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清楚系モヒカン


 俺が朝比奈桃子(あさひな・ももこ)さんに、熱い眼差しを向けるようになったのは、俺が重度の「眼鏡フェチ」だったせいだろう。
 朝比奈さんとは小中学校と同級生として過ごした。言葉を交わすことも、普通にあった。でも、とりたてて関心はなかった。
 中学の二年生のとき、朝比奈さんが、或る日いきなり眼鏡をかけてきて、俺の中の朝比奈さん観に大転換がおきた。
 恋!というほどではなかったものの、朝比奈さんに対して少々「不届きな感情」を抱いた。
 そもそも俺がなぜ「眼鏡フェチ」になったかというと――いや、この話は長くなるから、別の機会に譲るとしよう。
 ただ、朝比奈さんの眼鏡は、特に俺好みの地味なフレームの眼鏡だったことだけは、力説しておきたい(力説することもないか)。
 飾らない質朴な眼鏡に、切れ長の一重目蓋、品の良い薄い唇という「和」な顔に、やや高めな鼻梁だけは洋風で、その和洋折衷の塩梅、パーツの配置の具合、は絶妙で、生半可な美人より、一部の男子(俺含)の劣情を刺激させるものがあった。
 頭も良く、強靭な意思の持ち主だった。相手が誰だろうと、自分が間違っていると思うことには、間違いだとズバズバ口を出したし、自分が正しいと信じたら、我一人征かん、とする性情の人だった。
 だから、今通っている名門校の生徒会長として君臨しているのだ。
 俺も、勉強については努力を惜しまないタチなので、朝比奈さんと同じ高校の試験をパスできた。朝比奈さんと同じ高校に入れて、かなり嬉しかった。しかも、なんと、朝比奈さんの下、生徒会役員として――完全になりゆきでなってしまった――毎日のように生徒会室で、朝比奈さんと顔を突き合わすことにあいなった。

 元々小さい頃は「朝比奈さん」ではなく、「桃子」と呼び捨てにしていた。
 桃子、そりゃねーだろ、と昼休みの校庭使用権をめぐって、こっちは男子代表、向こうは女子代表、として諍ったことだってあった。
 それがいつしか「朝比奈さん」になり、現在では「会長」と呼び、完全に下位の立場に甘んじている。
 会長としての朝比奈さんは有能すぎるほど有能だった。果断で無私で勇敢で働き者だった。彼女ほど生徒会長の椅子に相応しい人材は、学校中さがしても皆無だ。
 ただ、狭量というか、頭が固いというか、融通のきかないところがあり、自分の正義を貫くためには、争いも辞さないところもあり、アバウトで事なかれ主義の俺には、少々胃の痛む上役だった。
 俺が日和った発言をしようものなら、
「手ぬるいッ!」
と一喝され、屹、とマナジリをけっし、睨むように朝比奈さんは俺を見る。そして、
「京極(俺)、それは違うぞ」
と言い放つ。
「君の言った通りにしよう、それで一時の平穏を得るかも知れない。いや、得るだろうね。だが、根本的な問題が解決しない限り、今回の議論はまた蒸し返されるんだよ。もうこれ以上先送りはできない。君もいい加減態度を決めたまえ!」
 眼鏡の奥の目力に、俺は小さくなるのみだ。
 こんな調子で、常在戦場、いつも何かと闘っている。
 このほっそりとした身体のどこに、そんなエネルギーがあるのだろう、と俺は舌を巻く。
 「鉄の乙女」という畏敬の念をこめた異名は伊達ではない。
 彼女の一挙手一投足に教師たちも戦々恐々としている。少なくとも、県下最強の生徒会長だろう。
 当然敵も多い。けれど彼女は意にもとめない。とめないどころか、そういった敵対派の存在は、むしろ、彼女の情熱をより燃え上がらせる、歓迎すべきエネルギー源となるばかりだ。
 「炎の女」という異名も囁かれる。

 朝比奈さんが目下没頭しているのは、或る校則にまつわる案件だ。
 我らが生徒会の歴史は、教師連へのレジスタンスの歴史だ。
 80年代頃から、生徒会は上からの理不尽な締め付けを跳ね除けるべく、闘い続けてきた。勝ったり負けたりを繰り返しながら――退学させられた生徒会役員も何人もいるそうだ――それこそ、校則を一箇条、また一箇条、と、すり潰すように削除していった。そういった伝統ある生徒会である。
 髪型についても、男子は丸刈り女子はオカッパ、と義務付けられていたのを、30年以上かかって覆し、今では髪型に関するきまりはほとんど撤廃され、つまりは自由だ。これも名もなき先輩方の尽力の賜物、ありがたい。
 しかし、髪型の自由はまだ完全ではない。
 最後に奇妙な校則が、ポツンと一箇条残されている。
 それは、
 ――女子のショートカット禁止
という条項である。
 女生徒が髪を短く切ることは、校則では禁じられている。
 どういう理由があるのか、いくら頭をひねってもさっぱりわからない。謎な校則だ。校則を守らせる側の教師たちも同じに違いない。生徒と教師、双方がよくわからないまま、この規制は21世紀を過ぎてもなお命脈を保ち、遵守され続けている。
 入学時、髪の短い女生徒は、早速目をつけられ、今後は切るんじゃないぞ、と担任等から命じられる。
 だから、うちの高校の女生徒は皆、基本的にロングヘア―かセミロングだ。三年間一度も美容院に行かない女生徒もざらにいる。ある時期などは、平安の姫君さながら、超ロングヘア―を廊下に引きずらんばかりにして、校内を行き来している女の子たちが当校名物だったという伝説さえある。
「おそらくは、単に校長かPTAのお偉方の個人的な趣味だったんだろうね」
と朝比奈さんは呆れ顔で肩をすくめる。
「まったくくだらん規制だね。性差別も甚だしい。ゲロが出そうだよ。それにしても、なぜ歴代生徒会はこんなクソみたいな規則を放置していたんだろうね。理解に苦しむ。本来なら真っ先に削除すべき条項のはずだろうに。これは怠慢と言われても仕方ないな」
 俺もそう思います、と同調すると、朝比奈さんは深々とため息をつき、校則通りの長い髪を忌々しげに手ですくいあげ、
「暑くなってきたというのに、本当に鬱陶しい。時々サッパリと刈ってしまいたくなるよ」
 規定がなくなれば、会長も堂々と髪を切れますね、と本心とは裏腹のおためごかしを口にすると、
「問題を卑小化するな、京極」
と朝比奈さんは眉をしかめた。そして、続けた。
「ボクの――」
 朝比奈さん、小学校時代から一貫して、「ボクっ娘」だ(さすがに公の場では「私」と言うが)。
「ボク個人の髪がどうこうっていう次元の話じゃない。重要なのは、男子の髪型は自由を認められていて、女子には同等の自由がないということだ。『体制側』もそいつに対して、明確な説明ができないまま、確固たるスタンスもないまま、漫然とルールを押し付けてくる。これを理不尽と言わず何と言う? これを暴虐と呼ばずして何と呼ぶ?」
 俺に一席ぶつと、朝比奈さんは椅子の背もたれに身体を預け、
「京極」
 はい、と答えると、
「こんなバカげた決まりは、ボクの代でぶっ潰す。髪型の完全自由化を一秒でも早く実現させるぞ」
 そう朝比奈さんは断言した。俺たちも三年生、間もなく生徒会を引退する。きっとこれが、「朝比奈桃子、最後の闘争」になるだろう。

 一か月半後、女子のショートカット禁止の校則は、木っ端微塵に粉砕された。
 朝比奈さんは、やる、と言ったら必ずやる。彼女が「体制側」と呼ぶ人種と何度も談判し、臨時集会を開き、火の噴くような運動の末、我が校の髪型における一切の規制は全廃されたのだ。「鉄の乙女」の面目躍如だ。
 なのに当人は、
「本当は服装の自由化まで踏み込みたかったのだがね」
と、まだ闘い足りぬ様子だ。けれど、
「まあ、そいつは次の世代に任せて、ボクら老兵はそろそろ後進に道を譲らないとね」
なんて珍しく殊勝な物言いをしていた。

 ――これからはショートにしてもいいんだ!
と女子たちは色めきたった。
「ねえ、髪切ろ、髪切ろ!」
「夏に決まってよかった〜! スッキリするぞ〜!」
「いっそベリショにするかなア〜」
とあちこちで盛り上がっている。皆解放感に満ちた顔だった。
 実際、正式な解禁期日も構わず、フライングしてバッサリとショートヘアーになる女子もけっこういて、これ見よがしに短い髪を衆目にさらし、校内を闊歩している。教師たちも注意しない。いちいち咎めだてる気にもなれないようだった。
 逆に朝比奈さんは、そうしたフライング断髪組に厳しかった。校内で遭遇すると、
「君、その髪はどういうつもりだ! 解禁期日はまだ先のはずだぞ。軽はずみな行動は慎みたまえ!」
と叱りつけ、罰を与え、ウゼェ、と陰口を叩かれていた。
 朝比奈さんは自由を愛した。が、単純な反抗児ではなく、是々非々の人だった。
 俺が陰口の件をつとめてさりげなく伝え、忠告するも、
「ボクは人気者になりたくて、生徒会長を引き受けたわけじゃないよ」
と取り付く島もない。こういう人だ。長年の付き合いでわかってはいたが。
「蟻の一穴、って言うだろう? 少数の不心得者のせいで、全てがオジャンになる可能性だってあるのさ」
 勝って兜の緒を締めよ、ですね、と迎合する。すっかり腰巾着ぶりが板についてしまっている、悲しい俺だ。
 だが、俺との会話に興が失せたように、朝比奈さんは机に頬づえをつき、あさっての方向を見ながら、指先で無心にシャーペンをクルクル回して、何事か思案しているふうだった。
 俺は目下最大の懸案事項を確かめるべく、沈黙を破った。
 会長は髪を切るんですか?と恐る恐る訊く。
「切るよ」
 こともなげに言われた。
 激しい眩暈に襲われる。正直、朝比奈さんには現状の黒髪ロングをキープして欲しかった。切にそう願っていた。
 濃紺ブレザーの制服姿に、品の良い顔立ちに、丈長き黒髪は見事に映えていた。そして眼鏡! その清げな外見は、いかにもお嬢様といった印象を見る人に与える。
 実際、朝比奈さんの家は元をただせば、この辺り一帯の大地主で、江戸期から続く名家だ。ルックス、知性、血統、三拍子備わった生粋のお嬢様なのだ。「ボクっ娘」だけど。
 ともあれ、朝比奈さんの断髪発言に、俺は動揺を隠せない。
 でも、会長が髪を切ったら、生徒の中には、会長が自分が髪を切りたいから、ショートカット許可を求めて運動した、と邪推する輩も出てくるんじゃないですかね、とそっちの角度から牽制しようとするも、
「思わせておけばいいさ。ボクは人気獲りのために生徒会長でいるわけじゃない。同じことを何度も言わせないでくれよ」
とニベもない。
「とにかく、ボクは髪を切るよ。好んでこんな長髪を維持しているわけでもないんでね。クソッタレな校則とも、クソッタレな髪とも、近日中にオサラバさ」
 どれくらいの長さに切るんですか?とワラにもすがるような思いで訪ねたが、
「さて、どうしようかな」
と朝比奈さんはどこか思わせぶりに含み笑いをするばかりで、答えてはくれなかった。

「京極、君、ボクの足になってはくれまいか」
と朝比奈さんが切り出してきたのは、ショートカットが許可される日付の前々日のことだった。
 明後日(日曜日)髪を切るつもりで、美容院に予約を入れておいたが、交通の便が悪いところにあるので、車かバイクでなければ行けない。
「生憎、両親や兄貴も明後日は出払ってしまうんでね」
 田丸さんがいるでしょう?と言うと、
「爺やは今私事で、故郷に戻っているんだよ。キャンセルしようとも思ったが、運良くとれた予約なんでね。それで――」
 俺が大型二輪の免許とバイクを持っているのを思い出したという。
 俺は渋った。骨惜しみしているのではなく、朝比奈さんの断髪に協力するのが嫌だったからだ。しかし、
「いいだろう? 君とは小学生時代以来の仲じゃないか」
と過去のことを持ち出されると、悪い気はせず、最終的には了承してしまった。

 そんなこんなで、翌々日、俺は叔父から譲ってもらった、年季の入ったホンダのバイクを駆り、約束の時間、約束の場所で朝比奈さんを拾った。
 朝比奈さんは制服姿だった。学校で生徒会の用事を済ませ、そのまま、待ち合わせ場所――某駅の北口まで来たらしい。現在の生徒会も店じまいのため、引継ぎ等、多忙を極めている。
「随分年代物のオートバイだな。車検は通っているんだろうね?」
と失礼なコメントしつつも、
「すまないな」
と渡された予備のヘルメットをすっぽりと被った。そして、後ろに座り、俺の身体を両腕で、ギュッと抱きしめた。ドキドキした。背中に朝比奈さんの体温を感じる。いい匂いがする。さらにドキドキした。まるでデートに出発するような心持ちになる。
 朝比奈さんにナビゲートされるまま、市街を抜け、山道を往く。山中を奥へ奥へと進む。
 こんな人里離れたところに美容院なんてあるんですか?と不安になって訊ねたら、
「知る人ぞ知る名店らしい。店の主が芸術家気質とでもいうのかな、完全予約制で、一日に一人二人くらいしか客をとらないそうだ。ボクも従姉に教えてもらって、今日が初めての来店なのさ」
 なんでそんな敷居の高そうな店をわざわざチョイスするかな、と内心思う。

 目的地、着。
「ここだ」
と朝比奈さんが指さしたのは、純和風のお屋敷だった。茅葺の門まである。看板らしきものは一切出ていない。いかにも隠れ家的な店だ。後で知ったが、近隣を治めていた大名の家老の隠居所だった建物を買い取って、外観はそのままに内装を改造して店にしたらしい。
 朝比奈さんの後に従い、門をくぐる。
 離れに、かつては茶室であったとおぼしき、ワビサビのきいた庵があり、どうやらそこがヘアーカットの場らしい。
 俺は外で待ってます、と浮足立ったが、
「ここまで来たんだから、君も入ればいいじゃないか」
と強引に店内へと連れ込まれてしまった。
 店内も和のテイストを活かした作りになっていた。
 鏡やカット台など、他の美容室同様、洋式の設備は整えられている。が、それらも空間の落ち着きに収斂され、しっとりとした佇まいで、淡く枯れた美の中に溶け込んでいる。
 近くに渓流があって、そのせせらぎが、何よりのBGMとなり、心安らがせてくれる。
 カットと経営を一手に引き受けている店主は、まだ若い女性だった。頭にバンダナを巻いていて、上下は作義衣姿、なにやら陶芸家を連想させる。確かに「アーティスト」の風韻があった。
 来店した俺たちに、
「お待ちしておりました」
と丁寧に一礼した。終始、軽躁なおしゃべりを慎み、ストイックに作品――髪そのものとじっくり向き合う、それが彼女の流儀らしかった。
「こちらにお越しください」
と店主は朝比奈さんを、鏡の前に迎え入れた。
「今日は如何なさいますか?」
と問われ。
「ん〜」
と朝比奈さんは雄弁家の彼女らしくもなく、一瞬言いよどんだが、すぐに気を取り直し注文を口にした。
「モヒカンにしたいのだが」
 俺は、明日にでも耳鼻科に行かねば、と思った。耳の機能がおかしくなってしまったらしい。朝比奈さんのオーダーを聞き間違えてしまっている。モヒカン? ないない。ありえない。絶対にありえない。
 しかし、
「モヒカンですね」
「ああ、そうだよ」
という「最終確認」に目の前が真っ暗になった。
 モヒカンなんて、時代錯誤のパンクスか、「北斗の拳」の小悪党しか思い浮かばない。うら若き処女の髪型ではない! 断じてない!
 「ソフトモヒカン」という語を、頭に片隅から引っ張り出して、なんとか心の動揺を最小限にとどめようとあがくも、
「ベースを弾きながら佐賀県のことを歌っているお笑い芸人がいたろう? ああいうふうにして欲しい」
とのさらなる発注に、完全にダメを押され、気死寸前だ。
 石化する俺をよそに、朝比奈さんは店主と、ここは刈り上げて、ここは残して、逆立てて、と互いに納得のいくまで、打ち合わせを重ねていた。
 ここの店は主の気質を反映して、基本アバンギャルドな髪型中心でカットを施している、個性派セレブ御用達の店だった。これもまた、後から知った話だ。道理で、モヒカン希望の朝比奈さんが、この店を選んだわけだ。同時に、少女のぶっ飛んだオーダーにも動じず、すんなりと受け容れた店主の対応にも合点がいった。
 俺を置き去りにしたまま、話はまとまり、いよいよカットとあいなった。
 朝比奈さんは(俺の)最大の萌えポイントである眼鏡をはずした。なんだか、かなり違和感があった。漫画やドラマで使い古されまくっている「眼鏡をはずした女の子の素顔にドキッ」という王道とは、真逆のパターンだ。
 長い髪がヘアークリップで分割される。職人のワザをひしひしと感じる。
 いきなり、ウィーン、ウィーン、とバリカンで刈り込まれた。驚いた。チョコチョコと細工物のように、微に入り細を穿ち、それこそ数センチ単位でカットしていくものかと想像していたが、まるっきり違った。これも店主のカット作法らしい。
 店主は真剣な面持ちで、「余分な髪」を、バアーッ、と刈る。ダイナミックに刈る。そのバリカンさばきは冴えに冴え渡っている。激しく、荒々しく、猛々しく、しかし、けしてブレない力強い律動が、その底にはあった。まるで武人の剣舞を見ているかのようだった。
 まずは両サイドの髪――耳や肩に、ダラリ、と垂れ下がった髪が、豪快に薙ぎ払われていく。モミアゲから、耳上から、こめかみ付近から、縦に、そして横に、バアーッ、バアーッ、バアーッ、バアーッ、と。圧巻だ。
 バッ、バッ、
と何房もの髪が宙を舞う。
 刈る方も真剣勝負なら、刈られる方も真剣勝負だ。
 朝比奈さんは、シリアスな表情で鏡を見据えている。裸眼だと0・01の視力なので、眉を寄せ、目を細めて、メンチを切るかの如く、鏡を睨みつけている。不機嫌そうに見えるが別に不機嫌なのではない。
 しかし、裸眼では、変貌を遂げていく頭髪の状態が一向に確認できず、だいぶ、じれったそうだった。
 バリカンは走る。走り、覆し、引き剥がす。さらに走り、覆し、引き剥がす。
 いかにもお嬢様然とした端麗なロングヘアーは、微塵のためらいもなく、次々と刈り落とされる。
 バックの髪も粗切りなしで、バリカンのみで刈られた。切り髪がケープを伝い、谷川の急流みたく、ザラザラと床に向け滑り落ちていく。
 彫刻家が堅木にノミを打ちこむような入魂ぶりを想起せしめる「匠の仕事」が、今まさに眼前で行われている。
 朝比奈さんは怒涛のバリカン乱舞に――絶対18年の人生初のバリカンカットのはずだ!――ますます眉間を険しくして、目を細くして、鏡にメンチを切っている。どうなの?どうなってるの?と不安げな顔になっている。学校ではまず見ることのできない顔だ。
 バッ、とまた髪が一房跳んだ。
 校則への隷属下で保たされ続けていた長い髪は、きれいに切り落とされた。
 頭頂には数房の髪が残される。あたかも「悪法」の証言者のように。
 店主はバリカンを、キャスターのついたワゴンの上に置いた。
 と思いきや、今度は別のバリカンを持ち、両サイドを、さらにまた別のバリカンを襟足にあてた。ウィーン、ウィーン――
 そうやって余念なくカットを続け、坊主部分を微調整していく。ウィーン、ウィーン――
 今度は剣舞ではなく、能楽の幽玄さを思わせる巧緻で繊細な「静」のバリカンさばきだった。お見事、というより他ない。
 けれど、残されたモヒカン部分のカットの段になると、店主のすご技に感心している場合ではなくなる。
 シャキシャキ
 シャキシャキ
と残り髪がモヒカンの形に切り詰められていくさまに、胸も張り裂けんばかり。
 俺の嘆きなど、女二人、知るよしもなく、髪は注文通りに切られていく。シャキシャキ――
 パサリ、
 パサリ、
 シャンプー、坊主部と有髪部がシャカシャカ洗われる。
 ドライヤー、坊主部と有髪部がシャリシャリ乾かされる。
 最後にモヒカン部分をセット。店主はジェルで頭頂の髪を逆立てる。やはり匠のワザがキラリと光る。逆立てた髪を固め、タワー状にした。完成だ!
「これで如何でしょう?」
 店主は儀式を終えた司祭の如き面持ちで、厳かなトーンで言った。
 朝比奈さんは待ちかねたように眼鏡をかけ、鏡を見た。初めてガッツリと向き合ったモヒカン頭の自分に、
「うわっ」
と身をのけぞらせていた。レアすぎるリアクションだ。
 真っ白な肌だから、頬に赤みがポッとさしたのが、ありありと見てとれた。すっかり恥じらっている。
 口でこそ、
「随分、奇抜な髪型になったものだ」
と強がっていたが、たまりかねたように小声で、
「なんか思ってたのと違うぅ〜」
と呟いたのを、俺の耳は聞き逃さなかった。耳鼻科に行く必要はなさそうだ。
 モヒカン頭で顔を赤らめる朝比奈さんは、イチゴみたいだった。
「お気に召しませんでしたか?」
「いや、結構。なかなかイカしたヘアースタイルだよ。気に入った」
 首から上はイチゴのまま、朝比奈さんはうなずいてみせていた。

 濃紺のブレザーとスカートの制服姿にモヒカンカットは一見、ミスマッチも甚だしい。しかし、朝比奈さんがもつ、処女の初々しい清潔にして可憐にして高雅なオーラ――そして眼鏡!――が、アクロバティックに制服とモヒカン頭を融合し、或いはロングヘア―の頃より、上品で清げな印象を周りに与えていた。モヒカンカットの歴史において、もしかして今日は、すこぶる画期的な一日ではなかったか。モヒカンカットの新たな可能性を、朝比奈さんは無自覚のうちに、開拓者として切りひらいていたのかも知れない。
 俺はいつしかモヒカンバージョンの朝比奈さんの虜、蒙を啓かれた思いでいる。

 バイクで山を下る。
 風を切り、オンボロバイクを飛ばす。山中の涼気が心地良い。背中いっぱいに朝比奈さんの感触、心地良さも通常の三倍増だ。
 ずっとヘルメットをかぶっていたため、ぬいだら案の定、モヒカンはグシャリと潰れていた。
「ああ、もォ〜。やっぱりこうなることはわかっていたのだがなぁ」
と朝比奈さんは顔をしかめ、トサカ髪をイライラと指でいじっていた。
 今日は学校ではお目にかかれない会長の色々な顔を拝見できて眼福でした、とお道化た調子で、慇懃に言うと、
「バカ」
と朝比奈さんはまた頬を染め、プイとそっぽを向いていた。
「そうやって冷やかすがいいさ」
 いえいえ、と俺は首を振り、本音を口にした。ホントに似合ってますよ、髪を切る前よりこの髪型の方が好きかも、と。
「え?」
と朝比奈さんは真正面から俺を見た。嘘やお世辞ではないとわかると、
「バカ」
と、もう一回言って、今度は微笑した。
 それじゃあ、明日学校で、と朝比奈邸の門前を立ち去ろうとすると、
「待ちたまえ、京極」
 呼び止められた。
「休日返上でボクのために骨を折ってくれた恩人に、紅茶の一杯も振る舞わないほど、ボクは礼儀知らずじゃないよ」
 俺はあわてて辞退したが、朝比奈さんに強引に、俺を邸内に引き込んだ。
「そうそう、前にも言ったと思うが――」
と振り仰ぐ朝比奈さんの尖った髪が顔に突き刺さりそうになり、あわてて身を避ける。凶器みたいなヘアースタイルだ。
「今日は両親も兄貴も爺やも不在だ」
 ああ、そうでしたっけ、と間抜け顔をつくって、韜晦するも、朝比奈さんは許してくれない。
「わかるだろう、ボクの言う意味が? 君が見かけほどの野暮天ではないことを、ボクは知ってるんだからね。そして、いつも暑苦しい視線をボクに注いでいたことも、ね」
 会長には敵わない、と肩をすくめると、
「桃子、って呼んで欲しいな。昔みたいに」
 昔みたいに? 昼休みの校庭のテリトリー議論のケリでも着ける気か?と冗談めかして言うと、
「ああ、存分にディスカッションしよう。受けて立つよ。でも、その前にしたいことがある」
 朝比奈さん、いや、桃子のしたいことはわかっている。まるでテレパシーのように。朝比奈さん、いや、桃子のしたいことは俺のしたいことでもある。もう言葉はいらない。したいことをしたいようにする。それだけだ。
 だが、どうしても一言言いたい。
 ――可愛いよ、桃子。
 俺たちはごく自然に唇を重ねた。桃子の眼鏡が俺の鼻柱に軽くぶつかった。

 翌日は全体朝会があった。
 全校生徒の目は、モヒカン頭の桃子に釘付けになっていた。驚愕、困惑、好奇、畏敬、とさまざまな視線の集中砲火を浴びたが、「鉄の乙女」は毅然としていた。
 桃子が朝礼台にあがる。生徒会長としての最後の言葉を、皆に送るために。
「皆さん」
と桃子はマイクを通して呼びかける。
「ご存知のように、我が校は昨日をもって、髪型についての全ての規定が消滅しました。自由になったのです」
 そして、自分の頭髪を指さし、
「自由です」
と繰り返した。なるほど、桃子は自らがインパクトのある髪型になって、身をもって「自由」を示す心算だったようだ。
 生徒たちは、どっと笑った。緊張がほぐれた。
「そうです。この頭でいたら、こうやって笑われます。人によっては避けられます。ジロジロ見られます。自由を実践しようとすれば、必ず自己にとっては愉快ではない反作用が起きます。自由を貫くためには、この反作用と、時には闘わねばなりません。例えば私の髪、自分の自由な意思で決めたこの髪型でいるにも、偏見と闘い、世間一般の価値観と闘い、或いは自分の弱さとも闘わねばならないでしょう。私はその闘争を引き受ける覚悟でいます。自由って、そういうものなんです。選択した自由には、必ず引き受けねばならない責任や覚悟が伴うのです。下世話な言葉で言うと、“テメェの尻はテメェで拭け”ということ。それを避けたがる人にとって、自由は重荷でしかないでしょう。だから、何か自由を選択するとき、まず、自分の胸に問うて下さい。“この自由によって生じる苦しみを、責任を、闘いを、引き受ける覚悟が自分にあるのか”と。そして――」
 生徒会長・朝比奈桃子の闘争宣言めいた最後の辞は、万雷の拍手のうちに終わった。
 モヒカン髪を天に突き立て、桃子は凱旋者よろしく朝礼台をおりた。
 隣に立つ俺だけに聞こえる声で、
「まったく、とんだ道化だよ」
と憎まれ口をたたきながら、でも、アバンギャルドな髪に手をやり、感無量そうだった。
 桃子とは昨日キスして、それっきり。それ以上の行為も、それ以上の関係もお断りされた。恋人でも何でもない。
 じゃあ、なんでキスしたのさ、と苦情を申し立てると、
「そういう気分だったんだよ」
とのこと。
 せっかくなんだから付き合っちゃおうぜ、と未練がましく食い下がると、
「そういう気分じゃない」
とバッサリ、一刀両断。
 遠い未来、思春期の息子か娘に訪ねられるかも知れない。
「お父さんのファーストキスはいつ?」
と。
 正直に、
「高3の夏だよ」
と答えよう。
 さらに訊かれるかも知れない。
「相手はどんな女の人だったの?」
 そのときは、こう答えるしかない。
「モヒカンの女の子だったよ」
と。


(了)



    あとがき

 お久しぶりです♪♪
 今回のストーリーはネットで「上品でオトナなモヒカン女性」の画像を見つけ、そこから着想しました。
 かなりイレギュラー的な作品です。
 と、いうのは、元々「清楚系モヒカン二題」という一篇の作品の中で、二本立てでそれぞれ別個の二人の女性を、ヒロインとしてモヒカンにしようと企図していました。朝比奈桃子嬢もWヒロインの片割れに過ぎなかったのですが、「この娘、単独ヒロインにして一本のエピソードにした方が良くね?」と思い、それまで書いていたのを途中破棄して、書き直しました。タイトルについても思いっきりネタバレしているんで、最後まで迷いました(笑)
 朝比奈桃子会長のキャラ、久々の男勝り系でたまらなく好きです(^^)語り手の京極君の小物っぷりも好き(笑)
 毎回のように書いてますけど、こうして好きな小説を好きなように書ける恵まれた環境にいて、発表する場も読みに来て下さる方もいらっしゃって、つくづくありがたいなぁ、と感謝と幸せを感じております(*^^*)さらにより良い小説を書けるよう精進いたしますm(_ _)m
 お付き合い、ありがとうございました♪♪




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