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「ちょっと! 来島さんッ!」 「お局様」の剣幕に、名指された来島多恵(きじま・たえ)以外の社員たちも、一瞬首をすくめたものだ。 「はい」 「お局様」の御前におずおずと出頭する多恵。その首尾や如何に? 「ナニ、この書類? 適当もいいとこ、間違いだらけじゃないのッ!」 憤怒の形相で叱り飛ばされる。多恵は突き返された書類の、この箇所、この箇所、と「お局様」が指摘する部分を読み返して、顔面蒼白になった。 「すみませんっ!」 ひたすら恐懼し、頭を下げる。 「今後は気をつけますので」 しかし、「お局様」は追及の手を緩めない。 「この前注意したところも、また同じミスしてるじゃないのッ! 人の話、ちゃんと聞いてるのッ!」 「すみませんっ、次回からはもう間違えないよう、しっかりチェックしますので!」 「そんな上辺だけの反省されたって、全然説得力ないわよ! いつまで学生気分でいるのッ!」 「お局様」は最近、何年も付き合っていた年下の彼氏に逃げられたという噂。そのやり場のない怒りを、周囲にまき散らしている。自然、お世辞にも仕事ができるとはいえない新人の多恵は、目の仇にされている。「箸の上げ下ろしにも」とは、まさにこのことで、些細なケースにでも、衆人の中、激しく叱責される。 今回も平謝りに謝って、御前を引き下がろうとするも、 「ナニ、貴女のその机、汚いわね! だらしがないにも程があるわ!」 怒りの矛先は書類以外にも及ぶ。 「そんなゴチャゴチャしたデスクで仕事してるから、能率が悪いし、救いようのないミスもするのよ!」 「すみません・・・」 「お局様」の派閥に属している女子社員たちは、そんな多恵を声を忍ばせて、せせら笑っている。 多恵は書類の作成をやり直す。ミスしまい、ミスしまい、怒られまい、怒られまい、と仕事に取り組むが、そうした逃げ腰がかえって失策を招く。そして、また怒られる。 今春、雪深い寒村から、就職のため、都会に出てきた社会人一年生の多恵だが、もう挫折寸前だ。 一日に何十回も、故郷に帰りたい、と思う。今より収入が減っても構わないから、故郷の自然と人々に囲まれて、心やすらかに働きたい。 しかし、元気でね、頑張れよ、と郷里を送り出してくれた家族や友人たちのことを思えば、わずか数ヶ月で、やっぱりダメでした、とノコノコ出戻るわけにもいかない。多恵にだって意地がある。誇りもある。 だが、そんな意地もプライドも「社会」は土足で踏みにじっていく。 昼休みになっても懸命にデータと格闘している多恵に、 「来島さん」 と、また「お局様」の声が飛んでくる。 「は、はいっ」 と顔を上げると、 「貴女、臭いわね」 「え?!」 いきなりの変化球的なお言葉に、多恵はうろたえる。 「わ、私、臭いですか?」 周囲の視線を痛く感じながら訊く。 「何か酸っぱい匂いがする。気になるのよねえ。香水くらいふりなさい。身だしなみは社会人の基本中の基本よ」 「お局様」に無慈悲な顔つきで、そう言われた。彼女の両脇に侍る、取り巻きの若い女性社員二人が、こらえかね、クスクス笑っている。 「は・・・はい・・・すみません・・・」 ひきつった表情はお辞儀で隠せたが、声の震えは隠せない。そのまま席を立ち、トイレで大泣きした。 カントリーガールだった多恵はオシャレに疎かった。田舎っぽいなぁ、と自分のファッションスタイルを省みることもあったが、今風の華やかなメイクや服やアクセサリー等を前にすると、どうにも気後れしてしまう。香水も生まれてから一度もつけたことがない。 その日、会社帰り、デパートに寄って、安い香水を買い、翌日からつけた。 けれど、「お局様」の身だしなみ論は、香水だけにとどまらなかった。 「来島さんさぁ、その髪、どうにかならないの?」 と香水事件の二日後、出し抜けに注意された。 多恵の髪は肩下10センチくらい、染めたこともなく、パーマをかけたこともない、いわゆるバージンヘアーだ。フロントの髪を額で左右に分けている。後ろの髪は田舎娘の頃のまんま、後ろで無造作に束ねている。 仕事中、フロントの髪が横顔に垂れ落ちてくるのを、しきりにかきあげていて、目ざとい「お局様」は、ずっと以前からマークしていたようだった。 髪をかきあげながら仕事をするのは、効率が甚だ悪い、というのだ。 「これからはヘアピンで留めますので」 という多恵の譲歩にも、眉をしかめ、 「ボサついてるし、不潔っぽいのよねえ」 「お局様」の指摘するように、多恵の長い髪は日々の多忙で、手入れもぞんざいで、「ロングヘア―」というより、「伸ばしっぱなしの髪」といったカテゴライズが相応しいかも知れない。 「指導」する「お局様」のヘアースタイルはといえば、「ショートヘア―」というより、「短髪」とでもいった風情の刈り込み具合だ。その短髪に肥満気味の体躯は、女子プロレスラーを彷彿とさせるものがある。 「お局様」の脳内は、バリバリのキャリアウーマン=ショートへアー、との思い込みが厳然と在るらしく、そういえば、彼女の派閥の女子社員たちは皆、「お局様」への忠誠を証し立てるかのように、揃いも揃って、髪を短く刈り整えていた。 「お局様」はロングヘア―をよほど憎悪しているらしく、 「大体、髪を長く伸ばしている女なんて、男に媚び売ってるバカ女ばかりよ。会社なんてどうせ腰掛け、適当に仕事して、さっさと男つかまえて寿退社して、後は旦那の稼ぎで左団扇なんて甘っちょろい考えの寄生虫根性の連中なのよ。軽薄と無能が透けて見えて、ほんと、反吐が出るわ」 と声高に言い、ごく少数の閥外のロングヘア―女子社員たちの顔色を曇らせていた。 「来島さんはこれからもずっとこの会社で働くつもりなんでしょう?」 「はい、そのつもりでおります」 と多恵は答えるしかない。答えながらも、その脳裏には故郷の山河が浮かんでいる。 多恵の返答に「お局様」はいたく満足した様子で、急に猫なで声になり、 「だったらね、来島さんも髪、切ろうよ、ね? バッサリ切って、サッパリしようよ! ね?」 とヘアーカットを勧めてきた。 「い、いえ・・・あの・・・あのぅ・・・」 多恵は怯えきった。乱れ気味でも、大事な髪だ。切りたくない。どうあっても切りたくない。しどろもどろになる。それでも、言を左右にして、断髪を逃れようと粘り続けた。 多恵の煮え切らない態度に、「お局様」は次第に苛立ちを募らせ、とうとう、 「いいから、この目障りな長髪、今日中に切ってらっしゃいッ!」 と火山が大噴火、多恵の返事も待たず、強権発動、多恵の仕事を取り巻きたちに振り分けて、 「これで5時には退社できるわね」 と満面の笑みを浮かべ、 「いいわね、帰りに髪短く切ってらっしゃい」 と嬉々として命じた。 多恵は俯き、それでも泣くまいと唇を噛みしめた。 そんな多恵に、 「明日は短い髪の来島さんに会えるのね。楽しみにしてるわ」 と駄目を押して、「お局様」一派は去った。 多恵は一層唇を噛みしめた。涙が一滴、ポタリ、書類に落ちた。 せっつかれるまま、5時に退社する。定時退社なんて久しぶりだ。 しかし、アフターファイブの安逸を貪ってはいられない。 ――美容院、何処にしよう・・・。 虚ろな足取りで駅付近を徘徊し、カットハウスを探す。 ずっと長く伸ばしてきた髪を切るのは嫌だ。でも、もし切らずに明日出勤したら、「お局様」一派の祟りが恐ろしい。 ――ああ、どうしよう・・・。 雑踏の中、佇んでいたら、 ポン と誰かに肩を叩かれた。 振り返ると、 「依田(よだ)課長!」 会社の上司だった。厳しさと優しさ、熱さとクールさを併せ持つデキる男。その上、ハンサムで、しかも独身。女子社員たちが――そう、あの「お局様」ですら憧れの眼差しを向ける、そんな人物である。 「課長もお帰りなんですか?」 「まあね」 と依田はちょっと頭をかき、 「来島君、昼間、今日中に髪を切るように責められてたろう? それで――」 重い足を引きずるように社を出る多恵が心配になって、後を追った、とのこと。 「とりあえず、コーヒーでも飲んで、少し落ち着こう」 と依田は言い、二人、すぐそばのコーヒーショップに入店した。 温かいコーヒーを飲みながら話す。ようやく人心地がついた。 「お局様」の横暴について、 「“大奥”は男子禁制だからね。僕でもうかつには立ち入れないよ」 と依田は冗談めかして言って、苦笑していた。 「下手をすれば組織の和が崩れちゃうからね」 「部長も事なかれ主義なんですね。なんかガッカリです」 などと生意気な口をきいて、頬をふくらましてみせるくらい、多恵は依田に対して、いつしか馴れはじめていた。 「ああいうの、パワハラっていうんじゃないですか?」 「そうだね、じゃあ、訴訟でも起こすかい?」 「訴訟なんてしたら、なんか、職場での人間関係がギクシャクして居たたまれなくなっちゃいますよ〜。無理、無理です」 「君だって事なかれ主義じゃないか」 依田の逆襲に、多恵は口を尖らせて黙ったが、やがて、 「私、今の仕事、向いてないような気がするんです」 と打ち明けた。 「実家に帰ろうかな、って真剣に考えていて・・・」 「帰ってどうするんだい?」 「私ン家、雑貨屋をやってるんですよ。だからお店を手伝いながら・・・私、子供の頃から絵を描くのが得意だったんですよ。周りの人も、上手だね、って褒めてくれて・・・う〜ん・・・なので、その〜・・・実家で働きながら、本気でイラストレーターを目指してみようかなぁ、って」 依田は、うん、うん、と多恵の話にうなずいている。それが多恵を調子づかせた。声をひそめ、 「依田課長だから言いますけど――」 と前置きして、 「ここだけの話、うちの会社って、いわゆる“ブラック企業”じゃないですか。このまま、そのブラック企業で自分の才能とか人生とかが埋もれていくって考えると、気が滅入って滅入って・・・ホント怖いです。ゾッとします」 依田はやはり、うん、うん、とうなずきながら、多恵の胸中に耳を傾けている。 「確かにそうかも知れないね、わかるよ、その気持ち」 と同意してくれるに至って、多恵は百万の味方を得た思いだった。 ふと店の時計を見たら、もう7時近かった。 ――美容院・・・ に行くつもりは、髪を切るつもりは、とうに霧消していた。依田という後ろ盾をはからずも得たのだ。こうなっては、「お局様」たちも、多恵への干渉を手控えるに違いない。田舎にUターンせずに済む。 それでも、依田には内心を押し隠し、会社を辞めたい、故郷に帰りたい、と繰り返しては甘えてみせる。 「お母さんの漬けた沢庵が食べたいなぁ〜」 などと口にして、目頭に手をあて泣き真似したりする。依田の同情をさらにひくために。 が、 ――あれ・・・? あ・・・れ・・・? 急に床が、天井が、メリーゴーランドのようにグルグルと回りはじめる。周囲の風景が、ざわめきが、遠くなっていく。激しい睡魔に襲われる。意識が混濁し、五体から力が脱けていく。まぶたが閉じる、その刹那、依田が冷酷に微笑しているのが、網膜に映った。闇。多恵は昏睡した。 気が付けば、知らない部屋に居た。 まだ、頭がぼんやりしている。眠気と倦怠が残っていて、現在自分が何処にいるのか、どういう状況なのかが、はっきりと把握できない。 目を動かし、周りを見回す。 部屋は薄暗い。キチンと整頓された部屋だ。大きなベッドがある。大きなテレビがある。大きな本棚がある。本棚にはハードカバーの小説やビジネス書などが、ギッシリと詰め込まれている。サイドボードにはワインのボトルが並べられている。どれも高価そうなワインだ。水槽があり、シクリッドが十匹ほど泳ぎ戯れている。そこだけ、芒、と青く明るい。 なんとか意識を取り戻し、身を起こそうとしたら、 ガチャリ 手錠のようなもので後ろ手に拘束されていて、身体の自由がきかない。 はじめて自分が監禁されていることに気づき、ゾワッ、と身体中に悪寒が走った。 ――何これ?! なんで、こんなことになってるのっ?! 嘘?! い、一体何があったの?! 恐怖に蒼ざめる多恵に、 「おめざめかな?」 と聞きおぼえのある声。 依田が薄ら笑いで立っていた。 「か、課長!」 そうだ、この人とコーヒーを飲んでいて、眠ってしまったのだった。 「ここは?」 「僕の部屋だ」 「こ、これ、この手錠、はずして下さい!」 「ダーメ」 依田は子供でもいなすトーンでお道化てみせた。 はじめて、依田の罠にはまったことを悟った。コーヒー店で一服盛られ、彼の部屋に連れこまれ、身体の自由を奪われたのだ。 「その手錠、SM用具の専門店から通販で買ってさ、結構高かったんだよね」 「ど、どうして・・・どうして、こんなことするんですかっ!?」 「“どうして”か・・・。う〜ん、とりあえず何か飲むかい?」 「いりません!」 悪びれた様子もない依田に、多恵はマナジリを吊り上げる。 「動機は、僕のためでもあり、君のためでもある」 「はぁ? どういうことですか?」 「“断髪フェチ”って知ってるかい?」 「知りません!」 「髪を切ったり切られたりする行為に、性的な興奮をおぼえる人種だよ。マイノリティーだけど、確かにこの世界には存在している」 「・・・・・・」 「僕もそのマイノリティーの一員なのさ」 そう言って、依田は大きな散髪バサミを、多恵の目の前にチラつかせてみせる。 「ま、まさか・・・私の髪の毛を・・・?」 多恵の顔から血の気がひいた。 「そう、これから、この場で刈らせてもらうよ」 「た、助けてエェ〜!! 誰かッ!! 誰か、助けてええぇぇ〜!!」 と叫ぶが、 「いくら大声を出そうが無駄だよ。このマンションの防音設備は完璧だからね」 と依田は冷笑した。 そして、身をよじらせ抵抗する多恵のヘアゴムをはずした。バアッ、と長い髪が垂れひろがる。 「さあ、切っちゃうよぉ〜」 とハサミを握りなおす依田に、 「き、“君のためでもある”って、課長言いましたよね? なんで、なんで、こんなのが、私のためになるんですかっ!」 「あ〜ん?」 依田は豹変した。グイッ、と部下の髪をつかみ、力まかせにひっぱり、フローリングの床に引き据えた。 「お前に社会人の基本を叩きこんでやるんだよッ!」 歯止めを失ったように、ひっぱりあげた髪に、ハサミを入れた。ジャキッ! ジャキジャキッ! 「キャアアァアァッ!」 多恵は悲鳴をあげた。そんな多恵の目の前に、依田はわざと切り取った髪を放り捨てた。バサッ! 「あの女の言う通り、身だしなみは社会人の基本中の基本なんだよ! こんなボサボサ髪で毎日出勤して来やがって!」 さらに、もう一束、右サイドの髪を、ジャキジャキ、と切った。 「キャアァアアァ!」 心臓が止まりそうなほどの衝撃。 「清潔感のある髪型にしてやるよ!」 という、その言葉を実行するが如く、今度は左の髪を切り裂く。 「やめてええぇぇ! やめてえええぇぇ! か、髪、切らないでええぇ! も、もう、髪切らないでええぇぇぇ!」 と涙を流し、哀訴するが、依田は聞く耳持たず、もっと切る。ジャキッ、ジャキッ! バサッ、バサッ、と黒く長い髪が、一束、一束、床に倒れ伏す多恵の眼前に積み重なって、山となっていく。 「う、うう・・・あ・・・ああ、うっ・・・うう・・・」 多恵は嗚咽するのみ。 「何が“パワハラ”だ! 仕事もろくにできねえ癖に!」 依田はすっかり逆上していて、多恵の髪を乱暴にひっぱり、ハサミの両刃を跨がせ、容赦なくグリップに力をこめた。刃が閉じる。ジャキッ! また、ジャキッ! 「お前のミスの尻拭いを誰がしてると思ってるんだ! お前の代わりに誰が上の連中に頭を下げてると思ってんだ! こっちの苦労も知らずに、“今の仕事は自分に向いてない”だと? ふざけんな!」 ジャキジャキッ! ジャキジャキジャキッ! 後ろの髪もウナジが覗くくらい切り詰められた。 「うっ・・・ううっ・・・す、すみません・・・」 涙で顔をグシャグシャにして、多恵は詫びた。 が、依田は許さない。 「“ブラック企業”だと? 一丁前に会社を批判する前に、ちゃんと仕事をおぼえろッ! “イラストレーターを目指す”だと? 落ちこぼれの分際で、甘いこと言ってじゃねえッ!」 ザクザクと前の髪が歪なパッツンに切り揃えられる。二度三度とハサミは多恵の前髪を横断する。眉毛が出、額が出た。切り髪が涙で濡れた顔に貼りついた。 「うっ・・・ううっ・・・」 長い髪が余さず収穫された。 落髪の黒い茂みの上、多恵は跪かされている。 「お客様、こんな感じでよろしいでしょうか?」 と依田はお道化た調子で、多恵の鼻先に大きな鏡を突き付けてくる。多恵は恐る恐る鏡を見た。 「キャアアアァ!」 無残なザンバラ髪の女がそこにはいた。申し訳程度の薄化粧は涙で崩れ、顔面には細かな髪が付着し、泣き腫らした目蓋でこちらを見つめ返している。 思わず鏡から目を逸らし、俯く多恵。こんな頭では表を歩けない。 「ここからが僕の腕の見せ所でね」 依田は散髪バサミをチャキチャキいわせながら、ニンマリ。悪夢はまだ終わらないようだ。 そして、ジャキジャキ、ジャキジャキ、とふたたびハサミは髪に入り、断髪は再開される。 「こう見えて僕は結構器用でね、“経験”も重ねたし、ヘアーカットは玄人はだしなのさ」 多恵はもう観念して、無抵抗、依田に切られるままになっている。 依田は存分に愉しむ。勢いがつき、一房、一房、深く切り込み、縦、横、とハサミを入れ、はねまくっているザンバラ髪を摘んでいく。黒い茂みは、その嵩を増していく。 両耳が出た。額もさらに大きく露出した。 依田のカット技術は、本人も自賛する通り、素人の域を超えていた。 その技をフルに使い、依田は肉食獣が獲物の屍肉を喰らうが如くの、獰猛さで、多恵の髪を短く、もっと短く、さらに短く、ガッツリと刈り込んでいく。ジャキッ! ジャキジャキジャ、キ、ジャキッ! ほとんど坊主に近いベリショにされた。 鏡の中、超短髪にされた自身の有り様を、多恵は光を失った眼で眺めている。 そうした多恵のヘアースタイルをためつすがめつして、依田は、 「襟足が気に入らないなぁ」 とひとりごち、 「刈り上げたいなあ。よし、刈り上げよう! 待ってて、バリカン取ってくるから」 「刈り上げ」「バリカン」という単語に、多恵は放心状態から我に返り、あわてふためいた。 「やめてっ! 刈り上げなんて嫌っ! バリカンなんて嫌っっ!」 と、とっさに上半身を床に倒した。そのまま尺取虫のように、身体をくねらせ、黒い茂みを這いずって、その場を逃れようとするも、 「何処に逃げるんだい? 逃げ場所なんて、何処にもありはしないよ」 依田は握ったホームバリカンのスイッチをONにしていた。 ブイイイイイイイイン ブイイイイイイイイン バリカンはけたたましく鳴り、多恵の恐怖心を一層煽りたてる。 ブイイイイイイイイン ブイイイイイイイイン 「嫌っ! 嫌っ! 嫌アァァ!」 多恵は生きた空もなく泣き叫び、ジタバタと身をよじらせ、抵抗せんとする。 「刈り上げは、刈り上げは堪忍してエェェ! か、堪忍! 堪忍してエェ!」 依田は、血相を変えてあがきにあがく多恵を嘲笑して、 「ほら、頑張れ頑張れ、大急ぎで逃げなきゃダメだよ〜。さア、逃げろ逃げろ」 とバリカンのスイッチを入れっぱなしのまま、囃したてる。 ブイイイイイイイイン ブイイイイイイイイン その鳴り止まぬモーター音は、多恵の恐怖心をマックスまで跳ね上げ、多恵は切り髪にまみれて、必死の形相で、床を這いずり回る。 「さあ、多恵チャン、バリカン入れよ、バリカン入れよ。サッパリしよ、サッパリしよ」 「嫌、嫌っ! 刈り上げはダメええぇぇ! バ、バ、バ、バリカンとめてえぇぇー!」 「面倒くさい女だなあ」 多恵のあまりの醜態に、依田は苛立ちと呆れをちょっとばかり抱いたようだった。 「ゆ、ゆ、許してけろ! 許してけろ! わだす、バリカンだけは嫌ンだあぁ! 一度も使われたことねンだあぁ!」 ついお国言葉を口走る多恵。 「じぇじぇじぇ(笑)、多恵チャン、バリカン処女なんだ〜。ますます燃えちゃうなあ」 ブイイイイイイイイン ブイイイイイイイイン 依田は何度も多恵の首筋にバリカンをあてる真似をして、そのリアクションを愉しんでいる。が、やがて、それにも飽いて、 「じゃあ、ホントにやっちゃうよ。あんまり動くと禿げちゃうよ〜。尼さんコースになっちゃうよ〜」 と警告し、ゆっくりとバリカンを、ピンピンはねてまとまらずにいる襟足に押し込み、一気にボンノクボ辺りまで、削り上げた。 ジャアアァアアアアァアア! 「キャアアァアアァ!」 髪と口が同時に悲鳴をあげた。 「いいね、その反応、最高だよ〜。クックックッ」 依田はご満悦だ。 またウナジにバリカンが押し当てられ、 ジャァアァアァァア! ジャアアァアアァァ! と削りに削り上げられる。 生まれて初めてのバリカン経験に、多恵はショックの余り口もきけず、いつしか大人しくなって、刈られるに任せていた。 「あれれ? もう反抗しないの? つまんないなあ」 バリカンの刃が熱い。長いことフル回転していたせいだろう。その熱がバイヴレーションを伴って、後頭部を遡っていく。 熱く震えるバリカンの二枚の刃が、髪を排除し、タワシのような刈り跡を刻印し、上へ下へ、右へ左へ、と多恵の頭を蹂躙していった。 「丁寧に刈ろうね、多恵」 ジャアァアアアァアアァ、ジャァアァアァア、ジャアアァァアアァ―― ジャアアァアアァ、ジャァァアアァアア、ジャジャアァアアアアァ―― バリカンの浸食は実に三十回以上にも及んだ。 多恵の内で、耐え難いはずの苦痛は、気づけば甘い快楽に変化していた。 バリカンの刃のように、自分の身体も熱く火照っていた。 痴れ顔で恍惚と涙を流し、ヨダレを垂らし、下半身は下半身で、ラブジュースが蜜のようにトロトロと滴っている。 「終わったよ」 と依田の声が言った。 ――もう終わっちゃうの? と多恵は陶酔の中、名残惜しく思った。 「さあ、シャワーを浴びておいで」 と依田は命じた。 命じられるまま、右の奥、と教えられた浴室で、落髪と体液にまみれた身体を洗い流した。 浴室の鏡で、「社会人らしく清潔感にあふれた髪型」をチェックした。あの「お局様」より短い髪になってしまっていた。 後頭部は半分近くがバリカンの餌食となり、芝生みたくビッシリと刈り上げられていた。 激しい羞恥と無上の恍惚がないまぜになった奇妙な感覚を持て余しながらも、多恵は自分の気が済むまで、刈り跡を撫で続けた。 シャワーを終え、浴室を後にすると、脱衣所に真新しいバスローブが用意されていた。 それを身にまとい、脱衣所から出ると、「宴」の支度が整えられていた。 散乱した長い髪、髪、髪、その上に北欧製の小さな木のテーブルと椅子が二つ置かれていた。テーブルの上には、チーズや生ハム、クラッカーやサラダなどの肴が並んでいる。 依田はワインの壜を手にしている。多恵が現れると、いつもの「理想の上司」の顔に戻り、 「座りたまえ」 と椅子をすすめ、自らが作りあげたヘアースタイルに、 「うん、何処にだしても恥ずかしくない完璧な髪型だ」 と満足げに相好を崩した。 「シャトーマルゴーの1990年だ。今夜の記念に奮発しよう。君の新社会人としての再出発を祝して乾杯といこうじゃないか」 とビンテージワインをあけ、まずは多恵のグラスを満たした。 多恵は眉ひとつ動かさず、無言で宴の席に腰をおろした。 依田の方は饒舌で、 「その髪型は少しでも伸びると見苦しくなるからね、これからは定期的に僕が刈ってあげるからね」 とフェチの目をギラつかせるが、多恵は沈黙で報いた。 「乾杯」 と依田はワイングラスを持ち上げる。多恵も持ち上げる。二つのグラスが、チン、と鳴った。 マネキンのような無表情でいても、内側では消しがたい炎が激しく燃え盛っている。 「・・・・・・」 二つの選択肢が多恵の心の中、鬩ぎ合っている。 依田の異常性癖をネタに彼を脅し、復讐するか。 依田の異常性癖に従属し、その奴隷になるか。 ――とりあえず―― 多恵はグラスを口に運んだ。ワインを味わってから考えても遅くはあるまい。 (了) あとがき 自作では珍しいOLモノです。しかも強制断髪です。いかがだったでしょうか? あまり書いたことのないジャンルだったので、書き始めた頃は、大丈夫か、と心配だったのですが、結構うまい具合に進行できて、ホッとしています。自分の中でもかなり好きなお話です!! 最後までお読み下さり、本当にありがとうございました♪♪ |