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坂元出雲守、最後の仕事


 外にはいつしか小雨がふっていた。
 東国最強の弓取りと呼ばれている名将、坂元出雲守清虎(さかもと・いずものかみ・きよとら)は広間にひとり、胡座して長思案にふけっていた。
 もう、四ツ(午後十時)になる。
 夜更けの考え事など、碌な思案が浮かぶはずもない、気が滅入るばかりじゃ、疾う寝よ、寝よ、と平素から周りに言ってきた。清虎自身も夜はさっさと寝所に入り、女子を抱き、あっという間に高鼾かいて、健康な眠りに落ちるのが常なのに、今宵は違った。
 清虎は彼のこれまでの武勲を証し立てるかの如き、魁偉な容貌の持ち主だった。巌のような顔に口髭、頬髯、顎髭、と盛んに髭を蓄え、眉太く、両眼は炯炯と光り、彼に刃向かわんとするものを縮みあがらせんばかり。六尺はあろうかという巨躯――三十年来、戦場で練り上げた隆々たる筋骨を夏小袖に押し包んでいる。
 質実な性ゆえ、燭台は二本灯させているだけ。しかも菜種や胡麻の油ではなく、獣脂である。広間は暗く、異臭がたちこめている。それでも、清虎は微動だにしない。板壁にうつった影が、ユラユラと揺れる。
 薄暗い広間に一人居て、激しくなっていく雨音を聞くとはなしに聞いている。
 その姿はひどく寂しい。
 が、武門の頭領というのはそうしたものだ、と清虎はわかっている。叛服常なき乱世、孤高に耐えうる漢でなければ、弓矢の家の当主はつとまらぬ。そうした己の内面もまた戦塵にまみれながら練磨してきた。
 不意に清虎が動いた。
 宿直(とのい)の若侍を呼び、酒、と命じた。
 命じたものは直ちに運ばれてきた。肴は焼き味噌に塩豆、それだけである。清虎は平素粗食の人だった。若侍を下がらせ、一人手酌で飲む。焼き味噌をなめ、塩豆をかじる。一旦頭を休める。
 ふと、冬姫の部屋へ渡ろうか、と唐突に思った。
 冬姫は領内の地侍の娘だったのを、最近、清虎に見初められ、側室として奥に迎え入れられ、一室を与えられていた。が、多忙の身の清虎は、なかなか冬姫との初夜を遂げられずにいた。今宵こそ、と血肉が沸々となるが、やめておいた。冬姫と情を通ずるは此度の一件が片付いてからにしよう。そう思った次の瞬間には、冬姫のことはきれいに忘れていた。
 かつて正室の父、児嶋常陸入道と対面したとき、
「婿殿は何ゆえ、そのように戦がお強いのかな?」
と必勝不敗の要諦を尋ねられたことがある。
 清虎、暫し沈思して、
「それがしには武神の声が聞こえるのでござる」
とひどく神がかり的なことを言った。
「武神の声、とな?」
 常陸入道は細目を見開いた。
「左様。武神が征けと申さば征き、征くなと申さば征かず、やれと申さばやり、やるなと申さばやらず、ただそれだけにござる」
 しかれども――と語を継ぎ、
「武神の声を遠ざけるものが四つござる」
「四つ」
 常陸入道はすっかり気圧されてしまっているが、話の行きがかり上、問うた。
「その四つとは?」
「一つは知」
「知、とな?」
「なまじ兵学などを身につけておれば、神の知より己の知を恃み、必ずしくじり申す。実際の戦とは書物通りには運ぶものに非ず。そのこと、舅殿もよくよく覚えがござろう」
「ムム、確かに」
「二つは欲」
「欲」
「武功を立てて名を売ろうとする欲、所領を増やしたいという欲、欲には様々ござる。欲は確かに励みの源にはなり申す。なれど、大将たる者、目先の利に心を奪われ、我を忘れれば、武神の声は耳には届き申さず、戦場での進退を惑わせまする」
「成程。三つ目は何かな?」
「情でござるな」
「情か」
「愛憎の念深ければ、相手憎しで必要以上に攻め立て攻め立て、或いは度を越えた愛着は、斬るべきを斬れず。己一個の感情に任せて、采配を振るえば、これもまた最後には敗亡の憂き目にあいましょう」
「うむ、以て自戒といたすとしよう。最後の一つは何か?」
「勇でござろうな」
「勇とな? 武士(もののふ)にとって、最も大切なものではないか」
「一騎駆けの武者には無論勇ましさは第一に必要なものでござろうが、将領たる者は違います。自らの武功を誇りたがるがために、勇を恃み、いたずらに無名の帥を起こし、無理な戦をいたし、攻めるを知って退くを知らずを匹夫の勇と申すべきでしょう。武神は匹夫に語りかける言葉は持ち合わせず」
「言われてみれば、尤も、尤も」
「大将の勇などは、床几に座ったまま腰を抜かさぬ程度で結構」
「申されることよ」
 首肯する児嶋家の大殿に、清虎は、
「それがしは武神の言葉を聞くよりも、武神の言葉を遮らんとする、これら四つの障りを振り払うことに心を傾けてござる。人に生まれて難しいことでござる。そこを何とか抑え、断ち切り、赤子のような心で、一切を武神の言に委ね、兵を進め、兵を退くのみでござるよ」
と珍しく多弁に語る清虎に、常陸入道は、
「さすが我が自慢の婿殿じゃ。よき話を聞かせて貰うたわ」
と感じ入った体であったが、後で、
「何やら坊主と対座しているようであったわい」
と配下の者にもらした。

 清虎は黙然と杯を傾けている。大酒は彼が最も戒めるものである。ゆえに、いつもの酒量は守る。心身を休ませ、思考を停め、無心に武神の託宣を待つ。此度の一件は武事ではないが、それに類する大事である。過ちなからんことを期さねばならぬ。
 夜も更けきった頃、清虎は「あの声」を聞いた。
 ――殺スナ!
 武神は確かに、清虎にそう言った。
 清虎は、ハッと我に返った。同時に豁然と妙案が閃いた。
 すぐに行動に移った。近習を召し、
「柘植市弥は居るか?」
と訊いた。
「おります」
 日中からずっと城内に詰めているという。思った通りだった。
「そういう奴だ」
 清虎は苦笑した。戦場では物の役に立たぬ男だが、どういう呼吸か清虎の意を汲むことには長けている。今宵のうちに、清虎の断が下ると見越して、殿中で夜明かししていたようだ。こうした市弥の才は、清虎にとって大いに重宝だった。しかし、愛情は感じない。むしろ、小癪に思う。自分の心底まで見透かされているようで、不気味でもある。清虎の好む剛直な、或いは颯爽とした、武辺一途の武士像には程遠い。
 市弥が来た。
「お召しにござりますか?」
「うむ」
「ついに御決断あそばされましたか?」
と先回りして言う市弥の知恵者面に、清虎は物憂そうに言葉を惜しみ、
「明日、葛尾局(かつらおのつぼね)をこれへ召し出せ」
と命じた。
「いよいよ御詮議でござりまするな」
と勢い込む市弥に、清虎は冷ややかに、
「詮議に非ず。世間話じゃ」
「“世間話”でござりますか?」
 市弥は不得要領顔で聞き返してきたが、清虎はくどくどしい説明は避け、
「奥や重臣(おとな)衆も呼べ。しかと取り計らうべし」
 投げつけるように言い、座を立った。
「はっ」
と平伏しつつ、市弥は珍しく清虎の胸中をはかりかねていた。が、大本のところは察しがつき、微笑を浮かべた。

 葛尾局の権勢は、それはもう凄まじかった。
 葛尾局は坂元出雲守清虎の正室、幾田殿の乳母の娘だった。少女の頃から幾田殿の側近くに仕え、主が坂元家に嫁するにあたり、児嶋家より付き従っていた。半分は坂元家、半分は児嶋家に仕える形となった。
「姫様」
と幾田殿をそう呼んでいる。
「奥のことは姫様に成り代わり、この私が差配致しますので、姫様には、ただただ御家の跡継ぎたる和子(わこ)様をお産みあそばしますことのみに御専念下さいませ。奥の雑事について、姫様がお心を煩わせること無きよう、微力ながら、私が万事相務めまする」
と、幾田殿に噛んで含めるように繰り返し言い、幾田殿の代理人として、奥御殿におけるあれこれを大小問わず、取り仕切った。美しく、才長けて、気が強く、しっかり者の彼女は奥の元締めとしては、うってつけの女人だった。「葛尾局」と呼ばれた。
 葛尾局はよく働いた。幾田殿の期待に応えた。葛尾局が働いてくれるので、幾田殿は清虎の子種を授かるための努力さえしていればよかった。
 清虎は後宮の女たちに対しては、寛かな心で接した。
 例えば、愛妾の春姫の浪費癖を許し、同じく愛妾の夏姫の男遊びにも目をつぶり、秋姫の粗暴さも看過した。
 こうした大度量の持ち主であったが、ただ一つ、清虎が女たちに許さなかったことがある。
 それは、政治への容喙である。
 清虎は女人が政(まつりごと)に口を出すことを嫌い、一切認めなかった。
「雌鶏歌ヘバ家滅ブ、と申す。女子が政道に嘴をはさむを見逃すは、亡国の因なり。ゆめゆめ忘れるな」
と常々家人たちに訓戒していた。
 だから、妻妾も侍女も、政治向きの事柄については、口をつぐんでいた。
 しかし、葛尾局だけは従わなかった。
 彼女はいつしか清虎の訓戒を破り、密かに政治いじりを始めた。
 理想や理念があってのことではない。目当ては金品である。こっそりと裏から手を回し、猟官者には地位を斡旋してやり、陳情者には便宜をはかってやった。その見返りによって、私腹を肥やした。後々発覚しても、自身には累が及ばぬよう、抜け目なく、巧みな処世術で、清虎の目をかいくぐり、財をなした。
「あの女狐めが」
 清虎はうめくように呟いた。
「いつか尻尾をつかんでやるわ」
 とはいえ、根っからの武人である清虎は政治については、粗放で、家臣任せなところがあり、葛尾局に翻弄されっぱなしだった。家中には葛尾局に付け届けをして、旨みを得た者も少なからずいて、そういった者たちが、陰で局を擁護していたせいでもある。
 それに、葛尾局は坂元家と児嶋家の紐帯でもあるため、手荒い真似もできない。下手をすれば、児嶋家との関係がこじれかねない。
「ホホホホ」
と葛尾局は山海の珍味を肴に酒杯を干し、哄笑したという。
「東国無双の弓取りといっても、お屋形様も存外甘い、甘いのう。お屋形様が血みどろになって斬り取った所領と同じ値の財を、私は汗ひとつかかず手に入れられる」
などと放言しているということも、清虎の耳に入った。
 ――女狐が抜かしおるわ。今に見ておれ。
と清虎は思った。割合冷静だった。こうした俄か権勢家の浮沈を、彼は四十年近くも見聞きしてきた。彼奴らの末路はいつも同じだ。得意になり過ぎて、反り返って、自ら高転びに転ぶ。時期を待つべし。

 葛尾局の蹉跌は思わぬ方角から生じた。
 噂である。
 噂とは恐ろしい。
 いくら手を尽くしたところで、思うように消し止められず、かえって火の手は勢いを増し、その対象者を炎上せしめ、焼き尽くすまで鎮火せぬ場合も往々としてある。
 ――葛尾局様は切支丹であられるそうな。
という囁きはさながら疫病の如く、またたく間に奥御殿の隅々にまで広まった。
 坂元家では諸事情あって、キリスト教への帰依を禁じている。
 領内ではしばしば切支丹狩りが行われ、多くの切支丹が獄につながれていた。
 葛尾局がそのご禁制の切支丹である、と噂は言うのである。
 葛尾局はあわてた。大いにあわてた。確かに児嶋領内では切支丹は認められていたが、自分が切支丹だったことは、一度もない。根も葉もないでっちあげだ。
 躍起になって噂を封じ込めようとしたが、時すでに遅きに失した。局を抹殺したい誰かが裏で糸を引き、噂を煽っているかのようだった。その「誰か」とは、
 ――もしや、あのお方ではないか・・・。
 葛尾局には心当たりがあった。
 噂には尾ひれがつく。
 ――葛尾局は切支丹の妖術を使うて、お屋形様のお命を奪おうとしているそうな。
 ――天狗の如き南蛮の伴天連(ばてれん)と夜な夜な密通しておられるとか。
 ――児嶋領内の切支丹と結託して坂元家を滅ぼし、その領地を切支丹同士で分け獲りしようと企てておるそうじゃ。
などと、奇怪な流言飛語がヒソヒソと語られる。
 その処罰についても、多くの切支丹は取るに足らぬ百姓町人で、死罪にまでなる者は少ないが、葛尾局ほどの大物の場合、大物なればこそ、
 ――見せしめに、耳を切り、鼻を削ぎ、首を刎ねられるのだろうて。
 ――逆さ磔か、火あぶりか、ともかくも死罪は免れまい。
との無慈悲で無責任な憶測も飛び交い、葛尾局は怯えきって、夜も眠れない。そよ、と吹く風の音にも縮み上がり、生きた空もない。
 いっそ奥御殿から逃げ出そうかとも思うが、逃げれば嫌疑は一層深まるばかりだろう。

 ついに局の主である幾田殿も捨ててはおけず、清虎に訴え出た。
「もはや私の手には追えませぬ。どうか葛尾局をお召しになって、直々に御詮議下さりませ」
という妻の顔に浮かぶ冷ややかな翳りを、清虎は見逃さなかった。
 ――もしや、噂の出どころではこの女ではあるまいか。
と思った。証拠はない。あくまでも直感である。しかし、その直感には確信があった。
 清虎は長年連れ添ってきた、この女房が、家人たちが誉めそやすほどの良妻賢母ではないとわかっていた。本当は底知れぬほどの政治好きであることを見抜いていた。その陰謀狂の本性を、賢婦の鎧でひた隠しにしているが、これがとんだ狸なのだ。家中の者は騙せても、良人の目はくらまされぬ。
 清虎の寵を得て、嫡男をあげ、立派な弓取りに育て、「惟虎」の名を賜り、元服初陣を済ませた我が子に目を細め、齢も三十半ば、お褥を辞して、さて、坂元家第一の女人として奥を取りまとめようとしたら、かつて己が代人として奥の支配権を握らせた腹心の女が壁となって立ちはだかり、預けた手綱を返そうとしない。奥向きのことは何一つ思い通りにならない。幾田殿は激怒した。その現状に我慢がならず、葛尾局という、坂元家の奥に巣食う腫物をえぐり取らんと動いた。
 いや、実際には指一本動かさず、身辺の侍女たちを使って、噂をまき、煽っただけだ。その効果に満足し、すかさず「噂あり」と清虎に恩知らずの女の処断を委ねたのだ。
 委ねられた清虎も、
 ――これは渡りに舟じゃ。
と腹中ニヤリと笑った。
 葛尾局のことで清虎はひどく立腹していたが、坂元家と児嶋家に両属し、両家の橋渡しになっていた彼女を成敗すれば、児嶋家との雲行きが怪しくなる懸念があった。しかし、児嶋家の姫でもある幾田殿が自ら、葛尾局への詮議を求めてきた。局は奥御殿の児嶋閥からはじき出されたのだ。幾田殿は葛尾局を捨てた。
 結果、葛尾局はただの三十女になり果てた。後は焼こうが煮ようが清虎の自由である。
 しかし、清虎は事を穏便に済ませたかった。後宮での一切については、清虎は微温な事なかれ主義者だった。葛尾局を殺してしまえば、また新たな争いの火種になるような気もした。
 反面、女狐退治の機を逃してはならん、と勇む心もある。下手に温情をかけると、反切支丹の守旧派が、
「お城の奥にまで切支丹がはびこっているとは何たる不行き届きか! しかもさしたるお咎めもなしとはご政道は如何相なっておるのか!」
と騒ぎ立てるであろう。
 清虎にとっては頭の痛む問題である。彼にしては珍しく、日々心鬱して過ごした。
 ――これは一種の戦だな。
と思った。戦と思えば、
 ――武神の言を承るしかない。
と長思案をやめた。戦陣にあるときのように、知を捨て、欲を捨て、情を捨て、勇を捨て、心を無にした。御託宣を待った。
 そして、先ほど、
 ――殺スナ!
というお告げが下った。大方針が決まれば、それを実行する知恵も須臾にして湧いた。
 側近の市弥にも、「詮議」ではなく、「世間話」だと言っておいた。
 いよいよ「戦」の火ぶたが切られる。その前に眠ろう。清虎は寝所に去った。

 夜が明けた。
 雨はやんだが、外は曇天、良い天気とは言えない。
 清虎と葛尾局の「世間話」は衆人列座の中、行われた。
 葛尾局は怯えきっていた。すっかりやつれ果て、容色も十も二十も老けたかというほど衰え、身を震わせていた。磔刑か梟首かと考えただけでも、震えがとまらずにいた。
「局とは奥(幾田殿)の輿入れ以来、顔を見知って二十年近く経つが、こうして二人で語らうことは初めてじゃのう」
 清虎は錆びた声を抑え、つとめて優しい口調で話しかけた。元来が女子には優しい男なのである。
 しかし、強面の清虎の猫なで声に、葛尾局はかえって怯えた。その声音でどんな惨刑を申し渡されるのかと、顔面蒼白になっているのが、厚化粧でも隠せずにいる。
 清虎は構わず話を続けた。歌舞のこと、音曲のこと、衣服のこと、食べ物のこと、天候のこと、今年のものなりのこと、学問のこと、家族のこと、など他愛ない話柄ばかりだった。清虎が専ら話した。葛尾局は消え入りそうな小声で、言葉少なにボソボソと弁じていた。言質をとられるのを恐れているふうでもあり、清虎の真意をはかりかねているかのようでもあった。
「ワシがまだ十七の頃にな――」
 清虎はいつしか思い出話を口にしていた。
「領内で祭礼があっての、ワシも女子の衣装を用立てて、天女に扮し、領民どもの踊りに加わったが何分この面相ゆえ、“天女というより鬼女なり”などと無礼を申す輩もおってな、大層気落ちしたものよ」
などという埒もない話に、葛尾局も顔をひきつらせ、
「ホホホ、それはそれは」
と無理に追従笑いをしていた。
「局は――」
と清虎はさりげなく話題を転じた。
「仏の教えにも造詣が深いと聞き及んでいるが、真実(まこと)か?」
「はい、僭越ながら、真実にござります」
 葛尾局の表情が一変した。その目は輝いていた。自己救済の糸口を見つけ、周りもはばからず喜色を浮かべた。
「幼き頃より仏典に親しみ、娘の時分は寺参りが何より楽しみでございました。仏師が御仏の像を彫り刻むのを終日(ひねもす)飽かずに眺めておることもございました」
と、これまでとは別人のように長広舌をふるった。自身が崇仏の徒であることを、力をこめて説き、切支丹の嫌疑を晴らそうと懸命になった。
「げに、我が身がかようにして在るのも、全ては御仏のお慈悲のお陰でござります。日々随喜いたし、奥にあって、写経や看経を秘めやかに行うておりまする。御仏の御尊顔を拝しますと、真実に心が安らぎまする」
と出まかせをまくしたてた。
「局よ」
「はい」
「仏を信ずるか?」
「勿論にございます」
「信心は固いか?」
「お答え申し上げるまでもありませぬ。御仏があってこそ、我が身はあるのですゆえ」
「局にとって仏は何より大事か?」
「左様にございます」
と葛尾局はいちいち鹿爪顔でうなずいた。清虎が自分のために助け舟を出してくれていることに気づいた。確かに助け舟であった。しかし、その助け舟は局を彼女が思いもかけぬ岸へと漕ぎ寄せていった。
「そういえば、頼母」
 清虎は初めて葛尾局以外の人間に声をかけた。
「ははっ」
 重臣、堀頼母は平伏した。
「我が領内に空き寺はないか? できれば尼寺が良い」
「はて?」
と首をかしげる老臣に、そっと市弥がいざり寄り、耳打ちする。耳打ちされて、頼母は、
「稲荷山の奥深くに妙応院という尼寺がござる。先年住持が遷化いたし、無住のままにござります」
と答えた。
「そうか」
と清虎は鷹揚にうなずき、ふたたび、
「局よ」
と、いつしか瘧(おこり)の如く、ブルブルと身震いしている哀れな女人に向き直った。
「は、はい・・・」
 葛尾局は清虎の書いたこの「茶番」の筋立てが、もう全てわかっていた。
「仏の道を求むる気持ちはあるか?」
 局はしばらく黙っていた。沈黙で抵抗の意を示した。が、この助け舟に乗り損なえば、もはや待つのは、死をも含めた身の破滅だけである。
 清虎は忍耐強く局の返答を待っている。「茶番」であろうとも、葛尾局が尼となって自ら城を出れば、騒動は落着する。尼になれば、どんな雄弁にも勝る、切支丹ではないとの潔白の証となる。
 ついに、葛尾局は屈した。
「わかりましてござります」
「仏の道を求めたいのだな」
「はい」
「仏門に入るか?」
「お屋形様の仰せとあらば」
との返答に嫌味をこめたが、清虎は涼しげな顔で、
「では、尼となり、妙応院に入寺し、寺を守ってくれ。そして、坂元家並びに児嶋家に御仏の御加護が益々あらんことを祈ってくれい」
「はい」
 葛尾局はもはや諦めていた。東国一の大名家の実質的な女主から、山奥の古寺の一住持へ。諸行無常、盛者必衰、という「平家物語」の言葉がふと局の頭をよぎった。・・・か否かは定かではない。
「局、今日はそなたとこうして語らえて嬉しかったぞ」
 清虎は上機嫌だった。
「発心したうえは、直ちに髪をおろし、疾う寺へ行くがよかろう」
「わかりました。本日中に剃髪し、明日妙応院に出立いたしまする」
「明日、とな?」
 さすがに清虎は目を丸くしたが、
「善は急げ、と申しまする」
 ここまで窮まってしまえば、一刻も早く城から脱け出したかった。城の誰彼にいちいち暇乞いして回るのも、業腹だったし、愚図愚図と日延べしていたら、しびれを切らした奥の人間に毒を盛られる恐れもあった。何より、あの冷え冷えとした陰湿な場所に、もうこれ以上居たくはなかった。
「善哉、善哉」
と清虎は抹香臭く繰り返し、身を揺すって笑った。彼は勝った。無血で「悪女」を逐った。満足だった。
 ・・・はずなのだが、何故かその心には例えようのない後味の悪さがあった。肉体もどっと疲れた。四十二歳、初めて「老い」をおぼえた。ひたすら眠りたい。今宵も冬姫の許へは行けなさそうだ。
 列座の男女も安堵の色を浮かべ、
「よくぞ御決心なされた」
「局様のお経ならば、さぞ験もありましょうて」
と口々に誉めそやした。中にはかつて葛尾局に賂(まいない)を送っていた顔も、何人も混ざっていた。
「寂しゅうなりますね」
と幾田殿は袖を目頭にあて、涙を拭っていた。空涙だと、清虎と葛尾局だけは見抜いていた。

 その夜、葛尾局は奥御殿の一室で、落飾した。
 得度の式は、局の意向で、内々に簡素にとり行われた。清虎は、出家にあたり導師に、坂元家菩提寺の雲海和尚の名を挙げたが、局は断り、その雲海の弟子ふたりに髪をおろしてもらった。座に連なったのは、迷惑顔の侍女三人。かつての権勢家に似つかわしくない、なんとも寂しさの拭いきれぬ式だった。
 剃刀をもつ僧を、
「待ちやれ」
と葛尾局は制し、懐刀を取り出した。おもむろにその鞘を払い、自らの髪にあて、
 ズバッ!
と一息に根元から断ち切った。
 右手に懐刀、左手に切り取った大鰻のような髪束を握り、
「よく切れる。さすがは常陸の入道様から賜った小さ刀じゃ」
 葛尾局はそう言って、カラカラと笑った。一朝事あらば、と懐剣を授ける際、常陸入道は局に密命を与えたという。
「“この刀で出雲守清虎の寝首を掻け“とな。その刀でかように髪を断ち、女を捨てる結果になろうとは思いもせなんだわ」
 血迷いかけ、ザンバラ髪で秘事を口走る葛尾局だが、
「そのお話、我ら一同、聞かなんだことにいたしまする。折角の門出にお心を乱してはなりませぬ」
 僧は冷たくあしらい、ギラギラ光る剃刀を局の額の生え際にあて、念じ、ひいた。ジャッ!
 また、ジャッ!
 生え際が削がれ、青い剃り跡が恐々顔を覗かせる。
 ジャッ、ジャッ、僧は巧みに剃刀を使って、葛尾局の髪を薙ぎ払っていく。青い頭皮がみるみる浮かびあがる。
 ――何ゆえ、私がこのような目にあわねばならぬのじゃ!
と歯噛みするが、出家するより他、もはや彼女が生命を永らえる道はない。誰より局自身がわかってはいるが、
 ――おのれ、出雲守清虎!
 清虎のあの勝者面が脳裏にちらつき、歯噛みはとまらぬ。
 僧の手つきは一切の無駄がなく、果実の皮を剥くように、髪が剥かれる。ジャッ、ジャッ、ジャー、ジジー――
 切り髪は介添えの僧によって、拾いあげられ、白木の三宝に載せられる。それらの中に、キラリ、キラリ、と光るものがあった。白髪だった。葛尾局は驚いた。まだ三十も半ばだというのに。
 ――これは一体――
 きっと、このところの騒動での心労が祟ったのだろう。
 葛尾局は自分の若白髪を恥じた。頬がほんのり染まった。女子の顔になっていた。
 白髪混じりの乱れ髪が、淡々と、次々と、切り落とされる。ジャッ、ジャッ、ジャッ――
 頭の中央が剃られ、月代のようだったのが、月代は、あれよあれよという間に広がり、青い剃り跡が黒髪を圧していく。
 燭台に照らされて、引きまわされた屏風にうつる己が影の頭が、段々と丸くなって、いよいよ尼になり果てるのだ、と改めて思うと、背筋がゾワと粟立った。
 幾ら慄然としたところで、僧は手を休めず、剃りかけた頭はもう後には戻らない。運命もまた然り、である。
 葛尾局は瞑目した。観念して、剃刀の動きに、否、何か大いなる存在に自己の心身を委ねた。
 栄耀栄華の日々への執着を、理不尽に対する怨念を、サラリ、と捨てきってしまったら、さばさばとした気持ち、それだけが心の内に残った。
 うなじを剃りおろされたときなどは、得も言われぬ心地良さを感じた。
 ジャッ、ジャッ、ジジジー、ジッ
 屏風の影の頭はすっかり丸まっていた。
 一人の尼が、出来あがった。
 髪は残らず剃りこぼたれ、袈裟と数珠を授けられ、それを着け、
「鏡を」
と侍女に命じた。これが坂元家随一の権勢者の最後の命令であった。
 渡された手鏡で、初めて自己の尼姿を確かめるように見た。
 薄緑色の坊主頭が目に飛び込んできて、
「!!」
 葛尾局は仰天して、腰を浮かしかけたが、よくよく見れば、若々しく清々しい尼僧ぶりだった。
 これまでの、どこか鬼相を帯びた毒々しい面貌より、ずっとましなように思えた。晴れ晴れとした心持ちで、局は自分の初姿に満足した。
 奥御殿で権力をふりかざすより、この曇りなき穏やかな心で山の小寺に埋もれる方がよっぽど人間らしい暮らしだと、丸い頭を撫でながら思った。
 僧は奉紙で一房の髪を包み、糸で結んだのを三つつくり、
「葛尾局様の俗世の形見にござる」
と参列の侍女たちに渡そうとしたが、侍女たちは、
「そのようなもの、いりませぬ」
「汚らしい! 触るだけでも身が穢れまする」
「後でどのようなとばっちりを被るか知れたものではございませぬ」
「捨てて下さいませ」
と忌避し、嫌悪し、逃げるように室を辞してしまった。
 ――この者たちは今後も火宅で生きていくのか。
と思えば怒りより憐れみの方が先に立った。

 翌朝、清虎は珍しく朝寝をした。
 昨日の疲れがまだ残っている。下手な合戦より余程、大仕事だった。
 ようやく寝所を出て、朝餉を摂ったが、口の中が不味く、箸がすすまない。
「葛尾局は如何したか?」
と市弥に問うと、
「昨晩髪を落とし、明け方には城をお出になりました」
と三宝に一房の髪を載せたのを捧げ、
「御検分を」
と置いた。
「無用じゃ」
 清虎は不機嫌そうに顔を背けた。
「下げよ」
「はっ」
 三宝を持ち、退出しようとする市弥に、
「待て」
 清虎は不意に思い立った。
「今日はこれより鷹野へ参る。皆に支度をさせよ」
「これは、また急な仰せで」
「黙って言うた通りにすれば良いのじゃ。疾ういたせ!」
 叱り飛ばすように命じた。
 戸外に出て、夏の明るい日差しの下、馬を走らせ、この鬱を大いに散じたい。無性に、そう思った。
 そして、
 ――今宵こそは冬姫の許へ渡るとするか。
 心中決した。

 久しぶりの鷹野は上々の首尾だった。
 たくさんの獲物がとれ、清虎はほくほく顔だった。若武者たちが舌を巻くほど、一日中野山を馬で駆け回った。さすがは東国一の弓取り、と誰もが感嘆した。
 日も西に傾き、帰城することにした。清虎は終始上機嫌だった。
 帰途、空腹をおぼえた。近くの村の豪農宅で馬を下りた。
 百姓たちは大あわてで、飯の支度に大わらわだった。
 獲ったばかりの鯉を膾にして差し出した。清虎は膾には目がなかった。
「これは何よりの馳走」
とさっそく膾に箸をのばし、一人で全部平らげてしまった。

 出雲守清虎逝去、の報を葛尾局は遅く知った。山奥暮らしでは、世間のことはなかなか聞こえてこないのである。
 自分が出家して城を退去した、その当日にあっけなく卒したという。まったく不思議な巡り合わせだ。
 ――もしや、あの御方が一服盛ったのではないか。
 局は、ふと、幾田殿の顔を思い浮かべた。
 清虎には惟虎という後継者がいたが、
 ――これからが大変であろう・・・。
 惟虎が若年であるのをいいことに、幾田殿は権力掌握のため、必ず動くであろう。一族重臣たちも右往左往して、坂元家は表も奥も大いに揺れるだろう。
 だが、今となってはそれも他人事。
 ――はてさて、どうなることやら。
と今朝剃髪したばかりの坊主頭に、サッと秋風を感じ、俄か尼は思わず首をすくめた。


(了)



    あとがき

 3年以上ぶりの「乱世東国戦記」シリーズの第6弾です♪♪
 今回は「切らずの市弥」の主人公の主君、坂元出雲守清虎にスポットをあてました。「市弥」の前日譚みたいな感じになっています。
 このお話、江戸城の大奥で起きた実話を基にしています。大奥の高位の女性が、切支丹の疑いをかけられ、その嫌疑を晴らすため、結果、尼になったという事件で、それから色々と想像を膨らませ、書き始めました。思った通り、「剃髪描写のある小説」になってしまった(;^ω^)書きたいことが多すぎちゃって(汗)でも書いてて楽しかったデス(*^^*)
 このシリーズは需要度外視の純粋に自分の楽しみで書いている「おはなし」なので、どうか大目に見て下さいm(__)m
 最後までお付き合い頂き嬉しいです!! ありがとうございました!!




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