カサブランカは今 |
学生時代から起業して目下躍進中の青年実業家、小原直人(おばら・なおと)が、その女性と出会ったのは、彼の行きつけの或る洒落たバーだった。 まず髪が目を惹いた。バブル期を思い起こさせる、黒髪のストレートロングヘア―だった。レッドやイエローなど原色を基調とした派手な服装で、胸元や背中を誇らしげに露出させ、ドレスアップしていた。 顔立ちはまるでフランス人形を彷彿とさせるほど、美しく整っていた。男好きするプロポーションも実に魅力的だった。直人にとってはもろにタイプだった。ビートルズの『夢の人』の歌詞の She's just the girl for me (彼女はまさに僕にとって理想の人) And I want all the world to see We've met (僕らの出会いを世界中に知らせたい) という一節は、まさに直人の心情を代弁していた。 当然、アプローチを試みた。 「一杯おごらせてもらえませんか?」 「結構よ」 Just the girlはつれなく言った。 しかし、直人はめげない。 「おひとりですか?」 「見ればわかるでしょ」 女はつまなさそうに頷いた。直人に視線すら向けずに。年の頃なら二十代半ばだろうか、かなり男慣れしているのがわかる。 「この店にはよく来るの?」 「初めてよ」 「これから誰かと待ち合わせ、とか?」 「いいえ」 女の言葉は短い。「ハンティング」のし甲斐がある。直人は狩人魂を刺激される。 「殺気」を押し隠し、二言三言、三言四言、と言葉を交わすうち、女の方も直人に「雄」としての魅力をおぼえたのか、やや軟化し、彼に隣の席に座ることを許した。女が物憂げにメンソールの煙草をくわえると、直人はすかさず自分のZippoを出して火をつけてやった。そのZippoを見て、女は直人が只者でないことに気づいたらしい、さらに態度を和らげた。話しながら、ちょっとした媚態すらしめすようになっていた。 しかし、いざ直人が口説こうとすると、 「そういう台詞、聞き飽きちゃったわ」 ピシャリと遮られた。 だが、直人はJust the girlを目の前にして、むざむざとそれを手放すような腑抜けではない。それに、まだ脈は十分にあることは、プレイボーイとしての勘や経験で察知している。 とりあえず「餌」を与えよう。 「今何か欲しいものはあるかい?」 「欲しいもの?」 と女はオウム返しに言って、首を傾ける。 「靴、とか、バッグ、とか、何かあるだろう?」 「そうね――」 女は或る海外の大物音楽アーティストの名前を出した。近々来日する予定で、そのコンサートのチケットはあっと言う間にソールドアウトになってしまっていた。それがニュース種になるほど、日本中で話題になっていた。そのコンサートの、 「チケットが欲しいわ。一番いい席の」 まるでかぐや姫だな、と直人は想い人の無理難題に首をすくめる。しかし、 「OK」 と気軽く応じてみせた。 「二枚都合しよう。一枚は君の分、もう一枚は僕の分」 「あら」 と女は髪をかきあげた。目が恍惚となっていた。彼女も直人に魅せられつつあるらしい。けれど、 「今夜はここまでよ」 と二杯目のマティーニを飲み干して、キッパリと言った。そして、立ち上がった。その脚線美は直人の心を一層浮き立たせ、奮い立たせた。 「じゃあ、二週間後――」 直人はコンサート会場の付近の老舗カフェの店名と、開演時間を考慮に入れた時間を指定して、 「そこで、また会おう。待ってるから。来てくれるね?」 女は否とも応とも言わず、口元に思わせぶりな微笑を浮かべ、直人に流し目を送った。来る! 彼女はきっと来る! 直人は確信した。 だが、メアドの交換を求める直人に、 「野暮ねえ」 と女は首を縦に振ろうとはしなかった。 「せめて、名前だけでも教えてくれないか」 との直人の最大限の譲歩にも、 「そうねえ」 女は勿体ぶった様子で、店に飾ってあった花を撫で、 「カサブランカ」 「え?」 「とりあえず“カサブランカ”としておくわ」 気取ってやがる、と直人はやや鼻白む思いだったが、女の、 「本当の名前は次にあったときに教えてあげるわ」 という言葉に、パッと心華やいだ。やはり彼女は来る! 「じゃあ、カサブランカ、また二週間後に」 「カサブランカ」は優雅に笑んで、去った。その背を直人はいつまでも見つめ続けた。 二週間後、 カサブランカは来なかった。 直人は待った。約束のカフェでコーヒーを何度もおかわりしながら、カサブランカが姿を現すのを、辛抱強く待ち続けた。三時間粘った。しかし、いつまで待っても、カサブランカは来ない。 金とコネをフルに使って強引に入手したチケットを二枚、内ポケットから出してはしまい、出してはしまう。コンサートはもう始まっている。 女心はわからない。直人はため息をつく。十中八九、いや、100%絶対に会えると思っていたのに。 自分のハンターとしての自信がグラつく。何より、 ――惜しい女だ・・・。 カサブランカの、あの長い黒髪を、愛らしい顔を、豊かな身体を、美しい脚を、華やかなファッションを、香水の芳しさを、エレガントな微笑を、思い出しては、また、ため息。運命の女性に出逢えた、と舞い上がっていたのに。 それでも諦めきれず四杯目のコーヒーを、オーダーする。 「遅れちゃったわね」 とカサブランカが飄然と現れる。――そんな淡い期待を捨てられないでいる。今日はキメるつもりで来たのに。レストランを予約し、プレゼントも用意した。しかし、全てが徒労だった。 もう会うこともないのか。そう考えて、直人は肩を落とした。本名すら知らぬ想い人の姿を思う浮かべ、 ――ああ! カサブランカ! カサブランカ! 直人はプレイボーイの仮面をかなぐり捨て、嘆く。 でも、嘆いてもカサブランカは来ない。 この残酷な現実を受け容れよう、と直人はコーヒーをあおり、二枚のチケットを引き裂いた。 店を出ると、夕日がやけに眩しい。 こんなに一人の女性に未練を残したことは、今までの人生で一度もなかった。 ――ああ、カサブランカ! 赤みがかった空を仰ぐ。 ――君は今頃、何をしているんだい? その頃、カサブランカは―― 「オラオラッ、新入り、早く運べ! 運べ! もう日が暮れちまうぞ!」 「ハ、ハイッ! うぬっ・・・くくっ・・・くぅ・・・」 クリクリの坊主頭をプルプル震わせ、服装は汚れきった作務衣姿、両肩に天秤棒をのせ、大汗かいて、ヨロヨロと、糞尿があふれんばかりに溜まった肥桶を担ぎ、先輩尼僧(5歳年下)に叱責されながら、畑へと運んでいた。 「うぬっ・・・うぬ!」 懸命に力をふりしぼり、肥桶を持ち上げ歩く。が、 「あっ」 よろけた拍子に、肥桶が傾き、ビシャッ、と足や腰に糞尿が跳ね散った。 「お前、何やってんだよッ!」 と怒鳴られた。 「せっかくの肥やし、こぼしてんじゃないよッ!」 彼女の心配より糞尿の心配をされた。 ウンコ以下の存在、それがカサブランカ――今村信子(いまむら・のぶこ 尼僧名 妙信)のまごうことなき現在の姿だった。 土にまみれ、汗にまみれ、あろうことか糞にまでまみれ、ひたすら野良仕事、自給自足、これも、修行の一環だ。安逸な暮らしを貪ってきた身に、過酷な尼僧修行は、肉体的にも精神的にもこたえる。辛い。苦しい。逃げ出したい。そうして、思う。 ――なんで、こんな目に・・・ 「ボケッとしてんじゃないよッ!」 また叱声が飛んできた。 直人はオフィスのベランダで煙草をふかしていた。普段、仕事中に喫煙することなど、まずないのに。 出社して、部下たちを怒鳴りっぱなしで、いつも穏やかな彼にしては珍しく、部下たちも戸惑っていた。流石に、これは不味い、と気づき、仕事を抜け出し、ベランダへ。 ――荒れてるなぁ、今日は。 と一服しながら、自己分析したりして、そう、荒んだ気持ちの原因は自分でもよくわかっている。 ――カサブランカ・・・。 一昨日、「運命の相手」と有頂天になっていた、あの女性に約束をすっぽかされた件が、心に暗い影を落としている。 もう会えない、と思うとますます会いたくなる。この先、自分の人生にカサブランカ以上の女性が出現することはないのではないか。逃がした魚の大きさに、激しい喪失感が湧き上がってくる。想いは募るばかりだ。 ――ああ! カサブランカ! あの髪が、あの顔が、あの身体が、あの脚が、あのドレスが、あの仕草が、まざまざと目の前に甦ってくる。愛おしくてたまらない。 ――カサブランカ、君は今どうしているんだろう? その頃、カサブランカこと今村信子は―― 道場の中庭に面した陽当たりの良い縁側。今日は修行尼たちが坊主頭を保持するための、剃髪の日だ。 道場生は二人一組になって、剃刀で頭を剃り合う。 互いに剃りあげて、剃りあげられて、ゾロリと縁に居並んだ頭が、次々と青々仕上がっていく。 信子の姿もそこにはあった。 彼女は自分の次に新米の尼と組まされる。まだ十代の少女尼だ。今春高校を卒業してすぐにこの尼僧道場に入門した寺娘だという。信子より七つ八つ年下だが、道場での序列は年齢順ではなく、入門順だ。ゆえに少女尼は信子に対して、「お前」呼ばわりして、威張っている。信子の頭に剃刀をあてがい、 「お前の頭、ジャガイモみたいに凸凹して、剃りにくいんだよなァ。ピーラー使った方が早いんじゃないの」 と軽口を飛ばしてくる。 小娘に嘲られて、信子は内心忸怩たる思いでいる。それでも、見よう見まねで、首にタオルを巻き、腕まくりして、両手で水のはった洗面器を目の高さで捧げ持ち、神妙な面持ちで、剃り手に頭を預けている。 ジー、ジー、ジッジッ、ジィー ジー、ジジー、ジッ、ジー 剃刀が水で湿した坊主頭を擦り、短い毛をこそげ落としていく。 ジジー、ジッジッ、ジー ジッ、ジー、ジー、ジジー 他の尼さんたちは心地良さげに頭を剃られているが、まだ剃髪に慣れぬ信子は胸がモヤついて、落ち着かない気分でいっぱいだ。 ズイ、と少女尼が洗面器に剃刀を浸し、水中でかき回す。数mmほどの毛が、水の中で、グルグル渦巻いている。 ――せっかくここまで伸びたのに・・・勿体無い・・・。 信子は恨めしげに、目の前で浮き沈みする毛屑を見つめている。 そんな信子の寂寥感など、歯牙にもかけず、剃刀は滑る。 ジー、ジー、ジージッ ジジッ、ジー、ジジー 去年、たまたま読んだ雑誌で「尼寺の歳時記」という記事があり、尼僧たちがこうして頭を「浄髪」している写真を目にしたことがある。そのときには、まさか自分がそうした日常に放り込まれるとは、コンマ一秒たりとも考えてはいなかった。つい先週までは、頭の中の想像力という想像力を総動員しても思い描けなかった未来だ。 ジー、ジジジー、ジッ、ジッ、ジー ジー。ジー、ジッ、ジー、ジジー 洗面器の中の毛屑は、その量を増していく。 あれだけ長かった美髪も、もうこの世にはない。 感傷に浸っているうちに、スキンヘッドは出来あがった。 「ハイ、坊主一丁〜!」 と年下の姉弟子に、ペシッと頭皮を叩かれ、感傷タイムは断たれた。 ――なんで・・・なんで、こんなことに・・・ 肉が恋しい。酒が恋しい。煙草が恋しい。オシャレが恋しい。男が恋しい。そして、何より「アレ」が恋しい。 激しい渇きの中に、信子は居る。 話は遡る。 Just the girlとの再会の日を一週間後に控え、直人は夢見心地だった。 こんなことは初めてだった。 これまで数多の女性たちを獲てきた彼だったが、「カサブランカ」だけは別格中の別格だった。 何が何でも彼女を我が物にしたい。愛欲の炎はのたうち、たぎりきっている。 朝目覚めて、まずカサブランカのことを思う。夜眠りにつくときも、カサブランカのことを考える。朝と夜の間もカサブランカの幻影が絶えず頭に浮かぶ。 カフェでの昼食後、コーヒーを楽しみながら、ようよう都合できた二枚のチケットを確認するように眺め、ニンマリする。 彼女は今頃、どこで何をしているのだろう。テレビを観ているのだろうか。音楽を聴いているのだろうか。本を読んでいるのだろうか。食事を摂っているのだろうか。ショッピングしているのだろうか。散歩をしているのだろうか。シャワーを浴びているのだろうか。それとも他の男と―― つい余計なことを考えてしまい、 ――いけない、いけない。 直人は首をふり、ネガティブな想像を打ち消した。 カフェのテラス席から雑踏を見やり、道行く女性にカサブランカの面差しを重ねたりして、 ――ああ、カサブランカ・・・ と吐息をひとつ、心の中、想い人に呼びかける。 ――君は一体、今どこで何をしているんだい? その同日同時同分同秒、カサブランカ――本名、今村信子は、 ブイイイィィイイィイイン ジャアアアアアアアア バリカンを頭のど真ん中に入れられていた。 「あれぇ?」 話をさらに30分前に巻き戻そう。 「信子ッ! これは一体どういうことだッ!」 信子は父に激しく面詰されていた。 父の掌には錠剤と粉薬がのっている。どちらも違法な薬物だった。 ――マズったわ。 信子は心中舌打ちする。いつしか気軽に持ち歩くようになっていたため、発見されてしまったらしい。 通っていたクラブで、友人にすすめられ、ごく軽いノリで、使用するようになっていた。 常習性はないので、禁断症状に苦しむこともなく、随分と愉しませてもらっている。友人を介して、たびたび入手した。資産家の娘なので、クスリ代の工面など、造作もなかった。 それが上着のポケットに入れっぱなしになっていたのを、婆やが洗濯の際、気づき、病気の薬剤と思い込み、偶然通りかかった信子の母に「お嬢様はお身体の具合がお悪いのでしょうか?」と渡し、母を経由して、父の手に届いた。 信子にとって不幸なことに、父は社会奉仕で、違法薬物撲滅キャンペーンを行っている人物だった。その方面の知識は人並み以上にあった。すぐに娘の「犯罪」を知り、愕然とした。そして、怒り狂い、信子の部屋に乗り込んだ。 証拠を突き付けられ、信子は最初のうちは白を切っていたが、烈火の如く怒っている父の追及に、ついに開き直った。 「いいじゃない。こんなの、ちょっとしたファッションよ、ファッション。何マジになってんの。バッカみたい」 「バカはお前だ!」 バシッ、と頬を平手打ちされた。父に手をあげられたのは、生まれて初めてだった。 「何よ!」 信子はぶたれた頬をおさえ、目に涙をため、父に対して悪罵を投げつけたが、父は、もう娘の言葉になど耳を貸さず、携帯電話を取り出して、ボタンをプッシュしはじめていた。 「あら、警察に通報するの? 娘を警察に突き出すことが、パパにできるのかしら?」 信子はせせら笑った。 「とんだ恥さらしだわ。ドラッグ撲滅キャンペーンの旗振り役の娘がジャンキーだなんて、悪趣味なジョークにもならないわね。さア、さっさと110番して、アタシを警察に売ればいいじゃないの。さア!」 「○○寺さんですか? 私です。今村です」 父の声は落ち着きを取り戻していた。 ――○○寺? 父が檀家総代をつとめる菩提寺だ。 ――なんで、お寺になんか電話してるの? 父の意図をはかりかね、毒気を抜かれ、キョトンとなる。 「ええ、そちらの宗派で○×○(地名)に尼僧道場がありましたよね? はい、そうです。そこにウチの娘を入門させて頂きたいんです。明日からお願いします」 信子は自分の耳を疑った。だが、父は強引に話をすすめる。 「無理なお願いなのは承知しています。ですが、そこを曲げて、是非。ええ、厳しくても構いません。どうかよろしくお願いします。ええ、勿論頭も剃らせます。一年、いや、二年でも三年でも構いません。煮るなり焼くなりご存分に、と道場長様にはお伝え下さい。はい、ありがとうございます。無論それ相応の御寄進はさせて頂きます。何卒お願いします。はい、はい」 父は電話を終えた。信子は呆然として、言葉も出ず、口をパクパクさせるのみだ。 「わかったな?」 父は信子を睨み据える。 「明日から何年かお前は尼僧として、道場で厳しく躾けてもらって来い。どうやら、私は我が子の育て方を間違えたらしい。その性根を叩き直せるのは、もう仏様だけだ」 突然の宣告に、信子は頭の中が真っ白になった。思いがけぬ展開。どうしても実感がわかない。 立ち尽くす信子を置き去りにして、ただちに父の命令一下、使用人たちは、信子の剃髪の支度を整える。階下の空き部屋に椅子を据え、バリカンやケープ、ビニールシート、バリカン油、電気シェーバー、鏡などが運び込まれた。 「座れ」 と父に言われるがまま、ヘナヘナと用意の椅子に腰を落とした。 刈り手は父だ。ガサガサとケープを信子の首に巻き付ける。 そして、握りしめているバリカンのスイッチを入れる。 ヴイイイイィィイィイーン ヴイィイイイイィイィーン とけたたましいモーター音が鳴り響く。 ――もしかして―― 信子の頭に、ハッと閃くものがあった。 これは一種の「ドッキリ」ではないか。 そう考えた方が、――普段の父の温和さや、あまりに急すぎる尼僧修行話から推し量ってみても――自然だ。 きっと、 ・・・・・・・・・ バリカンを寸止めして、 「これからは気をつけるんだぞ」 「あ〜、驚いたぁ〜。もォ、ビックリさせないでよ、パパ」 ドッキリ大成功! ・・・・・・・・・ という流れになるはずだ。そうだ! 間違いない! ジャアアアアアアアア バサリ 「あれぇ?」 思わず寄り目になる信子。 とっさに鏡を見る。髪が額の分け目のところで、両断されていた。 ――嘘、嘘、嘘でしょおおぉぉ〜!! こんなの絶対にありえない!! しかし、二度目のバリカンは、 ジャアアアアァアアア、 バサリ、 とさらに裂け目を拡げた。サーッと青白い地肌が覗いた。 そして、躊躇なく三度目のバリカンが入る。 ジャアアァアアァァァ 刈り獲られた髪が、シュルシュル、と生き物のようにケープを這い、伝い、周囲に敷かれたビニールシートに落ちる。 バサバサッ! 一切の望みが髪と共に絶たれ、信子は呆然自失、落ち武者の如き自身の有り様を、鏡越し、間抜け顔で眺めるほかすべがない。 剃髪には信子の母が唯一立ち会った。夫に従順な彼女は、目に涙を浮かべ、娘の「門出」をただただ見守っていた。 ヴイイイイィィイィイィィン ジャァアァアアアァアアァ バサッ、バサッ 長い髪の毛が次々に断ち切られていった。 バリカンは野放図にその領土を拡大していく。青白くひかれた切通したちが、合併して面となり、信子の頭は、みるみる青ざめながら丸まっていく。 バサバサッ、バサバサッ 毎月何万円もかけてメンテナンスを怠らずにいた、漆黒のストレートロングヘアーが無惨にも頭から剥奪され、放逐され、芥と化し、ケープやビニールシートを、汚すだけの存在に成り下がる。 頭の半分以上が丸刈りになる。 ヴィイイイィイィィイン 父は信子の髪を握り、持ち上げて、バリカンの刃を根元から挿し入れ、 ジャアアァアアァアァ と刈る。 本日も日本全国で、女性たちが思い思いに髪を切っているだろうが、切った髪の量では、おそらくダントツで信子がナンバーワンだろう。 信子も今はもう観念して、バリカンに頭を明け渡して、刈られるがままになっている。 長い長い髪が、バリカンの動きに合わせ、グゥゥ、とめくれあがる。 ジャアァアアアァアアァ バリカンで可能な限り短い丸刈り頭に仕上げられた。 丸坊主にされ、涙が一筋、ツー、と頬を伝った。 しかし、これでは、まだ、尼僧道場のドレスコードをクリアーできない。 父はバリカンを電気シェーバーに持ち替え、それを信子の頭に押しあてた。完全なスキンヘッドにするべく。 ジー、ジー、ジー、 ジー、ジー、ジー いつもは父のヒゲを剃っているバリカンは、選り好みせず、信子の頭を縦横に快走するが、信子の方は不潔感をおぼえ、あまりぞっとしないでいる。が、今更忌避する気もおきない。どうとでもなれ、と自棄になって、剃らすに任せた。 ジー、ジー、ジー ジャリジャリジャリ ちょっと痛い。信子は顔をしかめる。だが我慢した。「我慢」なんてしたのは、何年ぶりだろう。 ジー、ジー、ジー ジャリジャリジャリ 実りなき掠奪は止んだ。 この日本に一人の若い尼(の卵)が誕生した。 頭は青々と、ツルツルと、剃り込まれた。信子は電光に照りかえる自らの坊主頭を、さびしげに見つめた。誘惑に抗しきれず、掌を頭にあててみた。水気を含んだ坊主頭はひんやりして、ぬめりを帯び、吸盤のように掌にはりつく。慣れぬ感触が気持ち悪く、あわてて手を引っ込めた。 父は慌ただしく刈った髪を集めると、庭に焚火を命じ、自らの手で火中に投じていた。 自慢だった髪が、バチバチと焼き尽くされるさまを、悲しく見つめながら、そして、その臭気を嗅ぎながら、信子は父の考えを察した。 ――証拠隠滅・・・。 薬物の使用の有無は毛髪を調べればわかるという。だから、一本残らず焼却する。そして、警察や麻薬の売人がウヨウヨしている世間から隔絶した場所に、信子を送り込む。そこでキッパリとドラッグと縁を切らせる。 だから、尼僧修行という荒っぽい方策を、父はとっさに思いついたのだろう。 信子は父の親心――自身の体面もあるのだろうが――に多少のありがたみを感じた。 でも、ジャガイモみたいな頭を鏡で確かめなおすと、ありがたがってばかりもいられない。もう少しスマートな方法もあったのではなかろうか。 ――こんな頭にされちゃったよ・・・。 それに、お嬢様の生活しか知らない信子は、翌日からの修行漬けの日々を思えば、ジャガイモ頭を抱えるしかない。 ――ああ! 何てこと・・・。ホント、クスリなんかに手を出すもんじゃないわね・・・。 後悔先に立たず、である。 歳月を経た。 「直人さん、どう? 似合うかしら?」 「ああ、とっても似合う。綺麗だよ、本当に綺麗だ」 花嫁に恥じらいつつウェディングドレス姿をお披露目され、直人は目を細め、何度も頷いた。 交際して一年、ようやく決意を固め、プロポーズに踏み切った。 名家の育ちらしく品もあり、しとやかで、美しい女性だった。 彼女の父が直人の事業を後援してくれるとの旨みもあり、ある種、政略結婚的な側面があるのは否めない事実だ。が、直人はあくまで彼女の人間で結婚を決めた。 両家の父母も親類も関係者も、この幸せそうなカップルに温かな眼差しを向け、微笑んでいる。幸福の絶頂に、今、直人は居る。 なのに何故だろう、 ――これで良かったのだろうか・・・。 花婿の側にもマリッジブルーはある。そう、あの「花」が心の奥の奥にまだ咲き揺れているから。 何度薙ぎ払ったか知れない。でも、その度、花は甦り、直人の心により深く根をはり、いよいよ咲き乱れる。 ――カサブランカ・・・ 忘れなければならない女性。それでも、彼女の面影が、こんなときまで、いや、こんなときだからこそか、脳裏に明滅する。 一夜会って言葉を交わしただけ、本名すら知らない。デートをすっぽかされ、完全に袖にされた。なのに、それなのに、どこかで完全に諦めきれずにいる自分がいる。そんな自己の未練たらしさに、気が塞ぎかける。 「直人さん、どうなさったの?」 と可憐な花嫁に心配そうに、顔をのぞきこまれ、 「いや、あまりに君の花嫁姿が美しくて、ね。ちょっとボンヤリしちゃったよ」 と直人はあわてて取り繕う。 あら、ごちそうさま、などとご婦人方が笑いさざめく中、トイレに、と口実を設け、麗しい花嫁の前から逃れる。 トイレで何度も顔を洗い、カサブランカの幻影を振り払おうとする。 つい今しがたの花嫁の純白のウェディングドレスが、頭の中、フラッシュバックして、 ――カサブランカ・・・。君も今頃はもう誰かの妻になっているのだろうか・・・。 その頃、カサブランカこと今村信子は―― 「ほらほらッ、大地の香水だよ!」 悠々と肥桶を担ぎ、畑に運んでくる信子。 すでに、道場の最古参となっている彼女は、新参尼たちの手本となるべく、率先して鍬を振るう。 長年の道場暮らして、脆弱だった身体は鍛えあげられた。実家からプロテインを送ってもらい、それを摂って、筋肉は隆々と増強された。 坊主頭にいかつい身体、日焼けと土で真っ黒になって働く彼女は、見た目、いわゆるガテン系へと変貌していた。 「こんな男か女かわからないような年増尼僧をお嫁に貰ってくれる、広い心の持ち主なんて、仏様だけよ」 と自虐ネタを口にして、豪快に笑い飛ばしていた。 道場で一年二年と過ごすうちに、そこの気風が気に入って、そのまま居ついてしまった。そろそろ戻って来い、と両親がしきりに催促の便りを寄越してきたが、ずっと断って、修養生活を続けている。 はじめはドラッグが恋しくて、激しい渇望に襲われもしたが、耐えた。環境的に耐えざるを得なかった。常習性のないソフトドラッグだったため、禁断症状もひどくなく、それでも毎日クスリのことを考えていた。ドラッグとは実に恐ろしい。しかし、いつしかクスリも完全に抜け、心身ともにヘルシーになっていった。そうなると、ややこしい俗世に戻る気も失せた。 畑仕事の後は、二人一組での剃髪だ。 信子は、まだ他人の頭を剃り慣れぬ新米尼を選んで、自分の頭を剃らせ、「練習台」になってやる。だから、頭はいつも傷だらけだ。 だが、信子の凸凹頭を委ねられる新米尼にとっても、ありがた迷惑な話で、本日の新参尼も剃りあぐねている。しかも、 「素早く剃る! モタモタしてんじゃないよ!」 と信子に叱咤され、若尼は余計オロオロしている。 「先達だからって遠慮してんじゃないよ! 意気地がないね! 肚に力を入れて強く! 強く剃れ!」 立て続けに叱り飛ばされ、若尼は、ゾリゾリ、と信子の年季の入った坊主頭を剃っていく。が、焦った結果、 「あっ!」 手元が狂い、ブシュー、出血。 「も、申し訳ありませんっ!」 とあわてふためく若尼を、 「いいから手を動かす! 構わず剃れ!」 とさらに叱りつけつつも、 ――こりゃあ、派手に切ったわね(汗) 頭皮にヌラヌラと血の感触。信子は苦笑いする。これも古参の役目だ。 さらに幾星霜を経た。 水平線遥か。太陽、熱く眩しく、青空には入道雲むくむく。 直人は砂浜のデッキチェアーに老いさらばえた身体を横たえ、パラソルの下、海辺でハシャぐ孫たちを、慈愛に満ちた眼差しで眺めていた。 ここは直人のプライベートビーチ、夏休み中の孫たちをこの海辺の別荘に招き、賑やかに過ごして、「成功者」としての晩年の或るひとときを満喫している。 四年前亡くした妻との間に三男二女をもうけ、妻の実家の支援もあり、事業は大成功、押しも押されもせぬビジネス業界の名士となっていた。 教育熱心だった母の薫育のお陰で、子供たちは皆、父の名を辱めぬ立派な大人に成長した。孫たちも次々と生まれた。 去年、長男に完全に事業主の座を譲った。引退後は悠々自適、この海辺の別荘で釣り三昧、読書三昧、写真三昧、と趣味にあけくれ、穏やかな余生を送っている。 「お祖父様」 孫の一人が砂浜を蹴って、駆け寄ってくる。 「ボク、泳げるようになった!」 「ホホウ、そいつはすごいじゃないか」 直人は口元をほころばせる。 「お前は運動神経がいいからな。もっと練習すればいい。水泳のオリンピック選手になれるぞ」 「イヤだよ、ボクはサッカーの選手になるんだから」 「そうか、それも、また良しだな」 直人は首肯した。孫は笑顔を残し、輝く日差しの中、また砂浜を駆けていく。 その背中を見送り、直人はグラスを傾け、バーボンを干した。 仕事に恵まれ、私生活にも恵まれ、素晴らしい人生だった、と思う。 しかし、こうやって回想にふけるとき、もう半世紀近くも前の、あの夜を、あの人を、直人は素通りできずに立ち尽くす。 ――カサブランカ・・・。 もう遥か遠い昔の記憶の住人のはずなのに、今でもはっきりと彼女の姿を思い浮かべることができる。亡妻には申し訳ないが、生涯最大の恋だった。甘さと苦さがないまぜになって、心華やぎ、心疼く。 今まで築き上げてきた全てと引き換えにして、カサブランカを得ることができるとしたら・・・などと愚かな問いを、自らに投げかけてみる。 その答えは―― ゴーン、ゴーン、ゴーン 岬にある書院造りの古刹から、梵鐘の音が鳴り響く。 ――惜しいな。 直人は肩をすくめる。これがチャペルの鐘の音だったならば、この「ポルトガルにありそうな海辺の町」の雰囲気にピッタリくるのに、といつも現実に引き戻され、興ざめた気分になる。 ――ああ、カサブランカ・・・。君は今頃どうしているんだい? 品の良い白髪の老婦人になって、自分のように余生を楽しんでいるのだろうか。それとも、もうこの世の人ではなくなっているのか。直人は遠い目になる。 バーボンをグラスに注ぎ足そうとして、 「うっ、ううっ」 直人は胸をおさえる。心臓を悪魔の冷たい手で鷲掴みされたようだ。 薄れゆく意識の中、 ――カサブランカ・・・カサブランカ・・・ 死神に抗うように、愛しい女性の名を繰り返す。 ――君は今どこで何をしているんだい? その頃、カサブランカこと今村信子、いや、今村妙信は――岬にある古刹の一室で、臨終のときを迎えようとしていた。 不治の病におかされ、死期を悟るや、ならば、と入院を拒み、本山から任せられた由緒ある、この岬の自坊で最後まで、尼としての生をまっとうしたいとの願いを貫いた。 身体は日に日に痩せ衰え、もはや余命は尽きようとしていた。それでも、妙信は寺の務めを怠らず、弟子たちの薫陶に励んだ。 末期にあたり、布団から上体をおこし、見苦しくないように、と弟子に自らの頭を剃らせた。 「剃髪は尼僧にとっての一番のお洒落なのですよ」 と身をもって、尼僧としての嗜みを、弟子たちに教えた。弟子は涙を流しながら、妙信の頭に剃刀をあてていた。 ジー、ジー、ジジ、ジー 剃刀は白髪がだいぶ混じった妙信の毛を削ぎ落としていった。 枕頭で泣きむせぶ弟子の一人に、 「何をしているのです」 と叱った。 「今日は貴女が鐘を撞く当番でしょう。もう時間です。早くなさい」 弟子は滂沱の涙を拭い、海辺の町に寺の主の死を知らせるが如く、目一杯、梵鐘の音を鳴り響かせた。 ゴーン、ゴーン、ゴーン その音を満足そうに聞き、剃りあがった頭を手でさすり、破顔一笑、 「あら、涼し。サッパリしたわ」 それが高徳の尼僧、今村妙信の最後の言葉となった。 同日同時同秒、直人も心臓の発作で、海辺にて、息をひきとった。 この世を去る二人の網膜の奥には、鮮やかに咲き誇る大輪の白い花があった。 (了) あとがき ずっと書きたかったお話です(^^)ようやく書けて大満足です♪ このストーリーのインスピレーションになったのは、愛読している「ギャグマンガ日和」に収録してある「うっかり和美」という4コマ漫画です。恋人との一世一代のイベントの日にたびに、うっかり別の場所で的外れなことをやっているヒロインの漫画で、それから思いつきました。あと、もうひとつ、かつて世間を騒がせた酒井○子さんのオクスリ事件です。世間の目から逃れていた酒井さんが某宗派の総本山の麓に居る、という情報に一部のネットユーザーたちから、出家and剃髪して証拠隠滅か?と冗談まじりの推測が発信され、それも、また今作のヒントになりました。 にしても、「親にキレられて坊主」ってパターン、自作に結構多いなあ(;^ω^) 「メルちゃん」もそうだし。・・・心理分析が必要か?! でも、読み返してみてすごく好きな一作です(^^) 最後までお読み下さり、ひたすら感謝感謝です! どうもありがとうございましたぁ〜!! |