篠塚優子のレディーらしからぬヘアーカット |
いわゆる「ズリネタ」というものは女にもある。 それはたぶん、当たり前のことだろう。女の子だってオナニーをするし、オナニーをするからには、当然「ズリネタ」が存在するわけで、だけど私の「ズリネタ」は一風変わっている。 オナニーを目撃されるのは勿論恥ずかしいが、私にとってオナペットを知られる方が、数百倍恥ずかしい。 私の「ズリネタ」、それは幼少期の衝撃的な思い出だ。 十年近く経った現在でも、あの出来事を回想するたび、私の中で暗い情念がかきたてられ、眠っている禁断の欲求を揺り動かすのである。 「お寺の優子お姉ちゃん」が我が家を訪うたのは、小春日和の日曜の昼下がりだった。 母はすでにお姉ちゃんの訪問を承知していたらしく、 「いらっしゃい、さ、用意できてるわよ」 と優子お姉ちゃんを追い立てるようにして、猫の額のような庭に引っ張り出した。 水色の散髪用ケープを首に巻き、台所から持ち出したビニール製のクッションの椅子に腰をおろしている優子お姉ちゃんの神妙な姿に、 「優子お姉ちゃん、床屋さんするの?」 と小学校の低学年だった私は無邪気に尋ねた。 「そうよ」 苦っぽく笑っている優子お姉ちゃんに代わって、母が答えた。我が家では毎月、こうやって元理容師の母親が兄や私の散髪をしてくれていた。 「ギャラリーが多いな〜」 と優子お姉ちゃんはこぼしていた。 私をはじめ、休日の暇をもてあましていた父や祖父、兄といった男連中がこの青空美容室を見物すべく、表に出てきていた。男たちの好奇に満ちた視線に、お姉ちゃんは閉口している様子だった。 「お嬢さんも年貢の納め時か」 という祖父の軽口に、優子お姉ちゃんは、 「まあ、三年辛抱すれば・・・」 と私にはさっぱりわからない会話を交わしていた。 「そうだな、三年なんてあっという間だよ」 「そうかな・・・」 釈然としない面持ちのお姉ちゃんに、母が、 「じゃあ、切るよ」 まだ心の準備が・・・という優子お姉ちゃんの妙齢の女性らしい逡巡を、体育会系の母は許さなかった。 「ナニ往生際の悪いコト言ってんの。こういうのはね、度胸きめてスッパリやっちゃった方がいいのよ」 「いいのよ」の「よ」を言い終えぬうちに、優子お姉ちゃんの右サイドの髪をくわえこんだ年季の入った理容ハサミが、勢いよく閉じた。 ジャ というハサミの刃が髪に噛みつく鈍い低い音に キン という金属がカチ合う高い音が覆いかぶさる。 閉じたハサミの刃より下の黒髪がクシャッと形状を崩し、重力の法則に従って、ずるずるとケープを滑走し、芝生の上にパサリ、いや、ドサリと落下した。 私は仰天した。息をのんだ。 母がお姉ちゃんから切り取った髪の量に、私は震えあがった。私の予想の五、六倍はあった。 優子お姉ちゃんは梅干を三つくらい口に含んだような顔をしている。 優子お姉ちゃんがいつも、おしゃべりしながら、無意識に指に巻いて弄んでいた部分がなくなってしまった。これからおしゃべりするときは、お姉ちゃんは一体どこを触ればいいんだろう。 ハサミがもうひと口分前進する。 ジャキンとまた咀嚼音と金属音がして、髪と優子お姉ちゃんが分離する。 三秒もしないうちに、お姉ちゃんがこれまで隠してきたオトガイが現れた。未踏の新雪のように真っ白で瑞々しかった。割と目立つホクロがあった。 「・・・・・・」 優子お姉ちゃんは、ハサミの通過した跡を確かめずにはいられずに(鏡がないから)腕をもちあげ、コワゴワ切り口に手をあてるが、 「ダメよ、触っちゃ」 と作業中の臨時理容師に軽く叱られ、ションボリとまた手を膝の上に戻した。しかし、私たちの手前、叱られっぱなしになっているのは彼女の未熟なプライドが許さなかったのだろう、目を剥く真似をしておどけてみせた。 「お嬢さんは髪が多いね〜」 そう言いながら母は後ろの髪を持ち上げ、ジャ、とハサミをいれ、キン!と断ち、ハサミは新しい収獲を求め、ジャキン、ジャキン、ジャキン、と優子お姉ちゃんが経験したことがないであろう、短さに髪を縮めていく。 「ホント、髪多いわね〜」 と、また母が言った。他意はないのだろうが、言われたお姉ちゃんは、悪さでもしたみたいに、申し訳なさそうに小さくなっていた。 私の知っている普段の優子お姉ちゃんは美人で、頭の回転が早くて、負けず嫌いで、檀家の一主婦など眼中にない驕慢な小娘だったが、散髪という行為を介して、「切る者」と「切られる者」との間に、イビツな上下関係が発生したようだった。 同じ髪を切るにしても、例えば美容院なんかならば、カットされる客が主であり、カットする美容師はあくまで客に奉仕する従者に過ぎない。 しかし、目の前のふたりは、まるで逆で、母は「切ってあげている」という上位者の立場で、優子お姉ちゃんも自然、「切ってもらっている」、もっと言えば「わざわざ私のために時間を割いて散髪してもらっている」といった卑屈な様子で、日頃、道であってもろくすっぽ挨拶もしない檀家のオバチャンの顔色をうかがうような素振りがある。 優子お姉ちゃんの中で、現在実行中のレディー扱いを拒むヘアーカットに甘んじる下女と、黙って断髪され続ける自身に納得がいかない姫君が鬩ぎ合っているようで、最終的に下女が姫君をなだめていた。 「ゴメンナサイね、谷崎さん」 付き添っている優子お姉ちゃんのお母さんも、母に気兼ねしているようで、 「本当は式のとき切ればよかったんでしょうけど、やっぱりね、女の子だから、できるだけ長い髪でいさせてあげたいじゃない、本人も私たちも」 「そうねえ」 と母は応じたが、あまり同意しているトーンではなかった。 母は大のショート派で、長い髪を「効率が悪い」「だらしがない」「不合理」と嫌悪していた。当然、娘の私も生まれてからずっと髪を伸ばさせてもらえなかった。 母はロングヘアーが相当嫌いだったのか、街を歩いていて、ロングの女の子を目にすると、きまって 「鬱陶しそうね〜。切ってあげたいわ。私に切らせてくれないかな〜。うんと短くしてあげるのに」 とブツブツこぼしていた。 今回、晴れて希望が叶い、さぞ満足だろう。優子お姉ちゃん母娘に対して、 「切り甲斐あるわ。郁子の散髪は全然張り合いがなくって」 と私をひきあいにだして、ハシャいでいた。 勿論、「切り甲斐がある」と言われた本人はちっとも嬉しくなさそうだった。 「早く一人前になれるといいわねえ」 と母は言った。お姉ちゃんを励ましたのには間違いないのだろうけど、私の耳には、 半人前の脛齧りのクセにチャラチャラ髪を伸ばすな と屈折して聞こえた。 優子お姉ちゃんは二分ほどでオカッパ頭にされた。首の周囲から髪が消えると、お姉ちゃんの首が異様に伸びた気がした。 我が家の芝生は未だかつてないほどの量の髪の毛を、受け止めている。 「さて、と」 まだ散髪は終わりではないらしい。 濡れ縁にあった散髪用具一式の中から、母が選んだ次の散髪用具に私は驚愕した。 バリカン。 いつも父や兄の頭を刈りこんでいる、その電気器具が女性に対して使うものではないことぐらい、幼女の私でも知っている。 母が、手にした道具の間違いに気づくのを待った。だが母は平然と、 「コレ、床屋さんで使ってるやつなのよ。知り合いに譲ってもらったの」 躊躇いもなく電源を入れる。 無機質な機械音が、しん、とした周囲に響く。何の感情もない不気味なノイズ。色でいうと灰色のような。 私は混乱していた。女の人がバリカンで一体どんな髪型にするのか、皆目見当もつかず、ただ立ち尽くしていた。 傍観者の私が恐れおののいているのだ。当事者が平静でいられるわけもなく、優子お姉ちゃんはソワソワと落ち着きを失っていた。 母はバリカンの餌を検分し、 「ちょっと前髪が長すぎるかなあ」 たしかにお姉ちゃんの前髪は,垂らすと鼻のところまであった。 前髪、切っとこうか、と母はひとりごち、バリカンのスイッチを切った。ホッとお姉ちゃんの肩が下がった。そのときのお姉ちゃんの安堵した顔は、いまでも覚えている。 持ってて、と母が優子お姉ちゃんにバリカンを持たせる。 一瞬、お姉ちゃんが、凶暴な顔つきをした。渡された散髪器具を地面に叩きつけるのではないかと訝った。だが、やはりお姉ちゃんの中の下女が、たちまち気位の高い姫君をねじふせてしまった。 母は死刑執行をほんの束の間延期された囚人の前髪を、ハサミですくいあげ、シャ、と食ませ、キン!と切断する。さっきとまったく同じリズムだ。シャキンシャキンシャキンシャキンシャキンシャキン。三日月形の右眉、それから、シャキンシャキンシャキン、すぐに左眉も露になる。髪型のせいだろう、ずっと幼くなった。眉毛のせいだろう、少し凛々しくなった。 母は念を入れてか、眉の上で揃えた切断面より、ずっと上の位置にハサミをもちあげ、切り続ける。すでに乙女としての礼遇は停止されていた。そして、 「こんなに前髪長いと目に悪いわよ。視力いくつ?」 今度は明らかに責めるような口調だった。 0・5です、とお姉ちゃんがか細い声で答えている。お姉ちゃんが母に敬語を使っているのを、私は初めて耳にした。 「でしょう? 絶対悪いわよ。コンタクト使ってるの? バカらしいじゃない。勉強して視力が落ちるなら、まだしも、前髪のせいじゃ・・・ねえ」 勉強もしてました、というお姉ちゃんの弁疏を受け流し、 「でも鬱陶しかったでしょう? 長い髪って不経済よ」 お姉ちゃんは自慢だったロングヘアーに「不経済」のレッテルを貼られ、いささか憮然とした顔をしていた。 バリカンの午餐の支度が整った。 あんなにオシャレにうるさかった優子お姉ちゃんは今日日、田舎の女子中学生でも嫌がるようなオカッパ頭になった。 「市松人形みたいだな」 と祖父がポロリと口にした。 母はお姉ちゃんの手からバリカンを取り上げ、スイッチをいれる。ふたたび、あのウィーン、ウィーンという神経に障るモーター音がはじまる。 お姉ちゃんは、古参兵から鉄拳制裁を受ける新兵みたいに、強張った表情で宙を見据え、身を固くしている。怯えている。かと言ってバリカンを拒絶する気力もなく、自分に加えられる蛮行を前に無力のまま、成り行きに任せるしかないといった様子で、じっとしていた。固く結ばれた膝の上の手が、浮き上がりそうになる腰を抑えつけているかのようだった。 母はせわしなく振動する電気バリカンの刃を、お姉ちゃんの前頭部の生え際にあてた。ジャリ、と弾けるような耳障りな音がした。そのまま微塵も躊躇せず、スウーッと つむじのあたりまで押し上げる。ジャリジャリジャリ。 お姉ちゃんの髪がめくれあがり、青い地肌がのぞいた。 母はバリカンを振って、刃先にからみついた黒い収穫物を芝生に払い落とした。バサリ。 私は母が狂ってしまったのではないか、と思った。母だけでなく、他の家族たちが母の凶行を傍観しているのが怖かった。父などは仄暗く微笑さえ浮かべていた。 なにより不可解だったのは、当の優子お姉ちゃんがこの頭髪の除去作業を受け容れていることだった。 もっとも受け容れながらも、甚だ不本意だったのは間違いない。破産の書類にサインする経営者のような、苦しげな表情でバリカンの再上陸を待っていた。 「優子、しょうがないよね。自分できめたことだもんね」 とオバサンが娘を納得させようとする。お姉ちゃんは黙っていた。後悔の色がありありと伝わってきた。 後悔していようが納得していまいが、断髪(もはや散髪ではない)は続行される。 切り開かれた青い溝のすぐ真横、青い溝と黒い茂みにまたがって、小刻みに震える刃が吸い込まれる。ジョリジョリジョリジョリ。 母の自慢のバリカンはお姉ちゃんの頭の溝を二倍に広げた。髪と頭皮の間に、三度四度とバリカンが差し込まれ、お姉ちゃんの髪の毛は根元から切断され、押し運ばれ、崩れて、芝生の上で骸を晒す。 お姉ちゃんの前頭部が丸くなる。 オサムライサンみたいだ、と思った。 「坊主頭も悪くないわよ」 と母。 「夏は涼しいし、シャンプーもいらないんだから。私だってできれば坊主にしたいわよ」 うつむいたお姉ちゃんが人差し指を鼻の頭にあて、鼻をすすった。バサリとこめかみから、髪が消えた。またお姉ちゃんが鼻をすすった。頭が寒くなったのだろうか? 「泣かないの」 「泣いてません」 お姉ちゃんもそこは譲れないらしく、即座に抗弁した。 「スゲー」 兄が呟いた。 「女がボウズになるトコ初めてみた」 男の子は残酷だ。 兄は美人の優子お姉ちゃんに淡い好意を抱いていた。優子ネーチャンと結婚する、といつだったか宣言したりしていた。 優子お姉ちゃんの方でも洟垂れ小僧の片思いに気づいていて、リョータ、アタシと結婚したい? 結婚するんならお坊さんにならないとダメなんだよ、と兄をからかって、 からかわれた兄は顔を赤くして、のたうちまわっていた。 何故、優子お姉ちゃんと結婚するのにお坊さんにならなくてはいけないのか、このときの私はさっぱりわからなかった。 兄は剃髪される初恋の君を冷ややかに見つめていた。 この体験は兄にとって、トラウマになったようだ。後年、私は兄の部屋で尼僧ポルノのビデオを発見し、兄の変わった性癖と失恋の痛手を知る。 「優子お姉ちゃん、ボウズになるの?」 私はおそるおそる傍らの父に訊いた。 「そうだよ」 父は断髪風景から目を離さず言った。 「なんで? 悪いことしたの?」 以前、兄が万引きの真似事をして、祖父に押さえつけられて丸刈りにされていたことがあった。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、と兄は丸刈りにされながら、泣いていた。 「してないよ」 父は「坊主=オシオキ」という娘の連想に苦笑して、 「得度するんだよ」 「トクド?」 「お坊さんにね、なるんだよ」 私は驚いた。女の人でもお坊さんになれると初めて知った。確かに、お坊さんになるのなら、頭をツルツルに剃らなくてはならない。 「でも優子お姉ちゃん、ピアノの先生になるって言ってた・・・」 「色々あったんだよ」 父は曖昧に笑った。 お姉ちゃんの頭は右半分がツルツルで左半分が長髪だった。 左が過去で、右が未来。過去にはもう戻れないし、かといって現在にとどまることもできない。ひたすら未来に向けて疾走するしかない、そんな髪型。 私は不安になった。 母が「次は郁子の番だよ」と言い出すのではないか、と鼓動が激しくなった。「郁子も優子お姉ちゃんみたいにしなさい。トクドしなさい!」と皆に取り囲まれて、バリカンでジョリジョリ頭を剃られてしまうのではないか。想像しておびえた。イヤだ! そんなのイヤだ! 坊主なんてみっともない! 優子お姉ちゃんみたいになんてなりたくない! 足がすくんで・・・いや、それ以上に目の前の剃髪の行方が気になって逃げられなかった。自分に災いが及びませんように。心中カミサマに祈った。 ウィーン、ウィーン・・・ジジジジ・・・ジャリ、ジャリ バリカンが髪を削ぎ取る音が不快だ。キモチワルイ。 バリカンは黒髪を追い詰めていった。そして、追い詰めた左サイドの髪を今度は逆側から攻撃する。 グイグイとバリカンに押されて、ゆっくりと髪が浮き上がり、あっと気がついたときには、すでに頭から切り離されている。バサリ。 いつかテレビで観たサバンナの動物たちのドキュメンタリーを連想した。ライオンに食われている哀れなシマウマを。 百獣の王に下半身をかぶりつかれ、悲しみと諦めと恍惚が入り混じった目で無抵抗のまま、肉を齧られているシマウマと、虚ろな顔をした優子お姉ちゃんがダブった。 私は大きくなってから、この状況にピッタリの単語を見つけた。 陵辱、だ。 母がお姉ちゃんのツムジのあった辺りに指を当て、グイと力をいれる。お姉ちゃんが首を垂れる。ゆっくりと襟足にバリカンがあてられる。お姉ちゃんの襟足は懸命に、お姉ちゃんが「女性」であった事実を証明する遺跡のように、根を生やして、立ち退きを拒んでいる。 バリカンの刃が襟足をすくいあげる。 ジョリジョリと髪が剥がれる音が、いやだ、いやだ、自分たちはここにいたいの、後生だから見逃してよ、と襟足が懇願している悲鳴に、私には聞こえた。 母にはその声が聞こえなかったのだろう、むしろゴールを前にして、ラストスパートがかかったようで、バリカンを上に。ジョリジョリ。下に戻して、また上昇させる。ジョリジョリ。また下から上に、ジョリジョリジョリ。 お姉ちゃんは母が頭上の手をどけても、俯いたままだった。俯いたまま、足元に転がっている空気の抜けたゴムボールを見つめていた。 惨劇は三十分ぐらいで終了した。 「可愛くなったじゃない!」 母が大仰に、自らの作品にハシャいでみせた。 私は母の無神経さがやりきれなかった。 「そうですか?」 坊主頭になった優子お姉ちゃんは、渡されたハンドミラーを覗く勇気が出ないで、膝の上に伏せている。 「似合ってるって」 私は首を傾げた。母が力説するほど可愛くもないし、似合ってもいない。髪がある頃の方が、ずっと綺麗だった。 寒そう、とお姉ちゃんの代わりに身を震わせた。 「これから、ずっとそのアタマなんだから、見慣れときなさいな」 「そ、そうですよね〜」 お姉ちゃんも覚悟を決めて、ハンドミラーと対面する。そして私と同じ感想だったのだろう、 「うげぇ〜」 と、のけぞり 「これじゃチンネンだよォ〜」 何度も頭に手をやって途方にくれていた。 →こんなカンジ 「いくら撫でたって、剃っちゃったものは急には伸びてきやしないわよ」 と母は芝生に散った山のような黒髪を,箒とチリトリでかき集め、さっさとゴミ箱に放り込んでいた。 「イッキュウサ〜ン」 と兄が冷やかした。 三十分前の優子お姉ちゃんだったなら、兄にからかわれたら、リョータ、黙れ、と兄の頭をはたいていたろうが、いまのお姉ちゃんは、もう皆と一緒にこの新しいヘアスタイルを笑い飛ばすしかないと判断したらしく、 「ポクポクポク」 とアニメの一休さんの真似をして、自らすすんで道化になっていた。 お姉ちゃんの剃髪を見届けると、私はドタバタと奥の部屋に駆け込んだ。 心臓がバクンバクン鳴っていた。 「すごい・・・」 見てはいけないものを見てしまった気分だった。実際見てはいけないものだったのだろう。 興奮していた。恐怖だった。 反面、私の心の片隅に暗い歓喜があった。 あの優子お姉ちゃんが・・・ツルツルに・・・。 大きくなって知ったのだが、優子お姉ちゃんはピアニストを目指して美大を受験したが、三浪して、そのうえ、ネズミ講にハマッたり、駆け落ち未遂をやらかしたりと生活は荒れ、たまりかねた両親が今年浪人したら尼僧修行をせよ、と説得したという。 背水の陣で臨んだ四度目の受験もダメで,芳紀二十一歳、出家のやむなきに至ったのだった。 「あの子とっては良かったんだよ」 とこついの間、父がもらした。 「あの生意気な小娘が今じゃ、名刹の住職だもんなあ」 その夜、そっとゴミ箱をのぞいたら、お姉ちゃんの髪の毛がグルグル丸まって、 ティッシュや煙草の吸殻やスナック菓子の粉にまみれて、永遠の眠りについていた。 どういう心境だったのだろう、私はこっそり汚れていない部分を一房、ひきぬいて、ハンカチにくるみ、机の引き出しに仕舞った。母に見つかりはしないか、ずっとヒヤヒヤして、この横領物の存在が一層、私を臆病にした。 冒頭でも述べたように、この日曜日の出来事は私の人格形成に暗い影をおとしている。 私の脳裏で、篠塚優子のレディーらしからぬヘアーカットはたびたび反芻され、ヘアーカットのヒロインは、篠塚優子からいつしか自分自身へと移行していった。 小学校の高学年でオナニーをおぼえて以来、私は篠塚優子が丸坊主にされるシーンを、自分自身が丸坊主にされるシーンを、思い描いては自慰にふける。 私の頭を冷たいバリカンが走り、乙女のプライドを粉々にされる、そんな光景を空想し、身悶えする。どうやら私は変態らしい。 そんな変態の本性を隠し、友人曰く「クールビューティー」の仮面をかぶって、学校生活を送っている。 髪が結構伸びた。そろそろ切りにいかなくては。 現在、私の髪は肩まである。 母は短髪をすすめるが、私は無視しつづけている。私はもう子供ではない。ちゃんと精神的に自立できている。親離れできず、唯々諾々と頭を丸めさせられた篠塚優子とは違うのだ。 けれど、と美容院に行く算段をしながらニヤついてしまう。 もう夏だ、せっかくだからバッサリ短く切ってしまおうか。そう考えて高揚をおぼえる。 さすがに篠塚優子の真似はできないけれど・・・。 (了) あとがき どうも迫水デス。今回のストーリーはかなり変則的なもので、篠塚優子の断髪はあくまで前座に過ぎなかったのですが、書いてるうちにノッてしまい、長くなってしまったため、「じゃあいっそ彼女の断髪シーンのみでストーリーを構成してみようか」と思いつき、こういうふうになりました。 どうも断髪シーンを書くのは苦手で、ぶっちゃけ、いつも端折りたいぐらいです。今回のが私の限界であります。最後の方、テンション落ちてるし。この先どうしよ・・・。 まあ、手前味噌で申し訳ありませんが、今回はからずも「シリアスなトホホ」という新境地を開拓して、結構満足してます。 とは言え、たぶんもうネタは出尽くしました。今後はこれまでのストーリーの焼き直しでヤリクリするしか・・・。 う〜ん、なんか生き急いでるかな、私。 |