嫁さんも鬼の居ぬ間にのびのびと洗濯できるだろうしね」
と嫌味半分、冗談半分で言ったら、拓海はあわてていた。
 早速、温泉マップを買った。
 箱根、道後、別府、有馬、塩原、伊香保、登別、草津、熱海――と各地の名湯を吟味する。それだけで、もう心ははずむ。
「やっぱり近場の温泉にしようかねえ。ひなびた味わいのある山奥の旅館がいいかしら。予算は、そうね、目一杯贅沢させてもらおうかな。うふふふ」
とウキウキしながら、計画を煮詰めていく美佳だ。



(了)



    あとがき

 今回はたぶん初めての「寺嫁の寺院継承」ストーリーです。寺娘の寺院継承話は、これでもかってくらい書いてきたのですが、実際は住職の未亡人が出家なさって、お寺を継がれる、というケースもかなり多いみたいなので。。
 暗くてヘビーなストーリーになってしまいそうなので、ずっと避けてきたのですが、一回真正面から取り上げてみようかな、と思い立ち、書いてみました。尺が長くなってしまうのも、断髪度が低くなるのも覚悟の上で(`・ω・´)・・・すみませんm(_ _)m
 今年も残すところ後わずか。皆様にとってはどんな一年だったでしょうか?
 自分的には今年は奇跡的なサイト復活があり、そして、漠然と「一か月に一作」と決めていたら、本当にそのペースを維持でき、自分でもビックリΣ(・ω・ノ)ノ!しております。2017年も楽しく活動できれば嬉しいし、ありがたいです♪♪ 
 皆様には今年もお支え頂きありがとうございました!!
 どうか、来年も懲役七〇〇年をよろしくお願いいたします(*^^*)
 2017年が皆様にとっても得るもの多き、有意義な一年になりますよう、お祈り申し上げます(*^^*)(*^^*)

・・・とこのあとがきを書いたのが一か月前(汗)
 年を越しちゃった(^^;)




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