結姫、心願成就! |
(一)四条の尼御前の述懐 今朝、久方ぶりに頭の毛を剃った。 自分で云うのもアレだけれど、剃りたての青々としたツムリは、アタシの内面の生臭さを隠すかのように、清らで、なかなかに美しく、鏡で確かめるたび、ウットリする。 今では、四条の尼御前、といえば、京童たちも噂する艶聞の主だ。 思えば、貧乏公卿の末流であるアタシの半生は、不遇の一語に尽きた。 位もなければ、銭もなかった。 どんな男とも臥所を共にした。遊び女の如き真似さえした。法を破ることも辞さなかった。例えば偽物の壺を高値で売りつけたり、例えば盗賊の手引きをしたり。全ては生きるためだったのだ。 そんなアタシに思いもかけぬ僥倖が舞い込んできたのは、一昨年の暮れのこと。 母違いの姉が死んだ。 これが幸運の始まりだった。 亡き姉はさる有力氏族と繋がりがあり、それなりに財も領地も持っていた。かといって、アタシに単衣の一枚もくれやしなかったが。 しかし、その死によって、数多有していた荘園のひとつが、アタシの許へ転がり込んできたのだ。 姉よ、とアタシは生まれて初めて姉に感謝した。死んでくれてありがとう! 掌を合わせたくなるような気持ちだった。 これでアタシも所領を得、後はそのあがりを頂戴して、一生安楽に暮らせる。 ・・・と喜んだのも束の間、一族の長老たちが、アタシの相続に待ったをかけた。 無条件で所領を継がせるわけにはいかぬ、という。 「髪を切り、墨染をまとって、尼になり、姉の供養をせよ」 そういう形で所領を受け継ぐべし、という。当節流行りの遺領法師というやつだ。 「尼になれ」と言われて、アタシはちょっとたじろいだが、このまま俗体でいても、良いことはないし、この機会をむざむざ逃す手はない。ゆえに覚悟を決めた。尼になって、姉の遺産を頂戴しよう。 それでも、アタシも女、愚図愚図と出家を先延ばしにしていたら、 「疾う髪を切れ! 切らぬなら、荘園は他の者に渡すぞ」 と長老に叱られ、あわてて、さる道場の戸を叩き、事情を打ち明け、そこの法師に髪をおろしてもらった。 仏前の板の間に、角盥や香炉などが置かれ、申し訳程度に得度の支度が整えられていた。 筵が敷かれ、アタシはその上に座らされた。 「では、参りますぞ?」 と、僧はザクリとアタシの髪に鋏を入れた。 アタシとしては、剃髪のツルツル頭でなく、尼削ぎ(オカッパ)に切り揃えて済ませるつもりだったのだが、僧は、 「否々、真の道心とは、全ての髪を剃り毀ちてこそ、生ずるものでござる」 と頑なに言い張り、有無を言わさず、 ゾリゾリ、ゾリゾリ とアタシの頭は、剃刀で剃りあげられた。 「道心」など初めからないアタシはただ目を丸くして、オロオロするばかり。 これは剃り手を間違えたかな、と後悔したが、もはや遅い。ゾリッ、ゾリ、ジー、ジジジー―― すっかり寒々とした頭にされたアタシに、僧は法名を授けた。 丸い頭を撫で、 ああ、尼になったのだなあ と姿を変えた我が身を、深々と感じたものだ。 しかし、髪の代わりに富貴を得た。 暮らしは豊かになった。 日々の米塩の心配をする必要もなくなった。 有髪だった頃より、男子(おのこ)の出入りも頻繁になった。 安公卿や僧侶などが、食べ物や酒、わずかばかりの小遣い銭を目当てに、忍んでくる。 こちらも見目良き男子を選んでは、伽をさせ、悦楽に耽る。 男子たちは、愛でる髪のなきアタシの頭を撫でまわしては、 「なんと良き形のおつむりでおじゃらぬか」 「かえって艶めかしい」 「目にも鮮やかな青さがこたえられぬ」 と誉めそやす。アタシとしても、ツムリが性的な快をおぼえる箇所になったようで、えもいわれぬ心地で、触れられるに任せている。 男子ばかりではない。 女子(おなご)たちもアタシのツムリに触りたがる。 「触ってもよろしいか?」 と怖々、アタシの頭に手を伸ばし、 「げに心地良き哉」 とキャッキャッと笑い躁いでいる。 中でも、少納言頼正卿の御息女は異様だった。 「まあ、なんと清らかなこと」 と炯々と目を光らせ、法師頭に何度も手をやって、月に何度剃るのか? 夏は涼しいでしょう? 長い髪の頃より若やいで見えるのではないですか?などとさんざ問われに問われ、アタシも閉口したものだ。一体なんなのかしら、あの娘は? ともあれ、アタシの運は開けた。 金銭もある。男子もいる。 今宵も忍んでくる男子を待ち、室内に香を焚き染める。 人生は上々だ。 あな、ありがたや、ありがたや。 (二)少納言頼正の嘆き 娘の結(ゆい)が出家することに相成り、ワシは毎日悲嘆にくれている。 確かに娘は、結は少将殿との恋に破れた。しかし、その失恋が出家の因とするには、ちょっと無理があるように、ワシには思えてならぬのだが。 結は親のワシでさえ見惚れるほどの美貌だったし、学問やら音曲の嗜みもあり、才知にも長けていた。ゆくゆくは良き殿御――つまりは官位も富もある男子に縁付かせようと目論んでいたのだが、まさか仏門に入ってしまうとは、ああ、なんたること、なんたること・・・。 幾度も翻意をうながしたが、あれは強情な娘だから、とうとう自分の決意を押し通してしまった。 ワシとしても、最後には、まあ、一人出家すれば九族天に生まる、と仏典にもあるし、などと自らを慰め、とりあえずは娘の望むようにさせた。若い娘のこと、一時の気の迷いだったと、すぐに心変わりして、還俗したいと言い出すやも知れぬ。そう、高をくくってもいた。 しかし娘が頭髪を全て落として、ツルツルの青頭にしたいと言い出したのには、驚き呆れた。 尼削ぎでよいではないか、となだめたが、結は頑なに首を振り、 「完全な剃髪こそ、尼僧のあるべき姿でございます」 とにべもない返事。 地に引きずるほど伸びた髪に目をやり、ワシはため息をつく。せっかくここまで伸ばしたものを、根こそぎ断つとは、なんと勿体なや! 大体、子女を出家させるのは、何かと物入りだ。 結の場合も例外ではない。 出家といっても結は家を出て、入寺するわけではない。これまで通り、自邸で暮らす。但し、朝夕の勤行などのため、邸内に持仏堂を建てる。この増築に銭が羽でも生えたかのように、飛んでいく。 数か月前には、思いもかけなかった娘の出家と、それに伴う出費、ワシとしては頭が痛い。 そんなワシの胸中などどこ吹く風、結は、 「もうすぐワラワは頭を丸めるのよ」 と侍女たち相手に躁いでおる。 「ツルツルの青い頭になるのよ」 と屈託がない。 それにしても、あれほど出家を望み、剃髪にこだわっている割に、結には求道の心が薄いように思える。 看経も諷経もせぬし、仏前の閼伽を替えるのも侍女任せ。この間、出家の戒師を勤めて下さる僧正様に引き合わせたが、僧正様のありがたいお言葉にも、 「左様でございますなぁ」 「まことに」 「まあ、それはそれは」 と気のない受け答えばかりして、後で、 「お鼻の大きなお坊様だこと」 と陰口言って、笑い者にしていた。天下の高僧も形無しだ。 どうにも若い者の考えていることは、よくわからない。いつの世もそうなのかな? その娘も明日はいよいよ得度して、仏門に入る。 これから結の許に参る。俗人の結と会うのは、今日で最後になる。はてさて、どんな顔をしてよいのやら。 やれやれ、やれやれ。 (三)頼正御息女・結姫の胸中 昨夕、父上が御挨拶に見えられた。ワラワの俗世最後の姿を眼に焼き付けたいのだ、との仰せだった。 ことここに至っては、ワラワの得度をお認めなさるより他にないのだけれど、だいぶ御未練な体であった。還俗、という語を三度も口になされていた。 また、髪についてのお話もあった。 「尼削ぎでよいではないか」 と、これもまた、いつものお言葉を賜り、ワラワもうんざりしたが、それでも、 「もはや覚悟しております。剃髪こそ尼のあるべき形、どうぞお悲しみ下さいますな」 とハキと返答したものだ。 ていうかさ、あのさ、婢女みたいな言葉使いしちゃうけどさ、いい加減わかってよ、オヤジ殿、剃髪は譲れないの! 周りの衆は、 「若い身空でなんとまあ、思い切ったものでございますなあ」 だの、 「それだけの麗しき御髪を剃り毀つとは、勿体なや」 だの、とワラワの出家を惜しみ、もしくは賞賛するけど、それがワラワにとっては少々こそばゆい。 そもそもワラワは仏の道にはさほど興味がないのよね。 お経より今様の方が好きだしさ。 仏も昔は凡夫なり〜、とか歌っちゃってるし〜。 じゃあ、お前は何故出家するのだ?と問われれば、 剃髪したいから とコソと本音を吐こう。 あれは半年ほど前になるか。 近頃何かと京雀の口の端にのぼる四条の尼御前とはからずも会い、色々物語りしたのね。 ワラワは尼御前の話よりも、かの女性(にょしょう)の青くツルツルに剃りあげられた頭に強く心を惹かれたの。 目に染みるほどの青さ、女子のワラワでさえも見惚れる位艶やか! 爽やか! 何より涼しそう! 軽そう! ワラワはすっかり夢中になり、尼御前のツムリに触れさせてもらった。剃髪の触り心地を堪能したものよ。 そのツムリの持ち主である尼御前に、剃髪について、三つ四つ五つ、六つ、と立て続けに問いに問い、尼御前もだいぶ迷惑顔だった。何よ、この娘御は、と呆れたような気色だったわ。 あの日以来、ワラワは剃髪の虜。 寝ても覚めても、考えるのは剃髪のことばかり。 この髪を、と思う。この地に届くほどの長い黒髪を、全部バサリと剃り落としてしまったら、どれだけ気持ちが良いだろう、と。 思えば思うほど、髪がわずらわしくなる。爽爽(さわさわ)と丸めてしまいたい! 尼になれば頭を丸めることができる。 頭を剃(た)れたければ尼になればいいじゃない。 でも、さて、尼になるにしても口実が要る。 そこでワラワは恋仲だった少将殿を出しに使うことにした。 少将殿との恋は、お互い、一時の戯れにすぎなかった。何度か歌のやりとりをして、数夜を共にしただけの間柄だ。 しかし、どうにも後味の悪い別れ方をしてしまった。洛中でも一寸噂になったらしい。それが心の中わだかまっていた。 取るに足りない恋だったが、ワラワは世を憂い、恋の破局に心を煩わせる悲劇の姫君を演じた。 そうして折を見て、出家したい、と父母に訴えた。 母や侍女たちは恋に破れた傷心の余りの決意だろうと、ヒソヒソ話していた。ワラワの思惑通りだ。 父君だけは、 「そんなものかな?」 と不思議がっていたらしい。男女の道に疎い父の方が、逆にワラワの心中をわかっていたのが、少し可笑しかった。 出家したら、恋の道は断たれる。 けれど、一向に構わない。 ワラワは男子(おのこ)には大して興味がない。いや、かと言って無論女人に関心があるわけでもないけどさ。 熱き恋など面倒なだけ。 そんなものより、髪を断てる喜びの方が百倍も大きい。さあ、剃るぞ〜、ジョリジョリと! 男子相手に恋の駆け引きをするより、自分の部屋にこもって書を読んでいる方が、ワラワの性に合ってるしね。 どうしても女子としての欲望がムクムクと湧き起こったら、四条の尼御前のように――おっと、いけないいけない。まあ、そのときはそのときで、ね。うふふふ。 昨日の宵は、ワラワが物心ついた頃からずっと仕えてきた老女が、夜通しワラワの髪を梳ってくれた。 「かように美しい御髪を剃り毀ちてしまわれるは、なんたること、なんたること」 と老女は櫛を使いながら、泣いていた。 老女の涙にワラワも幾ばくか胸に迫るものがあったけれど、 「泣かないでおくれ」 と老女を慰めた。 「悲しみの涙は出家の障りとなるでのう」 今朝は得度の前に、湯浴みをして身体を清めた。 はやくカシラを剃(た)れたい。 導師の僧侶はすでにみえられ、仏前に控えていらっしゃる。あの大きな鼻のお坊様・・・プククッ、思い出しただけで笑ってしまう。 此度の「門出」に、ワラワはひとつ趣向を用意した。 件の少将殿を得度の式にお招きしたのだ。 別れたとき、悶着があり、ワラワも笑い流しきれず、一寸意地悪をしてやりたくなったのよね。貴方のせいでワラワは仏門に入るのよ、ってね。嘘だけど。 少将殿にしてみれば、さぞや居たたまれぬ心地であろうよ。 にしても、あの人、列席を遠慮するかと思いきや、ノコノコと参上して、座に連なっている。なんて厚顔なお方なんだろう。 げに、男心は秋の空。 さて、いよいよ、式が始まる。 この髪ともお別れ。 ツルツルになるのじゃ! 愉快、愉快。 (四)盗人少将殿の問わず語り 由良のとを 渡る船人 舵をたえ 行くへも知らぬ 恋の道かな と不図、名歌が頭の中、浮かんでしまった。 まこと、恋の道とは何処に如何辿り着くかはかり知れぬこと、限りなし、だ。 結姫は今は静かに、掌を合わせ、瞑目し、高僧らの読経に聞き入っているふう。 まさか結姫が落飾に及ぶとは、思いもかけなかった。 更に、このワタシが結姫の得度の式に招かれるとは、いやはや、はてさて、一体どうした巡り合わせであろう。 結姫がワタシとの恋に破れたせいで出家する、という噂を耳にしたときには、俄かには信じられなかった。 ワタシにとってはかりそめの遊戯、結姫にしてもそれは同じはず。お互い、納得尽くだったろうに、何ゆえに? それとも、この方はこの方で、内に激しく燃ゆる想いがあったのだろうか。 結姫との数夜の契りを――得度の式中に慎みのないことだが――思い返してみる。 ほっそりとした手足、吸い付いてしまいそうな柔らかな肌、甘い唇、浮き立つような当世風の香のかおり―― 遊戯としては、悪くなかった。 然れども、耽溺するほどではなかった。 ワタシの車は、姫の邸から遠のいた。 我らは別れるべくして別れたのである。 けれども、その際、私はシクジリをやらかしてしまった。 結姫に送る別れの歌、気の利いた句ができず、そこで友人が作った歌を、そっくりそのまま拝借して、結姫の許に届けさせたのだ。 ごくごく内々でのことゆえ、気づかれまいと高をくくっていたらば、京童の口とは、げにも恐ろしや、忽ち我が不名誉な所業は世間に広まってしまった。 世人はワタシのことをば、 歌盗人の少将殿 と言いはやしているそうな。まことのことゆえ、文句のつけようがない。 だが、誰よりも面目を失ったのは、結姫であろう。何せ、恋の終わりに送られた歌が、盗作だったのだから。 そのワタシの目前で尼になるとは、さてもさても、結姫、余程ワタシに恨みがあるのだね? 最初、得度の式に呼ばれたときには、当然お断り申し上げるつもりだった。 いくら、面の皮の厚い、と評されるワタシでも、とても居たたまれたものではない。 しかし、お受けしてしまった。 元々はワタシ自らが蒔いた種。己が不実の結果。ゆえに甘んじて、「罰」を与えられねばならない。 さりながら、我が胸中には、いつしか或る魔性の存在(もの)が巣食っていた。 「いつしか」などと空とぼけてみせたが、発端は、結姫が剃髪すると聞いたときだ。 結姫は尼削ぎではなく、本式に頭を丸めるという。どういう心境であろう。 その報に、ワタシは思わず唾(つばき)を飲み込んだ。 知り合いで尼になった女性は何人かいるが、いずれも、肩辺りで切り揃えた尼削ぎで済ませていた。 しかし、結姫は髪を剃る。全て剃る。根こそぎ、残らず剃る。 このワタシが閨で愛おしんだ髪、丈長く美しい髪、女にとって何物にも代えがたい髪、その髪を断つ。そしてツルツルの法師頭になる。 そのさまを思い描けば、奇妙な欲望が、奇怪な昂ぶりが、湧き上がる。下卑た物言いをすれば、一物がそそり立つ。 斯様な我が内の魔性のものを、持て余していた折も折、結姫から使いの者が駈け込んできた。 拒もう、拒まねば、と心中繰り返しながらも、 「参上仕る」 とつい返事をしてしまった。 結姫への贖罪の念あり、と自らに言い訳しつつ、そう今だって―― 本当は魔性のものに屈してしまったのだ。 女人が頭をツルツルに剃りあげられるさまを間近で拝する機会を逸したくなかったのだ。 そんな自らの内なる闇が、自分でも怖くもなる。 式は厳粛のままに進んでいく。 いよいよ剃髪の儀に入る。 師僧が剃刀を執る。 剃刀はギラギラと見事に光っている。今日の為に、念入りに研ぎあげられたに相違ない。 それにしても、なんと大鼻の僧だろう。 役僧たちが剃髪の偈を唱えはじめる。 大鼻の高僧は盥にはった水に、剃刀を浸した。 そうして、結姫の肩の辺りから、ゾリゾリ、ゾリゾリ、と黒髪を断ち切っていった。 バラリ、と丈長き髪が右から左へ削げ、五尺はあろう切り髪が、土佐紙を敷いた桐の盆に、 婆娑、 と載せられた。 残された髪は結姫の肩上で、横一文字に揃えられている。 ワタシは己が息遣いが荒くなるのを、懸命に堪えようとしていた。 当の結姫は自若として、剃刀を受けた。口元にはほんのり笑みさえ浮かんでいる。なんとも潔きことだ。 結姫が脇息にもたれ、頭(ず)を低くした。 役僧の一人が漆塗りの器を傾け、姫の頭の頂に、たらりたらり、と水を注ぎかける。 濡れた髪に、高僧は剃刀をあてた。 そうして、ゾリゾリと小刻みに剃刀を動かす。 頂の髪が鋭き刃によって剥かれ、青白き地の肌が露わになった。 高僧はもそっと剃刀を動かす。 頂の髪がまたたく間に無くなってしまった。青く、白く、円く、清げに光沢を放っている。河童の皿のようだ。 ワタシは不覚にも、身を乗り出しかけたものだ。 河童の如き髪にされた結姫に、激しき情欲をおぼえた。嗚呼、許されるのならば、この場で抱きすくめたや! 結姫は斯様な邪な参列者が居るとは、露知らず、目を閉じている。剃刀のひと剃りひと剃りを愉しんでいるかのようにも、ワタシの両眼には映る。 剃髪は続く。 高僧は次に、右の髪を剃りはじめた。 頭の頂の「皿」を本拠に、剃刀を右へ滑らせる。 ゾリ、ゾリ、ゾリ このゾリゾリという剃刀の音が、僧たちの読経の間をすり抜けるように響き、経文と相まって、耳触りの良き音曲の如く、ワタシの胸を浮き立たせる。 黒く艶めく髪が、跡形もなく、薙ぎ払われる。 ばらり、ばらり、と頭から放逐されていく髪は、介添えの僧によって、白木の三宝の上、無残にもその骸を晒している。 剃刀が動いた分だけ、黒が青に色を変ずる。 満座の者は、皆、泣いている。 就中、姫君に昔より仕えてきた老女は、声をあげ、 「なんたること、なんたること!」 と哭泣しておる。泣きながら、憎悪を帯びた眼で、ワタシを睨める。 この老女ばかりではない。姫君の出家に涙する列座の衆は、一様にワタシに恨めし気な目を向ける。 然れども、もうワタシはどうでもよかった。 ただただ結姫が髪を落とす一部始終を、凝と見据えていた。魔性のものに、魂を乗っ取られてしまったかのようだ。 剃刀は頭頂、右髪との接ぎ目を失って垂れ下がる前髪に、とりかかっている。ゾリゾリ、ゾリゾリ。右から左へ剃りおろされていく。 剃られた髪が結姫の顔を流れ、真白き装束に落ちるのを、侍僧が拾いあげ、三宝に積み上げる。 それにしても、高僧の巧みな剃刀さばきには驚く。さすがに長年導師を勤められてきただけのことはある。手慣れたものだ。 左の髪にも剃刀が入れられる。 侍僧が水で湿した髪を、何ら躊躇う素振りもなく、削いでゆく。ゾリゾリ、ゾリ、ゾリ―― 結姫はいつしか喜色を浮かべていた。 まるで、剃髪が苦痛ではなく、快楽であるかのようだった。 師僧はキビキビと手を動かす。手首を上手に使って、姫から豊かな髪を奪い去っていく。介添えの僧がさりげなく新しい三宝を用意していた。それだけの髪の嵩だった。 シャッシャッ、と後ろの髪を梳るように摘んでは三宝へ、摘んでは三宝へ、と移し、順繰りに剃りこぼっていく。 後ろの頭も頂の辺りから、ようよう瓜のように青ざめていく。 濡れ髪が濡れた頭の地の肌に、点々と細かにはりついているのが見苦しくも、昂奮する。 最後に襟足が剃られた。 ゾリ、ゾリ、ゾリ、ゾリ 僧はうなじから首筋にかけ、剃りあげ、剃りおろしていった。 なんという清々しさだろう! ワタシは、ワタシの内なる魔性は、その襟足の余りの清らさに瞬きさえ惜しんで、ひたすら見入ってしまった。 尼の頭になっても、高僧はさらに丹念に上下左右と剃りまわしていく。ゾリゾリ、ゾリゾリ。名人の業というべきだろう。 尼の剃髪に欲情するとは、仏罰が当たるのではないか、とワタシの「良心」が囁くが、今は堪え性もなく、陽物をまさぐりたくて仕方ない。 姫君の頭が剃りあがった。半刻ほどかかった。 青白き新発意頭が、つるん、と仏像と対峙している。 水も滴らんばかりの、瑞々しさだ。 嗚呼、その頭に頬ずりしたや! 堪えきれぬ! 袈裟を与えられ、結姫はすっかり法体となった。法名も授けられた。 結姫はついに尼となりぬ。 剃髪後も式は長々と続き、折角の心中の昂ぶりも萎んでいきそうになった。 もはや、死ぬるほどに抱きとうても抱けぬ結姫の尼姿を胸に、ワタシは早々に姫の邸を辞去した。 牛車に揺られながら、ワタシは得体の知れぬ人恋しさをおぼえていた。 生まれて初めて失恋の味を噛みしめた。 ワタシの中の純心は、このまま一人自邸に戻りたくない、と寂しさを訴え、ワタシの中の魔性は、剃髪の女人を愛でたや、と不埒な欲望をたぎらせている。 両者を首肯させる妙案が突如閃いた。 「四条の尼御前の許へ」 と牛飼いに命じた。 四条の尼御前。近頃洛中でも悪名高い破戒尼だ。 多情でお気に召さば男子の伽もしてくれるのだそうな。 会うたことはないが、ここはひとつ、是が非でもとの気迫をもって、門を敲いてみようぞ。 車は四条に向け、進み出した。 不如帰が鳴いた。もうそんな季節か。 名歌がまた脳裏をよぎる。 ほととぎす 初声きけば あぢきなく ぬしさだまらぬ 恋せらるはた (五)頼正御息女・結姫の凱歌 ついにやった。 やってしもうた。 やってしもうたぞ!! 一体何であろう、この頭の軽さは! 一体どうしたことであろう、この頭の涼しさは! 地を這うほどの髪を全て、一本残らず失ってしまった。 生まれた頃から今日までずっと髪を伸ばしてきた身、多少は「あはれ」の情が起こらばこそ、爽爽として、えも言われぬ心地だ。 そこかしこを飛び跳ねまわってみたい衝動に、ワラワは耐えている。嬉しゅうてたまらぬ! 剃りあげられた頭に手をやる。 指は直に頭を感じ、頭は直に指を感ずる。掌でさすりまわしてみる。じょりじょり、という感触。髪というのは厄介だ。剃ったそばから生えてきおる。 少々ひりひりする。あの大きな鼻のお坊様、結構容赦がなかったからね。 歌盗人の少将殿は式が終わるなり、そそくさと帰ってしまわれた。余程居づらかったのであろう。よい気味だわ。 聞けば少将殿、ワラワが黒髪をおろしている最中も、そわそわと落ち着かぬ態だったという。うふふ、これまた愉快至極。 何にせよ、本意が遂げられ、ワラワは満足している。 また頭をなでる。心中、狂喜乱舞する。 この季節にはこの頭こそ相応しい。 先程も手水をつかったとき、ためしに、頭に水をかけ、つふつふと洗ってみたら、これが冷え冷えとして気持ち良くて、気持ち良くて、むふふ、まさに剃髪の醍醐味ね。あとは巾で拭えば颯と済む。いと容易き哉。 手水鉢の水面に映った僧形は、有髪の頃よりずっと幼げだった。その初々しさ、清らかさ、にワラワの心は一層満たされたものだ。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 初めて剃髪してから七日を経た。 そろそろ髪の伸びが気になってきた。ツルツルにしたくて仕方がない。 それゆえ、ワラワは侍女に頭を剃らせることにした。 仏間に剃髪用具を一式揃え、長年、そう、得度の式の前夜まで髪を梳ってくれていた老女が剃刀を握った。 得度の式では泣きじゃくっていた老女も、今では、 「なんと青く麗しいオツムリなのでしょう!」 とワラワの剃髪を褒めそやす。いそいそと支度をして、むさくなりかかっている頭に、剃刀をあててくれる。 ゾリ、ゾリ、ゾリ、ゾリ、 剃刀が動き、数厘ほどの髪を剃りのけていく。 ゾリ、ゾリ、ゾリ、ゾリ、 ワラワはその快に目を細め、老女に頭を預けきる。 ゾリ、ゾリ、ゾリ、 不思議なもので、剃髪前は、もう恋など沢山、と達観していたが、いざ頭を丸めてみると、沸々と色欲が鎌首をもたげてくる。 我が胸の内で煩悩が蠢いている。轟々と燃えさかる欲望の焔。これは、なかなかに消えそうにない。 ゾリ、ゾリ、ゾリ、ゾリ 聞こえてくるところによれば、あの歌盗人の少将殿と四条の尼御前はいつの間にか、わりなき仲になっているという。 別段腹は立たないが、不可思議な縁(えにし)を感じる。まあ、どちらも恋の極道者、相応といえば相応、落ち着くべきところに落ち着いたのだろう。 ゾリ、ゾリ、 ワラワとて僧形にはなったものの、枯れゆくにはまだ早かろう。 ゾリ、ゾリ、ゾリ、 嗚呼、何方か、ワラワのこの胸の疼きを、身体の火照りを、鎮めて下さる良き殿御はおられぬものかしら。 四条の尼御前――あのお方に倣って、法体のまま漁色に耽るも、また一興やも知―― ゾリ、ゴリゴリ! え? 今、ゴリって、今、ゴリゴリって鳴ったわよね?! ゴリって! ゾリゾリじゃなくてゴリゴリって?! ゴリ?! まさか剃刀の手元が狂って、皮まで剃っちゃった?! 皮剥いじゃった?! 皮いっちゃった?! 「も、申し訳ありませぬ!」 老女がオロオロしている。 ツツーと頭の天辺が濡れていく感じ。もしかして血ぃ出た?! 血ぃ出た?! すっごく痛いんだけど! 痛っ! 痛〜っ! ああ、なんたること! 痛っ! 赤いものが彼方此方に飛び散ってるんだけど! これって、もしかして仏罰?! 不埒なことを考えていた報い?! ああ! 御仏よ、相済みませぬ! 以後は仏弟子として、身辺を清らかに保ち、ひたすら仏道に励みまする! 「薬師を! 薬師を!」 老女は取り乱している。もう、この者に頭は剃らせまいぞ。 血飛沫を噴き出しながら、ワラワは御仏に掌を合わせた。 どうか、どうか、お許しを〜〜 ナミアミダブツ、ナムアミダブツ (了) あとがき 懲役七〇〇年史上最大の難産となった作品でございます。 今まで時代劇を何作も書いてきましたが、一人称は初めてで、言葉使いとか用語に大苦戦しました。割と早書きタイプなんですが、今作は一日二三行という牛歩状態で、リアルでも忙しかったり、いろいろイベント事(?)があったりで遅々として進まず、これ完結できるのかなあ、と何度も心が折れかけました。書き終えて、安堵&満足しています(^^) 元々は、「坊主(断髪)願望から出家したお姫様」も歴史の陰にはいたんじゃなかろうか、との妄想があり、それを基にしております。 だって、皆、身長よりも長い髪なんですよ? 中には「髪ウゼー、切りてー!」って思う女性もいたでしょう。でも今みたいにヘアカットの習慣もないから、仏門に入る以外に道はなし、みたいな状況だったでしょう。あんな長い髪から一気に坊主、っていうのも、サッパリ感が半端じゃないだろうなあ、とか、中には少将殿みたいな断髪フェチ男子もしっかりと誕生していたのではないか、とか色んなアイデアが浮かび、着手しましたが、幾度も暗礁に乗り上げちゃいました(汗) でもいい経験になりました。チャレンジって大事だと思います。っていうか、このサイト自体が一種の実験場みたいな。。「こういうのどう?」「こういうのアリ?」と、アレコレ試してる感じです。 こういう実験作にお付き合い頂いている読み手の皆さまには、本当に感謝しています。幸せです。好きな小説を書ける環境にあること、それを発表できる場があること、お読み下さる方がおられること、ただただありがたいです! 今後とも遊びに来て頂ければ、すごく嬉しいデス(^^) 最後までお読み下さり、ありがとうございました♪♪ |